2018年06月04日

ヨーゲシヴァラナンダ「実践ヨーガ大全-全326ポーズの写真と効能」(4)

身体浄化法(Shat Karma

「浄化のためには次の6つの作法(カルマ)を修習すべし。①ダーウティ、②バスティ、③ネーティ、④ラーウリキ(ナウリ)、⑤トラータカ、⑥カパーラ・バーティ(ゲーランダ・サンヒター1-12

【①ダーウティ・カルマ(Dhauti Karma)(消化管清掃)】 幅10cm、長さ7mの柔らかい布を水に浸し、飲み込み、ナウリの後に引き出す

「ダーウティ・カルマの力によって、咳、喘息、脾臓病、癩病等粘液素の分泌過剰から生ずる20の病気が消える」(ハタ・ヨーガ・プラディーピカー2-25

【②バスティ・カルマ(Basti Karma)(浣腸)】 短い管を用意し、肛門に差し込み、中腰になって肛門内に水を吸い込ませ、ナウリを行って大腸内部を洗浄し、最後に腸内の水を排出する。浣腸器を使ってもよい。三昧の境地で長時間坐り続ける前に、腸内の老廃物は全て排泄しておく必要がある。そうしなければ、腸内でそれら老廃物が発酵し、身体を損ねてしまうただし何でもそうだが、やり過ぎると病の原因になるから注意。

「バスティ浄化法を行ずれば、肉体を構成する7種の要素(Dhatu)、各種の感覚器官、内的心理器官は浄められ、皮膚に輝きが生じ、消化が良くなり、体質の不調和は全て解消するだろう」(ハタ・ヨーガ・プラディーピカー2-28

【③ネーティ・カルマ(Neti Karma)(鼻の清掃)】 幅3cm、長さ50cmの柔らかい布を蝋に浸して磨いたものを、鼻に差し込み、口から引き出す。鼻先から眉間と喉にかけて浄化される。風の予防、頭痛の治癒、視力向上。

「ネーティ・カルマは頭の中を浄め、霊的な直観を与え、肩より上に生じたいろいろな病気を速やかに無くする」(ハタ・ヨーガ・プラディーピカー2-30

【④ナウリ・カルマ(Nauli Karma)(腹部揺動)】 肩幅に足を広げて経ち、前かがみで両手を両膝の上に置く。息を完全に吐くと同時にウッディーヤーナ・バンダを行い、腹直筋のみを腹部前面に出し、これを左右に交互に回転させる(息を止めて、決して吸わないこと)。

ナウリ・カルマは消化不良を治し、消化と吸収の力を増加させ、万物を創造する女神のように幸福をもたらす。身体の3種の機能原理の不調を全て癒やす。これはハタ・ヨーガ行法の中でもその根本をなす行法である(ハタ・ヨーガ・プラディーピカー2-34

便秘の場合、老廃物が腸の内部で腐敗して、様々な病気を引き起こす。病気に罹る場合、その殆どの原因は身体内部にあり、外から来る原因は非常に少ない。こうした事実を行者も俗人もあまりよく認識していない

制感(Pratyahara

●「制感」とは、身体の外側の対象物へと向かって働く傾向のある感覚器官を、その対象物から引き離して、身体の内側の対象物へ働くようにさせることだ。

「制感とは、その対象物へと向かって働く傾向のある感覚器官の働きを、制御する行為のことである」(ヴィシュヌ・プラーナ)

「制感とは、諸感覚器官が、それぞれの対象と結びつかなくなって、心素(チッタ)自体の模造品のように見える状態をいう」(ヨーガ・スートラ2-54。ここで心素とは、4組の内的心理器官のうちの一つである「理智」のことを言っていると解する。即ち、感覚器官をその外界の対象物に向けさせるのではなく、理智の働きに結び付けるようにさせることが、制感である。

●内的心理器官は、「意思(マナス)」「理智(ブッディ)」「我執(アハムカーラ)」「心素(チッタ)」の4組からなる。それというのも、3種の徳性の影響によって、それぞれの器官は、構造・組織・性質・働き方が全く異なるからだ。

身体外の事物に関する情報は、粗雑次元の感覚器官がとらえて、微細次元の感覚器官を通って、「意思」へと伝えられ、意志はこの情報を「理智」へ伝える。理智はこの情報に対して判断を下すのだが、この判断決定の内容を、さらに「行(サンスカーラ)」という微細な情報に変えて、心臓内部に位置する「原因体」内で働く「心素(チッタ)」へ伝える。つまり、各感覚器官は意思と理智とに接触して働くが、心素とは「直接」接触して働くことはない

●「瞑想状態」にあるときは、意思や理智は微細次元の感覚器官と「のみ」共に働くようになる。つまり、粗雑次元の心理器官は「全く相手にされず」、これらの器官は活動せぬ状態に置かれる。その結果、眼は開いているにもかかわらず見ることをしないということになる。そうなると、意思の内部では「内なる自分自身の情報のみが働く」ようになり、こうした心理作用も制限されてしまうと、意思や理智の働きは静まってくる。こうして感覚器官は、自らの主人たる意思が働かなくなるため、自らも外界の事物に向かっての働きを止めてしまい、外界の情報を摂取しなくなる。

亀がその手足を甲羅に引っ込めるように、ヨーガ行者も感覚器官を身体内に引っ込めよ(ゴラクシャ・パッダティ)

感覚器官はただ、理智の指令通りにしか働かない存在だ。そのため、理智の働きを制御しさえすれば、感覚器官の働きも制御し得るわけで、これが感覚器官の働きを制御する最上の方法である。

「賢明なる人がたとえ努力しても、乱れ動く諸感覚器官は無理矢理に意思を奪い去ってしまう。これら一切の感覚器官を制御し、我に専念し静坐すべし。何となれば、諸感覚器官を自制下に置く人の智慧は安定しているから」(バガヴァッド・ギーター2-60,61

感覚器官の内の一つだけでも制御できずにいると、それだけで、もう修行者は堕落し始めてしまう。穴が空いた瓶から水が漏れ出すように。「何となれば、意思が、動きて止まざる諸感覚器官に従うとき、意思は彼の智慧を奪い去る。あたかも風が水上の船を運び去るように」(バガヴァッド・ギーター2-67

「智慧を御者として意思の手綱を握る人は、輪廻の道の彼岸なるヴィシュヌ神の至高境地に達す」カタ・ウパニシャッド1-3-9

私たちは感覚器官を制御しないことには、世俗世界の手枷足枷から解放されることがない。こうした枷は、対象物を追い求める感覚器官そのものなのだ。

●なぜ人間は苦労して、こうした感覚器官の働きを制御しなければならないのか。ギーターは答える。「愛着と憎悪は、それぞれの感覚器官の対象に向けられる。人はその両者に支配されてはならない。なぜなら、これらは彼にとって敵であるから」(バガヴァッド・ギーター3-34愛着と憎悪は、善性と対立する性質であり、善性を優位に持つ者にとっては有害だ。だから、私たちは理智の働きが邪魔されぬよう、こうした感情とは無縁でなくてはならない。

●私たちは常に心して、執着心が起きぬよう、我が身を守り通す必要がある。

「心を制御する者は、愛憎を離れ、自制下に置かれた諸感覚器官を持って、その対象に接しつつ、平安に達する」(バガヴァッド・ギーター2-64

意思と共に五知覚器官の働きが抑制され、理智の働きも静まったとき、これを最高の境地と呼ぶ(カタ・ウパニシャッド2-6-10

●調気法は、制感行法を完成させるのに非常な助けになる。意思と理智とを、その執われの対象から引き戻してくれる。つまり調気法は、諸感覚器官と深い繋がりを持っているからこそ、感覚器官の働きを制御できるのだ。聖伝の書や古典に調気法の大切さが説かれているのも、このためだ。

「調気によって罪過を、精神集中によって罪悪を、感覚器官の抑制によって執著を、瞑想によって主に相応しくない徳を焼却すべし」(マヌの法典6-72

そもそも呼吸というものは、私たちの肉体と精神の中間に位置しているものだ。

「だからこそ、アルジュナよ。まず諸感覚器官を制御せよ。そして、知識と智慧とを破壊する邪悪なる者を消し去れ」(バガヴァッド・ギーター3-41

「制感の行法を修得していくならば、遂には諸感覚器官に最高の従順さが生ずる(ヨーガ・スートラ2-55

【結論】 前段階のヨーガ行法(Bahiranga Yoga)の扱う範囲は、意思と感覚器官の働きまでだ。調気法によって意思がその働きを制御されると、今度は制感行法によって意思が諸感覚器官の働きを制御するようになる。

●「理智」は、意思と諸感覚器官に対して女王のような立場にある。だから、この理智が快楽の対象物を追い求めることをしなくなれば、その良い影響はすぐに意思や心素、諸感覚器官の働きの上に現れてくる。

●制感行法という基礎となる行法は、この上に精神集中・瞑想・三昧といったヨーガ行法の一大宮殿を構築するために是非とも必要なものだ。



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posted by samten at 05:49| 読書録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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