アンダー・グラス・ラブソング
1「小さな背中」
無機質な灯りが目の前を流れていく。雨に洗われたコンクリートの塊は、より暗く沈んで見えた。遠くに見える山々の暗闇にいつでも押しつぶされそうなこの町。そんな町の中を、命に無関心な静脈のように夜の電車は流れていく。俺はひたすらに意識をドアの窓ガラスの奥底に映る暗闇に向けようとしていた。
それでも、車内の無機質な蛍光灯の灯りは窓ガラスに反射する。反射した光の鏡像は、その窓から見える景色にユーレイみたいに重なった。俺はユーレイたちから逃れるように、必死に窓の外の景色に集中しようとする。それでも、時折、ふと油断した瞬間に窓に映った自分の影と目が合ってしまう。そこではくたびれた目が、救いを求めるように鈍く光っていた。
自分の影から俺は目を逸らす。そして逃げるように視線を車内に向ける。夕方の地方私鉄の普通列車は通勤ラッシュとは無縁で、ところどころに抹茶色の座席が見える。その隙間に俺はあいつの影が見えた気がした。揺れる車内の規則的な音。その中で俺は思い出す。あの小さな背中を見つけ出した、あの時を。
4月のあたま。春休み最後の日、そして俺の高校1年生最後の日。SOS団、ひいては涼宮ハルヒなどという奇天烈極まりないモノと関わってしまったために、俺の高校1年はとんでもないものとなってしまっていた。偉大なる涼宮団長による無軌道無秩序な事件の数々。そして、気がつけばそんなものに慣れてしまっていた俺。おそらく、一生のうちで一番印象的な1年を挙げろと言われたら、迷わずこの1年を挙げるだろう。
その日、市内不思議探索の名の下ありがたい団活を終えて俺は帰路に着いていた。遅刻の罰金と称して、失われた俺の財布の重みを嘆きつつ、その日あった出来事を思い出しながら駅のホームで電車を待っていた。いかにも地方私鉄といわんばかりにほどほどの人手で賑わう夕方のプラットホーム。他の連中は先に来た特急電車に乗って帰った。目的の駅に普通列車しか停まらない俺は、彼らを見送った後、こうして次に電車を待っているわけである。そうしているうちに普通列車が滑り込むように到着した。あいつらと同じく、大半の人は特急に乗るので、俺の乗る普通列車は割合空いている。目の前のドアが開くと同時に中へ乗り込んだ俺は、車内を見渡して座れそうな座席を探していた。そして、その片隅に見覚えのある小さな影を見つけた。
その人物は座席の端に静かに腰掛け、膝にショルダーバッグを載せ小さな文庫本を開いていた。本を読むために丸まった背中は、ただでさえあまり大きくないあいつの身体を寄りいっそう小さく見せた。白いブラウスにタータンチェックのスカート。身体の中央で真っ直ぐに閉じられた脚、そしてその膝の真ん中で開かれている文庫本があいつの几帳面さをよく表していた。文庫本に目を落としているため、表情は確認出来なかったが、俺がこいつの顔を見間違えるはずもなかった。たとえそれがおよそ1年ぶりの再会だとしても。
「よお」
あいつの座席の前のつり革につかまって、短く声を掛けた。あいつ自身は声を掛けられたのが自分だと一瞬わからなかったようで、少し間を置いてから不思議そうに視線を上に向けた。
「あっ」
小さく口を開いて、短く声を上げた。ただでさえよく目立つ大きな目を見開いて、自分の目の前にいる人物の姿に驚いているようだった。
「久しぶりだな、佐々木」
俺はそう言って笑いかけた。目の前の中学時代の知り合いが、その表情を驚愕から微笑みに変えるのにそう時間はかからなかった。
「久しぶりだね」
笑いながらそう俺に挨拶すると、佐々木は文庫本を閉じてそっとそれを鞄の中にしまった。
「あぁ、えーっとそうだな……」
「1年と2ヶ月ぶりだよ、キョン」
「相変わらず細かいな」
俺が小さく簡単の声を上げると、佐々木は喉の奥でくっくっと笑い声を上げた。
「それは褒め言葉なのかい?」
「けなしているつもりはないんだけどな」
なら構わないが、と佐々木は悪戯っぽく唇を歪めた。
「休日の夕方に地方私鉄の普通電車とは、変わったところで会ってしまったね。キミはなんの用向きでこの電車に乗っているんだい?」
「あぁ、ちょっとツレと遊びに行って、ってところかな。そういうお前は?」
電車が揺れた。俺は体勢を少し佐々木のほうへ前のめりにし、ちょうど佐々木を見下ろすような体勢になった。佐々木はよく輝く瞳を真上に向けて、俺の顔を見ていた。
「僕かい? 僕は見てのとおりだよ」
そう言うと、佐々木は自分の鞄をあさり、そこからA4サイズの本を取り出して、俺に見せた。
「予備校、か」
「そう。まったく、うんざりするね。学校の勉強についていくために、休日も電車に乗って遠くの予備校へ通わなくてはならない。勉強のために勉強している気分だ」
「そういえば、おまえは有名な私立の進学校へ進学したんだったな」
「キミが僕のプロフィールを忘却していなくて嬉しいよ。それと、僕の顔を見てちゃんと声を掛けてきてくれたこともね」
俺たちの乗っている電車は最初の駅に止まった。俺と佐々木の降りる駅まではあと3駅ほどだ。車内に少しずつ人が増えていく。
「やっぱ、休日のこの時間は普通電車とはいえ結構混むな。お前はいつもこの時間の電車に乗って予備校に通っているのか?」
「そうだね。大体は」
「大変だな」
佐々木は苦笑いを浮かべながら、ろくなもんじゃないよと両手を軽く挙げた。
「そういうキミ自身は愉快な高校生活をつつがなく満喫できているのかい?」
その佐々木の問いかけに一瞬俺は考え込んだ。楽しい高校生活?
「楽しいかどうかはわからんが、退屈はしていないな」
「それはなにより」
佐々木は満足げにやわらかく唇を結んだ。一年ぶりに会った中学時代の同級生が少し大人びて見えた。化粧っ気のなさが逆に佐々木の整った顔立ちを際立たせていた。
「そういうお前はどうなんだ?」
照れ隠しをするように俺は佐々木に質問を返した。
「え? あぁ、そうだね。まぁ、つつがない毎日を送っているよ。」
一瞬の沈黙の後、佐々木は目を逸らすように答えた。
思えばそのときのこいつの微妙な表情の変化に、その目の奥の感情に気付くことができていたら、また違う結果と俺は出会っていたのかもしれない。もっとも、そのときの俺にはそんなことは知るはずもなかった。
それから俺は佐々木と他愛もない世間話をしていた。俺の高校での体験、他の学校へ移ったクラスメイトのこと。目を輝かせて会話に集中する佐々木の姿に中学時代を思い出していた。あの頃もよくこうやって他愛もない話ばかりをしていた。
突然にブレーキで身体が揺られる感覚。話に夢中になっているうちに降りるべき駅に着いていた。ドアがゆっくりと開いた。
「佐々木、お前もこの駅だよな?」
「あぁ、もちろんだよ」
佐々木は立ち上がってショルダーバックをその肩にかけた。
さぁ行こうか、と佐々木は俺に目で語りかけてドアのほうへ先に歩き出した。
立ち上がったあいつは少し背が伸びたように見えた。
「お前とこの駅前に来るのも久しぶりだな」
改札口に切符を通して、俺たちは駅前に出た。目の前にはバスのロータリー。そして、その奥にはいかにも地方都市らしい商店街が見える。陽はもう随分と傾いていた。
「そうだね。共にあの予備校に通った中学3年生以来か」
佐々木は遠くを眺めるようにあたりを見渡した。この辺りはあの頃と何も変わっていない。商店街のはずれにある寂れたケーキ屋も、予備校帰りに俺がよく漫画を買った本屋も、そして、佐々木を見送ったバス停のベンチも。
「全く、中学3年にタイムスリップしたみたいな気分だ。何も変わっちゃいない。こんな片田舎じゃ、駅前開発なんてのは縁のない話だな」
「そうかい?」
佐々木は不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。さらさらと流れる前髪の間を縫って、夕日がその表情に差し込む。
「僕は何も変わっていなくて心底安心しているんだ。この街も、そしてキミもね」
なんだよそりゃ、と言い返そうとしたが、佐々木はそのまま後で手を組んで身を翻した。タイミングを逃した俺は仕方なしに口を尖らすだけだった。
「僕はここからバスに乗って帰るよ」
そして、佐々木はゆっくりとした足取りでバス停の方へ歩き出した。
「せっかくだから、バスが来るまで一緒に付き合ってやるよ」
そう言うと、俺もその後について行った。せっかく久々に中学時代の知り合いと会えたんだ。もう少しくらい思い出話に花を咲かせてもいいだろう。
と、思った矢先に間がいいのか悪いのか、佐々木の乗るバスがバス停へと入ってきた。
「あっ」
俺は間抜けな声を上げた。
そんな俺を佐々木は愉快そうに振り返った。そして、
「ねぇ、キョン。僕は毎週この日はあの電車に乗って予備校から帰ってくるんだ。だから、もしも今日みたいにあの電車に乗る機会があったらぜひ声を掛けてくれたまえ。僕はいつもあの電車の同じ場所に座っているから」
そうそうあの電車に乗る機会があるとは思えないが、せっかくなので機会があったらそうすることにしよう。
「わかった。そんときゃまた話をしようぜ」
うん、と佐々木は頷いた。その満面の笑みに、俺はこいつってこんな表情もするのかっと今更ながら感心していた。そして、なぜそこまで嬉しそうに笑うのかと不思議に思っていた。
「また会おう。じゃあね」
佐々木は俺に軽く手を振ると、小走りでバスの乗車口に飛び乗った。俺も軽く手を振り返して、バスのドアが閉まるのを見届けた。
携帯の番号でも教えてくれればいいのに、毎週乗る電車の時刻と座席を教えてくる辺りが実に佐々木らしい。そんなことを考えながら、俺は夕日に染まった帰り道を一人歩いていった。
それが俺と佐々木の再会だった。
2「不器用な携帯電話」
俺が佐々木と再び顔を会わすまでに今度は1年と2ヶ月もかからなかった。あの日からちょうど一週間後、例によって俺は市内不思議探索に駆りだされ、またあの日と同じくらいの時間に解放されることと相成っていた。
さっさと帰っていく長門の背中を見送り、じゃあまたねと言ってこちらに微笑みながら去っていく朝比奈さんに軽く手を振った。
「では、僕もそろそろこのへんで失礼します」
「おう、じゃあな」
「たまにはあたしたちよりも先に来なさいよね」
人を指差し、そう言い放って大股でのしのしと歩いていくハルヒの後姿が特急電車のドアに吸い込まれていくのを見届けて、俺は普通電車を待つ人々の列の最後尾に向かった。プラットホームの電光掲示板に表示された列車の運転案内を眺めているうちに、俺は先週の出来事を思い出した。
俺は改札の時計で時間を確認した。この次の普通電車まで、あと20分か。
――僕はいつもあの電車の同じ場所に座っているから
せっかくだ。電車の中一人で話し相手がいないのも寂しいしな。俺は普通列車を待つ列から離れると、なんともなしに空を見上げた。その日は見事な快晴で、風が涼しかった。
相変わらずの週末のプラットホームの姿を眺めながら、電車を待っていた。確か、階段を降りてこの辺りの位置から乗り込んだんだよな。そんなことを思い返しているうちに電車が目の前に止まった。
目の前のドアが開くのとほぼ同時に乗り込んだ。佐々木の姿を探すため辺りを見回そうとした矢先、
「やぁ、キョン」
今度は佐々木の方から声を掛けられた。先週会ったときと同じように、ショルダーバックを膝に置いて、文庫本をその手に携えていた。ただし、あの時と違って文庫本は閉じられていた。
「よお」
俺も短く挨拶を返した。佐々木は隣が空いているよ、とでも言うように自分の隣の空席を右手で軽く叩いた。
俺はそのお言葉に甘えて、佐々木の隣に座った。俺の肩と佐々木の肩が少しだけ触れた。
「前回は1年と2ヶ月もブランクがあったのに、まさかこんなに早く再会することになるとは思わなかったよ」
やわらかい皮肉の色を浮かべて、佐々木は隣に座る俺の顔を覗き込んできた。
「お前がこの電車で待っている、みたいなことを言うからだろ」
「そういえば、そうだったね。それは失敬」
佐々木は身体を揺らしてくっくっと愉快そうな笑い声を上げた。
「じゃあ、キミはわざわざ僕に会うためにこの電車に乗ってくれたのかい?」
「20分ほど駅で時間を潰すはめになったけどな」
「それは嬉しいね」
佐々木はその唇の端を弦月状に吊り上げた。佐々木の唇を見ていた自分に気付き、俺はなぜか目を逸らした。久々に出会ったせいかどうかはわからないが、佐々木には中学時代にはなかった年相応の高校生らしい色気を帯びているように感じた。
その日も前と同じく世間話をして、電車内での時間を過ごした。俺たちはお互いの高校2年生になった感想、新しいクラス、そんなことを話していたように思う。
一人で電車に乗っていると退屈な15分の時間も、人と話をしているとすぐに過ぎてしまう。あっという間に俺たちは降りるべき駅に着いていた。
駅のプラットホームへ降り立ち、俺たちも人の流れに乗って改札口から駅の出口へと向かった。目の前にはバスターミナル。今日もこの間と同じように、ここから俺が佐々木を見送ってさよならだな、そう思っていた矢先のことだった。
「ねえ、キョン。携帯電話って持っているかい?」
唐突に佐々木は丸い瞳を俺に向けて、そう問いかけた。
俺だって一応ありふれた普通の高校2年生だ。自分の携帯電話ぐらい持っている。
「あぁ。なんだ? どっかに電話でもかけたいのか?」
佐々木はあきれるようにため息をついた。
「違うよ。せっかくだからお互いの連絡先を交換しておこうかと思ったんだ」
「なんだ。そういうことか。なら、この間会ったときにでもそう言えばよかったのに。てっきり俺はお前のことだから、携帯を持っていないもんだと思っていたよ」
「お前のことだから、ってキミの中で僕はいったいどういう人間として認識されているのか大いに興味があるね」
そう、聞きなれた悪態をつきながら、佐々木はショルダーバッグから携帯電話を取り出した。佐々木の奴は最新機種だな、と思いながら、俺も自分の携帯を取り出した。
「ほんじゃ、登録するから番号教えてくれ」
そう声を掛けても佐々木から返事はなかなか帰ってこなかった。代わりに、難しい顔をして携帯電話を必死にいじくりまわしていた。
「どうしたんだ?」
「いや、その……ちょっと待って」
などと空返事を返しながら、なおも必死に携帯をいじっていた。その真剣な表情が面白くて、俺は吹き出してしまった。
「なっ、ちょっと。ひどいな」
佐々木は心持ち唇を尖らせて、俺を軽く非難するような視線を向けてきた。
「いや、なんかお前がそうやって必死になっている姿って見たことなかったから。お前、いったい何にそんなに苦戦してるんだ?」
「……自分の携帯番号ってどうやって表示するんだったかな?」
小さな声で佐々木はぼそっとそう呟くように言った。
普段の人一倍なんでもてきぱきこなしている姿しか見ていなかった俺は、そのギャップに思わず腹を抱えて笑い出しそうになるが、佐々木の視線を感じてそれはやめにしておいた。
「知らなかったな。お前が機械音痴だったなんて。貸してみろ。こういうのはたいてい……」
そう言って佐々木から携帯を受け取ると、
「このボタンを押して、0って押すと、ほら」
ディスプレイに表示された佐々木の電話番号を見せてやる。
「ありがとう」
佐々木は恥ずかしげに携帯電話を受け取った。よっぽど恥ずかしかったのか、頬が少し赤くなっていた。
「じゃあ、これが僕の連絡先だ。登録しておいてくれたまえ」
自分の携帯番号も表示できなかったのに、そうかしこまった言葉遣いをされてもな。俺は口元を押さえて笑いながら、ディスプレイに表示されている番号を打ち込んだ。
「よし、これでオーケー。佐々木、なんだったらお前の携帯への登録も俺がやってやろうか?」
しかし、さすがの佐々木もそこまでやってもらうのはプライドが許さなかったらしく
「いや、いいよ。大丈夫。自分で出来る」
そう言って、俺から自分の携帯を取り上げた。
まぁ、人のプライバシーだから、俺が佐々木の携帯をいじくるのはよくないだろう。
「そうか。じゃあ、俺の携帯から着信入れるから、それを登録しといてくれ」
佐々木の出来立てほやほやのアドレスを呼び出し、俺は電話をかけた。佐々木の携帯が短く振動した。
佐々木と携帯番号を交換した日の夜、早速に俺の携帯に電話がかかってきた。
「もしもし」
ディスプレイに表示された佐々木の名前を確認して通話ボタンを押した。
「やぁ、こんばんは。キョン」
「ちゃんと電話帳から電話は掛けられるみたいだな」
「……失礼だな。ちょっと携帯の使い方がわからなかったくらいで、そこまでからかわないでくれ」
「悪い、悪い。んで、どうした? なんか用事か?」
「うん、そうだね。キミに伝えておかなくてはならない用事ができてしまってね」
「ほう、それはなんだ?」
「中学校の同窓会さ」
佐々木にそういわれて、俺は頭の中で中学時代のクラスの様子を思い浮かべていた。結構仲良くしていたのに、卒業以来音沙汰なしって奴がいるな。
「んで?」
「この間須藤から電話があってね。中学校3年時のクラス一同でクラス会をしたがっていた。彼は直接的には言わなかったが、どうやら当時のクラスの女子に未練たらたらの恋心を抱いているようだったね。僕が推察するに、それは岡本さんではないかな。っと、話が逸れてしまったね。それで、クラス会をこの夏にでもどうか、と須藤に質問されてね。僕はいいんじゃないか、と答えておいた。正直、僕にとってはどうでもいいのだけれど、キミはどうだろうと思ってね」
「今年の夏か? いいんじゃないか。参加メンバーの中にはぜひ俺の名前も入れておいてくれ」
「そうは言われても、僕が幹事というわけではないのだがね」
「じゃあ、なんで俺に電話を掛けてきたんだ?」
「須藤に知り合いに軽く声を掛けてみてくれないかと頼まれたのでね。その裏に彼の私的な目的がありそうな気配がするとはいえ、無下に断る理由もなかったしね」
須藤、岡本……いまいち顔がはっきり思い出せない。
「なぁ、岡本ってどんなやつだったっけ?」
「忘れてしまったのかい?ほら、癖っ毛の可愛らしい体操部の」
「悪い、思い出せん。たぶん顔を見れば思い出せると思うのだが」
「全く、キミは冷たい人間だね。一年間同じ教室で過ごしたんだ。クラスメイトの顔を覚えるくらいの記憶の容量は取っておいてくれたまえ」
「冷たい、じゃなくて忘れっぽい、と言ってくれ」
「ならばそういうことにしておこう。そう思うと、そんな忘れっぽいキミがよく僕の顔を覚えていてくれたものだと感心するよ」
「何を言っていやがる。俺にとってお前は忘れようとしてもなかなか忘れられるもんじゃないさ」
何だかんだ言って、中学3年の頃はこいつと一番よくつるんでいたしな。
そして、ほんの少しの沈黙があった後、
「そう言ってもらえると嬉しいね。とりあえず、また何か進展があったら連絡させてもらうよ。じゃあ、おやすみ」
「あぁ、おやすみ」
そうして、その日の俺と佐々木の会話は終わった。
3「月曜日のうわさ話」
物事のきっかけっていうのはいつだってある日突然だ。その日も、それは突然に訪れた。
月曜日。ちょうど佐々木の奴と携帯番号を交換した翌日。俺はいつも通りに坂道ハイキングコースを登り学校へと登校した。
「うぃーす」
クラスメイトたちと軽く挨拶を交わして、ざわつく教室の中、自分の席に向かった。クラス替えがあったとはいえ、1年生のときからほとんどクラスのメンバーは変わっておらず、新しいクラスに慣れるとかそんな心配とは無縁だった。
教室の中の俺の机に鞄を置いて、席に着いた。1年のころからの俺の指定席、ハルヒの前の席だ。なんでかはよくわからないが、俺はこうやってことあるごとに後からハルヒにシャーペンの先で突かれる運命にあるらしい。その日の朝も同じように俺は背中を突かれた。
「なんだよ」
朝の挨拶にシャーペンで背中を突く文化は世界のどこの地域を探したってないぜ。
「ねえ、ちょっと、キョン」
ハルヒの奴は口を尖らせて機嫌悪そうに俺に声を掛けてきた。ブルーマンデー。お前も月曜日は憂鬱なのかい。
「なんだ?」
「ちょっと聞きたいんだけど、あんた昨日あたしたちと別れた後で誰かと会ってた?」
いきなり朝から叩きつけられた予想外の質問に、素っ頓狂な声を上げてしまった。
「なに変な声だしてるのよ」
「いや、っていうか、なんでそんなことを訊くんだ?」
「ちょっと小耳に挟んだのよ」
「いったい誰から?」
「阪中さんから、昨日あんたがバス停の前で誰かと一緒にいるのを見たって」
阪中に見られていたのか、ってそんなことはどうでもいい。しかしまた、なんでわざわざ阪中はそれをよりによってハルヒに報告するかね。
俺はいつぞやかに朝比奈さんの逢瀬をハルヒに詰問された状況を思い出し、軽くため息をついた。
「帰りの電車で中学時代のツレと出会ったんだ。んで、少し昔話に花を咲かせていただけだ」
ふぅーん、とハルヒはわざとらしく鼻を鳴らせてみせた。
お前、明らかになんか納得していないな。
「でも、その同級生って女の子だったらしいじゃない」
「あぁ、そうだけれども」
佐々木のあの言葉遣いを知っていればアレだが、端から見れば普通の女子高生だからな。
「しかも、かなりかわいい娘だったって」
「まぁ、客観的に見れば顔立ちは整っているからな」
確かに佐々木が美少女に入らないというのなら、この日本全国から美少女というものは絶滅危惧種に指定されるべきだね。
「仲良かったの?」
「中学3年の最後の1年間だけの付き合いだが、まぁ話は合う奴だったな」
「なんか楽しそうにお互いの携帯をいじっていたらしいじゃない」
そこまで見ていたのか、阪中。というか、そこまで細かくハルヒに報告しなくてもいいだろう。
窓の方へ顔を向けながら、なにやらしつこくハルヒは食い下がって来た。
「せっかくだからお互いの連絡先を交換したんだよ。なんでも、近いうちにクラス会があるとかでな」
「ふぅーん。まっ、あたしには関係ないけど」
相変わらず不機嫌そうにハルヒは息を吐いた。
関係ないって言うなら、そんなに突っ込んでくるな。しかもよく考えてみれば、なんで俺が中学時代の同級生とあっていたことに後ろめたさを感じなければならないのだ。俺が旧友と親交を暖めていようと、それをお前にとやかく言われる筋合いはない。
そう言い返してやろうと口を開きかけたとき、ちょうど担任の岡部が教室に入ってきた。俺は反論する機会を逸してしまった。
4「桜、サクラ、小春日和」
それから数日たったある日。桜が満開の季節。気温はほどほどに暖かく、油断をすれば睡魔にすぐに襲われてしまいそうな、気持ちのいい小春日和。その日はちょうど新入生への文化系クラブ紹介の日だった。
例によって、ハルヒがそんなイベントをみすみすスルーするはずもなく、なぜか文芸部の紹介として俺たちも中庭にブースを構えていた。
肝心の首謀者ハルヒはどこをうろついているのか、俺たちをほっといて、朝比奈さんも連れ出してどっかに行ってしまった。
桜の花びらが春一番に吹かれていた。こんな日は部活紹介じゃなくて、花見でもしたほうがいいね。俺は椅子に浅く腰掛けて、真上の桜の樹を眺めていた。
「最近涼宮さんの様子はどうですか?」
同じく、俺の隣の椅子に座った古泉が唐突に話を振ってきた。
「様子もへったくれも、見てのとおり元気いっぱいだ。こっちがうんざりするくらいにな」
「そうですか……」
そして、古泉はため息をつくように黙り込んだ。
「なんか、お疲れのご様子だな。春眠暁を覚えずで、寝たりないのか?」
「寝たりない、のは事実ですね。ただ、それは春のせいでもなんでもなく、そう、深夜のアルバイトのせいですね」
アルバイト?ちょうど1年前に古泉に連れて行かれたあの場所を思い出す。
「また、あのイカレ空間が発生しているっていうのか?」
「ええ、そのとおりです。」
古泉は落ちてきた桜の花びらをつまんで、それを顔の前で眺めていた。
「ちょうど、彼女が中学生のころと同じくらいの発生頻度ですね。ここ最近閉鎖空間の発生が収まっていたせいでなまっていた身体には少々堪えますよ」
そりゃ、またご苦労さん。まぁ、体を壊さない程度にがんばってくれ。
「それを踏まえたうえでもう一度お聞きします。涼宮さんの様子はどうですか?」
古泉は手に持った桜の花びらをそっと地面に向かって離した。
「どうもこうも変わりなくだ」
別に俺はハルヒの専門家というわけじゃない。あいつの微妙な様子の変化なんか気付けるか。それに俺の知る限りであいつの様子に変化なんてものは認められなかった。
「閉鎖空間発生の激増はちょうど今週の月曜日からです。なにかお心当たりは?」
「ない」
月曜日っていったってなぁ……
見つかるはずのない失くし物を探しに行かされたような気分で記憶をたどった俺は、すこし引っかかるものに気がついた。
「あっ」
「思い出されましたか?」
「お前、知っていて訊いていただろう」
「あなたに思い出していただかないと、話が進まないのでね」
そして古泉は近くの桜の樹を見上げた。そこには見事に満開の桜があった。
「で、何が言いたい?」
「彼女のストレスの原因ですよ。実は今回の閉鎖空間は今までと違って、神人はいるにはいるのですが、それがまたおとなしい。こう、出てきても手持ち無沙汰で何をしていいかわからないように立ち尽くして、たまに思い出したように建物を小突くだけですね。自分がどうしていいかわからないように」
「どういう意味だよ」
「今までの単純なフラストレーションとは違う、別の精神的なストレスということです」
「そうかい。けど、なんで俺が中学時代の同級生と会っていただけであいつがストレスを感じなきゃならんのだ?」
古泉はあきれ返るようにため息をつくと、やっとこちらのほうを向いた。
なんか露骨にバカにされているようで、腹が立つ。
「本当におわかりでない?」
「わからん」
珍獣を見るような目で人を見るな。
「わかりました。ならば、そうですね。簡単な例として、もしもあなたが僕や誰かから朝比奈さんが誰かあなたの知らない男の人と親しげに話をしていたと聞いたら、どう思います?」
どう思うもくそも、
「よくわからんが、まぁ、あんましいい気分はしないな」
朝比奈さんに親しげに話しかける顔のない男を想像する。なんとなく腹立たしい。
「ですよね。そして、その相手がまたハンサムな美男子で、しかもお互いの携帯電話を開いて番号交換をしていたとなれば」
確かに不快感に追い討ちを掛ける事実だ。でも、朝比奈さんにだって俺の知らない男友達くらいはいるだろうよ。そんなんでいちいち不快感を露わにしていたらきりがない。
「でも、それはただの友達だ」
「ええ。朝比奈さんからそう言われたら納得するでしょうね。表面上は」
何が言いたいんだ、お前は。
「頭で納得しても、漠然とした不安みたいなのは消えないんじゃないですか。話を聞いただけだから、相手がどんな顔をしてるのかもわからない。想像の中でその美男子はどんどん美化されていき、友達だと思っているのは朝比奈さんだけで、相手は実は……」
「もういい。そんなに想像力豊かじゃないんでね、俺は」
「じゃあ、あなたではなく想像力の豊かな方だったらそうなることもある、ということでいいですね」
「ハルヒが例の話で悶々としてる、ってか。馬鹿馬鹿しい」
「そうでもないですよ」
古泉は俺のほうへ身を乗り出してきた。
ええい、もう暑苦しい。
「ちょうどあなたが旧友と再会なされたまさにその翌日の、しかも朝一番に阪中さんは涼宮さんにその事をお話されています」
「それがどうしたっていうんだ」
今更ながらに阪中を恨む気持ちが湧き上がってきた。
「阪中さんの目には、それは涼宮さんに一刻も早く伝えるべき緊急事態のように映ったのでしょう。そう考えると、必然的に彼女がどんな語り口で涼宮さんに話をしたのかも簡単に想像できます」
だから、俺は想像力豊かなほうではないと言っているだろう。
「俺はあいつに友達と会っただけだと言った。それ以上どうしろっていうんだ」
「そうですね。いい方法がないわけではないのですが……」
そうして古泉が何かをしゃべろうとした矢先
「キョンー、古泉くん!」
ハルヒの奴が朝比奈さんを引き連れて戻ってきた。
「ちょっとあんたたちまじめに勧誘してるの?ちゃんとめぼしい逸材はゲットしないと!」
あぁ、もううるさいな。こんな昼寝に最適の小春日和に、なんで古泉と暑苦しい話をしてお前の説教を聞かねばならんのだ。
そう思いながら、俺はかったるさ全開でハルヒの方を向いた。
「って、お前。なんて格好してるんだ?」
そして開口一番、出た言葉はそれだった。
桜の花びら舞う中、春の日差しを浴びたハルヒのいでたちは、腰までスリットの入ったチャイナドレス。しかも、身体に密着するように、その均整の取れたボディラインを強調していた。
「なによ、目立っていいじゃないの」
目立つ目立たないの問題じゃない。そんな扇情的な格好で校内を歩き回ることが問題なんだ。
そう説教しようと立ち上がりかけて、そう言えばこいつって1年の最初にバニーガール姿でビラを配った前科があったよなと思い出し、俺の説得が無意味に終わるであろう徒労感にやるまえから襲われていた。
でも仕方ない。俺以外にこいつを注意する人間はいないからな。
「そんな露出度の高い格好で歩き回るな。一応新入生の前なんだぞ」
また、光の速さで新入生に俺もこいつのお仲間と認識されてしまうのだろうな。
「あたしなりにちゃんと気を使っているわよ。だからバニーじゃなくてチャイナにしたんじゃない」
五十歩百歩ってことわざ知っているかい?
「とにもかくにも、それもそれで扇情的過ぎる。変な気を起こす奴がいたらどうするんだ?」
それから、ハルヒはむくれて腰に手を当ててアヒルみたいに口を尖らせていたが、
「仕方ないわね。あんたが、そこまでお願いだからどーっしてもやめて欲しいって泣いて頼むなら、聞き入れてあげないこともないわよ」
と、落ち着きなく右足のつま先で地面をほじくりながらのたもうた。
「いや別にそこまでは……」
と言い終らないかのうちにハルヒの表情は一気に不機嫌マックスまで昇りつめ
「じゃあ、いちいち干渉してくんな!」
と眉間にしわを寄せ、口を尖らせ、大声で叫ぶと、大股でどこへともなく歩き去った。
後で古泉のため息が聞こえた。
「なんだよ、俺が悪いってのか?」
古泉のほうを振り返って、俺はふてくされて問いかけた。
「今のはあなたが悪い」
そこで、なぜか今の今まで置物のように椅子に座って本を読んでいた長門が、そうばっさりと断言した。
「そう、なのか?」
「そう」
あっさりと肯定すると、また長門は物言わぬ人形と化し、本に目を落とした。
5「親友」
例の古泉との会話の一件以来、俺はそれなりにハルヒを注意深く観察していたつもりだった。しかし、それでも俺にはあいつは普段どおりに振舞っているようにしか見えず、古泉が危惧しているような事態の片鱗を感じ取ることは出来なかった。
あれからハルヒは佐々木のことを尋ねてくることはなかったし、俺も意識的にその話題は避けていた。ときおり阪中の視線を感じることがあったが、取り立てて気にせず、何事もなかったかのように振舞っていた。それが一番いい方法だと思っていた。そのまま、この一件が風化してしまえばいいと。しかし、その期待はまた意外な形で裏切られてしまった。
土曜日、朝8時。妹にたたき起こされた俺は、軽くトーストを胃に押し込み出かける準備をしていた。用事はもちろんSOS団恒例行事の不思議探索。最近は、あちこちに電車に乗って遠出をする機会が多かったが、ハルヒの「原点に返って、もう一度あの駅前で!」発言によりその日は北口の駅に集合する段取りになっていた。
玄関を開けると外は快晴。サイクリングにはいい天気だった。
俺は自転車を引っ張り出し、それにまたがろうとした。ただ、なぜかその日だけは、視線が自転車の荷台で一瞬止まってしまった。そして、中学時代の光景が頭の中でフラッシュバックしていた。
自転車を漕いで駅前の駐輪場に入ったのは集合時間ぎりぎりだった。駅前の駐輪場は休日の朝だっていうのに、自転車であふれかえっていた。当然、出口近くのグッドポジションは全て占有されており、俺はこの自転車のジャングルの奥地へと進まなければならなかった。
少し寝坊ぎみだったかな、と反省しながら、駐輪場所を探して自転車を押して、空いているスペースを探していた。その時だった
「やぁ、キョン」
人気のない駐輪場でいきなり後から声を掛けられた俺は慌てて振り向いた。
「……なんだ、佐々木か」
「なんだ、とは随分なご挨拶だね」
皮肉っぽい笑みを浮かべながら、後ろで佐々木がショルダーバックを肩にかけて、自転車の脇に立っていた。
「また、変なところで会うな」
「そうだね。僕もキミとの邂逅は予想の範囲外だ」
くっくっ、と佐々木は形容しがたい笑い声を上げた。
「今日もまた、お前は予備校か?」
「あぁ、そうだよ」
「でも、お前普段はこの駅は使っていないじゃないか?」
4月の頭の佐々木との再会を思い出す。
「確かに、家からはこっちの駅のほうが少し遠いけれども、この駅には特急電車に停車するから学校がある期間はここで月極めの契約をして、駅まで自転車で通う方が便がいいのさ」
「なるほど、つまり自転車漕いでここまで来るほうが、バス代が浮くってことだな」
「その通りさ」
「でも、お前学校が始まってからも、向こうの駅を使って予備校に通っていなかったか?」
俺はあの佐々木と携帯番号を交換した日を思い出していた。思えばあのときに阪中に目撃さえされなければ事態はややこしくならなかったのに。
「え、あぁ、えーと、それは、うん、その日は自転車がパンクしていたんだ」
佐々木はなぜか少ししどろもどろになりながら、その理由を俺に告げた。
「そんなことより、キミはこの駅にいったい何の用向きだい?」
佐々木のその問いかけに俺は当初の目的を思い出した。そして、今が時間ギリギリであることも。
「やべ。いや、ちょっと高校のツレと駅前で待ち合わせているんだが、そいつが時間にうるさい奴でな。こんなとこで立ち話をしていたら、時間ギリギリだ」
佐々木は「じゃあ、急いだほうがいいね」と、自転車を自分の駐輪スペースにさっと押し込んだ。俺も慌てて空いているスペースを探し、そこに自転車を突っ込んだ。それから小走りに事務所で駐輪代150円を支払った。その間、佐々木はショルダーバックを抱えて、俺の後に付いていた。
「よし、じゃあ行くか」
「うん」
佐々木は短く頷くと、先を歩く俺のちょうど半歩後ろで付いて来た。
「キミの言うツレというのは、この間話してくれた人たちかい?」
あれ、俺は佐々木にハルヒたちの話をしたっけな?
「俺あいつらの話をお前にしたか?」
「うん、それは確かだ。僕の記憶にはキミが話してくれた破天荒な高校生活の話がしっかりと刻まれているよ」
「そうだったけか」
「うん、そうだよ」
佐々木は俺の隣まで、足を速めて、柔らかい微笑みを浮かべながら俺を見つめた。
「確かに、今日会うのはそいつらだ。駅前で待っている、はず」
そう思いながら喫茶店がまた俺のおごりになることを覚悟していた。
「キミの友達となれば、僕の友達も同然だ。ぜひそのご尊顔を拝ませていただきたいね」
別に、ご尊顔なんていうほどの連中でもないと思うが、まぁ、顔を合わせたいならそれでかまわないだろう。というよりも、むしろ佐々木をハルヒにちゃんと紹介してやるほうが余計な誤解が解けていいかもしれないな。
「あぁ、かまわないぜ。一人お前と話が合いそうな奴もいるしな」
古泉と佐々木は俺の人生でであった理屈っぽい奴のツートップだ。
「話が合いそう? それは涼宮さんのことかい?」
「いや、違う。古泉って奴だ」
そう答えた後、俺は心に引っかかるものを感じていた。
佐々木に涼宮って名前を言ったっけ?
「遅い!」
案の定俺より先に到着していたハルヒの怒声に出迎えられた。
ハルヒは腕を組んで仁王立ちで俺を見下ろしていた。
「あんたねえ、春だからってちょっと気が緩んでるんじゃない? あんたが遅れる分だけ、わたしたちの貴重な時間が浪費されてしまうのよ。もっと1分1秒を大切にしなさい。もっとも……」
と、そこまで立て板に水で述べたところでハルヒの表情が得たいの知れない何かを発見してしまった南極観測隊みたいになった。
「それ、誰?」
ハルヒの視線の先には俺にくっついてきた佐々木がいた。
「あぁ、こいつはこないだ偶然電車で会った俺の中学時代の……」
「親友」
俺が紹介を待たずして佐々木自身が勝手に答えを出した。
「はっ?」
ハルヒの奴がうまいのかまずいのか判別できない異国の料理を食べたみたいな表情をしていた。佐々木はにこやかにハルヒに会釈をすると
「といっても、中学時代の、それも3年のときだけだけれどもね。そのせいか、薄情なことに1年間も音沙汰なしだった。これはお互い様だけどね。でもね、1年ぶりの再会だったとしても、ほとんど挨拶抜きに会話を始められる知り合いというのは、充分親友に値すると思うんだよ。僕にとってはキョン、キミがそうなのさ」
そうなのさ、って俺に言われてもだな。確かに、お前とつるむ回数や時間は中学3年のときは誰よりも多かったと思うが……
なんとなく居心地が悪いのはなぜだ? 確かに、俺はハルヒの前で佐々木が俺との関係を友達と言ってくれることを期待して、連れてきたのは事実だ。そして、佐々木の解答もその条件を満たしているはずだ。何も問題はない。何も問題はないのだが、何も解決していない気がするのはなぜだ。
と俺が目を白黒させているといつの間にか、佐々木は半歩前へ進み、ハルヒに向かって右手を差し出していた。握手を求めるように。
「佐々木です。あなたが涼宮さんですね。お名前はかねがね」
ハルヒの瞳がちらりと俺のほうを向いた。俺はこぼれたジュースを慌てて拭き取るように、
「いや、普通に俺の高校生活の話をしただけだ。それだけだ」
しかし、ここにおいてもなお、俺は自分が佐々木にハルヒの名前を言った記憶が思い出せないことが引っかかっていた。
佐々木にハルヒの名前を言った覚えはないはずなんだが――
「この子があんたの中学時代の知り合いって人?」
ハルヒが横目で俺に視線を送ってきた。同じように、佐々木も俺の顔へ視線を向けた。
なぜだろうか。二人の視線を同時に受けて俺はなんとも言えない居心地の悪さを感じ、大して暑くもないのに額に汗を浮かべていた。
「あぁ、そうだ」
「ふぅん」
素っ気無く、そう返すとハルヒは佐々木の右手を握り
「よろしく」
と短く言った。
「自己紹介の必要はなさそうね」
ハルヒは佐々木の瞳を見つめたまま、意図的な無表情でそう言った。
「そうですね」
ハルヒと対照的に佐々木は顔中に微笑みを浮かべて、そう答えた。
「そちらの方々は?」
佐々木はゆっくりと手を離すと、視線をハルヒの後に控えるお三方に向けた。
「あぁ、そっちのかわいいのがみくるちゃんで、あっちのセーラー服が有希。で、こっちが古泉くん」
団員紹介は団長の仕事だと思ったのか、矢継ぎ早にハルヒは紹介を行った。
こんな適当な紹介でいいのか、と思い、俺がもう一度ちゃんと全員を紹介しようかと思ったが、ハルヒの手前それは遠慮しておいた。
朝比奈さんと長門と古泉は三者三様の様子でハルヒの紹介に応えていた。朝比奈さんはすこしおどおどしながら「は、はじめまして」、古泉は慇懃に佐々木に向かって礼をしてみせた。長門は相変わらずの無表情のまま、ただ立っていた。
「はじめまして」
佐々木は三人の顔をそれぞれ面白そうに眺めながらそう挨拶した。
「涼宮さん、キョンのことをよろしく頼みます。どうせ彼は高校でもせっつかないと勉強や課外活動に力を入れたりしていないんでしょ? 彼のご母堂の堪忍袋の緒が切れる前になんとかしないと、中学時代同様、放課後に予備校通いを強いられることになるでしょうね。たぶん、この1学期、夏休みまでが限度ね」
「え、あ、うん」
ハルヒは返答ともうめき声ともつかない反応をしていた。
というか、佐々木よ、お前は俺の母親か姉か世話好きのヨメか? 言わなくてもいいような、余計なおせっかいを。
「なぁ、お前こんなところで時間潰していていいのか? 予備校へ行くんだろ?」
どこかいたたまれなくなった俺は佐々木にそう声をかけた。
佐々木はくるっと俺のほうへ振り向くと、しばし俺の表情を見つめ
「そうだね。もうそろそろ電車に乗らないと遅刻してしまうかもしれない」
じゃあ、と俺がいいかけたとき
「あぁ、そうそう。キョン、この間のクラス会の件なのだが」
「ん、あぁ」
また唐突に佐々木がクラス会の話を振ってきた。
「また、須藤から連絡があってね。彼はどうやらキミを北高担当の窓口にしたいみたいだったよ。なので、今度一度彼に連絡してあげてくれたまえ」
「今度須藤に連絡しろって言われてもな」
俺を北高担当にしたいんだったら、なんで直接俺じゃなくてわざわざ佐々木に言うんだ?
「ひょっとしたら須藤が好きなのは岡本じゃなくて、お前なんじゃないのか?」
俺は少し冗談めかして佐々木にそう言ってやった。
「それはないね」
佐々木は笑うこともなく、無下にあっさりと否定した。
「僕は誰かに好かれるようなことを何もしてない。誰かに好意を振舞うこともだ。それは、キョン、キミが一番よくわかるだろう?」
「いや、わからんが」
「そうかい? なら、そういうことでいいよ」
佐々木はどこか皮肉めいた笑みを浮かべながらこの話の流れをあっさりと切った。
「じゃあね」
そして、ハルヒや朝比奈さんたちにに軽く会釈すると、俺たちの横を通り抜けて駅の改札口へと吸い込まれていった。
「あれがあんたの友達?」
佐々木の後姿を目線で追ったままハルヒは、どうでもよさげにそう言い放った。
「あぁ。そうだが」
「ちょっと風変わりね」
お前が人のことを言うかね?
「まぁ、いいわ。さっさと行きましょ。キョン、今日はあんたの奢りなんだからね」
そしてハルヒは他の3人にも、声を掛けいつもの喫茶店へ向かうこととなった。
心の奥底で引っかかるものを感じつつも、それを取り立てて俺は気に留めはしなかった。暖かい水とつめたい水がちょうどぶつかる狭間のような妙な違和感はあったけれども、別に気に留めるほどのことでもない、そう思っていた。
6「憂鬱な彼女」
俺はあれからも、たまに佐々木と顔を会わしていた。日曜日、なぜかあいつは言ったとおりに、いつも同じ普通電車の同じ場所に座り続けていた。しかし、そこでお互いに短く世間話をする以外には俺たちには接点らしい接点はなかった。結局、あの日以降佐々木から携帯に電話が掛かってくることはなかったし、俺自身も掛けることはなかった。ただ、たまに顔を会わすだけの旧友。俺たちはそれ以上でも、それ以下でもなかった。
しかし、5月半ば、ちょうどゴールデンウィークの休みボケが直りかけた頃に、俺の頭を一発で目覚めさせる転機は突然に訪れた。
「ねぇ、キョン。こんなこと聞いてもいいかな?」
昼休み、共に弁当を囲んでいた国木田が唐突にそう切り出した。
俺は箸を休めて国木田の表情を伺った。相変わらずのなんとも考えの読みにくい柔和な笑みを浮かべていた。
「なんだ?」
「最近、佐々木さんと会った?」
唐突に繰り出された予想外の質問に、右の頬の筋肉が硬直したのがわかった。そして、反射的にハルヒの方を振り返った。幸いなことに、あいつの姿は教室にはなかった。
改めて国木田のほうを向きなおし、逆に聞き返した。
「なんで、また佐々木の話が出てくるんだ?」
「うん。この間、予備校の模試を受けに行ってね。そこで彼女の姿を見かけたんだ。離れていたから声は掛けなかったけど、あれは間違いなく彼女だったな」
「なんだ、なんだ。その佐々木ってのはキョンが中学時代よろしくやっていた女か?」
もう一人弁当を囲んできた谷口が口を挟んできた。身を乗り出して、噂話に食いつく近所のおばちゃんみたいな目で国木田に詰め寄った。
「そんなんじゃない」
俺は国木田が何か言う前に否定した。
「なんだよ、面白くねーな」
谷口はいかにもつまらなさそうに天を仰ぐと、すぐに気を取り直し、
「で、そいつはかわいいのか? なぁ?」
厄介なやつにしょうもない話を聞かれた、そう思って俺は谷口に聞こえるようにわざとらしく大きなため息をついてやった。しかし、谷口はそんなことは全く意に介さず、なおも国木田に詰め寄った。
「可愛らしい娘だよ。ただ、ちょっと変わっていたな。うん、かなり変わっていた」
その変わっていた、という一言が出た瞬間に谷口から露骨に興味の色が引いていくのが見えた。
「なんだよ。もう、俺は変な女はこりごりだっての」
お前の意見なんて知らん。というか、そこまで露骨に態度を変えるんじゃない。
「涼宮といい、そいつといい、つくづくお前って変わった女と縁があるんだな」
谷口は椅子の上で大きく背を逸らすと、あきれ返るように俺にそう言った。
まぁ、事実である以上否定はしないがな。
「それはそうと、佐々木がどうかしたのか?」
「いや、最近彼女と連絡を取ったりしてるのかと思ってさ。キミは彼女と仲がよかったからね」
ここ最近、俺の身の回りで佐々木の話題が非常に多い。春の佐々木祭りでも開催されているのか。
「たまに電車で顔を会わす、それくらいだ」
「彼女何か言っていなかった? 学校のこととか」
国木田の物言いが少し引っかかったが、俺は特に気には留めなかった。
「勉強が大変でついていくのがやっとだ、みたいなことは言っていたな」
谷口が「うへぇ、そりゃきついな」と舌を出してみせた。
「それだけかい?」
「それだけだが。他になんかあるのか?」
国木田は箸で弁当箱の淵を2,3度叩いた後、しばし沈黙し
「こんなこと言っていいのかわからないんだけれども」
そして、また一呼吸置いた。俺と谷口が怪訝そうな顔で国木田の顔を覗き込んでいた。
「彼女、いじめに遭っているらしいんだ」
「なっ」
アホみたいに口を開けてそう言ったきり、俺はしばらく次の言葉が出てこなかった。
国木田の言葉を何度も頭の中で咀嚼したが、なかなか飲み込めなかった。
予想外の話の展開に谷口まで箸を止めて国木田をぽかーんと眺めていた。
「いったい、どういうことだ?」
俺はやっとこさ声を絞り出した。自分でもはっきりとわかるくらいに心臓の鼓動が速くなっていた。
「僕の通っている予備校に彼女と同じ高校の人がいてね。この間、彼と出身中学の話をしたときに佐々木さんのことを聞いてみたんだ。僕の同級生がキミの高校に通っているよってね」
「そいつからの情報か?」
「うん。あそこはほとんど男子だろう? 彼女みたいに、意識的に変な部分を演じて自分を型に閉じ込めてたんじゃ息苦しいだろうな、って心配してたんだけどね」
俺の記憶の中の佐々木の姿を再生していた。
あいつは確かに積極的に人と親しくなろうとはしないタイプの人間だった。どっちかっていうとクラスでも目立たないポジションを好むタイプだ。でも、あの言葉遣いを除いては、あいつ自身は俺なんかよりもずっとまともな人間だ。誰かに嫌われるとも思えないし、誰かと対立するとも思えない。
「いじめっていってもそんなにきついものじゃないらしい。どっちかというと、孤立と軽い嫌がらせっていうところかな。彼から話を聞く限りでは」
「なんで、そんなことになったんだ? 俺には信じられないんだが」
国木田は少し話しづらそうに唇を歪めた。しかし、すぐに気を取り直し
「くだらない理由だよ。彼女は可愛らしい容姿をしているだろう? だから、1年生のときからそれはそれは告白を受けたらしい。でも、彼女自身はそれを全てことごとく断ってきたんだってさ」
「涼宮の逆バージョンだな」
谷口が短く相槌を入れた。
「で?」
俺はそれを無視して、話の続きを求めた。
「それでね、えーっと、彼女のいる学年の女の子のボスみたいな子が好きな男子からも告白されちゃったんだってさ。で、それをまたあっさり断ったと。で、どうやらそれがその子の逆鱗に触れてしまったらしくて、学年の女の子から無視されるようになったんだって」
「逆恨みもいいとこじゃねえか」
「女の色恋沙汰なんてそんなもんだって。醜いねえ」
わかっているのか、わかっていないのか谷口が箸を開いたり閉じたりしながら、知ったかぶりの相槌を打った。
「で、結局男子からも敬遠され、女子からは無視され、彼女は学校で孤立してしまったらしいよ。あと、女子からはたまに物を隠されたりとかの嫌がらせを受けているらしい。進学校だから、こう激しいいじめっていのはないけど、陰湿だね」
佐々木がいじめ? 孤立? 嫌がらせ?
俺の頭の中でキーワードが回っていた。
なぜ、なんで?
最近、会ったときの佐々木の顔を必死に思い出そうとしていた。何かおかしなところはなかったか?
「それも涼宮と一緒だな。もっともあいつは孤立はしていたけど、嫌がらせはされちゃいなかったけどな。おっかねえから」
谷口の奴がどうでもよさげに弁当をつついていた。その投げっぱなしの無責任っぷりに俺は谷口を睨んだ。
「なんだよ」
谷口が不機嫌そうに俺を睨み返した。
「まぁまぁ」
国木田がなんとも形容しがたい笑みを浮かべて間に入った。国木田は俺と谷口を両手で制しつつ
「僕が昼飯時にそんな話をしたのが悪かったんだ。ごめん」
と謝った。
「世の中、お前みたいにほいほい変わった人間を受け入れられるほどキャパシティの広い人間なんてのはそうそういないんだよ」
少し大げさに谷口は両手を挙げた。そして、俺のむっとした顔に一瞥をくれると
「そんなに気になるなら、いっぺんデートでもして遊んでやれ。こんなところで俺を睨みつけているよりよっぽどマシだぜ?」
谷口の奴は両手を頭の後で組んで校庭のほうを眺めながら、変な提案をした。
「――」
何か言い返してやろうとした瞬間、後の席に人の座る気配がした。
涼宮ハルヒが戻ってきていた。
ハルヒの前でこの話は出来ない、なぜかそう思った俺はそれ以上その話題には触れず、ただひたすらに弁当の咀嚼に励むことにした。
7「らしくもない」
その日は午後の授業にも全く身が入らなかった。もともと、真面目に授業を聞く性質の人間ではないが、その日は余計にそうだった。国木田の言葉が頭の中でいつまでも繰り返されていた。心の中にウィルスをまかれたように、何か黒いものが自分の胸を埋め尽くしていくような気がしていた。
「ねえ、キョン」
授業中だというのに、ハルヒが俺の背中を突いてきた。
思えば、こいつが最初にSOS団なんてものを思いついたときも授業中で、その時も授業中だろうとお構いなしだったな。
「なんだ、ハルヒ」
一応前を向いたまま、ハルヒに応えた。
「なんかあったの?」
「なんか、ってなんだ?」
窓の外では体育でサッカーをやっているらしく、時折高校生らしい歓声が聞こえた。ボスッ、と鈍いボールをける音。遠い世界の出来事のように聞こえた。
「あんたちょっと様子が変よ。ただでさえ普段ボーっとしてるのに、今日はまさに心ここに在らずって感じ」
誰が普段からボーっとしてるって言うんだ、普段ならそんな突込みを返していたところだが、今日はそんな気分にはならなかった。
ハルヒの声は阪中のところの犬が病気にかかったときみたいな声色だった。
「なんでもない、ただの……五月病だ」
今度は俺の頭の中で谷口の言葉がこだましていた。
――涼宮と同じじゃねえか
ハルヒと佐々木は同じ、か。
後を振り返ってハルヒの顔を見た。あいつは怪訝そうな顔でこちらを見返してきた。そこに表面上の不機嫌なメッキは見えても、その下の本質的な表情はまた違うはず。
今のハルヒは間違いなく、孤独じゃない。それなら断言してやれる。今はこいつにはクラスの中に俺以外にも会話する奴がいる。なにより俺たちSOS団がいる。そして、少なくとも俺がこいつと一緒にいる間は、ハルヒは一人ぼっちなんかじゃない。
じゃあ、佐々木は?
放課後、学校からの帰り道を一人で歩いていた。午後3時過ぎ、まだ太陽は高い。そんな時間に帰るのは久しぶりだった。
ハルヒには「ちょっと気分が悪いから、先に帰る」と言っておいた。珍しく、あいつは文句をたれることもなく、ただ「さっさとシャキっとしなさいよ」と言うだけだった。
あいつらと関わってから、帰りはいつもSOS団のメンバーと一緒だったから、一人での下校は本当に久しぶりだった。この時間だと、帰宅部の連中がこぞって帰り道を歩いているため、人通りは普段より賑やかだ。もっとも、人が多いだけで俺には話し相手すらいなかったが。
家の玄関を開けると、ちょうど友達の家に遊びに行こうとしている妹と鉢合わせした。
「あれ、キョンくん、もう帰ってきたの?」
不思議そうな顔で俺を見つめる妹に、ただ短く「あぁ」とだけ返事すると、俺は自分の部屋へ向かった。妹の奴はしばらく俺の背中を見ていたが、階段を上りきると同時に玄関のドアの開く音がした。
とりあえずベッドに倒れこんだ。他に何もやる気がしなかった。右手を額に当てて、大の字で天井を眺めていた。
佐々木がいじめに遭っている。だからといって、俺に何が出来る? 俺の前ではあいつは普通に振舞っていた。中学時代と何も変わらずに。
「くそっ」
そう呟いて、俺はポケットから財布と携帯電話を取り出し、それをベッドの上に投げ捨てた。そして壁の方へ寝返りをうったまま、ため息をついた。
何をどうしていいのかがわからない。国木田の言ったことは本当なのか。それとも、何が起こっても飄々としているあいつに取り付いたただのデマなのか。頭の中でそれは気にしすぎじゃないのか、と必死に自分の説得を試みても、到底それは俺を納得させることは出来なかった。
わざとらしく派手に寝返りをうってやると右手に硬いものが当たる感触がした。
……携帯電話?
俺は投げ捨てた携帯電話の方へ身体を向けると、それを手に取った。その中には、あの日交換した佐々木の携帯番号があった。
携帯を開いて、佐々木の番号をディスプレイに表示した。しかし、通話ボタンを押すことは出来なかった。
電話を掛けて俺はなんて言うんだ? なんて言葉を掛けるんだ? 何を言うつもり、何を聞くつもり?
頭の中で、谷口のデートでもすればいい発言を思い出した時点で携帯を手放した。
そういえば、あれから佐々木から電話が掛かってくることはなかったな。まぁ、あいつは携帯には慣れていないみたいだったし。
……携帯に慣れていなかった?
佐々木の携帯に関する記憶を慌てて頭の奥から引き戻した。あいつが携帯の番号を教えてくれたのは2回目にあった時、それであいつは番号交換に全く慣れていなかった。普段のあいつの器用さや頭の回転の速さを考えると、それはなかなかにありえない話だ。もっと可能性の高い説明としては、あいつはほとんど番号交換なんてやったことがなかった。もしくは、あの日俺と会う寸前に、最初に電車で再会したときからその1週間の間に、新規契約した――
俺は携帯電話の通話ボタンを押した。ディスプレイには佐々木のアドレス。思い過ごしかもしれない。けれども、もしも俺が佐々木とこうして繋がっている数少ない人間の一人だとしたら――
数回のコールの後、電話は繋がった。
8「日曜日の音」
「やぁ、キョン」
日曜日、駅前、午前10時。俺は佐々木との待ち合わせ場所に来ていた。
白のワンピースを着た佐々木が両手にバスケットを持って、俺に微笑みかけていた。
俺は駅前のありがちな噴水の脇に立っているこらまたありがちな時計で時間を確認した。
「お前、約束は10時半だろ? 早すぎだ」
「それはキミも同じことだよ」
5月の終わり、日曜日。俺と佐々木の初めてのデートだった。
あの日、数回のコール音の後、俺はまさにどうかしていたと言えるだろう。
今まで散々語り合ってきた親友に対しての隠しきれないぎこちなさ。携帯を持つ手は震えていた。
「もしもし、キョンかい? どうしたんだい?」
電話口で柔らかい佐々木の声が聞こえた。少しだけ呼吸が苦しかった。そして強引に腹を押し込むようにして、俺が吐き出した言葉は
「なぁ、佐々木。今度の日曜、どっか遊びに行かないか?」
もう少しなんとかならなかったものかと、今になって思う。誘うにしても、もっと気の利いた話の展開とかはなかったのだろうか、と。
そんなストレート極まりない俺の誘いに対する佐々木の返事は
「うん」
また、シンプル極まりないものだった。
それからとんとん拍子で予定は決まっていき、そして日曜日、俺はこうして佐々木の目の前に立っていた。
なんでこんなことになったんだろう? 俺自身国木田の言葉にかなり動揺していたとはいえ、谷口のしょうもないアドバイスを真に受けてしまうとは。
本当なら、俺はそうしてそのまま頭を抱えてうずくまってしまいそうな状況だったのだが、実際はそうはいかなかった。
「どうしたんだい? キョン?」
目の前にいる中学生時代の旧友。今までこいつの顔を見る機会は何度もあったはずだ。何度もあったはずなのだが――
「いや、その」
「なんだい? はっきりと言いたまえ、キミらしくもない」
佐々木は人差し指を口に当てて笑った。
「お前も、そうやっていると、その、ちゃんと見られる、な」
俺のガチガチに固まった言葉に、佐々木はほっぺたを膨らませて吹きだすと
「くっくっ、それはけなしているのかい? それとも、褒めてくれているのかい?」
「別に、思ったことをそのまま言っただけだ」
「そうかい? ならば、僕はそれを賛辞として受け取っておこう。何、TPOって奴さ。僕が恥をかかないよう、そして最低限キミに恥をかかせないためのね」
太陽の光が楽しそうに笑う佐々木を照らしていた。その日の雲ひとつない空のように無邪気な表情。そして、その佐々木らしい控えめで、どこかほんの少し不器用な化粧。
確かに俺は佐々木に見とれていた。しかし、それと同時に、大人と子供の間の曖昧な空白、その不器用な壊れやすさに俺は胸を締め付けられていた。
俺たちのデートはデートと呼ぶにはあまりにも心もとないものだった。佐々木はどこか静かな場所がいい、と言い、結局俺たちは海の見える公園のベンチでたたずむだけだった。俺たちに出来たのはお互いに会話するか、それとも海を眺めるかだけだった。洒落たショッピングも、話題の映画も、流行のアミューズメントもない。ただ、そこに俺たちがいるだけ。
実際、俺自身もこれをデートという言葉で表現するには大きな抵抗があった。谷口のセリフについつい引っ張られて、そんな錯覚に陥る瞬間もあったが、これはデートではない。
じゃあ、なんなのだろう? 俺は何を目的として佐々木を誘ったのか。事の真相を確かめるため? あいつを励ますため? ただ、単に話がしたかっただけ?
「何を難しい顔をして考え込んでいるんだい?」
ベンチで俺の隣に座った佐々木は、太陽の光を浴びて、両手両足を伸ばしてリラックスしていた。
「ちょっとな。学校でいろいろあって」
「なんだい、僕はキミの悩みカウンセラーをやるためにわざわざ呼び出されたわけかい」
「いや、それは違うって」
確かに悩みがあるにはある。でも、それはお前についてのことだ。
などと言える訳もなく、潮風の匂いを感じながら
「お前は学校関連で悩みはないのか?」
しまった、と思ったのはその言葉を吐いた直後だった。佐々木は勘のいい奴だ。俺の言外のニュアンスなんてすぐに見抜いてしまう。
「なんでキミの話をしているのに、それを僕に振ってくるのかね?」
佐々木の表情には疑うような色は見られなかったが、それでも的確に突っ込んでくる。どうしたものか――
「いや、俺自身涼宮に振り回される高校生活を送っていてだな。んで、こないだお前涼宮見ただろう? どう思ったのかなって」
話を逸らそうと思って、ハルヒの話題を出した。しかし、これはよりいっそう事態を間違った方向へ導くだけだったのかもしれない。
「僕の涼宮さんの印象、かい?」
「……そう」
「ひょっとしてキミは怒っているのかい?」
「え、何に?」
「いや、僕の杞憂ならそれでいい」
佐々木は目線を近くのブロック塀の下に生えている雑草へと向けた。
いったい何に対して俺は怒るというのだ?
「彼女は、そうだね。快活で愛らしい容姿をした女性といった印象だったね」
見たまんまやないか。
と、心の中で突っ込みを入れたが、それを口に出してそれ以上突っ込むことはしなかった。
「そういうキミは彼女に対してどんな不満があるのかな?」
そう言えば、そんな話題を出していましたね、俺は。
「あいつに? 大変だぜ、そりゃもう。毎週毎週休日は不思議探索だなんだのと振り回されるわ、事あるごとに人の手をひっぱって連れまわすわ。あいつの思いつきで振り回されて苦労するのはいつも俺だ。勘弁してもらいたいね。しかも、何かと俺に突っかかってくるからな。言い出したらきかねーし」
俺は頭の中で、今までハルヒが俺に突っかかってきたシーンを思い浮かべていた。例の長門のラブレター騒動、朝比奈さんとのデート(もどき)に、雪山での出来事、あと最近では文集原稿争奪戦か。
「……悩んでいるというよりは随分楽しそうに見えるのだが」
え。
佐々木の目になにやら俺にとってはあまり好ましくないような力がこもっているのを感じる。
「ま、まぁ退屈はしていないかな」
「そうかい、それはよかったね」
顔は笑っているが、その声色は冷たい。
「そういや、お前にもそういう知り合いいないのか? こう、ファンキーでエキセントリックな奴」
「僕の知り合い?」
「そう、高校の友達でネタになりそうな、面白い奴」
話の筋が自分でも冷や汗をかくくらいに二転三転している。自分でもちゃんとわかってはいるさ。
佐々木はそれを眺めて一呼吸置くと
「僕には友達と呼べるような人物はいないね。少なくとも今の高校には」
そう、足を投げ出して、空を見上げながら呟くように言った。その目線の先の空には綺麗な雲が尾を引くように流れていた。
少なくとも、かなり不細工な形ではあるが、本題には近づけたはずだ。ここで、もう少し畳み掛ければ――
俺は意を決して、佐々木に話を切り出そうとした。そう、切り出そうとしたのだが……
「ねぇ、キョン」
「えっ、なんだ?」
「お腹が空いたからお昼にしようか」
「……そうだな」
佐々木は手に持っていたバスケットを右手で持ち上げて、俺に見せた。
佐々木の柔らかい笑顔の前に俺の決意はあっさりとかき消されることとなってしまった。
日曜日の正午、公園にいるのはほとんど子供ばかりだ。緑の芝生の上で、子犬がじゃれまわるようにボールを投げたり蹴ったりしている。そんな日曜日の公園で、男子高校生と女子高校生がベンチに座ってバスケットを広げている光景はある意味奇妙な光景に映っていたのかもしれない。
「はい」
用意周到な佐々木は1.5リットルのペットボトルと紙コップを持参し、一杯のオレンジジュースを俺に差し出してきた。
「さんきゅ」
俺の言葉に返答する代わりに、佐々木は小さく首を左にかしげると、今度は自分のコップにジュースを注ぎ始めた。
「用意周到だな」
オレンジジュースを一口飲んでから、隣で飄々とバスケットの中身を広げる佐々木にそう言った。
「備えあれば憂いなし、だよ」
「お前らしいな」
「それはそうと是非召し上がってくれたまえ。簡単で申し訳ないが、それでもそれなりに手間はかかっているのでね」
佐々木の広げたバスケットの中身はサンドイッチだった。簡単と言っていたが、その種類は豊富で、トマトとレタスとベーコン、ハムとチーズ、ハムとたまご、シーチキンサンド、カツサンド、フルーツサンドと主要な所は抑えるラインナップを誇っていた。
バスケットの中のサンドイッチディスプレイを前にどれを最初に取ろうか、俺が悩んでいると
「キミの好きなものがわからなかったので、思いつく限り作ってみたんだよ」
「それなりに手間、どころかかなりこれは手が込んでいるんじゃないのか?」
サンドイッチが簡単な料理とはいえ、これだけのラインナップを揃えるのはなかなかに骨の折れる作業のはずだ。
「くっくっ、どれか一つでもお気に召すものがあればうれしいね」
結論から言おう。佐々木のサンドイッチはどれもうまかった。
それも当然で、どれもこれもただ単に具をパンで挟んだなんてシンプルなものではなく、ちゃんと下味の付いたものだった。佐々木の奴は謙遜していたが、これは下手に弁当を作るよりもはるかに手間がかかっているとしか思えなかった。
「どうだい、お味は?」
佐々木は自分ではまだサンドイッチ手を付けずに俺の反応を見ていた。その表情は、俺の評価が気にしたおどおどしたものではなく、むしろトリックを仕掛けてその反応を楽しみにしている手品師のようだった。
「うまい。すまん、俺の貧困なボキャブラリーではそれくらいしか言えん」
「なに、そう言ってくれるだけで十分だよ。作った甲斐があったというものだ」
佐々木は自分の予期した反応に納得の表情を浮かべた。こいつの性格だから、きっと何回も味見とかしたのだろうな。佐々木の得意そうな笑顔を見ながらそんなことを考えていると、佐々木はバスケットの中からウエットティッシュのボトルを引っ張り出して、そこから1枚ティッシュを取り
「ほら、キョン。口にマヨネーズが付いているよ」
「あ、すまん」
「全く。キミのそういうところは中学時代から全く成長していないようだね」
形容しがたい独特の笑い声を上げながら、俺たちの間にあるバスケットの上に覆いかぶさるようにその上半身を俺に寄せてきた。そして、手早く俺の口を拭いた。
「これでよし、と」
「お前なぁ。言ってくれれば自分で拭くよ。幼稚園児じゃあるまいし」
「おや、そうかい?それは失礼」
佐々木は悪戯っぽく笑った。
間違いない、こいつ確信犯だ。
「お前は俺の母親か、それとも世話女房かっつうの」
何が面白かったのか、佐々木は愉快そうな笑い声を上げると、バスケットの中からツナサンドを手に取って口に運んだ。
肝心なことは何も聞けず、ただ座って会話して昼飯を一緒に食っただけ。俺はいったい何をしたかったのだろうか。何をすべきだったのだろうか。
結局のところ俺なんかにできることなんてなにもなかったのに、何を勘違いしているんだろう。俺はヒロインの危機を救うスーパーマンでもなんでもないのに。
それでも、俺に出来ること。俺がやるべきこと。
「キョン」
佐々木が俺のTシャツの袖を引っ張った。
「あ、なんだ?」
「なんだ、とはこっちのセリフだよ。今日のキミはなにかおかしい。何かに取り付かれたように、キミの意識が思考の世界にとらわれている気がする。いったい何がキミをそうさせているのだい?」
昼飯を食った俺たちはまだベンチに座り続けたまま時を過ごしていた。そうしながら、俺は自分がどうするべきか、何を言うべきか、バカみたいにただひたすら悩んでいた。
「なぁ、佐々木」
「なんだい?」
「お前は今俺なんかと一緒にいて楽しいか?」
最低のセリフだった。
「それはどういう意味だい?」
「いや、俺みたいに、俺みたいな奴と一緒にいて楽しいかっていう意味」
「楽しいよ。キミがどう感じているかは僕には知ることは出来ないけれども、少なくとも僕自身の認識できる僕の意識は間違いなくそう感じている」
楽しいって一言を言うのになんでそんなに言葉がいるのかね――
中学時代から何も変わらない佐々木を見つけたような気がして、俺は少し安心した。
「そうか。それはよかった」
「キョン」
そう言ったきり、佐々木はしばらく黙り込んだ。それがどれだけの時間――秒で表現すべき時間か、分で表現するべき時間かはわからなかったが、俺にとっては少し長い時間の沈黙だった。
「キミが僕のことで悩んでいるのはなんとなくわかる。けど、僕は大丈夫だ。まだ、キミに心配してもらうほど落ちぶれてはいないさ。安心してくれ。ただ、僕がキミにとって同情や憐憫の対象であるという事実の方がつらい。変わらないものと思ってくれたらいい。僕は中学時代から変わらないものだと」
「佐々木」
「僕は自分ではそのつもりだ。何も変わっていない、中学3年のあの頃と。キミの僕に対する気持ちは変わってしまったかもしれないが、僕のキミに対する気持ちは変わっていないよ」
どう答えればいいのかわからない。俺の佐々木に対する気持ち、それはなんだ? 中学時代から変わっていないと言えるものか? でも、俺だって少しは成長したんだ。あの頃のように無知で無邪気なままじゃない。佐々木と顔を合わせなかった1年間の間に――
そこまで考えたところで、なぜか俺の頭の中にハルヒの顔が浮かんできた。瞼の裏にハルヒの奴が俺を見てアカンベーをしている光景が広がった。俺はそれを黒板消しで消去するように頭を振ると
「なぁ、佐々木。今度の花火大会に行かないか?」
また、とんでもないことを考えなしに口走っていた。話の流れなんてめちゃくちゃだった。ただ、俺は思ったことをしゃべっているだけ。
「花火大会? 来月に催されるやつかい?」
「あぁ。お前中学時代に花火が好きって言っていたじゃないか。見に行こう」
佐々木と花火。そんな記憶が当然のように俺の中で思い出されていた。いつだったかの予備校へ向かう自転車の上での会話だったと思う。きっとあのときにそんな話をした。
「なるほど、あの時の会話をまだ覚えていてくれているのか。でもね、キョン一つだけ間違いがある」
「間違い?」
「あぁ。僕が好きな花火は、ああいった花火大会の花火じゃない。それは、線香花火だよ」
線香花火?
「あ、そうだ……ったけか?」
「うん。でも、キミが覚えていてくれて嬉しいよ」
そして、佐々木は少し首を傾げると、生まれたての子猫がはじめて太陽の光を見たように笑った。
その時、気付くべきだった。時間が全てを癒してくれるわけじゃない。その息吹は確実に俺の記憶を少しずつ曖昧な形に変えていっていた。季節が移り変わるように、少しずつ泥に埋もれていってしまうように。
9「ある午後に」
国木田からあの話を聞いてから、佐々木との一件はずっと俺の中から消えることはなかった。そして、ただでさえ考えがまとまらなくてウニみたいになっている俺の頭に、例によってまたマッチポンプ的に難題が乗っかってくることとなっていた。
月曜日、睡眠時間は十分なのに、まだどこか眠り足りないような疲れた頭を引きずって、今日も今日とて坂道を登って行った。天気はいま一つ雨なのか曇りなのか、はっきりしない曇天模様。もうすぐ梅雨に入る、季節はそんな時期だった。
「うぃす」
外に立っているだけで気が滅入りそうな天気の中、教室に入ってきた俺が感じ取った気配もまたはっきりとはしない不快感だった。
どことなく、教室のあちこちから好奇の視線を投げつけられている気がした。しかし、誰も直接俺に何も言ってこない、なにやら異様な雰囲気だった。まるで足元に油がまとわりついているような気持ちの悪さだった。
なんだよ、なんか文句があるならはっきり言えよな。
席について、俺は曇天模様の空にため息をついた。
……なにか背中に突き刺さるような視線を感じる。
俺は背後に全危機管理能力が警報を発するような、俺のみを貫かんばかりの強い気配に気が付いた。俺の後ろにいるのはもちろん言わずと知れたあのお方、涼宮ハルヒ。
こいつの機嫌が悪いことなんて、しょっちゅうなのでそんなものを気にしていてはキリないのだが、この日だけは何かが違った。ただ単に不機嫌というよりも、もっと卑屈な怒り。一歩間違えば泣き出すんじゃないだろうか、と思わせるような脆さ。
――勘弁してくれよ。
俺はそのまま振り向くことなく、頭を抱えるようにこめかみを押さえながら始業のベルを待った。
ただでさえ、頭の痛いことばかりなのにこれ以上厄介事を持ち込んで来ないでくれ。
昼休み。まるで大金の入った財布を拾ってしまったかのような口調の谷口の言葉により、俺は今日の異常の意味を理解した。
「お前、二股かけているのか?」
「何のことだ?」
谷口の目には好奇心というよりも何か罪悪感に近いものが浮かんでいた。お前だけは信じていたのに、そんなセリフが似合いそうな表情だった。
「お前、先週の日曜にどっかの女子とデートしていたらしいじゃないか」
俺は敢えて平静を装って、何食わぬ顔で箸を動かし続けた。
「誰から聞いたんだよ、そんなこと」
「クラス中の噂だよ」
共に弁当をつつきあう右隣の国木田が代わりに答えた。
「噂?」
「うん。発信源はうちのクラスじゃないらしいんだけど、いつの間にかうちのクラスに広まってた」
国木田もまた無表情というか感情の読めない普段通りの笑顔だった。
「で、いったいどうなんだよ、キョン。さすがに涼宮のいる前じゃ聞けねえから昼飯まで待っていたんだ」
谷口が身を乗り出して来た。その目ははっきりと見て取れるほどに好奇の色の染まっていた。
「……どうもこうもない。お前の言い出したアドバイスを実行したまでだ」
「俺の言い出した、って。あっ」
谷口が口を空けて間抜けな声を出した。どうやら自分で言い出したことを見事に忘れていたらしい。
「相手は佐々木さんかい?」
国木田は冷静な表情で俺の目を見ている。
「あぁ」
「まぁ、ショートカットのかわいい女の子って聞いていた時点で大方予想はしていたんだけどね」
すべてわかっていた、という風に国木田は納得の表情を浮かべた。
「で、どうだった?」
「どうもこうもない。普通に会って話をしただけだ」
「そうかい。相変わらずだね」
そう言って国木田はペットボトルのお茶を一口飲んだ。
「それ以前になんで俺が佐々木と会っていたというのが、あっという間に噂になって広まっているんだ?」
「お前なぁ……」
谷口があきれ返るように大げさに上体を反らせてみせた。
「そりゃ、お前ら二人が知らぬもののいないうちの高校一有名なカップルだからだろ」
お前ら、ってそりゃ、
「俺とハルヒのことを言っているのか?」
「当たり前だろうが」
「馬鹿馬鹿しい。どいつもこいつもどうかしてるぜ。くだらない噂話で好き勝手に妄想してくれやがって」
両手を挙げて大げさに否定してみせる俺に、国木田から聞き逃せない一言が入った。
「そうでもないよ。みんなが誤解するだけの状況証拠は揃っていた」
「どういう意味だ?」
「佐々木さんが、うちの高校の人にキョンについて色々聞いていたらしいから」
「なっ……」
予想外の国木田の言葉に、今度は俺が驚愕する番だった。
国木田の目は静かに、だが力強く俺を見据えていた。
「よう」
「おや?」
放課後、授業終了と共に帰る生徒、部活へと向かう生徒、その波を掻き分けて俺はある教室の前に立っていた。
「わざわざ僕をお出迎えとはいったいどういう風の吹き回しですか?」
「どうせ、お前のことだ。俺に言いたいことがあるんだろ? だから、わざわざこっちから出向いてやったんだ」
「それはどうも。助かります」
教室のドアの前に立つ俺の姿を見つけた古泉は、慇懃に礼をしてみせた。
「それじゃあ、場所を変えましょうか」
中庭。いつだったか、古泉の奴が俺に超能力者云々の話をした場所だ。あの時とちょうど同じようにテーブルに座っていた。
「さてと、それではいきなりで悪いですが、まず一言。非常に厄介な事態になりました」
古泉は微笑みを絶やさないまま、事務的な口調でそう告げた。
「非常に、と言う割にはえらく緊迫感がないな」
「そうですか? まぁ、そうなんでしょうね」
「どうせまた世界の破滅とか言い出すんだろ?」
「ええ。確かに、涼宮さんの耳には例の噂話は入っていますからね」
「今日一日、あいつの視線が背中に刺すように痛かったよ」
古泉はおかしそうに笑い声を上げると
「そうでしょうね」
「なんでお前は楽観的なんだ?」
「そうでもないつもりですが。今回の一件はかなり性質が悪い。形はどうあれ、涼宮さんは裏切られたと思っているんじゃないですか? 佐々木さんとの関係は一度あなたは友達、あぁ、佐々木さんにとっては親友ですか、と言い切ってしまったわけですからね」
「それがなんで裏切りになるんだ?」
「まさか、おわかりでない?」
古泉は愉快そうに俺の顔を覗き込んだ。お前は俺をおちょくっているのか。
「まぁ、いい。それで、だ。例の閉鎖空間とやらは発生しているのか?」
「それは今のところは大丈夫です。もっとも悪い兆候ですが」
「悪い兆候?」
「ちょうど去年の今頃を思い出してください」
去年の今頃、閉鎖空間。これだけキーワードを出されればどんな間抜けだって思い出す。
「で、あれとこれとどういう関係があるんだ?」
「お忘れになっておられなくてなにより。で、悪い兆候という意味ですが、あの閉鎖空間が涼宮さんのストレスを発散させる場だと説明したのは覚えておられますよね?」
「あぁ」
あの日タクシーに乗って連れて行かれた例の空間の姿を頭に浮かべた。無数の赤い玉が飛んでいたあの光景を。
「基本的に閉鎖空間というのは涼宮さんがストレスを感じた場合に即発生するものです。しかしながら、去年のアレは事情が違いました。ちょうど涼宮さんが眠りについて時に発生してしまったのです」
「そうだったな」
忘れもしない、あの夜だけは。
「一年前のアレがなぜあそこまで規模の大きい強力な物になってしまったのか。その答えは至極簡単なものです」
「簡単なもの?」
「えぇ。単純に言えば、心の奥に溜め込んだストレスが無意識によってタガが外れて暴発した。そんな感じですね。無意識の中で解き放たれるがゆえに歯止めが利かないのです」
「それと、今回が似ているというのか?」
「えぇ。涼宮さんの感じているストレスというか苛立ちのようなものは間違いなく、ここ数年で最大級のものの一つですよ」
「その割にはえらく冷静だな」
古泉はやっと期待した言葉が出たとばかりに会心の笑みを浮かべた。
「解決法は簡単ですよ。あなた自身で涼宮さんの誤解を解いてください。そうすれば彼女の精神的なストレスは一気に解消されるはずです。時間は十分にあります」
「最後の最後は随分と人任せなもんだな」
「前回もそうですが、事が起こってしまえばもう僕にはどうすることも出来ませんからね。開き直るしかないのですよ。それに、前にも言ったはずです。僕自身はあなたに全ての下駄を預けてもいいと思っていると、ね。大丈夫ですよ、あなた方の信頼関係はちょっとやそっとのことでは壊れることはありません」
古泉はわざとらしいまでの満面の笑みで両手を広げた。
やれやれ。
精一杯の皮肉を返された俺は部室棟の方を見上げた。
誤解を解く? あのハルヒ相手にか?
骨の折れる作業だ。でも、仕方がないか。
立ち上がった俺は、重い足取りを部室の方へと向けた。曇天模様の空が俺に重くのしかかっていた。
10「柔らかな関係」
部室のある旧校舎の階段を一歩一歩かみ締めるように上っていった。今にも雨になりそうな湿気を帯びた空気と木造校舎にはどこか懐かしい匂いがした。
「どいつもこいつも好き放題言いやがって」
誰にともなく俺は独り言を呟いた。ため息をつきながら、前かがみにゆっくりと階段を上っていった。コバルト色の空を映す窓ガラス。階段を上りきって、廊下の先を見渡すと、そこに見慣れた影があった。
廊下の先、そこには文芸部室と書かれた表札の上にSOS団と乱暴な字で書かれた張り紙。その張り紙の下にある扉の前で、鞄を肩に掛けた女子生徒がドアのノブを握ろうとしては、また思い直したように手を離すという行為を繰り返していた。うつむき加減で真剣な表情で何かをぶつぶつ言いながら、手を伸ばそうとしてはそれを落ち着きなく引っ込めていた。
「……何をやってるんだ、ハルヒ」
「うおわ!」
驚かすつもりは毛頭なかったのだが、ハルヒの奴はなんとも形容しがたい驚愕の声を上げて俺のほうを振り向くと、口を開けて両手を小さく万歳した。ハルヒは俺が背後に接近したことにも気付かずにいたみたいだった。
普段なら中で何が起こっていようが全くお構いなしに、なんの気兼ねもなくドアを開くくせに、今日はいったい何をやっているんだか。
「あ、あっ、えーっと」
ハルヒの奴は必死に何かをしゃべろうとしていたが、全く言葉にならないみたいだった。
「何やってんだ。自分の部室の前で」
「な、何やってんだじゃないわよ!」
ハルヒは腰に手を当てて、ふてくされるように叫んだ。ようやくいつもの調子に戻ってきたらしい。
「あんた、先に教室出て行ったくせに、なんであたしより来るのが遅いのよ! てっきり中にもういるものだと思っていたのに!」
「いや、ちょっと野暮用があってな。それ以前に俺が中にいると入り辛いことでもあるのか?」
「べ、別に、そんなじゃないわよ。そ、あの、静電気。そう、静電気がビリってくるから、ドアノブをね」
わかったわかった。
このままハルヒをからかってやるのも面白そうだったが、古泉からの言葉もある。さっさと解くべき誤解は解こう。さて、問題はどういう風にして話を切り出すか、だ。
「そうだ、ちょうどよかったハルヒ。少し相談したいことがあるんだ」
「はぁ? いきなり何よ?」
ハルヒは器用に口の片方を吊り上げていた。そんなにわざと憎憎しげに悪態をつくなよ。
「いや、言葉どおりなんだが?」
アヒルみたいに口を尖らせて、俺の目をうさんくさそうに睨み付けてくる。うまくどさくさハプニングに紛れて、話すきっかけをつかめたのはいいが、これはこれで苦労させられそうだ。まぁ、午前中のあの不機嫌さを思えばまだマシか。
「何の相談よ」
しばらくのにらみ合いのあと、根負けするようにハルヒが発した言葉はそれだった。
ここでどう答えるか。一番重要なとこだ。
「俺の中学時代の友達――佐々木について、なんだが」
俺がそう答えるやいなや、ハルヒはすぐに首を90度回頭させ
「……そんなのあたしには関係ない」
そう来たか。
「関係ない、って相談を持ちかけようとしてるのは俺だ」
ハルヒは何も答えない。黙ったまま、視線を少し下に落とした。
俺はかまわずに話を続けた。
「佐々木が高校でいじめに遭っているらしいんだ」
ハルヒの目が驚きの色に染まって俺を見つめてきた。
俺の選んだ答え。それはハルヒに対して、今の俺自身の考えをそのまま打ち明けることだった。嘘やごまかしなんかよりもそうするのが一番いい、そう思った。
「で、一体どういうことなのよ」
「簡単に説明するとだな――」
俺はハルヒと二人で公園に来ていた。
佐々木についての相談、を切り出したとき、ハルヒはそういうプライベートな話題は人がいない場所のほうがいいと言い出し、俺たちは学校の帰り道にハルヒと近くの公園に寄って話をすることにした。
「ふーん、いじめって言うよりはただのいやがらせね」
そう言いながらハルヒは手に持った果汁100%ジュースを一口飲んだ。もちろん、そのジュースは俺が奢らせられたものだ。まぁ、この場合は俺が言い出したことだから仕方がないか。
いつだったか、長門から例の電波話を聞いたベンチに俺とハルヒは二人並んで座っていた。
「まぁ、そういうことだな」
「大体事情は把握したわ」
そりゃ、よかった。
今にも雨が降りそうな空だが、まだなんとか天気は崩れずにすんでいた。夕方の公園からは公園で遊んでいた子供も家に帰り、不思議な静けさが漂っていた。そしてカチカチと音を立てて公園の街頭に電気が付いた。
もう6時か。
「それであんたは日曜日に佐々木さんと会っていたわけ?」
「あぁ」
「で、なんか進展はあったわけ?」
「なんも。結局うまくはぐらかされた気がする」
「はっきり言えばいいじゃない。意気地なし」
「言えるわけないだろ。お前いじめに遭っているらしいな、なんて。そもそも誰から聞いたんだよ、って話だしな」
誰から聞いたんだよ、なんて言い出すとなぜハルヒが佐々木と日曜日に会っていたことを知っているのか、というところに突っ込みたい気もしたがやめておいた。
「がつんと言ってやればいいじゃないのよ」
「あのなぁ」
そう返答しつつも、俺はハルヒがこの一件の相談役としてふさわしい存在なのではないかと思い始めていた。谷口が言うにはハルヒも中学時代は同じように孤立していたらしい。ならば、そこから何かいいアイデアやアドバイスを聞きだせるはずだ。
「お前、なんかいいアイデアないか?」
「何よ。お姫様の騎士を気取って意気揚々と出て行ったくせに最後は人任せ?」
「誰もそんなものは気取っていない。ただ、中学時代の友達が心配だっただけだ」
ふーん、とハルヒは軽く鼻を鳴らすと
「そうね。あたしが佐々木さんの立場だったら、そういうしょーもないいやがらせをしてくる連中は片っ端からぶっとばしてやるわ」
前言撤回、俺は相談する人間を間違えた。
「それのどこが解決法だ」
「だって許せないんだもん。そういうのは」
俺は大きくため息をついた。ハルヒは俺の反応を不満げな表情で口を尖らせながら見ていた。
「なによ。アドバイスしてあげたじゃないのよ」
「とりあえずこういう問題の解決が非常に難しいということがわかった、という点で感謝する」
「人に相談しといてあんたそんなこと言うわけ?」
「ありがとうございます」
「気持ちがこもってないわよ」
ハルヒのご機嫌取りは大変だ。トップギアとローギアしかないような奴だからな。
俺はベンチに深く腰掛けると何気なく空を見上げた。鉛色の雲が今にも落ちてきそうに重苦しくのしかかっていた。
「でも、佐々木さんもかわいそうよね」
「そうだな」
「そういう意味じゃなくて」
あきれ返るようなハルヒの口調。じゃあどういう意味なんだ。
「あんたみたいなのと恋人同士なんて噂を流されちゃうこと」
「だったら、俺もかわいそうじゃないのか?」
「あんたは別にどうでもいいのよ」
言ってくれるな。まぁ、ハルヒの誤解は解けたみたいだし、それはそれでよかったが。
「公園で話していただけなのに付き合っているって勘違いするなんて、うちのクラスの連中はまったくどうかしてるわ」
「それについては同感だ。こんな風にベンチに座って話をしていただけなのに、それが端からは恋人同士に見えるなんてな」
そう俺が言ったとたん、隣に座っていたハルヒは寝坊した学生がベッドから飛び起きるように立ち上がった。
「な、どうしたんだよ?」
「帰るわよ、キョン!」
一体突然どうしたんだよ、お前は?
「ちょ、待てよ。何をいきなり」
そう言いながら俺は慌てて立ち上がり軽く走ってハルヒに追いついた。
「ちょっと、そんなにベタベタ近づかないでよ。もう少し距離をとりなさいよ」
「なんだよ、そりゃ」
反論する俺を無視してハルヒは大股でずんずん進んでいった。
やれやれ、俺はため息をついて少し前を歩くハルヒの後を付いていった。
うまくいっていたと思うのに、俺は何かハルヒを怒らせるようなことを言ったか? そう自問自答しても思い当たる答えはなかった。
ただ、なんとなく表面上だけ怒って見せているような気がしたが。
11「エマージェンシー!エマージェンシー!」
「感謝しますよ」
「そりゃどうも」
5月下旬の昼休み。俺は古泉と中庭にいた。
「あのときのような大規模閉鎖空間の発生はなかったようですから、一安心です。もっとも、我々にはこの世界がつい1秒前に始まっていたとしても、それを証明する術を持たないのでなんとも言えないというのが現実ですけど」
相変わらず古泉の顔に貼り付けたような微笑はその奥の感情を読ませない。
俺の胡散臭そうな視線に気がついたのか、古泉は軽く苦笑いすると
「これで無事全て解決、と行くといいですね」
「まったくだ」
もっともらしく俺は頷いてみせた。
「本音を言うと、僕としてはこんな曲芸的な綱渡りは勘弁して欲しいのですけれどもね」
「曲芸的な綱渡り?」
「ヤジロベーですよ。涼宮さんと佐々木さんを両端にぶら下げた」
「バカなことを言ってる暇があるんだったら、バイトに精でも出せよ」
俺は右手を払って、古泉を軽くいなしてやると、空を見上げた。相変わらずの曇り空だった。
まだ昼休みは終わっていなかったが、古泉との会話を軽く切り上げて教室に戻った。人の噂もなんとやらと言うが、俺とハルヒが普段どおりに会話しているのを見て、例の変な噂はたちまち消え、今ではもうほとんど聞かれることはなくなっていた。
「お前どこ行っていたんだ?」
谷口が弁当をほおばりながら、右手に持った箸を軽く振って、席に着いた俺にそう尋ねてきた。
「ちょっと野暮用だ」
「涼宮さんと仲直りできたみたいでよかったね」
国木田がにこやかに微笑みながらそう話しかけてきた。
「仲直りもなにもケンカした覚えがない」
「でも、涼宮さんキョンのことを随分不機嫌な目でみていたじゃないか」
「あいつが不機嫌なのはいつものことだ。いちいち取り合っていたらきりがない」
「まぁ、ケンカするほど仲がいいって言うしな」
なぁ谷口、お前俺の話を聞いていたか。
「なにはともあれよかったよ、キョン」
「……そうだな」
よかった、か。確かに状況は悪くはなっていないだろう。なんだかんだ言っても、周りのくだらない誤解は解けたみたいだしな。
もっとも、肝心の問題はまだ何も解決していないけれども。
そうしてほんの少しだけ、俺は安心していた。
そして、その安心が喧騒と共に派手に打ち破られることになろうとは、そのときは想像すらしていなかった。
放課後になると同時に俺は席を立って部室へと向かおうとした。もはや、この習慣はパブロフの犬並みに俺に染み付いてしまっているものだった。
「うぉっ」
さっさと部室へ向かおうとした矢先、持ち上げた鞄が何かに引っかかったみたいに動かなくなった。俺は間抜けな悲鳴を上げて、上半身を後に引かれるような格好になった。
何に引っかかってるんだよ。
そう心の中で愚痴りながら、後を振り返った。
そこではハルヒが不敵な笑みを浮かべて俺の鞄をつまんでいた。
「何やってんだ?」
「行くわよ、キョン」
どこへ? というか人と話すときは主語述語目的語をちゃんとして、美しい日本語をだな――
しかし、ハルヒは突っ込みを入れようとする俺を無視して、俺の手をつかむと、俺を引きずるように教室の外へ向かった。
「ちょっと待て、ハルヒ。一体どこへ、何しに、何のために行くんだ?」
ふふん、とハルヒは鼻で得意そうに笑った。
なんとなく悪い予感がする。
「殴り込みよ!」
振り返ったハルヒの目は、まるで蒸気機関車にくべられた石炭のような力強い光を放ち、その圧倒的な駆動力をもってして、一切の抵抗が徒労に終わることを瞬時に俺に理解させた。
「殴り込み、ってお前一体どこへ行くつもりなんだ?」
ハルヒに手を引っ張られて、校門まで俺は引きずられていた。
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと部室の扉に今日はお休みって書いておいたし」
いや、そういうことを聞いているんじゃなくてだな。
「一体どこへ行くんだ?」
俺を引っ張りまわしていたハルヒの足がぴたりと止まった。一瞬の間の後、
「佐々木さんの高校」
とりあえず俺はめまいがした。
「佐々木の高校って、お前一体何を考えて。おい、ちょっと待てって」
俺の前をずんずん進んでいくハルヒの後を追いながら、必死に状況を確認しようとしていた。
一体何をどうとち狂えば、ハルヒが佐々木の高校へ殴り込みなんて事態になるんだ?
「大体の状況は把握できてるわ。向こうへ乗り込んで、首謀者をちょちょいと締め上げてやったら事は終わりよ」
ハルヒは俺の制止なんか全くお構いなしだ。他の生徒たちが不審な目で俺たちを見ている。端からはどう見えているのか、考えたくもない。また、明日も変な噂が流れていそうだ。
「だから、なんの話だ?」
「佐々木さんの話よ」
「へ?」
「佐々木さんにしょうもない嫌がらせをしている連中がわかったから、それを叩きのめしに行くのよ」
……神様、俺はいったいどうしたらいいのでしょうか?
その後、ハルヒを追いかけながら確認した状況は以下のようだった。
まず、俺がハルヒに佐々木の話をした後、こいつは自分でその状況を調査したらしい。なんでも阪中の兄貴がその高校の出身で、そのツテを使って調べたらしいのだ。阪中大活躍だな。まぁ、そんなことはどうでもよくって、とにかくそれで佐々木に嫌がらせをしている女子グループのリーダーの名前を教えてもらったから、そいつを叩きのめすそうだ。
「ハルヒ、それって余計に事態を悪化させる可能性がないか?」
「別に。あたし自身が気に食わないからやるの。そういう汚いことをする連中ってほんっと大嫌いなんだから」
だめだ。聞く耳持たないってやつだ。
俺はため息をつくとつり革にだらしなくぶら下がった。結局、俺はハルヒを止めることもできず、一緒に電車に乗ってしまっていた。
佐々木の高校のある駅までもう少しか――
「あんただって許せないんじゃないの?」
「そりゃそうだが――」
確かにハルヒの言うとおりだ。連中に対して怒りの感情がないなんてことはない。面と向かって文句の一つでも言ってやりたい。しかし、それが佐々木にとっていい方向へ向かうかどうかなんてわからない。
「国木田の話だとそもそもの発端がくだらないことだしな。逆恨みもいいとこだ。けど、なんであいつはそこまで告白を断りまくっていたんだろ」
「……誰か他に好きな人でもいたからじゃない」
ハルヒに何かを言い返してやろうとしたのだが、なぜかうまく言葉が出なかった。
「何よ?」
「いや、別に」
ハルヒは喉に魚の骨でも引っかかったような表情で俺を見ていた。
「なぁ、ハルヒ。お前に佐々木の気持ちがわかるのか?」
ふと俺の口を付いて出た言葉。
「何よ、唐突に」
谷口の行っていた「涼宮と同じ」という言葉が俺の頭の中で思い出されていた。ハルヒはそれからしばらく無言で窓の外を見ていた。
仕方がない、腹をくくるか。こいつはほっときゃ一人で行って、何をやらかすかわからんしな。お目付け役が必要だ。
けれど、意を決して窓から見た空も、相変わらず雲に覆われたままだった。
12「さよならを言えばよかった」
駅を降りて歩くこと、徒歩5分。そこに県内最高、そして全国でも有数の進学校の姿があった。ちょうど、放課後になったところのようで校門から帰っていく生徒たちの姿が多く見られた。
「こんな時間なのに、えらく学校から帰る生徒が多いな」
隣で大きくハルヒのため息が聞こえた。
「何だよ?」
「あんたねえ。ここは全国有数の進学校なのよ。うちらみたいな公立とは違って、平気で7時間目まで授業があるのよ」
うげっ。想像もしたくない学校生活だ。
「そんなことより、とっとと中に入る方法を探すわよ」
「中に入る方法? 校門から行ったらいいじゃないか」
「バカッ」
ハルヒは俺の意見など無視して、校舎の裏手のほうへ回り始めた。
「何でだよ」
「正面から堂々と行ったら目立つでしょ。どっか入りやすそうな場所を見つけてこっそり侵入するのよ」
思えば、こいつは中学時代に不法侵入前科一犯を犯しているのであった。もともとそういうのが好きなんだろうな。
「そんなことをするより校門で張っていたほうが効率いいんじゃないか?」
「目標は部活動をやっているらしいから、そんなとこで待っていても数時間待ちぼうけを食うだけよ。こっちから乗り込むほうが手っ取り早いわ」
と言うやいなや、校舎の塀の足場になりそうな部分をうまく発見し、ハルヒはそこに飛び乗った。下調べは十分なようだ。
「とりゃ」
身軽な身のこなしで校舎に侵入したハルヒ。こいつは将来アルセーヌ・ルパンにでもなる気なのだろうか。
「キョン、あんたも早く来なさい」
「わかったよ」
俺もハルヒの後に続いた。
降り立った場所は校舎裏の木が生えている場所だった。ここなら人目に付くことも少ないだろう。
俺は意を決してこれから起こるべき事に対して腹をくくり直した。
緊張からか、喉の奥が少し気持ち悪い。落ち着きなく、両手を開いたり閉じたりしている。落ち着こう、俺がこんなところで緊張していても仕方がない。
「あっ――」
俺の隣で辺りを見渡していたハルヒが小さく声を上げた。
「どうし――」
その視線の先を追いかけた俺はある風景を見て、息を呑んだ。
そこには数人の女子生徒がいた。
「ハルヒ」
「あいつ、あの真ん中の子。あれがそうよ。あたし顔写真を確認したから覚えている」
俺とハルヒは木の陰に身を隠していた。
いきなり目標と遭遇とはえらくまたタイミングのいいことで。
こんな俺たちが言うのもなんだが、この人気のない校舎裏に人が来る用事なんてほとんど思い当たらない。目の前の女子生徒たちは少し挙動不審気味に辺りをキョロキョロと見回している。なにかろくでもないことをしでかすつもりじゃないのか。少なくとも、俺たちが言えた義理ではないことはわかっているが。
「手になんか持っているわ」
「手に?」
俺は目の前の女子生徒の手を注意深く観察した。確かに両手に何かを持っている。
「靴、ね。誰かの靴だわ」
「ハルヒ、あれは――」
そこから次の言葉を吐き出すのに、しばらくの間と呼吸が必要だった。
「あれは、佐々木の靴だ」
やっとの思いで腹の底から息を吐くように言葉を紡いだ。
両手が緊張からか、それとも怒りからか、震えていた。
「おいっ!」
思わず飛び出した俺は連中に対して威嚇するように、そう声を出していた。
木の陰から突然現れた人物に連中は一瞬体を震わせ、強張った表情で俺を見ていた。
「な、なんなのよ、あんた!」
リーダー格と見られる女子生徒が悲鳴のような怒声のような声を上げた。
「ちょっと、制服が違うよ。あれウチの生徒じゃないよ」
もうひとりの女子生徒がリーダー格の女子生徒に耳打ちした。
すこし落ち着いてきたのか、リーダー格の女子生徒の顔に少しずつ余裕のようなものが見え始めてきた。
「ちょっと、あんた一体何なの? 変態? それ以上近づくと、大声で人を呼ぶわよ」
リーダー格の女子生徒が精一杯の虚勢を張った。悪態をついてはいるが、声が少し震えていた。
しかし、この状況下で追い詰められているのは間違いなく俺のほうだろう。あまりにも後先のことを考えずに勢いで飛び出してしまった。これじゃ、不審者扱いされてここの教師にしょっ引かれるのがオチだ。この状況下では俺に勝ち目はない。
「やれるもんなら、やってみなさいよ。でも、困るのはあんたたちの方でしょうけどね」
不意に俺の後ろから声がした。振り返ると、ハルヒが仁王立ちで相手の女子生徒を睨み付けていた。
「ど、どういう意味よ」
目に見えて相手の女子生徒はうろたえていた。言い負かされたというよりも、無意味に自信過剰なハルヒの態度に気圧されているようだった。
「その手に持ってる靴。あんたたちのじゃないんでしょ? なんで、そんなものを持ってこんな校舎裏なんかにいるの?」
「別に、なんだっていいじゃない……」
さっきまでの勢いはどこへいったのか、相手の声に力はなかった。
「言っとくけど、あたしたちが何も知らないなんて思わないでね。あんたらがここで何をしようとしていたか大体想像は付いてるわ」
「……あんたたち一体何なのよ」
「正義の味方」
ハルヒは仁王立ちのまま、全く動じることなく相手を威圧していた。
「ふざけないでよ」
相手の女子生徒は恨みがましい目でハルヒを睨み付けていた。
「俺は、その靴の持ち主の……友達だ」
ハルヒに代わって俺が答えた。相手の女子生徒は俺を一瞥して軽く鼻で笑うと
「なに? あの変人、あんたみたいな男がいるんだ。むかつくのよね、そうやって自分がモテルからってお高くしちゃってさぁ。なに、あんたもあの子に騙されたくち?」
相手はこの期に及んでさらに悪態をついた。反射的に何かを言い返そうとしたハルヒを右手で制した。
「別にあんたらがあいつのことをどう思おうと勝手だが、そういうしょうもないいやがらせはやめてもらおうか」
俺は精一杯低い声で迫力を出してみたつもりだったが、
「わざわざそんなことを言いにわざわざこの学校に不法侵入してきたわけ?」
俺なんかが精一杯すごんでもあっさりと切り返されるだけだった。
ただ、そんな相手のふてぶてしさよりも、まったく反省や罪悪感の見られない態度のほうに腹が立った。強く握った右手に指が食い込んだ。
俺の足りない頭をフル回転させて、なにか言い返してやる。そう思って、俺は相手の顔を睨み付けていた。その時、その視線の先に見知った人影が入り込んでくるのが見えた。
「――キョン?」
佐々木が呆然とした表情で俺の顔を見ていた。佐々木の足には泥で汚れた上履きが見えた。
「どうしてこんなところに?」
一瞬の沈黙の後、佐々木は震える声でそう言った。女子生徒連中は佐々木の姿を見て、ばつの悪そうな顔をしたが、当の佐々木はそんなことはどうでもいいみたいだった。
「いや、それは……」
なんて言えばいいのだろうか。なぜ俺はここにいるのか、何のために俺はここに来たのか。そこに誰をも納得させられるような明確な答えを俺は持っていなかった。俺自身、自分をここまで駆り立てたものがなんなのかわかっていなかったから。
「お前は、どうしてここに?」
答えを出すこともなく、俺は佐々木に質問を返していた。よその学校に不法侵入している俺にはあまりにも自分を棚に上げすぎた質問だった。
「……キミの声が聞こえたから」
佐々木は小さい声でそう答えた。そして、静かにその視線を俺の後ろにいるハルヒの方へと向けた。
「涼宮さんも一緒?」
「……あぁ」
佐々木の声は相変わらず小さかった。けど、その言葉の奥には何か激しいものが感じ取られた。
「ひょっとして知っていたのかい、僕がこういう目に遭っている事?」
「あぁ」
気まずい。なんだ、この居心地の悪さは。俺は佐々木を助けに来た、はずなのに。
「言ったじゃないか。僕はキミに同情や憐憫の対象として見られたくない、って。僕はキミにかわいそうだなんて思われたくなかった。こんな姿見られたくなかった」
「……佐々木」
泥で汚れた上履きが俺の目に突き刺さった。そして思わず目を逸らしてしまった。
「僕は中学3年のときとは全然変わってしまったんだ。あの頃の僕とは違う。あの頃の僕はもういないんだ」
「いや、でも」
俺を見つめる佐々木の目。生まれてきてからこれまで、これほど人の目が痛いと感じたことはなかった。怒り、悲しみ、憤り、佐々木の言葉が胸に突き刺さった。
それでも、俺はうまく言葉を返すことができなかった。
「僕はあの頃と変わってしまったんだ。毎日、誰とも会話しない学校へ来て、ずっと一人で。そして、いつも誰かを恨んだり憎んだりして、自分を護るようなそんな人間になってしまったんだ。キミといたあの頃とは全然違う人間に。自分で自分を軽蔑するよ。そして、こんな姿をキミに見られたくなかった」
「違う、お前は変わってなんかいない……」
「キミの前では精一杯そう振舞った。あの頃と同じように。でも、もうあの頃の僕は死んだ。みんなにもそう伝えてくれ。今、キミの目の前にいるのはあの頃の僕の死体だ」
「何をバカなことをいっていやがる。何も変わっていないじゃないか。なにも」
「……変わったよ」
「違う、俺もお前も変わってなんか――」
「変わった!」
佐々木が今まで聞いたことがないほど大きな声を上げた。力強く、そして痛々しい声を。
「だって、今はキミの傍にいつだって涼宮さんがいる! いつも、いつだって! どうして何も変わっていないなんて平気で言えるの? 今すぐにあの頃に戻れるというの?」
その迫力に俺は何も言えなくなってしまった。ただ、呆然と佐々木を見つめるだけだった。何か声を掛けるべきだったんだろう。でも、情けないことに何も思いつけなかった。何も思いつけなかった。
佐々木はしばらく肩で呼吸をしていた。その間の時間はほんの数十秒程度だったのだろう。でも、俺にはどうしようもなく永く、そして遠く感じられた。
「……安っぽい同情なんか、しないで」
佐々木は目線を下に落とし、その表情を前髪で隠した。そして、
「ちゃんと、さよならを言えばよかった」
そう消え入りそうな声で呟くと、不意に体を反転させもと来た方向へ駆け出した。その瞬間、俺も後を追おうとしたが、体が動かなかった。いや、全くどうしていいかわからなかった。ただ、その場で凍りついたように立ち尽くすだけだった。佐々木の後姿が見えなくなっても、俺はそのままだった。
「何よ、あいつの元彼が今カノを連れて来てたわけ? 何それサイテー。偉そうなこと言っていた割に結局見せ付けに来ただけじゃないの。マジ終わってるわ、こいつ」
まるで壊れたAMラジオのようにあの女子生徒たちの声が遠く聞こえた。
――なんとでも罵れよ。
連中がなにやら好き放題言っているのが聞こえたが、俺にとってはどうでもいいことだった。もう、どうにでもなればいい。もうどうでも――
そのとき、何か鋭く乾いた音が聞こえた。俺はその音の方向をゆっくり振り返った。そこではハルヒがその女子生徒の頬を平手で打っていた。
帰り道、俺とハルヒは並んで歩いていた。あれからお互い何も話すことなく、ただ無言で歩いていた。
俺は佐々木の言葉が自分に突き刺さっていることを強く感じていた。それは、透明で純粋無垢で、壊れて尖っていた。まるでガラスみたいに。その尖った先が俺に深々と突き刺さっていた。
俺がやったことは結局なんだったんだ? 何がやりたかったんだ? 俺は佐々木に何をしてしまったんだ?
頭の中を無責任な疑問符が埋め尽くしていた。やらなきゃよかった。こんなこと起きなきゃよかった。そんなことばかり頭の中を巡っていた。
「キョン」
「えっ?」
「その、悪かったわ。ごめんなさい」
ハルヒが小さく不安げな声でそう言った。
「馬鹿野郎、お前が謝るなんて珍しいことをするから、雨が降ってきたじゃないか」
「……キョン」
空から落ちてきた水滴が俺の足元に小さな斑点を作っていった。
「雨が――降ってきたじゃないか」
俺の頬に冷たくて熱いものが降り注いでいた。
13「雨雲を抜けて」
雨は激しさを増していった。傘を持っていなかった俺は、雨に濡れるがままだった。
「ほらっ」
俺の少し後を歩いていたハルヒが、小走りに俺に追いつき、小さな折り畳み傘を差し出してきた。
「風邪、引くわよ」
「ん……」
返事とも呼べないような声で答えた俺に、ハルヒは強引に傘を被せてきた。
小さな折り畳み傘は、二人の人間をその中に包み込めるほどの大きさもなく、俺とハルヒは二人ともずぶ濡れになるだけだった。お互い、もっと肩を寄せ合って近づけば、雨に打たれずに済んだのかもしれない。けど、俺もハルヒもお互いの距離を縮めることなく、小さな傘からはみ出しながら、帰り道を歩いた。俺にはどうしてもその距離を縮めることが出来なかった。
駅のプラットホーム。帰り道お互いほとんど口を利かないまま、ここまで帰ってきた。夕方のラッシュアワーの駅には人が溢れ返っていた。突然、降り出した雨に打たれて、濡れ雑巾みたいになった人々の姿も何人か見えた。同じように、ずぶ濡れのハルヒと俺も、その中では大して目立たないただの高校生だった。
「特急が来たぞ」
「キョン」
目の前に停まった特急電車。ハルヒはこれに乗るはずだ。
「どうした? 電車が閉まるぞ」
ハルヒはなぜか不安そうな目で俺を見ていた。
「俺は次の普通で帰るから」
「でも、キョン」
「大丈夫だ。俺は次の普通で帰る」
あのときのハルヒの目を俺は一生忘れることはないだろう。
ハルヒは小さな声で、わかった、とだけ言い、静かに人の波に紛れて、扉の中へと消えていった。
目の前の電車の扉が閉まっていく。俺は辺りを見回した。そこに佐々木の姿はなかった。
それから、どれくらいの時間俺はそこに立ち尽くしていたのだろうか。人々で溢れかえるホームからはとても電車に乗る気分にはならず、目の前を通り過ぎていく車両の流れを見送っていた。
俺はなぜここにいるんだろう。何を待っているんだろう。
答えはわからなかった。
雨が止んだとき、もう陽は沈んでいて、辺りは真っ暗だった。そして、俺はようやく目の前に止まった電車に乗り込んだ。
――ガタン、電車が揺れた。電車の中にアナウンスが響き渡る。俺はドアから車内へと目線を移す。今までの出来事を思い出しているうちに、いつの間にか目的の駅まで着いていたらしい。俺はもう一度、窓の外に映る自分自身に目をやる。せめて、鏡の中で映る俺だけは堂々としているように、精一杯の虚勢を張ってみた。笑えるくらい情けない男の顔が見える。
駅のホーム。この小さな地方私鉄の駅では、降りる人影もまばらだ。
駅前の小さなターミナル。否応なしに、また佐々木を思い出してしまう。
――もういい、今は何も考えずに眠ろう。何も思い出せなくなるほどに。
そう思い直して、歩き始めた俺の視界に、バス停に張られた小さな広告が入ってきた。
「花火大会」
俺はそう小さく呟く。あの佐々木とデートもどきをしたときに、俺が佐々木を誘ったのがこの花火大会だった。
『夏だ! 祭だ! 花火を見に行こう!』
安っぽい剥がれかけの広告。いくらなんでも情けなさ過ぎるだろう。そう自嘲気味に笑う俺はあの時の言葉を思い出す。
――あぁ。僕が好きな花火は、ああいった花火大会の花火じゃない。それは、線香花火だよ
――うん。でも、キミが覚えていてくれて嬉しいよ
線香花火? 覚えていてくれて嬉しい?
あの時の佐々木の笑顔が頭の中に浮かんでくる。覚えていてくれて嬉しい、俺は一体何を覚えていたんだ?
あの時、俺は佐々木の言葉の意味がわからず、ただ適当にあわせていただけだった。けど、今やっとわかった、あのときの佐々木の言葉の意味を。やっと、思い出した。
放課後の校舎裏。昨日の大雨が嘘だったみたいに天気は快晴だ。
周りに人の気配がないことを確認して、俺は作業を続ける。
「こんなところで一体何をやっているのですか?」
振り返ると半ば呆れ顔の古泉がそこにいた。
「何って言われても」
俺は作業の手を休めることなく、そう返した。
「はっきり言って、全くもってしてそのあなたの行動は予想外です。昨日の出来事は我々の耳にも入っています。僕はてっきりあなたが部室にいないのは、それを気に病んでいたからだと思いました。しかし――」
「何だよ。なんか文句があるならもっとはっきり言えよ」
「意気消沈して家で寝込んでいるとか、どこかでふさぎこんでいるというのなら、予想の範囲内だったのですが、さすがにペットボトルに何か粉を詰めてそれを振るという行動は全くもってして予想外中の予想外です」
「そうか? まぁ、そうだな。実は俺も今日が初体験だ」
そういいながらも、俺はペットボトルに入った粉を注意深くかき混ぜる。
「校舎裏での今のあなたの行動に一体どういう意味があるのです?」
古泉は腰を落として、俺の手が握っているペットボトルを胡散臭そうな目で見つめている。俺がなにか新しい霊感商法にはまったと言ったら信じそうだ。
「それに、聞いていたほどあなたは落ち込んでいないみたいですし」
古泉は狐につままれたような顔で俺とペットボトルを交互に見ている。いつも、なんでも知ってる風に振舞うこいつが困惑している表情を見るのはなかなかに面白い。
「その中に入っている粉みたいなのはなんですか?」
痺れを切らしたように古泉はペットボトルの中身を指差した。
「あぁ、これか」
俺は得意そうにそのペットボトルを持ち上げ、中身をしたから見上げる。
「これはな、火薬」
「はぁ?」
古泉が口と目を開けて俺を見ている。これはまためったに見れない面白い表情だ、写真撮ってやろうかな。
「作り方を長門に教わったんだ。さすがに部室で火薬作るわけには行かないからな。こうして人のいない校舎裏にいるんだ。あぁ、別に復讐とかそんなんに使うわけじゃないから安心しろ」
古泉はそれでも納得できない表情だ。まぁ、確かにある日突然知り合いが火薬を作っていたら、そりゃそういう風になるわな。
「あ、キョンくーん」
俺と古泉の摩訶不思議な沈黙を破るように、朝比奈さんの甘い声が響いてきた。校舎の角からこちらに小走りでやってくる朝比奈さんの姿が見える。
「あ、どうもすみません」
「あ、別にお礼なんていってもらわなくても大丈夫です。でも、こんなの一体何に使うんですか? 確かに綺麗ですけど」
そう言いながら、朝比奈さんは手に持った小さな紙袋を俺のほうにそっと差し出した。
「ありがとうございます。助かりました」
「何ですか、それは?」
古泉が不思議そうに俺の受け取った袋を覗き込んでくる。
「あぁ、これか? ほれ」
そう言って、古泉に袋の中身を見せてやる。その中には、色とりどりの紙が入っていた。
「和紙、ですか?」
「そうです。あの、普段私がお茶を買っているお店の人に分けてもらったんです」
朝比奈さんが代わりに答える。そして、俺に微笑みを向けてくれた朝比奈さんに、軽く親指を立てて応える。
「てっきり塞ぎこんでいるとばかり思っていたのに。一体、あなたはなんでそんなに元気で、そして何をするつもりなんです?」
もはや、その表情に諦めの色を浮かべて古泉が尋ねてきた。
「やらなきゃならないことがあるからな。へこんでいる訳にはいかねえよ」
「あなたのやるべきこと?」
「そう」
「それは一体何なのですか?」
「作ってみせるんだよ。俺の手で、線香花火を」
得意げに右腕でガッツポーズを作って見せた俺を、古泉と朝比奈さんは不思議そうな顔で見ている。そして、梅雨が明ければもう夏がやってくる。また、夏がやってくる。
14「おじいちゃん」
9月の半ば、夏休み明けの倦怠感からようやく抜け出せるような頃だった。その日が9月の割に涼しくて、過ごしやすかったことを覚えている。そんな中学3年の2学期のある日だった。
「うぃーす」
鞄を肩に担いで、いつも通りに教室へと入ってきた俺は、すぐにその異変に気が付いた。
隣の席にいるべき人物がいない。
「あれ、佐々木は?」
この時間ならもういるべきはずの人物が見当たらない。佐々木は真面目な生徒で、遅刻ギリギリで学校にやってくる俺を教室で待ち構えているのが常だった。風邪でも引いたのかな、そんなことを考えながら席へ付こうとすると、俺の斜め前の席に座った岡本がその質問に答えた。
「あ、キョンくん。佐々木さんなら今日は忌引きでお休みらしいわよ」
「忌引き?」
「うん。おじいさんが癌で亡くなられたんだって」
「――そうか。わかった。ありがとう」
そう言って俺は岡本に軽く右手を挙げた。
席に着いて、窓の外を見上げた。空は今は晴れている。でも、天気予報だとこれから天気は崩れて雨が降るらしい。
佐々木のおじいさん――
「線香花火、か」
頬杖を付いて遠くの雲を眺めながら、俺はちょうど1ヶ月ほど前の出来事を思い出していた。
8月の暑い日。予備校や塾の類はこの夏休みを天王山などと位置付け、まさに連中にとっては掻き入れ時のシーズン真っ盛りなのである。俺も例に漏れず、その夏は来るべき高校受験に備えて夏期講習などというものに参加していた。そして、その日も半分睡魔と闘いながら授業を聞き終え、俺は鞄に教科書を詰めて帰り支度をしていた。
「やぁ、キョン」
同じ教室で授業を受けていた佐々木が、一足先に帰り支度を終え、軽く右手を挙げながら、俺の席の傍までやって来た。
「ん、どうしたんだ、佐々木?」
学校のある日は、俺が佐々木を自転車の後に乗せて予備校へ来るようにしていたが、今は夏休みだ。お互い、自分の家から別々に通っているため、休みの間は俺と佐々木が会話することは少なかった。
「これから、キミのスケジュール帳には何か予定が書き込まれているかい?」
「いや、何も」
佐々木は、そうか、と言って柔らかい光をたたえた目で俺を見つめてきた。
「じゃあ、これから花火をするだけの時間は取れるかな?」
「ん。別に大丈夫だけれども」
そう言って、俺は佐々木の大きな瞳を見つめ返した。佐々木がそうやって予備校帰りに寄り道をしようと、誘ってくるのは俺にとっては非常に予想外の事態だった。目を凝らして佐々木の真意を探る、でも俺にはよくわからなかった。
「そうと決まれば、早速行こう」
「え、今すぐにやるのか?」
「うん」
俺を急かすように、背中を向けた佐々木は振り返りながら短くそう答えた。柔らかく唇の端を伸ばして、俺と目を合わせると、また背中を向けて先を歩き始めた。佐々木にしては珍しく行動的だった。時計を見ると、時刻は午後6時。まだ蝉の鳴き声がうるさい。しかし、もうそろそろ陽が落ちる頃合だった。
「ここがいいかな」
自転車を押しながら、佐々木の後をついて歩くこと10分。俺たちは駅の近所の小さな公園にいた。
「あまり人がいなくていいね」
「当たり前だ。こんな時間じゃ、公園で遊んでいたガキ共も家に帰っている」
佐々木は深呼吸するように辺りを見回した。そんな佐々木の姿を俺は後から見ていた。まるで佐々木がこの公園を貸切にしたみたいに見えた。
人気のない小さな公園。錆び付いた滑り台が、静かに佇んでいる。
「ちょうどあそこのベンチが空いているみたいだ。あそこでやろう」
佐々木は公園の隅の小さな塗装のはげたベンチを見つけると、そこに向かって静かに歩き出した。もう、陽はほとんど沈んで、少しばかり涼しい風が吹いていた。
なんだって突然花火をやろうなんて言い出したんだか――
俺は軽く頭を掻きながら、佐々木の後に付き従った。
「なぁ、佐々木。花火っていってもどんなのをやるんだ?」
「花火、かい?」
「あぁ」
俺の頭の中に打ち上げ花火や、派手に炎を吹き上げる花火の姿を浮かべていた。
そんな俺を見て、佐々木は少し得意そうに笑うと
「これだよ」
鞄の中から何かを取り出した。佐々木はその手に小さな紙で出来た箱を載せて、俺に見せた。
「何だ、それ?」
スーパーとかコンビニとかで売っているビニール袋に入った花火を想像していた俺は、少し面食らった。その箱は、中に花火ではなく和菓子でも入っていそうな感じだった。
「ほら」
佐々木がその箱のふたを開けた。その開ける様は音もなく滑らかで、静かだった。ふたが外れる瞬間に柔らかい空気の音がした。箱の中には、紐みたいなものが5本並んで入っていた。
俺は訝しげにその箱の中身を覗き込んだ。
「これが花火?」
「うん」
いまだに納得できない表情でいる俺が可笑しいのか、佐々木は少し目を細めて
「線香花火だよ」
そう言って、その中の一本を、親指と人差し指でつまみあげてみせた。
「ふーん」
俺も佐々木に倣って一本手に取ってみた。紙をねじって出来たらしいそれは、柔らかい肌触りがした。
「線香花火が珍しいのかい?」
「いや」
俺だって線香花火を知らないほど世間知らずなわけじゃない。ただ――
「なんつーか、こう、俺のイメージじゃ線香花火って、ああいうパックの花火の脇役みたいなイメージでな。なんか、こうもっと地味というかなんというか」
俺のつまみ上げた線香花火は、まるで虹みたいな色をした綺麗な紙で出来ていた。
「これこそがれっきとした線香花火さ。しかし、キミになじみがないのも無理はない。今では伝統的な形の線香花火は絶滅危惧種だからね」
佐々木は大切そうに目の前の線香花火を見つめていた。
「けど、なんでお前がそんなに貴重な花火を持っているんだ?」
「ああ、それはね、僕のおじいちゃんが昔ながらの花火職人で、毎年夏になると線香花火を作ってそれを送ってくれるんだ」
色とりどりの線香花火を軽く指で遊びながら、佐々木はそう言った。その仕草があまりにも子供っぽくて、佐々木の顔が普段とは違うように見えた。
そんな佐々木の姿もそうだったが、俺は佐々木がおじいちゃんと言った事が少し引っかかっていた。なんか、普段のこいつのイメージだと「僕の祖父が」とか言い出しそうだったからな。
「ん、どうかしたのかい?」
佐々木は俺の目線に気がついたようで、不思議そうに尋ねてきた。
「いや、なんでもない。早くやろうぜ」
「そうだね」
そして、佐々木は鞄の中から小さなマッチとろうそくを取り出した。
地面にろうをたらして、そこにろうそくを立てた。火をつけたろうそくに線香花火の先をくっつけた。炎が静かに先端に燃え移った。ゆっくりとその火が上っていくと、やがて小さな光が生まれ、火花が瞬いた。線香花火を手にしゃがみこむ佐々木を俺は見下ろす形で、その光を見ていた。
「綺麗だな」
なんともなしに俺はそう呟いた。その暖かみのある光の中で、まるで時間が止まっているような錯覚がした。
「うん。そうだね」
火薬が静かに燃える音が、まるで生きている鼓動みたいに聞こえた。目の前の光の玉が少しずつ大きくなっていった。
「すげえ。なんか夜空の星をそのまんま取ってきたみたいだ」
俺のセリフを聞いた佐々木がくすっと笑った。
「何だよ」
「いや、キミがそんな詩的なセリフを口にするのが面白くてね」
「悪いか」
俺は口を尖らした。佐々木はそんな俺の姿を愉快そうに上目遣いに見上げると
「いや、すばらしいメタファサイズだよ」
そして、目線をまた花火の先に落とすと
「そうだね。今僕たちは星を見ているんだね」
そう、夏虫たちの鳴き声の中に消え入りそうな声で呟いた。
「なぁ、佐々木」
「なんだい?」
「なんで、花火は5本しかないんだ?」
俺たちは一本一本花火を楽しみ、4本目の花火を見ている最中に佐々木にそう問いかけた。花火は、それぞれ作り方が違うらしく、異なった色合いを発して俺たちを飽きさせなかった。
「どうして、そう思うんだい?」
「いや、5本って数としては少ないだろ。すぐに終わっちまう。おじいさんが花火職人なら、もっといろんな花火をくれてもいいはずなのに」
「あぁ、そういう意味かい」
佐々木はそう呟くように答えた。それとほぼ同時に4本目の花火の玉が地面に落ちた。
「あ、落ちちまった」
俺はその花火の玉が地面に落ちて、光を失っていく様をどこか寂しい気持ちで見ていた。
「おじいちゃんの口癖なんだ」
「え?」
「線香花火っていうのは作り方は簡単だけれども、作るのは難しいんだよ。そして、そうやって作った花火はほんの数十秒しか持たない――」
そういいながら佐々木は最後の1本をその手に取った。
「でもね。それで十分なんだ。ほんの数十秒しか輝けないなら、僕たちはその数十秒の間全神経を目の前の輝きに注げばいい。その瞬間を忘れないように、胸に刻み付けるように、ね」
そして、佐々木はゆっくりとした手つきで最後の一本に火をつけた。夏の湿気を帯びた柔らかい風が俺たちを包んでいた。
「僕たちが生きていく中で、本当に大切な瞬間っていうのはきっとそう多くはない。だから、5本っていうのはむしろ多すぎるくらいさ」
そう言って、佐々木は俺に笑いかけた。その表情は線香花火の光に照らされて、俺はそこになんとも表現しがたい懐かしさみたいなものを感じた。
「そうか」
「うん。数少ないものだからこそ、きっとその限られた瞬間が、貴重な一瞬として僕の心に刻まれていくんだよ。大切な記憶として、ね」
俺はなんと答えていいかわからなかった。ただ、この瞬間、この夏が俺にとってもう二度とない、たった一度の貴重な時間であることだけは、その線香花火の光の中で十二分に伝わった。
「なぁ、佐々木」
「なんだい?」
「もしよかったら来年もやろう。おじいさんは毎年花火を送ってきてくれるんだろ?だったら、来年も誘ってくれよ」
俺は特に何も考えずに、その場の思いつきで来年の約束を提案してみた。
「……そうだね。そうなれるといいね。こうしてまた、キミと花火が見れるといいね」
そして、佐々木はただ静かに輝く線香花火を見つめているだけだった。
それから、約一ヶ月後、俺はその佐々木のおじいさんが亡くなったことを俺は知った。おじいさんが病気で辛い身体をおして、どんな気持ちで佐々木にこの最後の花火を送ったかはわからない。そして、佐々木がどんな気持ちでその貴重な最後の花火を俺と見たのかも。
唯一つその時はっきりとしていたのは、あの時交わした何気ない約束は、きっともう果たされることはないだろうということだけだった。
15「星を創る」
「なぁ、長門」
部室に入るやいなや開口一番、部室の奥に鎮座した長門に声を掛けた。
「なに」
「線香花火の作り方を教えてくれ」
俺の突然の頼みに、長門はゆっくりと読んでいた本から視線を俺へとずらし、ほんの少しだけ首を傾げてみせた。
俺はペットボトルの火薬をかき混ぜる手を少し休めて、空を仰いだ。
「ふぅー」
古泉や朝比奈さんは部室に帰ったし、今ここには俺しかいない。かんかん照りの太陽の下での作業はかなり苦しいが、贅沢は言っていられない。これからますます暑くなる。本格的に夏が来るまでに仕上げないと。
ちょっと休憩して、そう思い直した俺は長門からもらったレシピに再び目を通す。硝酸カリウム、硫黄、木炭、鉄。化学の苦手な俺には見るだけで頭が痛くなりそうな文字が並んでいる。まぁ、どこからともなく長門が用意してくれた薬品を、計って混ぜるだけなのでそんなに苦労はしなかったけど。
火薬を混ぜる作業は、大体これでいいだろうと見切りをつけて、次に朝比奈さんからもらった和紙に火薬を包む作業に移る。注意深くペットボトル中の粉を薬包紙に移して、それを小さじですくって和紙の中央に乗せる。これをねじって紙縒りを作れば、完成だ。
「よし、出来た」
出来上がった花火を指でつまみあげて、改めて眺めてみる。紙縒りが捻じ曲がっていて不細工だが、最初はこんなもんでいいだろう。
さすがに校舎裏で花火をしているところを見つかったらやばいだろうが、一本だけなら大丈夫だろう。そう思って、座っている脇に置いておいたライターを拾って、恐る恐る花火に火を点ける。
ゆっくりとライターの日に近づけた紙縒りの先に静かに火が移ったと思った瞬間、ぽんっと小気味のいい音を立てて、一瞬で火花が燃え尽きた。辺りに焦げ臭い火薬の匂いが漂う。
「あちゃー」
火薬の量が多すぎたのか、それとも俺の紙のより方がまずかったのか。とにかく大失敗だった。これじゃ、花火じゃなくてただの火薬を包んだ紙だ。
「へったくそ」
その時、後から声がした。声を聞いただけで、相手が誰かわかった俺は、ゆっくりと振り返る。そこではハルヒが両手を腰に当てて俺を見下ろしていた。
「しゃあねえだろ。初めてならこんなもんさ」
後に立つハルヒを見上げながら、両手を軽く挙げて俺はそう答える。思い返せば、これはあの駅で別れて以来のハルヒとの会話だった。
「神聖な部活をさぼって何をやっているのかと思えば……」
そうやってハルヒは腰に手を当てて首を軽く振りながら、大げさなため息を付いてみせた。ハルヒの後の太陽が眩しい。
「ほんっとどんくさいわね」
すっ、と俺の隣にやって来たハルヒはそこにしゃがみこんだ。風に吹かれたハルヒの前髪が俺の唇に当たる。ハルヒの視線の先には、無残に焼け焦げただけの紙が転がっていた。
「うるせえな。わざわざ俺をバカにしに来たのかよ」
俺はわざとらしく悪態をつく。
「あら、あたしだってたまにはあんたのこと褒めたいのに、あんたがろくなことしないんじゃない」
お前にだけは言われたくない。
と、俺の隣にしゃがみこんでいたハルヒは、そのままそこに座り込んだ。
「てっきりあんた落ち込んでいると思っていたのに、思っていたより元気そうね」
ハルヒは両手を背中の後ろに置いて、軽く足を伸ばしながらそう呟くように言った。
「そうでもねえよ」
「え」
ぶっきらぼうにそう答えた俺を、ハルヒは不思議そうに俺の顔を眺めている。
「落ち込んでいないって言ったら嘘になる。でも、俺が塞ぎこんでも何も解決しないだろ」
ハルヒは軽く鼻を鳴らすと
「やっぱ、突然不器用極まりないあんたが花火なんか作り出したのは佐々木さんのため?」
一言が余計だが、その通りだ。
「あぁ、約束したからな」
「そっ」
自分から聞いてきたくせに、ハルヒは俺の答えを聞くとそう一言だけ言って、視線をどこへともなく向けた。そんなにどうでもいいなら、訊かなければいいのに。
「古泉くんやみくるちゃんから、あんたが部活さぼって校舎裏で花火を作っているって聞いたときは驚いたわよ。ショックで高校中退して花火職人になるとか言い出すんじゃないかと思って」
「何だよ、そりゃ。意味不明だな」
「意味不明なのは、あんたの行動でしょ」
校舎裏で、無残に焼け焦げた花火の残骸を前にして、俺とハルヒは隣り合って座っている。ビルの隙間を縫うように吹く風が心地いい。
「部室に戻ってきなさいよ」
何の前置きもなくハルヒはそう言った。
「いきなりなんだよ」
「あんたが部室にいないと、その古泉くんのゲームの相手もいないし、みくるちゃんも心配しているし」
「あんな木造校舎で火薬を取り扱うわけにはいかないじゃないか」
「あんたみたいなどんくさいのが、校舎裏で一人火薬混ぜてるほうがよっぽど危険よ。それに部室には物知りの有希もいるし」
ハルヒは矢継ぎ早に言葉をつむぎだすと、言うべきことは言ったとばかりに俺の顔をじっと見ている。
「わかったよ。みんなの顔が見れないのも寂しいし、こんなとこで毎日お前と二人っきりでいると今度はどんな噂を立てられるかわかったもんじゃないからな」
ハルヒは慌てて立ち上がり、口をパクパクさせて何かを言おうとしているみたいだが、うまく言葉が出てこないようだ。俺はそんなハルヒを放っておいて、さっさと散らかした花火セット一式を手に持つと、先に部室へと歩き出した。
「あ! ちょっと、待ちなさいよ」
ハルヒは立ち上がって、大声を上げながら俺を人差し指で指した。そして、俺の背中を追いかけてきたハルヒは追いつくと同時に、俺の太ももに蹴りを入れてきた。
「いてっ。お前何しやがる」
「団長を無視した罰よ」
そう言い放つと、ハルヒは気持ちよさそうに髪の毛を風になびかせながら、俺の前を歩いていく。
「やれやれ」
俺はなんともなしにハルヒの後について歩く。そこに何も特別な理由はない。ただ、そうすることに慣れて、そうすることが当たり前になってしまっているだけだ。
中学3年の頃と、俺は変わった、か。確かにそうかもしれない。前を歩くハルヒの背中を見つめながらそう思う。高校生になって、俺もハルヒも少しずつ変わって来ている。そして、きっともちろん佐々木も。
勇気を出してコールボタンを押す。携帯電話の間抜けな呼び出し音が遠くに聞こえる。あいつは電話に出てくれるだろうか。あれから何のコミュニケーションも取っていない。その空白がどうしようもなく遠く感じられる。
そして、短い電子音ともに呼び出し音が消えた。静かなホワイトノイズが聞こえる。
「……もしもし」
しばらくの間を置いて、電話の向こうから声が聞こえてきた。
「よう、佐々木」
俺は精一杯明るく取り繕った声を出してみせる。いつも通り、普段通りに話しかけるように。
「うん」
しかし、返ってきたのは煮え切らない返事だった。俺は自分のベッドのシーツを少し強く握り締める。やはり緊張している。あの時の光景がまた頭の中に蘇る。あのときの佐々木の声が響く。
「元気か?」
緊張に耐え切れなくなった俺は、間を持たせるために間抜け極まりない質問をしてしまった。
「……ほどほどにね」
電話の向こうの声に活気は感じられない。
時刻は午後9時。声が小さいのは、周りに人がいるような場所だからだろうか。おそらく予備校に通っているであろう佐々木の、授業が終わる時間を見計らったつもりだったのだが。
「今話しても大丈夫か」
「うん」
いつぞやかに佐々木を遊びに誘ったときよりも、話しづらい。沈黙の一つ一つが俺の胸にたまって、その重みで今にも倒れこまんばかりだ。
「佐々木、俺約束したよな」
「え?」
電話の向こうから驚いた声が聞こえた。
「花火しようって約束したよな、前に」
「……あぁ、ちょうど1ヶ月くらい前の話だね」
「違う。約束は2年前だ」
沈黙。佐々木は覚えているのだろうか、あのときの他愛もない約束を。2年前のあの夏の日を。
「でも、キョン。悪いけど、あの約束は果たせないんだ」
よかった、覚えていてくれた。伝わった。
俺は小さな安堵に胸をなでおろした。
「大丈夫だ。あの約束は必ず果たしてみせる。だから、7月の一日だけスケジュールを空けといてくれ。いつになるか明言できないのが、申し訳ないけどな」
「いや、けど」
「お前の親友を信じてくれ。一度した約束はきっちり守る」
「……キョン?」
「大丈夫だ。一年すっぽかしちまった埋め合わせは必ずしてみせるから」
少しの沈黙。俺は伝えたい言葉は伝えた。
「……悪いけどもうすぐ電車に乗るんだ」
「あぁ、伝えたいことは伝えたから大丈夫だ。こんな夜にすまなかったな。身体壊すなよ。じゃあ」
「……じゃあね」
電話は今までの緊張が嘘みたいにあっさりと切れた。 何も明確な返答をせずに、電話を切った佐々木の意思は俺にはわからない。俺は折りたたんだ携帯をベッドサイドに置くと、ベッドの上に仰向けになって、部屋のカレンダーを見る。7月まであと1ヶ月。
もう一度会うとき、あの頃に置いてきたものをもう一度拾い上げる。時間に埋もれて見失ってしまう前に。あの頃からお前の心がまだ眠っているというのなら、俺がその目を覚ますのを手伝ってやる。
俺がお前を待っている。
俺は待っている。
俺はお前が目を覚ますのを待っている。
星を創る。もう一度、あの夏の日にお前と一緒に見た星を創ってみせる。
俺は一人ベッドの上にカエルみたいに座り込んで、そう誓っていた。
16「机」
相も変わらず俺は、和紙に火薬を入れてはそれをねじる作業を続けている。長門に教えてもらう以外にも、自分で勉強してある程度の知識はつけてきたし、なんとか花火と言っても差し支えないものも作れるようになって来た。
「あーもう、こう毎日毎日雨が降るとうっとおしいわねー」
部屋中に雨が窓を叩く音が響き渡っている。部室の奥に座ったハルヒがわざとらしく、窓を叩く雨を横目に見ながら文句を言っている。俺はその間も一人部室の机の上で、花火作りに精を出す。金属製の果物缶の中で着火テスト。火花を散らしながら、火の玉が先のほうで丸く大きく成長していく。
「うわー、いい感じになってきましたね」
朝比奈さんが俺の前にお茶を置きながら、そう話しかけてきてくださった。
「ありがとうございます」
「もう、これで十分に線香花火としては、十分及第点だと思うのですが」
俺の前で一人で詰め将棋を指していた古泉も会話に加わる。
「確かに形にはなったが、まだまだ全然だ。俺が見た花火はもっとこう、綺麗な色で輝いていた。今の俺の花火はただの火だな」
実際、俺だって線香花火を作る上で火薬の量とか紙縒りの作り方を大まかに把握できた進歩を喜んでいないわけではない。けど、それだけじゃ全然足りない。
「それに、あいつの花火は5つとも色が少しずつ違っていたしな」
頭の中で漠然とあの日の光景を思い浮かべる。そう、今俺が作っている奴とは色合いが全く違う。5本ともそれぞれに独特の色合いがあって、はっきりとは思い出せないけれども、青っぽい光や緑の光や赤い光があったはずだ。
「色が違うって、どうやって炎に色を着けるんですか?」
朝比奈さんが不思議そうな顔で尋ねてこられた。
「それは」
「添加金属元素が系に加わった燃焼反応による発光。主として炎色反応」
俺の言葉を遮るようにして、部屋の片隅で本を読んでいた長門が答えた。
「え、えんしょく反応?」
朝比奈さんは驚いた表情で長門の言った言葉を繰り返す。明らかに炎色反応というものを知らないみたいだ。
「金属原子の原子発光スペクトルのことです。要は、ある金属原子を燃やすと、その金属原子固有の色の光が出てくる反応のことですよ」
理系クラス所属らしく古泉が答える。
「打ち上げ花火の色もそういった金属元素を使って行われています。例えば有名なものでは銅の青緑色。ナトリウムの黄色。」
「後はバリウムの緑。ストロンチウムの赤、ぐらいが有名かな。あと、化合物の種類によっても微妙に色が違って、水酸化ストロンチウムはピンク色で塩化ストロンチウムは深紅色をしている」
古泉の話の後を受けた俺を、そこに介した一同が不思議そうな目で見ている。
「す、すごいですぅー」
朝比奈さんは感嘆の言葉を漏らしておられるし、
「さすがですね。よく勉強しておられる」
古泉は褒めてんだか嫌味だかわからない。
長門は静かに俺を見つめている。
「俺だって一応その程度のことは勉強したんだ。とりあえず、どんなものを混ぜたらどんな色が出るかくらいは知っておかないとな」
俺の返答はなぜか言い訳じみていた。まぁ、仕方がないだろう。普段の俺の理系の壊滅っぷりをみれば、誰だってまずは信じられないという表情をするだろうからな。
「じゃあ、今回の期末テストで化学はばっちりですね」
顔中に満面の笑みを浮かべて、朝比奈さんがそう言ってくださった。
「いやー、でも俺が詳しくなったのって炎色反応のところだけですし。正直化学が得意になったっていう感じはあまり……」
と、言いつつも化学に対する苦手意識が薄くなったことは自覚している。でも、そう言えばもう期末テストの時期なんだな。思い返すと、谷口のアホですらちょっと勉強を始めていた気がする。
「なーに、調子に乗ってんのよ。炎色反応がテスト範囲だったのはこないだの中間テストよ」
部室の奥から、わざとらしく不機嫌な声が飛んできた。声を出した人物はもちろん、我らが団長涼宮ハルヒその人である。
「何だよ」
俺もまたわざとらしく不機嫌に返した。
「あんた花火作りにかまけて、試験勉強なんてまともにしてないじゃない。そんなんであんたの頭で大丈夫なわけ? 言っとくけど、あたしは栄光ある我が団から赤点を取るようなバカが出ることを許すつもりはないわよ」
残念ながら、返す言葉がない。図星だった。確かに、俺はここ最近ずっと花火ばっか作っていてろくに勉強なんてしていない。期末テストの存在すら忘れているぐらいだったからな。
でも、だからといって、花火を作る手を休めるわけにはいかない。時間がないんだ。もう、6月も終わりだ。早く、満足の行くものを作らないと、間に合わない。1年遅れた佐々木との約束をもう1年遅らすわけにはいかない。
とは言っても、やっぱりこの時期テストでろくでもない点を取ると、きっと後々しんどい思いをすることになるんだろうな……
そんなことを思案している俺の隣に気が付けばハルヒがやって来ていた。
「何だ?」
ハルヒはしばらく俺と、机の上に転がっている花火製作現場を交互に眺めたあと、こう言った。
「仕方がないわね。今回だけは特別に、このあたし自らが家庭教師をしてあげるわ」
一瞬俺はわが耳を疑った。ハルヒの奴は言うだけ言うと、ぷいっと横を向いてまた自分の席に着いた。そして、なにやらせわしなく忙しい忙しいといいながらパソコンのキーボードを叩いている。
俺はしばらく目の前の花火製作セットを眺めた後、気を取り直して作業を再開する。目の前で、にやにや笑う古泉が気になったが無視してやった。
「おはよう、キョン」
「おう」
その次の日、珍しく国木田と登校中に会った。
「珍しいな、お前がこんな時間に登校してくるなんて」
「夜遅くまで試験勉強をしていたらね、ちょっと寝坊してしまって」
「そうか」
改めて俺の周りはもう試験モードに入っているということを感じた。
それから、俺と国木田はそのまま汗ばむ夏の坂道を登っている。太陽の日差しがじりじりと暑い。これから7月になれば、よりいっそう日差しは強く増すだろうな。
「ところで、キョン」
「なんだ?」
坂道を登りながら空を見上げている俺に、静かに国木田が話しかけてくる。
「佐々木さんと何かあったのかい」
国木田の口から佐々木の名前が出た。
「何か聞いたのか?」
「うん。例の予備校の友達からね」
「そうか。あいつは、佐々木はどうしてる?」
「あれ以来嫌がらせの類はなくなったみたい。けど」
「けど?」
「彼女は以前にもまして暗くなったらしい。キミと再会してから少し明るくなったらしんだけどね。今では学校の授業中でもぼーっとしていて、見ている方が痛々しい位だって」
「……そうか」
大方わかりきっていたことだった。あの事件が佐々木にとっていい方向へ向くものではなかったと。あのときの、佐々木の表情と声は今でも鮮明に頭の中に焼きついている。
「どうするんだい?」
沈黙を続ける俺に国木田が尋ねてきた。
「このままっていうわけにはいかないよね。キョン、キミはどうするつもりなんだい?」
国木田の口調は穏やかだ。そして、穏やかであるがゆえに逃げられない迫力みたいなものを感じる。
「謝って許して欲しいなんて都合のいいことは思っていない。でも俺は、ただ――」
「ただ?」
「ただ、あいつに知って欲しい。それだけだ」
俺の一言に国木田はゆっくりと目を丸くした。
「ちょっと、そこ計算ミスってるわよ。マイナスが抜けているじゃない」
「あ、ほんとだ」
「何が、ほんとだ、よ。問題うんぬん以前のケアレスミスばかりじゃないのよ。ほんと、あんたみたいに出来の悪いのに教えるのは苦労するわ」
日曜日、ハルヒは俺に宣言したとおり、家庭教師をしに俺に部屋にやって来ていた。俺の隣に座ったハルヒは、上半身を前に乗り出し、次から次へとハルヒ特製ドリルをやっている俺のミスを指摘してくる。ちなみに、俺の普段使っている椅子にはハルヒが座っていて、俺は適当な丸椅子に座っている。まぁ、教えてもらっている立場だから仕方がないか。
ろくすっぽ試験勉強なんかせずに花火作りにばかりに精を出していた俺は、ハルヒの厚意をありがたく受けることにした。その結果、試験前のこの週末にハルヒにみっちりと家庭教師をしていただくことになったわけである。
「苦労するとは思っていたけど、ほんっとあんたってどうしようもないわね」
さすがに言い返す言葉がない。
「あー、疲れたわね。ちょっと休憩よ、休憩」
ハルヒは大きな声でわざとらしくそう言うと、部屋の真ん中の座敷テーブルに座ってジュースを飲み始めた。このジュースはなにやら気を回した母親が持って来たものだ。
家庭教師が休憩し始めたため、俺も勉強の手を止めてハルヒの向かいに座る。
「何よ、もう勉強やめたわけ?」
「休憩だ、休憩。人間の集中力っていうのは90分しか持たないらしいぞ」
「あら、あんた一人前に集中していたっけ?」
また痛いことを言う。
「うるさい」
なんで、休日にまでハルヒに俺はぼろくそに言われなくちゃならないんだろうね。天井を見上げて軽く神様を恨んでやる。
「そういえばさあ、あんた」
「何だよ」
「花火は完成したの?」
ハルヒにしては珍しく遠慮がちな口調だった。
「あぁ、完成した」
その遠慮勝ちな質問に俺は素っ気無く答える。
「ほんとに?」
「お前に嘘ついてどうする。ほかの事そっちのけで1ヶ月粉を混ぜては燃やしを繰り返してきたんだ。それなりのものは出来た」
「そう」
それっきりハルヒは少し黙り込んだ。少し居心地の悪い沈黙が部屋を支配する。
「あっ」
突然、ハルヒはそう声を上げると立ち上がり、俺の部屋の本棚のほうへ歩いていった。
「何だよ」
「この本棚あんたのアルバムが入っているじゃない」
「なっ」
ハルヒが向かった本棚には確かにアルバムが入っている。普通の人にならアルバムくらい見られてもかまわないだろう。しかし、相手はあのハルヒだ。過去の俺のアルバムを見て一体何をしでかしてくるか皆目見当が付かない。得体の知れない危険は早めに回避するに限る。
「やめろって」
「何よ。あんたのアルバムなんて面白そうじゃない。どんな間抜け面をした子供だったか見てやるわ。って、あ!」
ハルヒの目が獲物を見つけた肉食獣のように輝き始めた。俺は恐る恐るその視線の先を探る。その先にあったのは――
「あんたの中学の卒業アルバムね。面白そう。あんたがどんな卒業文集を書いたか見てやろっと」
最悪のものがハルヒの視界に入ってしまった。
「お前、それはちょっと待ってくれ。プライバシーの侵害だ」
「何よ。卒業アルバムと見せかけて実はエッチな本とかそういう古典的な隠し方をしているわけ?」
「いや、そんなことはないが……」
「何かウケ狙いで恥ずかしいことでも文集に書いたの?」
「そういうこともないけど……」
「じゃあ、別にいいじゃない」
そう言うとハルヒは本棚からアルバムをひょいっと取り出した。
「あ、返せって」
ハルヒからアルバムを取ろうと飛び掛った俺を、ハルヒは闘牛士のようにひらりとかわし、俺のベッドの上に座ってアルバムを開き始めた。
「えー、あんたって中1のころこんな顔してたのー!」
あぁ、もうだめだ。完全に手遅れ。
「何この髪型。全然似合ってないわよー」
もう好き放題言われている。あぁ、もう天災に遭ったとでも思ってあきらめよう。
「あ」
散々俺を面白おかしく罵倒しながらページをめくっていた、ハルヒの手が止まる。ハルヒの突然の様子の変化に俺もアルバムの開かれたページを覗き込む。
そこには俺と佐々木の写真があった。昼休み、昼飯を食う俺の机に隣の机に座った佐々木が身を乗り出して、二人で話をしているところを撮られた写真だ。両肘を俺の机の上に置いて、手で頬を支えながら俺に何かを語りかけている。そして、俺はそんな佐々木を横目に見ながら飯を食っている。これはクラスの日常の姿を残す、という名目でほとんど盗撮まがいに撮られた一枚だった。
「クラスの連中が昼休みに話しているところを勝手に撮ったんだ。偶然だ。他意はない」
それは半分本当で半分嘘だ。実際には、おもしろがったクラスのアルバム委員の連中がその写真を採用した。
写真の中では、佐々木は笑っている。そういえば、あの頃はこの笑顔を俺は毎日見ていたんだ。よく輝く二つの瞳が俺に向けられている。確かにこの写真だけをみたら勘違いする奴らもいるだろうね。そして、今ではそれがあまりにも遠い過去のように思えてしまう。そんなこともあったのか、いつの間にか俺はそれを記憶から失くしそうになっていた。
ハルヒは何も言わずに写真を見つめている。その目から、俺はハルヒの感情を読み取ることは出来なかった。
「なぁ、ハル――」
「15分、はい休憩終了!」
沈黙に耐え切れず語りかけた俺の言葉を遮るようにハルヒは立ち上がった。
「えっ」
「ほら、何ぼさっとしてるのよ。まだまだやることは山ほどあるんだから。いつまでもさぼってるんじゃないわよ!」
ハルヒは俺の手をつかむと、机に向かって引きずり始めた。そして、俺をどさっと椅子に座らせると、自分は社長のように偉そうに椅子でふんぞり返っている。
「あー、あんたまたおんなじ間違いしてるじゃない!」
ハルヒが俺の傍に身を乗り出して、俺の解いた特製問題集を指差してくる。両肘を机の上に乗せて、あの写真と同じ距離感で。
17「伝わる時間」
笹の葉が短冊の重みで少しだけ揺れる。去年と同じように今年も、俺は短冊に願い事を吊るしていた。
そう、今日は七夕だ。
「今年も、ですね」
隣でゆっくりとした手つきで短冊を吊るしている古泉が話しかけてくる。
「まさか、高校生にもなって短冊を吊るしているなんて、小学生の頃には思わなかったな」
古泉に返答しつつ、俺は短冊の紐を静かに結び終えた。
「ところで、願い事はなんて書かれました?」
「馬鹿野郎。それを言っちゃいけないっていうのがルールだろ」
短冊に二つの願いを書いて、それを笹の木に吊るす。そこまでは去年と同じだったが、この年の七夕は少し違っていた。
ハルヒの奴が突然、「願い事っていうのは人に教えると叶わないっていうじゃない。だから、今回の七夕は願い事は秘密にしましょう」、と言い出したからだ。初詣じゃあるまいし。というわけで、俺たちは短冊に願い事を書いた後、それを二つに折って吊るしている。
「まぁ、それはそうですけどね」
爽やかスマイルで軽く受け流す古泉。わかっているなら訊くなっちゅうの。
「けど、逆に気になりませんか?」
「何がだ」
「人に見せないからです。普段は表に出ていないような、その人の潜在的な願望が書かれているのかもしれませんよ」
確かに、人に見せない分、恥ずかしさもなく思っていることを書ける。ゆえに他の人が書いた願い事も気にならない、ということはない。だが。
「それはルール違反だろ」
「そうですけれどもね。逆に、あの人はこんな願い事を書いているかもしれないと想像するのは楽しいですよ」
古泉の何かを企んでいそうな目を軽く流す。古泉は俺が何も言い返してこないということを理解すると
「そうですね。例えば涼宮さんが『素敵な恋人ができますように』と書いているとか」
「なっ」
予想外の方向から飛んできた古泉の一言に俺は思わずこけそうになった。
「何を馬鹿なことを言っていやがる。あのハルヒがそんなことを書くわけないだろう」
「何よ、あたしがどうかしたの、キョン」
この地獄耳め。
めざとく俺の発言を聞き取ったハルヒがいつもの団長席から俺をにらみつける。ハルヒの奴はさっさと自分の分は吊るし終わって席に座っていた。
「なんでもない」
古泉の裏になんでもありそうな笑顔を尻目に、軽くハルヒの視線を流しつつ俺は椅子に座った。
「あれはいやがらせか、この野郎」
帰り道、いつもどおり女子部員たちのあとを俺と古泉は歩いている。
「いえいえ、可能性の話ですよ。可能性の」
ふざけやがって。
俺は冷たい視線を古泉に浴びせかける。その視線に気が付いたのか、古泉はまるでドッキリを告げるテレビレポーターのように両手を広げると
「そんな怖い顔をしないでください。ちょっと、からかってみたくなっただけですよ」
「お前にからかわれる筋合いはない」
「そうですか? あなたのおかげで結構僕は忙しかったんですけどね。少しくらいからかってもバチは当たらないと思いますが」
「どういう意味だ」
「わかっておられるくせに」
ハルヒのストレスで発生するというあの馬鹿げた閉鎖空間とかいう奴。結局、俺は佐々木との一件に関するこの閉鎖空間問題については、古泉に丸投げしていたのであった。
俺は意識的に歩く速度を落とす。
「例の閉鎖空間とやらは一体どうなっているんだ?」
「最近、発生は収まっています。特にあの一件以降」
古泉も歩く速さを俺に合わせそう答えた。
「あの一件?」
「お二人が佐々木さんの高校へ行った時ですよ」
古泉はその時の俺の表情を見て一瞬躊躇した。しかし、すぐに気を取り直すと
「あの事件は涼宮さんの精神にも大きな影響を与えました。本人はそんなことを周囲に気付かせないように努力していますけれどもね」
「影響?」
朝比奈さんとじゃれあうハルヒの後姿を眺めながら古泉に問い返す。
「誰かのため、を思ってしたことが結果的にその人を傷つけてしまった。そのショックは多かれ少なかれ、彼女の精神に影響を与えています」
俺にとっても耳の痛い話だ。
「彼女が純粋に佐々木さんを助けたかったのか、それとも佐々木さんの問題を片付けてあなたに自分を見て欲しかったのかはわかりません。けど、あの一件以降涼宮さんの佐々木さんに対する見方が変わったのは間違いありません」
「どう変わったって言うんだ?」
「彼女にとって佐々木さんは単純な嫉妬の対象ではなく、なんというかもっと別のシンパシーみたいなものを感じたみたいです。憎みたくても、どこか憎みきれないようなね」
目の前を歩くハルヒは普段のままだ。いつも通り朝比奈さんにハルヒがじゃれ付いて、その横を長門が黙々と歩いている。何もかもが当たり前のように今までどおりだ。
「あなたが佐々木さんのために花火を作っている間、彼女がどんな気持ちでそれを見ていたか考えてあげたほうがいいじゃないですか」
「んなもん、俺にわかるか」
「結局、涼宮さんに線香花火は見せてあげていないんですよね?」
「あれは佐々木のために作ったもんだ。だから、佐々木に一番最初に見てもらいたいんだよ」
「それでも、かまいませんから、涼宮さんのこともほったらかしにしてあげないでください」
「やれやれ。いろいろと気を使わなきゃならないってか」
「でも、きっとそれが大人になるということですよ」
夕日を浴びて輝く古泉の笑顔からわざとらしくうっとおしそうに目を逸らす。まだ夕暮れの風は涼しかった。
線香花火は完成した。よって、後俺のやるべきことはもう限られている。
晩飯を食った後、自分の部屋のベッドに座り携帯を開く。ディスプレイにあいつの電話番号を表示する。時刻はこの間電話をかけたときと同じ時刻だ。
数回のコール音の後で、電話が繋がった。
「もしもし」
「こんばんは、キョン」
心なしか、この前電話をかけたときよりも声に元気がある気がする。
「こんばんは。今話しても大丈夫か?」
「あぁ」
「用件は一つだけだ。例の花火だけどな、来週の日曜日にやろう。お前の都合は大丈夫か?」
沈黙。電話の先ではホワイトノイズが鳴っている。俺は佐々木の反応に冷や汗をかいていた。また、俺は何かやらかしてしまったのだろうか――
「ねぇ、キョン。今日は七夕だね」
「え、あぁ。うん」
佐々木から返ってきた予想外の返答に俺は間の抜けた声を出す。突然、一体何を言い出したんだ?
「織姫と牽牛。織姫は優秀な機織り、牽牛もまた働き者の牛飼いだった。でも、二人が結婚すると、夫婦生活の楽しさにかまけて織姫は機を織らなくなり、牽牛は牛を追わなくなった。こうして二人は引き裂かれ、1年のうちのたった1日だけ会うことを許された。これが僕たちのよく知っている七夕伝説だね。子供の頃はなんとも思わなかったけれども、今は少し違う。お互いが強く求め合っているのに、二人が一緒いてはいけないというのはどうしようもなく残酷で悲しい話だね」
佐々木は唐突に返事の代わりに、七夕の話をし始めた。その声色にはどことなく冷めたような色合いがある。
「なぁ、佐々木。知ってるか?」
「……何を?」
何の脈絡もなく話を切り出した俺に答える佐々木の声には戸惑いが感じられる。
「織姫のベガは地球から25光年、牽牛のアルタイルは地球から17光年離れているらしいぜ。アインシュタインの相対論によると、この世に存在する全てのものは光速を超える速さでは移動できないらしい。だから、俺たちが短冊に書いた願い事が織姫と牽牛に届くのは25年後と17年後だ。気が遠くなるよな、そんな想像もできない未来に願い事が叶うなんてな。だから、願い事はその時の自分の願いを想像して書かないといけないらしい」
「それが……どうしたと言うんだい?」
「考えても見ろよ。織姫と牽牛の間ってのは25引く17の8光年も離れているんだぜ。そんな巨大なスケールで生きている連中だ。1年に1回なんて連中にとっちゃ大した障害じゃない。星の年齢は億年単位だから、俺たちの感覚でいうと1年間なんてほんの数秒程度だ。数秒に一回会っているんだったら、それはもうアツアツのバカップル以外の何者でもないな」
佐々木は俺の言葉に何も返さない。俺の胸の中に重い沈黙が広がる。だめだったのか、そう思い始めた瞬間に、電話口の向こうから聞きなれたあの笑い声が聞こえてきた。
「キョン、キミはベクトルの勉強をちゃんとしたほうがいい。単純に地球からの距離を引き算して、ベガとアルタイルの間の距離を求めるなんて大間違いだよ」
電話口の向こうで佐々木の笑い声が休みなく聞こえてくる。よっぽど俺の間違いを指摘したのが嬉しかったのだろうか。思えば、俺たちの会話はいつもそうだった。中学時代から、ずっと。教室での他愛もない会話で佐々木は俺の間違いを見つけると、何が可笑しいのか嬉しそうに笑った。そのときの佐々木の輝くような瞳を俺はまだ覚えている。
「悪かったな。今回の期末テストも数学は赤点ギリギリだ」
「くっくっ。気を悪くしたなら失礼。でも、僕はキミの洞察力の鋭さに大いに感服しているのだよ。確かに、キミの言うとおりだ。星の話をするなら、ものさしを天文学的なスケールにしないといけないね。確かに、その通りだ」
佐々木の笑い声はしばらく続いた。しかし、それが止むと再び沈黙が俺たちの間を支配知る。
「ねえ、キョン」
「何だ?」
短い沈黙を破ったのは佐々木だった。声に先ほどまでの快活さは感じられない。
「キミは、僕のことを怒っていないのかい?」
予想外の言葉に俺は面食らう。怒る? 俺が?
「いや、そんなことは」
「だって、僕はあの時キミに随分とひどいことを言ってしまったから。きっと嫌われてしまったと思った」
俺が佐々木を嫌う? そんなことは考えたこともなかった。ということは、もしかしたら今まで佐々木はそんなことで悩んで――?
「いや、むしろ俺のほうこそお前を傷つけたって」
「怒ってないのかい?」
「あぁ」
「――よかった」
佐々木の漏らした小さな声が携帯電話の電波を通して聞こえた。そしてまた、沈黙。でも、この沈黙は少し心地よかった。
沈黙を破ったのはまたしても佐々木の声だった。
「17年と25年か。長いね」
「えっ?」
「短冊に書いた願い事が届くまでの時間さ」
「あぁ。そうだな。しかも返ってくるまで往復だしな」
「それは違うよ、キョン。伝えたい思いが伝わればそれでいいのだから。片道だけで十分さ。でも、そのことを考えれば、想いを伝えるのに1年以上かかったとしても仕方がないと思えるかな」
「佐々木?」
「キョン、花火を楽しみにしているよ」
「――あぁ、わかった」
俺は窓から夜空を見上げた。天の川は見えないけれども、光り輝く織姫と牽牛ははっきりと見える。きっと、佐々木にも同じように星が見えるだろう。同じ星が見える場所にいるんだ。俺たちは全く離れてなんかいない。
俺が織姫と牽牛宛に送った未来の願い事は『この今を忘れていませんように』『今を大切にしていますように』だった。
忘れたくない、みんなと過ごしている今を。そして、大切にしていたい、そこから繋がる未来を。叶えて欲しい願い事じゃない。俺の未来の俺への約束だ。
18「君が微笑めば、世界も君と微笑む」
あの日から数えて、これが何度目の日曜日だろうか。思い返せば、あの日からいろいろあった。本当にいろいろあった。俺たちは透明なガラスみたいに悪意なく、無邪気で、砕けてはそのカケラで傷つけあった。そして、ばらばらのカケラになって、泥まみれで地面に落ちて、それからほんの少しだけ大人になった。
夕暮れ。いつものあの駅。プラットホームにあの普通列車が入ってくる。俺の乗る場所は決まっている。そこであいつが待っていると言ったから。
ゆっくりと滑り込むように列車がホームに入ってくる。ドアを開いて、そこから人々を吐き出す。俺は、その吐き出される人の波が途切れるのを待ってから、ドアの前へと歩き始める。
車両の中に足を踏み入れる。そして、辺りを見回す。その車両の中、いつも同じ場所に座っている小さな背中を見つけた。
「よぉ。これから、お前のスケジュール帳には何か予定が書き込まれているかい?」
俺に声を掛けられた少女は手に持った文庫本からゆっくりと目を上げる。
「残念ながら今日のスケジュールは埋まってしまっているんだ。キミとの約束でね」
西日が当たって、彼女は眩しそうに目を細める。そして、それからゆっくりと頬を緩める。
週末の地方私鉄。この場所は俺たちが何度も会った場所。普通電車の片隅の席。予備校帰りの鞄を膝の上に載せて、文庫本を広げる佐々木を見つけた場所。
約束の日、俺はこの電車へ佐々木を迎えにやって来た。
「驚かせてやろうと思ったのに、全く動じないな、お前は」
「なんとなくキミがここに現れる気がしていたからね」
柔らかく微笑む佐々木の顔を夕日が照らす。
「俺の行動なんてお見通しか。せっかく驚かせてやろうと思ったのに、つまらねえな」
「おとなしく驚いてあげるほど、僕は素直な人間ではないね」
わざとらしく口を尖らしてみせる俺を、佐々木は悪戯をした弟を見るような目で見ている。
佐々木の前でつり革につかまりながら会話をする。ここで最初にあいつに会ったときもこんな風にしていたっけな。
「キミのほうこそ、よく僕がこの電車に乗っているとわかったね」
「いつだってそうだっただろ」
あの春休み最後の日以降、ずっと佐々木はこの電車のこの車両に乗っていた。一度も違えることなく。この電車に乗ると必ずあいつがいた。あの約束を愚直に守り続けていた。
「佐々木が俺のことを訊いていたって、どういうことだよ」
「どうもこうも、そのままの意味だよ」
これはいつだったかの国木田と谷口と飯を食っていたときの会話の続きだ。国木田はいつでもポーカーフェイスでなにを考えているのかわからなくなる瞬間がある。突然に、国木田がその話をし始めた真意が俺にはわからなかった。
「第一なんでお前がそんなことを知ってるんだ?」
「僕らと同じ中学から来た子が同級生にいてね。って言っても、キョンと同じクラスになる前の友達だからキミは知らないだろうけど。まぁ、その子が佐々木さんと仲が良くて、それで、その子経由で僕にその話が来たんだ」
「また、ややこしい説明だな」
谷口が横から口を入れた。
「それで?」
「一応、客観的な事実を説明しておいたよ」
なるほど。国木田からその友達経由で佐々木にハルヒの話が伝わっていたのか。これで、佐々木がなぜハルヒのことを知っていたのかが納得できた。
けど、佐々木の奴はなぜ俺に「俺から話しを聞いた」などと嘘をついたのだろう。
「その客観的な事実っていうのはどういうのだ?」
「キミの高校生活について僕が見たところをそのままに。でも、その子から佐々木さんにどういう風に伝えられたのかは僕にはわからないけどね」
また何か色々と誤解を招くようなことが伝えられたのではないだろうか。どうも、周りには誤解している連中が多いからな。
「しかし一体なんでまた、そんなことをしたんだ、あいつは」
「さぁ」
国木田は何食わぬ顔でまた弁当に箸を付け始めた。
「でも、彼女はなんだか楽しそうだったって聞いたよ。よっぽどキミに再会できたことが嬉しかったんじゃないかな」
再会、か。さよならを言った覚えはなかったのだけれども、気が付けばそれだけ距離が離れていたのか――
「キョン、物思いに耽ってどうしたんだい?」
佐々木が、窓の外、遠くの景色をぼんやりと眺める俺に、不思議そうに尋ねてくる。
「いや、なんでもない。少し、少し色々なことを思い出していただけだ」
「そうかい」
佐々木はそれ以上何も言ってこない。俺自身もそれ以上聞かれても何を答えていいかわからない。ただ、はっきりとわかっているのは、離れていた距離は確実に縮まっているということだけだ。俺がほんの少し手を伸ばせば触れられるくらい佐々木は近くにいる。
「キミから今日の待ち合わせ時間を指定されなかったので、てっきり忘れられたものだと思ったよ」
「そうか? 待ち合わせの方法なんて決まっているじゃないか」
あの日の再会以降、佐々木はいつも同じ電車にいた。そして、俺たちはいつもここで会っていた。
2秒ほどの沈黙の後、
「ごめん。わかっていて訊いた」
佐々木は喉の奥で形容しがたい声を出して、安心したように笑う。
夕日に照らされた車内を穏やかな空気が包む。俺も佐々木も、なんでお互いに触れ合うことをあそこまで恐れていたのだろうか。本当にまるで馬鹿みたいだ。
電車が突然揺れる。どうやら駅に着いたらしい。俺は佐々木が席から立ち上がるのを見届けてから、車両から降りた。佐々木はそのまま俺の後ろに付き従って来た。
日曜日の駅前はほどほどに混んでいる。ファミレスから出てくる家族連れ。買い物帰りのおばちゃん。ゲームセンターから出てくる中学生。変わらない光景。中学時代から変わらない光景。
ちゃちな噴水が夕日を浴びている。それを見て、俺はいつだったか、佐々木と携帯電話の番号を交換したことを思い出した。
「お前、携帯の使い方はもう慣れたか?」
「失礼だな。あいにくだが、僕は機械の扱いは不得手ではない。ただ、それまでアドレス交換をした経験がなかっただけだよ」
佐々木はむきになって反論した。そしてそこまで言って、しまったとでもいうように目を逸らした。
「まぁ、そのおかげで話したいときにいつでもお前と話が出来る」
俺は両手を組んで、わざとらしく空に向けて伸ばす。
「そうは言っても、キミはあまり電話を掛けてきてくれなかったように思うが」
佐々木が半歩前へ出て、俺の目を覗き込んでくる。
「何だ、俺が電話を掛けるのを待っていたのか?」
「まさか」
佐々木はくるりと身を翻し、喉の奥で笑い声を上げると、俺の発言を一笑する。
「でも、いつでもキミと話せると思えるのは少し心強かったかな――」
そう言って佐々木は鞄を持った両手を後で組むと、俺よりも少し前を歩き始めた。
長くなった陽ももうすぐ落ちようとしている。黄昏に佐々木の背中が溶けていく。
2年前、少し迷いながらたどり着いた公園に、今まっすぐに向かっている。そこは駅から歩いて10分ほどのブランコと滑り台くらいしかない小さな公園だ。駅前の昔ながらの商店街を抜けて、わき道に入ればもうすぐそこだ。あたりはもう、夏の少し膨張した空気の匂いがする。
「変わってないね」
佐々木は公園の入り口から中を一通り見渡している。
「あぁ、何も変わっていない」
佐々木の後に立つ俺もそう応える。そこは何もかもあのときのままだった。
「僕は小さい頃よくこの公園に来ていたんだ」
佐々木は一足先に公園に入ると、小走りにベンチに向かった。そして、あの花火をしたベンチに一足先に座ると、そう言った。
「でも、ここはお前んちから少し遠くないか」
佐々木が駅前からバスで帰っているように、この公園から佐々木の家までは歩けば20分はかかる。しかも、こんな小さい公園だ。小さい頃にわざわざ遊びに来るとは考えにくい。
「だからいいのさ。誰も僕のことを知らない場所でひとりになりたいとき、よく自転車を漕いでここに来ていたんだ。静かで、この時間になるとほとんど人がいなくなる。ここは僕の特別な場所、秘密基地だよ」
佐々木はベンチの上で足を投げ出して、空を見上げている。佐々木の息すら聞こえそうなくらいに、この公園は静かだ。そして、空にはもう一番星が見える。
「その割には、前に来たときは結構迷っていなかったか」
「本当はあの時、キミに断られたらどうしようとばかり心配していてね。肝心のどこで花火をやるかを考えていなかったんだ。ちょうどここを思い出してよかったよ」
「お前らしい場所だな」
そして、俺は佐々木の隣に座った。住宅地の真ん中で、隔離された静寂。夜の風が涼しくて心地いい。星の綺麗な夜だ。
「星が綺麗だね。ベガもアルタイルもよく見える」
隣で星を見上げる佐々木がそう語りかけてくる。
「そうだな。夏の大三角だったっけか」
俺は小学生の頃にならった理科を思い出した。たしか、夏の夜空には夏の大三角と呼ばれる一等星があったはずだ。
「なるほど。夜空にはベガとアルタイルだけではないというわけだ」
何に感心したのか、佐々木はため息をつく。
「そりゃそうだろ。夏の大三角は有名だぞ」
「七夕に登場する星はベガとアルタイルだけなのにね。夏の大三角となるとそこに白鳥座のデネブが入ってくるのか。果たして、一体どちらがベガでどっちがデネブなのだろうね」
「そういう星座の話は俺よりもお前のほうが専門分野じゃないのか? 俺にはどの星がアルタイルかすらわからん」
あまり星空に明るくない俺にはこの三角形のどれがどれなんて皆目見当が付かない。
「それに夜空に星が多いほうがにぎやかでいいじゃないか」
「キミがまだそう言っているうちは安心、と思ってもいいのかな」
佐々木の声が星空に吸い込まれるように消えていく。
「そういえば、星で思い出したけど、キミは随分と面白い発言をしていたね」
佐々木がその小さな顔中に悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「うるさいな。それだけ綺麗だったんだよ。お前のじいさんの作った花火が」
恥ずかしい発言だとなんだと言われようが、そう思ったのだから仕方がない。佐々木のおじいさんの作った花火は本当に星のように綺麗だった。あの光は、本当に俺の目には星のように見えたのだから。
「たくっ。馬鹿な話ばかりしているうちに日が完全に暮れちまったじゃないか」
「ちょうどいいじゃないか。今夜は静かないい夜だよ」
「じゃあ、そろそろ始めようか」
俺は手に持った鞄から小さな箱を取り出した。
――本当に色々なことがあったな。
箱を開けようと手を添えて、そんなことを思い出す。あの春休み最後の日に佐々木の背中を見つけてから、本当に色々なことがあった。紙で出来た箱の感触を確かめるように、ゆっくりとふたを開く。その中には、あの日と同じように5本の線香花火がある。
線香花火の数もこの公園もあの時のままだ。でも、何も変わっていないわけではない。俺も佐々木もあの頃のままじゃない。何もかも受け入れられるほど、俺たちはもう無邪気じゃない。けど、悲しいことがあっても立ち止まるほど弱くもない。
静かにろうそくに火を点け、それを地面に立てる。街灯の安っぽい光の中に、橙の柔らかい光が玉のように空間に広がる。
俺は佐々木に箱を差し出した。佐々木は何かを確認するように俺の目を見た後、その中の一本をつまみ上げる。ろうそくの光が佐々木の表情に柔らかい陰影を彩る。
佐々木がゆっくりとした手つきで線香花火の先端に火を点けた。先端の紙がゆっくりと燃える。そして、小さな火花が瞬き始める。
「わぁ」
佐々木はその光景を見て、小さくそう呟いた。静かに瞬くだけだった光が、徐々にその輝きを増していく。小さな音を立てながら赤い玉が成長していく。
「あっ」
けど、すぐに赤い光の玉は落ちてしまった。地面に触れて急速にその光を失っていく。
「やっぱり、お前のじいさんみたいにはうまくいかないな」
わかっていたことだ。素人の俺にはあの日を再現できるほどの技術はない。精一杯努力してみたつもりだったが、やはりあそこまで綺麗な光を生み出すのは無理だった。偉そうなことを言っておいて、約束は果たせなかったかな。
「悪いな」
「ううん」
佐々木は俺の言葉を短く否定した。
「十分。十分だよ――」
花火の光が消えても、まだ俺たちはそこに何かがあるかのように、その影を見つめ続けた。
「なぁ、佐々木」
4本目の花火の火を見つめ続ける佐々木に話しかける。
「なんだい」
佐々木は一つ一つ噛み締めるように、それぞれの花火の光を見つめた。火が消えた後も、しばらくそれを見つめた後、何も言わずに次の花火を手に取り、同じようにその光を見つめていた。
「俺にはお前に知ってもらいたいことがあるんだ」
「知ってもらいたいこと?」
佐々木はその目を花火から離さないまま、静かに俺に問い返した。
「忘れないで欲しいこと、って言った方が正しいかもしれない」
「もったいぶって、一体何なんだい?」
花火を見つめる佐々木は口元に柔らかく笑みを浮かべた。
「お前には、お前の傍には、こうやって期末試験直前だっていうのに、必死こいてお前のために線香花火を作る馬鹿がいる。なぁ、だから、お前は一人じゃない。それだけは知っておいて欲しい、忘れないで欲しい」
4本目の花火の火が落ちた。佐々木は何も言い返さないまま、無言で最後の1本をその手に取る。
「ねえ、キョン」
「なんだ」
「7月でも夜はまだ冷えるね」
「――あぁ、そうだな」
そう言うと佐々木は、膝を落とした体勢のまま、俺の隣に擦り寄ってきた。
そして、そのまま体を預けるように俺にもたれてきた。俺の肩に触れる佐々木の髪の匂いがする。無意識のうちに心拍数が上がる。
「ねえ、キミの隣は暖かいね」
君に触れたい、一瞬そう思う。でも、まだこの手は動かない。まだ、その距離は少しだけ遠い。
「佐々木――」
「最後の1本だよ」
そう言って、佐々木は最後の花火に火を点ける。火花が静かに力強く燃え上がる。
「キミが僕のために何かをしてくれる。これ以上幸せなことはないよ」
「馬鹿野郎。それはおおげさだ」
佐々木はゆっくりと目を細めて首を振る。
「僕がそう感じているのだから、それでいい」
最後の花火は今までの中で、一番長く燃え続けた。
今だけ、花火は輝く。この今だけ。
「ねえ、キョン。僕もキミに知って欲しいことがあるんだ」
燃え尽きた花火の先を佐々木は見つめたままだった。まるで、まだそこに炎が存在しているかのように。
「なんだよ、お前が俺に知っておいて欲しいことって」
「うん、それはね――」
佐々木は一度俺の顔を見たが、すぐに目を逸らした。そして、また燃え尽きた花火の先を何も言わずに見つめている。
不思議な緊張感に満ちた沈黙。俺も何も言い返せないまま、佐々木と同じ視線の先を見つめる。額に汗が浮かんでくるのは、単純に暑いからだけではないはずだ。
夏虫の鳴き声だけが辺りに響いている。
ブルルル――
そこで俺はポケットに鈍い振動を感じた。携帯電話だ。どうやらメールが着信したらしい。
「なんかメールが来たみたいだ」
俺はこの沈黙をごまかすように、わざとらしく携帯を開いてみせる。条件反射的にボタンを押して、新着メールを表示させる。
「……なんだこりゃ?」
ディスプレイには写真が映っていた。画面いっぱいに、黒い紐みたいなものとその先の赤い光が映っている。そして、添えられたメッセージは一言だけ。
『バーカ』
今にもアヒルみたいに口を尖らしてあっちを向いている姿が想像できそうなその一言は、間違いない。こんなメールを送ってきやがる送り主の名前は見なくてもわかる。そして、このメールの画像の正体も。
昨日、つまり土曜日の出来事だ。例の市内探索を終えたあとで俺は帰り道を急ごうとするハルヒを追いかけて、この線香花火を渡した。
古泉の言葉をそのまま聞き入れた、というわけでもないが、俺自身今回の件でハルヒの世話になったし、何か礼をするべきだと思った。
「何よ?」
追いかけてきて呼び止めた俺にハルヒは不機嫌そうな眼差しで振り返った。
「これ、やるよ」
ハルヒに小さな封筒を差し出した。ハルヒは訝しげに口を尖らすと、その封筒を受け取った。
「これ、あんたの作った花火?」
封筒の口を小さく開けて中身を覗いたハルヒは、小さな声でそう訊いてきた。
「あぁ」
「なんで、あたしにくれるのよ」
「なんで、って……」
「これ、あんたが佐々木さんのために作ったものじゃない」
「今回の一件でお前には世話になったからな。その礼だよ。素人の作った花火だから、あまり出来はよくないかもしれないけど」
ハルヒはそれからしばらく無言で、目の前の封筒を見つめていた。
「……佐々木さんにはもう渡したの?」
「いや、明日渡すつもりだ」
ハルヒにしては珍しくその態度がはっきりしない。礼のつもりで渡したのだが、あまり喜んでもらえるような代物ではなかったみたいだ。
「佐々木さんより先にあたしに渡しちゃっていいわけ?」
「今日ぐらいしかお前に渡す日がないだろう」
それは嘘だ。渡すだけなら、月曜日にでも学校で渡してやればいい。けど、俺の頭の中ではあのときの古泉の言葉が響いていた。いくらなんでも残り物を渡すようなことはしてやりたくない。
相変わらずどこか不機嫌そうなハルヒの態度。結局、ハルヒが特急電車に乗り込むのを見届けるまで、あいつは無言だった。いらないなら別に受け取らなくてもいいのに。そう思ったのだが、俺がその背中が車両に吸い込まれるのを見届けるまで、ハルヒの両手は強く封筒を掴んだままだった。
しかし、なんで今頃あいつは花火の写真を送ってくるんだ。しかも余計な一言付きで。
「どうしたんだい?」
俺の対応を見た佐々木も不思議そうに、俺の携帯を覗きこんでくる。
「これは……涼宮さんだね」
俺は佐々木に見られてはいけないものを見られたように思った。携帯メールなんて開かなきゃよかった、そう思った。しかし、佐々木の反応は予想外だった。
「くっくっ、実に涼宮さんらしいね」
そう言うと、今までの沈黙から堰を切ったように愉快で仕方がないという風に笑い始めた。本当に楽しくて仕方がないという風に。
「タイミングがいいというのか、悪いというのか」
「何がそんなに面白いんだ、佐々木?」
突然に佐々木が笑い出した意味がわからない。
「だって、僕には彼女の精一杯の気持ちがよくわかるから」
佐々木にとってなぜ、ハルヒの奴が土曜日の別れ際に渡してやった線香花火の写真を送ってきたことが、なぜそんなに面白いのか。
「ハルヒの気持ちがよくわかるってどういうことだよ?」
「そのままの意味だよ」
佐々木は両手を地面について、空を眺めながら笑っている。
「じゃあ、今日はここまででよしということにしておこう。今日の彼女の厚意に応えてあげなければフェアじゃないからね」
「厚意って一体どういう意味だ?」
「国語辞典で引いた意味そのままさ」
あのハルヒが佐々木にどういう気を使ったのか。俺にはよくわからないが、佐々木とハルヒの間では何か共通認識があるみたいだ。
「涼宮さんには、残念ながらまだあなたの恐れている事態は起こっていない、と伝えておいてくれ」
俺の豆鉄砲を食らったような顔を見て、佐々木は意味ありげに口元を柔らかく伸ばすと
「大丈夫。今なら僕も、もっとまっすぐに向き合える自信がある。負けないよ」
一体何に負けないつもりなのだろうか。
佐々木の表情にはいつかの快活さが溢れている。中学時代、俺の自転車の後ろで理屈っぽい話をして俺を困らせては笑っていた頃の。
「あそこまで言っておいて申し訳ないが、キミにちゃんと伝えるのはもう少し先になりそうだ」
佐々木は愉快そうに笑う。その目はよく輝いていた。まるで、中学時代に机を隣にして会話していたときのように。今の佐々木の表情は中学校の卒業アルバムの写真と同じ表情だ。思い出した、お前はそんな綺麗な目をして笑っていたんだ。
――全く、なんだっていうんだよ
そう心の中で小さくうそぶいてみせた。本当は、昔のような輝きを取り戻した佐々木の笑顔が嬉しかった。あの頃のような笑顔を再び取り戻せたことが嬉しかった。
佐々木は空を見上げている。透明なビロードのような夏の風が佐々木の髪を揺らす。俺もその目線の先を追いかける。
そこにはあの夏の大三角が輝いていた。
19「エピローグ」
1年間のうちで、5回ほど俺を欝な気分にしてくれる定期テストも終わり、週明けの授業はテスト返却の短縮授業だ。おかげでこの坂道もすこしだけ軽やかに感じられる。心が軽いと体も軽いね。
「うぃす」
7月の空気の中で軽く汗をかきながら、俺は教室に入る。定期テスト中のあの独特の空気から解放された教室は、夏休みを待ちきれない高揚感に包まれているように感じられた。
「よぉ、キョン」
ただ、こいつが機嫌よくしているのは納得いかない。
「よう、谷口。お前、そんな風に機嫌よくしていてもいいのか? 死刑執行間近のくせして」
「赤点ごときに俺の高校2年、夏のロマンスは止められねーよ」
何のことだ。相変わらず幸せな奴だ。
まぁ、こうやって幸せなのはいいことだけどな。
「よお、ハルヒ」
俺は椅子に座って、後の座席にいるハルヒに声を掛ける。ハルヒはどこか不機嫌そうに床に突っ伏していた。
「周りのみんながテストから解放されてテンションが上がっているっていうのに、お前だけえらく沈んでいるな」
「……うるさいわね。あたしの勝手でしょ」
ハルヒは不機嫌でかったるそうな声を上げる。
「そうかい」
「何が面白いのよ。ニヤニヤして馬鹿みたい」
そうやって拗ねているハルヒの姿を見るのは事実、なかなかに面白かった。まるで子供みたいな奴だな。
「あぁ、そうそうハルヒ。佐々木から伝言だ」
「……なによ」
机に伏せたまま、口を尖らせた発音でハルヒは答えた。
「残念ながらあなたの恐れる事態は起こっていない、だってさ。例の花火メールの返信だそうだ」
やおらハルヒは上半身をがばっと上げた。
「うおっ」
核燃料がその奥で燃えているような目で俺を見る。
「あたしの恐れる事態って何よ」
「んなもん、俺が知るか。お前が恐れていることだろう」
ハルヒはこれ以上ないくらいに口を尖らせてみせていたが、やがて
「まぁ、いいわ。なんにせよ、悪い話ではないみたいね」
と得意げにのたもうた。さっきまでの不機嫌さは一体どこへいったんだ?
「あ、あと、なんかよくわからないが、負けないよ、とも言っていた」
ここでまた、ハルヒは顔をしかめた。こんだけ表情が七変化するなら、顔の筋肉も大変なことだろうよ。
「それは、どういう意味かしら?」
「だから、俺は知らん」
それからしばらくハルヒはしかめっ面でいた。が、やがて大きく息を息を吐くと
「まぁ、いいわ。何の勝負かしらないけど、あたしは売られた勝負はきっちり買う主義だし、勝負である以上絶対負けないわよ」
「どんな勝負かもわからんのにか?」
「当たり前よ。たとえ、とうがらしの大食い競争だって、ぜったい勝って見せるわ!」
佐々木とハルヒが並んでとうがらしを食っている姿を想像して、そのあまりにシュールな光景にすぐ思考を切り替えた。
「それは、そうとあんた夏休みの予定は立ててるの?」
「予定を立てるもくそも、どうせまたお前に何かと振り回されるんだろ。確定している予定は田舎の墓参りくらいなもんだ」
「まったく、あたしがいないと休みの予定も一人前に立てられないとわねー。ほんと情けないわね」
文句を言っている割には、えらく得意そうだな。
「まぁ、いいわ。SOS団の雑用係として夏休みはこき使ってあげる」
夏休みだろうといつだろうと、お前にこき使われている気がするが。
「あ、あと、今度の夏休みはさっさと宿題なんか終わらせることね。去年みたいに31日に徹夜で仕上げるなんてもってのほかだわ。効率は悪いし、あたしもしんどいし」
お前は機嫌よく妹と遊んでいただけじゃないか。まぁ、感謝はしているけど。
「というわけで、今年の夏休みはまずはさっさと宿題を終わらせることを目標にしましょう。あんた、ほっといたらさぼりそうだから、あたしが直々に監視しにあんたの家に行ってやるわ!」
なんで、そういう展開になるんだ?
「あぁ、でも宿題の話で思い出した」
「ん、何よ?」
話の腰を折られたハルヒは口を尖らせている。
「俺、今年の夏は予備校の夏期講習に行く羽目になったんだ」
「なんで、また?」
「佐々木の奴に誘われて。夏期講習くらいはちゃんと受けておかないと後々苦労するってな。んで、あいつの予備校紹介してもらった。あ、あとよろしかったら涼宮さんもどう、とか言っていたな」
「なっ!」
ハルヒは面白可笑しく顔を歪めている。何か気に障ったのか?
「あ、でも、お前成績いいから予備校なんてわざわざ行く必要ないよな」
「……何言ってるのかしら、キョン? 売られた喧嘩は必ず買うって言ったでしょ、あたしは」
あの喧嘩じゃなくて予備校のお誘いなのですが。
「そうと決まったら、早速放課後になり次第にその予備校へ行くわよ!案内しなさい、キョン!」
「な、なんでそうなる?」
「だって、あたしは予備校の場所も知らないじゃないの!」
それはそうだが。でも、俺が突っ込みたいのはそこじゃなくて。
「んで、あとで佐々木さんに、今度のSOS団の合宿一緒にどうかしら、ってお誘いを掛けといて!」
「だから、なんでそうなる!?」
「売られるだけじゃ癪だから、こっちからも売ってやるのよ!」
どこの世の中にそんな好戦的な遊びのお誘いがあるんだ?
「何よ、佐々木さんを連れて来たくないってわけ?」
「いや、佐々木が来てくれても、俺は一向に構わない」
確かに構わないのだが……。なんだろう、このやる前から俺を襲う疲労感は?
「あたしに喧嘩売るとはいい度胸じゃない」
不敵な笑みを浮かべて、後ろの座席でなぜか息巻いているハルヒを尻目に、俺は前へ向きなおした。表面上は不機嫌そうに見せているが、なんだか楽しそうだ。
――やれやれ。
馬鹿陽気な夏の空を見上げてため息をつく。
今年の夏休みはまたえらくにぎやかになりそうだ。