ちょっと気になったので、これも書いておこう。
全ての魂が、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜なる、マハーニルヴァーナにて安住することが出来るようにと願うのは素晴らしい事である。
だが、しかし、実はこれには落とし穴がある。
四無量心というのは素晴らしい心の働きではあるのだが、これはまだ修行の途中の段階である。
なぜなら、修行の目的は、心の作用を止滅させることにあるからだ。
心の作用が残っている限り、解脱は出来ない。
理論的に、当然の事である。
それゆえにこれが菩薩と仏陀の違いであり、それは越えられない壁と言ってもいい。
麻原は説法で簡単にこの事に触れ、こう表現している。
「美しい心を作り上げ、そして、そこから離れて、解脱して欲しい。」
麻原は四無量心の瞑想の中で、愛の実践の最後は愛そのものであると述べている。
努力して、意識的に心の働きを愛に持っていこうとしても、いつまでたっても心の作用が残ってしまう。
逆に、心の作用を止滅させれば、そこには愛だけが残る。
なぜなら、解脱するということは、自と他の区別がなくなるからである。
自分が他人に施すのが四無量心。
自と他の区別がなくなった状態が、愛そのものである。
人間は所詮、自分しか愛することは出来ない。
本当の意味で他人を愛することが出来るようになるためには、四無量心がむしろ邪魔なのだ。
さらに悪いことは、自分は四無量心を実践しているのだという傲慢さが出てくることである。
これは自分が他人に施しているから、自分は偉いのだと無意識に考えてしまっているということだ。
落とし穴に嵌らないようにするためには智慧がいる。
しかし、ほとんどの修行者に、智慧がないのが現状である。