旧版タイトル「実践・魂の科学-全ポーズ写真解説」
たま出版(2004/10)ISBN-10:4812701805
※ヨーガ・スートラの8段階の修行法のうちの、最初の5段階の解説
●肉体を鍛えるハタ・ヨーガは、魂の次元での究極的な向上、即ち最終目標の解脱の境地に達するための「前段階の予備的修行」だ。
「ラージャ・ヨーガ行法を知らないで、もっぱらハタ・ヨーガだけを行じ続ける行者たちのことを、我々は、何の成果も得られぬ無駄な努力をする者たちだと言う」(ハタ・ヨーガ・プラディーピカー4-79)
●ハタ・ヨーガ・プラディーピカーやゲーランダ・サンヒターといった古典的なヨーガ経典は、ハタ・ヨーガ行法について解説をしているにしても、決して肉体の次元でのヨーガ修行法の解説には留まってはいない。
●三昧に入って長時間坐り続けるためには、バスティ・カルマで腸の内部を完全に浄めておく必要がある。もし三昧に入る前に、各種クリヤーを行っていないと、身体内に残っている不純物が身体に影響を与え、病気を誘発する。
【禁戒(Yama)】
●ヨーガの修行段階の数は、導師によってそれぞれ異なる。
「調気法・瞑想・制感・精神集中・トラータカ(Trataka)・三昧。以上がヨーガ修行の6段階である」(ダクシャ・スムリティ7-2)
「坐法・調気法・制感・精神集中・瞑想・三昧。以上がヨーガ修行の6段階である」(ヴィシュヌ・プラーナ6-7)
●禁戒の数についても、異なる意見が述べられている。
「(禁戒とは以下の12戒) 非暴力・正直・不盗・無執着・慚愧(Lajja)・不貪・絶対神とヴェーダ聖典に対する信仰・禁欲・沈黙(Mauna)・剛健(Sthirata)・寛容(Kshama)・無畏(Abhaya)」(バーガヴァタ・プラーナ)
「非暴力・正直・不盗・満足・寛容・剛健・慈愛・誠実・正食・清浄」(パラーシャラ・スムリティ)
「非暴力・正直・不盗・禁戒・忍耐・剛健・慈愛・誠実・正食・清浄。以上10の禁戒。苦行・知足・神信心・慈悲・絶対神畏敬・聖教聴聞・慚愧・賢明・真言誦唱・祭式。以上は、ヨーガの教説に通じた人たちによって説かれた10の勧戒」(ハタ・ヨーガ・プラディーピカー1-17,18)
「禁戒・勧戒・坐法・調気法・制感・精神集中・瞑想・三昧が、ヨーガの8段階からなる修行法である。禁戒には、非暴力・正直・不盗・禁欲・不貪の5つがある」(ヨーガ・スートラ2-29,30)
●【①非暴力(Ahimsa)】 どんな生き物でも殺したり、心に傷を負わせないこと。「禁戒とは、あらゆる生物に対し、たとえば心・言葉・行為など、それが如何なる仕方にせよ、傷を負わせないことである。従って、人の命を奪うことなど論外だ」(ヤージュニャヴァルキヤ・サンヒター)。この戒律が適用される範囲は広く、それだけにこれを守り通すのは難しい。「およそこの世の中において、暴力なしには人は何一つ楽しみを得ることはできないし、または何かある行為をすることもできない」(ヨーガ・スートラ2-34・ヴィヤーサ註解)。
●非暴力の実践は、行為や言葉の上での実践に先立って、心の中での実践が必要だ。心の中で非暴力を守れれば、完全にこの戒律を守り通せるようになる。「この世の全ては真我(アートマン)に他ならぬとヨーガ行者が悟ったならば、行者は非暴力を完全に守れるようになる」。心の中が完全に非暴力で満たされれば、心の非暴力が完成されたと言える。
●私たちの心理器官のうち、「理智」は事物の情報を分析し判断決定する智慧によって満たされている。この理智が暴力と非暴力とを識別して理解するが、この暴力/非暴力の感情は、「潜在印象」となって「心素」の中に貯えられている。この潜在印象が心素の中から「発芽」して、理智の中で次第に大きく育ち、肉体を通しての行動や言葉となって表現されてくる。
●「矢や斧で受けた傷は治るが、粗野な言葉によって受けた心の傷は癒されない」(マハーバーラタ・ウドゥヨーガ・パルヴァ章34-70)。人と話をするときは、落ち着いて穏やかに話すか、黙って静かにしているように。沈黙は言葉の暴力を未然に防いでくれる。私はよく「完全沈黙の行(Kashtha Mouna)」を修行した。言葉を話さないのはもちろんだが、快・不快などといったどんな感情も表に出さないようにするものだ。沈黙はあらゆる事項を成就させる。
●私たちが生き物を殺すのは、結局、私たちが「自己中心的」だからだ。マヌ法典には、動物を殺す者と同罪になる8種類の人々が数え上げられている。「(動物の屠殺を)許す者、その首や四肢を切り落とす者、(その肉を)売り、また買う者、調理する者、給仕する者、および食う者。(以上は)殺したる者(と看做されるべし)」(マヌの法典5-51)
●「非暴力の戒律が確立すれば、ヨーガ行者の面前では、全ての生き物は、その敵意を捨てる」(ヨーガ・スートラ2-35)。こうしたことは、非暴力の戒律が完全にできるようになったかどうかの「目安」になる。多くの聖者や賢者が言うように、非暴力の戒律を守って生きれば、あらゆる生き物と心を通じ合えるようになり、互いに恐れを抱くこともない。
●【②正直(Satya)】 「正直とは、対象の通りに話し考えることである。また、見たり、聴いたり、理解したその通りに語り、考えることである」(ヨーガ・スートラ2-30・ヴィヤーサ註解)。心・言葉・行動が一致しているのが、聖者の最大の特徴だ。心の中が正直ならば、自然に、言葉と行為が正直になってくる。
●正直の戒律を守ろうとする者は、何事においても他人を利することのみを語り、どんな場合でも誠実に注意深く話すよう、心がけなければならない。「真実は穏やかな言葉で語らねばならぬ。不快な感情を起こさせるような真実は口に出してはならないし、逆に、快い気持ちを起こさせるような嘘も話してはならない」(マヌ法典)。目の見えない人を「めくら」と呼んでも間違いではないが、それではあまりに直接的で礼儀を欠くことになるのでそうはしない、という教えもある。たとえば盲目の聖者の名前を使ってスルダスさんと呼んだり、智慧の眼の意味のプラジュナーチャクシャさんと呼んだりする。
●「真実を語ることは善いことである。しかし、もっと素晴らしいのは、他人を利する言葉を話すことである。私の経験から言えば、あらゆる生物を利することこそ真実だからである」(マハーバーラタ・シャンティパルヴァ章)
「ラーマは決して本音と異なる話をすることはなかった」(ラーマーヤナ)
いずれの聖典においても、その最終結論は「最後に勝利を収めるのは、虚偽ではなく正直さである」だ。
●身口意の内容が完全に一致している者の言葉には、強力な力が込められている。あのインド独立闘争の最終段階で、国民がガンジーの言葉に従おうとしなかったのは、彼の身口意の内容に一致しない点があり、その言葉にはもう人を動かす力が無くなってしまったからである。
●唯一の真理は「精神性の高い社会は、人々に幸せをもたらす」だ。
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