十七歳の空白

プロローグ

「やぁ、こんにちは」
 あまりにも突然の挨拶だった。その瞬間、真っ白な世界に真っ白な視界が開けた。それは光のように見えて、それでいてまるで雲のようで、そしてそのどれでもないようだった。この目は何かを見ている。けれども、その視界には何もない。矛盾。俺の『見えている』という感覚だけが呼び起こされていた。
「あの、聞こえていますかね?」
 声、はそう問いかけてきた。年を取った男のような、いや、それでいて若いような。意識を変えれば女の声のようにも感じられた。音として耳で聞こえているのかもしれなかった。もしくは幻聴として俺の意識の中で響き渡っているのかもしれなかった。
「自分のお名前、わかりますか? 自分がどうやってここに来たか思い出せますか?」
 名前? どうやってここへ来たか?
 泡で何かを形作るように、少しずつ記憶を頭の中で形成していった。俺の頭の中に残っている最後の光景――
 それは大きなヘッドライトをつけた黒い鉄の塊。俺の視界いっぱいに広がって、そして、そこで記憶は途絶えた。
「あぁ、よかった。思い出してもらえたみたいですね」
 その声は間抜けなトーンで、そう言った。
「ここはどこだ? あんたは誰だ?」
「さらによかった。意識も戻ってきたみたいだ」
 声は俺の問いかけには答えず、飄々とした調子でそのトーンだけが少し上がっていた。
「えーっとですね、平たく言うと、あなた死にました」
「はっ?」
「だから、あなたは死んでしまったんです」
 意味がわからない。一体なんだっていうんだ? 夢か? これは夢なのか?
「残念ながら夢ではありません。一応死後の世界ってやつになるんですかね」
 『声』は何事もなかったように俺の思考に対して答えてみせた。
「記憶、思い出したでしょう? あなたの人生最後の記憶。あなたはですね、トラックに轢かれて亡くなりました」
 天気予報を読み上げるアナウンサーのように抑揚のない声。その声に俺は激しい苛立ちを覚えた。
「……何を言っていやがるんだ。そもそもあんたは一体何なんだ?」
「あぁ、申し送れました。私、俗に言う死神って奴です。納得できないようでしたら、今、姿をお見せしますね」
 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、俺の目の前に黒いスーツを来た中年の男の姿が現れた。白い世界で、男が一人、俺の目の前に立っていた。男の顔は日本人風で、チョビひげをたくわえて、人懐っこく笑っていた。
「あんたが、その、死神?」
「まぁ、姿かたちなんか私にとってはどうでもいいでんすけどね。一応あなたにあわせてこんな姿をしていますが、もしかしたら顔が骸骨で大きな鎌を持っているほうがよかったですかね?」
 今、俺の目の前で起こっている光景は明らかにこの世のものではなかった。手を動かそうにも、そこに体があるという感覚がなかった。鼻につくような匂いも、風が当たるような感触も、暑さ寒さも感じなかった。
「納得していただけたようなので、本題に入らせてもらってもいいですかね?」
「本題?」
「えぇ。わざわざあなたの魂を起こした本題」
 まるで、健康器具を押し売りに来たような口調で死神は話し始めた。
「実はですね。我々、霊界とでもあの世とでもお好きなように呼んでいただいて結構なのですが、あなたに頼みごとがあってこのようにお付き合いしていただいている次第です」
「頼み……ごと?」
「はい。ちょっとあなたの死をきっかけにですね、そちらの世界……あぁ、現世とでもお呼びするのですかね? そこからですね、うちの世界にこうひどい干渉が起こっているのです。もう、このままじゃあの世と現世の秩序がめちゃくちゃになりそうで、もう我々もなりふり構っていられないわけなんですよ」
「すまない、俺にはあんたが何を言いたいのか、さっぱりわからない」
「私にもよくわかりません。悪いですが、それくらい状況はでたらめなんですよ」
「……それで、そのでたらめな状況を打破するために、俺にどんな用があるんだ?」
「あなたの死がきっかけ、と私は言いましたよね? つまり、あなたは鍵なんですよ、今回の一件の。うまく鍵を回せば開いてしまった扉を再び閉ざせるかもしれない」
「鍵……?」
 どこかで聞いた言葉だ。前にも俺は自分を鍵と呼ばれたことがある。でも、それはいつ、一体、どんなときだったっけ?
「少しずつ思い出して来られているみたいですね。よかった、よかった。それではあなたの記憶を目覚めさせる言葉をお教えしましょう。現在、この世界に干渉してくる人物、我々があなたに交渉して来てもらいたい人物、その人物の名前は――涼宮ハルヒ、その人です」
 死神の言葉に、俺の意識の中で、まるで硬直していくように再び俺の記憶が形作られていくのを感じていた。



 再び目を覚ました俺が見たのは、真っ白な天井だった。寝ぼけてかすむ目で、手を動かしてみる。シーツの感触がする。大きく息を吸ってみる。右手を頭上にかざしてみる。長い間寝ていたせいか、頭が少し気持ち悪い。さっさと風呂に入って洗いたい。
 ――何もかもが正常だ。
 今の俺には間違いなく、生きている、と確信できるだけの感覚がある。そうか、あれは夢だったのか。そう思い直した俺は、自分が今いる場所がおかしいことに気が付いた。
 明らかにここは俺の部屋ではない。細長い蛍光灯が天井に張り付いている。ベッドには金属の枠がついていて、シーツは白くて薄い。
 ここはどこだろう? 俺の記憶の中で、こことよく似た場所と言えば、保健室だろうか。
 そんなことを思いながら上半身をゆっくりと起こしてみる。辺りを見回す。部屋の内装はとてもシンプルで、ベッドと洗面台があるだけ。俺の隣には大きな窓がある。
 そして、俺の意識は少しずつはっきりとしてきた。それなりに人生経験を積んできた奴ならきっとすぐここがどこかわかる。ここは――病院だ。
 そうか、やっぱり俺は車に轢かれて、それで病院に入院していたのか。ということは、ここはいつだったか古泉が手配した「機関」の病院というやつなのかな。
 とりあえず、俺が目覚めたことを知らせるため手元のナースコールを押す。
 数分と経たないうちに看護婦さんが二人やって来た。俺が目を覚ましていることを確認すると、年配の看護婦さんが「ご家族に連絡して」と若い方の看護婦さんに言った。やれやれ、両親にも随分心配をかけてしまったな。
 そんなことを考えていると、先ほどの若い看護婦が息を切らしながらもう戻って来た。そして、彼女の後ろには中年のおばさんが付いてきている。
 ――誰だろう? 医者ではないみたいだが。
 そう俺が思うか思わないかのうちに、おばさんは顔をくしゃくしゃにして走りよってくる。
「ヒデトシ!」
 ……ヒデトシ? 中年のおばさんのほうが目に涙をためながら、俺に抱き付いてきた。
 わけがわからない。この人は一体誰なんだ? というかヒデトシって何?
 おばさんは俺にすがり付いて泣いている。
「よかった。よかった。目を覚ましたのね」
 俺が目を覚ましたことを喜んでくれるのはいいが、一体誰なんだろう? 俺が目を覚ましたことを喜ぶ見知らぬ大人。考え付くのは、俺を轢いたトラックのドライバーか? けど、それにしてはおおげさというか、まるで俺が本当の息子のような――
「あの、すみません」
 そう声を掛けるとおばさんは泣きはらした顔を上げた。
「こんなことを訊くのは申し訳ないんですけど、あなたは誰ですか?」
 おばさんは口を開けて、しばらくそのまま静止した。そして、見る見るうちに顔が青ざめていくと
「ヒデトシ! あなたお母さんのことがわからないの!?」
 わからないの、と言われても、俺の母親はそんな顔じゃないし、第一俺はそんな名前じゃない。
 この目の前で泣きじゃくるおばさんは、よっぽど錯乱しているのか俺を誰かと勘違いしているようだった。
「すみません。わからないのは俺のほうです。俺はそんな名前じゃありません」
 おばさんの顔から血の気が引いていく。おばさんの唇が小刻みに震えている。
「宮本さん、しっかりしてください!」
 年配の看護婦さんが、慌てておばさん倒れそうになるおばさんを支えた。おばさんの声にならないうめき声が聞こえる。
 若い看護婦さんは口に手を当てて、どうしたらいいのかわからないという悲壮な表情で俺を凝視している。
 ここにいる何もかもにおかしいと思われているのは俺のほうだった。
 ――俺の言っていることがおかしいのか?
 その場で頭を垂れて思考を回す。ここは病院のベッドで、俺はそこに座っていて――
 そうだ。ここが病院のベッドなら、その入院患者の名前のタグがベッドに貼ってあるはずだ。
 そこで、俺は慌てて後を振り返る。ベッドに貼られている自分の名前タグを確認する。
『宮本英利 17歳』
 ……誰だ?
 この男は誰だ?
 今このベッドにいる男は一体誰なんだ?
 そこには見慣れない文字があった。
 俺は慌ててベッドから飛び出すと、洗面台の鏡へと走り寄る。鏡を覗き込む。そこには頭に包帯を巻いた見知らぬ高校生らしき男が映っていた。
 右手を頬に当ててみる。鏡の中の男子高校生も俺と同じ行動をする。
 俺の顔が青ざめていくと、鏡の中の男の顔も青ざめていく。
 そんな、まさか、そんな――
 鏡に映っている光景に俺は言葉を失う。見ず知らずの男。それが今、俺として鏡に映っている。
 まさか……あれは夢じゃなかったのか?
「ようやく思い出してくれましたか」
 その瞬間、頭の中に聞き覚えのある男の声が響いた。

「誰だ?」
 俺は悲鳴のような大声を上げて辺りを見回す。しかし、そこに声の主と思われるような人物は見当たらない。
 俺の行動を目の当たりにした若い看護婦は「先生ー!」と叫びながら部屋を飛び出した。
「あの、そういう行動は自重してもらえますか。後々行動しにくくなりますし」
 頭の声はあくまでどうでもよさそうに、俺に語りかけてくる。
「そんな、夢じゃ……夢じゃなかったのか」
 俺は洗面台の前で膝を突いて、崩れ落ちるようにその場にへたり込む。心拍数が上がっている。呼吸が苦しい。額には冷や汗が浮かんでいる。
 そして、頭の中で思い返していた。あの夢だと思っていた現実の続きを。



「ハルヒ? あいつがどうかしたのか? それ以前に、こんなところまで来てあいつの名前を聞くとはな」
 目の前の男らしき人物が言った名前に俺は反応した。
 死んでまでしてからも、ハルヒハルヒか。どこまでも付きまとってくる因縁めいたものに俺は嘆息していた。
「彼女のことを思い出してください。彼女が世界改変能力を持っていたことをあなたはご存知ですよね?」
「あぁ」
 俺が高校に入ってからの、摩訶不思議な出来事の数々を思い出した。
「彼女はあなたがあの事故で亡くなったのを目の当たりにしてですね、その能力を暴走させてしまったのです」
「なんだと?」
「おかげで、我々の霊界はもうしっちゃかめっちゃかですよ。彼女が秩序を崩そうとする力に対抗して、それを抑えるだけで精一杯。このままあの力を野放しにすれば、霊界と現世との調和もへったくれもありません。この二つの世界は干渉しないことが、その存在意義なんです。もしも両者の世界が繋がってしまえば、それはもうカタストロフですよ」
 声はそんな重大であろうと思われる話を、さもどうでもよさそうに話した。
「んで、それを俺に話して一体どうしろと?」
 ここまできたらもうわけがわからない。やけくそで相手の話にのってやるだけだ。
「扉を開けた鍵なら、扉を閉めることも出来るはずです」
 落ち着いた声。目の前の男がにやっと笑った気がした。
「涼宮ハルヒをなんとかしちゃってください」
 男が無責任にそう言い放つのを聞き終わるか終わらないかのうちに、俺の意識はまた遠のいていった。

 そして俺は今、病室の鏡の前で立ち尽くしている。鏡には顔面蒼白になった見知らぬ男の顔が映っている。その隣には気を失って倒れこんでいる中年女性と、それを介抱している看護婦。
 誰かが走ってこの部屋に近づいて来る足音が聞こえる。そして、その奥から蝉の鳴き声が聞こえる。
 いつの間にか、季節は夏になっていた。



 俺は相変わらずベッドに座っている。ベッドから手を伸ばせば届く窓を開ければ、蝉の大合唱が聞こえる。強い日差しを浴びて光る緑色の葉っぱ。季節は8月の夏真っ盛りで、俺の記憶は6月のある日で止まっていた。

 俺の記憶最後の日、その日俺はいつもようにハルヒたちと遊ぶ約束をしていた。日曜日。
 遅刻をしてハルヒに怒られたのを覚えている。えっと、あれは何で遅刻したんだったんだろうか。
 ――思い出した。その日は二度寝してしまったんだ。朝7時くらいに妹に叩き起こされて、宿題の工作を手伝ってと言われて、俺は朝からめんどくさいと言って、二度寝したんだった。
 それで、いつもの喫茶店で、俺はみんなに罰金と称されて奢らされて、爪楊枝くじを引いて、ハルヒとペアになった。
 それから、特に理由もなく坂道を登っていた。その先には何があるんだったけ。そこはうまく思い出せない。
 ハルヒと話をしながら歩いていると、道路にボールが飛び出してきて、それを追って小さな男の子が道路に出た。そこに大きな黒いトラックが来て、俺はその子をかばって、そして――
 そして、死んだ。

 思い返せば、一昔前のドラマみたいな死に様だ。笑っちまえそうなくらいにクサイ。でも、実際に俺は死んでしまった。そう、死んでしまった。
 そして、今、宮本英利という男の体の中に俺はいる。
 俺が目覚めた日、呆然とする俺に向かって、あの声は言った。
 ――ちょうどいい器が手に入るのを待っていたんですよ。
 あまりにもあっさりと言ってのけやがった。俺をこんな風にした奴らの目的は、俺にハルヒをなだめさせること。俺の死をきっかけにハルヒの能力が暴走しているらしい。いつか朝倉の行おうとしたことが、現実になってしまったわけだ。
 『声』は俺の思考を読むようで、声に出して語り掛けなくても意思疎通が出来るみたいだ。混乱する俺に『声』が行った説明を要約する。
 涼宮ハルヒをなだめるためには再び俺をこの世界に戻す必要があった。しかしながら、俺の本来の体は事故の衝撃でぼろぼろで、そこにこうやって魂を戻すことは出来なかったらしい。『声』はこともなげに、さすがに死体の傷が見る見るうちに治って復活というのは不自然極まりなさ過ぎますからねと言った。そこで、代替案として他の人間の体に入れるという方法を取った。しかしながら、そう都合よく生きている人間の体に俺の魂を入れられるわけもなく、条件を満たす器を得られるまでに時間が掛かってしまったそうだ。
 その条件とは、俺とほぼ同年代であること、ハルヒと接触しやすくするためにこの近辺の人間であること、そしてその体には致命的な傷を負っていないこと。
 その条件を満たしてしまったのがこの男、宮本英利だ。医者の話を聞くに、彼は交通事故で頭を打ってここへ運ばれてきたらしい。意識は失っていたものの、それほどひどい状態ではなく、応急処置を施して、意識が回復するのを待った。そして、再び目を覚ましたとき、彼は俺になっていた。

「英利、りんご食べな」
 窓の向こうを眺めて考えをめぐらせていた俺は、おばさんの声に窓から振り向く。
「ありがとうございます」
 りんごに刺さっている爪楊枝に手を伸ばす。おばさんの表情は、表面上は笑っているが、少し引きつった唇の端にその痛みが隠しきれていなかった。
 彼女は俺によく話しかけてくる。そして、俺もその話に精一杯応える。けど、俺が応えるたびに、彼女はどうしようもなく悲しそうな顔をする。そのたびに、俺は胸に刺さるような痛みを感じる。
 目を覚ましてから3日。あれから、俺は色々な検査を受けた。しかし、どの検査でも異常を発見することは出来なかった。
 俺を検査した医者はこう言った。
「この記憶喪失は極めて特殊な例です。人の記憶をパソコンのハードディスクに例えたとしましょう。ハードディスクにはいろいろなものがはいっています。OSにアプリケーションにドキュメントファイル。それらが機能して、コンピューターとして成り立っているのです。そのハードディスクがある日突然物理的な衝撃で壊れてしまう。それでデータを失ってしまうことが人間でいう記憶喪失に当たるとします。そうなれば、その影響はハードディスクの中の全てのファイルにもたらされるはずです。しかし、彼の場合、日常生活には全く問題ない。何もかも普通の人と同じようにこなせるし、一般常識もある。ただ、ないのは記憶だけなんです。彼の記憶だけがきれいになくなっている。まるでドキュメントファイルだけを意図的に消したように」
 俺と一緒に医者の説明を聞いていたおばさんは、その説明がよくわからないみたいだった。なんども不思議そうに首をひねっていた。でも、その瞳は真剣だった。
 医者が言おうとしたことは簡単なことだ。要は、俺の記憶喪失があまりにも意図的過ぎる。そういうことだった。つまり、彼が俺は記憶喪失のふりをしていると疑っているのは明確だった。
 確かに、一般常識の範囲内で今起こっている現象を理解するにはそう仮説を立てるしかないだろう。けど、実際に起こっている出来事はあまりにも超常現象的過ぎた。
「じゃあ、英利。お母さん帰るからね」
 面会時間の終わりまで付き添ったおばさんは、そう言って帰り支度を始める。夕焼けを背に帰るその姿はいつも痛々しかった。
「また、明日来るから」
 おばさんはいつも面会時間のはじまりと同時に現れ、そしていられるだけ俺の病室にいる。精一杯取り繕った笑顔が痛々しくて、俺はだんだんとうまく返事をできないようになっていた。
 彼女が毎日顔を出すのが苦痛で仕方がない。
 いや、ここにあること全てが俺にとっての苦痛だ。
 医者の疑いの眼差しも、腫れ物に触るような看護婦の対応も。
 疑われることも期待されることも辛かった。
 俺がここに居続けてもどうしようもない。宮本英利の記憶は永遠に戻ることはない。それは俺が一番良くわかっている。
 夜、一人になると色々なことが頭に浮かんでくる。両親はどうしているだろうか。妹の奴は元気にしているだろうか。学校のみんなは。
 ……ハルヒの奴は。
 こんなところにいてもどうしようもない。
 ここから逃げ出したい。聞こえてくる言葉から耳を塞ぎたい。もう何も見たくない。
 そして午前零時、俺は病院を抜け出した。



 8月の夜。風は暖かく、凍える心配がないのがせめてもの救いだった。この暖かさなら、路上で寝ても死ぬことはない。
 病院から抜け出した俺は考えている。彼らは俺を連れ戻しに来るだろうか、と。
 しかし、その可能性はすぐに否定できた。もともと記憶喪失のふりをしていると疑われている俺がいなくなったところで、彼らが貴重な夜間の人員を割いてまで探すとは思えない。ただ、おばさんに心配をかけてしまうことだけが、心に引っかかっていた。けれども、このまま俺が息子の振りをしていたところで、何も解決するわけではない。
 『声』が言ったとおり、ここはもともと俺、いやハルヒが居る場所と近かった。電信柱の地名を見ると、俺の住んでいる家から私鉄で二駅の場所だ。午前零時を過ぎているから、もう終電はないけれども、歩いて帰ったところで2時間程度。たかが知れている。
 人の気配のない夜の住宅街を一人歩く。駅前に出て線路沿いに歩けば、この見知らぬ土地からでも家に帰ることが出来るだろう。
 けど――歩けば歩くほどに俺は一人だった。病院に居たとき、あれほど一人になれることを望んだ。そして、その望みは今まさに理想的な形で叶っている。今、俺はどうしようもなく一人だった。
 このまま家にたどり着いたとして、両親は俺を迎えてくれるだろうか。また、学校に戻ってあの日常生活の続きを送れるだろうか。
 ……ありえない。それらはもうありえないことだ。誰も、俺を受け入れてはくれない。誰も、俺が俺であることを知らない。誰も、俺の存在には気付かない。
 歩みが遅くなっていく。自分がどこへ向かおうとしているのかがわからない。どこへ行っても受け入れてもらえない。
 全てを失った。
「ちくしょう」
 夜の歩道の真ん中で立ち尽くす。虫の鳴き声しか聞こえない。自分の声が夜空の暗闇に食い尽くされるように消えていく。
 立ち止まると、腹が減っていることに気が付いた。俺は、クローゼットから引っ張り出した宮本英利のズボンのポケットを探る。残念ながら、財布は入っていないみたいだ。おばさんが抜いてしまったのかもしれない。
「くそっ」
 8月の熱帯夜の下、俺はそう言って足元の電信柱を蹴り飛ばす。
 それでも、注意深くポケットを探ると、レシートにくるまれた小銭が出てきた。何かのお釣りをそのままポケットに突っ込んだらしい。
「220円、か」
 助けを求められるような人間もいない。所持金はたったの220円。手詰まりもいい所だった。
 しかし、俺はその小銭を握り締めながら思った。いっそのこと、これで家に電話を掛けて洗いざらい話してみるのもいいのではないだろうか。例え親は信じてくれなかったとしても、古泉や長門なら俺の話を信じてくれるかもしれない。
「あ、それ無理です」
 その刹那、また頭の中に『声』が響いた。反射的に俺は当たりを見回す。
「一応あなたがここに存在している、というのはトップシークレットなんですよ。ですから、それを第三者に告げることは許されません。というより、私はそれを監視するためにあなたの傍にこうして付いているわけです」
 相変わらずの事務的な口調に激しい苛立ちを覚える。
「……じゃあ、もし言ったとしたらどうなるんだ?」
「それはありえません。あなたが言おうとした瞬間に、我々はあなたの魂をその器から切り離して、回収させていただきます」
「それは、つまり……」
「そうです。その事を第三者に告げようとした瞬間に、あなたは死にます」
 その言葉に俺は大笑いする。
 なんだ、簡単なことじゃないか。この苦しみから抜け出すのなんて。誰か見知った人間を捕まえて、俺の正体を言おうとすればいい。それだけで、すべて綺麗におしまいだ。
 逃げ道がはっきりとした瞬間、俺の心は随分楽になった。このまま生きていこうなんて努力しなくてもいい。感嘆にあっさりと逃げ出せる。そう安心できる。
 そうして、心に余裕の出来た俺は落ち着いて考える事が出来るようになった。
 なら、せめて最後にみんなの様子だけ見て、それから逝こうか――
 何もなかった俺にこれからの目的が出来た。非常に短い間の目的が。



 自分自身のやるべきことを認識した俺は、歩みを早めている。勝手に死ぬことを決意して、あのおばさんには悪いと思った。けど、もともとあの人の息子は死んでいるんだ。それが正しい形に戻るだけだ。何の問題もない。
 歩き続けて、3時間。少し道に迷ったりしながら、ようやく見覚えのある景色になってきた。時刻はもうそろそろ午前4時。辺りはまだ暗いけれども、夏だからあと1時間ほどで日は昇り始めるだろう。
 どこかで時間を潰すか、それとも――
 そんなことを考えながら歩いていたとき、ここが長門のマンションに近いことを思い出した。あいつなら、24時間営業でいつ顔を出しても大丈夫な気がする。
 そうだ、長門のマンションへ行こう。あいつはインターフォンを押しても出てきてくれないかもしれないけど、スピーカー越しに別れの挨拶ぐらいしよう。
 そう思った。
 そこから歩くこと15分。俺は長門のマンションの前に立っている。このマンションの前に立つと、色々な出来事を思い出して、実に感慨深かった。初めて長門に連れてこられた日。時間を飛び越えた七夕――
「……楽しかったな」
 誰にともなく俺は呟く。いつも何かがあったときは、俺は長門ばかりを頼りにしていた。そして、結局何も恩返しも出来ないまま、こうして俺は死んでしまった。
 長門は元気にしているのだろうか。SOS団はどうなったのだろう。俺がいなくなったら、誰が長門の相手をしてやるのだろうか。
 色々な想いが俺の頭の中で交錯する。
 そして、インターフォンに手を伸ばそうとしたとき、また『声』が頭の中に響いた。
「あ、言い忘れていましたけど、その長門さんっていうのにはあなたの正体をしゃべっても大丈夫です。だって、人間じゃないですから」
 抑揚のない声。さも当然のように、人間ではないと言ってのけたことに俺は憤りを覚える。
「事実を言ったまでですよ。だって、あれは人間じゃない」
 『声』はそんな俺の思考に反応する。
「彼ら、情報生命体ですか? は我々の存在を知っていますからね。知っているものにわざわざ隠す必要もないので、しゃべってもらっても結構です。協力を仰いでもらっても結構ですよ」
「うるさい。黙っていてくれ……」
 俺の言葉を聞き入れたのか、それっきり『声』は押し黙った。
 長門が人間じゃないことくらい俺だって理解している。でも、俺はあいつを一人の人間として接してきたつもりだ。一人の17歳のちょっと変わった高校生として。
「くそっ」
 そう呟くと、俺は静かにインターフォンのボタンを押した。



「……」
 インターフォンの奥から聞こえてくる沈黙。いつものように今までのように。
 どうしようか。俺の名前を言ってみようか。
 数秒、そう逡巡する。
「長門、俺だ」
 答えはすぐに出た。いつも通りでいい。今まで通りでいい。
 いつも、いつでも、そうしてきたんだから。
「……」
 インターフォンは沈黙している。長門には伝わったのだろうか。
 この体は宮本英利のものだから、当然俺とは声が違う。あの長門がそれをインターフォン越しとはいえ、聞き逃すとは思えない。
 ――やっぱりダメだったか。
 俺がそう思い始めた頃、インターフォンから懐かしい声が聞こえた。
「入って」
 そして、静かに高級マンションのドアが開く。
 エレベーターに乗り込んで、ボタンを押す。
 一人でエレベーターに乗り込んで、急に俺は不安になる。いくらあの長門でも、俺だとわかってくれるだろうか。俺を受け入れてくれるだろうか。
 姿かたちの全く違うこの俺を。
 けど、長門でだめなら、後はもう誰を持ってきてもきっとだめだ。そういう変なあきらめに似た感情もまた俺の心に渦巻いていた。
 エレベーターから降りる。また日は昇っていない。暗くて静かなマンションの廊下。そこを俺は一人歩く。
 いつだったか、長門が扉を開けて俺を待っていてくれたことを思い出す。今は長門の部屋の扉は閉じられたままだ。長門自身も疑っているのだろうか、俺の存在を。
 やはり怖い。ドアの前で立ち尽くしてしまう。708号室、扉は堅く閉ざされている。
 ――このままじゃ埒が明かない。
 意を決して、俺は呼び出しベルを押した。

 俺が額に汗を浮かべているのは、暑いからだけじゃないはずだ。呼び鈴を押した指先が震えている。ここで、長門が扉を開けてくれたとしても、俺は、俺はどうしたらいいんだろう。
 音もなくゆっくりとドアが開かれていく。俺は精一杯の勇気を振り絞って前を見つめる。
 半分ほど開いたドアの向こうに、懐かしい顔が見えた。
 雪のように白い肌。結晶のように透明な瞳。その表情になんの感情を湛えることもなく、俺を見つめている。
 俺は口を開いて何かを言おうとした。けど、うまく言葉が出てこない。
 吸い込まれるように、その無垢な瞳を凝視している。
 長門の唇が少し動いた気がした。まるで、遠慮がちに微笑むように。
 そして――
「おかえりなさい」
 俺を包み込むような透明な声でそう言った。
 なぜだろうか。その瞬間、俺は全身が砕け散りそうな感覚がして、その場で崩れそうになった。足元のコンクリートに小さな斑点が出来ていく。水が頬を伝っていく感触がする。
 俺は泣いていた。
 ――おかえりなさい
 その一言、その一言を俺が一体どれだけ待ちわびていたことか。それを、誰かから言ってもらえることをどれだけ望んでいたことか。
 今まで当たり前のように聞き流していたのに。
「ただいま。ただ……いま」
 涙と鼻水が次から次へとあふれ出てきて、うまく発音できない声で、俺はそう繰り返していた。
 長門の言ってくれた一言がどうしようもなく暖かかった。



 いつだったかのように、殺風景な部屋の真ん中に置かれたテーブルに俺は座っている。差し込んできた朝日の眩しさに目を細める。
「どうぞ」
 台所からお盆を抱えた長門が表れた。お盆にのせた急須から、長門がお茶を淹れてくれる。こんな真夏に熱いお茶を急須から淹れてくれるというのが、なんとも長門らしい。俺は少し笑ってしまう。
「?」
 長門はそんな俺のしぐさをほんの少しだけ首を傾げて訝しがる。何がおかしいの、とでも言うように。
「なぁ、長門。よく俺だってわかったな」
 俺は長門に素直な疑問をぶつけてみた。
「音声情報だけでは判断できなかった。けど、行動パターンがあなたと酷似していた。そして、直接脳波のパターンを解析することにより、あなたという個別認識をするに至った」
 お盆を胸に抱えて淡々と長門は答える。長門の唇が動くのを見つめていた。
 要は、長門なら見たら俺だってわかるっていうことか。
「何はともあれ、よかったよ。お前が気付いてくれなきゃ、俺はもう手詰まりだった」
 俺は息を吐いて、テーブルにだらしなく上半身を預ける。病院から歩いてきたのは4時間程度だが、もっと長い間旅をしていたような気分だ。ここに来て足が棒のようにくたびれていることに気付く。
「そう」
 特に何の感慨もなく、長門は俺の目の前に座っている。相変わらず、その目は冷たく透明なままだ。
「……私も、またあなたに会えてよかった」
 長門は、テーブルに寝そべる俺の目を見つめたままそう言った。予想外の長門の言葉に、俺は思わずその目を覗き込む。
 長門の瞳の透明さはまたその誠実さを表している気がした。
「ありがとう」
 俺が言えるのはそれだけだった。そして、それ以上なにも言えなかった。
 心の底から安心できる瞬間。俺と会えたことを喜んでくれる人が居る。それだけで、もう――
 そして、そのまま俺は体の疲れに導かれるまま、静かに目を閉じる。

 俺は夢を見ていた。ほんの少し前の夢。きっと幸せだった頃の夢。
 俺はいつもの高校の教室にいて、後でハルヒがなにやら騒いでいた。俺は眠たいから、それを無視すると、ハルヒは俺の首根っこを掴んで俺を引きずり起こす。
 何かとんでもないことを思いついたらしい。なぜか俺の隣の席にいる朝比奈さんが苦笑いをしている。少し離れた席から古泉が意味深な笑みを浮かべてこちらを見ている。ハルヒの方を振り返って、ため息を付く俺に机にお茶が差し出される。前の席で長門がお盆を抱えて俺を見ている。
 仕方なしに振り返った俺の視界に入るハルヒの笑顔が眩しかった。まるで太陽を見ているみたいに、その光に照らされた俺の頬は温かさを覚える。

「……あっ」
 目に飛び込んでくる高い日差しを受けて目を覚ます。気が付けば俺はテーブルに突っ伏したまま眠っていたみたいだった。
「夢、か」
 そう呟いて、顔を起こしてヨダレを服の袖で拭く。
 ぐだぐだで意味不明な夢だったけれども、あの夢のほうが俺にとってはよっぽど現実感があった。俺記憶ではほんの数日前まで、普通に高校へ行って、普通にハルヒたちと遊んで、家に帰ったら家族が居て――
 どうして、もう戻らない過去ばかり、俺は思い出してしまうのだろう。
 窓ガラスに映る自分の顔を見てみる。おとなしくて真面目そうな顔。それは俺の顔じゃない。
 夢から醒めても、この現実は現実のままだった。
 夜中歩き回ったせいか、俺は長門の部屋についてすぐに寝てしまった。太陽がかんかん照りだから、今は昼くらいだろうか。
「おはよう?」
 疑問系の挨拶を投げかけられた方向へ俺は振り向く。長門が部屋の真ん中らへんに立って俺を見ている。
「あぁ。ほとんど昼だけど、おはよう」
 俺は本当に何日かぶりに朝の挨拶を交わした。
「今何時だ?」
「12.16578時」
 長門らしい答え方だ。正確な時刻はわからないが、どうやら昼過ぎまで俺は寝てしまったらしい。
「しまった……」
 そこで俺は思い出した、自分が病院を抜け出している身であることを。
 病院から黙って抜け出したまま昼になってしまった。さすがに、きっと誰かが俺の行方を捜しているだろう。頭の中におばさんの顔が浮かぶ。
 さすがにこのままではまずい。かといって、戻ってもどうしようもない。
 さぁ、どうするべきだろう?
「なぁ、長門」
「なに」
 長門は直立不動のまま俺に応える。
「お前お得意の情報操作って奴をお願いできないか」
 俺は朝倉の件と同じように長門に協力を仰ぐことにした。
 そして、俺は長門に事情を説明した。
「了解」
 何事もなかったかのように長門は引き受けてくれた。
 それからの長門の説明によると、病院側には俺は自宅療養に切り替えたということにして、宮本母については記憶喪失から来るストレスによりしばらく第三者の面会を謝絶するということにしたらしい。
 確かに、これなら誰も俺が病院にいなくても気付かないと思うが、あのおばさんには悪いことをしてしまった気がする。
 そんなことを考えていると、腹が間抜けな音を鳴らした。そういえば、昨日の晩からろくに何も食っていない。腹が減って、背中とくっつきそうだ。
「長門、こんなことをお前に頼むのもなんだが……昼飯なんかないか?」
 長門は2秒ほど俺の顔を見た後「待ってて」とだけ言って、台所へと姿を消した。

 目の前に豪快に盛られたカレーライスを俺は黙々と食べ続ける。台所へ姿を消した長門は十分ほどして、山盛りのカレーライスをお盆に下げて戻ってきた。腹が減っているからか、これだけの量でも食べきれそうだ。
 そして、俺は飯を食いながらこれからどうするかを考えていた。昨日の晩に家族の様子を見ようと決心したのはよかったものの、今の俺が家に帰ってもおそらく入れてもらえないだろうし、かといって家の前に張り付くのも変質者と勘違いされそうで、勘弁してもらいたい。
 ――なにかいい方法はないものかね。
 俺はカレーライスを水で喉の奥に押し込みながら考える。
 だめだ、何も思いつかん。
 両手を腰の後について、俺は大きくため息をつく。焦っても仕方がない。いい方法が思いつくまで待とう。色々ありすぎた。少し休もう。
 そう考え方を変えたときに、俺は一つ思いついた。
 ――そうだ。自分の墓参りに行ってみようか。



「ところで長門。今後について相談なんだが」
「何」
 食い終わった食器を洗おうとした俺を長門は手で押さえて、今台所で食器を洗っている。俺の言葉に長門はゆっくりと振り向いて答えた。
「その、悪いんだけど、俺には何もない。金も寝るところも。このまま宮本英利として生活するっていうのもありかもしれないけど、それじゃ何も解決しない気がする。だから、ここにしばらく泊めてもらえないか?」
「いい。どうぞ」
 ほとんど考える間もなく長門は即答した。
 いくらなんでも同い年の女子高校生の部屋に泊まりこむのは問題があるかと思ったが、頼れるのは長門しかない。なに、長門なら俺が変な気を起こしたって平然とねじ伏せるだろうさ。
 ……それはそれで怖い。
「あと、身の回りの物を買うのに金が欲しい。貸してもらえないか」
 返すアテもないけれども、さすがに金をくれとは言えなかった。
 Tシャツとジーンズだけで病院を抜け出してきた俺には、着替えなんてあるはずもなく、この8月の夜空を4時間歩きとおしたTシャツは汗のすっぱい匂いがしている。せめて着替えの類は買いたい。贅沢を言うなら歯ブラシとかも。
「わかった」
 そして長門はしばらく俺をじーっと見つめた後で
「お風呂、入る?」
 と言った。

 同級生にお風呂に入るように言われるのはへんな感覚だった。一緒に生活しているという気がしてくる。
「何を考えてるんだ、俺は」
 シャワーを浴びながら自分に突っ込みを入れる。そうだ、こんなところで浮かれている場合じゃない。
 高級マンションらしく風呂も普通のワンルームに付いているユニットバスなんかよりはるかに上等のものだった。長門らしいというか、なんというか生活感は全く感じられず、まるでショールームのように整然とシャンプーやら石鹸やらの類が並んでいる。湯船に湯を張るのは悪い気がしたので、シャワーだけを浴びている。
 けど、あの長門が俺に風呂を勧めてくるなんて……
 よっぽど臭かったのだろうか、俺は。

 風呂から出ると、脱衣所にタオルが用意してあった。俺が風呂に入っている間に、長門が置いてくれたらしい。
 タオルで体を拭いた後、風呂に入る前に長門から金を借りて、近所の某激安衣料品店で買ってきた新しい服に袖を通す。
「ふぅー」
 その気持ちよさに生き返ったような気がした。まぁ、気がしたどころか、実際俺は生き返ってしまってるわけだが。
「さんきゅー、長門」
 風呂から上がって長門に声を掛ける。長門は首を少しだけ傾げて応えた。
 なぜだろうか。俺は久々に人と会話をしている気がする。今この瞬間だけなら、何も変わっていないと錯覚することが出来た。鏡に映っている見知らぬ顔さえ見なければ。
「お金」
 そう言って長門は、タオルで頭を拭く俺に封筒を差し出した。中身を確認してみる。諭吉さんが十人。
「えっ!」
「不十分?」
「いや、そうじゃなくて。多すぎるっていう意味だ」
 俺の驚きを長門は逆の意味に誤解したみたいだった。
「こんなに、多すぎる」
「問題ない。貸すだけ」
 長門は俺の言葉をそのまま受け取っているようだった。貸すだけ、と言われても返すアテがないなどと言えるわけもなく、かといってお金は必要であることに変わりはない。俺はおとなしく借りることにする。
「これからどうする?」
 長門は雪解け水みたいな目で俺を見つめながらたずねてくる。そういう風に訊かれると、なんか思わず見当違いの答えを返してしまいそうだ。
「ちょっと自分の墓参りに行って来るよ」
 ちゃんと答えられた。俺の理性はちゃんと働いているらしい。
「そう」
「なんていうか、こう、自分が死んでいるっていう実感が湧かなくてな。確かめに行って来る」
 俺の家の墓はここから電車に乗って30分くらいのところにある。親父の実家の墓だ。おそらく俺も墓に入るとしたらそこになるはず。
「夕方には戻ってくると思う」
 タオルを洗濯機に放り込んで、そう言いながら俺は玄関へと向かう。
 玄関で靴を履いているときに、後から長門の声がした。
「また、帰ってきて」
 普通の人間には無感情で無表情の声にしか聞こえないかもしれない。でも、俺にはわかる。
「……ありがとう。じゃあ、ちゃんと行って帰ってくる」
 その場に立ち尽くしたままの長門を振り返って、軽く手を上げてやる。
 そして、俺は玄関のドアを開けた。照りつける太陽の日差しをやっと心地いいと感じた。
 俺は今この瞬間をきっと忘れないだろう。この先、こんな光景を見ることはもうそう多くはないのだから。



 長門のマンションを出た俺は駅へと向かう。辺りを騒がしく包み込む蝉の大合唱。そういえばこいつらも一週間程度しか生きられないんだったな。
 駅へと向かう道すがら、思い出すのは過去の記憶。昔はよく家族で墓参りをした。墓へと向かう坂道の途中に小さな売店みたいなのがあって、そこでいつも妹はアイスが欲しいと駄々をこねていたな。
「ちっ」
 俺は舌打ちをする。どうして色々なことを思い出してしまう場所にばかり俺は向かうのか。そして、俺はそこから離れられないのか。
 何も変わっていない。俺がいないだけ。
 いっそ何もかも変わっていていくれたら、どれだけ救われたことだろうか。

 駅にたどり着く。ホームの人だかりに見知った顔が居ないか、少し恐怖感を覚える。けど、すぐにそれは杞憂に終わることに気が付いた。誰も、俺を見ても、俺だとわからない。
 電車に乗り込む。俺は座席には座らずに、ドアの傍に立って流れていく風景を見ている。
 こんな風景だっただろうか。
 何度も乗ったはずの電車なのに、自分がその風景をほとんど覚えていないことに気が付いた。なんで今更になって、こんな新鮮な気持ちで外を見ているのだろうか。
 俺は、ただ流れていく景色だけを見つめていた。

 電車に揺られること30分。目的の駅に着く。ここから墓までは徒歩で15分ほどだ。
「タオル持ってくりゃよかったな」
 八月の日差しは強く、立っているだけで気が滅入る。電車の中で冷えていた体も、直に熱を帯びて額に汗が浮かぶ。
 駅前の自販機でペットボトルのお茶を買って、その道のりを歩き始める。時間が昼を過ぎているせいか、墓へと向かう人は俺以外にはいない。
 墓までの坂道の途中、あの売店を見つけた。けど、一年ぶりにやって来たそこは、もう潰れてしまっていた。
 俺は汗をたらしながら坂道を登る。
 なぜ、自分の墓を見ようと思ったのだろうか。それはただ現実から逃げたいがために、一瞬だけの目的を作るためではなかったのではないだろうか。こんなことをしてなんになる。自分で自分の冥福を祈る? 馬鹿馬鹿しい。
 一人になる。一人で歩く。思考だけが一人歩きしていく。
 自分が何のためにここにいるのか。そんなこと俺には到底理解することは出来ない。
 透明な記憶。熱に浮かされるような夢。

 自分の墓への道のりははっきりと覚えている。墓石の脇に落ちている夏の日差しに焼かれた蝉の死体から目を逸らして、俺は前へ進む。
 そして、俺はまたあいつと出会った。

 墓の手前まで来たとき、誰かが俺の墓の前にいるのが見えた。
 肩まで伸びた髪。リボンの付いた黄色いカチューシャ。見間違えるはずもない。
「ハルヒ」
 俺は思わずその名前を口に出してしまっていた。
 墓の前に立つ少女が名前を呼ばれて、ゆっくりとこちらを振り向く。
 目が合った。俺はその場で立ち尽くしてしまっている。
 どうしていいかわからない。まさかこんなところで会うとは思わなかった。
「あんた、誰?」
 ハルヒの口から出た言葉。それは当然の反応だった。
 わかりきっていたことだ。あぁ、最初っからわかっていたことさ。
 でも、覚悟をしていても、知っている人間から見知らぬ人間として扱われるのは辛い。
 ハルヒの額には汗が浮かんでいた。着ている服も湿っている。この場所に、今来たところではないことはすぐわかった。間違いなく、ここで数時間は立ち続けている。
 ハルヒの目に力はなかった。その目に見つめられて、俺は逃げ出したい衝動に駆られる。

「え、えっと、俺は、そのキョンの友達だ」
 自分で自分の間抜けなあだ名を言うのは情けないが、俺の友達は例外なく俺をそう呼んでいたので仕方がない。
「そう」
 ハルヒは力なく答える。
「で、なんであたしの名前を知っているの?」
「あ、それはだな、そのキョンの奴がよくおま、じゃなくて、キミの話をしていたから。涼宮ハルヒって言う子で黄色いカチューシャがトレードマークって訊いていたから」
 必死で頭の中で言い訳を考える。こんなところで、正体がばれて死ぬわけにはいかない。
 まだ、俺は何もしていない。それに、俺は長門とも約束したんだ。
「ふうん」
 そう言って、ハルヒは俺の墓を見つめる。
「ねぇ。あんたキョンと仲良かったの? どういう関係?」
 ぼそっとした声でハルヒは尋ねてくる。
 やはり突っ込んでくるな。
「あぁ、あいつとはその予備校時代、そう中学の予備校時代の友達で。学校は違ったんだけどさ。けど、高校に入ってからも時々会って話をしていたんだ」
 嘘八百もいいところだが、俺の予備校時代の人間関係を把握している人間はハルヒの身の回りにはいない。この嘘なら、そうそうばれる心配もないだろう。
「……キョンって、あたしのことなんて言ってた?」
「へっ?」
 ハルヒは俺の墓石に手を当てながらそう訊いてきた。
 予想外の質問に俺は戸惑う。どう答えればいいんだ? それ以前にハルヒの質問の意図は?
「あんたって変わってるわね」
 俺が質問の答えを考えている間に、ハルヒが話題を変えた。
「変わっている?」
 どういう意味だ? 少なくとも変わっているなどと言われるような行動はしていないつもりだ。
「おとなしそうな顔をしているくせに、しゃべり方は随分ぶっきらぼうね。礼儀正しそうに見えて、いきなり人を呼び捨てだしね。それ似合わないわよ」
 ほっといてくれ。宮本英利がどんな顔をしていようが俺の知ったことか。
「でも、不思議ね。なんかあんたと話していると懐かしい気がするわ」
 そう言ってハルヒは汗で張り付いた前髪を払って、少しだけ笑った。
 俺はその笑顔から目を逸らすことしか出来なかった。

「何しに来たの?」
「墓参りに決まっているだろ」
 一般的に他に墓場でやるようなことはない。
「そういうお前こそ、こんなところに突っ立って何してるんだよ?」
「お墓参りに決まっているでしょ」
 それは見ればわかる。ただ俺が本当に訊きたいことは違う。
「お前、ここに一体何時間くらい立っているんだ。その汗の量、ちょっとやそっとじゃないぞ」
 俺はハルヒの汗で張り付いたTシャツを見つめる。日に焼けた肌は赤くすらなっていた。
「別にいいじゃない。あんたには関係ないわ」
 ハルヒは俺から目をそらすと、口を尖らすようにしてそう言った。
「関係なくなんかない。心配だから聞いてるんだ」
 こんな炎天下で墓の前に突っ立っていたらいくら頑丈なハルヒでも、熱中症にくらいかかってしまう。さっきたどり着いたばかりの俺でさえ、もうシャツには汗のしみが出来ている。
「なんでだよ」
 質問に答えないハルヒに俺は苛立ちを込めて、そう投げかける。
「……今は、お盆でしょ。死んだ人の魂が帰ってくるっていうじゃない。だから、わたしはここにいるの」
 俺は声にならないうめき声を上げた。七夕なんかをバカ正直に信じている奴だ。お盆の話を信じていても不思議じゃない。
「なら、お前は――キョンに会いたいのか? 会いたくてここへ来ているのか?」
「別に」
 そこまで言っておいて、それはないだろう。
 ハルヒはこともなげにそう言ってのけると、また墓石を見つめている。
「なぁ、頼みがあるんだけど」
「何よ」
 ハルヒはこちらを振り向かずに答える。
「俺、これからキョンの家までお参りに行こうと思っているんだけど、あいつの家の場所をよく知らないんだ。できれば、案内してもらえると助かる」
 いったんこうと言い出したら、こいつが引かない人間であるということはよく知っている。そこで、俺は理由をつけて、ハルヒをここから連れ出すことにした。
 それにハルヒに紹介される形でなら、家族とも自然に会うことが出来る。
「頼む」
 沈黙を守り続けるハルヒにダメ押しをした。
「……わかったわよ」
 そう言ってハルヒは俺を置いて歩き始めた。
「何よ、来ないの? さっさとしないと置いて行くわよ」
 相変わらず自分勝手というかマイペースな奴だ。
 でも、俺はそんな姿に少し安心していた。この傍若無人な振る舞いは、俺のよく知っているハルヒそのものだったから。
「今、行く」
 俺は墓のほうを振り返る。墓は綺麗に掃除されていて、新しい花が供えてあった。そして、そこにははっきりと俺の名前があった。

「なぁ、今日って何日だ?」
 俺は先を歩くハルヒにそう声をかける。日差しが少し傾いてきている。
「はぁ?」
 ハルヒは理解不能な珍動物を見るような目で俺を見つめてきた。
「8月14日よ」
 病院で目が覚めてから、いろいろとありすぎたせいで、俺は漠然とした季節しか把握していなかった。正直、日付なんてどうでもよかったし、知りたくもなかった。
「そうか。もう、そんなになるのか」
 ハルヒは俺を不思議そうに見つめる。
「いや、こっちの話だ」
 俺が事故にあったのが6月の終わりだったから、一ヶ月と少し。それだけの時間が経っていた。
 ハルヒはそんな俺から目を逸らすと、またもくもくと前進を始める。
 日に焼けて赤くなった首筋が痛々しい。
 俺は雲ひとつない晴れた空を見上げる。
 せめて、曇ってでもいてくれたら少しはハルヒも楽になれるのに。

 電車に乗っている間も、お互いに言葉は交わさなかった。俺自身こいつの初対面の人間に対する無愛想さは知っているつもりだったし、見ず知らずの俺を家まで案内してくれるだけでも上等だ。だから、俺は大して気にしなかった。
 俺は隣に座って、不機嫌そうに景色を見つめるハルヒの横顔を眺めていた。その姿に、初めて会ったときを思い出した。あの頃も、ずっとこんな感じで不機嫌そうに空ばかり見ていたな、こいつは。
 電車の中、道端、ハルヒの傍にいると不思議と心が安らぐような気がした。一人になると頭を埋め尽くす余計な思考が、ハルヒといるだけで抑えられていた。
 いつの間にかハルヒの傍が俺にとってこんなにも心安らぐ場になっていたなんて。
 俺はここにいる、ハルヒにそう伝えてやりたかった。

 駅を降りて家へと歩く道すがら、俺とハルヒは完全に無言だ。俺ももうハルヒに話しかけられるような精神的余裕はない。全身につめたい汗が浮かぶ。通いなれた道なのに。通いなれた俺の家への道なのに。
 時刻はもうすぐ午後4時になる。それでも、8月14日の夏真っ盛りでは太陽はかんかんと照っている。
「くそっ」
 汗で湿ったTシャツをつまんで匂いをかいでみる。汗臭い。久しぶりに家族の顔を見るって言うのに。
 ――こんなんなら一度長戸のマンションに戻って、シャツを着替えて来ればよかったな。
 心の中で静かにそう呟く。
 見慣れた角を曲がると俺の家が見えてくる。自分の家だというのに、なぜかよそよそしく見えてしまう。
 ――やっぱ、怖いな。
 自分が家族として扱われないということは重々承知している。けれども、やはりそれは覚悟していても恐ろしいものだ。
 家の玄関の前にハルヒと立つ。
「ここよ」
 ハルヒはそこで初めて俺のほうを振り返った。
「ありがとう」
「じゃ、そういうことでね」
 えっ? と俺が言うまもなく、ハルヒは呼び鈴を押すとそのまますたすたと歩き出した。
「お、おい。俺一人にするのかよ」
「何よ。あんたが言ったのは連れてってくれ、だけだったでしょ」
 ハルヒは食い下がる俺のほうを見向きもせずに、軽く片手だけ挙げて歩いて行く。
 計算違いもいいとこだ。ハルヒが一緒にいてくれるから、俺も家族に会いやすかったっていうのに。
「くっ」
 そうやって俺がハルヒを追いかけようとしたところで、家の扉が開いた。
「……えっと、どちら様?」
 半分ほど開いた扉から、妹が不安そうに顔を出してこちらを見ている。
 まずは呼び鈴が鳴ったら、インターフォンで相手を確認するまで扉を開けるな、ってあれほど口をすっぱくして教えたっていうのに、こいつは。
 いや、そんなことは今はまったくもってしてどうでもいい。
 大切なのはこの状況をどう切り抜けるかだ。
「え、っと。俺はあのキョンの友達なんだけれども」
「キョンくんのお友達?」
 扉から顔を半分出しながら、すこしおどおどした感じでそう確認してくる。
「あぁ。あの、仏壇で線香でもあげさせてもらえないかな、と思って」
 そこまで言ったところで、さらに大きくドアが開いた。妹の後ろから母親がやってきて、ドアを開けたのだった。
「あの子のお友達ですか?」
 そう言う母親の顔。その顔は俺の母親の顔で間違いない。けど、それは俺の知ってる顔よりもずいぶん年を取ってしまったように見えた。
 西日を浴びて会釈する母親の顔を見て、なぜか俺は無性にその場に崩れ落ちたい衝動に駆られた。そのとき、周りに誰もいなかったらきっと俺は泣いていた。



「よかったら上がっていてください」
 俺はそう言われて自分の家へと入る。
「お邪魔します」
 何が邪魔なんだろうか。俺の存在がもうここでは邪魔なものなのか。お邪魔もくそもない。俺はここにいたんだ。当たり前のようにここで暮らしていたんだ。
 心の中に噴きあがる感情を表に出さないようにして、俺はゆっくりと音を立てないようにドアをくぐる。まるで泥棒みたいに。

「わざわざお参りに来ていただいたのに、ろくなおもてなしも出来なくてごめんなさいね」
 母親はそう言って、コップに注いだオレンジジュースを出す。
 俺は家のリビングに案内されて、そこのテーブルに座っている。
「いえ、全然そんなことないです」
 なぜ俺は自分の家族と敬語で話しているのだろう。
 母親は俺に笑顔を向けて歓待してくれている。でも、これは実の息子に向けたものじゃない。
 妹のほうに目をやる。妹は母親の影に隠れて、俺の様子をじっと見ている。
 こいつはこんなに人見知りだっただろうか? 今までは頼みもしないのに、俺が友達を連れてきたらちょっかいを出しに来ていたのに。
 自分の家のはずなのに何かが違う。見知った家族のはずなのに、俺が見ている顔は俺の知っている顔とは違う。
 家の内装も俺の知っているままだ。でも、何かが違う。そう、何かが。俺がここにいてもいいと確信できるだけの何かが。
「せっかくだからお参りしていってあげて下さい。きっとあの子も喜びます」
 自分で自分の線香上げても、俺は喜ばないよ。
 母親はそう言うと、家の奥へと俺を案内する。
 そこには俺の写真と、その前に飾られた線香台がある。
「どうかしたんですか?」
「いえ、本当に死んでしまったんだなと思って」
 それは俺の率直な感想だった。他に何の感慨もわかない。そう、俺は死んでしまった。それだけ。
「……突然でしたからね。結構、高校のお友達もお参りに来てくれたんですよ」
「友達?」
「えぇ。朝比奈さんとか古泉君とか、あとは谷口君とか国木田君とか」
「そうですか」
 どうやら母親は俺が高校の友達だと思っているみたいだった。
「あいつらも来たんですか?」
「えぇ。お盆だからってわざわざ」
「そうですか」
 こんなことを言うのもおかしいけれども、死んでしまってから改めて谷口や国木田が友達だったということをしみじみと思う。
「でも、ハルヒちゃんは来てくれなかったわね」
「ハルヒが?」
 俺は思わず聞き返す。にわかには理解しがたいことだ。あの炎天下の中、俺の墓の前で立ち尽くしていたハルヒがここへ来ていないなんて。
「えぇ。あの、もしあの子に会ったら気にしないでって言ってくれるかしら」
「かまいませんけど。でも、何を気にするなと?」
 母親は少しだけ口に指を当てて、ためらうような仕草をする。
「……ほら、あの事故のとき傍にいたでしょ? だから、責任を感じちゃってるみたいなの。もっと私がしっかりしていたらって。私はなんどもあなたのせいじゃない、そんなに自分を責めないでって言っているのだけれどもね」
 母親は力なく笑ってみせる。
「そう、ですか」
 俺にはわかる。あの事故でハルヒにはまったく非なんてない。あいつが責任を感じる必要なんてまったくない。
「あっ」
「どうかしました?」
「いえ、なんでも」
 そこで俺は気が付いた。あいつがここまで俺を連れてきても、家には入らなかった理由を。バカみたいに変なところで義理堅い奴だ。俺の家族に会わせる顔がないとでも思っているのかもしれない。
「バカな奴だ。あいつは何も悪くないっていうのに」
 俺はそう呟いた。母親が不思議そうな顔をして俺を見たが、特に質問されることはなかった。

 線香をあげて、俺はあたりを見回す。
 俺の視線は部屋の隅に置かれたものに釘付けになった。そこには部屋の隅っこに作りかけの工作があった。
 それは妹が小学校の宿題で作っていた奴だ。家にあるプリンの空容器やらで何かオブジェみたいなものを作る工作の宿題。それは、俺が事故にあった日の朝、妹が手伝えとせがんだものだった。
 なんで、そんな1ヶ月以上も前の工作がこんなところに放置してあるんだ?
 俺の目が見つめているものに母親は気が付いたみたいだった。
「あぁ、それね。それは、あの子の妹がね、お兄ちゃんと一緒に完成させるんだって言ってきかないのよ。本当はちゃんとしないといけないのだけれども、私たちもとてもとりあげることなんて出来なくて。って、どうしたの?」
「いえ……なんでも、ないです」
 俺はその場にひざから崩れ落ちて泣いていた。耐え切れず泣いていた。泣くのを抑えようと、精一杯歯を食いしばった。でも、背中がただ震えるだけだった。
 こんなことなら、あの朝めんどくさがらずに手伝ってやればよかった。せめて、ちゃんと兄らしいことをしてやりたかった。
 目の前に居場所をなくしたように転がったヨーグルトの空き容器を見つめて、俺はただ泣き続けた。
「ごめん。ごめんな……」
 その声が誰にも届かないと知りながらも、俺は謝り続けた。

「それでは、お邪魔しました……」
 俺は玄関に立って自分の家から立ち去ろうとしている。
「どうもありがとうね」
 母親とその後に隠れた妹が見送ってくれている。まるで、俺がここから出て行くのが当然であるかのように。太陽はもう随分傾いていて、景色は黄金色に染まっている。
 母親は俺が取り乱したことには触れないでくれていた。
「それじゃ」
 そう言って、帰ろうとしたとき、俺はまだ何も訊いていなかったことを思い出した。そうして、また振り返りたずねる。
「あの……」
「はい?」
 母親は笑みを浮かべて応えてくれる。
「妹さんは、その、落ち込んでないですか? あの、あいつからはよく元気な妹で困っていると聞いていたので」
 母親は少しだけ表情を曇らしたが、すぐに取り直して
「そうですね。あの子が事故にあってから、かなり落ち込んでいるみたいですね。あの子はまだお兄ちゃんが死んだということを受け入れられていないみたい」
 それから母親は小さくため息を付いた。
「でも、それは私たちも同じことなんですけどね」
「そう……ですか」
 俺は馬鹿の一つ覚えみたいにそう繰り返すので精一杯。
 それでも、俺は母親の影に隠れる妹の目を見つめた。妹もどこか不思議そうな目で俺を見つめている。
「なぁ、もしお兄ちゃんがいたら、きっとさ、そんな元気のない姿なんか、見たくないと思うんだ。ほら、キミはいつも元気いっぱいだったろ? お兄ちゃんはそんな妹、が大好き、だったんだから。だから、元気、を出してくれって、きっと言う、と思うよ。ほら、いつも、元気いっぱい、で、朝起こしてあげて、いたんだろ? キミの、元気のない姿、なんか、見たくないんだ」
 精一杯、嗚咽しそうになるのをこらえる。相手に元気出せ、と言っているのに、俺が泣き崩れていては説得力がないというものだ。
 妹は俺の目を見て、何かを思い出そうとしているようだった。
 それから、俺は何とか呼吸を整えた。
「あと、工作手伝わなくてごめんなって」
 そして、小さな声で呟くように言った。
「えっ?」
 妹は不思議そうな顔をして、俺を見上げている。
「いや、なんとなく、あいつがそう言っているような気がしたんだ……」
 出来うることなら、母親も妹も家族もみんな俺のことなんか綺麗さっぱり忘れて欲しい。こんな風に苦しませるくらいなら、忘れてくれたほうがずっといい。俺なんか忘れて、笑っていてくれているほうがずっといい。
 胸を締め壊されるような慟哭が俺を襲う。こんな、宮本英利の姿なんかしていなければ、堂々と俺は家族だと名乗れたのに。
 俺は泣いている顔を見られないように、その場から走り去った。まるで、逃げるように。



 一人ぼっちになって、それでも俺はなお歩き続ける。目的地があるわけでもない。俺はただ、埃まみれのやせ細った野良犬のように町を徘徊するだけだ。
「……きついな。マジで」
 そう言って、俺は唇の端を歪める。自嘲、それ以外にどうしようもない。
 家族から向けられる敬語がこんなに辛いとは知らなかった。今も胸に何かが深く突き刺さっているみたいだ。
 ――家族に他人扱いされるのがこんなに辛いなんてな。
 ふと、頭の中におばさんの顔が浮かんだ。今ならわかる。俺自身がおばさんに対してどれだけひどいことをしてきたかを。あの、悲しそうな表情は、それでも精一杯俺を心配させないように強がってみせていてくれたものだったことを。
 情けない。家族の顔を見て、それで終わりにするつもりだったのに。あそこまで憔悴しきった母親の顔、そしてあの快活だった妹があそこまで暗く落ち込んだ姿を見て、俺は逃げ出すのか。
 目の前の問題を直視してしまったこと、そしてその問題の解決法が全く見つからないことに激しい苛立ちと憤りを覚える。そして、最後にはどうしようもない悲しさに支配される。
 家を飛び出してから、俺はどこへともなく歩いている。もう日は沈む。けれども、まだ長門の居るマンションにはとても帰る気にはなれなかった。俺の足取りは無意識のうちに、人気の多い場所へと向かっていた。多くの人の中に紛れてしまえば、少しは寂しくないかもしれない。そこにいる誰も、俺を知らなくても。

 学生は夏休みでも、世間の皆様は働いておられる。よって、この時間の駅前は平日通りに通勤ラッシュの人々でごった返していた。せわしなく俺の横を通り過ぎる人々、きっと彼らには帰る場所があるのだろうし、帰りを待ってくれている家族もいるのだろう。
 俺は自販機でペットボトルのお茶を買って、駅前のベンチに腰を下ろした。行くべき場所へと向かう人の波の中で、俺だけが唯一止まっている。何かを待っているわけでもない。ただ、時間を潰しているだけの存在として。
 仕方なしに、俺は空を見上げる。星がよく見えない。あれだけ晴れていた空に少し雲が掛かっていることに気が付いた。空に雲が集まってきている。そして、少しずつあたりに湿った匂いが立ち込め始める。雨が、降り始めたのだった。

 唐突に降り始めた雨に人の動きが早くなる。慌ててどこかの店へ雨宿りに駆け込む人。走り出す人。傘を取り出す人。ただ時間を潰すだけの人は、そのまま何もせずベンチに座っていた。俺にはこの雨から逃れたところで、何も解決することは出来なかったのだから。
 降り注ぐ雨の中、俺は置物みたいに座っていた。

 遠くの空を見上げていると、突然に頬を叩く雨の感触が消えた。辺りにはまだ雨粒が落ちているのが見える。雨が止んだわけではない。俺は頭上を見上げる。俺の頭上にだけ、こげ茶色の色が広がっている。誰かが、俺に傘を差してくれていた。
 その傘を差出してくれているベンチの隣を俺は見る。そこには見慣れた顔があった。
「……佐々木?」
 俺がそう名前を呼ぶと、佐々木はもう大丈夫とでも言うように笑った。

 俺にはわからなかった。佐々木はなぜ俺に傘を差してきてくれたのか。目の前に居る女子は間違いなく俺の中学時代の同級生だった佐々木だ。Tシャツにミニスカート、そして肩から大きめのショルダーバックを掛けている。どこかへ行っていた帰りだろうか。
 しかしいくら佐々木にだって、俺が俺であることがわかるはずがない。家族ですらわからなかったのに。なら、これは単なる見知らぬ人への親切心なのだろうか。それとも本当に――
「僕の名前を覚えていてくれたとは、光栄だね。宮本君」
 俺はその言葉を聞いた瞬間固まってしまった。そうか、こいつは俺を俺だと思って話しかけてきたんじゃない。俺を宮本英利だと思っていたんだ。
 そんな俺の反応を見て、佐々木は少し首を傾げる。
「僕がキミの名前を知っていることがそんなに不思議かい? 自覚していないのかも知れないけれども、キミは結構うちの学校では名の知れた存在なのだよ。成績は常に学年トップの特待生としてね」
 確か佐々木の行っている高校は県一番の進学校だったはずだ。そこに通っているだけでもすごいのに、そこで学年トップとは。
「そうか、宮本ってそんなにすごい奴だったのか……」
 俺は思わずそんな感想を口にしていた。とてもじゃないが、俺に宮本英利の振りをして暮らしていく自信はなくなった。
 佐々木は俺の言葉に目を丸くすると、
「まるで自分のことを自分と自覚していない。キミは変わった人だね」
 と笑った。
「お前に変、とだけは言われたくないよ」
 そう反論する俺に佐々木は「それもそうか」と言って笑う。
「ところで、だ」
「なんだよ」
 俺は佐々木の言葉に戸惑う。佐々木が宮本のことを知っているなら、一発で俺がその宮本でないことがばれてしまうはずだ。だからと言って、宮本がどんな人間か俺は全く知らない。宮本の振りをすることも出来ない。どうすればいいんだろう。
「学年一の秀才で通っているキミが予備校をサボってこんなところで何をしているんだい。この雨の中、傘も差さずに」
「みりゃわかるだろ。俺は手ぶらだ。傘なんて持っていない」
 無意識的に、俺は俺らしく反応してしまう。
「僕が聞きたいのは、なぜこんなところに座っているのか、ということなのだけれどもね」
「……他にやることがないからだよ」
「そうかい」
 佐々木はそれ以上質問してくることはなかった。しばらくの間、ベンチに傘を差してふたりして無言で座っていた。
「そういうお前こそ、こんなところで何やってんだ? どっか行く用事があって、駅まで来たんだろ? こんな無駄な話をしている時間なんてあるのか」
 俺は厄介払いをするようにそう言った。正直、これ以上佐々木の相手をしてぼろを出さない自信がない。
「それは心配御無用。なぜならね、――僕もキミと同じサボりだからさ」
 そして俺に悪戯っぽく笑いかける。その笑顔がなぜかすごく懐かしかった。

「なんだよ、それ」
「迷惑そうに言わないでくれたまえ。ここで時間を潰していたのは僕が先輩なのだからね」
「お前、こんなところに座っていつも時間を潰しているのかよ」
「うん」
 こともなげに佐々木はそう言ってみせる。わけがわからない。こいつは何が楽しくて毎週こんなところでベンチに座って時間を潰しているのか。
 雨のおかげか周りに人はほとんどいない。こんな雨の中傘を差してベンチに座っている物好きは俺と佐々木だけだ。
「物好きだな、お前も。毎週こんなベンチに座ったまま、予備校が終わるまで時間を潰しているのかよ」
「うん。一応予備校に行っている振りをしないと家族が心配するからね」
 そのときの佐々木の笑顔に俺は空白を感じた。家族やハルヒの顔を見たときと同じような違和感。今にも剥がれそうにその表面だけを覆っているような。
「ちゃんと予備校へ行けよ」
 俺の記憶の中にある佐々木は予備校をさぼるような奴じゃなかった。中学時代、何かと理由をつけて、予備校をサボろうとした俺をむしろ諭すぐらいの奴だったはずだ。
「わからないんだ」
 佐々木は目の前を見据えてそう言った。
「授業が、か?」
「違うよ」
 佐々木は前を見たまま否定した。そして、
「一体自分はこんなところで何をしているだろう、ってそれがわからないんだ」

 佐々木の言葉はどういう意味だろうか。まるで、俺の悩みみたいなことを言って。俺は佐々木の横顔を見つめる。
「何だよ、それ。どういう意味だよ?」
「……最近、ね。僕の大切な人が亡くなったんだ」
 そして佐々木は小さく深呼吸する。
「その人が亡くなった日、はちょうど休みの日でね。その時、僕は予備校にいたんだ」
「……それは仕方のないことだろう」
「そうだね」
 佐々木は俺のほうを振り返って力なく笑う。俺は何かが心に突き刺さっているような気がした。
「お葬式に行ったりして、彼が本当にいなくなったんだな、って理解して。あっけないよね、交通事故だったんだ。それから僕は悲しんで、僕は泣いて。でもね、世界はすぐに日常生活に戻った。それこそ、彼がいなくなったことなんてまるでどうでもいいみたいにね。そうしたら、僕はわからなくなった。なんで、こんな辛いことがあったのに、僕は当たり前のようにこんな生活をしているだろうって。彼が亡くなった瞬間に僕は予備校なんかにいた。こんな大学受験のための予備校がそんなに大切なものなんだろうかって。こんなところに居なければ、もっと彼と過ごす時間があったんじゃないかって。だから、僕はわからなくなった。そして、どうしようもない苛立ちを覚えるんだ。悲しむ事の出来ない自分自身に。彼がいなくなっても何も変わらないことに」
 そう言って佐々木は笑いかけてくる。その儚い笑顔に俺は、どうしようもない悲しみが見えた気がした。
「……そいつはお前の彼氏かなんかか?」
 俺は話を逸らすように、間の抜けた質問をした。
 ここではじめて、佐々木は照れるように笑う。
「ふふ。半分正解で半分はずれ」
「なんだよ、それ」
「だって片思いだったからさ」
 そう、佐々木は透明な息を吐いた。佐々木の言葉に俺は思わず息を呑む。
「……彼はね、中学時代の同級生だったんだ。一緒によく、この駅前の予備校に通っていた。ほら、あそこに見えるあの予備校」
 佐々木の指差す方向、そこは俺にとっても見覚えのある場所だった。
「ここに座っていると、少しはその彼に近づける気がするんだ」
 俺は言葉もなく、ただ佐々木の視線の先を追うだけだった。強い力で、こぶしを握りこむ。
「でも、今日はこうしてキミと話が出来てよかったよ。少しなんか楽になれた気がする」
「え?」
 佐々木は中学時代に見慣れた自然な笑みを俺に向けていた。
「キミの喋り方、まるで彼そっくりだからね」



 雨が止んで、俺は佐々木と別れて駅前から歩き始めた。「じゃあね」と小さく手を振る佐々木を背にして、俺は帰り道を進む。通り雨は止んで、アスファルトの湿った空気が鼻につく。辺りはもう暗くなっている。
 長門のマンションへと向かう帰り道、俺はずっと考えている。今日一日で出会った人々、母親、妹、佐々木、そしてハルヒ。俺がこの世界からいなくなった傷跡が、彼女たちの姿にはっきりと見て取れた。
「馬鹿みたいだ」
 俺は夜道を歩きながら一人呟いた。自分自身の辛さだけを見ていた。辛いのは自分だけだと思っていた。けど、それが大間違いだったことを思い知らされた。あのおばさんがどれだけ辛い思いをしていたかなんて考えもしなかった。
 あの作りかけの工作はいつまであのままなのだろうか。佐々木はまだあのベンチの上で止まった時間を過ごすのだろうか。そして、ハルヒはずっと俺の墓の前に立ち続けるのだろうか。
「辛いな」
 俺の近くにいた人たちほど、俺の死に苦しんでいる。苦しんで欲しくない人たちほど、俺のために苦しんでいる。これほどの苦痛はなかった。
 俺は一体どうすればいいのだろう。このままじゃいけないのはわかっている。それははっきりとわかっている。
 ――少し楽になれた気がする。
 そのとき、俺の頭の中にあの佐々木の言葉が浮かんだ。あのとき、そう言って笑ってくれた佐々木の表情、それは俺が慣れ親しんだものだった。
 半月が俺の姿を照らす。ちっぽけな影がアスファルトに映る。けど、そんなちっぽけな俺でも出来ることがある。そう、俺自身の空白は俺が、埋める。

「おかえりなさい」
「ただいま」
 長門のマンションに着くと、長門がドアを開けて待っていてくれた。
「あなた自身の予告した時刻より遅かった」
「あぁ、悪い」
 夕方頃には帰ると言っていたはずなのに、あたりはもう真っ暗だ。そんな俺を長門は無表情に見つめる。長門の言葉は俺が遅く帰ってきたことを責めているのだろうか。
「ひょっとして心配してくれていたのか?」
 玄関で靴を脱ぎながら、俺はちょっとした悪戯心で長門にそう尋ねた。
 長門はしばらく俺の目を見つめると、
「自分の発言は守るべき」
 と言った。
「そうだな。でも、ちゃんと帰ってくるっていう約束は守っただろ?」
 俺の問いかけに長門は小さく首肯する。
「だから、私も出迎えた」
「ありがとう」
 何気ない会話。当たり前の会話。俺が帰ってくる場所。俺が帰ってくることを待っている人。その今まで当たり前だった存在が今の俺にはどうしようもなく大切に思える。

「……また、カレーか」
「嫌い?」
「いや、そういうわけじゃない」
 晩飯として目の前に出されたカレーの皿を見て、俺は大きくため息を付く。けど、すぐに考えを改めた。俺はあくまで居候のただ飯ぐらいだ。目の前の食事に文句を言うわけにはいかない。
「ありがたくごちそうになる」
「どうぞ」
 長門と向かい合って、山のようなカレーと対峙する。カレーの匂いに胸焼けを起こしそうになる。昼もカレーだったしなぁ……
「なぁ、長門」
「なに」
 長門はスプーンを動かす手を休めずに答える。目の前のカレーが驚嘆すべき勢いで切り崩されていく。
「俺、今日ハルヒに会ったよ」
「そう」
「でさ、ハルヒの奴は元気にやっているのか?」
 ここで長門の手が止まる。透明な光を携えた瞳が俺を見据える。
「今の私は涼宮ハルヒとの接触を行っていない」
「え?」
 長門の答えの意外さに、俺は驚嘆する。手に持ったスプーンを力強く握り締めながら、事態を把握しようと努力する。
「それは、いったい、どういう意味だ?」
「私は最近、涼宮ハルヒと会話及び――」
「俺が訊きたいのはそうじゃない。なぜ、そうしているのかということだ」
 殺風景な部屋に重い空気が流れる。俺の声に苛立ちは隠せていない。
「涼宮ハルヒがそう望んでいるから」
「ハルヒが?」
「そう」
 それから、長門はしばらく俺の表情を見つめると、俺が納得していないことを理解したのか、説明を始める。
「私だけじゃない。涼宮ハルヒは彼女の周りにいた人たちとの接触を拒んでいる。私は、私が彼女と接触することが強いストレスになると判断。よって、現在は彼女とは距離をおいた形で観察を続けている」
「どういうことだよ、それは……」
 納得がいかない。わけがわからない。ハルヒが、あのハルヒがだ、アレだけ大切にしていたSOS団の連中を遠ざけるなんて一体どういうことだ。
「なんで、そんなことになったっていうんだ……」
 俺はスプーンをテーブルに落として、両手で頭を抱える。スプーンの落ちる音が、無情に部屋に響いた。
「私には有機生命体の感情はうまく把握できない」
 長門は少しためらいがちに頭を抱える俺にそう言った。
「――けれども、彼女はあなたの死が自分の責任だと思っている。だから、彼女は、正確にはあなたと親しかった人たちから距離を置いている」
 同じことを俺は今日母親からも聞いた。一体どういうことなんだ。何がハルヒをそこまで追い詰めるんだ。
「長門、なぜハルヒは俺が死んだのを自分のせいだと思っているんだ?」
 長門は少し話しにくそうに唇を歪める。うまく説明する言葉を見つけるのに時間が掛かっているようだ。
「あの事故の直後、車と衝突したあなたの姿を見て、彼女は気を失った」
「……それで、なんで、あいつは自分のせいだなんて思うんだよ」
 長門の答えには俺は到底納得できない。いくらあんな性格をしているとはいっても、ハルヒも女だ。事故を見て気を失うくらいしても何の不思議もない。
「彼女は、自分が気を失わなければあなたを助けられたかもしれないと思っている」
「そんな事言ったって……俺は即死だったんだろ?」
「そう。彼女が事故直後に何らかの救命措置をとったところであなたが助かる確率はほぼないに等しかった」
 馬鹿げた話だ。なんであいつはそんなことを気に病むんだよ。
 俺は理解できないハルヒの思考に苛立ちを覚える。そして、それ以上に自分自身の愚かさに。
「……それで、あいつの能力の暴走とかはなかったのか?」
「それはなかった」
「そうか、よかったな」
 俺は静かに安堵の声を漏らす。
「よくはない」
「え?」
 長門は俺の言葉を否定した。
「今、彼女の精神活動は停止した状態。だから、彼女の能力が発動することはなかった。けれども、それは私たちにとっても彼女にとっても望まざること」
「……精神活動の停止って、一体どういう意味だ?」
 長門は言葉を選ぶように少しの間を置く。短い時間、だけれども重苦しい沈黙が辺りを包む。
「端的に表現するならば、彼女の精神は死んだ。あの事故のとき、あなたと一緒に」
 そう言った長門の肩越しに、半分欠けた月が見えた。



 蒸し暑い真夏の空気に布団を蹴り飛ばして、目を覚ました。蛍光灯のぶら下がっている天井を眺めてため息を付く。どこかまだ疲れている体と、その覚醒を途切れさす事のない心。とても、それ以上寝ていられる気がしなかった俺は布団から這い出した。
 そのまま、俺は長門のマンションに泊めてもらった。昔、3年ほど眠り続けたことのある客間に布団をしいて眠った。そして目を覚まして、もしかしたらまた数年間眠ってしまったのかもしれないという錯覚に陥る。寝不足でかすむ目を擦りながら、俺はふすまを開いて外に出た。
「おはよう」
「え、あぁ、おはよう」
 そこにはもう長門が立っていた。上半身をねじって俺のほうを見ると、軽く朝の挨拶をした。
「お前はもう起きているのか? というか、今は何月何日の何時だ?」
 外を見る限りではどうやら日は昇っているらしいが、まだ高くはない。夏の日のでは早いから7時くらいだろうか。長門の家には時計の類がない。だから、正確な時刻がわからない。テレビもないから、テレビをつけて時刻を確認することも出来ない。仕方なく、俺は長門に今の時間を聞くのだった。
「8月15日の7.12572時」
「ありがとう。あと念のために訊くけど、俺はまた3年間眠っていたとかそういうことはないよな?」
「ない」
 長門は俺の問いにあっさりと答えた。どうやら7時過ぎに俺は起きたらしい。そして、俺の睡眠はごくごく普通のものだったようだ。
「そいつはよかった」
 そう言って、俺は汗の染み付いたシャツを着替えにさっきの部屋に戻る。そして、さっさとシャツを着替えると、自分がパンツ姿であることに気が付いた。
「……」
 長門にとって、俺の下半身は差し当たってどうでもいいものらしい。



「これからどうする?」
 とりあえずズボンを穿いて、歯を磨く俺の後ろから長門が問いかける。
「そうだなぁ」
 俺は口を軽くゆすいで答える。
 正直、これからどうしようかなんてアイデアがあるわけではない。昨日は勢い込んでいた部分もあったけれども、一晩寝たおかげで、割合気分は落ち着いていた。
「ちょいと心残りなものがあったから、そいつを片付けようかと思う」
 洗面台の鏡に映る長門を見ながら、今日の予定を告げる。
「そう」
「あぁ」
 うがいをする俺の後姿を長門はただ見つめていた。

「じゃあ、行って来る」
 玄関に立った俺は、振り返って長門にそう言った。
「わかった」
 相変わらずの直立不動で長門は俺を見送る。朝日が長門の姿を照らしていて、それがなんだかおかしかった。そんな長門の姿に軽く笑いかけて、俺はドアノブに手を伸ばす。
「今日は、帰ってくる?」
 その背中に長門の声が響いた。
「あぁ。今日は、帰ってくる」
 その問いに答える俺は、なぜか今日という言葉を強調していた。



 午前10時。俺は再び自分の家の前に立っていた。辺りを包み込む蝉の声が少しだけうるさい。
 一つ深呼吸をした後、俺はそっとインターフォンを押す。昨日顔を出したぶん、少し気持ちは楽だった。
「はい、どちらさま?」
「昨日、お尋ねした宮本です」
 インターフォンに出た母親の声に、俺は自分の名前をそう告げた。
「宮本君?」
 母親の声は不思議そうだった。それもそうだろう。昨日の今日でわざわざ俺が現れる理由など皆目見当つくはずもない。
 ぱたぱたと扉の向こうから足音が聞こえて、玄関のドアが昨日とは違い軽やかに開く。
「どうしたの? なにか忘れ物?」
 ドアを開けた母親は開口一番そう言った。
「そうですね。忘れ物というか、ちょっとやり残したことがあって来ました」
「やり残したこと?」
 母親は俺の顔を見て、不思議そうに首を傾げる。
「ええ。妹さんは居られますか?」
 そう言って、俺は精一杯の笑顔を取り繕う。昨日みたいに、泣くわけにはいかない。俺が、泣くわけにはいかない。

「おはよう」
 俺は母親に呼ばれて、玄関まで出てきた妹に挨拶をした。妹はしばらく首をかしげながら俺の顔を見ていたが、
「おはよう」
 と小さな声で返した。
 俺は妹の大体の行動パターンは把握している。この時間、家で妹が暇をしていることは予測していた。夏休みの平日はいつも午前10時くらいになったら、暇をもてあました妹が「あそぼー」と俺にかまってもらいに来るのだ。去年の夏休みは、それで随分とうっとおしい思いをしたのを覚えている。ただ、今となってはそんな過去の自分がうらやましい。
「今日はどうしたの?」
 妹が俺を見上げながら尋ねてきた。昨日のように母親の背に隠れているわけではない。少しは俺に慣れてくれたのだろうか。
「あぁ、それはな……ほら、昨日あの作りかけの工作あっただろ?」
「うん」
 妹はさらに小さな声で返事をした。やはりあまり触れて欲しくはないことなのだろう。けど、そのまま俺の亡霊に縛り付けているわけにはいかない。
「あれを完成させよう。俺も手伝うから」
 妹は目を大きく開いて、瞬きをした。俺がなんでそんなことを言ったのか、それを理解しかねているようだった。母親は無言で俺たちのやり取りを見守っている。
「どうして、手伝ってくれるの?」
 それは俺がお前の兄貴だから――もしそう言えたら、どれだけ楽なことだろう。
「俺がキョンの友達だから。……きっと、あいつそれを心残りにしている、そんな気がするんだ。ずっと作りかけのままだったらかわいそうだろ?」
 俺は腰を低くして妹の目を見つめる。俺の言葉に、俺の本当の気持ちに、嘘なんかないことを理解して欲しい。
 妹は俺の目を見つめて、しばらく何かを考えているようだった。
「わかった」
 そして、短くそう答えた。

 昨日、ここへ現れたばかりの高校生と小学生が一緒に床に座って工作している姿はなかなかに奇妙な光景に見えたと思う。
 大きなお菓子の箱のふたの上に、牛乳パックや発泡スチロールのトレーが組み合わさって出来た建物が載っている。
「んで、これをどうすればいいんだ?」
「ここはね、入り口をこう切って玄関にするの」
 最初は人見知りをしていた妹も、少しずつ俺に慣れてきたのか饒舌になり始めた。
「そうか、じゃあ……っと、こんな感じでいいか?」
 牛乳パックに切り込みを入れて、その出来栄えを妹に尋ねる。
「うん」
 現場監督様に許可を得られたので、次の作業に移る。
「次はねー、ここをピンク色に塗ってー」
「へいへい」
 こうして、胡坐をかいて床に座り込んだ俺と、両手を床につけて指示を出す妹の工作は順調に進んでいった。時折、妹の笑い声も聞こえるようになった。
 不思議な気分だった。何度も、自分の姿が自分でないことを忘れそうになった。俺も妹に合わせて笑った。心の底から笑っていた。

「ところで、この建物は一体何なんだ?」
「これ?」
「うん」
 作業工程の8割方が済んだ頃、俺は自分の作っているものの正体を把握していないことに気が付いた。戦国時代の城を作っていた工夫じゃあるまいし、せめて自分の作っているものの正体くらい教えてもらわないとな。
「これはねー、お姫様の宮殿!」
 嬉しそうに両手を広げて答える妹。その後にそびえ立つ牛乳パックとプラスチックトレーとヨーグルトの空き容器のかたまり。
「随分とまた、お姫様自らエコロジカルなお住まいで」
 目の前にそびえ立つリサイクルスピリットの権化のような宮殿を眺める。もしも、こんな宮殿を持つ王国があれば、ドイツも真っ青の世界一環境に優しい国だろう。
「でねー、ここがあたしの部屋なのー」
 そう言って、妹はそのうちの牛乳パックで出来た一室を指差す。
「お姫様の宮殿じゃねえのかよ」
 小学生特有の自分に都合のいいちぐはぐな設定に俺は苦笑する。
「で、ここがお母さんの部屋で、ここがお父さんの部屋でね」
 そんな俺の突っ込みを無視して、妹はなおも嬉しそうに宮殿を指差し続ける。
「でね、ここがキョンくんの部屋」
 その妹の無邪気な笑顔に俺は言葉を失った。
「どうしたの?」
 そんな俺の表情の変化を察したのか、不思議そうな顔で妹は尋ねてくる。
「いや……キョンの、お前の兄さんの部屋もちゃんとあるんだな」
「当たり前だよ。だって、家族だもん」
 妹は満面の笑みで答える。
 その瞬間、俺の中で時間が止まった。妹の瞳の中で、まるで自分自身の全てを見透かされているような気がした。
「そうか、そうだよな。家族だもんな。みんな、一緒に、住んでるんだもんな」
「うん。だって、キョンくんが天国から帰ってきたとき、キョンくんの部屋がなかったら困るもんね」
 俺の帰る場所。そうか、俺は全てを失ったわけじゃないんだ。帰る場所があるんだ。俺を覚えていてくれている人がいる。俺を思ってくれる人がいる。こんなちっぽけな宮殿の中にも、きっとこの家のどこにでも、俺の帰る場所はある。
 俺は確かに死んだ。でも、消え去ったわけじゃない。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
「いや、なんでもないよ。なんでもない。もう、大丈夫だ」
 見ず知らずの他人の姿になってから、お兄ちゃんなんて言うなよ。
 俺の表情を見て、心配そうに尋ねてくる妹。俺は今泣き出しそうな顔をしているのだろうか。
 でも、俺は泣かない。どれだけ悲しくても、俺は泣かない。
 ――絶対に泣くわけにはいかない。

「それでは失礼します」
「わざわざありがとうね」
 やり残したことを終えた俺は、玄関で母親の見送りを受けていた。母親からはいっしょに昼食をと誘われたが、俺はそれを丁重に断った。今、家族と食卓を共にすればきっと胸が引きちぎられるような気持ちになってしまう。他人の振りをし続けたまま食卓を囲むことは、今の俺にはできないだろう。このまま、何も言わずに去るのが一番いい。
「それでは」
 玄関のドアノブに手をかける。
「あ、もしよかったらなんだけれども」
「はい?」
 母親に声を掛けられた。俺はドアを半分開きながら振り返る。
「また、いつでも遊びに来てあげてね。きっと、あの子も喜ぶし。お兄ちゃんを亡くして、ずっと寂しがっていたから」
「――えぇ。そうですね」
 例え、これからどれだけ遠く離れた場所へ行くとしても、きっと俺は帰ってくるだろう。だって、ここには俺の居場所があるのだから。あのリサイクル宮殿にはちゃんと俺の部屋があるのだから。
「きっと、また、もう一度遊びに来ます」
 そして、最後の最後に、俺は初めてうまく笑えた気がした。



「さて、どうしたもんかね」
 真昼の真夏を俺は一人歩いている。特に目的はない。目下の課題は、差し当たっては昼飯をどうするかだろうか。
「うーむ」
 片手をあごにやりながら俺は歩く。長門のマンションに戻って昼飯を食おうか。
 ……いや、きっとまたカレーが出る。さすがに三食連続カレーはきつい。
 そんなことを考えながら、足は自然と駅前の方へ向かっていた。
 ポケットには長門からもらったお金が入っている。腹も減ってきたことだし、適当にどっかで飯を買って食べよう。
 そう考えた俺は歩きながら、辺りの飯屋を注意深く探った。

 駅前の辺りを10分ほど歩きまわったとき、俺は一つの店の前で足を止めてしまった。そこは銀行向かいのイタリア料理の店。去年オープンした新しい店だ。そこは、ハルヒの奴がめざとく見つけて、何度かSOS団の連中でみんな一緒に飯を食った店だ。
 思わず知った顔がないか、店内のドアのガラスから中をうかがってしまう。幸か不幸か、冷房の効いて涼しそうな店内には見知った顔は見られなかった。
「……」
 俺はポケットに手を突っ込んで店の前でしばらく立ち尽くしたあと、その扉を開いて中へ入った。

 店内は何も変わっていなかった。まぁ、当たり前だろう。前に来たときから、時間は数ヶ月しか経っていないのだから。俺はいつもの見慣れた席に座った。昼飯にはまだ少し早いためか、店内は空いている。6人がけの席を独り占めしているのは妙に気恥ずかしい。ウェイトレスにいつものランチを頼みながら、俺はハルヒが行儀悪くフォークで俺の皿を突いた光景を思い出していた。そして、それと同時に昨日見たハルヒの疲れきった顔も。
 出された料理を一口味わう。懐かしい。運ばれてきた懐かしい味の料理を食べながら、自分が今日これからすることを思いついた。
 ――そうだ、思い出の場所を周ろう。
 もう一度、自分自身と向き合う勇気を妹の工作が俺に与えてくれていた。



 真夏の日差しはどうしようもなく暑い。陽に焼かれる体をひきずるように、俺はこの街の思い出深い場所を巡っていた。
 朝比奈さんがその正体を明かした公園。長門とやって来た図書館。鳩を追い回した神社。川沿いの季節はずれの桜。そして、高校。
 夏休みでも部活をやっている連中はいる。その中に紛れて、俺は教室へと入っていった。私服だから目立つかとも思ったが、人が多いのは運動場のあたりだけで校舎内は閑散としていた。
 懐かしい教室の扉を開ける。濃い木の匂いが辺りに立ちこもる。窓際の俺の席には日差しが当たっていた。誰も居ない教室の、陽に照らされた席に俺は歩いていく。ほんの一ヵ月半前、俺の意識ではほんの数日前まで毎日ここに通っていたのだ。
 そっと席に座ってみる。窓から降り注ぐ日差しが俺の影を作る。そこから教室を眺めてみる。目を閉じて、うるさかった教室の姿を思い出してみた。
 ――きっと俺は再びそこに帰らないだろう。
 今度は自分の机に目を移す。机の上には埃が積もっていた。積もっている埃を右手で軽く撫でるように払ってやる。そこで、俺は机の真ん中に何か丸い跡があることに気がついた。何かがここに載っていたみたいだ。
「あぁ、そうか」
 そこで、俺はその載っていたものの正体に気が付いた。花瓶だ、きっと。
 おそらく、そう遠くない未来にこの机は教室から撤去されるだろう。もうそこに誰かが座ることはないのだろうから。
 俺は立ち上がり、自分の席の後を一瞥した。その机は生活感なく、綺麗に整頓されている。
「まぁ、夏休みだからな」
 俺はしばらくその机を眺めてから、教室を後にした。

 俺が教室を出た後に向かう場所はいつだって決まっている。旧校舎、部室棟。文芸部室、もといSOS団の部屋。
 俺は扉の前に立って、そこに手をかけようとした。けれども、その手は動かなかった。自分はここに入ってはいけない。なぜかそんな気がした。なぜか? 鍵が掛かっているのがわかっているから? いや、違う。
 ただ、漠然と、本当に漠然としたことだけれども、ここは俺の知っている場所とは少し違う気がした。なぜだかは、わからない。けれども、そう強く思った。
 今、ここにいるわけにはいかない。

 学校を出て、俺は坂道を降りていく。時刻はもうそろそろ午後4時になろうとしているところだ。途中でコンビニに寄って買ったペットボトルとタオルを片手に、次へ行く場所を考える。もう大体思いつく場所には行ったしなぁ。
「あぁ、そうだ」
 一つ重要なところを忘れていた。俺が何度もお世話になったあの場所だ。中には入れてもらえないだろうけど、外からちょっと眺めるだけ眺めてみよう。あそこもまた思い出深い場所なのだから。

 それからしばらくして、俺は立派な門構えの前にいた。俺の知り合いの中で、こんな立派な家に住んでいる人はたったの一人だけだ。思えば、この人にも生前はよくお世話になった。自分で生前と言うのはなんか変な気分だが。
 俺はその門の前に立って、しばらくそこを眺めていた。色々なことが思い出される。未来から来た朝比奈さんをここに連れてきたこと。例の誘拐事件。そして、ハルヒとのケンカ。ほんとうに会った当初はとんでもない奴だったよな、あいつは。
 そんなことを一通り思い返していた俺は、そろそろその場から立ち去ろうと体の向きを変えた。そのときだった。門の扉が開いた。
「え?」
 予想外の事態に俺はその門のほうを見つめる。誰か家の人が出てくるのだろうか。俺は心の中でそこから出てくるある人物の顔を思い浮かべていた。
「やぁやぁ、キミはいったいどちら様かなっ?」
 長い髪をした少女が開いた扉から顔を出した。
「鶴屋さん」
 思わず俺はその人の名前を口にしていた。

「えっと、あの」
「うん? 驚かしちゃったかなっ?」
 鶴屋さんは快活な笑顔を俺に向けてくれている。俺は、俺にむけられるその変わらない笑顔が嬉しかった。
 けれども、だ。なぜ、鶴屋さんは玄関の扉を開けて出てきてくれたんだ? 俺が俺の姿をしているならまだしも、見慣れない宮本という高校生なのに。
 ……まさか、鶴屋さん宮本と知り合いなのか?
「あー、不思議そうな顔をしてるねー」
「は、はい」
 鶴屋さんはふふんと軽く鼻を鳴らして笑う。俺は曖昧な愛想笑いを浮かべる。
「いやね、うちのカメラ君にさっ、キミがじーっと玄関の前に立っている姿が映っていたのさ。最初は変な人かなと思ったけど、なんか用事があるような雰囲気だったしね。で、よくみたらあたしと同い年くらいの子だったから、なんかあたしに用事があるのかと思ってさっ。あたしに何かご用かいっ?」
 なるほど。宮本と知り合いというわけではなかったようだ。俺は安心して、息を吐いて肩を落とす。
「いえ、別に用事があるわけじゃないです」
 俺は顔の前で手を振って、鶴屋さんの言葉を否定する。
「そうかー。それは残念」
 鶴屋さんは腕を組んで、さも残念という風に口をわざと尖らしてみせる。
「じゃあ、用事があるのはみくるのほうかいっ?」
「えっ?」
 その後で出た鶴屋さんの言葉は意外だった。みくる、つまりは朝比奈さん。朝比奈さんがいま鶴屋邸にいるということなのだろうか?
「みくるファンの子かー。いやー、みくるはモテモテだねっ! まぁ、あれだけかわいいから無理もないさっ!」
 なぜか朝比奈さん目当てでやってきた高校生ということになってしまった。否定しようと思うが、鶴屋さんの笑顔を見ているとうまく言葉が出ない。
「いや、あの。その」
 なんとか誤解を解かないと。いや、確かに朝比奈さんがかわいいお方であることは認めるが。
「よかったら、上がっていくかいっ?」
「へ?」
 さらに予想の斜め上を行く鶴屋さんの言葉に、俺はもうどうしていいかわからない。なんでこうなっているんだ?
「最近、みくる元気がないから、よかったら話し相手になってくれると嬉しいさっ! ほら、こんなところに突っ立っていたら暑いにょろ? ほらこっちこっち」
 そして鶴屋さんはこちらへと歩いてきて、俺の手を取った。俺はその手に引かれるままに扉をくぐる。なんか変なことになってしまった。けれども、もう一度朝比奈さんと会えるなら、会いたい。もう一度、会って話がしたい。
 俺は鶴屋さんのありがたい申し出を受けることにして、自分の意思で足を動かして前へ進んだ。

 鶴屋さんに案内されるがまま通された和室の奥、そこに朝比奈さんは座っていた。にしても、ここは見覚えのない部屋だ。かといって、見覚えるほど訪れた経験があるわけではないけれども。ただただ、その家の大きさに圧倒される。この日本にこんな大きな家が存在しているとは。
「えっと、あの……?」
 朝比奈さんは鶴屋さんの後から現れた俺の姿を見て、大きな目をより大きく丸くした。まぁ、当然の反応だろう。見知らぬ男子高校生が唐突に現れたのだから。
「やぁ、みくる!」
 鶴屋さんはそんなことはおかまいなしだ。片手を上げて軽快に朝比奈さんに挨拶をしている。
「え? えっ?」
 朝比奈さんはおろおろとするばかり。俺は手持ち無沙汰に鼻の頭を掻く。
「彼はみくるのお客さんさっ! えーっと、名前は……」
「宮本です。宮本英利です」
 本当のようで大嘘の自己紹介。そろそろ俺自身も慣れてきた。
「そっ! 宮本君っ!」
 今知ったばかりのはずなのに、鶴屋さんはまるで旧知の知り合いを紹介するように俺を紹介した。
「こんにちは。はじめまして」
「あ、はっはじめまして」
 俺が挨拶すると、朝比奈さんは慌てて座りなおして挨拶した。こういうところがいかにも朝比奈さんらしい。
 ――変わっていないな。
 俺はその愛らしさに思わず微笑みを浮かべてしまう。
「で、どういったご用ですか?」
 朝比奈さんは不思議そうに尋ねてきた。まぁ、これも当然だろう。むしろ、俺が何の用事でここへ来てしまったのか、俺自身が訊きたい位だ。
「あぁ、彼はね、みくるファンなのさっ!」
 俺の代わりになぜか鶴屋さんが答えていた。
「へっ?」
 俺と朝比奈さんの声が見事なハーモニーを奏でる。
「この子がねっ、最近みくるの元気がないのを心配してわざわざお見舞いに来てくれたんだよ!」
「そうなんですか。わざわざ、ありがとうございます」
 朝比奈さんはそう言って丁寧にお辞儀した。っていうか、あっさり鶴屋さんの話を信じすぎです。少しは疑ってください。
「いえ。まぁ、そんなとこです」
 もう、そう言うしかない。
「それじゃあ、あたしはちょっくら席を外すからさ。あとはお若いふたりでよろしくねっ!」
 俺が突っ込む暇もなく、鶴屋さんはその長い髪を揺らしてその身を翻すと、部屋から出て行ってしまった。
 あんたは見合いにしゃしゃりでてきた親戚のおばさんかよ! 心の中でそんな突っ込みを入れる。
 けど、すぐにそんな突っ込みを入れている場合じゃないことに気がついた。今、この部屋で俺と朝比奈さんはふたりっきりだ。

 ……困った。実に困った。何を話していいかわからない。
 朝比奈さんもそんな感じで部屋の真ん中で所在なげに座っている。普段ならこの状況は歓迎すべき状況だろう。けど、今は、本当に何を話していいかわからない。朝比奈さんは俺と目が合うと少し照れくさそうに笑う。
「あの、お元気ですか?」
 場の空気を何とかしようと、必死こいて考えて、俺の口から出た言葉はこれだった。
「あ、はい」
 朝比奈さんはきょとんとしたまま、そう答える。まぁ、そう答えるしかないよな。
「あの、最近元気がないみたいだったので何かあったのかなと思って」
 仕方がないので、鶴屋シナリオに俺も乗る。あぁ、もう乗りかかった船さ、こんちきしょう。
「え? そんなこと……いえ、やっぱりそう見えたんでしょうか?」
 朝比奈さんはきっと一度そんなことない、と否定しようとして、そしてまた言い直した。その右手を頬に当てている。何かを考え込むように少し下を向いた。
「え、ええ。何かあったんですか?」
 俺も適当に話をあわせる。
 朝比奈さんは少し話しづらそうに顔を下に向けたまま。そして、数秒の沈黙の後
「お友達がこの間亡くなったんです」
 と消え入りそうな声で言った。

「友達、ですか?」
「……はい」
 考えてみれば当然のことだった。心優しい朝比奈さんが、身近な人間の死に心を痛めないわけはなかったんだ。その友達というのが誰か、そんなことは訊かなくてもわかっている。
「そう、ですか」
 あぁ、なんてことだ。当事者なのに、うまく言葉が出てこない。何を言っていいかわからない。
「あっさりしてますよね」
「え?」
 俺は自分の対応を非難されたのかと思って、あわてて聞き返した。
「たったの一日で、その前の日まではみんなで一緒に笑いあったりしているのが当たり前だったのに、たったの一日でそんな日々はあっさりと消えちゃいました。まるで、それが夢だったみたいに」
 朝比奈さんの言葉の意味は違っていた。俺は少しほっとすると同時に、その言葉に深く共感した。意識が途切れて、目を覚ましたら、あっさりと俺の世界はなくなっていた。
「宮本君は、何年生ですか?」
 そうしてしばらく逡巡する俺に、朝比奈さんは少し遠慮がちに話を振ってきてくれた。
「あ、俺ですか? え、っと2年です」
「そうですか。じゃあ、みんなと同じ学年ですね」
「みんな?」
「あ、あのSOS団って知ってます?」
「あぁ、名前くらいは……」
 嘘だ。知らないわけがない。なんていったって、俺は正真正銘の結成メンバーだ。
「私、その団の団員なんです」
 朝比奈さんは少し誇らしげに笑う。
 ――知っていますよ、とてもよく。
 今の俺にはそんなことは口に出しては言えなかった。誇らしげに笑う朝比奈さんを見て思う。あぁ、朝比奈さんにとってSOS団って、俺たちって一体なんだったんだろう。
「2年生だったら、涼宮さんと同じ学年ですよね? 涼宮さんは元気にしていますか?」
「いえ、俺はクラスが違うので」
 そう言い訳をしながらも、俺は昨日見たハルヒの表情を思い出さないわけにはいかなかった。炎天下の日差しの中、俺の墓の前で汗も拭わずに立っていたあの姿を。
「あの、もしよかったら」
「はい?」
 しばし、記憶を省みることに集中していた俺は朝比奈さんの言葉を聞き返した。
 朝比奈さんはくすりと笑うと、
「もしよかったら、涼宮さんに話しかけて元気付けてあげてくれませんか? で、さらによかったら涼宮さんのお友達になってくれるともっとうれしいです。」
 と柔らかい声で言った。
「私は大丈夫ですから。涼宮さんに比べたら全然大丈夫ですから」
 朝比奈さんは一生懸命笑ってみせてくれる。その儚い笑顔に俺は胸が押しつぶされそうになる。なんでこの人は自分はさも傷ついてなんかいないように、人のことばかり心配できるのだろう――
「涼宮さんは、あの、その、一見怖そうに見えるけど、本当はとっても優しい友達想いな女の子なんです。だから、えっと、怖がらずに話しかけてもらえたら、きっと」
「……わかりました。がんばってみます」
「ありがとうございます」
 朝比奈さんは丁寧にお辞儀をする。あぁ、そんな風に頭なんか下げなくていいんですよ。俺はあなたの頼みならいくらでもよろこんで聞くんですから。
「じゃあ、俺そろそろ行きますね」
 そう言って俺は立ち上がる。だめだ、これ以上この人に頭を下げられるのは耐えられない。
 ふすまに手をかけながら、俺はその瞬間思い立った疑問を朝比奈さんにぶつけてみた。
「あの、何で俺にそんなことを頼んだんですか?」
「なんとなく、宮本君なら涼宮さんのお友達になってくれそうな気がしたからです」
「それは、なぜ?」
「えっと……禁則事項です」
 そう言って、朝比奈さんは唇に人差し指を当てて屈託なく笑った。その悪戯っぽい笑顔を見ていると自然に顔が綻んだ。

「おっ。少年、もう帰るのかいっ?」
 廊下に出るとすぐに鶴屋さんに会った。
「ええ」
「もっとみくると話していけばよかったのに。もったいないにょろ」
 そう言って悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「鶴屋さん。あなたはどれだけ気付いているんですか?」
「んっ? どういう意味かなっ?」
「俺の正体について、どれくらい気付いています?」
 鶴屋さんは両手を腰に当てて、ふふんと笑うだけだった。
「でも、ありがとうございます。朝比奈さんとお話できてよかったです」
 俺はそれ以上追及せず、ただ礼の言葉だけを述べた。
「そんなこと言わずに、またいつでも遊びに来るといいさっ! キミならいつでもうっとこは大歓迎だよっ!」
 そんな俺に対して鶴屋さんは両手を広げて、いつでも歓待してくれる意思を示してくれた。いつでも遊びにおいで、と。
「――ありがとうございます」
 俺は鶴屋さんの顔を直視できないまま、ただその一言をオウムみたいに返すことしか出来なかった。
「うん、がんばっといでっ!」
 そんな俺の背中を鶴屋さんは力強く、そしてやさしく押してくれた。



 最後に立ち寄る場所は決めていた。
 鶴屋邸を俺が後にしたのは午後5時前。朝比奈さんとはほんの少しだけ話をしただけだから、時間は大して経っていなかった。日差しが傾き始める。だから急ごう。日が沈むまでにたどり着こう。俺が死んだ場所に。
 鶴屋邸から歩くこと10分ほどの場所にある坂道。そこが俺の死んだ場所だ。ここで全てが終わって、そして今この瞬間が始まった。俺が死んだ場所はすぐわかった。道の傍のガードレールに枯れた花束が置いてあった。
 不思議な気分だ。自分の死んだ場所の現場検分を自分でやるというのは、本当に。ちょうどハルヒと俺はこの坂道の左側を下っていて、そこの交差点からボールと子供が飛び出してきて、それで俺はその子をかばって車に轢かれた。俺が知っているのはそこまでだ。それ以上については何もわからない。
 人通りのない坂道はとても静かだ。車も通らない。低くなった陽が作った俺の影が道路を横切っている。柔らかい風が頬を撫でる。
 俺はこの場所を見て何を思えばいいのだろう。静けさしかないこの場所で。
「おいっ、キミ」
 不意に後から声を掛けられた。ポケットに手を突っ込んで突っ立っていた俺はその体勢のまま、体ごと振り向く。そこには見知らぬおっさんが立っていた。
「キミ、もう元気なのかい?」
「え?」
「この間ここで事故に遭っただろう?」
 ちょっと待て。その瞬間、俺の意識は飛びそうになった。この間ここで事故に遭った、だと? このおっさんは何を言っているんだ? まさか、俺が俺だとわかるのか?
「いや、確かに事故に遭いましたけれども……」
 それが精一杯の返答だった。
「あぁ、そうか。キミは覚えていないかもしれないけど、私はほら、そこの店の主人だよ」
 俺の不審がる様子を察したおっさんは、右手の親指で交差点脇にある店を指差した。小さな手作りアクセサリーショップだ。大して目立つような店構えでもなく、注意深く歩かないと気付かないだろう。ショーウィンドーにおっさんの手作りらしき木工のネックレスが飾ってある。よく見るとおっさんはTシャツにエプロンとジーパンとえらくラフな格好だ。
「いやー、あの事故があったのは一週間前だったけ? うちで買い物してくれた直後の事故だったからさ、おじさん本当に心配したんだよ。ここではつい一ヶ月半ほど前にも大きな事故があって、高校生が亡くなったからねー」
 一週間前? どういうことだ? 俺が死んだのは6月の終わりだったはず。
「キミの顔を覚えていたから、こうして声を掛けたわけだよ。いやー、元気そうで良かった」
 そう言って本当に嬉しそうに笑うおっさんの顔。
 そうか、おっさんが言っているのは俺のことじゃない。宮本のことだったんだ。宮本も、俺と同じこの場所で事故に遭ったんだ。

「あの、その一ヵ月半前の事故ってどんなのだったか、教えてくれませんか」
 俺はおっさんに事故について尋ねていた。俺自身の意識が事故の瞬間で途絶えている以上、事故の状況を聞くにはこのおっさんに尋ねるしかない。
「え?」
 おっさんは人のよさそうな丸い目で俺を見ている。その目が「なんでそんなことを訊くんだい?」と言っていた。
「……ひどい事故だったよ。あれは即死だったんじゃないかな」
 おっさんはしばらく喋るべきかどうかを考えいたようだが、やがてぽつぽつと事故の状況を話し始めた。
「そこの角から子供が道路に飛び出したらしいんだ。それを、その男子高校生がかばったらしい。とは言っても、僕自身はその事故の瞬間は見ていないだけれどもね。どーん、っていうなんとも形容しがたい大きな音がして慌てて店から飛び出たら、そこで高校生が倒れていたんだ。あれは、なんと言うか……うん」
 おっさんは言葉を濁した。おそらくそれだけ俺の状態はひどかったということだろう。
「高校生の彼女のほうも気の毒だったね」
「彼女、ですか?」
「うん。その高校生はどうやら彼女とデートの最中だったらしいんだ」
 違いますよ。デートなんかじゃなくて、あれは市内不思議探索で、そもそもハルヒは彼女じゃありませんから。
 と、そんなことを言えるはずもなく、俺は黙っておっさんの話の続きを待つ。
「彼女が、彼の姿を見てね。悲鳴を上げて、そのまま気を失っちまったんだ。あれは本当にびっくりしたよ。血の気のない真っ青な顔してその場に倒れこんじゃったんだ。揺り動かして、声を掛けても反応がなくて。僕が救急車を呼んだんだけれども、彼女も彼とは別の救急車で病院に運ばれていったよ」
「……そう、ですか」
「彼が亡くなったっていうのは翌日の新聞で知った。こんなことを言ったらおかしいかもしれないけど、僕は彼女のほうが心配だったね。彼氏が目の前であんなことになったのを目の前で見てしまって、きっとしばらく辛い状態が続くと思うよ」
 ハルヒが俺の事故を見て気を失った。その事実自体は長門から聞いて知っていた。でも、実際に事故現場でそれを見てしまった人から話を聞くのとでは、わけがちがう。目を凝らせば、その光景が見えるような気がした。
「あぁ、ごめんごめん。変な話しちゃったね。別にキミが気に病むことじゃない。でも、なんにせよキミが無事生きていてくれてよかったよ。それが一番大切だからね」
「そう、ですね……」
 おっさんは言葉をなくした俺を元気付けようとそう言った。その励ましは俺にとってはどこまでも空虚だった。
「ところで、今日はここへ何の用だい? あぁ、そうか。事故でせっかく買ったネックレスが壊れちゃったから新しいのを買いに来たんだろ?」
 下を向いたまま黙り込んだ俺を励まそうとおっさんはわざとらしく明るい調子で話を変えようとした。
「ごめんなー、ちょうど今キミが買ったのとおんなじ奴は品切れなんだ。また、すぐ作るから、ちょっと待っていてくれよ。お代はいいや。おじさんからの快気祝いだ」
 そう言っておっさんはディスプレーを右手で指差しながら、わざとらしい調子で左手で頭をぼりぼり掻いてみせた。
「いやー、悪いね。せっかくのお母さんへの誕生日プレゼントだったのにね」
「誕生日?」
 俺はその言葉に反応した。頭の中に、病院でみたおばさんの小さな背中がよみがえる。
「あぁ、覚えてるよ。キミがとても慌てていたからね。はやくケーキ屋に行かないと、閉まっちゃうって。おつりを渡すなり、それをポケットに突っ込んで飛び出すもんだから。これからは慌てても慎重に行動しなよ。お母さんへのプレゼントもいいけど、キミが生きているのが一番の親孝行なんだからさ」
 そう言っておっさんは笑いながら俺の肩を叩いた。
 その無邪気な言葉は何よりも俺の心を締め付けた。ポケットの中に入ったままの220円とくしゃくしゃのレシートを強く握り締める。
 ――全くだ、馬鹿野郎。何がプレゼントだ。お前が元気に生きていてやることが、最高の贈り物じゃねえかよ。
 俺はどこへともなく、あったこともない宮本英利という男への言葉を呟いた。そして、それはまた俺に対しての言葉でもあった。
 俺も宮本も、どうしようもない親不孝者だ。



 多分それは遅すぎた。本当に今さらだった。俺が死んだ場所で知った宮本英利という男のこと。ここに来て俺にとって、ただの仮面でしかなかった宮本英利という男が人としての意味を持ち始めた。
 おっさんに適当に別れを告げて、俺は日の沈んだ道を歩いていく。ポケットの220円に触れる。中からくしゃくしゃのレシートを取り出す。皺だらけの感熱紙の表面に、薄くなった青い文字が浮かんでいる。このレシートをあわただしくポケットに突っ込んだ直後に、彼は事故に遭ったのだった。
 彼は一体何を思っていたのだろうか。このレシートには一体彼のどんな思いが込められていたのだろうか。本当に今頃になって、俺は宮本英利という男のことを知りたいと思った。
 けれども、誰に宮本のことについて訊けばいい? おばさんに訊くべきか? いや、そんなの出来るわけない。他に宮本の知り合いなんて、俺は知らない。そこまで思考を回したとき、俺の頭の中に一人の人物の顔が浮かんだ。
 ――佐々木。

 走った。俺は意味もなく走った。佐々木に話を聞くことを思いついたものの、うまくあいつと会える保証はない。可能性はたった一つだけ。昨日と同じ時刻、駅前のベンチ。そこにあいつがいる可能性にかけるしかない。
 そして、夜の道を走りながら俺は笑っていた。何をこんなに必死になっているんだろうか。今の今まで無気力を絵に描いたように、ただ当てもなくさまよっていただけなのに。俺を突き動かしているのは何なんだろう。こんな真夏に汗をかいて走っている男子高校生の姿はきっと周りには滑稽に映ったことだろう。一人ぼっち? 誰も俺だとわからない? 馬鹿野郎、俺はまだ生きているんだ。やらなきゃならないことがあるんだ。文句があるか。
 靴底が痛いくらいに地面にぶつかる、腕の振りがアホみたいに大きくなる、あごが上を向いて息が荒くなる。それでも俺は走った。俺が俺のためにがんばらないで、誰ががんばる。

 呼吸が荒い。息を吸い込む喉が痛い。心臓がばくばくいっている。両手を膝について、俺は辺りを見回す。陽はもう完全に沈んだ。駅前の時計は午後6時半。佐々木の奴は今日も駅前のベンチにいるのだろうか。駅前の人通りは昨日ほど多くない。8月15日、今日は盆休みか。
 頭の中に不吉な予感がよぎる。果たしてこの盆休みに予備校っていうのはやっているものなのか。そもそも、佐々木が帰省していたらどうするんだ。っつても、俺はあいつの田舎がどこかなんて知らないけど。
 急に重くなってしまった足取りで、俺は昨日佐々木と話したベンチへと向かう。視界に入ってきたそのベンチには、誰もいなかった。
「ちくしょう」
 当てが外れてしまった。ここに佐々木がいないとしたら、俺にはもうどうしようもない。

 空を見上げると昨日見た半月が昇っていた。昨日よりも痩せているから、これから三日月になって、消えていくんだろう。
 俺は両足を投げ出して、大きくため息を付いた。走ってきたせいで全身汗だくだ。立ち止まってベンチに座った瞬間に汗が吹き出した。それでも、俺は汗を拭くことなくそのままで、空を見上げている。
 うまくいくと思ったのに。ほんの少し希望が見えた気がしたのに。
「佐々木、お前一体どこにいるんだよ」
「ここ」
 ……疲れによる幻聴か? なんか俺の独り言にあっさりとした反応が返ってきた気がしたんだが。
 俺は額に手を当てて、また大きくため息を付いた。
「人が返事をしているのに、無視しないでくれたまえ」
 という声が聞こえるのが早いか、俺はあごを柔らかい手で掴まれて顔を右へ向けられた。
「あ、佐々木」
「やぁ、こんばんは。宮本」
 無意識に苗字を呼び捨てにしてしまった俺に対するあてつけか、佐々木は俺を呼び捨てで呼んだ。佐々木は俺の座っているベンチの後ろ側から上半身を乗り出して、俺の顔を見ている。
「僕に何かご用かい?」
 佐々木はその柔らかい手で俺のあごに触れたまま、半ばあきれ返るようにそう問いかける。
「まぁ、そうだな……」
 独り言を聞かれてしまうというのは気恥ずかしい。俺は言葉を濁すしかなかった。
「ふぅん」
 佐々木は納得できない表情ながらも、俺のあごから手を離し、俺の隣に座った。
「まさか、僕が昨日と同じようにここに佇んでいると思って、やってきたのかい?」
「まぁ、そんなとこだ。っていうか、いつお前はここに現れたんだ?」
 そんな俺の質問に、佐々木は商店街のほうを指差して答える。その指先にはコンビニがあった。
「あそこで、立ち読みをして時間を潰していたのさ。そうしたらキミがここへ走ってくるのが偶然目に入ってね。まさか、キミはこの真夏に外のベンチで僕が座り続けていると思ったのかい?」
 佐々木は目を閉じて右手を開いて、あきれ返るような声を出した。
 確かにそういうところまで意識が回らなかった俺は、黙り込む。
「そこで、肩で息をしながら満身創痍のキミがこのベンチに倒れこむように座るのが見えたものでね。いくらなんでも知らない仲じゃない、そんなキミが不思議な行動を取るから、ちょっと様子を見に来たのさ。そうしたら――」
 俺の恥ずかしい独り言を聞いたわけですね。
「何をそんなに慌てていたのか知る由もないが、一体僕に何用かね?」
「あぁ、用か。それはだな……」
 と、そこで俺は言葉に詰まる。一体どうやって聞けばいいんだ? 一体俺ってどんな人間なんだ、って。
「あ、ちょっと待ちたまえ」
 そうやって言葉に詰まっている俺を佐々木は右手で制すと、その鞄から小さなタオルを出した。
「いくら夏とはいえ、その汗を拭かずにいたら風邪を引いてしまうよ」
 そして、俺の額にタオルを柔らかい仕草で当てた。洗剤のいい香りがする。
「いや、悪いからいいよ」
「遠慮しなくてもいい。責任の一端は、間接的とはいえ、僕にもあるみたいだからね」
 佐々木は言い出したら聞かない奴だ。それは中学時代の付き合いでよく知っている。
「わかったよ。けど、自分で拭く」
「あぁ、そうしていただけるとありがたい」
 佐々木は得意そうに微笑んでみせると、タオルを俺に渡した。佐々木はその喋り方のせいか、とっつきにくく思われがちだが、実際はこういう風によく気の利く奴だ。それも、中学時代一緒に過ごしていた俺にはよくわかっている。
「全くキミは変わった人だね。まさか我が校の主席を張る人物が、こんなキャラクターだとは全くもってして予想外だったよ」
 まぁ、中身は一流進学校の主席なんて地球と冥王星よりも縁遠い俺ですからね。
「だったら、今までのお前の俺に対するイメージってのはどんなのだったんだよ?」
「キミに対する僕のイメージかい?」
 佐々木は唇に人差し指を当てて、何かを思い出すような仕草をした。にしても、これはいい話の流れだ。不審がられずに、宮本についての情報を自然に聞きだせる。
「親孝行な優等生って、感じかな」
「親孝行な優等生?」
 俺は佐々木の言葉をそのまま聞き返す。
「うん。僕とキミは同じクラスだけれども、あまり話したことがないからよくは知らないのだが。お母さんを助けるために、必死で勉強していて、学校でも予備校でも授業料免除の特待生。噂ではさらにそれにアルバイトもしていると聞いたことがある」
「母子家庭ってことか?」
「あまり僕自身人の家庭事情を詮索するのは好まないのだが、その話は聞いている。キミが小さい頃に父親が死んでしまって、それからお母さんが女で一つでキミを育ててくれた、とね。しかし、いくら偉いこととはいっても、人のプライバシーを生徒の前でずけずけと喋る教師はどうかと思うね。確かにキミという人物に見習うべき点が多いのは認めるが」
 佐々木はあきれ返るように両手を挙げる仕草をしてみせる。
 母子家庭、アルバイト、特待生、佐々木の言った言葉が俺の頭の中で浮き上がって、それらがパズルのように一つの形を成し始めていた。
 母子家庭、あのおばさんには宮本以外に家族はいない。その点、俺の場合はまだマシだ。俺がいなくなっても、母親には親父がいる、妹もいる。けどもしも、宮本が死んでしまったらなら、おばさんは一人ぼっちだ。
 宮本はきっととても努力していたのだろう。母親に迷惑をかけないために。母親に楽をさせてやるために。必死に勉強して、特待生になって。そんな中で貯めたお金でおばさんに誕生日プレゼントを買ったんだ。きっとそれはあいつにとってはとても大切なことだったんだ。だから、そんなに慌ててケーキを買おうとして、あいつは――
「どうかしたのかい?」
「え?」
 佐々木は体を折り曲げて俺の表情を伺っている。突然、黙り込んだ俺を心配しているようだ。
「いや、なんでもない。少し、考え事」
 俺はその場を取り繕うように作り笑顔を浮かべて、両手を振る。
「何か気に障るようなことを言ってしまったかな」
「いや、そんなことは全然ない。大丈夫だ」
 むしろ、礼を言いたいくらいだよ。
 申し訳なさそうな声を出す佐々木を精一杯なだめる。
「そうかい? なら、いいのだけれども……」
 なんとか誤解は解けたみたいだ。もっともそれでも、なお申し訳そうな表情を佐々木はしているが。
「で、キミの僕に対する用事っていうのは一体何なんだい?」
「へ?」
 佐々木は俺を見つめながら首を傾げてみせる。
 あぁ、そうだ。今までの会話は佐々木にとってはただの世間話で、まだ肝心の本題に入っていないのか――
 って、俺は何を話せばいいんだろう?

 佐々木は不思議そうに俺を見つめ続けている。俺は何とか話題を見つけようとする。けれども、思いつかない。盆休みの地方私鉄駅前なんて人通りもほとんどない。視界に入る景色はほとんど変わることなく、会話のきっかけになりそうな出来事もない。
「――ただ、お前と会って話がしたかっただけだ」
 言うに事欠いてこれかい。自分の心の中で突っ込みを入れておいた。
「それはどうも。けど、それだけのためにそんなに汗だくになって走ってきたのかい?」
「悪いか?」
「別に」
 俺の言葉にどうでもよさそうな相槌を打ちながら、佐々木は両足を遊ばせながら、空を見ている。
「迷惑だったか?」
「別に」
「何とか言えよ」
「別に」
 いい加減佐々木の対応に業を煮やした俺は唇を思い切り尖らせて、不快感を露にする。佐々木はそんな俺の表情を見ると、愉快そうに吹き出した。
「何が面白いんだよ」
「別に」
 今度の「別に」は喉の奥で鳴らされるような笑い声と共に聞こえた。佐々木は何が楽しいのか上半身を揺らしながら笑っている。
「お前なぁ」
「くっくっ、ごめんごめん」
 笑う口元を押さえながら佐々木は目を細める。
「ちょっと、からかってみたくなったんだ」
「からかってみたくなったって」
「昨日、キミに僕の同級生の話をしただろ? 彼とちょっとした口論になったときに、よくわざとこういう風にそっけない態度を取っていたんだ。そうするとふてくされたように彼は僕にかまってきてね」
 そして、佐々木は夜の空気に消え入りそうな小さな笑い声を漏らした。
「今のキミの姿がそんな彼そっくりで、ついつい意地悪をしてしまったのさ」
 俺はこんなときに何て答えたらいいかわからない。唇を少しだけ噛む。
「僕を心配してくれていたんだろう?」
 寂しさに包まれた笑顔が柔らかく俺に突き刺さる。
「なんで、……そう思うんだよ?」
「昨日、僕があんな話をしたから」
 無意識だったと思う。俺はそう言われて初めて気がついた。なぜ、こんなにもがむしゃらに走ってきたのか。ただ、宮本のことを知りたかった、本当にそれだけだったのか。
「キミは無愛想に振舞ってはいるけれども、本質的には面倒見のいい人物だ。僕は、そう思っている。実を言うと、今日は予備校なんてなかったんだ。でも、なぜかキミが今日もここへ来る気がしたから、だから待っていた」
「なぁ、佐々木。俺たちは昨日話しただけじゃないか。なんで、そこまで俺を信じることができる?」
「言ったはずだよ? キミは僕の知っている人と似ているとね」
 ――キミの喋り方、まるで彼そっくりだからね。
「なぁ、そいつはお前の好きだった奴だよな」
「――うん」
「今でも、好きなのか」
 こんなことを訊いてなんになるんだろうか。なぜこんなことを尋ねてしまったのか。俺にはわからなかった。ただ、逃げるわけにはいかない、そんな気がしていた。
 肌を刺すような沈黙が膨張する。俺は自分の手を握り締める力を強めていた。
「そうだね」
 佐々木の答えは短かった。そして、純粋だった。

 俺も佐々木ももがいている。このままじゃいけないと思いながらも、どうすればいいかわからない。お互いありきたりの日常から逃げられない17歳の子供でしかない。
 ただ、この心地の良い懐かしさはなんなのだろう。例の橘京子らの一件があってから、俺は佐々木と無意識に距離を置いていた。それが、今はどうだ。お互いどうしようもないまま、駅のベンチに並んで座っているだけだ。
 あぁ、そうだ。懐かしいんだ。まるで、中学三年の頃みたいじゃないか。どこの高校へ行くか、将来に対する不安と希望を前にして、どうにかしなきゃいけないけれども、どうするのがいいのかわからなくって。あの頃と何も変わっていない。今の俺と佐々木の距離感はあの中学時代、自転車に二人乗りして予備校に通っていたあの頃と。
「なぁ、佐々木」
 好きだ、あの頃にそう言われていたなら、俺は違う答えを用意できていたのだろうか。
「そいつにもう一度会いたいか」
 俺は嘘つきだ。そして、卑怯だ。こうやって、嘘をつきながら佐々木の気持ちを聞きだそうとしているなんて。
 俺の問いかけに、佐々木は無言で小さく頷いてみせた。
「会ったら、そいつになんて伝えたい?」
「……なんで、そんなことを訊くんだい?」
 お前のその伝えたい言葉を聞くべきなのは俺だから。
「俺と、そいつは似てるんだろ? だったら、そいつの気持ちを俺が代わりに答えられるかも知れない」
 佐々木の瞳はまっすぐに夜空を見上げていた。
 佐々木、俺はその夜空の向こうにはいない。その空に向かって、問いかけても何も答えはない。なぜなら、俺は今、お前の隣にいるんだ。
 数秒の沈黙。キミの想いが、空まで届く間の沈黙。
「伝えたいことなんかないよ。けど、もう一度会って話がしたい。どんな、くだらないことでもいいからもう一度話しがしたい」

 ――それはね、キョン。
 俺の机に身を乗り出した、よく輝く大きな瞳を覚えている。

「彼のおはよう、って言う声が聞きたい」

 ――おはよう、キョン。ほら、寝癖くらいちゃんと直したまえ。
 そう言って、俺の髪の毛を手で撫で付けた感触を覚えている。

「わざと難しい話をして、彼が少し困った顔をするのが好きだった」

 ――というわけさ、わかるかい、キョン?
 さっぱりわからん、と言う俺の顔を見て愉快そうに笑ったことを覚えている。

「それでも、彼はちゃんと話を聞いてくれた」

 ――キミは本当に話しやすい人物だね。
 そのときの佐々木の本当に幸せそうに笑った顔を覚えている。

「また、自転車にふたりで乗りたいな」

 ――よし、もう出発してくれても大丈夫だよ。
 あのときの腰に回された腕の温もりもお前の髪の匂いも、俺はまだ覚えている。

「ねぇ、……あの頃は本当に楽しかったよね」
「あぁ、そうだな」
「なんで、キミがそう答えるんだい?」
「なんとなく、そいつがそう言う気がしたんだよ」
「……馬鹿」
「あぁ」
 そうだ。否定のしようもない。俺はどうしようもない馬鹿だ。
「馬鹿」
「あぁ」
「……馬鹿」
「……あぁ」
「どうして、勝手に、死んじゃったんだ」
「あぁ」
 幸せだった頃の記憶。それはもう二度と戻らない。ただ、俺の胸を焦がすだけ。
 涙を流さないように、俺は精一杯目を開く。瞬きするだけで、それは簡単に零れ落ちる。
「どうして……」
 柔らかい手が小さな力で俺の右腕を掴む。そして、佐々木は俺の肩にその額を押し付けていた。
「今頃になって、こんなに、涙が、出る? もう、戻れ、ないのに」
「……いいんだよ。それで、いいんだよ」
 佐々木は無言のまま。ただ、俺の腕を掴む力が強くなる。
 俺よ、強くあれ。その握り締める力に押しつぶされないように。
「それでいいんだ。ほら、お前はちゃんと悲しめているじゃないか。そうやって、涙を流せたなら、きっと前に進める。きっと、前へ」
 今は立ち止まっていても、きっとお前はまた歩き出せる。お前は俺とは違う。歩き出せる先がある。そこにはきっと、お前を理解してくれる奴が誰かいるはずだ。
 俺のいなくなった世界は白黒なんかじゃない。
 だから、今お前が泣けてよかった――



「また、長門に怒られるかな」
 公園の街灯。俺は初めて長門と待ち合わせした公園のベンチで街灯の光を眺めている。
 まだ、佐々木の感触が残っている右腕。静かに燃え上がるように熱い。この腕が熱を帯びている間は、一人でいよう、俺はそう思っていた。
 俺は、あれから右腕に取り下がる佐々木を振り払って、ここへやって来た。いや、振り払うという表現には語弊があるかもしれない。ただ、俺が立ち上がろうとしたとき、それを繋ぎとめようとする小さな力を感じたのは確かだった。そして、俺がそれを振り切ったことも。佐々木はそれ以上俺を繋ぎとめようとしなかった。
「がんばれよ」
 どこへともなく、俺はそう呟いた。俺は佐々木を振り切らなくてはならなかった、あいつが前へ進むためには。なぜならこの右腕は、俺の右腕ではないから。
「さようなら」
 その言葉は夜空の満天の星空に消えていく。
「さようなら」
 俺は夜空に消えていく言葉を追いかけるように、もう一度そう言った。
 夜の風が俺の体の熱を冷ましていく。さぁ、この右腕の疼きを消してくれ。

 それからどれくらいの時間を、俺はそこで過ごしていたのだろう。月が高く上った頃、俺は公園から足を踏み出した。そして、長門のマンションへと向かう道すがら、街灯に照らし出された懐かしい影を、俺は見つけた。
 両腕を組んで、街灯にもたれかかっている。その姿はまるで、ドラマに出てくる俳優のようで様になっていた。
 あぁ、懐かしい光景だ。よく、頼んでもいないのにこういう風に待ち伏せされたっけな。そのたびにろくでもない話や厄介事を持ってきやがって。そうだ、お前と重要な話をするときはいつもこんな感じだったな。
 ――なぁ、古泉。
「こんばんは」
 目の前に立つ古泉は俺に爽やかに挨拶してみせた。
 まさか、ここへ来てお前まで出てくるとは正直思わなかった。
「よぉ。わざわざこんなところで待っていたのか」
「えぇ、そうです」
 俺もさも当然といった顔をして、挨拶をし返してやった。古泉もまるで何事もなかったかのように笑ってみせる。化かしあいの始まりだ。
 さてと、ここで問題だ。こいつはなぜ今俺の目の前に現れているのか? なぜ明らかに知った風に俺を待っているのか?
 その答えはわからない。いつだって、このニヤケ面の秘密主義者はその本音を明かしたりはしなかったからな。
「僕がここであなたを待っていたことに、大して驚かれてはいないようですね」
「まぁな」
 悪いが、お前のワンパターンには慣れているからな。
「なら、なぜ僕がここに現れているか? そして、僕の正体が何者であるかも大体見当がついておられるのですか?」
「いや」
 お前の人となりについてはある程度知識はあるがね。
「わかりました。では、まずこちらから単刀直入に質問します。あなたは一体何者なのですか?」
「何者、とは?」
 ここで古泉はあきれ返るように両手を挙げて、首を振った。
「ここ数日間で、あなたが関わった人物。と言えば、わかっていただけるでしょうか?」
「いや、わからん」
 古泉は小さく息を吐いた。
「この数日間、あなたは長門有希のマンションに滞在している。そして、その間に涼宮ハルヒ及びその関係者と関係者の家族と積極的に接触している。ここまで状況証拠を揃えられれば、いくら鈍感な人間でも気付くというものですよ」
「なるほど。で、俺の正体を聞きたいわけか?」
「その通りです」
「俺が宇宙人や超能力者、未来人に見えるか?」
 ここで俺も古泉にならって、両手を挙げてみせる。
「まったく、あなたという人は。しかし、我々の調べた限りではあなたはそのどれにも属していないようですがね」
「あぁ、そうだろうな。なぜなら、俺はさしずめ――異世界人ってところだからな」
「異世界人、ですか」
「あぁ、そうだ」
 異世界からやって来た、というより異世界から出戻ってきたという感じの、限りなく凡人に近い異世界人だけどな。
「異世界人、そう来ましたか――」
 古泉はそれだけ言うと、言葉をなくしたまま、しばらくぼんやりと空を見上げていた。

「んで、お前は何をしに来たんだ?」
 空を見上げたまま何かを考え込んでいる古泉に俺は問いかける。
「それは、どういう意味ですか?」
「そっちの事情を説明してくれてもいいだろう。あとは、俺のどういったところに疑問を持ったのか、とかな」
「そうですね」
 ほんの数秒の間が空く。古泉は喋るべき言葉を選んでいるようだった。
「僕のことはどれくらいご存知ですか?」
「涼宮ハルヒの監視役、ご当地限定超能力者だろ」
 いやみで、理屈っぽくて、何を考えているかよくわからない超能力者な。
「なるほど」
「お前らのことなら大体知っている」
 SOS団関連限定だが。
「なら、話が早い。我々もここ数日間で涼宮ハルヒ及びその関係者と接触しているなぞの人物として、あなたのことについては洗いざらい調べさせてもらいました。宮本英利17歳、現在母親と二人暮らし。今までの経歴及びその出生に関して特に不思議な点はなし。我々の調査機関の下した結論は、あなたはただの一般的な人間であるということです」
「そりゃ、ご苦労さん」
 んで、ついでに大正解。
「だからこそ、我々は納得行かないのですよ。あなたはごくごくありふれた普通の人間です。ただ」
「ただ?」
「我々にとって引っかかる部分がなかったわけではない。あなたは一週間前に事故に遭って、意識を取り戻してから記憶を失ったことになっている。そして、そこから実に不思議な形で病院を抜け出している」
「医者と母親に確認を取ったのか?」
「ええ。両者の言い分が見事に食い違っていましたよ」
 長門の情報操作は両者に確認を取られることを想定していなかったから、ばれてしまうのも仕方がない。
「そうか。で、一つ聞きたいんだが」
「はい、なんでしょう?」
 ここで、俺の心の引っかかっていたのはたった一つだけだった。
「宮本の母親は元気にしているのか?」
 俺の質問は予想外だったらしく、古泉は驚いた顔で俺をしばらく見つめていた。
「えぇ。憔悴はなされている様子でしたが、特に体調を害したりということはなかったそうですが」
「そうか、それはよかった」
 ほとんど俺のせいみたいなものだが、あのおばさんに特に何もなかったということで、俺は少し安心する。
「……あなたは宮本英利ではありませんね?」
「異世界人だって言っただろ」
 安っぽい街灯の光の下で、俺と古泉は会話している。それにしても、過去こんなことがあっただろうか。俺が、古泉をやり込めているなんて。そう思うと、自然に唇の端が上がってくる。
「ところで、ハルヒの奴はどうしてる?」
「どうしてる、とは?」
「なんでも――随分やつれているらしいじゃないか」
 あえて、俺の事故については触れることはしなかった。
「例の事故の件以降についでですか」
「あぁ。それからのハルヒの様子を教えて欲しい」
「なぜ、そんなことを聞くんです?」
「知りたい。それだけだ」
 古泉はしばらく俺の真意を計りかねている様子だった。俺の質問はことごとく予想外だったのだろう。あなたは一体何を考えている、とでも言いたそうな視線を感じる。
「あの事故、以降彼女は高校を不登校です。よって、僕が彼女と関わる機会もなかった」
「……不登校?」
「えぇ」
 どういうことだ? 不登校? 今まで、誰もそんなことを言わなかったぞ。
「例の事故の後、ちょうど彼のお葬式が終わった次の日です。彼女は高校へ登校して来ました。そして、彼女が自分の教室のドアを開けたときです。彼女の目に入ってきたのは、自分の前の席に置かれた花瓶でした」
 ハルヒの前の席に置かれた花瓶。事故で死んだ俺のための花瓶。今日、学校で見た机の跡を思い出す。
「それで、どうなったっていうんだ?」
「彼女は教室に入ることなく、そこから飛び出しました」
「……なぜ、そうなるんだ?」
「耐え切れなかったのです。彼女が自分の席に着けば、否応なしにその花瓶が目に入ってしまう。だから、彼女は耐え切れなかったのです。目の前で彼の死を突きつけられ続けることに。彼のいなくなった現実を見続けることに」
 古泉の言葉は淡々としていた。裁判所で書類を朗読する弁護士のように。その言葉に感情はなく、まるで遠い世界の出来事を喋っているようだった。
 そして、ここに来てある言葉が俺の頭の中に浮かんだ。
 ――ハルヒは俺が死んだのを自分のせいだと思っている。
「それで……それで、お前は何をやっていたんだ?」
「どういう意味ですか?」
「あいつの閉鎖空間とやらで、神人狩りとやらをやっていたのか?」
「……今回の一件で、閉鎖空間は発生していません。あれは彼女のフラストレーションによって発生するものです。そして、今の彼女の精神状態は不満ではない。言うなれば、絶望――」
「だったら、なおさらだ。なおさらお前は何をやっているんだ?」
 俺は古泉の方へと荒々しく向き直る。その勢いにつられる様に、俺の言葉の語気が少し荒くなる。
「彼女が僕たちと関わらないことを望んでいる以上、どうしようも」
「ふざけるな」
 あぁ、ふざけるな、だ。この野郎。今の俺なら自信を持って言ってやる。ふざけるな。
 古泉は目の端を少ししかめて俺を見ている。何も知らない部外者が一体何を言っているんだ、という感じだ。
 馬鹿野郎。俺は部外者なんかじゃねえよ。つい、この間まで、お前らのすぐ傍にいたんだ。
「あいつが望んでいるから、放っておいているだって。それで、何か変わるっていうのか。それがなんになるっていうんだ。お前は観察者以前にSOS団の副団長だろうが。困っている団長を助けるのがお前の仕事じゃねえか」
 古泉の表情に今ははっきりと驚愕の色が見て取れる。目の前にいる見知らぬ異世界人の言葉に大きく戸惑っている様子だった。一体あんたは自分たちのなんなんだ、とでも問いたげな――
「そうは言われても、彼女が望んでる以上、僕にはどうすることも」
「誰かを助けたいと思うなら、傷つけることを恐れるんじゃない」
 そう、本当に誰かを助けたいなら傷つけることを恐れてはいけない。今の俺は心の底からそう思う。俺は、誰かを傷つけないことには前へ進めないから。傷つけてしまうとしても、前へ進まないといけないから。人が生きている以上どうしようもないことだ。生きている以上、いつかはきっと別れる日が来る。
「だから、あいつから逃げないでくれ」
 俺は祈るように言葉を搾り出した。
 あいつをこれから支えてやるのは、今生きている人間にしか出来ないことだから。
「僕には少し荷が重いかもしれませんね」
 俺の言葉にしばらくの沈黙を返した後、古泉はマンションの壁に背を預けて、大きく息を吐いた。
「それでも、やるしかないだろう」
 そして、俺も古泉にならって、マンションの壁に背をもたれる。Tシャツ越しにごつごつのコンクリートの感触がする。この言葉はまるで自分に言い聞かせるように響き渡る。
「彼女の心を助けるのは、本当は僕じゃなくて、あなたが――いえ、彼が適任なのですけれどもね」
 古泉は自分の言い間違いを軽く鼻で笑ってみせて、訂正した。
「死んだ人間を頼りにするな。お前ががんばれ」
 俺も敢えて古泉のいい間違いに触れることはしなかった。
「えぇ、もちろんそのつもりですよ」
 そして、古泉は吹っ切れたような満足そうな笑みを浮かべた。
「でないと、彼に怒られてしまう。彼はどう思っていたかは知りませんが、少なくとも僕は彼のことを友人だと思っていましたから」
 俺も古泉も同じように空を見上げていた。俺たちの佇む8月の夜は、暖かかった。



「ただいま」
「おかえりなさい」
 ドアを開けると、そこで長門は立って俺を出迎えてくれた。無機質な瞳で、俺を見上げるように立ったまま、俺を見つめている。
「今日は怒らないんだな」
「今日中に帰るというあなたの言葉は守られている」
 長門のマンションに戻ったのは日付が変わる直前くらいのはずだった。古泉との会話を終えた後、公園の時計で時刻を確認したから間違いない。ということは、今はぎりぎり今日といったところだろうか。
 しかし、相変わらず杓子定規な奴だ。もっとも、こういう融通の利かないところが、長門の長門たるゆえんかもしれない。目の前で時間が止まったように立ち続ける長門の姿を見て、俺は苦笑いをしてみせる。長門は、そんな俺を見てほんの少しだけ不思議そうに首を傾けた。
「腹減ってるんだ。何か食わしてくれないか」
 あちこち動き回ったせいか、ここへ来てどっと空腹感に襲われた。長門は首をわずかに動かす程度に頷いてみせる。
「あと、出来ればカレー以外にしてくれたら嬉しい」
 そして、俺はちゃんと忘れずに重要な項目を長門に伝えた。長門はそんな俺の要求にも頷いてみせると、台所へと向かった。そんな長門の姿を見届けて、俺は靴を脱いで、部屋の真ん中のテーブルに座る。テーブルにだらしなく上半身を預けて息をつくと、今日一日が終わるのだという実感が湧いてきた。そう、めまぐるしく色々なことがあった今日一日がこれで終わる。そう思うと、心の中に不思議な感情が渦巻いてきた。何かを成し遂げた達成感と、そして全てが終わっていく寂しさと。カーテンを開け放たれた窓から見る夜の景色は、まるで何もかもを吸い込んでしまうように見えた。どんな嬉しいことも、どんな悲しいことも、この闇の底に消える。そして、きっと何事もなかったかのように明日がやって来る。

「どうぞ」
 食器が硬いテーブルに触れる音がして、俺はその方向を振り向いた。どうやら物思いにふけっている間に、晩飯の準備は終わったらしい。
「ありが――」
 そこまで言いかけて、目の前の皿に盛られた物体に俺は言葉を呑む。
「長門、これは……」
「ハヤシライス」
 即答だった。長門は何事もなかったかのように目の前の皿に盛られた料理の名称を答えた。その肩越しに業務用の巨大な缶が見える。
 あぁ、確かにこれはカレーじゃない。確かに、カレー、では、ない……
 おいしい? とでも問いたそうに目の前で正座する長門に精一杯の笑顔を向けて、俺は天高くスプーンを掲げた。



 病院で目を覚ましてから、俺はずっと一人ぼっちの夜を過ごしてきた。そして、今も一人だけの部屋の布団の中で、俺は天井を見上げている。けれども、この夜だけは不思議と孤独を感じることはなかった。心の底から温まるような満足感と、そしてその奥にぽっかりと広がった切なさを俺は感じていた。なぜ何もかもがこんなにも懐かしいんだろう。
 目を閉じる。眠りに落ちる。今は、それでいい。

 再び俺が天井を見上げたとき、辺りはまだ暗かった。夢を見ていたような記憶もない。どうやら、俺はほとんど意識を失うように眠っていたらしい。夜が明けていないことを見ると、数時間程度の睡眠か。けど、意識ははっきりとしている。目が冴えている。これ以上眠れそうな気もしない。そう思って、俺は長門を起こさないように布団から抜け出すと、ベランダへと向かった。
 長門の家のベランダからは街が一望できた。夜明けを迎えようとしている街の空気は澄み切っている。この時間はもっとも静かな時間帯で、何の音も聞こえない。昨日感じたように、まるで世界が生まれ変わっているような気がした。そして、昨日の出来事の何もかもが、まるで子供の頃見たサーカスのように、その現実感を失っていた。
 ――変わっていくんだ、何もかも。時間と共に。
 ならば、俺も変わらないといけない。
「おい、訊きたいことがある。返事をしてくれ」
 ベランダの手すりに両腕でもたれかかったまま、俺は小さく声を上げた。確認しなければならないことがある。決意しなければならないことがある。
「聞こえていないわけはないだろう?」
「なんでしょうか?」
 再度問いかけた俺に『声』はいつも通り無機質に返事をした。最後に会話を交わしてからそう時間も経っていないのに、久々に会話をするような気がする。
「随分おとなしかったな。もっと、いろいろ注文をつけてくるかと思ったのに」
「あなたに黙っていろ、と言われましたから」
 俺の嫌味もこいつ相手には全く通用しない。どうでもよさそうな返事の仕方だ。黙っていろ、と言ったと言われて、俺は長門の部屋を訪ねる前のやり取りを思い出す。
「随分と律儀なことで」
「それに我々はあなたに全てを丸投げしているので、干渉はいたしません」
 声は相変わらず当然のようにとんでもないセリフを吐く。こいつ相手にまともに会話しようと思ってはいけないらしい。
 俺は大げさにため息を付いてやった。
「さて、俺は訊きたいことがあると言ったよな」
「ええ」
 ここで、俺は一瞬言葉を呑んだ。その言葉を喋るのに、少しの勇気が必要だった。
「宮本英利の事故は偶然じゃないだろ?」
「なぜ、そう思われるのですか」
「不自然すぎる」
「不自然?」
「あぁ。考えてみれば、おかしな点が多いんだ。まず、魂が離れるほどの事故であったのにもかかわらず、この体がほぼ無傷に近い状態であること。涼宮ハルヒの近くに住む同い年の高校生であるということ。そして、宮本英利が俺と同じ事故現場で事故に遭っているということ。これらが偶然としたならほとんど奇跡に近い確率だ。そこから考えられる答えは一つ。お前らが裏で手を引いていた」
「その通りです」
「あっさりと認めるんだな」
 そこに罪悪感も何も感じさせず、ただ事実を認めるだけの『声』に俺はあきれる以外なかった。俺は軽く天を仰ぐ。
「でも、それがどうかしたのですか?」
「取引だ」
「取引?」
「そうだ。お前らが当初の目的どおり、俺にハルヒをなんとかさせたいのなら――」
「なら?」
 取引とはまた大げさな単語だ。けれでも、そんな大げさな言葉を使って俺は自分自身を奮い立たせないといけなかった。次の一言を言った瞬間、おそらくもう後戻りは出来なくなる。
「宮本英利を生き返らせろ」
 精一杯の勇気をこめたその言葉は、とても無機質に響いた。
「確かにあなたの推察どおり、今のその体に宮本英利の魂を戻すことは問題なく可能です。しかし、出来なくはないわけですが、それはつまり――」
「あぁ、わかっている」
 俺は『声』の言葉を遮った。あぁ、わかっているとも。宮本英利を生き返らせるということは、つまり俺の魂と宮本英利の魂を交換するということだ。そして、それはつまり――
「我々としてはあなたが望むなら、あなたがこのままこの体を使っていただいても結構なのですよ」
「そうかい」
 俺は『声』の言葉を軽くかわした。
 あぁ、遠くの山の背から朝日が昇ってきた。街が静かに眠りから醒めていく。
「あなたは自分が死ぬことが怖くないのですか」
「怖いよ。死ぬのは怖いよ」
 朝日に染まった街はまるで輝いているようだった。当たり前のように毎日日は昇っているのに、こんなに綺麗な景色は初めて見た気がした。
「生きたくはないのですか」
「生きたい。当たり前だろう」
 俺の17年間の人生の中で、何度こんな朝焼けを見る機会があったのだろう。
「だったらなぜ?」
「そう思うからだ」
「理解できません」
「予想外に随分と食らい付いてくるな。俺の意識が読めるなら、嘘じゃないことくらいわかるだろう」
「だからこそです。生きたいと願うのに、死の選択をするということが我々には理解できないのです。矛盾しています」
「理屈は通っている。生きたいと願うからこそ、命を大切に思うからこそ、だ」
 ポケットの中の220円を握り締める。
「それでいいんですか?」
「あいつの17歳の数日間を貰えた。それだけで、十分だ」
 光に染まっていく街。命を育んでいく街。あぁ、綺麗だ。どうしようもなく綺麗だ。俺の表情は無意識に綻ぶ。
「だから、今日、俺はこの体を宮本英利に返そうと思う」
 生きていたい。心の底から俺はそう思う。こんな景色をもう一度見たい。朝起きて、両親と妹の顔を見てから、もう一度学校へ行きたい。谷口と国木田ともう一度馬鹿な話をしてふざけあいたい。また、朝比奈さんの淹れてくれるお茶が飲みたい。古泉の野郎のニヤケ面を一回は明かしてやりたい。部室の隅で本を読む長門の傍でゆったりとした時間を過ごしたい。また、佐々木に会ったら今度は何の気兼ねもないくだらない世間話がしたい。そして、もう一度俺は――
 そこまで思うと、俺は再び朝焼けに染まる景色へと目を向けた。あの病院はこの方角だろうか。おばさんは少しは元気になってくれているだろうか。
 生きること、は大切だ。だから、それを誰かから奪うわけにはいかない。だから、正しくあるべき姿であるべきだ。俺はこの世にいてはいけない人間だ。
「そうだよな。生きて、いたいよな」
 そのとき呟いた言葉は、一体誰に向けて物だったのかはわからない。
 俺は死んでから自分が生きていたことを知った。そして、それがもう取り戻せないものであることも、この数日間で理解していた。
 俺は最後に見る夜明けの姿を俺は胸に刻みつける。恐れずに前へ進む。その先にある正しい答えが死でも、俺は生きる。この時間を精一杯、俺は生きる。



 朝日が昇るのを見届けて、ベランダから部屋に戻った。高級マンションの広い部屋に太陽の匂いが充満し始めていた。そして、その一室の中央で長門が立って、俺の姿を見ていた。
「あまり、眠れなかった?」
「いや、そんなことはない。ただ、少し、そう朝日が見たかったんだ」
 開口一番、長門はそう尋ねてきた。俺は右手を開いて長門の前で振ってやり、気にするなとやってみせた。
「そう」
 普段なら長門は用が済めば、そのまま興味なさそうにどこかへ行くか何かする。けど、今朝の長門はそのまま俺を見つめて立ち尽くしていた。
「どうかしたのか?」
 そんな長門の様子を察して俺は声を掛けた。澄み切った石英のように透明な瞳が俺をその視界に捉え続ける。
「今日は、どうする?」
 ちょうど、俺がもう一度声を掛けようとしたところで、長門が口を開いた。
「今日、か?」
 俺は長門の言葉を反復して固まる。どう答えたらいいのかわからない。まさかさっきのベランダでの会話を聞かれていたのか。
 もっとも、会話というより、あれは端から見れば独り言にしか見えないはずだが。
 長門は俺の言葉に、視線をほんの少しだけ下に下げて答える。
「今日、か。えっと、その。まだ、予定は、決めていない」
 嘘だった。それが長門に通用したかはわからない。けれども、嘘が通じないとわかっていたとしても、今の俺に本心を伝えられる度胸はなかった。
「そう」
「あぁ」
 朝日の差し込む広い殺風景な部屋で向かい合う制服姿の小柄な女子とTシャツ短パン姿の男。なんだか、へんてこな光景だ。それでまた、女の子のほうは宇宙人で、男のほうはある意味というのだから、救いようがない。しかし、なんとまぁ普通に見える異質な存在たちだろうか。そう思うと、俺は笑ってしまった。
 急に笑い出した俺を見て、長門は首をそよ風に揺らされた程度に傾げる。
「いや、気にしないでくれ。それよりも朝飯でも食おう」
 そう長門に告げた後、俺は窓から朝の風景を眺めた。それは何もかもが真っ白に生まれ変わったように見える朝だった。

 さすがに朝からカレー(もしくはハヤシ)ライスを食う気力の湧かなかった俺は、長門から借りた(貰った)金で近所のコンビニにて適当にパンなどを仕入れに向かった。長門も誘ってやると、玄関に向かう俺の後ろを無言でついてきた。
 というわけで、今俺は長門とコンビニにいる。制服姿の女子高生とこのTシャツ短パン男の姿がコンビニ店員の目にどう映るかを知るすべはないが、まぁ少なくともありふれた光景には映ってはいないだろう。
「長門、なんでも好きなものを入れてくれていいぞ」
 お前から貰った金だけどな、とは口に出さない。
 長門は無言で俺を二秒ほど見つめると、パンコーナーを物色し始めた。一つ一つを手にとってじっと見つめている。迷っているのかと思っていたら、違うようだ。
「エネルギー409キロカロリー、たんぱく質7.5グラム……」
 どうやらそれぞれの成分解析に余念がないらしい。
「お前コンビニとか来たことないのか?」
 俺は適当にメロンパンをカゴに放り込みながら長門に尋ねてみた。
 長門は首をゆっくりと左右に振ると、
「あなたが好きなものを買えと言ったから」
 と言ってのけた。どうやら、この成分解析は長門なりに好きなものを選んでいる行為だったらしい。
「で、好きなパンは見つかったのか?」
「ここにある全種類の詳細な成分解析には、あと30分と25秒必要」
「そうかい」
 さすがにコンビニのパンコーナー前で、女子高生が30分もぶつぶつと呟いていたら営業妨害になってしまうだろう。現にコンビニ店員の目線は興味本位なものから、もう一段階シフトしつつある。
「けど、それじゃ時間が掛かりすぎだ。なんか、食べられそうなパンを適当に選んでくれ」
 俺の言葉に、こく、と頷いた長門の手がまっすぐに伸びて手に取ったパンは、あんぱんだった。

 適当に飲み物も選んで(ちなみにここで長門が選んだのは普通の牛乳だった)、買い物を済ませた俺たちはビニール袋片手にマンションへと戻る道を歩いていた。朝っぱらからコンビニでふたり仲良く朝食を買うこのコンビを端から見たらどう見えるのだろうか。そう思うとなぜか首の辺りにむずがゆいものを感じる。
「何を考えているんだ、俺は」
 そう呟いた俺の独り言を聞いた長門は、俺のほうを振り返って俺の顔を見つめている。それはこっちのセリフだ、とでもいう感じなのだろうか。
 そんな長門にどう言い訳したらいいのかわからないので、俺はそのまま何事もなかった風を装って歩く。
 俺にも将来彼女とか出来たら、こんな風にして二人で歩いているのだろうか。そんな想像をして、唇の端を緩めた瞬間に、俺は足を止めてしまった。気が付いてしまったのだった。もう、俺にはそんな未来など存在しないことを。
 長門は二、三歩俺の前を進んでから、突然足を止めた俺を振り返った。俺は、自分自身の伸びた影を見たまま動けないでいた。なんなんだろう、このどうしようもない気持ちは。このどうしようもないやるせなさは。コンビニ袋を持った手が震える。楽しかった分だけ、それが嘘だとわかったときは辛い。どうしようもない。何を浮かれていたんだ、俺は。何を――
 そのとき、俺の手に何か柔らかいものが触れた。その白く透明なものが長門の手だと理解するのに少し時間が掛かった。そのひんやりとした感触は硬く握った俺の手の緊張を解いていく。
「長門」
「大丈夫」
 情けない面で長門を見つめた俺に長門の掛けた言葉。「大丈夫」、何に対してそう言ったのか、俺にはわからない。けれども、その大丈夫という一言が、今まさに俺が必要としていた言葉だったことだけははっきりとわかった。
「なぁ、長門」
「なに」
 そのとき、俺はどんな情けない面をしていたのかはわからない。
「お茶を、淹れてくれないか。お前の淹れてくれる、温かいお茶を」
 もう一度、初めてお前の家へ行った時の様に。もう一度だけ。

 長門の細長い指が急須を掴んで、湯飲みにその中身が静かに注がれる。湯のみが満たされるにつれて、湯気が上がっていく様を俺は見つめていた。
「飲んで」
「あぁ」
 長門の家にてテーブルを挟んで長門と俺は向かい合っている。目の前にコトリと置かれた湯飲みを俺は片手で取った。あの時は半分びびりながら長門の家にお邪魔したものだ。それがもう一年以上前の話になるのか。
 俺は前と同じように、目の前のお茶を一気に飲み干した。
「おいしい?」
「あぁ――」
 うまい。本当にうまい。
 長門は飲み干した湯飲みにすぐに急須からまたお茶を注いだ。俺もまた、それを一気に飲む。
 こんなことをしてなんになるのか。そんなことはわからない。答えなんて持ち合わせてはいない。ただ、これは初めての思い出だ。俺と長門の初めての思い出。
 意地と気合で、まるでわんこそば選手権のようにお茶を飲みまくる。腹がぱんぱんに膨れてくる。馬鹿げていると思うかい。でも、俺は全てを飲み干してやりたい気分だった。涙が出てきたのは、きっと、腹が苦しかったからだろう――

 そんな俺の暴飲っぷりを長門はしばらく見守った。暖かい朝日が部屋に差し込む。遠くから、動き始めた人たちの声が聞こえる。一日が始まったのだった。
「なぁ、長門」
「なに」
 俺は窓の向こうを見つめながら、長門に話を切り出す。
「俺は、今日、ここへはもう帰ってこない」
「そう」
「あぁ」
 この部屋だけ、まるで音を失くしてしまったかのように静まり返る。
「そう」
 もう一度、長門の声が部屋に響いた。
「あぁ」
 俺はそれ以上うまく答えられない。再び部屋は静まり返る。
「それはあなたが選ぶということ」
「え?」
「それがあなたが生きるということ。だから、大丈夫」
 長門の言葉に、俺は長門を見つめた。相変わらず透明なその目はまっすぐに俺を見ている。今、長門は俺を励ましていてくれているのだろうか。
「……長門」
「安心して」
「安心?」
「そう」
「安心って、一体、何に?」
 俺の言葉に長門は少し言いよどむような仕草をした。うまく伝えられる言葉を探している、そんな感じだろうか。
「わたしには有機生命体の感情というものは理解できない。いや、存在しないと言ったほうが正しい。だから――」
「だから?」
「わたしは、あなたがいなくなっても寂しがったり、悲しむということはない。だから、安心して欲しい。あなたが、それを気に病む必要はない。だから、大丈夫。わたしは、心配要らない」
「長門――」
 俺は長門の名を呼びかけた。しかし、長門は反応を返さない。ただ静かに、わたしは伝えることを伝えたという風に座っている。これ以上何も訊くな、と。
 あぁ、なんで俺の周りはこんな馬鹿野郎ばっかりなのか。どいつもこいつもハルヒ菌にやられてしまったのか。嘘をこけ。そうやって、誰かを――いや、俺が傷つかないように気遣える奴に、感情がないわけがないだろう。そんな、嘘に、気安く騙されてやるほど、俺は、馬鹿じゃない。
「ありがとう」
 でも、俺はそうやっていつも礼しか言う事の出来ない大馬鹿野郎ではあった。お前と初めてあってから1年間、何も成長なんかしていやしねえ。なにも、変わってなんか、いやしねえ。

「じゃあ、行ってくるよ、長門」
 俺は玄関に立って長門を振り返った。
「俺の荷物、っていうか着替えは適当に処分してくれたらいい。使わなくなったTシャツは掃除に使ったらいいらしいぞ」
 この期に及んで何を言っているのだろうか、俺は。長門はそんな俺の言葉に真面目に耳を傾けてくれている。
「じゃあ」
 そう言って、ドアのほうを振り向きかけたとき、一つの素朴な疑問が俺の頭の中に浮かんだ。
「なぁ、長門」
「なに」
 俺は再び長門のほうへと振り返る。
「そういえば、俺、この家に来てからお前が本を読んでいる姿を見ていないな。本を読むの、やめたのか?」
 そう、俺の知っている長門有希という人物は常に本を携帯し、暇さえあれば読書に励む文学宇宙人だったのだ。そして、その彼女が本を読んでいる姿をこの家にいる間見ていないというのはおかしい。それは、純粋にふと思った興味だった。
「それは……もったいないから」
「もったいない?」
「そう」
 何がもったいないんだ?
「あなたと過ごす時間、もったいないから」
 そして、長門は、――それは俺の気のせいだったのかもしれないが、はにかむように笑ってみせたのだった。
「ありがとう。お前と過ごしたこの数日間、本当に楽しかったよ。俺は、お前と、逢えてよかった」
 俺は長門に背を向けるとそう言った。これ以上長門の顔を見ていたら、決意が鈍ってしまう気がした。背後で、俺の言葉に長門が頷いたように感じた。
 俺は玄関の扉を開いた。ここから一歩でも踏み出せば、もう後戻りは出来ないだろう。右足を大きく前へと踏み出す。そして、
「さようなら、元気でな」
 その右足が地面に触れる直前、後ろにいる同級生であり、団員仲間であり、命の恩人であり、そしてこの心優しい友達に、俺はそうして別れを告げた。



 八月十六日。うんざりするくらい快晴。長門のマンションから外へ出て、一歩。俺は空を見上げていた。今日やるべきことは決まっている。もう、迷う必要はない。
「ったく、最後の最後まで面倒の掛かる奴だ」
 空に向かって、そう悪態をついてやった後、大きく深呼吸した。

 俺はいつもの通いなれた駅に向かっている。目的地は決まっていた。それは、どこぞやかのご当地限定ニヤケ面超能力者が別れ際に言った言葉のせいだった。
「涼宮さんは、このお盆の間中彼のお墓の前にいるそうです」
 あの日、古泉はそうやって言いたいことだけ言った後、爽やかに手を上げて、俺が反論する隙もなく去っていったのだった。
「この炎天下に何をやっているんだ、あの馬鹿は」
 やれやれ――、一度は言わないでおこうと誓った言葉だが、あいつと関わる限りこの言葉を封印することはできやしない。いつも厄介事ばかり持ち込みやがって。毎回毎回、最後までそれに付き合う身にもなれっていうんだ。
「死んでも、俺とお前の関係は変わらないよな」
 なぁ、ハルヒ――

 長門のマンションから駅前に着いたのは午前十時過ぎ。ここからだと電車に乗って、俺の墓まで着くのは十一時を過ぎた頃になるだろう。
「また、くそ暑い時間に着いてしまうな」
 俺はTシャツの襟元を軽く仰いで、風を服と体の間に送った。蝉の大合唱がやかましい。焦げ付くような日差しの中、俺は逃げ込むように駅に入っていった。
 電車に乗っていた三十分はあっという間だった。今日、なんだかんだ言ってもあまり寝ていなかったせいか、電車に乗って椅子に座るなり、俺は深い睡眠に落ちていた。慌てて飛び起きなければ寝過ごしていたところだった。まったく、出だしからこれじゃ先が思いやられる。
 駅から降りて、二日前に歩いた道をもう一度歩く。同じ歩きながら、たった二日前の出来事が遠い昔の事のように思えた。坂道を見上げる。空はどこまでも晴れ渡っている。今日、俺が最後にたどり着く場所はこの空の向こうにあるのだろうか。

 Tシャツに汗のしみが出来る頃、俺はやっとこさ目的地に着いた。ただ、駅からここまで歩いてきただけで、頭が軽くくらくらする。八月十六日は夏真っ盛りだ。こんな炎天下にこんな場所を歩き回っている人間などいない。ただ、一人、俺の視線の先にいる少女を除いては――
「よぉ」
 墓場の真ん中に立ちすくむ、その姿に俺は右手を挙げてわざとらしく気安い挨拶をしながら近づいた。この炎天下の中、流れる汗も拭わずにこの灼熱の空間に身をさらしていた人物は気安い挨拶に対して胡散臭そうに振り向く。
「また、あんた」
 しばらく俺の顔を草陰から現れた変な昆虫でも見るような目で見た後、ハルヒはうんざりとしたような声を上げた。
「随分なご挨拶だな」
 振り返ったハルヒの額には汗で前髪が張り付いている。少し赤みがかった顔は日焼けのせいだろうか。ただ、それは去年見た健康的なものではなく、もっと病的な何かに浮かされている様子に見えた。
「何しに来たのよ」
「墓参り」
「二日前にもお墓参りに来てたのに?」
「お前には言われたくないな」
 両手を挙げて、古泉よろしくポーズを決めてやる。そんな俺にハルヒはしばらく訝しがる視線を送っていたが、やがて先ほどと同じように墓のほうへと向き直った。その姿を確認して、俺もハルヒの隣まで歩いていく。ちらりと目をやったこの墓石には、俺の名前が刻まれている。
 ハルヒの隣に立って、自分の墓をハルヒの視線に合わせて眺めてみた。二日前にはわからなかったが、こうして見てみると墓石がよく掃除されているのがわかる。備えられている花も新しいものだ。
「お前が掃除してくれているのか?」
 横からの問いかけにハルヒは答えない。風が吹いて、ハルヒのカチューシャに付いたリボンが小さく揺れた。風が近くの林を鳴らす音がした。
「お盆だから、綺麗にしておかないとだめでしょ」
 ハルヒは俺に視線を向けないまま、聞こえるか聞こえないか程度の声で、そう言った。そして、俺はそのまま仕方なしにまた墓石を見つめる。
「ねぇ」
「なんだ?」
 今度はハルヒの方から話を振ってきた。それでもお互い視線は合わさずにいた。
「キョンの家族と会ってきたんでしょ?」
「あぁ」
「どうだった?」
 ハルヒの質問の意図を探るべく、俺は横にいるハルヒの表情をうかがう。しかし、それは無表情なままだった。
「どうだった、とは?」
 結局、俺は質問を質問で返した。二人の間に開いた微妙な距離感を灼熱の太陽がゆっくりと焼いていく。
「キョンのご両親とか、妹さんの様子、どうだった?」
「あぁ、そういうことか――」
 母親から聞いたハルヒは顔を出していないという話を思い出した。不器用なこいつなりに俺の家族には気を遣ってくれていたのだろう。
「大丈夫そうだったよ」
「本当に?」
「さすがに、ショックは受けていたみたいだったけれども、大丈夫だ、きっと」
「妹ちゃん、お兄ちゃん子だったから」
「大丈夫だ。あの子は、根は強い子だ。それに――それに、きっとあの世から兄貴も見守っているはずだ」
 そうだな。本当に、あの世から大切な人たちを見守れたらいいな――
 俺は少し視線を下に落とした。
「そう」
「あぁ。ところで、お前はここで一体何をしているんだ?」
「あんたには関係ないでしょ。っていうか、あんたこそここで何をしているのよ? お墓参りなんて嘘でしょ」
 相変わらずハルヒは俺のほうを見ないままそう言い切った。確かに墓参りが目的でないのは事実だ。仕方がない。俺は腹をくくった。
「そうだ。俺は、お前のことが気になったからここへ来たんだ。その様子だと、毎日ここへ来てるんじゃないのか」
「……そうよ。悪い?」
「体には悪い」
 その一言をハルヒは軽く鼻で笑ってみせた。視線を俺のほうへと向ける。
「なにそれ。ひょっとしてうまいこと言ったつもり?」
「あぁ。悪いか」
「えぇ。頭が悪いわね」
 ハルヒは偽悪的に唇の端を引き上げてみせた。俺はため息を付いて、その笑顔に答えてやる。
「俺の脳みその出来なんかどうもでいいけれども、いい加減にしろよ。こんなことを繰り返していたらそのうち熱中症になるぞ」
「大丈夫よ」
「なにがだよ?」
「だって、今日で終わりだもの」
 素っ気無く、その声は夏の空に消え入るように響いた。
「今日で、終わり?」
 その消え去った声を捕まえるように俺は問い返した。
「えぇ、そうよ。今日は八月十六日。今日は大文字の送り火がある日。この世に戻ってきた霊が、またあの世に帰る日。だから」
 そして、ハルヒは俺の墓を見つめた。その横顔を包み込む寂しげな色合いに俺は言葉を失くしたまま立っていることしか出来ない。
「だから、今日キョンの魂はあの世に帰るの。だから、あたしはもうここにいなくてもいいの」
 そのときハルヒの目に映っていた感情はなんだったんだろうか。その正体は俺にはわからない。けれども、それは俺のやせ細った心を鷲づかみにした。
 ――俺はここにいる
 今すぐハルヒに伝えてやりたい。この衝動はどうしようもなかった。俺は無意識にハルヒの肩を掴んだ。このまま魂を消されてもかまわない。掴んだハルヒの肩を俺のほうへ向けた。
「ハル――」
 その瞬間、掴んだ手から力が抜けるような感触がした。刹那、俺は言葉を呑む。一瞬、何が起こったのか理解できなかった。目の前のハルヒが、俺が振り返らせた勢いそのままに、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちていくのが見えた。



 窓から差し込む風が気持ちいい。ぽかぽかと照りつける午後の日差しが暖かい。あぁ、もうなんでこんなに眠くなる条件が揃っているんだろうかね。目の前でぼそぼそと喋っている国語教師の声は俺を眠りに誘っているようにしか思えん。窓際のこの日当たりと風当たりのいい席に座って眠るなというのは無理な相談だね。後ろに座っているハルヒもおとなしい。こうなれば気持ちよく寝るに限る――
「をがっ!」
 急に鼻を襲った違和感に俺は体を大きく跳ねた。な。なんだ? 何が起きた? 人が気持ちよく午後の教室で惰眠をむさぼろうとしているときに――
 あれ? 俺が座っているのは椅子じゃなくて、畳? ってことは、ここは?
「なに寝ぼけてんのよ」
 下から聞きなれた声が聞こえた。顎の先にじとっとした視線を感じる。ちょっとだけ、俺は頭を下げてみる。
 そこには布団に入って少しだけ上半身を起こしたハルヒがいた。
「あ、ハルヒ」
「あ、じゃないわよ! 状況を説明してちょうだい。なんで、あたしがこんなところであんたの隣で寝てるわけ?」
「あぁ、それはだな――」
 俺は半分寝ぼけている頭で記憶を呼び戻した。
 ハルヒと俺の墓の前で話をしていた時だ。つい、とっさに俺が自分の正体をハルヒに告げようとしたとき、ハルヒが倒れた。俺は慌ててハルヒを抱きかかえると、その額に触れて熱を調べた。真っ赤になった顔が示すとおり、その体はとても熱かった。熱中症の応急処置としてはまずは涼しい場所に運ぶべきだ。そう思った俺は、ハルヒを抱えてこの寺に助けを求めたのである。俺は簡単にハルヒにそう事情を説明した。
「ふぅん」
 ハルヒはまだ体がだるいのか、布団の上に寝転がったまま俺の話を聞いていた。
「一応医者にも来てもらった。軽度の熱射病だってさ。しばらく安静にしてれば直るだろうって。あと、ほれ」
 そう言って俺はスポーツドリンクのペットボトルをハルヒに渡す。
「水分を取れってさ」
 ハルヒは無言でそれを受け取ると、体を起こして布団の上に座りそれを飲んだ。
「事情はわかったわ。あと、もう一つ質問なんだけど、なんであんたが隣で居眠りしてるのよ」
 ハルヒはペットボトルのふたを閉めて、それを畳に置くとそう言い放った。
「看病してた人間に対して随分な言い草だな。一応、そのペットボトルも俺がわざわざ駅前のコンビニまで買いに走ったんだぞ。っていうか、お前さっき俺の鼻を摘んでなかったか?」
「間抜けな顔で寝ているからよ」
 ハルヒはあさっての方向を向いてしれっと言った。
 やれやれ。心の中でそう呟く。けれども、今見る限りではハルヒの顔色も随分よくなったみたいだ。医者の言ったとおり、水分を取って休んでいればすぐに回復するだろう。
「ねぇ、ところで今何時?」
「今の時刻か?」
 俺は時計なんて洒落たものは持っていない。仕方がないので、部屋を見渡すと、一つ小さな壁時計を見つけた。
「午後二時半」
「え?」
「なんだ? どうかしたのか?」
 今の時間を聞いてハルヒは驚いた顔をした。なにかこの後に予定でもあったのだろうか。
「じゃあ、あたしは三時間くらい寝てたわけ……」
「あぁ、そうなるな。まぁ、軽度とはいえ熱射病だったんだ。それくらい休んでも――」
 そんな俺の言葉が聞こえないかのように、ハルヒはやおら立ち上がった。
「お、おい!」
 俺も慌てて立ち上がり、ハルヒを片手で制する。
「何を慌てているんだ。いくらなんでも、もう少し休んだほうがいい」
「うるさいわね」
 ハルヒは俺の手を振り払って、前へ進もうとするが、如何せん足元がおぼつかない。たたらを踏んで、そのまま布団に倒れこんでしまった。
「言わんこっちゃねえ。もう少し休んでいけ。ここなら冷房も効いている」
「うるさいって言っているでしょ! ほっといてよ!」
「ほっとけるか!」
「あぁ、もうあんたは一体なんなのよ!」
「え?」
 ハルヒは俺のキッとした視線を向けていた。その目に映る攻撃的な光。叩かれるように振り払われた手の痛み。あぁそうか。つい忘れてしまっていたけれども俺は俺じゃなかったんだ。
「俺は……」
 そこまで言った後、次の言葉が続かない。じゃあ、今の俺は何? ハルヒにとって何? うつむいたまま言葉に詰まる。そんな俺の様子を見て、ハルヒは思わず言いすぎたというように申し訳なさそうな表情に変わり、俺から顔を背けた。
「別にあたしになんかにかまわなくてもいいのよ」
 ハルヒはそう呟くように言うと、ふらつく足取りで立ち上がり、壁伝いに部屋から出ようとした。震える足取りで進むその背中はとても細く見えた。
「心配してくれてるところ悪いけれど、あたしには行かなくちゃならないところがあるの。じゃあね」
 ハルヒは俺のほうへは向かないまま、自分に言い聞かせるように言った。俺は、何も出来ないまま、そこに立ち尽くしていた。ハルヒが障子を開ける音が聞こえた。

 今の俺はハルヒにとってなんなのか。答えは簡単だ。友達の友達を名乗る見ず知らずの男子高校生――
 あぁ、なんだってこんな簡単なことに気付かないままでいたんだろう。何を勘違いして、俺はこんなところまで。俺は俺じゃない。宮本英利という高校生だ。ハルヒにとっては何の関係もない。SOS団のメンバーでもない。
 SOS団?
 ここで、この言葉が俺の胸に引っかかった。頭の中にメンバーの顔が浮かぶ、長門、古泉、朝比奈さん。そして、ここ数日間での彼らとの会話も。自分のことよりもずっとハルヒのことを心配していた朝比奈さん。俺を笑顔で送り出してくれた長門。あぁ、古泉の野郎にいたっては偉そうに俺が説教くれてやったんだっけな。
 そうだ。俺はこの数日間何をやっていたんだという話だ。頭の中に母親と妹の顔が浮かぶ。佐々木の顔が浮かぶ。何を恐れるっていうんだ。前へ進むための勇気なら十分すぎるくらい貰っている。
 お前の人当たりの悪い態度なんて慣れたもんだ。俺を誰だと思っていやがる。この一年間、ずっとお前と一緒にバカばかりやってきたSOS団の雑用係様だぞ。ほっとけと言われて、おとなしくほっといてやると思うな。
 そして、俺はハルヒの後を追うべく、ふすまを開けた。



 飛び出した駅への道の先に、道路沿いの塀に支えられながらふらふらと前へ進む人の姿が見えた。俺は力いっぱいの声を出す。
「人がせっかく看病してやったっていうのに、また倒れたいのかよ!」
 ハルヒは驚いた顔で俺のほうを振り返った。俺はそれを無視してハルヒの方へと走り出す。
「全く、寺の住職さんにお世話になったのに礼も言わずに出やがって。おかげで俺があわててお礼を言う羽目になったじゃねえか」
 わかりやすい悪態をつきながら、俺はハルヒの体を支えた。
「あんた、ほっといてっていう日本語の意味が――」
「そんな亀みたいな速度で歩いていたら駅に着くまでに日が暮れるぞ。それに、またぶっ倒れかねない。だから、ほれ」
 そう言うと、俺はハルヒに背中を向けてしゃがみこんだ。
「な、なによ?」
 言葉を途中で遮られたハルヒは唇を尖らせて俺を見ている。
「乗れってことだよ。俺が連れてってやる」
「な、なんで、見ず知らずのあんたがそこまで。お人好し過ぎるわよ。馬鹿みたい」
「しゃあねえだろ。だって、俺は――」
 そう、俺は――
「だって俺はキョン――の友達だからな」
 そう言って、目を丸くしたハルヒに俺は笑いかけてやった。

「大丈夫?」
「大丈夫、だ。これ、くらい」
 と、強がってみせたものの正直結構きつい。やはり体は宮本英利のものである以上、身体能力も彼と同じみたいで、やっとこさ今になって彼があまり力持ちではないということが身に染みてわかった。本来の俺の体ならもう少しは力があったものを……
 ハルヒを背負って歩くのは正直きついが、あきらめるわけにはいかない。なんとしても、駅までハルヒを運んでやる。
「なんか、ものすごく無理してる感じがするんだけど」
「大丈夫……」
 背中の上で頭から日よけのタオルをかぶったハルヒが喋るたびにその息を首筋に感じる。背後にいるハルヒがどんな表情をしているのか、それは俺にはわからない。こんな華奢な男におぶってもらわなければならない歯がゆさに、顔をしかめているのだろうか。
「なぁ、ハルヒ。何のために、お前はずっと墓の前にいたんだ」
「別に」
 俺の問いかけをハルヒはあっさりと流した。てっきり「うっさい」とでも言われるかと思っていたのだが、今のハルヒにそんな元気はないみたいだ。
「キョンが死んだのは、別にお前のせいじゃない。だから、お前が責任を感じる必要なんかないんだ」
 俺がハルヒに伝えなければならない言葉。本当なら俺の言葉として伝えたかった言葉。
「あんたに何がわかるっていうのよ」
「これでも、あの事故についてちょっと調べてきたんだ。あの時、お前が何かしたとしても、きっと結果は変わらなかったと思う」
「わかってるわよ、それくらい」
「だったら、別にお前は悪くなんか――」
「違うのよ」
 そのときハルヒの声は少し震えていた気がした。俺は言葉を失くして押し黙る。辺りには蝉の鳴き声しか聞こえない。
「あの時、あたしがしっかりしていれば事故は起こらなかったかもしれない」
「え?」
 抑揚を欠いた声でハルヒはそう言った。
「あの時ね。あたしキョンの前を歩いていたの」
 あの事故の直前の記憶を思い出す。確かに、俺はハルヒの背中を見ていた。
「でも、それが――」
「あの時、あたしが先にあの子のことに気が付いていたら、あの子に注意出来ていたら、きっとあの事故は起こらなかったわ」
「それはたら、ればの話だ。今となっては何とでも言えるよ」
「違うのよ!」
 その声は俺の体を突き抜けるように強く響いた。
「あたしは、自分が許せないの。あの時の自分が。馬鹿みたいにうかれていた自分が許せないの」
 俺の背中を掴むハルヒの力が強くなった。ハルヒのつめが俺の肩に食い込む。
「朝のくじ引きでキョンと二人ペアになって。おかしいでしょ? 不思議探索は一年以上もやっていたのに、キョンと二人でペアになるのってそれまで一回しかなかったの。それで――なんでほんとあたしはあんなにうかれていたのかしらね。まるで、雪を見た犬みたいに、これからどこへ行こうかな、どんな話をしようかなって。ほんと馬鹿みたい。何よ、結局。結局は」
 俺は何も言えないまま、ただ黙々と自分の影を見つめて歩いていく。
「……去年の十二月にキョンが階段から落ちたとき、あたし決めたの。絶対にこんなこと繰り返させないって。あたしがキョンの傍にいる限り絶対にって。なのに、なのに、あたしは馬鹿みたいにうかれてて」
「……お前は悪くない」
 そんな陳腐なセリフを言うので、俺は精一杯だった。口の中に苦い味が広がる。自分の無力さがうらめしい。
「キョンのお葬式が終わった後でね、あたし学校へ行ったの。教室のドアを開けたらね、これ見よがしにキョンの机に花が飾ってあったわ。あたしの机の前で、あたしを責めるみたいに。そこで気が付いたの。きっとみんな怒っているんだって。あたしがキョンを助けられなかったから。有希も、みくるちゃんも、古泉くんもきっとあたしを許してくれないって。それだけじゃない。キョンのお母さんも妹ちゃんも、みんな、キョンのことが好きだった人はみんな許してくれない。あたしはキョンを守れなかったんだって」
 そして、俺の首筋に水滴みたいなものが落ちてきた。
「好きだったのに。ずっと、大切に、したいと思っていた、のに。せっかくSOS団っていう、自分の居場所、を見つけられたのに。なくなっちゃった。あたしの、せいで。絶対に失くしたくない、って思って、いた大切なもの、みんななくしちゃった。キョンのお墓、の前で、ずっと謝っていたら、許してくれるかと、思っていたけど、だめだった、わね。やっぱり、失ったもの、は取り戻せ、ないの」
「ハルヒ……」
 俺の肩を掴む手が震える。
「好きだったのに。好き、だったのに……」
「ハルヒ、安心しろ」
 俺の言葉に一瞬ハルヒの震えが止まった。
「きっと、キョンはお前のことをこれぽっちも恨んじゃいない」
 自分の言葉で伝えたかった言葉。
「むしろ、お前には感謝しているくらいだ。お前と出会ってからの一年間は本当に楽しかった――ってあいつはよく言っていた」

 嘘だよ――

「恨むわけないじゃないか。だって、だってあいつは――お前のことが好きだったんだから」

 嘘だよ――
 この言葉は大嘘だよ――
 だって本当は――俺はお前のことが好きだ、って言わないとけなかった。

 それっきりハルヒは俺の首に額を押し付けたまま黙り込んだ。首筋が少しずつ濡れていく感触がする。でも、俺はハルヒの方を振り返ることはしなかった。きっと、強がりなこいつは俺の前では泣かなかったと思うから。だから、振り返らないでおこうと思った。
 それに、俺自身も振り返れるような顔じゃなかったから。
 本当に伝えたい言葉なのに、嘘をつかなければならなかった悔しさを俺は噛み締めていた。日差しは強く優しく俺の体を焼いていく。



 ガラガラに空いた午後の普通電車。広い車両の中にいるのはたった二人。俺とハルヒだけ。俺たち二人は広い座席で微妙な距離を離れながら隣り合って座っている。
 あれ以降駅に着くまでお互い会話もなく、なんとなく俺たちは電車を待って、なんとなく俺はハルヒと一緒の電車に乗った。駅から見える林の緑が太陽を浴びている音が聞こえそうなくらいに、二人とも静かだった。
「なぁ、お前はこれからどこへ行くつもりなんだ?」
 なんともなしに独り言のように俺は尋ねた。
「あんたには関係ないでしょ」
 ハルヒも窓の景色を眺めながら独り言のように返した。
「家に帰るんじゃないだろ?」
 ハルヒは黙ったまま、わざと退屈そうに俺から目を逸らして窓の外を眺めている。
「黙ってるんだったら、俺はそこまでお前の後を付けて行くぞ」
 ハルヒはため息をついた。
「じゃあ、喋ったらどっかいってくれるわけ」
「喋ってくれたら、そこまで付いていく」
「何よ、結局どっちにしろ付いてくるんじゃない」
 ハルヒは頬杖をついて、あきれ返るような声を出した。電車の走る規則的な音が二人の会話の空白を埋める。
「だったら、お前が行き先を喋ってくれたほうがお互いいいだろ?」
 ハルヒはまだ俺のほうを向かないままに、
「高校」
 とだけ、素っ気無く言い放った。

 俺はそれ以上会話をすることはしなかった。それから数分ぐらいして、ハルヒの頭が俺の肩に当たった。規則正しい呼吸の音が聞こえる。
「ほんと、お前の寝ている顔は幼く見えるよな」
 そんな俺の小さな悪態も眠っているハルヒには届かなかったみたいだ。やはり相当体力を消耗しているのだろう。今は、ゆっくりと休んでくれればいい。
 揺れる車内と、過ぎ去っていく景色を見つめていると、向かい側の座席に誰かが見えた。
 それは少年だった。靴を座席に当たらないように、浅く膝で立つようにして窓の景色を見ていた。その横に大人の男の人がいて、そしてその少年を挟むように小さな赤ん坊を抱いた女の人がいた。
 少年の足が弾むように揺れていた。声が聞こえた、「土足で座席に上ったら汚いからやめなさい」。そうだ、その言葉を聞いたからその少年はあんな風にして座席に座っているのだ。過ぎ去っていく景色を眺めるのが楽しいから、あんな風にして。
 あの時も同じ墓参りの帰りだった。家族で行った墓参りの帰りの電車だった。俺の目の前にいた透明な少年は、俺だった。
――知っているか。これからお前は、大きくなっていろんな人間と出会う。いろいろとつらいことやしんどいこともあったけど、そいつらと出会えて楽しい人生だったと、十七歳のお前は心の底からそう思っているんだ。
 本当にどうしてこんな風に過ぎ去ったことばかり、俺は思い出してしまうのだろう。こんなにも色々な場所に俺の生きていた足跡は残っている。
 俺は車内を見渡してみた。そして、一つの広告が目に入った。
『八月十六日 大文字の送り火』
 近隣で行われるイベントのカレンダーだ。大文字の送り火、死者の霊をあの世へ送り届けるための火。
「まったく、ちょうどいいタイミングだな」
 俺が呟いた独り言に反応するように、押し付けられたハルヒの体が少しだけ動いた。



「ほれ、起きろ」
 俺は隣で眠るハルヒを揺り動かした。
「なによ、もう、うっとうしいわね……」
 ハルヒの奴は寝ぼけているみたいで、唇を思い切り尖らせて不満の意思を示している。
「もっとゆっくり寝させなさいよ、キョン……」
 ハルヒの寝言に俺の揺り動かす腕が止まった。ハルヒの表情を伺う。目は半分閉じていて、これは完全に寝ぼけている。俺はすぐに気を取り直した。
「寝ぼけてるんじゃない。ここで降りるんだろう、ほら」
 このままハルヒと意思疎通の成り立たない会話をしている時間はない。さっさと出ないとドアが閉まる。仕方がない。
「世話が掛かるな。ほら」
 俺はハルヒの両脇を持ち上げて立たせると、そのまま引きずるようにして電車から降りた。他の乗客の視線が少し痛い気がしたが、仕方がない。ハルヒと関わる以上少々まわりから白い目で見られることくらいは覚悟しないと。
「え、あ、うん? って、ちょっとあんた何やってるのよ!」
 と言うが早いか、ようやく頭がはっきりしてきたらしいハルヒは俺を突き飛ばした。
「イテ! お前いきなり何しやがるんだ!」
「それはこっちのセリフよ! なに人の寝込みを襲っているのよ!」
 大声でとんでもないセリフをはくんじゃない。周りの視線が痛い者を見る目から不審者を見る目に変わっているじゃないか。
「誰がお前を襲うか! 降りる駅に来ても起きないから引っ張り出したんだよ。むしろ感謝してくれ」
「ふん。それは本当かしら?」
 目の前で仁王立ちをするハルヒ。俺はその黙って右頬を指差してやる。
「何よ」
「寝型の付いた顔で言っても説得力がないぞ」
 ハルヒは小さくうめき声を上げると、自分の頬を触った。そして、おとなしく黙り込んだ。
「わかったか、まったく。揺り動かしても起きないわ、わけのわからん寝言は言うわ、いい感じで寝やがって」
 ハルヒの傍若無人がプリセットされた脳みそもやっとこさ自分に非があることを理解したのか、それ以上大声で食って掛かることはしなかった。口を尖らせたまま、悔しそうに俺を見ている。
「わけのわからん寝言ってなによ」
「さぁな」
 俺はわざとらしく両手を挙げてやる。ハルヒは不満げに俺を睨みつけている。
「ほら、いくぞ」
 そんなハルヒを無視して、俺は身を翻すと改札へと向かった。
「なんであんたが仕切ってんのよ」
 ハルヒはそう文句を言うと、走って俺よりも先に改札を出た。
 やれやれ。変わらないハルヒの姿には苦笑いしか出ない。
 ハルヒの背中を見ながら、改札口を降りる。そこには、見慣れた光景が広がっていた。俺の視界にハルヒがいる、本当の意味で見慣れた光景が。



 学校までの坂道。桜の木。川。懐かしい。どうしようもなく懐かしい。昨日歩いた道だけれども、昨日とは違う。なぜなら、それは、今俺の目の前にハルヒがいるから。
「ねぇ」
「ん?」
 そんなことを思いながら目を細める俺の気配に気付いたのか、ハルヒが振り返った。
「あんた本当に学校まで付いてくるわけ?」
「あぁ。そう言っただろ」
 ハルヒは軽く鼻を鳴らすと、また俺の前をずんずんと進み始めた。少しだけ傾いた太陽の光がハルヒを照らす。相変わらずの猪突猛進っぷりだ。
「お前、体は大丈夫なのか」
 つい一時間ほど前まで歩くのもままならなかった目の前を行く団長殿に声を掛ける。
「もう大丈夫よ。軽い脱水だったみたい。水分を取って休んだら、随分楽になったわ」
「そりゃよかった。電車の中でも馬鹿みたいに眠りこけていたからな」
「ふん」
 ハルヒはそう言い放つと、歩く速度を速めた。どうやら俺の言葉は言ってはいけない言葉だったらしい。
 ――やれやれ。
 心の中でそう呟いて、俺はハルヒの背中を追いかけた。
「ねぇ」
 前を歩くハルヒが突然振り返った。
「何だ?」
 俺はそのまま歩いて、立ち止まったハルヒに追いつく。
「お腹が減ったわ。あそこでパンを買いましょ」
 そう言うが早いか、ハルヒは俺の手を掴むと、近くのコンビニへと歩き出した。
 ――変わっていないな。こいつのこういうところは。



 いくらなんでもこんな時間に入る人間は俺たちしかいなかった。閑散とした玄関で上履きに履き替える。
「ちょっと、あんた」
「なんだよ」
 靴箱から上履きを出そうとした俺の服の裾をハルヒが引っ張る。
「何してるのよ」
「何って、上履きを履こうとしているんだ。見てわからないか」
「あんた、この学校の生徒じゃないでしょそれに、それ――」
「え?」
 そうハルヒが指差した先。下駄箱。間違えたかと思って、名前を確認する。名前は間違えていない。うん、正真正銘俺の上履きだ。
 って、しまった――
「あ、いや、ちょうどキョンの上履きならいいかなーって」
 わざとらしく俺は言い訳をする。まさか、こんなところでこんなヘマをするとは……
「その割には迷いなく手に取ったように見えたけど」
「いや、それはだな。偶然だ、偶然。ちょうど手に取りやすい位置にキョンの上履きがあったからだな――」
「はいはい、わかったわかった」
 ハルヒはしどろもどろな俺を軽くいなすように右手を上げて回れ右した。俺のいいわけなんてどうでもいいらしい。まぁ、そりゃそうだろ。ハルヒにとってもこれ以上突っ込んでも無駄というものだしな。
「けど、あんたって不思議よね」
「ん?」
「なんか、あんたと一緒にいると――あんた意外とキョンの霊とか取り憑いているのかもしれないわよ」
 そう言ってハルヒは冗談っぽく笑った。
 いや、実際は取り憑いているなんていうレベルじゃないんですけれどもね。

 まず、俺とハルヒが二人で歩みを揃えて向かっている先は教室だ。実際にハルヒに目的地を確認したわけではないが、この道でたどり着くべき候補地と言えばそこしかない。そういえばこんな風に午後の日差しが当たる廊下を俺は毎日のようにハルヒに連れまわされていたんだったな。教室のドアの匂い、あの頃と変わらない。
 先を進むハルヒは勢いよくドアを開けた。その力強さになんらかの強い決意のようなものと、ハルヒを苦しめている重圧のようなものが見て取れた。
 目の前にあるのは西日の当たる教室。見慣れた机と椅子が照らされていた。ハルヒは勢いよくドアを開けたまま、そのままそこから教室を見ていた。その中へ、踏み込める一歩が踏み出せない。ならば、俺がやるべきことは一つだ。
 俺はハルヒの隣を通って、教室へと入っていった。中に入って改めて教室を見渡す。教室の後にロッカーがあった。あぁ、そういえば中に変なものとか入れてなかったけな。そんなことを思う。そして、俺は自分の席の前へたどり着いた。机の上の埃は昨日払ってある。そこに花瓶の後はない。
 俺は自分の席に座った。そして、そのまま椅子に横向きに腰掛けて、教室の入り口のほうを見る体勢になった。そう、これが俺のデフォルトの体勢だ。ハルヒと会話するときの。
「どうした。早く来いよ」
 そのまま俺はハルヒに声を掛けてやる。ハルヒは少しだけ、その表情を驚愕に染めていたが、すぐに唇を不機嫌に突き出すと、俺の後ろの席へと歩いてきた。
「何当然のように居座っているのよ」
「お前がなかなか来ないからだよ」
 ハルヒは自分の椅子に腰掛けると、頬杖をつきながら目の前の俺に悪態をつきはじめた。
「あんたといるとなんか調子狂うわ」
「そりゃ、結構なことだ」
 懐かしい会話。きっと俺が二度と見ることはないと思っていた光景。また、こうしてお前と話が出来るなんて思わなかった。
「お前はこの教室へ来たかったのか?」
「違うわよ」
 即答で否定された。
「ここは、なんというか中継地点みたいなものなの。本当に行きたい場所は別にあるわ」
「そうか」
 その場所がどこであるか、それは俺にもすぐにわかった。そこは、俺にとっても行きたい場所であったからだ。
「久しぶりだわね」
「え?」
 思わず俺はハルヒの言葉を聞き返す。久しぶり? 何が久しぶりなんだ?
「この教室に来るのが、よ」
 あぁ、そうか。そうだったな。こいつは例の一件以降、この教室に入っていないんだった。その答えに俺は安堵と少しの寂しさを感じた。
「でも、もう大丈夫だろ。ほら」
 そう言って俺は立ち上がってみせる。
「もうここには花瓶なんかない。誰もお前を責めたりなんかしていない」
 そして、精一杯の優しい笑みを浮かべてみせる。
 ハルヒは目を丸くして俺を見ていたが、やがて
「ほんとあんたといると調子が狂うわ」
 と笑ってみせた。
「その席でそう言うと、本当にキョンがそう言っているみたいに見えるわよ」
「そうか、そいつは――よかった」
 ここに俺がいると伝えられなくても、俺の言葉が届くなら、それでいいよ。

「パンでも食おうか」
 俺はそう言って、ビニール袋から焼きそばパンを取り出した。
「今ここで?」
 ハルヒは納得しかねるような声を出した。
「あぁ。昼飯食ってないから腹が減ってるんだ」
 返事をしながら、俺はパンの包みを開く。西日の当たる教室で昼飯を食うのは不思議な感じがした。ほんの少しだけ非日常な香り。なぜそれだけで、ここまでドキドキした気持ちになれるのだろう。本当は、非日常な世界なんてこの程度で十分なのかもしれない。
「あぁ、もう。いやしいわね」
 パンを買おうと言い出したお前に言われたくない。
 ハルヒもビニール袋から自分の買ったサンドイッチを取り出すと、袋を開けて食べ始めた。そして、一口食べると、
「あたし、コンビニのサンドイッチってあまり好きじゃないのよね。絶対自分で作ったほうがおいしいから」
 と不満げに口を尖らせた。
 ならそんなもの買うなよ、と突っ込みたいところだが、実際にハルヒ作のサンドイッチを食った事のある身としては頷くしかない。
「何笑ってるのよ」
「別に」
「あ、あんたひょっとして、あたしが料理できないとか思っていない? だとしたら全くもってして失礼千万な話だわ。ここにサンドイッチの材料があったら、あんたきっと笑ったことを後悔して、土下座して謝りたくなるわよ」
「だろうな」
 ハルヒは超然とした俺の反応が面白くないのか、アヒル口のまま顔をそっぽに向けた。
 俺はそんなハルヒを見て、苦笑いしながら思う。また、こうして教室で昼飯を食いながらクラスメイトと話をすることが出来たのか、と。胸の奥を焼き焦がすような感情がわきあがってくる。もしも、このまま涙がこぼれたら、夕日が目に染みたせいだと言おう。



 この道はいつか来た道。ハルヒに手をつかまれて、引っ張られるように。何度も何度も歩いた道。
 そう、教室を出た俺たちが向かう場所は決まっている。旧校舎部室棟、文芸部室。そうだとも、俺とハルヒが教室を出て向かう先はここしかないさ。
 夕日を浴びる旧校舎の階段を登る。独特のきしむ音がする。埃っぽい木の匂いがする。この先にあるのは俺たちの場所。
 ドアの前にハルヒが立った。ここで俺は昨日この部屋に入れなかったことを思い出した。その理由は簡単なことだったんだ。この部屋にあるべきものがなかった。そして、やっと俺はここまで来れた。
 ハルヒがドアを開ける。そこに広がる光景。部屋の真ん中に置かれた大きなテーブル。部屋の隅の椅子、長門の指定席。そして、その奥にある机と団長と書かれた間の抜けた手作りの――
 ハルヒの後に続いて部屋に入った俺は、必死に辺りを見回した。何も変わっていない。何もかもがあの頃のまま。俺にとってはほんの数日前のことだけれども、もう手の届かない過去。それが、今そのままここにある。懐かしい。何も変わっていない。何も――
 俺が何かに取り憑かれたように辺りを見回していると、ハルヒと目が合った。ハルヒはただ俺を見つめていた。俺の心の奥底を見透かそうとするように。俺はどうしようもなくなって、目を逸らした。
「一ヶ月以上経ってるけど、何も変わっていないわね」
 あぁ、と思わず喉元まででかかった言葉を呑む。
「そう、か」
 俺はただ素っ気無さを装うだけ。
「あたしはね」
 ハルヒは小さな声でそう言うと、部屋の奥へと歩き始めた。
「ここにキョンを連れてきたかったの」
 その言葉に慌てて俺はハルヒの方を振り向く。
「それは、どういう――」
「もしも本当にキョンの霊がここに帰ってきているんだったら、きっとここに来たいだろうと思ったから」
「ハルヒ」
 その俺の声は間抜けにも震えていた。
「お墓にいたら霊が憑くっていうでしょ。だから、ずっとお墓にいてもしキョンの霊があたしに憑いてくれたら、こうしてここにキョンを連れてきてあげることができるでしょ」
 そう言ってハルヒは自分の椅子、団長専用席に座った。
「だから、あんなに慌てて、ふらふらの体でここへ来ようとしたのか……」
「そ。だって、今日の夜送り火が始まったら、キョンの霊は帰っちゃうでしょ」
 何も言えないまま俺は立ち尽くす。両手から力が抜ける。
「お前、また、そんな、馬鹿な、ことを」
 搾り出すように俺は声を出した。本当に馬鹿なことだ。けど、忘れていた。こいつはこんな馬鹿なことを本当にやってしまう人間だったということを。
「きっとね。キョンがこの世に帰ってきたら、絶対最後にここへ来るだろうって信じてるの、あたしは」
 そう言ったハルヒの横顔。前髪が寂しそうに揺れた。
「俺も、そう思うよ」
「本当に?」
「あぁ。絶対に」
「言い切るわね」
 ハルヒは俺の顔を見て可笑しそうに笑った。
 あぁ、言い切れるさ。当たり前だろう。今、お前の目の前に俺はいるんだから。
「ずっと、不安だったのよ。こんなことをやってなんになるんだろうって。けど、あたしにはそうするしかなくって」
 そこまで言って、ハルヒはゆっくりと目を細めて俺を見つめた。
「けど、あんたがいてくれてよかったわ。なんか本当にキョンが喜んでいてくれている気がする」
「――喜んでいるよ」
 断言してやるさ。
「なぁ、ハルヒ」
「何よ」
「お前はまだ、何もない繰り返しの毎日がつまらないと思っているのか」
「どうしたのよ、突然に」
 ハルヒは訝しげな目線で俺を見ている。
「俺も昔はそんなことを思っていたよ。いつかありえない超常現象が俺の目の前で起こらないかってな。けど、今は違う」
 俺は顔を上げてまっすぐにハルヒを見据えた。
「ありふれた日常だと思っていたものも、かけがえのないものだったんだ。それこそ貴重な、望んでも手に入らないくらいに。ありきたりで繰り返しの毎日。いいじゃないか、それで。繰り返せばいい。いつか繰り返せなくなる時が来るまで」
「どうしたの、一体?」
「なぁ、ハルヒ。お前は確かに何かを失ったかもしれない。でも、まだ全てを失ったわけじゃないんだ。朝比奈さんもいる。長門もいる。古泉もいる。この、キョンと出会ってからの一年ちょっとの時間で、お前のことを大切に思ってくれる人はそれだけ増えたんだ。だから、だから――」
 あぁ、そうだとも。お前のせいで、お前のせいで、この最後の一年間俺がどんだけ楽しかったと思っているんだ。それを丸々否定するように引きこもりやがって。そんなの許すかよ。絶対に許してやるかよ。そして、俺は両手を硬く握った。
「お前は精一杯生きろ」
 そして、
「誰もお前のしけた顔なんか見たくないんだよ。笑え。笑っていてくれ」
 その百万ワットの笑みをもう一度見せてくれ。
 ハルヒは立ち上がり俺の顔を見つめている。その目に映っているのはなんだろうか。
「あんた――」
「俺は、もうそろそろ行くよ。もう、時間だから」
 俺はそして、ドアに手をかけた。そして、最後に振り返った。視界に映ったハルヒの姿が滲んだ。
「じゃあ、元気でな」
 ハルヒは俺を見つめていた。お前、面構えだけはいいんだから、だから――そんなくしゃくしゃの顔で俺を見るなよ。
 ハルヒは目をごしごしと乱暴に右手で拭うと、大きく深呼吸して、胸を反らした。そして、
「当たり前でしょ。あんたもね!」
 最後に百万ワットの笑みを俺に向けてくれた。
 ――なぁ、どうしてお前はそんな風にまっすぐに笑えるんだろう? ずっと不思議だったんだ。
 この笑顔を見れただけで、俺は生きていてよかったなんて、そんな馬鹿げたことを俺は思った。



「本当にいいんですか」
「あぁ。楽に送ってくれ」
 目の前を人の波が流れていく。駅前、そこが俺の最後に選んだ場所。俺はベンチに座っていた。そこは、そう佐々木と出会ったあのベンチだ。日は完全に落ちて、辺りは闇に染まっている。もうすぐ午後七時。送り火は俺にも届くだろうか。
「これでお前らにとっても、満足の行く結果だろう」
「まぁ、それはそうですが」
 『声』ははっきりしない調子で俺に答える。俺はベンチに背を預けて、空を見上げていた。
「なぁ、あの世っていうのは、本当にこの空の向こうにあるのか」
「この空の向こうと言えば、この空の向こうですし、この地面の下と言えば、この地面の下です。あくまで別次元、寄り添うように存在する別の世界ですから」
「そうか、じゃあ死んだら俺はどうなる」
「それはお答えできません」
 答えは期待してはいなかった。死んだらどうなる? きっとどうにもならないんだろう。
「それ以上に、私には生きることを望む人間が死を選ぶということがまだ理解できません」
「それはきっとあんたは生きていないからだよ。それに、俺は結構いい気分だよ。嘘をつき続けるのは辛かったけどな。でもよかった。俺は命を失うけれども、これで誰も傷つかない」
 頭の中に今までであった人々の顔が浮かぶ。この数日間で俺はいろんな人と泣いて笑ってきた。
「なぁ、宮本英利には俺の代わりに礼を言っておいてくれ。あと、身の回りにいる人間と自分の命は大切にってな。人生がやり直せたらなんて、今更ながらに思うけど、それは宮本英利に任せるよ」
 俺は目の前の雑踏を見た。この溢れかえる人たちの中に俺が知っている人、俺を知っている人なんて何人いるんだろう。
「さぁ、いこうか」
 俺は自分でも拍子抜けするくらい、あっさりとそう言った。
「わかりました。ちょうどいい頃合です」
 再び生まれ変わるなんていうことがあるのだろうか。でも、生まれ変わって再びあったとしても、きっと俺たちは何も覚えていないだろう。
 駅前、家族の手を引いて走る小さな俺の姿が見えた。楽しそうに笑いながら改札口へと消えていく。その俺が走り去った後を、自転車の背に佐々木を乗せた俺が駆け抜けていく。佐々木が笑いながら俺に話しかけていて、それに俺も笑いながら応えていた。そして、自転車で過ぎ去った俺と入れ替わるように、もう一人の俺が駅前で待つハルヒたちの元へと歩いていく。仁王立ちしたハルヒの罵声を聞いて、俺が右手を挙げた――
 どうして、この世界には失ってから初めて大切さに気付くものがこんなにも多すぎるんだろう。
 いまさら、気が付いたって。自分が生きていたことに気が付いたって。
 神様、せめて忘れさせないでください。せめて自分が失ってしまったことだけでも覚えさせていてください。
 俺は両手を握り締めて、ただそう祈り続けた。

エピローグ

 午前七時半、僕はいつも通りに目を覚ました。目を覚ましてまず見るのはいつもと代わり映えのしない天井。少し寝不足気味のけだるい体を無理にたたき起こして僕は伸びをする。
 布団からもそもそと起き上がると、僕はテーブルへと歩いていった。そのテーブルの上には僕の朝ごはんが載っている。朝早くからパートへ行く母が毎日作り置いてくれているものだ。
 僕の家は母子家庭だ。そして、決して裕福ではない。母は僕を毎日学校へ行かせるため、パート先を掛け持ちして朝から晩まで働いてくれている。僕自身もアルバイトをして、お金を稼ぎたいと思っているけれども、母はそれを絶対に許してくれない。「そんなことは考えなくてもいいから、あんたは学業に集中しなさい」が口癖だ。
 僕は食パンをトースターに突っ込むと、半分寝ぼけた頭で椅子に座った。寝癖頭を掻きながら、今日やるべきことを漫然と思い出す。
「って、わざわざ思い出す必要もないか」
 そう一人で言って、僕は一人で笑った。そうだ、休みの日はいつだって予備校だ。昨日の夜は今日の予習をしていたんだった。
 そんなことを考えているうちに年代物のトースターが鳴った。



「暑いなぁ。さすがにこの時期になると」
 僕は鞄を担いで、古いアパートのドアを開けて外へ出た。日差しがかんかんに照っていた。
 駅まで歩いていくと、休みのせいか人がとても多かった。僕はいつもこの駅から電車に乗って予備校に通っている。どこかへ遊びに行く同年代たちを尻目に僕は歩いていく。そうやって、友達と遊びたいという気持ちが僕にないわけじゃない。けれども、僕は遊ぶわけには行かない。なぜなら、僕はアルバイトをする代わりに、特待生として学校の授業料を払わないという道を選んだからだ。どこか楽しそうな人混みを掻き分けて、僕はホームへと向かう。
 ホームへと降り立って、僕は何気なしに空を見上げる。この上もなく綺麗に晴れ渡っている。この分だと今日は暑くなるだろう。けれども、本当に青い空だ、吸い込まれそうなくらいに。
 ホームにちょっとうるさいアナウンスが響いて電車が入ってきた。開いた扉に吸い込まれるようにホームに溢れかえっていた人々が乗り込んでいく。そして、扉が閉まると、電車はゆっくりと発車した。
 けど、僕の視界に映っているのは、きれいな青空と透き通った風だけだった。僕はバカみたいにそこに立っていた。ただ魅入られるように、ただこの空だけを見上げ続けていた。
 そして、僕は突然にここでこんなことをやっている場合ではない衝動に駆られた。もっと他にやるべきことがあるはずだ。行くべき場所があるはずだ。そんな使命感にも似た衝動が静かに僕の体を支配し始めた。
 たまにはこういうこともいいだろう。人生はまだまだ長いんだから。
 僕は予備校をサボることにした。なんで急にそんなことを思ったのだろう。
 ――それは、きっとこの空が青すぎるせいだ。

 改札口で駅員さんに切符を払い戻してもらって、僕は改札口の外へ出た。サボろうと思ったのはいいけれども、なにかをする当てがあるわけでもない。そんなこんなを思いながら、たった一人で改札口から駅の外へ出ようとすると、不意に声を掛けられた。
「宮本君?」
 声のするほうを振り返る。そこにはショートカットの可愛らしい女の子が鞄を肩に下げて少し驚いた顔で俺を見ていた。
「え、っと、佐々木さん?」
 僕はその顔に見覚えがあった。高校の同じクラスの佐々木さんだ。けど、同じクラスと言ってもほとんどしゃべったことはない。確かにとても可愛らしい女の子だけれども、噂によると、変わった人らしい。いや、実際自分のことを僕と呼んで、小難しい話し方をする変わった人で、正直僕はあまり得意でないタイプの人だ。そんな彼女が僕を呼び止めたのはかなり意外なことだった。
「どうしたの?」
 僕は少し緊張して彼女に話しかけた。
「それはこちらのセリフだよ。キミも今から予備校じゃないのかい? なのになんで駅から出ようとしてるんだい?」
 これまた変わった人に僕のサボりを見つかってしまった。そうだ、彼女も僕と同じ予備校の同じクラスで授業を受けているのだった。
「んーっと、ね。サボり」
「……特待生のキミが、かい?」
「うん。そう」
 自分でも信じられないくらいあっさりとそう言い放ってしまった。佐々木さんは信じられないと顔に書いて僕を見ている。
「たまには予備校をサボってみるのもいいかなと思って。ほら、今日はこんなにいい天気だしさ。よかったら、佐々木さんも一緒にサボる?」
 自分のことながら、自分の口からこんな言葉が出たのは意外だった。まさか、同級生の女の子に一緒にサボろうと声をかけてしまうとは。ただ、なぜか今までとは違って、僕は彼女に不思議な親近感を感じていた。
「ありがたい申し出だが、お断りさせていただくよ。僕はこうしてキミがサボっていてくれている間に必死に勉強してキミに追いつかなくてはならないのでね」
 佐々木さんはそう言って、すこし悪戯っぽく笑った。喉の奥で笑い声を上げるのが印象的な笑い方だった。
「そうかい。それは残念だなぁ」
 僕の言葉の間抜けな調子が可笑しかったのか、佐々木さんは口を手で押さえて笑うと、
「けど、僕の成績がキミに追いついたときはぜひお誘いしてくれたまえ。そのときはお付き合いさせてもらうよ」
 そして、「電車が出てしまうので失礼」と言うと、僕に軽く手を振って改札口へと消えていった。僕はそんな後姿を見送りながら、初めてのはずなのに、どこか懐かしい気分を味わっていた。
 いつか彼女とゆっくり話が出来たらいいな。そこにある駅前のベンチにでも座って。



 それから僕は特にあてもなく、あたりをぶらついていた。ただ、それだけでも楽しかった。注意深く町を歩くだけで色々な発見があるものだ。今まで気がつかないところにいろいろな店があったりする。その小さな発見が楽しくて、僕は時間が経つのも忘れて歩き続けた。
 そんな中で一つの店を見つけた。きっと、急いで歩いていたらこんな店があることにすら気付かないだろう、そんな店だった。ショーウィンドーを覗き込むと、どうやら木工で作ったアクセサリーを売っているらしい。僕は母の顔を思い出して、その店へと入った。
「いらっしゃい」
 気のよさそうなおじさんが僕を出迎えてくれた。なんとなく気恥ずかしくて、僕は弱弱しく会釈を返す。おじさんの視線から逃げるように、僕はディスプレーに飾られているネックレスを一つ一つ見始めた。
「彼女へのプレゼントかい?」
 おじさんは必要以上ににこやかな顔で話しかけてくる。
「いえ、あの、違います。母に、そのいつも苦労かけているから、プレゼントにこんなのいいかなって」
「おぉ、そうか!」
 と、言うが早いかおじさんは嬉しそうに、僕のほうへと小走りでやって来た。
「お母さんにプレゼントとはなかなかいい心がけじゃないか、キミ。よし、じゃあ、おじさんも選ぶのを手伝ってやろう」
 そういうが早いか、おじさんはディスプレーからネックレスを二つ三つとると、今度は店の奥に入って、また四つくらいネックレスを持ってきた。
「これくらいがおじさんの自信作かな」
「え、これ、おじさんが自分で作っているんですか?」
「あぁ、そうだよ」
 おじさんは少し恥ずかしそうに、だけど得意げに笑ってみせた。
「へぇ」
 僕はそう相槌を打って、出してもらったネックレスを一つ一つじっくりと見ていく。
「まぁ、これが一番いい形ですからね」
 そのとき不思議な声が聞こえた。けど、僕の目の前には店のおじさんしかいない。
「あぁ、でも僕はこれよりも、こっちのほうがいいと思います。オススメしてもらってわるいですけど」
 おじさんは僕の言葉に一瞬不思議そうな顔をした。けど、すぐに
「あぁ、お目が高いね。実はこれがおじさんの一番の自信作だ」
 僕もおじさんの少し矛盾した言動にちょっと首を傾げる。けど、そんなことは大して気にも留めなかった。
「3780円ですか?」
 僕は財布を取り出して、お金を出そうとした。
「ん? えーっと、1780円でいいや」
「え、でも値札には」
「あぁ、気にしないで。どうせ趣味でやっているようなもんだからさ。材料費さえもらえればおじさんは損はしないんだよ」
 そう言って、おじさんは胸を張ってみせた。
「え、でも、いいんですか?」
「あぁ、値段なんて適当だから気にするない」
「じゃあ、せっかくなのでお言葉に甘えて」
 そう言って、僕は千円札を二枚おじさんに渡す。おじさんはにやっと笑うと、お釣りの220円とレシートをくれた。
「ありがとうございます」
「それは、商品を買ってもらったほうのセリフだ」
 そう言っておじさんは愉快そうに笑った。僕もそれにあわせて笑った。
 正直、この値引きはうれしかった。母の誕生日はもう少し先だけれども、これなら浮いた金でケーキが買える。そう思うと僕は急に楽しい気分になってきたのだった。予備校をサボってよかった。そう思った。



 そして、僕は店から出た。外は相変わらずの気持ちのいい天気だ。そのまま僕は店のあった坂道を登っていくことにした。そのとき、道の向こうから僕と同い年くらいのカップルが歩いてくるのが見えた。
「集合時間に遅刻なんて、ほんとあんた最近たるんでるんじゃないの!」
「仕方がないだろ。妹が工作を手伝えってうるさかったんだから」
 女の子のほうが男の子よりも先を歩いて、時々振り返りながら怒っているみたいだ。彼女が歩くたびに揺れる黄色いリボンのついたカチューシャが印象的だった。そして、対する男の子のほうも怒られなれているのか、大してそんなことは気にも留めずひょうひょうと対応している。
「妹ちゃんの宿題を手伝っていたなんて、本当にそうかしらねー」
「そんなことで嘘をついてどうする……」
 なおも悪戯っぽく彼氏を責める彼女のほうに、彼氏は半ばあきれ気味に答えている。
「まぁ、いいわ。いくらあんたがバカでも、そう簡単に事実確認を取れる嘘をつくほどバカだとは思わないしね」
 と言うが早いか、彼女の方はその顔に満面の笑みを浮かべた。彼女が不機嫌そうに見せているのはポーズだけだ。彼女の少し落ち着かない足取りは、まるで犬が尻尾を振っているみたいに楽しげなリズムを刻んでいた。
 きっと、本人たちはケンカをしているつもりなのだろうけど、端から見たらじゃれあっているようにしか見えない。なんだか、彼女のほうが本当に幸せそうに見えて、ほほえましい光景だった。
「まったく」
 彼氏のほうも、不機嫌そうに表面上見せているけれども、よく見れば口元が笑っている。
 いいカップルだな――
 僕はそんなことを思った。なぜか見ている僕まで幸せな気持ちになってきた。
 と、その時僕の視界に丸いものが飛び込んできた。反射的にそれに手を出して、それを捕まえる。
「ボール?」
 僕の視界に飛び込んできたのは、交差点へと飛び出してきたボールだった。と、ボールが来た方向をみると小学校低学年くらいの子がボールを追いかけて、こっちにやって走って来た。
「危ないから、こんなところでボール遊びしたらだめだよ」
 そう注意して、僕はその子にボールを返す。男の子はにこりと笑うと、僕に「ありがとう」と言った。その直後、車道を黒いトラックが走り抜けた。
 ――危なかったな。あのままあの子が道路に飛び出していたら、きっと轢かれているよ。
 そう思って、トラックの過ぎ去った道路を見た。そのときだった。トラックの影が過ぎ去った向こうに、あの彼氏の姿が見えた。なぜか僕はその人の表情に釘付けになってしまう。彼のほうも僕の顔を見て、なにか不思議な、何かを思い出そうとしているような表情をした。お互いの顔を見つめあったまま、時間が止まったように数秒間僕たちはそうしていた。僕は彼の姿にどこか懐かしいものを感じていた。忘れてはいけない、いや絶対に忘れられない人物のはずなのに、思い出せない。肝心な部分だけがきれいな空白だった。
「ねぇ、キョン。どうしたの? あの人知り合い?」
 彼女のほうが僕を見て立ち止まった彼氏を振り返って声を掛けた。
「いや、なんでもない。なんでも、ない――」
 そう言うと、彼氏は何かを振り切るように頭を振って、彼女の後を追いかけるべく歩き始めた。ゆっくりと、彼が僕から離れていくのを感じた。そして、彼氏が歩き始めたのを見て、安心したのか彼女も前へと進み始める。
 今は六月。もうすぐ夏がやって来る。彼らはこうやって一度しかない日々を歩んでいくのだろう。僕はそこに立ち尽くしたまま、そんな彼らの背中をずっと見送っていた。
 この透明で澄み切った青い空の下、僕は彼らの進む道が続いていくように願っていた。
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