●【③不盗(Asteya)】 自分自身に属さぬものを所有したり、その所有者から与えられたものではないものを所有してはならない。
「神から恵まれたものだけに満足せよ」(ヤジュル・ヴェーダ40-1)
「不盗の戒行に徹したならば、求めずして、あらゆる地方の珠玉が彼のところへ集まる」(ヨーガ・スートラ2-37)
●【④禁欲(Brahmacharya)】 「禁欲とは、性欲を制御することである」(ヴィヤーサ)。ブラフマチャルヤという言葉は、「若者を絶対神のより近くへと近づける行為」という意味があり、それ故多くの聖典で重要視されている。禁欲とは、ただ単に生殖器官の働きを制御するだけでなく、全ての感覚器官の働きを自己の管理下に置くようにすることだ。
●房事過多は、私たちの肉体を消耗させる。医聖スシュルタは、「精液こそ神聖なものであり、身体に元気を与えてくれる」「精液こそ大事に保管すべき財宝だ」と言う。「もしも、その者が精液を漏らすことがなければ、その肉体は光輝き、心よい香りを発する。更に、死をも恐れぬ気力すら与えられる。このように、精液こそ真に生命を支えるものである」(ゴラクシャ・パッダティ)。
「禁欲の戒律に徹したならば、力を獲得する」(ヨーガ・スートラ2-38)
「禁欲の力によって、神々は死を克服せり」(アタルヴァ・ヴェーダ11-4-19)
●【⑤不貪(Aparigraha)】 貪欲さや執着心に動かされて、いろいろな財物を貯えるようなことはしないこと。「不貪とは、諸感覚器官の対象物に執着せず、所有しないことだ。というのも、そうした対象物を獲得しようとしたり、保持しようとしたり、また得たり失ったり、損なったりするときに苦悩を生じさせることを行者は知っているからである」(ヨーガ・スートラ2-30ヴィヤーサ註解)
「賢者は、御者がその馬を制御するが如くに、心を奪う感覚の対象物の間に迷える諸感覚器官を制御せんと努むべし」(マヌの法典2-88)
●一人ひとりの者が、自分にとって「生きるに最低限必要な物」は何であるかを考えて、それ以上の物は持たぬようにすれば、地獄の如き様相のこの世も、天国のように住みやすいところに変わるはずだ。
「身に余る物は、〈積徳〉のためにも他に与えるべきなり。かくして絶対に必要な物のみを所有すべし。また、絶対に他人の所有になる物を欲すべからず」(ヤジュル・ヴェーダ40)
「真に不貪の者とは、お椀一杯の食べ物に満足する者である」(カイヤタ)
●「どうしてそんなにも諸感覚器官の働きを忌み嫌うのか?」と思うかもしれない。それは、私たちが諸感覚器官に執着すれば、自分自身をその働きに「束縛」してしまうからだ。また、諸感覚器官を楽しませることは、私たちに「死への恐怖」を引き起こすからだ。
「蛾・象・鹿・黒蜂・魚などは、それぞれ一つの対象物にしか執着していないのにもかかわらず、そのために命を失うことがある。人間の場合、五知覚器官がとらえるあらゆる対象物に執着するのだから、自分で自分を損なわないはずがない」(ガルダ・プラーナ)
「毒(Vish)と、感覚器官の対象物(Vishaya)との違いは、毒の場合はそれを食べた者を殺すが、対象物の方は、それを思い描いただけでも、その者を死に至らしめる点にある」(スバーシタ・ラトナ・バーンダーガーラ)
※毒(Vish)と、感覚器官の対象物(Vishaya)は同じ語源
【勧戒(Niyama)】
●勧戒の数についても、異なる意見が述べられている。『ヤージュニャヴァルキヤ・サンヒター』では、①苦行、②満足、③ブラフマンを信じること、④ヴェーダを信じること、⑤慈悲、⑥祈り、⑦智慧、⑧真言誦唱、⑨謙遜、⑩日々の献身の10種が述べられている。『シュリマド・バーガヴァッド』では、①清浄、②苦行、③献身、④神名誦唱、⑤親切、⑥ブラフマンに対する信仰、⑦奉仕、⑧巡礼、⑨慈善、⑩満足、⑪師への奉仕の11種とされている。『ヨーガ・スートラ』では、①清浄、②満足、③苦行、④読誦、⑤信仰の5種だけだ。
●【①清浄(Shaucha)】 清浄には「外的清浄」と「内的清浄」の2つがある。「身体は水により、意思は正直により、個我は智慧および苦行により、理智は(誤謬と妄想を伴わぬ)智慧によりて清められる」(マヌ法典5-109)。
●「清浄の戒行を守るとき、人は自己の肉体に対して嫌悪の情を抱くようになり、まして他人の身体に触れたりはしなくなる」(ヨーガ・スートラ2-40)。このようにして、肉体が真の自分自身であるという誤った考えを捨て去ることが出来ると、自分自身の肉体は「魂にとっての道具」に過ぎないことを確信できる。
●「清浄の戒律を守るならば、サットヴァの明浄、愉悦感、一つのことに対する精神の集中性、感覚器官の制御、真我直覚の能力などが顕れる」(ヨーガ・スートラ2-41)。心が清浄で安らいだものとなると、意思や理智などの内的心理器官は、互いによく調和して働けるようになり、それだけ諸々の感覚器官の制御ができるようになる。
●【②満足(Santosha)】 自分自身が真面目に働いて得た以上のものを決して欲しがらない。逆に言えば、たとえ期待したよりも少ないものしか手に入らなかったとしても、決して失望してはならないということだ。
●「他人の財産に欲を抱くことなかれ」(ヤジュル・ヴェーダ40-1)。私たちは、神に対しても、この世に対しても不平不満を言ってはならない。「必要とされるもの以上ものが手に入ることは決してない」と気づくことだ。
※必要とされるもの以上のものが手に入ることは決してない
●「幸福を欲する者は、無上の満足に止住し、心を抑制すべし。なんとなれば、幸福の根底は満足にあり、不幸の根底はその反対(の心境)にあればなり」(マヌの法典4-12)。ともかく、どんな人生を送っている者であっても、常に「足るを知って」生きねばならない。そうしなければ多くの苦しみを引き受けることになってしまうからだ。
●「心の満足から得られる幸福感は、丁度、甘露のように感じられる」(スバーシタ・ラトナ・バーンダーガーラ2-1)。
「世人は、あらゆる富を求めてそこここに徘徊するが、心の満足を得たヨーガ行者は、労せずして得られた富を惜しげもなく捨て去る」(スバーシタ・ラトナ・バーンダーガーラ20-1)。革の靴を履く者にとっての全地球は、革で覆われているのと同じであるように、心の満足を得ている者にとっては、いついかなる所でも、この世は富に満ち溢れている。
●「言葉の満足」とは、「寡黙であれ」ということだ。少なく語り、論争は避けて、沈黙を守るのがよい。
※言葉の知足が「沈黙」
●「この世における愛欲の楽しみ及び天上界の大楽は、渇愛の尽きた楽しみの16分の1にも匹敵しない」(ヨーガ・スートラ2-42ヴィヤーサ註解)。
●【③苦行(Tapa)】 「苦行とは、対立するものに耐えることである。そして対立するものとは、飢と渇、寒と暑、立と座、木片沈黙(カーシタハ・モウナ)と形式沈黙(アーカーラ・モウナ)である。また、慣習通りに難行、月減食、厳苦行等をするのが、これらの戒律である」(ヨーガ・スートラ2-23ヴィヤーサ註解)
●「心の苦行」とは、心の中で、怒りや邪悪な欲望が湧き上がらないようにすることだ。「意思の落ち着き、心根の優しさ、自制心、素直な性格、以上を心の苦行と呼ぶ」(バガヴァッド・ギーター17-16)
「性欲・怒り・貪欲といった3種の自己破滅の行為こそ、地獄に堕ちる入口となるものなり。それ故、修行者はこうした行為に身を任せぬようにせねばならぬ」(バガヴァッド・ギーター16-21)
●言葉は多くの罪を作り出す。そのため言葉の苦行が必要だ。「穏やかにして、正直で快く、有益である言葉を話し、またヴェーダ聖典の誦唱等が、言葉の苦行と呼ばれている」(バガヴァッド・ギーター17-15)
●語るに少なき者の言葉には、力が込められている。ボンベイに住んでいたセットゥルシ・ラムは、沈黙を守り、神に祈りを捧げる毎日を送っていた。彼が祈りを捧げた後に話すことは、必ずその通りになった。たとえそれが商売に関わることであってもだ。ところがそのことを鼻にかけて自慢するようになると、彼の言うことは少しも当たらなくなった。その言葉は力を失ったのだ。
●肉体の苦行を修することで、自分自身の多くの罪が浄められていく。
「肉体の苦行は、修行者に感覚器官を制御する力を与え、肉体への執着心を弱める」(スバーシタ・ラトナ・バーンダーガーラ367)
「苦行を行ずるならば、心身の不浄が消え去るから、身体と諸感覚器官の超自然的能力が現れる」(ヨーガ・スートラ2-43)
●「もしも、自分を非難する者を歓迎するならば、自分自身は恵みの光を得るが、その者は光を失う」(カビール)
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