檸檬
彼女は驚いたように「あっ」と小さく口を開けると、自転車を漕ぐ彼の服を後ろから引っ張った。
「なんだ?」
彼は自転車のブレーキをぎゅっと握り締めた。道端で何か面白いものを見つけたときに、こんな風に彼の服の裾を引っ張るのが彼女の癖で、その癖になれた彼は服が引かれる感触がしただけで、自転車を止めるようにしていた。
いつだったか、彼は「俺の服は馬の手綱か」と嫌味みたいなものを彼女に言ってみたことがあったが、彼女はただニコニコと笑っているだけで、肯定も否定もせずただ彼を見ているだけだった。
「ほら、見たまえ」
駅前の商店街。彼女が指差したのは、小さな商店街にある小さな八百屋。
こうして彼女が指差すものは、ありふれているけど、どこか変わったものばかりで、例えばそれは道端のタンポポだったりして、目の前のタンポポが珍しい在来種であるなどという話をするのだった。彼自身、在来種だの外来種だのそんな話はさっぱりだったが、なんとなく頭の中で琵琶湖のブラックバスをイメージして納得したりしていた。予備校へ行く道、顔の半分に夕日を浴びながら、嬉しそうにタンポポを指差して笑う彼女を見て、とりあえず彼は頭を掻いてみたりするのだった。
「何が珍しいんだ? 何の変哲もない八百屋のおっさんにしか見えないんだが……」
彼はいぶかしげに目を細めた。彼女の指先にあるのは、野菜の山と、頭に鉢巻をしてそれを売る中年男の姿。まぁ、いまどきのスーパーで見られない珍しい光景といえばそうかもしれないが、とりたてて指を指すようなものでもないように、彼は思った。
「違うよ。確かに典型的なステレオタイプの日本の八百屋さんのおじさんと呼ぶべき人物だけどね……。ほら、僕が指差しているのは、あれだ」
彼は彼女の指先の動きに合わせて、首を上下にじーっと動かしていった。彼の視界をかぼちゃとかほうれん草とか緑色が横切っていく中、一つだけ不思議な存在感で異彩を放つものに目が留まった。思わず彼の口から小さく息が漏れた。
「レモン、か?」
「あぁ、そうだ」
彼の言葉に満足そうに彼女は短い相槌を打つ。
彼は遠くからレモンを目を細めて、じっくりと観察してみた。野菜たちの緑の中で、これほど黄色いものはないだろうと思えるほど黄色いレモンの姿は確かに存在感を放っていたが、特におかしな点は見受けられなかった。
「あれは、その、なんだ。国産かなんかの珍しいレモンか? 俺にはただのレモンにしか見えないんだが」
「残念ながら、僕もレモンの目利きはできないのでね。僕にもただのレモンにしか見えないよ」
彼女は喉の奥で笑い声を立てながら、目を細めていたずらっぽく左手で口を押さえた。彼女の方が小刻みに揺れた。その姿を見て、彼は文句を言いたそうに口を尖らせた。
「そんな表情をしないでくれたまえ。ただのレモンでも、ほら、なんだか綺麗じゃないか」
彼女にそう言われて改めて見れば、彼もなんだかそんな気がしてきた。まるで黄色い絵の具をその場にだけ落としたかのように、レモンは鮮やかに調和を乱していた。自転車を止めて、爪先で立ちながら、彼はその場に浮き出ているような鮮やかなレモンを見つめていた。
「よっ、と」
彼女は自転車の後ろから、両手でお尻を押し出すようにして、すとんと降りた。そのまま手を後ろで組んで、ゆったりとした足取りで店先のレモンに近づいていった。彼も慌てて、右足で自転車のスタンドを起こすと、彼女の後を小走りに追った。
「こんな風にしてね、八百屋さんに陳列されたレモンに心を奪われてしまった小説があるんだ」
彼女は店先のレモンを一つ手に取りながら、彼が追ってきているのがわかっていたから、彼のことを振り返らずに言った。右手の中で、彼女は感触を楽しむようにするするとレモンを回してみせた。
「それはわかったけれども、お前こんなところで――」
「はい」
彼女は彼の言葉をさえぎって、彼の手を取るとレモンを一つ握らせた。レモンの大きさは彼の手で握るにはちょうどいい大きさで、ひんやりとした固い皮の感触が、彼の手にじわりと広がって行くように伝わった。今までレモンをこうしてじっくりと観察したことなどなかったから、彼にとって改めて触れるレモンの感触は新鮮なものだった。
「それはね、国産のいいレモンだよ。農薬なんか使ってないから、皮ごと食えるよ」
八百屋のおじさんが笑いながら、レモンをしみじみと手に取ったままの彼に声を掛けた。なんとなく、彼はおじさんの言葉を聞いて、レモンの皮を丁寧に撫で回してみた。つるりと滑るように、指が動いていった。
「これ、一つください」
彼女が彼の手からレモンを右手でひょいと取ると、おじさんの方を振り向いた。
「あいよ。輸入もんなんかと違って、こいつは全然すっぱくて、でも甘くておいしいよ。おじょうちゃん、一個でいいのかい?」
八百屋のおじさんはしゃがんでビニール袋を取り出しながら、指を一本立てた。
「はい」
「あいよ。ちょっと、待っててくれよ」
「あ、それじゃなくて。これ。このレモンを、ください」
店先のレモンを一つ手に取ろうとしたおじさんに向かって、彼女は自分の手に握ったままのレモンを差し出した。
「お、おじょうちゃん、レモンの目利きなんて出来るのかい?」
おじさんは冗談っぽく彼女に声を掛けた。彼女は、ただにこりとふるふると首を横に振った。
「でも、これがいいんです」
彼女はそう言って、右手に持ったレモンを大切なものでも渡すようにゆっくりと差し出した。
*
自転車の後ろに横向けに腰掛けたまま、彼女は右手に持ったレモンをじっと見つめていた。彼女の左手は、自転車から落ちないように彼の腰に回されていた。
「なぁ。いきなりレモン、一個だけなんて買って、どうするつもりなんだ? 予備校へ行く前に食うのか?」
彼女の気まぐれで余計な時間を消費してしまった彼は、予備校に間に合うように、自転車をこぐスピードを少しだけ速めた。風を切る感触が強くなって、彼女の前髪はさらさらと流れるように揺れた。
「ねぇ、キョン」
「ん、なんだ?」
彼女が背中を掴んでいる以上立ちこぎをするわけにもいかないので、彼は前傾姿勢に体を傾けたまま応えた。
「キミは、レモンと聞くと、どういったものをイメージする?」
「レモン、か?」
「そう」
彼女の言葉が風に混じってするりと彼の耳に入ってきた。彼は、先ほどのレモンのひんやりとした感触と、鮮やかな色を頭の中に思い描いてみた。
「んー、初恋、とか? ほら、レモンってよくファーストキスの味がするとか言うじゃないか」
彼が何気なくぽろりと漏らした言葉を聞いて、彼女は一瞬きょとんとした顔をした後、口に手を当てて笑い始めた。くつくつと喉の奥でなる笑い声が、風に混じって彼の耳に届いた。
「初恋、か」
「な、なんだよ。笑うな。ただの、一般論だ」
彼女が笑ったので、自分の言った言葉が急に気恥ずかしくなった彼は口を尖らせた。それに合わせて、自転車も不機嫌そうに蛇行した。
「いや、まさかキミの口から、そんな言葉が出るとは思わなかったのでね」
彼女はレモンを持った手で口を押さえて、肩を震わせながら途切れ途切れに言葉を発した。近づけたレモンの香りが彼女の鼻にツンと染み渡った。
「キミがそんなロマンチストだったとは、意外だったな」
「うるさい。失言だ、忘れろ。それとも、何か? レモンといえばビタミンCとでも答えておけばよかったのか?」
彼は不機嫌さそのままに自転車を漕ぐスピードを少し速めた。
「そういうお前こそ、レモンと聞いたら何をイメージするんだ? レモンの酸味成分の名前とか、レモンの皮の洗剤としての効用とか、学術名とかか? お前のほうが、俺よりもよっぽどそういったロマンチストとかからは縁遠いからな」
前から落ちて来た彼の言葉が彼女の耳をすり抜けていった。彼女は目の前のレモンをじっと見つめると、彼の質問には答えないまま、ただ彼を掴む腕の力だけを強くした。彼女にとって、彼の存在はとても近くて、こうして少し力を強めるだけで体温が伝わってきた。彼女はろうそくを吹き消すように笑った。
「さっき、キミにレモンを題材にした小説があるっていう話をしただろ」
「え、あぁ」
急に気色を変えた、風に混じって溶けていきそうな彼女の声に、彼はうまく声にならない返事を返した。自転車が地面に揺られるたびに、彼を掴む彼女の力は強くなっていった。
「その小説の最後でね、主人公は八百屋で買った一つのレモンを本屋に置いて帰るのさ。それを爆弾に見立ててね」
「爆弾?」
爆弾という言葉の激しさに、彼は声を少し上ずらせながら、尋ね返した。
「そう、爆弾。その爆弾がね、主人公を不安にする現実を木っ端微塵に吹き飛ばす様を妄想しながら、その小説は幕を閉じるんだ」
その言葉に、彼は再び先ほどまで自分の手の中にあったレモンの感触を思い出していた。右手にちょうど収まったあのレモン。もしも、あれが爆弾なら、手榴弾のように投げつけてもいいし、時限爆弾みたいにどこかに仕掛けてもいい。あの、不自然なほどに鮮やかな色が広がって、それが世界を飲み込んでしまうのなら、あれほど世界を壊すのにふさわしい爆弾はないのかもな、と彼は思った。
「なぁ、佐々木。お前は、その爆弾で世界が変わればいいとか、思ってるのか?」
彼のぶつけたふとした疑問に、彼女は答えなかった。その代わり、彼を掴む腕の力を少しだけ緩めた。彼も、それ以上は何も言わずに、自転車を漕ぎつづけた。
彼女は自分の手の中にあるレモンの感触を確かめた。
――もしも、この爆弾が、現実を壊してしまうなら。ままならないものを全て、木っ端微塵に打ち砕いてしまうのなら。
レモンの表面に陽の光が反射して、それが彼女の目を捉えた。寸胴のレモンの体型は、早く落下する場所を捜し求めている爆弾に見えた。
彼女は、彼が小脇に抱えた鞄のファスナーを気付かれないように、そっと開いた。くるくるとレモンを手の中で回すと、彼の鞄の中にレモンを一つ、気付かれないように、忍ばせた。
彼女もまた空想した。このレモンが爆弾となって、爆発してしまう様を。彼の鞄の中で。今、自分たち二人しかいない、この自転車の上で。そうやって、この現実が壊れてしまって、レモンイエローに鮮やかに世界が飲み込まれてしまって、時限爆弾が時間を取り戻すなら。もう一度初めて出会った時をやり直して、もしも『僕』ではなくて『私』と言えていたら。
彼の鞄のファスナーを閉じられないままに、彼女は鞄の中に鎮座する鮮やかなレモンを見つめていた。鞄の中で揺れているレモンも、自分を見透かしているように、彼女を見つめている気がした。
急に手持ち無沙汰になってしまった右手がなぜだか悲しくて、それで彼の傍を流れる風が運ぶレモンの甘酸っぱい香りが、鼻の奥深くをくすぐって仕方がないので、彼女は空を見上げるようにツンと上を向いた。二人乗りの自転車の距離は近すぎて、檸檬の香りが、目にしみた。