春にして君を離れ
拝啓
ついに、春が始まってしまいました。
あなたはいかがお過ごしですか。
私は今日から一人ぼっちになりました。
あなたのいない生活が始まりました。
私たち学生にとっての春の定義は明確だ。三月三十一日までは春休み、そして四月の一日から春。私は三月三十一日まで中学生で、そして、四月一日からは高校生になった。
新しく通うことになる高校への道には桜が咲いていた。朝露に濡れたアスファルトの上に土煙のように桜の花びらが舞っている。この静かに燃え上がるような桜並木を歩く私の制服は少し大きかった。歩くテンポにあわせて肩が上下に動く。
朝の眠たげな太陽を背にして、駅への道を歩く。ストレスを日本中に運ぶ血管のような満員電車に毎日三十分揺られる。そして、毎日この坂道を歩いていく。そんな生活が今日から始まる。
私は少し隙間の開いた制服の上から胸に手を当てた。
十五歳。私はこれからどれだけ大人に近づいていくのだろう。私の体が大人になるまで残された時間はどれくらいなのだろう。
今しか出来ないことがある、と人は言う。けど、『今しか出来ないこと』はきっと私には出来ない。きっと、その『今しか出来ないこと』は未来の私の『あのときそうしていればよかったこと』だから。
道に落ちた桜の花びらは誰かの足跡に踏みつけられて、黒くアスファルトの道路に張り付いていた。
高校生になった。それがたった一日のことで、自分がぽつんどこか遠くへ放り出されてしまったような不安に駆られる。今日から私は何をしに、そして誰に会いにこの坂道を毎日登るのだろうか。わからない。
ショルダーバッグの肩紐を強く握った。手のひらに細い赤い線が出来るまで。じんわりと最初は痛くて、そしてだんだんと感覚がなくなっていった。
夕暮れ。私は公園のベンチに座って、木漏れ陽を眺めていた。入学式は午前中に終わった。けれども、私はそのまま家には帰らなかった。
昔の帰り道を歩いた。昨日とは何も変わっていなかった。学校の前にある小さなパン屋さんも。学校帰りによく立ち寄った本屋さんも。自転車を押して登らないといけなかった坂道も。ただ、予備校の帰り道にはいつもと違って日が差していて、私の服装も少しだけ違った。
なにもかも受け入れられると思っていた。もっと、自分は強いと思っていた。
そう心の中で呟く。地面から浮いた両足が頼りなげに遊んでいた。細い影が頼りなげに伸びていた。
私はただ、遠い昨日までのことばかりを思う。後悔と、もしも、とあのときに戻ったとしても何も出来なかったという諦めと。
あのときの『今しか出来なかったこと』、その答えを私は知っている。
私は恋をした。私は恋をした――ただそれだけのこと。
けど、臆病な私は「みんなに後ろ指をさされるのが怖い」と言った。
僕は恋をした。僕は恋をした――ただそれだけのこと。
けど、嘘つきな私は「自分をさらけ出すのが怖い」と言った。
もしも、あの頃に戻れたなら、自転車に乗るキミの腰に回した腕の力を少しだけ強める。キミにもっと素直な笑顔を向けてみせる。何が起こるかはわからない。でも、きっと後悔はしないはずだ。
ねぇ、君は知っていたかい? 僕はただその一瞬を永らえるために嘘をつき続けてきた。
どうしてだろう? なぜ私は自分の心が知られてしまうのを怖がる?
木漏れ陽の向こうにある太陽がどうしようもなく遠く感じる。私は太陽から遠く離れた深海のような森で、空から漏れ落ちてくる光の中、静かに息を潜めている錯覚を覚える。
それでも、頬に暖かみを感じた。木漏れ陽がやさしく降り注でいた。僕の頬を緩めているのは自嘲だろうか、諦めなのだろうか、それともこの木漏れ陽なのだろうか。
キミも僕も私もきっと変わっていく。僕たちはこのまま離れていくのだろうか。それとも私たちはまた会えるのかな。そのとき、僕はうまくキミと話せるだろうか。君は私を見つけてくれるだろうか。
強い風が吹いた。私はかき上げられる髪を右手で押さえる。もう、風は冷たくはない。春は来る。きっと、もうすぐやって来る。
梢が私の頭上を走り去るように鳴った。柔らかく冬の空気が掃きだされていく。
あの時、キミにあの言葉を伝えていたら、私たちはどうなっていただろう。
そうしたら君と笑いあえていたのはもしかしたら僕ではなく、私だったかな。
私の妄想の中の私は私のままで、君は私を見て笑ってくれていた。いつでも。遠い世界の中で。
キミは遠くに離れてしまった。だから心の中で手紙を書いた。拝啓、から始まるとても短い手紙だ。
君に届けばいい。
春の渡り鳥に託して、君に届けばいい。
私に春が訪れたなら。
そして、僕が子供から女になってしまったなら。
きっといつか君に届くといい。
公園のベンチからゆっくりと立ち上がった。スカートに付いた埃を払う。ほんの少し背筋を伸ばした。春の風に背中を押してもらいながら、歩き始める。
四月一日の陽は遠く、沈みかけている。