テンペストクェーク
登録日:20XX年○月○日
更新日:2022年10月29日
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05クラシック世代 G1馬 JRAのお気に入り ヤマニンゼファー産駒 グランプリホース サラブレッド 日本血統の執念 サクラ軍団 ロマン配合 第三次競馬ブーム リアルチート 歴代最強候補 10ハロンの暴風 暴風伝説 名馬 神馬 天皇賞馬 牡馬 種牡馬 社会現象 顕彰馬 末脚 世界1位 高森康明 競走馬 競馬 アイアンホース 万能 英国王室 エリザベス女王 UMA 馬術 馬場馬術 2012年ロンドンオリンピック
女王陛下のテンペストクェーク号
東京競馬場ポスター(2022年 エリザベス女王在位70周年特別記念ポスター)
テンペストクェークとは、日本の元競走馬、現役種牡馬。
国内・国外GⅠ14勝という日本記録を持ち、GⅠ10連勝の世界記録を持つ。
マイル、中距離において、日本を含めた6か国で暴れまわり、同期でライバルのディープインパクトと共に第三次競馬ブームを引き起こした。
日本はおろか欧州でも最強馬候補の筆頭として名前が挙がっており、世界中からその強さを讃えられている伝説級の競走馬。
種牡馬としても素晴らしい活躍を見せ、その血統は世界中の馬産業界のブランドとして扱われており、世界中の競馬場で産駒が活躍している。
また、馬術馬としても活躍し、2012年馬場馬術に出場した選手の騎乗馬としてオリンピックに出場。金メダルを獲得し、世界中からUMA認定された怪物馬である。
2002.3~
父:ヤマニンゼファー
母:セオドライト
母父:サクラチヨノオー
通算成績22戦18勝[18-3-0-1]
主な勝ち鞍
2005年
毎日王冠(G2)
天皇賞(秋)(G1)
マイルCS(G1)
2006年
中山記念(G2)
ドバイDF(G1)
宝塚記念(G1)
インターナショナルS(G1)
愛チャンピオンS(G1)
クイーンエリザベス2世S(G1)
チャンピオンS(G1)
香港カップ(G1)
2007年
高松宮記念(G1)
クイーンエリザベス2世C(G1)
安田記念(G1)
ジョッキークラブGC(G1)
BCクラシック(G1)
◯目次
・出生
2002年3月、島本牧場で誕生。父は強烈すぎたそよ風と呼ばれたヤマニンゼファー。母はのちに日本競馬屈指の名牝と呼ばれるセオドライトであった。母の父はオグリ世代のダービー馬サクラチヨノオーである。全妹にスプリント路線で活躍したヤマニンシュトルムがおり、半妹弟にG1馬、重賞馬が多数存在している。
父は種牡馬としての実績はかなり低く、血統的に高い評価を受けることはなかった。また、足は外向気味で貧乏くさい外見をしていたようで、こちらの面でも高い評価は受けていなかった。生産者である島本牧場も繁殖牝馬が20頭もいない小規模牧場で、中央の重賞馬をたまに輩出する程度の牧場であった。ここまでわかる通り、血統や生産牧場、外見のマイナス要素が大きく、幼少期から高い評価は与えられていなかった。しかし、生垣をジャンプして超えるような遊びをしており、けがを心配したスタッフによって、乗馬コースで遊ばせてられていたというエピソードがあるなど、運動量や身体能力の高さの片鱗は見せていた。
また、母馬が育児放棄をしたため、人間のスタッフに育てられたこともあり、非常に人懐っこい性格に育った。ただ、この生い立ちのためか、ほかのサラブレッドたちとそりが合わなかったらしく、いつも一人でいることが多かった。このことが、のちの関係者を大いに困らせることになる。
こういった経緯もあり高値では取引されないだろうと従業員たちは考えていたが、1歳の夏に庭先取引で個人オーナーの西崎浩平氏に750万円程度で購入された。当時のヤマニンゼファーの種付け料が約50万円程度だったという情報もあるため、それなりの値段で取引がされたようである。「仔馬が楽しそうに障害を跳んで遊んでいる姿を見て、この馬がいいと思った」と西崎氏は語っているが、このセオドライトの2002が馬主として初めて所有した馬であった。
1歳の秋には育成牧場に入厩し、馴致訓練などの育成が行われた。馴致訓練を全く嫌がらず、併せ馬でも高い能力を見せており、高い素質があるのではないかと評価されていた。その後、育成牧場での同馬を見た美浦の藤山順平調教師が、重賞をとれる能力はあると判断したこともあり、藤山厩舎に入厩が決まった。牧場関係者や島本牧場と藤山氏とは縁があったらしく、真っ先に紹介されたという。島本牧場や育成牧場、西崎氏は、大手の厩舎に縁もコネもなかったため、有名な調教師に預けられることはなかったのである。
藤山厩舎は、G1馬を輩出したことがなかったが、コンスタントにオープン馬を輩出し、たまに重賞馬も輩出していた厩舎であった。ただ、零細馬主の競走馬を積極的に受け入れており、そういった人たちから高い評価を受けていた調教師であった。新人馬主に小規模な生産牧場に育成牧場と零細欲張りセットのような状況だったため、本馬が藤山厩舎に預けられたのは必然であったのかもしれない。
競走馬として登録されることになると、『テンペストクェーク』という名前が正式に登録された。これは、牧場が猛烈な暴風雪に襲われていた時に誕生し、生まれて数分後に地震も発生したというエピソードから名付けられた。怪物が誕生することを地球が恐れていたのかもしれない。
2004年の夏に美浦トレセンに入厩し、本格的な調教が始まった。当初の見込み通り、「重賞は取れる能力はある」と藤山氏は思ったようで、将来を期待させるスペックを見せていた。しかし、馬体の完成が遅かったこともあり、デビューは12月とやや遅めであった。
デビュー直前に、厩舎の所属騎手である高森康明氏が乗り込んだ。藤山厩舎所属の騎手なのに本馬に初めて乗ったのが12月だったのは、単純に他の馬の調教で手いっぱいだったことと、本馬の調教を藤山調教師と本村調教助手が専属で行っていたためである。
「乗った時、潜在能力の高さを感じた。どこまで強くなれるのか底がわからなかった」と高森氏は話しており、「この馬ならG1を取れるのではないか」と思っていたという。
・現役時代
2歳-3歳(2004年-2005年)
2004年12月に東京競馬場の新馬戦でデビュー。血統や調教師、騎手が有名ではないため、大きな注目を集めることはなかったが、追切の時計などが評価され、5番人気まで上がったものの、パドックで入れ込むような姿を見せたため、最終的に8番人気に落ち着いた。
レースはスタートから先頭に立ち、そのまま逃げ続けて3馬身差で勝利した。勝ち方自体は逃げ切り勝ちといった形で大きく評価されるような勝ち方ではなかった。この1週間後にディープインパクトとかいう怪物が衝撃のデビューを飾ったため、全部話題がそっちに流れたというのもある。
ただ、このような「逃げ」での勝ち方は陣営の想定にはなく、この時からテンペストクェークのレースでの気性の悪さとの戦いが始まった。騎手の指示に全く従わないという悪癖を見せ始めていたのである。のちの評価で、人に従順で操縦性が高いといわれる本馬もデビュー戦から弥生賞までは騎手の指示に全く従おうとせず、好き勝手に走り回る気性難だったのである。「賢すぎたのだと思う。自分の力だけで勝てると思っているから、騎手の自分のことなんてリュックサック程度にしか思っていなかったのだと思う」と高森氏は語っており、割とナルシストな性格であったようだ。
また、厩舎でもほかの馬との関わり合いを拒否するなど、日常生活でも問題点を抱えており、他の馬に対しては「切れたナイフのようだ」と意味の分からないコメントを藤山調教師は残している。
2戦目は1月30日に中山競馬場で開催されるセントポーリア賞(500万以下条件戦)に出走した。本来は関西遠征をおこない若駒Sに出走する計画を立てていたが、前述の折り合い面で課題を抱えていたため、計画を変更した。もし当初の予定通りなら1月の時点でディープインパクトと激突していたことになる。
レースは前回と同様に最初から最後まで逃げ続け、1馬身差で勝利した。逃げ馬の典型的な勝ち方といえる勝利であったが、陣営は折り合い面での課題が全く解決できなかったとして、かなり危機感を感じていたという。
続いては、皐月賞のトライアルレースである弥生賞に出走。ここにはすでに三冠確実といわれているディープインパクト、2歳王者のマイネルレコルトなどの重賞馬も出走しており、ハイレベルなメンツがそろっていた。レースでは前2戦と同様に最初から先頭に立ち続けていたが、途中で後続に数馬身以上の差を付けるなど、第4コーナーまでは独走状態であった。しかし、最終直線でディープインパクトにかわされて2着に終わった。2着争いも接戦で、ぎりぎりで2着を確保したと言っていいような結果であった。ディープインパクトはこの時、全く鞭を使っておらず、着差以上に隔絶した実力差を見せ付けたレースであった。
このレース後に珍しく飼い葉の食いが悪くなったようで、目に見えて落ち込んでいたようで、「精神的に結構ナイーブなところもあった」と語られるほどであった。ただし、陣営はこの敗北をそこまでマイナスにはとらえていなかった。どうやら調子に乗っていたテンペストクェークにはいい薬になったと考えている節があったと藤山陣営は告白している。曰く「島本牧場や育成牧場で甘やかされて育ってきて、それで同期のなかでも飛びぬけて才能があった。そのうえ新馬戦と条件戦で勝利したことで、明らかに調子に乗っていた」「世間知らずの生意気な小学生」などとわりと辛辣な言葉を投げかけられている。いずれにしても馬に対するコメントではないだろう。
次は皐月賞。「誰が勝つか」ではなく「どのようにディープが勝つか」といわれるほど、ディープインパクトに注目が集まったレースとなった。しかし、スタート直後で躓いたディープインパクトと同様に、テンペストクェークもゲートから出るのが遅れてしまい、2頭同時に出遅れてしまった。また、第1コーナー付近まで騎手の指示に従わず、完全に掛かってしまっていた。しかし高森騎手が懸命に抑え込んだことによって第2コーナー付近で落ち着きを取り戻し、後方から競馬を進めることになった。第4コーナーで外を捲って先頭に立ったディープインパクトをさらに外から猛追したものの、差し切ることはできず2着に敗れた。ディープは1.58.5のレコード記録での勝利であり、3着には5馬身差をつけていた。敗れはしたものの、ディープインパクトに匹敵する能力を秘めているのではないかと一部のファンから、「この後化けるかもしれない」と期待され始めたレースであった。また、久しぶりのヤマニンゼファー産駒の期待馬に、ゼファーファンが沸いたのは言うまでもない。
このレースで、馬となんとか折り合いをつけることができた騎手の高森は、「もし前に行こうとしたら、喧嘩してでも自分の指示を聞いてもらおうと思った。彼は賢いから自分の力で勝てると思っていたのだと思う。だけど、競馬はそんな簡単なものじゃないってことを知ってほしかった。『俺は20年以上この世界で戦っているんだから、もっと俺を信用してくれ』、こんな風に思って、乗っていました」と自身の著書で語っている。
また、ディープインパクトの騎手は、「テンペストクェークが猛追してきたのがわかった。ディープが加速してくれたおかげで差し切られずに済みました」として、本馬の猛追に肝を冷やしていたと語っている。
次は日本ダービーに出走することになった。しかし、テンペストクェークにとっては距離が長いのではないかといわれていた。本馬の体格は父と同様に胴が詰まった短距離馬であったからである。レースでは、最終直線で見せ場を作ったものの、6着に敗れた。このレースは、テンペストクェークが競走生活で唯一掲示板を外したレースとなった。
勝利したのは、2着のインティライミに5馬身差をつけ、レコードタイ記録をたたき出したディープインパクトであった。弥生賞から数えて3連敗となったテンペストクェークであったが、この雪辱は1年後に果たされることになる。
ダービー後は故郷の島本牧場で過ごし、休養とリフレッシュを行った。休養を終えて帰厩したテンペストクェークは、同じ美浦トレセンのゼンノロブロイと併せ馬などをしたことで、坂路などの調教のタイムが軒並み向上し、急激な成長を見せた。馬体が完成し始めたこともあるが、併せ馬を定期的に行っていた別厩舎のゼンノロブロイから走り方などを学習したことも大きいといわれている。馬体も成長し、さらに強くなったテンペストクェークは10月の毎日王冠に出走することが決められた。
毎日王冠には、ダイワメジャーやスイープトウショウといったGⅠ馬が出走しており、なかなかのメンツがそろっていた。レースは、第4コーナー付近までは後方で待機し、直線に入ってから大外一気で、そのまま先頭を交わして勝利した。古馬を相手に完勝といっていい内容であった。馬、オーナーにとって初の重賞制覇であり、ヤマニンゼファー産駒待望の中央平地重賞であった。そして、この勝利から怒涛の連勝記録が始まるのである。
10月末の天皇賞(秋)は106年ぶりとなる天覧競馬となり、記念すべきレースとなった。出走メンバーにはゼンノロブロイやスイープトウショウを筆頭とした実績のある古馬が集結していた。この中でテンペストクェークは、毎日王冠の勝ち方が評価されて4番人気に支持されていた。
レースは、スイープトウショウがゲート入りを渋るというハプニングがあったものの、滞りなく始まった。中団でゼンノロブロイをマークするように外を回って走り、第4コーナーで外を回って、直線に入った。そのまま先頭になると、後続の猛追を振り切って2着に1馬身差で勝利した。勝ち時計は1.59.8であった。
この勝利で、初GⅠのタイトルを獲得。また、騎手、厩舎、馬主、そしてヤマニンゼファー産駒初のGⅠ勝利であった。天覧競馬であったこともあり、馬上からの高森騎手の最敬礼と、なぜか同じように頭を下げてお辞儀をしているテンペストクェークの写真が撮られている。このころからUMAだったんじゃないか。
3歳シーズンのラストレースは京都競馬場開催のマイルCSであった。中3週間と3歳馬には厳しい日程であったが、1番人気でスタートとなった。レースは、第4コーナーまで中団で待機し、最終直線で大外から先頭にいたダイワメジャーをゴール前で差し切った。テンペストクェークは、上がり3F32.8という最速の大外一気で勝利するという豪脚を見せつけた。この勝利でGⅠを連勝し、毎日王冠、天皇賞(秋)、マイルCSを初めて同一年度に連勝した。この後、ダイワメジャーとカンパニーが同様に連勝するものの3歳での連勝はテンペストクェークのみである。
マイルCS後は、翌年まで休養と調整に入った。
この年の活躍で、WTRRのM/I区分のレーティングで123ポンドを獲得。JRA賞の最優秀短距離馬と最優秀父内国産馬を獲得した。香港マイルを勝利したハットトリックと短距離馬の受賞を争ったが、3歳馬で活躍したという点が評価されての受賞であった(あとは直接対決で勝利したこと)。
4歳(2006年)
充実期を迎えたテンペストクェークの最初の目標は、2006年3月末にUAEのナドアルシバ競馬場で開催される「ドバイミーティング」への出走であった。いくつかあるレースの中で、陣営が選択したのは芝1777mで行われる「ドバイデューティフリー」であった。賞金額が300万USドルと高額であるため、世界の強豪マイラーが集うレースである。予備登録後の2月に招待状が届き、出走が確定した。
2006年の初戦は、ドバイDFのステップレースとして2月末に中山競馬場で行われる芝1800mの中山記念に出走した。雨の影響で重馬場となったが、昨年の勝ちっぷりを評価されたこともあり、1番人気でレースを迎えた。レースは、好スタートのまま先行し、先頭集団でレースを進め、最終直線で逃げ粘るバランスオブゲームを交わして1馬身差で快勝した。
4歳になっても好調ぶりを見せつけたテンペストクェークは確かな手応えを見せたのであった。
3月中旬には、ドバイミーティングに出走する馬たちと共に関西空港からドバイに向かい、トラブルなく当日を迎えた。レース前には、テンペストの馬体の良さを見た競馬関係者からは、日本からすごい馬がやってきたと思わせるほどの完成度を見せつけていた。
レースには日本のハットトリック、アサクサデンエンが出走し、海外の有力馬は英チャンピオンSを勝利したデビットジュニアやコックスプレート勝ち馬のフィールズオブオマーなど、世界のGⅠ馬が集まっていた。しかし、テンペストクェークが直近の成績が一番良かったこともあり、優勝候補として評価されていた。
レースでは、先頭から3,4番手付近で競馬を進めるという先行策を選択。ハイペースにならなかったこともあり、余裕をもって最終直線に入った。
テンペストのやや後方にいたデビットジュニアが先に仕掛けるものの、それに反応した高森騎手が鞭を入れて一気に加速し、残り200メートル付近で先頭馬を交わした。そのまま2頭の末脚勝負になる……と誰もが思ったが、並びかけてきたデビットジュニアをそのまま突き放し、5馬身差をつけて圧勝した。
この着差は同レース最大着差というとんでもない勝ち方をしたこともあり、国際的にも高い評価を得ることになった。このレースが同馬の最高のパフォーマンスを示したレースになったと考えていた有識者もいたが、それは良い意味で裏切られることになる。このレースがあくまで海外での伝説の始まりに過ぎなかったのである。
日本に帰国後、陣営はテンペストクェークの次走を安田記念に設定しようとしていた。ニホンピロウイナー、ヤマニンゼファーから続く親子三代安田記念制覇という目標があったためである。その一方で、宝塚記念でのディープインパクトとの対決を望む声が上がってきていたのである。
当時、JRAからの強引ともいえる宣伝のおかげもあってか、ディープインパクトは競馬ファンの枠組みを超えて世間からの人気を集めていた。すでにデビューから無敗で10連勝中、弥生賞から重賞8連勝中の怪物を倒せる可能性があるのは、昨年からGⅠを勝ち続け、ドバイDFで圧巻のパフォーマンスを見せたテンペストクェークしかいないと期待されてのことであった。よく考えると、ほかの馬では歯が立たないと言っているようなものだし、テンペストクェークに対しても当て馬感が強いので失礼な話ではあるが、当時はそれぐらいディープインパクトの強さが際立っていたのである。とはいえ、どのレースに馬を出走させるかは陣営が判断することであるため、ライバル対決が実現するかどうかは未知数であった。テンペストクェークはマイル~2000メートルを得意としているため、2200メートルの宝塚記念は距離に不安があるのではないかと考えられていたためである。より勝率が高いのは、得意距離である安田記念であることも事実であるため、そちらに出走する方が合理的ではある。しかし、藤山調教師は「今のテンペストクェークには絶対がある。どんなレースでも負けることはない」と語り、テンペストクェークを史上最強の怪物が待ち受ける宝塚記念に出走させることを宣言したのであった。こうして、2頭の怪物が宝塚記念にて激突することが決まったのであった。
2頭の対決は多くの注目を集め、当日は大雨の中、13万人以上の競馬ファンが京都競馬場に駆け付け、スポーツ番組の特番という形で、多くの放送局が中継番組を報道した。当日の天候は大雨であり、馬場状態は不良馬場に近い重馬場となった。ディープインパクトは阪神大賞典で稍重の馬場を経験しているが、この馬場に対してはやや経験不足といった声も聴かれた。一方のテンペストクェークは中山記念で重馬場を経験しているため、馬場の経験ではややテンペストクェーク有利なのではと思われていた。しかしながら、2000メートル以上の競馬での実績の違いから、一番人気は当然のようにディープインパクトであった。ただし、これまでのように圧倒的一番人気ではなく、本馬にも人気が集まっていた。藤山が「調教師人生でもう一度やれと言われても無理といえるほどの状態にまで仕上げた」と語っており、大雨の中でも神々しい馬体を見せつけていた。どちらの馬も絶好調であったため、競馬ファンたちは、これは世紀のライバル決戦が見れるかもしれないと大きく盛り上がっていた。ほかの陣営からしてみれば悪夢以外の何物でもない。
レース直前の返し馬で高森騎手を振り落とすというハプニングがあったものの、特に問題はなく宝塚記念は始まった。スタート後、中団後方に待機し、内柵沿いの経済コースを走りながら、末脚を発揮する機会をうかがっていた。第4コーナーに差し掛かると、ディープインパクトがいつものように先団にとりついて、直線一気の態勢に入った。一方の本馬は、内側を通り続けていたため直線に入るまで馬郡の中にいたため、抜け出すことは難しい位置取りであった。しかしながら、直線に入ってわずかに生じた馬群の隙間を縫って一気に抜け出し、残り250メートル付近でバランスオブゲームを捉えて先頭に躍り出ていたディープインパクトを猛追し始めた。残りの馬たちが重たい馬場状態に苦戦している中、異次元の加速を見せる2頭の追い比べがはじまった。残り100メートル付近でディープインパクトが半馬身ほどリードしていたが、鞍上高森の追い鞭による闘魂注入のおかげか再加速し、そのままアタマ差をつけてゴール板を通過した。
「暴風が衝撃を飲み込んだ!これが日本競馬の執念だ!」―『宝塚記念』○○アナー
この勝利でテンペストクェークは、重賞6勝目、GⅠ4勝目を獲得し、グランプリホースとなった。一方のディープインパクトにとっては、初の敗北であり、唯一の黒星となった。
大雨による重馬場で、時計のかかるコンディションの中、勝ち時計は2.12.8。両者ともに上がり3Fは33秒台後半という優秀なタイムであった。ただ、本馬の方がラスト1Fを10秒台で駆け抜けており、このラスト1Fの猛烈な末脚にディープインパクトは敗れたのであった。
高森騎手は「あと少し頑張ってくれと思って鞭を入れた。彼は応えてくれた。スピード、パワー、瞬発力だけでなく父譲りの驚異的な勝負根性があったからこの競馬は勝つことができた」とパフォーマンスを高く評価した。ディープインパクトの鞍上は、「間違いなく、ディープにとって理想的な競馬だった。油断も慢心もしていなかった。だけど差し切られた。しばらくショックで呆然としていた」と語っており、決して忘れることができないレースの一つであると語っている。
ちなみに、3着のナリタセンチュリーには5馬身半差をつけており、ほかの陣営からは、この2頭と秋競馬で戦い続けなければいけないのかと思われることになり、多くの絶望を与えたレースとなった。
宝塚記念で雪辱を果たしたテンペストクェークは、夏から秋にかけて、欧州の中距離レースに向かうことを発表。その最初のレースとして、8月22日ヨーク競馬場開催のGⅠレース、インターナショナルステークスへの出走を表明した。昨年に、ゼンノロブロイが惜しくも2着に敗れたレースである。その後は体調を判断しながら、欧州のGⅠレースに出走する計画であった。
宝塚記念後の7月下旬に日本から出発し、英国のニューマーケットの厩舎に入厩し、同地で調教が始まった。現地での評価も高く、好走が期待されていた。
欧州遠征1戦目のインターナショナルステークスでは、愛ダービーを勝利したディラントーマスがいたものの、大きな実績を持った馬はそこまでおらず、8頭立てでのレースとなった。
スタートと同時に中団に待機し、レースを進めた。ラストの直線に入ると、ほかの馬が馬場状態の良い外ラチ側によって行くのを見ながら、内ラチを走り続けていた。そして残り3ハロン半くらいから加速し始め、そのまま先頭に立つと、後方の馬を全く寄せ付けることなく独走状態となった。最終的に2着のノットナウケイトに12馬身差という着差をつけて圧勝した。同レース最大着差での勝利であり、現地の競馬関係者からは、極東から怪物がやってきたと大きく警戒されることになった。
一方で、今後の連戦を考えると、ここまでの圧勝劇は疲労を考慮すると必要なかったのではと藤山調教師は考えていたようだが、馬の方に異常が全くなかったため、心配は杞憂であった。というより、まだまだ余力を残していたということである。
欧州遠征2戦目は、9月9日にアイルランドのレパーズタウン競馬場にて開催されるアイリッシュチャンピオンステークスであった。前から中2週でのレースであり、日本馬にとってはなかなかハードなレーススケジュールであったことから疲労等が心配された。しかし、体調面、精神面に特に異常はなかったことから問題なくレースに出走した。ここではディラントーマスのほかに、GⅠ5勝中のアレキサンダーゴールドランや2004年の欧州年度代表馬に選ばれたウィジャボードといった強豪牝馬が出走していた。レースでは、ペースメーカーのエースが先頭を走って逃げるという展開になった。直線手前のコーナーで馬体をぶつけられ、進路をスタミナ切れで後退してきたエースにふさがれるという不利を受けながらも、騎手の足が接触するほどの内ラチ沿いから一気に抜け出し、先頭で競り合っていたディラントーマスとウィジャボードに残り半ハロンで追いついた。3頭の叩き合いになると思われたが、残り50メートル付近で一気に抜け出し、そのまま半馬身差で勝利した。
道中の不利を寄せ付けず、4歳牡馬というライバル3頭よりも不利な斤量を重ねながらも勝利したことで、テンペストクェークが欧州最強クラスの実力を有した馬であることを現地の競馬関係者に知らしめた。ここから、対テンペストクェークとして欧州陣営の強豪馬が集結することになる。
欧州遠征3戦目は、9月23日開催のクイーンエリザベス2世ステークスであった。英国の上半期のマイル王決定戦ともいうべきレースであり、3歳馬から古馬まで各地のマイルレースを走っていた強豪が集結するGⅠレースである。2006年は、テンペストクェークを止めるべく、欧州中の強豪馬が集結した。英2000ギニー勝ち馬のジョージワシントン、愛2000ギニー、St.ジェームズパレスS勝者のアラーファ、フランスマイルGⅠを連勝中のリブレティスト、マイルの名牝ソビエトソングに、それをサセックスSで破ったコートマスターピースなどが出走を表明した。12頭中、9頭がGⅠ馬であり、現時点で集めることができる最高のマイラーが集結していた。この豪華なメンツで、前のレースから2週間という短い間隔、最大斤量を背負うという不安要素もあったが、現地オッズでは一番人気に支持されていた。
レースでは、スタート直後に躓いてしまい、大きく出遅れてしまうというハプニングが発生してしまった。しかしながら、最終コーナー手前までにゆっくりと最後方に追いつき、そこから外を回りながら直線に入り、一気に加速。上がり1F10秒という驚異的な末脚を見せつけ、先頭を走るジョージワシントンを捉えて1馬身半差で勝利した。
ラスト3ハロンから強豪のマイラーたち11頭を撫で切りにし、2着に1馬身半差をつけた驚異的な末脚を欧州の人間に見せつけたのであった。この勝利で、名実ともにマイル世界最強馬として評価されることになった。
欧州遠征最終戦は、10月14日開催のチャンピオンステークスであった。このレースでも対テンペストクェークのため、欧州中の強豪馬が集結した。愛チャンピオンSを走ったディラントーマスやウィジャボード、アレキサンダーゴールドラン、2006年英ダービー馬のサーパーシー、2005年のインターナショナルステークスでゼンノロブロイを破り2006年のドバイWCを勝利したエレクトロキューショニスト、2005年凱旋門賞馬ハリケーンラン、2006年パリ大賞、2006年凱旋門賞2着のレイルリンク、2006年サンクルー大賞馬のプライド、2006年仏オークス馬コンフィデンシャルレディ、2005年チャンピオンSの勝ち馬のデビットジュニアが参戦していた。14頭中10頭がGⅠホースであり、現状芝中距離最強決定戦のようなレースであった。これだけのメンバーを集めながらも、現地では絶大な支持を集め、圧倒的一番人気に支持されていた。
2006年当時はニューマーケット競馬場で開催されていたため、直線10ハロンのコースであった。レースは中団で待機し、残り3ハロンから一気に加速し始めた。このレースでは、馬体をぶつけられ、顔付近に鞭が当てられるといった露骨な妨害を受けたが、意に介さない強靭な精神力でレースを進めていた。ラスト2ハロンからは同じように上がってきたレイルリンクとエレクトロキューショニストの2頭と激しい叩き合いを演じた。そしてゴール前直前で一気に迫ったデビットジュニアとプライドと共に5頭同タイミングでゴールに入線した。判定の結果テンペストクェークが鼻差で先着し、勝利の栄光を手にした。このレースでGⅠ8勝目をマーク。シンボリルドルフの7勝の記録を超え、日本記録を更新した。わずか2か月弱の期間でマイル中距離GⅠを4戦し4連勝するという快挙を達成した。現在では、QE2世SとチャンピオンSが同一日開催になったため、本馬のローテを再現することはほぼ不可能となっている。
11月には、欧州でのマイル中距離GⅠレースを同一年度に4連勝したことが評価され、2006年度のカルティエ賞年度代表馬、最優秀古馬を受賞した。これは、日本馬として初の快挙であった。
2006年シーズンの最終戦として、テンペストクェークは12月10日に香港沙田競馬場で行われる香港国際競走の香港カップに出走した。レースでは、欧州からの連戦組であるプライドやエレクトロキューショニスト、BCフィリー&メアターフを勝利したウィジャボードといった強豪馬も出走、日本からアドマイヤムーン、ディアデラノビアが出走した。レース前のパドックで馬っ気を出すというどこぞのアイルランド馬ムーブをかますものの、一番人気は揺らぐことはなくレースは始まった。スタート後は、先頭集団で最終直線まで進めるという先行策を選択。最後の直線で先頭に立ち、そのまま1馬身差で勝利した。アドマイヤムーンやプライドなどの後続馬が猛追するが、驚異的な粘りで先頭を維持する本馬を差し切ることはできなかった。
この勝利により、2006年シーズン無敗が確定。8戦8勝GⅠ7連勝というとんでもない成績を残した。この年の活躍でWTRRの中距離区分のレーティングにおいて139ポンドを獲得し世界一位に輝いた。同時に、2006年度のJRA賞年度代表馬、最優秀4歳以上牡馬、最優秀短距離馬、最優秀父内国産馬を受賞した。
年度代表馬の選出では、GⅠ4勝、7戦6勝という成績を残したディープインパクトと争った。日本の悲願であった凱旋門賞を勝利しており、普通なら万票で年度代表馬に選ばれるような成績であった。どちらの馬を選ぶべきか最後の最後まで争われたが、最終的には8戦8勝の年間無敗の達成と直接対決の結果が考慮されたのか、テンペストクェークが年度代表馬に選ばれた。凱旋門賞を勝利し、天皇賞やJC、有馬記念を勝利したのにも関わらず、年度代表馬を取り逃したディープインパクトであったが、相手が悪かったとしか言いようがないだろう。それほどまでに異次元の記録を本馬は残したのである。
5歳(2007年)
日本欧州ドバイ香港で無敵の強さを見せたテンペストクェークは、5歳シーズンの目標として2つ掲げた。1つは父ヤマニンゼファーが成し遂げることができなかったスプリントGⅠでの勝利。史上初のスプリントマイル中距離の距離3階級制覇である。2つ目は、祖父のニホンピロウイナーから続く安田記念3代制覇である。陣営は1つ目の目標の達成のため、高松宮記念への出走を表明した。その前哨戦として阪急杯への出走が決められていたが、熱発で直前に回避し、ぶっつけ本番で高松宮記念へ向かうことになった。
軽い感冒であったことから、調教にも影響は及ばなかったため、高松宮記念には当初の予定通り出走することができた。出走メンバーは昨年の覇者オレハマッテルゼなど、重賞馬が多数出走していたが、絶対的な強者はいなかった。当時のスプリント路線はまさに群雄割拠の時代となっていたのである。当日の中京競馬場の馬場は重馬場であったが、道悪適正の高い本馬にとってはもってこいの条件であったため、初のスプリント戦でも1番人気になっていた。中団待機からの直線一気といういつも通りのスタイルでレースを進めるも、同様に伸びてきたスズカフェニックスとの叩き合いとなった。最終的に同時にゴールへ入線したため、ビデオ判定が行われることになった。2頭の鞍上もどちらが勝ったから全く分からなかったとコメントしており、判定の結果が出るまで勝敗が全く分からない状況であった。数十分にわたるビデオ判定の結果同着と判定され、2頭が勝者となった。
この勝利で史上初のスプリントマイル中距離の距離3階級制覇を達成した。父が成し遂げることができなかった偉業を、息子が達成したのであった。そしてロックオブジブラルタルの持つGⅠ7連勝記録を更新し、8連勝を記録した。
初めての短距離戦は、負けはしなかったが同着という結果であったため、距離がやはり短かったのではという声も聞かれた。しかし、着差があまりつきにくい短距離戦で3着に3馬身半差をつけており、短距離においてもトップレベルの能力を有していることがわかる。また、スズカフェニックスは、競走生活の中で一番仕上がっていたといっても過言ではないほど絶好調であり、その馬をもってしても同着に持っていくのが精いっぱいであったことを考慮する必要もある。
2戦目は再び香港に遠征をおこない、クイーンエリザベス2世カップへ出走した。航空機のトラブルにより10時間以上ストール内で待機させられるという苦行を経験させられたが、肉体的にも精神的にも特に問題は発生せず、沙田競馬場に到着した。ドバイDFを勝利したアドマイヤムーンといったライバルがいる中、当然のように圧倒的1番人気の評価を受けていた。レースでラストの直線で先頭に立つと、そのまま後続に7馬身差をつけて圧勝した。実質2着を予想するレースになるという当初の予想通りの結果であった。芝の10ハロン競走ではGⅠ級の馬でも太刀打ちできない強さになっていたのである。この馬が年末の香港国際競走にやってくることを考えると香港勢としては憂鬱以外の何物でもなかったようで、地元の競馬会からは、12月は日本の有馬記念に行ってくれと願われていたようである。
日本に帰国後、テンペストクェークは6月の安田記念に出走した。チャンピオンマイルを制覇し、GⅠ4勝中のダイワメジャーが出走していたものの、圧倒的1番人気に支持された。レースは道中を中団で待機し、直線大外一気で先頭にいたダイワメジャーをゴール前で差し切り、半馬身差で勝利した。テンが速くならず、好位からの先行押切を狙うダイワメジャーにとって理想的ともいえる展開となったが、本馬の上がり3F33.5秒、1F10秒台という最速の末脚に差し切られる形となった。本馬と同様に中団後方から末脚勝負に持ち込んだスズカフェニックスの上がり3Fが34.3秒であったことから、一頭だけ出力が異なる末脚であったことは間違いないだろう。「勝てると思ったら、外からテンペストが飛んできた。これで勝てないなら、どんな展開でも勝てんよ」とダイワメジャーの調教師はコメントを残している。この勝利でGⅠを12勝、連勝記録を10連勝に伸ばした。そして、親子3代安田記念制覇の偉業を達成した。
安田記念後、陣営は春先に予定していた通り、海外遠征計画を発表した。ただ、当初予定していた欧州遠征ではなく、北米最高峰レースであるブリーダーズカップ・クラシックを目標にしたアメリカ遠征をおこなうという内容であった。7月以降にアメリカに入国し、前哨戦を使ってBCクラシックに向かうという本格的な遠征計画であった。当初は本馬一頭のみの遠征計画であったが、BCマイル制覇を掲げたダイワメジャーと、BCターフ制覇を掲げたアドマイヤムーンも参加を表明し、3頭による遠征が行われることになった。GⅠを複数回勝利している馬が3頭もアメリカに向かうことは史上初のことであった。
遠征前の最後の休養として、6月中旬頃から故郷の島本牧場で放牧され、英気を養った。ただ、同時期に全妹の破壊神ヤマニンシュトルムも帰郷していたため、気が休まったのかは定かではない。そしてこのときに、とある従業員から馬場馬術の技術を仕込まれていたようで、本馬の引退後の運命が変な方向に捻じ曲がることになる。
島本牧場で英気を養った?テンペストクェークはダイワメジャーとアドマイヤムーンを引き連れて日本を出国、無事BCクラシック開催地のモンマスパーク競馬場に入厩した。8月からは本格的な調教や調整が行われ始め、アメリカのダートへの慣らしが行われていた。そして、9月には米国初戦としてウッドワードSに出走することが決まった。レースには06年のBCクラシック、07年のドバイWCを含めたGⅠ6連勝中のインヴァソールがケガからの復帰戦として出走することになり、いきなり芝とダートの怪物の頂上決戦が行われることになった。レースではアメリカ競馬らしく先行策を選択し、ラストの直線で仕掛けたものの、先に仕掛けたインヴァソールを差し切ることができず、2着に敗れた。これにより連勝記録はストップすることになったが、初の米国ダートで、相手も相手であったため、評価を落とすことはなかった。
この時点ではテンペストクェークはダートに適応しきれていなかったらしく、さすがの適応能力でも米国ダートは難しかったようである。この「まだ適応できていない」という事実は、引退後に藤山調教師や高森騎手たちから出てきた話であり、当時はほかの日本馬の陣営も含めてほとんど気が付いていなかったようである。アメリカ最強古馬に僅差での2着ということを念頭に考慮すると、適応できていなかったと想像できる方がおかしいだろう。
このまま、BCクラシックへ直行するかと思われたが、陣営はジョッキークラブGCに出走することを表明した。BCクラシックと同じ10ハロン競走であり、前哨戦としても有名なレースである。しかし、スキップアウェイ以降、このレースとBCクラシックを連勝した馬がいなかったりする。前哨戦で力を使ってしまうことが心配されたが、2か月弱で4連戦した経験があるテンペストクェークには問題ないレース間隔であった。
レースにはプリークネスSを勝利したカーリンが有力馬として出走しており、2頭に人気が集まった。レースではこの2頭が最終直線で争うことになり、最後に伸びを見せた本馬がカーリンを下して勝利した。日本馬初の米国ダートGⅠの勝利であった。このレースで完全にダートへの感覚を掴んだようで、やっと本当の実力を発揮できると陣営は考えていたようである。カーリンを倒しておいて本気ではなかったとか意味が分からないが、当人たちが言うなら本当のことだったのだろう。ちなみにこの5歳秋が馬体的に一番完成されていた時期らしく、藤山は「欧州のレースに出ていたら全部勝っていた」とのことである。それはそれでみたい気がする。
前哨戦を勝利したテンペストクェークは、当初の予定通りBCクラシックへ出走することになった。賞金総額500万ドル、1着賞金270万ドルという高額賞金レースであり、北米における最高峰レースの一つであった。2007年にも強豪馬が集結し、相手にとって不足なしというメンバーであった。ケンタッキーダービー馬のストリートセンス、プリークネスSを勝利し、翌年はドバイWCを含めてダート路線で無双するカーリン、牝馬ながらベルモントSを勝利し、牡馬を蹴散らしているラグズテゥリッチズ、そして現役アメリカ最強馬のインヴァソールの4頭を筆頭に、GⅠ勝利馬が出走馬12頭中10頭というハイレベルなレースとなった。
当日のモンマスパーク競馬場は連日の雨により、不良馬場となっていた。水たまりだらけのドロドロの馬場状態であり、タフなレースになることが予想されていた。現地での人気は、インヴァソールに敗れた影響からか、2番人気に支持されていた。
レースは問題なくスタートをするも、前2戦で選択した先行策ではなく、中団で控えることを選択した。第3コーナー付近で並走していたカーリンやストリートセンスが仕掛ける中、足を溜め続け、第4コーナーで外に持ち出すと、そこから大外を捲りながら一気に加速して、残り200メートル付近で先頭に立った。先頭に立った後は、後続にいるカーリンやインヴァソールを引き離して4馬身差をつけて勝利した。日本馬として初であり、1993年以来となる非アメリカ馬のBCクラシック制覇であった。
「こんな馬が存在していいのか!なんなんだこの馬は!」 ○○アナ
「馬場も国も関係ない。世界よ、これが暴風という名の絶対王者だ!」 ○○アナ
勝ち時計は2.00.22というトラックレコードを記録。ラスト上がり3Fを12.4-10.9-10.3の33.6秒で駆け抜けており、驚異的な末脚での勝利であった。ラスト1ハロンでカーリンやインヴァソールも上がり3Fは34秒台前半と非常に優秀な足を見せていたが、本馬の末脚についていくことができなかった。不良馬場をものともせず、最終コーナーで大外を捲りながら先頭に立って、そのまま後続に4馬身差をつけるという強すぎる勝ち方にアメリカの競馬関係者は頭を抱えたという。
引退
BCクラシック後、オーナーより引退が発表された。国内でのラストランを希望する声もあったが、12月に登録が抹消され、正式に引退することが決まった。12月下旬には東京競馬場で引退式が行われ10万人以上の観客に見送られながらターフに別れを告げた。
この年は公式レーティングの中距離部門で141ポンドの評価を受け、ダンシングブレーヴに並んだ。そしてタイムフォームレーティングでは、シーバードを超える148ポンドの評価を受けた。昨年と同様にJRA賞年度代表馬、最優秀4歳以上牡馬、最優秀短距離馬、最優秀父内国産馬を受賞した。アメリカでも3戦2勝でBCクラシックを勝利したことが評価されて、エクリプス賞年度代表馬を受賞した。これで日本と欧州、アメリカの3地域の年度代表馬を受賞したことになり、年度代表馬三冠を達成した。この記録を達成した競走馬は後にも先にもテンペストクェークのみである。
引退後は当然のように顕彰馬に選出され、史上29頭目であった。また、2018年に米競馬で殿堂入りが発表され、日本馬初の快挙を達成した。
・種牡馬
現役時代の比類なき成績、そして馬場を選ばない万能性、気性の良さなどから、種牡馬としても大きな期待を寄せられていた。唯一の懸念点とすれば、ダービーを筆頭とした12ハロン競走を勝利していない点や血統がやや主流から外れている点であった。距離については、肌馬で調整すれば問題ないと考えられていた。血統についても、主流から外れているだけで、ダメ血統というわけではないし、ノーザンダンサーの血も5代先で、ミスプロ系やヘイルトゥリーズン系からは外れているため、アウトブリード要員としても期待できるとも考えられていた。
欧州での活躍、米国での活躍が評価されたこともあり、組まれたシンジケートは驚異の1億円×60口の60億円であった。一年早く引退したディープインパクトの51億円を超える歴代1位の金額であった。海外、特にイギリスとアイルランドから評価が高く、彼らからの圧力もあって、ここまで金額が跳ね上がったようである。もしも、血統が優れていたら、シンジケートの額は100億円を超えていたかもしれないと噂されているほどであり、現役時代の実績が中心で、本馬はこれだけの価値を高めたのである。
ちなみに、シンジケートに何やら密約があったらしく、2014年からはイギリスで、2017年からはアイルランドで活動していた。2020年からアメリカで2年間種牡馬として活動し、2022年から日本に戻ってきている。
ラムタラが頭によぎった人もいるだろうが、本馬の種牡馬実績は60億の金額を超えるような実績を残している。当たり外れが大きかったり、牝馬はなぜか気性が荒くなったりと、問題点がないわけではないが、世界中で数多くのGⅠホースを世に送り出した。日本では種牡馬成績ではディープやキングカメハメハの次点(ハーツクライやステイゴールド、シンボリクリスエス、ダイワメジャーと争っていた)くらいの評価であった。
欧州においては産駒が猛威を振るっており、2017年・2018年の英愛リーディングサイアーに輝いている。イギリスやアイルランド欧州で誕生した産駒たちが暴れまわっているのである。また、アメリカでも産駒が活躍しており、21年、22年に誕生した世代が暴れまわる可能性は高い。
恐ろしい点としては、クロノセンチュリーを筆頭に、後継種牡馬として活躍している牡馬が世界中にいることである。このままいくと、テンペストクェーク系が誕生する可能性があるほどである。
産駒の傾向としては、短距離から中距離に強い。12ハロン競走にも対応した産駒が次々に誕生しており、距離延長には成功している。ただ、晩成傾向が強いため、3歳秋から本格化する傾向がある。GⅠを複数回勝利している馬が多く、引退まで強さを維持する馬が多い。2歳で活躍した馬は、早熟に終わる傾向もあるが、2歳GⅠを勝利したバーテックスやコンスティチューションのように強さを古馬になっても維持している馬もいるので、よくわからないというのが評価である。
馬場適正については、芝、ダート両方で結果を残しているが、欧州の成績を見るに、欧州の芝を最も得意としている。ただ、父のように芝ダート二刀流を達成した馬はほとんど見られなかった。
●代表的な産駒(日本)
日本では2008年~2013年の6年間種牡馬生活をしていたが、その間に10頭のGⅠ馬を輩出した。2015年から2019年まで5年連続で天皇賞・秋を勝利しているなど、中距離レースに強い。2014年に海外に移動したため、2017年世代が現在の日本における最後の世代となっている。2022年には日本に帰国して、種牡馬として活用し始めたため、数年後には父テンペストクェーク産駒がまた競馬場を賑わせることになるだろう。後継種牡馬の産駒との対決が楽しみである。
・モウコダマシイ(2009年産)
栄光の12年世代の牡馬。2012年ジャパンカップダートで産駒初GⅠを勝利した。母父メイセイオペラというロマンの塊であった。馬主、出生地、育成牧場、所属厩舎すべてが兵庫であったため、阪神地区で絶大な人気があった。
引退まで園田競馬に所属していながらドバイWCを筆頭に日本国内外のダートGⅠを勝利した。ホッコータルマエやコパノリッキーといったダートの猛者たちと激闘を繰り広げた。アメリカに遠征した際には、三冠馬アメリカンファラオの2着に敗れている。種牡馬となり、ダート系で有力馬を多数輩出している。
名前の由来となった球団とはコラボしていたりする。園田の英雄として扱われており、銅像が建てられている。
・メジロフィナーレ(2009年産)
栄光の12年世代の牡馬。別名最後のメジロ。母父メジロライアンで、2011年にオーナーブリーダーから撤退したメジロ牧場が最後に送り出した競走馬。能力は間違いなくあったが世代の壁に苦しみ、なかなか重賞を勝つことができず一種のステイゴールド状態となっていた。6歳となった2015年に天皇賞・秋を勝利し、メジロ牧場の最後の栄光をもたらした。ライアンと同じように、たてがみをカットしており、メジロの冠が名前についている最後の馬であったため、非常に人気のある馬であった。
・トウショウリリー(2010年産)
2013年世代の牝馬で秋華賞を勝利した。牝馬ながら冠名が前にあるが理由は不明。非常に気性が荒く、調教もまともにできない女王様気質であった。気まぐれな性格でもあり、やる気があるときは好成績を残すが、そうでないときの方が多かった。ただ、パドックでレースに前向きかそうでないかが素人でもわかるくらいはっきりしていたので、ある意味わかりやすい馬であった。主戦騎手曰く、シュトルムに比べたら全然かわいい方とのことである。
・ダイワバーミリオン(2011年産)
2014年世代の牝馬で桜花賞を勝利した。モーリスとマイル中距離戦線で殴り合っていた女傑。母がダイワスカーレットであり、脚質も含めて気質は母に似ていた。しかし、アグネスタキオン譲りの脆さは父の血統で打ち消されたようで、引退までマイル中距離路線をしっかり走り切った。
・クロノセンチュリー(2011年産)
14年世代の牡馬。別名黒塗りの高級車。何も知らなければ普通にかっこいい名前の牡馬。2014年のJCを3歳で勝利し、クラシックディスタンスでも勝てることを証明した。父譲りの欧州適性を見せつけており、2015年には2頭目の凱旋門賞馬となった。宝塚記念では、120億事件の裏でひっそりと勝利していた。レース後、勝ったことで調子に乗ったことが白饅頭の癇に障ったのか、その後は栗東トレセンで出会うたびに吠えられていたようである。種牡馬としては欧州に行ったテンペストクェークの代わりとして期待され、それに応えた。後継種牡馬筆頭。
・エイシンアンダンテ(2012年産)
2015年世代の牝馬。3歳冬まではどこにでもいる条件馬に過ぎなかったが、4歳から本格化した。2016年のVM制覇後、欧州に遠征して欧州のマイル中距離路線で活躍した。牝馬限定戦では好走するが、牡馬混合戦では凡走するため、牡馬が苦手なイメージが持たれているが実際は逆だったらしい。
・ダノンブラスト(2013年産)
2016年世代の牡馬。2015年に朝日杯を制し、翌年は3歳で安田記念を制覇し、親子4代制覇を達成した。テンペストクェークの牡馬にしては珍しく気性が荒く、成績が安定しなかった。牝馬がとにかく好きで、牝馬がいるレースではパドックで馬っ気を出すのが恒例行事と化していた。このため、アグネスデジタルとは違う意味で変態と呼ばれていた。無事種牡馬入りすることができたようで「今が一番幸せそう」と関係者から言われている。
・ウインアレグロ(2013年産)
2016年世代の牡馬。ダート路線を突き進み2016年チャンピオンCを3歳で勝利した。2020年まで現役を続け、ダート重賞で活躍した。現役引退後は種牡馬として活躍している。産駒の中でも外見が父に一番似ていたこともあり、芝路線に進んだこともあったが、全く好走することがなかったため、早々にあきらめられている。
・インパクトクェーク(2014年産)
母父ディープインパクトという誰もが待ち望んだ血統を持つ牡馬。2017年にテンペストクェーク産駒として初めて日本ダービーを制した。その後も古馬の王道路線を走り続け、GⅠを8勝して引退した。天皇賞・秋を3連覇しており、府中2000メートルの鬼と呼ばれた。幼駒時代は見栄えがぱっとせず、やや病弱であったこともあり、高い評価をされていなかった。なお馬主はディープの人。
・プリンセスハピネス(2014年産)
2017年桜花賞を制したものの、同年に屈腱炎で引退した牝馬。名前が可愛らしいので、主戦騎手を女性騎手にするという陣営の謎の采配により、何かと注目を集めていた。桜花賞を勝ったときはいろいろな人から手のひら返しにあっていた。そして何より、テンペストクェーク産駒の有力馬でありながら、小柄でおとなしい牝馬であったため、多くの人に驚かれた。
●代表的な産駒(海外)
日本での種牡馬時代から海外で活躍する産駒が誕生していた。2014年以降は欧州で種牡馬として活動しており、多くの産駒が欧州で誕生した。
英国、アイルランド、フランスで猛威を振るっており、ノーザンダンサーを祖とする有力種牡馬(主にガリレオ)とバチバチにやり合っている。2022年現在、欧州だけで35頭のGⅠホースを送り出している。
オーストラリアでも活躍馬がたびたび輩出されており、種牡馬生活を送っていないにもかかわらず12頭のGⅠホースが誕生している(GⅠ競走が多いという理由もあるが)。
香港ではオセアニア地域から馬を仕入れていることが多いため、そこから渡ってきた産駒が香港競馬でも活躍している。
アメリカでも10年代後半から人気が高まり、2020年から種牡馬として活動している。
その他の地域でも少しずつテンペストクェーク産駒の馬が浸透しているようで、今後も活躍馬は増えていくことが予想されてる。
※欧州で代表的な産駒のみ紹介(GⅠ5勝以上)
・ウェザリングウィズユー(Weatheringwithyou)(2009年産)
2012年世代の牡馬。3歳でクイーンエリザベス2世SとチャンピオンSを勝利した。当時の英国女王の所有馬で、自身の名を冠したレースを勝利した孝行馬。名前の意味は「天気の子」、直訳では「あなたと共に困難(嵐)を乗り越える」という意味。フランケルという現代競馬最強クラスの馬にチャンピオンSで勝利をするという偉業を達成した本馬にふさわしい名前であるといえる。GⅠこそ2勝だけだが、それ以上に記憶に残った一頭であった。
・ワイルドハント(Wild Hout)(2015年産)
2018年世代の牡馬。種牡馬としてイギリスに渡ったテンペストクェークの最初の産駒。ジュライカップなどのスプリント路線で活躍した。父のあだ名がワイルドハントだったことから、それに倣ってつけられた。マイル路線では距離が長すぎたのか勝つことができず、生粋のスプリンターであった。英・仏のスプリントGⅠを6勝。
・グナイゼナウ(Gneisenau)(2014年産)
母はドイツ出身の牝馬。日本の牧場で誕生し、日本で走る予定だったが、とあるドイツ人の馬主と調教師に見つかったことで、ドイツで競走馬になった牡馬。名前の由来はドイツの軍人。2017年にドイツ三冠を達成(GⅢのセントレジャーもしっかり走った)。2018年にはガネー賞、タタソールズ金杯、サンクルー大賞、ベルリン大賞、バーテン大賞を勝利し、凱旋門賞に出走。ドイツ最強馬として英国最強馬バーテックス、最強牝馬エネイブルと激突したが、3着となった。このころの欧州の有力馬にしては珍しく、2018年JCにも出走しているが、インパクトクェークとアーモンドアイのレコード決着の前に3着に敗れた。4歳で引退し、ドイツで種牡馬になっているようである。独・仏・愛のGⅠを8勝。
・バーテックス(Vertex)(2015年産)
種牡馬としてイギリスに渡ったテンペストクェークの最初の産駒。2015年生まれ。母父デイラミの葦毛の牡馬。名前の通り、「頂点」に等しい実力を持った21世紀中長距離部門最強馬の筆頭。2017年の2歳GⅠを圧勝すると、そのまま2018年の英2000ギニー、英愛ダービー、キングジョージ、凱旋門賞を無敗で勝利し、4歳には父が走ったアメリカのダートGⅠ3戦を3連勝した。負けたレースはエネイブルが勝利した2019年のキングジョージのみ。GⅠ13勝というとてつもない成績を残して引退した。母父がデイラミだったためか葦毛の馬であった。着差をあまりつけないテイエムオペラオータイプの馬だったため、強さがわかりにくかったが、鞍上曰く「本気で走ったレースは一度もない」とのこと。信じられないくらい強く、父を超えたかもしれない唯一の馬。英仏愛米のGⅠを13勝。
コンスティチューション(Constitution)(2015年産)
母父エーピーインディの牡馬。2017年にアメリカでデビューすると2歳GⅠを勝利し、テンペストクェークの産駒は晩成タイプが多いというイメージを払拭した。2018年はケンタッキーダービー、トラバースS、BCクラシックを制覇。2019年にペガサスWCを勝利しドバイWCに出走したものの、欧州最強馬のバーテックスの前に2着に敗れた。レース後すぐに引退し、種牡馬となった。アメリカにおける種牡馬テンペストクェークの地位を確固たるものにした競走馬。非常に大人しく優しい気性であり、栗毛で目立つ馬だったこともあり、現地では人気のある馬だった。日本語訳は「憲法」。米国のGⅠ5勝。
・オンザビーチ(On the beach)(2017年産)
意味は「渚にて」。2020年の愛2000ギニー、StジェイムズパレスS、ムーランドロンシャン賞を制したマイル王。同年のマイルCSに突如参戦を表明し、グランアレグリアと激突したことで有名となった。馬主が日英のハーフであったため、日本に参戦したようである。英愛仏のGⅠを5勝。
・ライツインザスカイ(Lights in the sky)(2018年産)
2018年生まれの牝馬。誰が呼んだか欧州版メイケイエール。牝馬でありながら気性は温厚で、顔も体格も見栄えが良かったため、大きな期待を寄せられていた。しかしレースでは暴走特急となってしまうという悪癖を持っていた。ただ、素の能力は父やバーテックスに勝るレベルといわれているように、掛かりながら愛オークスやヨークシャーオークス、香港マイルを勝利し、スノーフォールやゴールデンィックスティといった強豪馬に勝利している。2022年にはジュライカップも勝利しており、適正距離がよくわからない。凱旋門賞にも出走したが、5着に敗れた。英愛仏香でGⅠ5勝。
●競走馬としての評価
日本国内では2006年、2007年に年度代表馬に2009年には顕彰馬に選出されている。このことが示すように、競馬関係者、ファンから非常に高い評価を得ている。テンペストにかかわった関係者やその走りを間近で見てきた騎手たちから、マイル中距離において史上最強馬だと讃えられている。強い馬にありがちな「同世代が弱かったのでは?」という議論においては、ディープインパクトを筆頭に、戦って勝利してきた相手を見ればそのような言葉を投げかけることはできないだろう。本馬が最強馬の筆頭候補に挙がるのは、倒してきた相手や勝利したレースの格が非常に高いからだといえるだろう。
ディープインパクトと比較されることが多いが本馬は4戦1勝と3回敗北している。これらの敗北は、すべて3歳春の戦績であり、馬体が完成して覚醒する前の敗北であることから、本馬が劣っていると評価することは難しい。古馬になった2頭の比較においては、2200メートルでは互角。2200メートルより上ではディープインパクト、以下ではテンペストクェークだと評価される場合が多い。最強と呼ばれる馬同士が本当に激突しているが、どちらのファンも永遠にどちらが強いかを議論し続けることになるだろう。なお、マイルにおいては祖父のニホンピロウイナーや同じく無敵の強さを誇ったタイキシャトル、近年だとグランアレグリアやアーモンドアイなどと比較されることが多いが、本馬が優勢であると評価することが多い。
海外からの評価も非常に高く、2006年にカルティエ賞年度代表馬、2007年にエクリプス賞年度代表馬を受賞している。3つの年度代表馬を受賞した馬は本馬以外に存在しておらず、文字通りワールドホースとして評価され続けている。
WTRRにおいては2006年に中距離区分で139ポンド、2007年に中距離区分で141ポンドを獲得した。当時はダンシングブレーヴと同値であったが、レーティング見直しが行われたあとは、現在まで単独一位として君臨している。
英タイムフォーム社のレーティングでは、2006年に140ポンド、2007年に148ポンドが与えられた。これは145ポンドのジーバードを上回る数値であり、現在も更新されていない世界最高値である。2006年はドバイ、欧州、香港で欧州の強豪馬を蹴散らし、凱旋門賞馬となったディープインパクトを宝塚記念で倒していることが評価された。2007年は北米最高峰レースであるBCクラシックでの圧勝劇が評価されたこともあり、148ポンドという破格の数値が与えられた。これは、過去にジャイアンツコーズウェイやサキー、ガリレオといった名馬たちですら、BCクラシックの壁に阻まれていたこと、インヴァソールを筆頭とした強豪に勝利したことが考慮に入れられた。タイムフォーム社のレーティングで2年連続140ポンド以上の評価を獲得した競走馬は、ブリガディアジェラードとフランケル、バーテックスと本馬の4頭のみである。
マイル中距離で破格の能力を見せた本馬は、英国の古い競馬ファンからはブリガディアジェラードに匹敵すると評価された。そのほかにも00年代前半に活躍したドバイミレニアムやロックオブジブラルタル、ジャイアンツコーズウェイなどのマイル中距離で活躍した馬たちとも比較されている。特にフランケルの比較においては、フランケル引退後から盛んに実施された。マイルではフランケルが優勢で、10ハロン競走においてはテンペストクェークが優勢になると評価する声が大きいが、どちらが強いかという結論が出ることは永遠にないだろう。
●競走馬としての特徴
・身体能力
快速馬にふさわしいスピードを有しており、日本やアメリカの高速競馬にも問題なく対応していた。父や祖父の能力を余すことなく受け継いでおり、産駒にも受け継がれている。
パワーにも優れており、日本欧州米ダートの重馬場でも上がり1Fを10秒台で走り抜ける化け物のような力を持っている。登坂力にも優れており、坂が多い欧州の競馬場でも問題なく走っている。
瞬発力は、世界最強の豪脚と評価される。スローペースでもハイペースでも、先行でも差しでも追込でも関係なく一気にトップギアに持っていくことができる。鞍上高森曰く「スポーツカーの加速力」と言わしめている。ターボやニトロを搭載していたんじゃないかと冗談で語られ、うまく乗りこなさないと後ろに吹っ飛ばされると言われるほどである。
末脚で有名なディープインパクトとは末脚の質が異なる。ディープインパクトは中距離でも長距離でも関係なく上がり3Fを、場合に依っては4F、5Fからでも可能な超ロングスパートができ、最後まで速度を維持することができる末脚を持っていた。一方のテンペストクェークは上がり1Fが10秒台前半という短距離レベルの末脚を10ハロン競走で繰り出してくる最強レベルの切れ味が特徴である。上がり3Fは常時32~33秒台であり、上がり2Fが20秒台を記録しているレースも多いため、この末脚を一瞬の切れ味と表現することは誤りである。むしろ、一度スパートに入ると、スピードが落ちることなく、最後まで加速し続けるというスピードの粘りも特徴であるといえる。末脚のキレは、世界中の競馬場で変わりなく発揮することができていた。宝塚記念のように2200メートルでも上がり1Fを10秒台で走っているので距離も馬場も関係なく発揮できる万能の末脚であった。
・精神力、気性など
スピードや瞬発力といった基礎的な能力だけでなく、精神面についても高く評価されている。特に勝負根性については、非常に優れていると評価されている。馬体を合わせた叩き合いにもめっぽう強かった。チャンピオンSのように、馬体や鞭をぶつけられても、全く戦意を喪失しない闘争心と集中力を持っているため、妨害という妨害が意味をなさなかった。レースにおける粘り強さは間違いなく父のヤマニンゼファーの驚異的な勝負根性を受け継いでいると思われる。
気性もよく、騎手や調教師に従順な性格であった。騎手の高森は、車のような操縦性があったと語っている。何より反応速度が非常に優れていたため、レース中の位置取りや抜け出しなどが非常にうまかった。騎手の思うように動くことができるため、乗りやすい馬であったことは間違いない。厳しい調教にも従順で、レース前の厩舎の雰囲気を察して、飼い葉の料を調整して、常にベストの体重で本番に挑んでいた。馬体重520キロが多かったのは、馬自身が勝手に調整していた面も大きい。つまるところ、レースの調整に失敗したことが一度もなかった(阪急杯の回避は熱発であったため仕方がなかった)。また、精神的にも非常にタフで、海外遠征を行く際に輸送負けしたことが一度もない。クイーンエリザベス2世Cに出走する際に、航空機のトラブルで狭いストール内で10時間以上も待機させられた時も、全くへこたれておらず、好物のメロンを食べて勝手に機嫌が直っていた。長期遠征でもニューマーケットやモンマスパークに到着してすぐに現地になじんでおり、人間以上の適応能力を見せている。
勝負強さや我慢強さが特徴的であるが、自らの不調を感じたときは遠慮なく人間に申し出る一面もあった。けがや体調不良を隠す馬も多い中、おおよそ野生の本能を失っていると調教師から言われている。管理する側としてはわかりやすくてありがたい限りだろう。
・万能性
日本、欧州、米国の馬場すべてで勝利しており、脚質も万能であった。どうやら馬場や距離、コースや坂の有無によってストライドの幅や走法を微妙に変えているようで、万能性はこの可変走法とも呼べる走り方によって生まれている。強靭な四肢と筋力、抜群の柔軟性があったからこんな走り方ができたようである。この万能走法故に日本のセクレタリアトと呼ばれることもある。
加えて、非常に賢いためか、スポンジのように言われたことや見たことを吸収する能力があるようで、併せ馬やレースをした馬たちの走法などを勝手に学習し、自分の走り方に取り入れるという見稽古に近い能力を有している。このため、テンペストクェークは強い馬と戦えば戦うほど強くなっていくというゲームのような成長能力を持っているのである。実際ゼンノロブロイとの調教以降はさらに強くなったようで、ディープとの宝塚記念以降は、ディープの走法に似るようになり、脚部への負担が減ったといわれている。この見稽古能力のおかげで、様々な馬場に対応した走りを学習しているのだと推測されている。
適正距離については、一番得意な距離は1600~2000メートルであるといわれている。もともと体格的に短距離向きであることに間違いないが、マイル以上も走れる可能性があるということで、入厩当初から2000メートルまで走れるように調教を施されていた。このため、この距離が一番の得意距離になったのだという。ただ、宝塚記念や高松宮記念を見るに、1200~2200メートルでも破格の能力を持っている。これもその距離に向けて事前に調教をしっかりと施したが故の結果だと調教師たちは語っている。
2200メートル以上については、覚醒する前の3歳春のダービーしか走っていないため、わからないのだが、上記のことを鑑みるにしっかりと準備をすれば12ハロン競走でも走れた可能性は高い。藤山も「6歳でも現役なら12ハロン路線に進んでいたかもしれない。しっかり調教を施して準備をすれば多分走れた」とのことである。ただ、超長距離については、「ミホノブルボンの例もあるので、できないことはないと思う。ただ、さすがのテンペストでもけがのリスクが高まるのでやる必要はないと思う」と藤山は語っている。長距離の価値が下がりつつある中で、無理に走らせる必要はないと思うが、長距離まで走れるようになったテンペストクェークを見てみたいと思わないと言えばウソになる。
日本のダートは一度も走っていないが、曰く「普通に走れる」とのことである。
・その他
欧州4連戦などのローテを走りながらも故障とは無縁の競走生活を送った。馬体重も520キロ前後(一番重かった時がマイルCSの535㎏程)の大柄な馬体であったが、引退時の馬体検査でも全くの健康優良体であったようで、アイアンホースの名にふさわしい頑丈さを有していた。この特徴は産駒にも受け継がれており、頑丈で健康な産駒が多い。このため、もろさが目立つ血統の馬と交配することが多い。
競走馬としての総評は、ジェット機のようなスピードや加速力がありながら、戦車のようなパワーと頑丈さを両立した能力を有していた。そのうえ、自動的に相手を学習して勝手に強くなっていく高性能なコンピューターを搭載していた。文字通り、通常の競走馬から逸脱したレベルの馬であったといえる。
●人気
競馬ファンだけでなく、世間一般からも高い人気を誇った競走馬である。同期のディープインパクトともに第三次競馬ブームの絶頂期を支えた。ディープインパクトと宝塚記念で激突して勝利したあたりから、人気が一気に上昇した。
温泉につかってなかなか出ようとしない場面や、メロンを取られて怒る場面、取材のアナウンサーを嘗め回すなどの気性がよく、温厚で優しく愛らしい姿を様々なメディアで放送されたこともあり、「賢くてかわいい馬」というイメージを持たれることが多かった。しかし、実際の競走ではすさまじい強さを発揮して世界中の強豪をなぎ倒していく「競走馬」としての強さを見せつけ、前述の愛嬌のある姿とのギャップがあったことも本馬の人気に拍車をかけた。
また、零細の血統に(実際は零細ではない)大手とは無縁の牧場出身、馬主は初心者という零細まみれの出自の競走馬が、通算GⅠ馬ゼロの厩舎に入厩し、ケガから不死鳥のごとく復活してあがき続けるベテラン騎手と共に日本競馬、世界競馬のエリートたちと戦っていくというストーリーに多くの人がひかれたのであった。この点はオグリキャップに似ているといえる。
一般大衆からの人気も高かったが、それ以上にカルト的な人気もあったのが本馬の人気の特徴である。父ヤマニンゼファーが妙に根強い人気のある競走馬であったため、ゼファーファンがそのまま本馬のファンになっていた。現在も産駒が走るレースに掲げられる「ゼファー魂」や「テンペスト魂」の横断幕や幟は、現役当時も世界中で掲げられていた。
ヒシミラクルおじさんのような名物のおじさんがおり「テンペストおじさん」と呼ばれる奇怪な人物も登場した。
海外においては特にイギリスで人気が高い。理由としては当時の英国女王のお気に入りの競走馬であったことがあげられる。チャンピオンSが終わり、帰国に向けて休養中であったテンペストクェークを、一目見たいと厩舎に訪れたことから彼女と本馬の縁は始まった。自身の名を冠したレースを圧倒的なパフォーマンスで勝利したのを見て興味を持ったのがキッカケであったらしい(キングジョージをハーツクライが、凱旋門をディープインパクトが勝利して日本馬への注目が高まっていたのも大きい。実際ディープの血統には彼女の所有していた馬の名前がある)。ニューマーケットで長期滞在していたので、一番会いやすい日本馬であったこともこの奇妙な縁を紡ぐ要因となった。そして、乗馬体験をしたり、帽子をプレゼントされたりと、テンペストクェークから至れり尽くせりの接待を受けたことで、完全にお気に入りになったらしく、そこから熱心に追いかけるようになったようである。
なんで一国の女王を現役競走馬に乗せているのか疑問に思うが、馬の方が乗ってくれ乗ってくれと催促したらしく、乗馬体験が始まったようである。馬術馬になる素養はこのときからあったようだ。
女王陛下を経由して、英国の一般国民にも本馬は周知された。実は英国は障害競走の方が庶民人気は高い国なのだが、それはそれとして自国の女王が絶賛する極東からの来訪者に興味がわかないわけではなかった。あとは日本と同じように人気になったのである。種牡馬として英国に滞在した際には、見物客が訪れるほど根強い人気が残っている。あとは、ロンドンオリンピックの馬場馬術で活躍したという点も大きい。
●高森康明騎手とテンペストクェーク
22戦すべてに騎乗し、数多くの激闘を繰り広げた主戦騎手である。自身初のGⅠタイトルを含め、騎手人生晩年に出会い、自分の運命を変えた馬だと語っている。総じて言葉が重たい。これが中年男性の面倒臭さか……
テンペストの方も、高森騎手には懐いており、出会うたびに乗って行けとうるさく主張するようである。
『最初はちょっと貧乏くさい馬だと思った』(2004年新馬戦後インタビュー)
『このままではそれなりの馬で終わってしまう。だからこそ私は彼と喧嘩をすることにした』(2005年皐月賞 著書より)
『遠すぎる背中が近くに見えた。そう思うと自然と笑っていた』
(2005年皐月賞の感想 2006年正月特番にて)
『自分がGⅠを取ったことより、テンペストが勝てたことがうれしかった』
(2005年天皇賞秋後インタビュー)
『つっよ……』
(2006年ドバイDFでの勝利後の馬上インタビュー)
『やっと勝てました。絶対に負けられない戦いでした。彼の強さが詰まった最高のレースだった。ありがとう』
(2006年後宝塚記念後インタビューより
『なんかぶっちぎってました……』
(インターナショナルステークス後の感想)
『出遅れたけど、テンペストは冷静でした。冷静になれたからこそ、最後の豪脚を見せることができた。精神面でも大きく成長してくれました』
(QE2世S後のインタビューより)
『王者の風格ですね。かわいい牝馬にすり寄られたからかな?彼もいっぱしの漢になったものですよ』
(香港カップ後のインタビューにて。その後服を破られる)
『初のダートでここまでやれるなら十分。次は勝ちます』
(米国初戦後のインタビューにて)
『本当に強い、間違いなく世界最強だよ。相棒。』
(BCクラシック後インタビューにて)
『テンペストと出会うために自分は死の淵から蘇ってきた。彼の上は誰にも渡したくなかった』(2007年テンペストクェーク引退式)
『強くて、賢くて、優しくて、それでいて誇り高い。私にとって最愛にして最高の相棒』
(2007年テンペストクェーク引退式)
『彼にとっての至高はディープインパクト。私にとっての至高はテンペストクェーク。本当にすごい馬が同じ年に生まれたものです』
(2014年騎手引退後トークショー)
『強かっただろ?この馬のお父さんはもっと強かったぞ』(テンペスト産駒で地方交流重賞を勝利した地方騎手の息子に対してYouTube上で謎の自慢をする)
『○○と戦ったらテンペストが勝つ』
(2007年以降、名馬が誕生するたびに自身の相棒を引き合いに出す大人げない元主戦騎手)
『馬術?彼ならオリンピックに出れるんじゃないですか?頑張ってほしいですね』
(2009年馬場馬術の大会に出場することが決まったときのインタビュー)
『金メダルですか?順当にいけば獲れると思いますよ。彼を我々の常識にあてはめない方がいいですよ』(2012年ロンドンオリンピック前のインタビュー)
●性格・小ネタ
・優しい性格
若駒時代から、人間相手には懐っこくて優しい性格であった。古馬になっても、種牡馬になっても性格は全く変わっておらず、気性が穏やかな馬として一番に上がるほどの馬である。
・馬嫌い
若駒時代は他の馬と交流することを嫌い、いつも一人であった。これは生まれが関係しているといわれている。誕生してすぐに、母馬から育児放棄を受けてしまい、仕方なく人間によって育てられたという経歴がある。牧場のスタッフが熱心に育てたこともあり、健康に育つことはできたが、人間に育てられ過ぎたせいで自分のことを人間だと勘違いしてしまったようである。これにより、他の馬と交流するのが嫌になってしまったのではないかと考えられる。この馬嫌いの性格は、3歳夏ころから改善され、古馬になる頃には見られなくなる。
・意外とやんちゃ
おとなしくて優しい性格であるが、意外とやんちゃなところもあり、温泉から出ようとしなかったり、かまってほしくて馬主や騎手、調教師の服を破いたりすることもあった。ただ、けがをさせるようなことはしなかったらしい。手加減ができる馬であった。
・賢い
歴代でも屈指の賢さを持つ。自分の名前や、騎手などの関係者の名前は確実に覚えていたようである。それどころか、ライバルや同じ厩舎の馬の名前まで憶えていたという。また、一度行った場所も覚えていることが多く、記憶力がいいと評判であった。馬場馬術の競技馬として活躍できたのも、技やタイミングを完璧に覚える能力があったからだといわれている。
人によって態度を変えていることも確認されている。英国女王とは何度か交流をしたことがあるが、総じて敬意のようなものを見せている(厩務員と共に頭を下げる、大切な帽子をプレゼントするなど)。2012年の園遊会にも参加しており、当時の天皇陛下に対しても同様に敬意を示している。逆に自分のことをないがしろにする人間についてはそれ相応の態度をとったりすることがある(それでも攻撃をしないあたり相当優しい)。
・きれい好き
実はきれい好きな一面もある。馬房内でも排泄する場所が決まっており、自身が寝転がる場所には絶対に排泄は行わなかった。放牧地でも同様であったため、掃除がしやすいと厩務員からは評判であった。
・伝説のボス
美浦トレセン時代には、藤山厩舎だけでなくトレセン全体を統括する伝説的なボス馬として君臨していた。気性が悪い馬を諫めたり、喧嘩を仲介したり、弱い馬を守ったりと、何かあった時に裏から出てくるタイプのボスであった。これは日本に限ったことではなく、英国で滞在したニューマーケットやアメリカのモンマスパークでも現地に到着してすぐにボスとして君臨するようになったようである。
種牡馬になった後も何かと癖の強い馬たちとも上手に交友関係を結びつつ、やはりどこか一目置かれるような立場であったようだ。
・友達が多い
馬社会の中でもボスとして君臨している一方で、友人も非常に多かった。現役時代は同じ美浦に所属し、ともにアメリカ遠征に行ったダイワメジャーと仲が良かった。2歳年上のゼンノロブロイとも親しくしていたようで、併せ馬後は2頭で何やら嘶き合っていたところが目撃されている。そのほかにもアサクサデンエン、栗東のアドマイヤムーンといった先輩後輩とも仲が良かった。
種牡馬時代には、馬房や放牧地が近い馬たちと仲が良かった。特にシンボリクリスエスとは親友になったようで、楽しそうに嘶き合っていた映像が残っている。ディープインパクトとも友人であったようで、よく併せ馬をしていた。
海外の8年間でも向こうの種牡馬たちと仲良くなっていたようで、たびたびSNSなどで併せ馬をしたり、嘶き合っている様子が投稿されていた。
2022年の帰国後は、気性が荒くなり王様になってしまったロードカナロアと交流しているようである。テンペストに対してはそこまで偉ぶったりしないらしく、彼が一切逆らえなかった凶暴な牝馬の雰囲気をテンペストから感じ取っているからのではないかと噂されている。ただ、海外に行く前に特に仲が良かったディープやボリクリがいなくなっており、ちょっと寂しそうにしていたとのことである。ただ、産駒のエピファネイアやコントレイルと親しくできたようである。息子のクロノセンチュリーとも仲が良いようである。
・仕事人
毎年200頭以上の種付けを15年経験し、受胎率も非常に高い絶倫の持ち主。ただ、牝馬や種付けが好きかといわれるとそうではないらしい。どうやら自分に与えられた仕事の一つだと理解しているためらしい。牝馬のえり好みがないため、関係者からは大変ありがたがれている。
・偉大なる兄貴
全妹に世界最強のスプリンターであるヤマニンシュトルムがいる。半妹、半弟も多数のGⅠ馬がおり、偉大なるセオドライト一族の長兄である。なおヤマニンシュトルムからは蛇蝎のごとく嫌われているようで、写真はおろか、名前を出すだけでも切れ散らかすレベルとのことだ。
・オーナー
馬主の西崎浩平はテンペストクェークが初の所有馬である。馬主初所有馬が世界最強の競走馬となったというとんでもない人である。宝塚記念への出走や欧州、米国遠征など初心者とは思えない豪胆な決断をしたすごい人だと認識されている。テンペストクェーク引退後は、彼を初めて見たときと同じような感覚を持つような馬以外は所有しないと心に決めていたらしく、現在まで所有馬はテンペストのみである。ただ、数多くの有名馬の一口馬主には参加しているとの噂もある。
・血統
父ヤマニンゼファーと母父サクラチヨノオーという謎の配合の結果誕生したテンペストクェーク(とヤマニンシュトルム)であるが、緻密な計算や計画によって配合されたわけではなく、単純に牧場長の趣味の産物であることがBCクラシック後のインタビューにて判明している。単純に好きな馬同士を掛け合わせただけで、世界最強馬が2頭も誕生したのだから、競馬や血統は面白いのである。なおセオドライトはミホノブルボンやクレイドルサイアーといったマイナー血統でもGⅠ馬を輩出しているので、この馬が一番やばかったんじゃないかといわれたりしている。
当時の日本の主流血統からは外れた血統であるが決してダメ血統ではない。マルゼンスキーを筆頭に、優秀な成績を残した競走馬・種牡馬の血が本馬には流れている。彼の活躍は間違いなく血統に名を連ねた名馬たちの執念が生み出したものであるとも言えよう。
追記・修正は年度代表馬三冠を獲得してからお願いします
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