トライアド

 ぎらつくような太陽がマウンドを照らしつける。
 最終回、二死でランナーは二塁。
 点差はたったの一点。
 俺は袖で汗を拭うとセットポジションに入った。
 緊張の一瞬。全世界の音が消えた。
 あとはキャッチャーミットめがけて、全力でボールを投げるだけ。
 だが、なぜだろうか。まったく抑えられる気がしない……
――何で野球となんか全く縁がないはずの俺がこんな激闘甲子園さながらの正念場に立っているのか。事の発端はこれより二日前にまでさかのぼる。



 それは六月のことだった。
 その日は何の変哲もない陽気な一日であり、俺は三時間目にある数学の小テストばかりを気にしていた。今回ばかりはまともな点数をとらないと怒られそうだからな、いろいろなところから。というわけで、普段より少し早めに学校にやってきた俺は、教科書を広げて直前の瞬間記憶作業に追われていた。
 思えばそのときに悪魔の足音は俺の背後にまで迫って来ていたのである。

「協力しなさい」
 数学の教科書とにらめっこしている最中に、不意に後ろから首根っこをつかまれるやいなや、何に協力せよなどの目的語もなく、ただ命令だけが俺に降りかかってきた。
「な、なんだってんだ、朝っぱらから?」
 振り返った俺の視界に入ってきたのは、俺の席の後に陣取るこの学校の名物変人涼宮ハルヒその人であった。俺は上下逆になっているなぜか得意げな涼宮の顔を見る。
 俺が早めに学校に来たときには、こいつはまだ登校していなかったから、気づかなかったが勉強に集中している間にやってきたようだった。
「これを見なさい」
 ふふん、と鼻で息を吐いて、得意げに涼宮は俺に何かのチラシを見せる。
「……野球大会?」
 そこに書かれていた文字を俺は抑揚のない声で読み上げた。そう、涼宮が俺に突きつけていたのは市内アマチュア野球大会のチラシ。
「うん、そう」
「いや、そう、って言われてもだな……」
 わけがわからない。なんで涼宮は野球大会のチラシを朝一番で俺に見せているのか。というよりも、それで野球部でもなんでもない俺に対して何を伝えたいのかさっぱり理解できない。
「この大会に我がSOS団の存在を世間に広めるために参加しようと思っているのよ。でも、私たちだけじゃ人数が足りないから、数合わせで参加してちょうだい」
 涼宮はさも当然のように言ってのけた。
 しかし、だ。仮にもお願いしているんだから、数合わせとは失礼ではないか。まぁ、実際数合わせ以外のなんでもないんだが。しかもそれ以前に、この大会にお前らと参加するということは、つまりお前らのお仲間として俺の名前が世間に広く知られてしまうということになるのでは……。それは俺にとってはあまり好ましくない事態だ。
「そうは言ってもだなぁ」
「後で谷口と国木田あたりにでも声をかけといて」
 俺の返事を待たずにもう参加することになっていた。ちゃんと俺の返事を聞け。
「誰もまだ参加するとは言っていない。だいたい、この大会はいつやるんだ?」
「今度の日曜」
「あさってじゃねえか!」
「どうせ暇でしょ」
 確かに、予定はないが……。かといって、せっかくの日曜日にお前らと一緒に白球を追いかけるっていうのもなぁ。それに野球がやりたいなら、俺じゃなくて野球部の奴に声をかけろよ。
 近頃強くなりはじめた太陽の日差しのようにギラギラと輝く涼宮の笑顔を見ながら、俺はため息をついた。
 なんとかしてこの傍若無人大王から逃れるすべはないだろうか。なんか適当な言い訳になりそうな予定でもなかったかなぁ。
 そうして俺がどうやって断ってやろうかと思案していたところ、横から天の声が響いてきてしまった。
「面白そうではないか、キョン。せっかくだから参加させてもらおう」
 俺と涼宮が声のした方を振り向く。俺の後ろから登校してきた佐々木がチラシを覗き込んでいた。
「いや、失敬。盗み聞きするつもりはなかったんだけれどもね。でも、せっかくの機会だ。たまには休みの日に運動をして過ごすのもいいだろう」
 佐々木は鼻を鳴らしてふむふむとうなずいている。何に納得しているんだ?
「お前もな――」
「涼宮さん。人数が足りないんだったら、別に私が参加しても大丈夫だよね?」
 佐々木は俺の言葉など聞く耳持たず、涼宮に参加確認をしている。
「えぇ、まぁ」
 涼宮のほうも予想外の展開に驚いたのか、うまく言葉が出ないようだ
「じゃあ、私も参加するということでよろしくね」
 佐々木は満足げに笑うと、するりと俺の隣の席に腰を下ろした。

 佐々木の奴が勝手にオーケーを出したせいで、結局俺まで参加する羽目になってしまった。ここまでくれば谷口と国木田を巻き込んでも、罰は当たるまい。お前らも俺と運命共同体だ。どうせ日曜だからって特にやることもないだろう? 見事につぶれてしまった今週の日曜日を嘆いて、俺は遠くの空を見上げるのだった。
「そんな風に拗ねなくてもいいではないか」
 振り向いた俺に佐々木は悪戯っぽく笑うと、気にするなと言わんばかりに、右の手のひらを軽く振った。
「お前ら二人して勝手に決めやがって。俺の意思はどうなる?」
「涼宮さんや僕と一緒に野球をやるのがいやなのかい?」
「いや、そういうわけではないが……」
「なら不平不満を漏らす必要はあるまい。それに――」
「それに?」
「キミが参加するなら僕も参加しないとね」
 佐々木は柔らかく笑うと、俺の肩を右手でとんとんと叩いた。



 その日の放課後、この北高内では知らぬもののいないSOS団という珍妙な名前の集団に混ざり、俺も野球の練習をさせられる羽目になっていた。
 授業が終わるやいなや、涼宮は俺の首根っこをつかみ
「さぁ、練習に行くわよ!」
 とそのまま連中の部室まで強制連行、そして強制練習と相成ってしまったわけである。俺に人権はないのか。
 俺と同じく、練習場から追い払われた野球部員たちが迷惑そうな目でこちらを見ている。そんな目で見ないでくれ、俺も被害者の一人なんだから。
 俺がこの事態に追い込まれてしまう原因を作ったもう一人の当事者である佐々木は「塾があるから」とさっさと帰ってしまったし、谷口と国木田は放課後になると同時に逃げるように去っていってしまった。
 こうして、俺が人柱としてその身を捧げる羽目になってしまったわけである。
 正直、俺が野球大会に参加することを渋った理由は、単純に野球がやりたくなかったというわけではない。このSOS団という珍妙極まりない怪奇な連中と関わりあいたくなかったのである。いや、ここで『あの現実』を認識させられるのが怖かったというほうが正解か。
 その全ての発端は今年の5月にまで遡る。思えば、あの事件以降俺の状況は一変したと言っても過言ではあるまい。

 長くなる上に、俺自身もあの状況を理解できていないから、簡単に説明させてもらおう。
 一言で言うなら、朝起きると俺は全く別のパラレルワールドに飛ばされていた。
 初っ端から意味不明であるが、神に誓ってこれは嘘でも冗談でもない。
 その事実に気づいたのは、普段隣の席にいるはずの佐々木がいないことに気づいたときだった。
 そして、俺は高校二年生になっていて、涼宮がなぜかこういつもよりフレンドリーというかなんというかで、んで俺がパニクっていたら古泉という九組の男が現れて……
 で、古泉に話をしたところ、世界の改変の可能性だのなんだのという電波話を聞かされ、んで、古泉は『機関』とかいうわけのわからない組織に所属する超能力者で、朝比奈さんという人は未来人で、長門という同級生は宇宙人で……
 申し訳ない、やっぱりうまく説明できない。
 で、それから仕方が無いのでとりあえず俺は家に帰って寝込んだ。それ以外どうしようもなかったし、古泉にもあまり派手に動かないほうがいいとアドバイスされたので、とりあえず寝た。
 そうやっているうちに何とかこの世界に戻ってこれたらしいのだが……。
 しかし、本当に俺が驚愕させられたのは、この元の世界に戻って来た瞬間だった。本当に何を言っているのかわからないと思うが、この世界へ戻ってきた瞬間、俺は佐々木とキスをしていた。
 頭がくらっとした後、だんだんと意識がはっきりしていくと同時に、唇に何かやわらかい感触があることに気づいた。恐る恐る目を開けた俺の目に入ってきたのは、涙を流しながら目を閉じている佐々木の顔。そして、俺の唇に感じていたやわらかい感触は佐々木の唇。一瞬にして頭が真っ白になってしまった。
 いったい何があったんだ、っていうか何をしているんだ、俺。
 そして、唇を離せないまま固まっていると、佐々木が目を開いて唇を離した。佐々木は右手で涙を拭くと、俺の瞳を覗き込んで、ただ一言こう言った。
「キミは僕の知っているキョンかい?」
 この一言で自分の置かれている状況が推察できた。そして、確認のためにこの世界の日付と時間を尋ねてみた。返ってきた答えは、俺を安心させてくれるものだった。
 戻ってこれたまではよかったが、またこれはこれで別の問題が発生していた。
 まさか佐々木とキスをしているとは思わなかった。まぁ、その、なんだ、俺自身も佐々木のことは、まぁ、そう、思っていたわけだから、後は佐々木の意思次第だったというか……。
 とにかく、あれ以降俺と佐々木の間に何か意識するものが出来てしまったのは言うまでもない。
 佐々木は俺がいない間に何があったのか教えてくれなかったし、俺自身も何が起こっていたかをうまく説明できない。
 しかし、当然全てを忘れるというわけにはいかず、あのキスは常に俺たち二人の間に存在していた。で、あれ以降少しずつ俺と佐々木の関係は友人から、クラスの連中の喜びそうな方向へシフトし始めている。
 全くもってしてうまく説明できなかったが、そんなことがあったのだ。

「あれから調子はどうですか?」
 涼宮の殺人ノックを軽快にさばきながら、古泉がむかつくほどの爽やかスマイルで声をかけてきた。
「お前に調子を尋ねられる覚えはないけどな」
 古泉とは目をあわさずに、涼宮の方を向きながら答えた。
「まさか、あなたはあの未来人騒動を忘れてしまった、と?」
 おおよそ察しは付くが、聞きたくない。
「……お前だいたい状況を理解しながら、聞いているだろ」
「ということは、あなたもだいたい我々の状況を理解しておられるということですね」
 パンッ、という小気味のいい音とともに古泉は華麗にライナーを捕球した。
「どうしたもんかね。向こうの世界では結構お前に世話になったんだぜ」
「そうですか、それはそれは。向こうの世界の僕も頑張ってくれているみたいですね」
「あぁ、憎らしいくらいにお前そっくりだ」
 そう言い放ってやると、古泉は目を細めて両手を挙げるジェスチャーをした。
「それはそうと、向こうの僕から何を聞かれました?」
「あなたの身の回りの宇宙人、未来人、超能力者について」
「それはよかった。いちいち説明する手間が省けて楽です」
「ということは、この世界のお前らもそうなんだな」
 古泉と話しながら適当に捕球していると「ちょっと、キョン、あんたまじめにやりなさいよー!」、という涼宮のけたたましい声が聞こえてくる。が、そんなもんは無視だ。
「ええ、そのとおりです。ですが、この件についてはくれぐれも他言無用で」
「言われなくても、人に話したところで誰も信じやしない」
 そして、足元に転がってきたゴロをハルヒの方へ投げ返した。

 千本ノックを受けているのは俺と古泉のほかは、まるで蝋人形のように突っ立っている宇宙人製アンドロイド長門有希、そして、未来人の朝比奈さん。
 っていうか、なんで朝比奈さんはナース服のコスプレをしているんだ? まぁ、悪くはないが……。
 長門は突っ立ったまま自分のほうへボールが来たときだけ、グローブではじき落としている。
 その横で朝比奈さんは――グローブで頭を抱えてうずくまっている、だめだこりゃ。

 それから、涼宮の打った打球で負傷した朝比奈さんを保健室まで連れて行く形で俺は練習を抜けた。戻ってきてみると、今度は古泉と長門がフェンス越しにグラウンドを眺めていやがる。
 涼宮の奴は、なぜか野球部の連中に千本ノックの続きを行っていた。
 ほんとあいつは運動神経いいな。俺らみたいなど素人捕まえて野球をせんでも、ちゃんとしたクラブに入ってやりゃいいのに。お前ならいい線いけるぜ。
 そして、涼宮は満足したのかノックをやめて汗を拭いた。
「さすが涼宮さん、ちょうど千本ですね」
 そんなもんを数えていたのか、暇人だな。
「全くどうしたもんかね」
「あなたは普通にしていてください。それが一番です。少なくとも、涼宮さんにとってはあなたは気になる存在のようですから」
 涼宮の奴は今度はマウンドに立って、投げ込みをはじめていた。
 長門が無言で踵を返し帰り始めた。
 もう、いいだろう。俺も帰ろう。
「じゃあな、古泉」
「ええ、また二日後に」



 二日後。日曜日。午前八時ちょうど。俺たちは市営のグラウンドに集合した。自転車を駐輪場に停めると涼宮たちの姿を探す。
「キョンくん、こっちですー」
 俺の姿に気づいた朝比奈さんが可愛らしく手を振って呼んでくれた。俺以外の連中はみんな集合しているみたいだ。
「遅い! いい、今日の朝から試合は始まっているのよ! そんなたるんだ根性で勝てると思っているの!」
 さっそく涼宮監督のゲキが飛ぶ。家を出てからが野球大会ですってか。
「おはよう、キョン」
 学校指定ジャージに身を包んだ佐々木が小さく手を振った。
「おう」
 元はといえば俺はこいつのせいで野球大会への強制参加は決定したようなもんだ。
「ちょっと、キョン」
 涼宮が俺のジャージの袖を引っ張る。
「あれ、誰?」
 涼宮の指差す方向では一人の小学生女子が朝比奈さんに自己紹介をしていた。
「俺の妹だよ」
 人の妹をあれ呼ばわりとは失礼な。
「あんたねえ、今回の大会はリトルリーグじゃないのよ。小学生なんか連れてきてどうするのよ」
「別に試合に参加させるわけじゃねえよ。今日野球大会に出るって言ったら着いてきたんだ」
 そう妹は、昨日の夜、明日は朝から野球大会に行くからと言ったら面白がって付いて来た。戦力としては期待できないが、置いていくとくずついてややこしいので、とりあえず連れて来たのだった。
「おはよ」
 佐々木が妹の方へ笑って声をかけると、妹はうれしそうにこちらに走ってきた。
「佐々木さんだー。おはよー」
「悪いな、付いてきちまった」
「かまわないよ、キョン。一人でも応援してくれる人がいれば心強い」
 そう言って、妹の頭を撫でながら、佐々木は俺に笑いかける。佐々木に頭を撫でられ、へへー、と妹は得意そうに笑っていた。
「ふんっ。まぁ、いいわ。ちょうどいいハンデね」
 なぜか不機嫌な涼宮は口を尖らせていた。

 グラウンドの入り口のほうに固まっている男性陣のほうへ挨拶に行く。
「よう」
「おお」
 谷口の奴が右手を挙げて応えた。
「おはようございます」
 古泉が慇懃に挨拶をしてくる。
「おはよう、キョン」
「おう」
 国木田とも軽く挨拶を交わすと、俺はとりあえず人数を数えた。
「……八人しかいないのだが」
「あぁ、それでしたら九人目はあちらの方です」
 そして、古泉が手で指し示す方向には髪の長い女の人がいた。ジャージの色を見る限りは上級生か。その人は俺たちの視線に気づくと笑いながらこちらに向かって来た。朝比奈さんも一緒にくっついてくる。ということは朝比奈さんの友達かな。
「こちらが私のお友達の鶴屋さんです」
 そう紹介されるやいなや、
「キミがキョンくん? へぇー、キミがみくるの言っていた、ふーん」
 俺を上から下まで興味深そうにじろじろ眺めておられる。
「朝比奈さんが、何か言っていたんですか?」
 俺の足元あたりを見ていた鶴屋さんは顔を上げると
「ん? いやー、キミがみくるのことを聞いてきても余計なことは言っちゃダメって釘をさされているのさっ」
 そう快活に言い放ち、朝比奈さんを慌てさせた。
 まぁ、朝比奈さんがどういう意図をもってしてその発言をしたかはだいたい察しが付くが、この人には勘違いされている気がする。
「ちょっとー、守備位置と打順を決めるから集合しなさーい!」
 怒号のような涼宮の声に追い立てられるように、俺たちは観客席のベンチに集合した。
「ところで、どうやって守備位置と打順を決めるんだ?」
 明らかに俺たちは今日会ったばかりのインスタント烏合の衆ズであり、お互いのこともほとんどよく知らないのが現状だ。
「それならちゃんと考えてきたわ」
 ハルヒは得意げに胸を張ると、
「これよ、これ」
 明らかにどう贔屓目に見てもあみだくじにしか見えない紙を、俺の目の前に突きつけた。
「……それ、あみだくじじゃないか?」
「そうよ」
 しれっと言ってのけやがる。
「あのなぁ」
「何よ。民主的で平和的な方法でしょ!守備位置と打順で2枚ね。あと、私はピッチャーで一番だから」
 どこからどう突っ込めばいいのか、固まってしまった俺に佐々木が声をかけた。
「涼宮さんの言うとおり、これが一番平和的な方法だよ。文句は出ないはずだ。とりあえず平等ではあるからね」
 佐々木は苦笑いをして嫌味ともとれる台詞を吐いた。
 文句が出ないためだけのチーム編成って一体なんだ。……かと言って俺に他に名案があるわけでもないしな。こうするしかないか。

 さてと、そんな我らの対戦相手であるが、これが目下三年連続優勝のディフェンディングチャンピオン、上原パイレーツである。なんでも大学生の硬派なサークルらしく、明らかに気合が違う。大声を掛け合って、守備連携の確認やら、バックホームの練習などをおやりになられておられる。俺たちの勝っている点といえば、ポジション編成の平等さくらいなもんだろうか。
 負けたな、こりゃ。

 野球のユニホームすら着ていないみすぼらしいチームは我々だけで、なんかもうそれだけで帰りたくなってきた。場違いにもほどがある。ほとんど公開処刑に近いこれから起こる惨劇を思って、俺は軽く欝になっていた。
「よしっ、全部決まったわね」
 涼宮の景気のいい声が響き渡る。こいつに現実を理解しろ、と要求するだけ無駄か。
「それでは作戦を授けるわ!」
 と言って、何か作戦らしきものを言っていた気がするが、俺はひたすら今日の昼飯のメニューばかりを考えて現実逃避していた。
 それではあみだくじにて平等かつ公平に、そしてそれだけが取り得の、『チームSOS団』のスターティングナインを紹介しよう。
 一番、ピッチャー、涼宮。二番、ライト、朝比奈。三番、センター、長門。四番、セカンド、俺。五番、レフト、国木田。六番、ショート、古泉。七番、ファースト、谷口。八番、サード、鶴屋。九番、キャッチャー、佐々木。
 以上である。補欠は俺の妹。透明ランナーの方がまだマシじゃないだろうか。



 整列して挨拶の後、俺たちはダグアウトに入り、一番バッターの涼宮がバッターボックスに入った。ヘルメットの存在を見事に忘れていた我々だが、機転を利かせた佐々木が大会運営から借りてきてくれていた。
 一番バッター涼宮はバッターボックスで不敵な笑みを浮かべている。まさか、勝つつもりか。
「頭ばかり抱えていないで、応援してあげたまえ」
 そう佐々木に諭されたが、すまん、無理。
 そんなやり取りをしている間にピッチャー第一球。
 コキン。
 金属バットが軽快な音を立て、白球が飛んでいく。それは、必死にその影を追うセンターをあざ笑うようにその頭を通り越すと、ワンバウンドでフェンスに当たった。
 センター越えヒット。涼宮は二塁に到達して得意げに俺たちにガッツポーズを見せていた。
 この光景を見て驚いていない奴がいたら、断言してやろう。そいつはまともな人間じゃない。きっと宇宙人か、未来人か、超能力者だ。

「さすがに野球をしよう、と誘ってくるだけのことはあるね」
 佐々木が小さく拍手しながら感心したような声を挙げる。
「正直、驚いた」
 完全試合すら覚悟していたからな。目の前では涼宮の奴が「ピッチャー全然大したことないわよー」だのわめいている。それを聞いたバッテリーの目の色が変わった。完全に逆効果だ、アホ。
 おどおどしながら二番バッターの朝比奈さんがバッターボックスに入る。朝比奈さんが入るやいなや、ピッチャーは強烈なストレートをインコース高めに投げた。手加減の手の字もない。女の子相手なんだからちったぁ加減しろよ。
 しかしまぁ、これで唯一の勝利の可能性である女の子への手加減という可能性が見事に絶滅した。
 朝比奈さんは固まったまま、三球三振。無事帰ってきてくれればそれでいいです。
 続く長門もバットを引きずってバッターボックスに入ると、とりあえずバットを構えて、その体勢のまま固まった。
 うーん、全く微動だにしない。これはこれである意味すごい。
 などと感心しているうちに、見事にストラックアウト。そして、完全に傍観者を気取っていた俺を現実に呼び戻す非常の声。
「キョン、次はキミだよ」
 佐々木がにこやかにバッターボックスの方へいってらっしゃいませ、と言わんばかりに手を向けていた。

 長門からバットとヘルメットを受け取り、バッターボックスへ向かう。相手チームの皆様方は俺の顔を確認すると、守備隊形を少し後へシフトした。どうやら、はじめて登場した男ということで少し警戒していただいているらしい。
 悪いが、俺はキミたちの期待には応えられそうもないのだが。
「キョンー! あんた四番なんだからね! 打たないと承知しないわよ!」
 真正面にいる涼宮が両手を振り回しながらキーキーわめいているのを適当に聞き流す。くじ引きで決まった四番に期待するな。
 とはいっても――
 ダグアウトの佐々木のほうへちらりと目をやる。
 あいつはあいつで何を考えているのかよくわからんが、楽しそうにニコニコしている。一応ここは男のプライドとして、かっこいいところを見せてやりたいところだが……。
 目の前を何かが高速で通り過ぎて行き、それからバスンという音が聞こえた。その間、俺は何も出来ずただバットを持って立っていた。
 だめだ。球が速すぎる。目の前を通り過ぎたことしかわからん。涼宮の奴がなにやらわめいているが、気が散るからやめてくれ。こりゃ、普通に洒落になっていない。
 二球目、とりあえずバットを振ってみたが、大きく振り遅れた。
 三球目、タイミングはマシになったが、俺のバットはボールの上空30センチで空を切った。結局、三球三振。面目ない。

「まぁ、いいわ。点さえ取られなきゃ負けることはないんだし」
 涼宮はそう言ってアヒルみたいに口を尖らすと大股でマウンドへと向かった。
「お疲れ」
 とぼとぼとダグアウトへ戻ってきた俺に佐々木はタオルを手渡してくれた。汗を拭いて、ほっと一息をつく。
「悪い。かすりもしなかった」
「まぁ、仕方あるまい。彼らはなんといっても優勝候補らしいからね。それに野球において一般的に一巡目というのはピッチャーに有利なものだよ」
 と、励ましともなんとも思えない言葉をかけてくれる。
「やれやれ」
 ため息をついた俺の表情を見てあいつは悪戯っぽい笑いを浮かべた。
「もしかして、いいところを見せようと思ってはりきっていたのかい?」
 そして言葉に詰まる俺を見て、愉快そうにくっくっと笑い声をあげた。

 グローブを持って守備位置に付く。六月だというのにもう日差しは随分きつく、立っているだけで汗をかきそうだ。
 キャッチャー佐々木は審判と一言二言交わすと、自分のポジションに座り込んだ。相手の一番バッターがゆっくりとした足取りでバッターボックスに入る。んー、さすがにバットを構えるしぐさが様になっているな。
 審判の合図を待って、涼宮が投球モーションに入る。
 第一球――バシィと乾いた音がグラウンドに響く。内角低めに強烈なストレート。
 なんつう球を投げるんだ、こいつは。相手のバッターも驚いた顔をしている。全く、でたらめもいいところだ。あれが高校一年女子の投げる球、か。背中越しに涼宮の得意げな顔が見えてきそうだ。
 って、あんな剛速球を受けて佐々木は大丈夫なのか? 急にあの剛速球を受けている佐々木が心配になった俺は、マスク越しに佐々木の表情を伺う。
 佐々木は涼宮に返球しようとしたときに、俺の視線に気づいたようで、大丈夫といわんばかりに右手を小さく挙げて見せた。あいつは大丈夫と言っていても、本格的に無理そうになったら、俺がキャッチャーを代わるなりなんなりしよう。
 そう決意して、俺は守備体勢に入る。しかしながら、その決意は見事に杞憂で終わるのであった。

――うそだろ?
 今、目の前で我が目を疑う光景が繰り広げられていた。
 現在のスコアは二死、ツーストライク、ツーボール。そしてピッチャー涼宮の投げた速球は内角低めストライクゾーンぎりぎりに決まった。三振、ストラックアウト。相手のバッターは肩を落として、すごすごと自分のダグアウトへと帰っていく。
 一回の裏、相手チームの攻撃は三者三振で終わった。
「まじかよ……」
 こんな即席チームで、しかも女の子バッテリーで、優勝候補をいきなり三者連続三振。信じられない光景だ。
「涼宮さんの投手としての力量ももちろんですが、佐々木さんのリードがすばらしいですね。ことごとくバッターの狙いを読んで外しています」
 古泉が得意げに解説してきた。
 わかってるよ、それくらい俺だって。
 ただ、実際目の前でその光景が起こると到底信じられない。あの涼宮の剛速球を平気な顔して捕球するだけではなく、リードまでするなんて。
「さすがに息ぴったりですね」
 古泉は俺に笑いかけると、ダグアウトへと走っていった。
 おい、古泉。なんだよ、その『さすがに』ってのは。

「わー、すごーい」
 おそらく野球のルールなんて全く知らないはずの妹も、なにか目の前ですごいことが起こっていたことはわかっているみたいで、涼宮にピョンピョン飛びついていた。
「ふふん。まぁ、ざっとこんなもんよ」
 と涼宮は胸を張ると、俺のほうをちらっとみて鼻で笑った。
 あぁ、たいしたもんだよ。拍手してやる、心の中で。
 もう一人の当事者である佐々木は鶴屋さんに絡まれている。べた褒めされて、あいつはどうしたらいいかわからないようにはにかんでいる。
 そういえば、佐々木はなんでもやったらすごいのに、普段から目立つのを避けているせいで、ああやって褒められることに慣れていないんだな。
「楽しそうだね、佐々木さん」
 後ろから国木田に声をかけられた。
「あぁ。まぁ、今回の一件にはあいつも主犯の一人だからな。楽しんででももらわなきゃ困る」
 国木田はふーん、と鼻を鳴らすと唐突に
「ところでキョン。佐々木さんとなんかあった?」
 いきなりなんだよ。
「いや、なんか五月半ばくらいから佐々木さんの雰囲気が変わったなって思ってさ。なんていうか、明るくなったというか幸せそうというか」
「なんで、佐々木が楽しそうにしてたら俺と何かあったと思うんだよ」
「えっ、違うのかい?」
 こいつ、絶対わかってて聞いているな。
 俺は顔を覗き込んでくる国木田を強引にどかすと、視線をバッターボックスのほうへと移した。そのとき、俺の頭の中ではあのキスの瞬間がプレイバックされていた。



「ふぅ、なんとか切り抜けられたね」
「お疲れさん」
 鶴屋さんから解放された佐々木はやれやれというような表情で俺の隣に座った。
「すごかったな。まさか三人連続三振とは完全に予想外だった」
 佐々木は照れを隠すように唇に人差し指を当てると
「うーん。そうだね。涼宮さんのボールはスピードも威力もあったし、なにより彼女のコントロールがいいからね」
「お前のリードもすごかったぜ」
「まぁ、相手のバッターが打とうとしているコースを意識的に外しているだけだよ」
「いや、バッター心理がわかるっていうだけでも相当なもんだと思うけどなぁ」
 佐々木は愉快そうに喉の奥で笑い声をあげると
「なに、キミの心理を推察するよりもはるかに簡単なことだ」
 とのたもうた。どういう意味だ、それは。
「それはそうとさっきは国木田と何を話していたんだい?」
 うっ、思わず頭の中にあのシーンがよみがえってきてしまう。その頃、バッターボックスに入ったトップバッター五番の国木田が早くも三度目の空振りをしていた。

 古泉と谷口も仲良く連続三振を決め込んで、この回はチェンジ。
 そして再び俺は守備位置についた。目の前では先ほどの光景が見事にプレイバックされており、連続三振ショーの真っ最中だ。守備で突っ立っているけど、やることがなくて暇だ。
「涼宮さんのことについてあなたはどれだけの知識をお持ちです?」
 ショートの古泉が話しかけてきた。いくらやることがなくて暇だからって、こんなところで無駄話をしていたら涼宮にどやされるぜ。
「どういう意味だ?」
「文字通りの意味です」
 まるで馬鹿にされているような気分になるくらい爽やかなスマイル。
「あいつが神様だのなんだのっていう電波話、か?」
「ご存知で何よりです。僕も説明する手間が省けて助かります」
 礼なら向こうの世界のお前に言え。
「こちらの世界での涼宮さんも、あなたがあちらの世界でお会いした涼宮さんと同じく、神とも呼べる能力をお持ちです」
 そうか。とりあえず、俺はなにも聞かなかったふりをしてやるからありがたく思え。
「他人事のような顔をしないでください。あなたは選ばれたかもしれない人間なのですから」
「何に選ばれたんだ、俺は」
 草野球の数合わせメンバーにか。
「まぁ、平たく言えばそうなってしまいますかね」
 馬鹿にしてるのか、お前は
「あなただって疑問に思ったはずです。なぜ自分がこの野球大会に誘われたのかとね」
 なぜって? 俺があいつにとって話しかけやすい席に偶然座っていて、んで、まがいなりもあいつとクラスで会話する人間は俺ぐらいだからだろう。
「涼宮さんにとって偶然は必然です。あなたが彼女の前に座っていることも、あなたが四番をひいてしまったことも」
 何が言いたい。
「先ほども言いました様にあなたは涼宮さんにとっては気になる存在、つまり彼女の精神に影響を与えうる存在です。僕らにとってあなたはもう無関係な他人ではないのですよ」
 勘弁してくれ。俺は未来人でも、宇宙人でも、超能力者でもない普通の高校生だ。
 古泉はそんな俺の不満百パーセントの顔を見て笑うと
「それでもあなたはもう内側の人間ですよ。それに、佐々木さんも。もっとも彼女はその前からそうでしたが」
 と、古泉が意味ありげな台詞を吐くと同時に、三人目の三振が告げられ、この回の守備は終わった。

 さて、それでは我々の攻撃へと移りますか。と、やる気なく、ダグアウトへ歩いていくと、涼宮の奴がなにやら不敵な笑みを浮かべていやがる。また、なにかよからぬことを企んでるんじゃないだろうな……。
「どうやら、ここは試合の流れを変えるためにアレを出すべきね」
 アレっていったい何だ? 何をやらかすつもりだ?
 俺が不安に駆られて、その場で固まりそうになっていると、涼宮はすばやく審判にタイムを申請し、
「さぁ、みくるちゃん。ちょっと来なさい」
 とベンチに置いてあったボストンバッグを掴んで、朝比奈さんを引っ張ってベンチ裏へと消えた。
「いったい何をやらかすつもりなんだ?」
「何かこの状況を打開できるような策があるみたいだね」
 佐々木の奴は能天気に言うが、あの涼宮のやることだ。ろくなことであるはずがない。
「ちょ、ちょっと……涼宮さんっ! やっやめ……てぇ!」
 女子トイレのほうからは朝比奈さんの時折悲鳴が聞こえる。
「ほらっ、さっさと脱いで! 着替えるのよ!」
 ろくでもなさそう率五十パーセントアップ(当社比)。とりあえず、俺は額を両手で押さえた。
 五分後、再び登場した二人はこの場にとんでもなく似つかわしい格好をして現れた。
 鮮やかなブルーとホワイトを基調としたツートーンカラーのノースリーブにミニプリーツ。両手には黄色いボンボン。完璧なまでのチアリーダーだ。ミニスカートから覗く白い足がまぶしい。
「似合うなぁ」
 と国木田は能天気な感想を言い、
「みくるー、写真撮っていいー?」
 ケラケラと笑いながら鶴屋さんはデジカメを取り出した。
 ……確かにこの光景はデジカメに収める価値があるな。俺も写真がほし――
「キョン、鼻の下が伸びている」
 静かで落ち着いた声だったが、それは雷鳴のように響いた。佐々木は、顔は微笑みを絶やさないままだが、口元に力がこもっている。
 佐々木をよく知らない人間にはわからないだろうが、今までの経験から言って、これはあまり好ましくない状態であることはよく知っている。
「いや、別にそういうつもりはないぞ」
 言い訳がましさ百パーセントの白々しい台詞を吐く。そして、こんな言い訳は佐々木に通用するはずもない。
「ポニーテールのほうがいいかしら」
 涼宮は朝比奈さんの髪を撫でながら後でまとめようとしていた。
 ポニーテールと聞き、俺は思わず朝比奈さんたちの方へ振り向いてしまった。涼宮は俺の視線に気がつくと、今度は佐々木と目を合わせ、口をアヒルみたいにした。ポニー中止。なんでお前ら普段学校であまり話さないくせに、そんなにコンビネーションがいいんだ?
「さ、応援しなさい」
「えええ、どどうやってですか……?」
「こうやってよ!」
 涼宮は朝比奈さんの後に回ると、白い両腕を掴んで、かんかんのうよろしく上下させた。油の切れたロボットみたいな動きで腕を上下させている。
「ひいいー皆さん打ってくださぁい! お願いだからー、がんばってぇー!」
 谷口あたりは何を張り切ったのか、そこらへんにあったバットを掴んで素振りを始めている。お前は前回見事に三球三振したところだろうが。
 しかし、俺ががんばるべき目下の目標は、バットを振り回して球を飛ばすことではない。案の定、佐々木はご機嫌斜めで不服そうにバッターボックスのほうを見ている。とりあえず何か話しかけてフォローしたいと思うところだが、何て声をかけていいかわからん。
 そうやって、俺が挙動不審に佐々木の方ばかり見ていると、俺の視線に気づいた佐々木は不服そうに、
「なんだい?」
 え、っとだなぁ……
「お前も、そのアレを着ないのか? 似合うと思うぞ」
 ……言うに事欠いて何を言っているんだ、俺。確かに、佐々木のチアリーダー姿を見たいか、と問われると答えはイエスなのだが。
 こりゃ、完全に佐々木を怒らせてしまうな、と戦々恐々としていると、
「……バカ」
 意外に佐々木の反応はあっさりしたものだった。恐れていたほど機嫌も悪くないらしい。



 三回表、こちらの攻撃。
 涼宮のチアガール作戦の効果があったのか、なかったのか、鶴屋さんはファールで粘っている。どうやらこの鶴屋さんも運動神経のいい人のようであったが、最後にはキャッチャーフライを打ち上げてしまいワンアウト。
「むずいわねーっ、バットに当てるだけで精一杯」
 ちなみに男性陣は誰一人としてバットに当てることも出来ていない。なかなかに面目丸つぶれである。
 そして次はラストバッター、キャッチャー佐々木の出番。
「がんばってねっ!」
 と、鶴屋さんからバットを渡された佐々木は軽く会釈し、バッターボックスへ入った。
 あまりの味方チームのふがいなさに業を煮やしているのか、涼宮は両手を腰に当てて、右足のつま先で足踏みをし落ち着かない様子だ。こんな即席チームに期待するほうが間違っている。
 佐々木は軽く審判に挨拶するとバッターボックスへ。相手のバッテリーの顔色が変わる。涼宮―佐々木バッテリーに今現在パーフェクトに抑えられているわけだから、それも当然だろう。
 バシンといい音がして、
「ストライーク!」
 一球目は内角低めへ強烈なストレート。
 おいこら、相手バッテリー。いくらなんでも女の子相手に内角攻めなんかするなよ、当たったらどうするんだ。しかし、そんな俺の心配をよそに佐々木は平然としたものである。
 カウントはツースリー。
 佐々木は鶴屋さんよろしくファールで粘り、最終的にフルカウントまで持ってきた。前々からあいつの運動神経がいいことは知っていたが、まさか大学生の野球チーム相手に渡り合えるほどだとは思わなかった。
 最後の一球、外角低めコースギリギリ。佐々木は見逃した。審判のコールは……
「ボール! フォアボール!」
 佐々木はバットをおいて一塁へとことこと歩き始める。これで、涼宮以外に走者が出たことになる。そして、次のバッターはその涼宮だ。
「ふふん、これは決勝点を入れるチャンスね」
 アホ。それを言うなら先制点だ。

 チアリーダー姿のままでバッターボックスに入った涼宮。相手のバッテリーは気の毒にどこを見ていいか困り果てておられる。まぁ、あいつは性格はアレだが、ツラとスタイルはいいからな。
 ピッチャーは突如としてコントロールを乱し、甘い棒球を投げた。それをすかさず涼宮がクリーンヒット。打球はライト前に転がり、涼宮は一塁へ、佐々木は三塁へ。これでワンアウト一三塁。
 これはまさしく先制点を入れる大チャンス、理想的な状況だ。……普通のチームなら。しかし、次に控えるバッターは朝比奈さんと置物のように動かない長門。誰がどう見ても、このままなにもできずツーアウトは確実だ。せめてスクイズでもしてくれれば、なんとかなるのかもしれないが、この二人にそれを期待するだけ野暮というものだろう。
 朝比奈さんもまたチアリーダー姿のままバッターボックスへ入った。ちょうどスカートの裾と目線の高さが一致してしまったキャッチャーの視線が泳いでいる。ピッチャーも動きがぎくしゃくし、もはやヘロヘロ球しか投げなくなってしまった。
「みくるちゃーん! しっかり打つのよ!」
 そんな涼宮のゲキに朝比奈さんはおどおどするばかりだ。
「えいっ!」
 ヘロヘロ球になんとかバットを振ってみせるが、腰の引いたスイングでは当たるものも当たるまい。やっぱりこりゃだめか……。
 そう俺があきらめかけた二球目。
「え、えーい!」
 こっちの腰が砕けそうな声を放って、またも空振り。
「ふぇー……」
 半分泣きそうになりながら甘い声を出す朝比奈さんに、見とれてしまわなかった男がその場にいただろうか。
 男なら誰しも作ってしまう一瞬のその隙を突いて、涼宮が走った。
「セカン!」
 ショートからかけられた声に我に返ったキャッチャーが慌てて、二塁へボールを投げる。果敢に二塁に突っ込んだ涼宮のスライディングは、残念ながらキャッチャーの強肩に阻まれ、ギリギリのところでアウト。
 くそっ、惜しい。
 しかし、涼宮をタッチアウトしてほっとした顔で、返球しようとホームへ向いたセカンドの顔色が一瞬で変わった。俺もその視線の先を追う。
「なっ!」
 味方の俺まで思わず声を上げていた。
 佐々木がホームベースへ向かって走っている。これは、ホームスチール!
 セカンドが慌てて返球するも、完全に虚を突かれていたため、ボールは山なりでスピードがない。キャッチャーはボールを捕球し、あわてて佐々木へタッチ、しかし――
「セーフ!」
 こうして俺たちは虎の子の一点を入れた。

 その後の展開は言うまでもなく、朝比奈さんがあっさりと三振、チェンジ。
 それから俺は守備位置につこうとする佐々木に声をかける。
「すごかったな、ホームスチール」
「まぁ、あの状況で点を入れようと思ったら、あぁするしかないからね」
 佐々木はペットボトルのお茶に口をつけて二口ほど飲むと、キミも飲むかい、とでもいいたげな目線を俺に送ってきた。
「俺はいいよ。あの見事なコンビネーションは事前に涼宮と相談していたのか?」
「まさか」
 佐々木は軽く笑い飛ばすと
「彼女の考えそうなことっていうのは大体わかるんだよ」
 そう言いながら涼宮のほうを見た。
 のしのしと大股でマウンドへ向かう涼宮は、点が入ったらもっと大はしゃぎするかと思ったが、存外におとなしい。何かを考え込むように手の中のボールを見つめると、仁王立ちでマウンドを見据えた。

 点が入ってより気合をました涼宮のピッチングは、さらに迫力を増し、再び佐々木のリードの元三者三振に切り捨てた。これで九人連続三振、これ以上ないパーフェクトピッチングである。
 続く四回表の攻撃。だが、もうこれは言うまでもないだろう。あっさりと三者連続三振。
 相変わらず動かない長門、バットを振ってもかすりもしない俺、国木田。朝比奈さんは涼宮の言いつけを守って律儀に応援してくださっているのに、申し訳ない。

 この野球大会では規定により予選は九十分以内と決まっている。よって、この時間的にこの回の守備が最終になるはずだ。
「完全試合を期待してるぜ」
 ベンチから立ち上がった佐々木の肩を叩く。
「うーん、おそらくそれは難しいだろうね」
「なんでだ? 今まで完璧に抑えてきたじゃないか」
「打者が一巡して次からは二度目の打席だ。いい加減彼らも僕らのピッチングに慣れてくる頃合だよ」
 そして、佐々木の予言は見事に的中した。
 涼宮も疲れ始めたらしく、球威が落ちてきている。さらに、相手のバッターも目が慣れてきたらしく、ボール球には手を出さない。あっという間にカウントはワンスリーになっていた。涼宮の奴は疲れを気迫で補うように、汗を拭き目の前をにらみつける。
 第五球目、その球は涼宮の気合をよそにすっぽぬけたようにど真ん中へと走った。そんな甘い球を見過ごす相手ではなく、鋭いスイングが白いボールを射抜く。
 カキンと音がして、この日初めてのいい当たりは綺麗なセンター方向へのライナー。セカンドの俺がそれを捕球すべく、中央に走りこもうとする刹那――
 ドンッ、というような鈍い音がした。
 ボールの軌道が大きく逸れて、そのまま垂直に鈍く空高く上がっていく。ライナーのボールは涼宮の右肩を直撃していた。俺はその姿を見て、そのまま立ち尽くすだけだった。
 涼宮はうずくまるように落ちたボールを拾うと、それを右手で投げた。山なりのボールが力なくファーストミットに収まる。
「アウト!」
 審判のコールを聞くと同時に、俺は涼宮のほうへ走り出していた。

「おい、大丈夫か! 涼宮!」
 右肩を抑えてうずくまる涼宮は「つぅ」と小さく声をあげるだけで返事をしない。大学生が本気で打ったライナーが肩に直撃したんだ。いくら涼宮でも無事なはずがない。
「おい」
 その場にひざを付いて涼宮の表情を伺う。涼宮は俺が覗き込もうとしているのに気づくと、
「別に大丈夫よ、あんたなんかに心配してもらわなくても」
 と強い視線を投げかけた。
「馬鹿野郎。打ったところを見せてみろ」
 いくら軟式とはいえ、あの速度で球が直撃すれば骨くらい折れてもおかしくはない。球はちょうど二の腕のところに当たったようで、そこが丸く腫れ上がっている。俺が見ている間にもみるみる腫れはひどくなっている。
「腫れがひどい。大丈夫か、動けるか? 運営委員会のほうへ行って応急処置をしてもらうぞ」
「うっさいわね、だいじょうぶって、言っている、でしょ」
 いつも通りに強がってみせるものの、声にいつもの元気はない。
「この腫れは結構ひどいよ。今すぐに冷やしたほうがいい」
 ホームベースから駆け寄ってきた佐々木が心配そうに声をかける。
「……だいじょうぶよ」
 涼宮は佐々木のほうから目をそらすと力なくつぶやいた。
 ええい、こんな押し問答をしていても埒があかん。
「ちょ、キョン、なにするのよ!」
 強引に涼宮の左肩にもぐりこみ立たせる。
「とりあえず、ベンチに行くぞ。そこで座って待っていろ、今すぐ何か冷やすものをもらってきてやる」
 涼宮は少し抵抗しようとしたが、右肩が痛いのか、その力は弱弱しかった。そして、佐々木のほうをちらっと見て、唇を真一文字に結ぶと今度はおとなしく付いて来た。

「はいっ、どうぞ」
 古泉の奴がどこからかアイスノンを持ってきた。それを涼宮の右腕に当て、タオルで固定する。
「冷やすことしか出来なくて悪いが、これで応急処置としてはまぁ大丈夫だろう」
「……試合はどうすんのよ」
 涼宮がつぶやくように言う。
 本来なら、ピッチャーの負傷により、ここはもう試合放棄すべきところだろう。しかしながら、くやしそうに唇を噛む涼宮の姿を見てしまった俺は何をとち狂ったのか、
「任せろ、後は俺が何とかしてやる」
 と、胸を張って言ってしまっていた。



「まったく、キミらしい」
 佐々木があきれるように言いながら、俺にボールを手渡す。
「すまん」
「まぁ、あぁ言ってしまったからにはきっちり抑えていこう。がんばろう、キョン」
 涼宮はダグアウトの前に立って仁王立ちで俺たちを見つめている。
 俺たちのチームは負傷退場したハルヒに代わって、おまけでついてきた俺の妹が入るという苦肉の策をとった。俺が抜けたセカンドには朝比奈さんが入り、朝比奈さんのいたライトには妹が入った。もはや外野の守備力には全く期待できない布陣だ。ランニングホームランのタイムセール。
「くそっ……」
 必死にボールを投げるものの、緊張感からうまくコントロールできない。
「フォアボール!」
 四球フォアボール。この日相手チームに初めてのランナーが出た。
 くそっ、ストライクを投げないと――
 しかし、続くバッターに投げた第一球は軽快な音とともにレフトへ転がっていった。そのゴロを国木田がキャッチ、古泉にすばやく投げ、なんとかバッターの二塁進塁は防いでくれた。
 しかし、ワンアウト一三塁。
 打たれないようにすれば、フォアボール、ストライクを取りにいけばクリーンヒット。どうすればいいんだ。

 涼宮の奴はうるさくわめくこともなく、じっと俺の投球を見ている。せめて、何か言ってくれたほうがまだ気が楽だ。
 目の前の佐々木の表情を伺う。佐々木は、大丈夫、落ち着いて、と言わんばかりに右の手のひらを俺に見せた。
 第一球目、打たれないようにとギリギリのコースを狙ったのがあだになったのか、外角低めへの暴投。
 まずい――
 ボールは佐々木の左脇をくぐり抜けるように進み、佐々木がその身を翻した。
 捕逸、最悪の展開だ、こんな形で点を取られるなんて。
 この隙を見逃さない三塁ランナーがすごい勢いで突っ込んでくる。もうだめだ――
「アウト!」
 審判が右手を高々と挙げている。
 一瞬何が起こったかわからない、ランナーはホームへ突っ込んでいて、そこに佐々木が……タッチしている? そして、佐々木はすばやくボールを二塁に投げた。相手チームの三塁走者も信じられないといった顔をしている。一塁走者も半分ほど進んだところで呆然と立ち尽くしている。その場にいた全員が呆然としていた。
 いったい何が起こったんだ?
 佐々木はキャッチャーマスクを外すと、俺にウィンクしてみせた。
 ……まさか、捕逸したふりをして、相手が突っ込んでくるのを誘ったのか。佐々木、恐るべし。

 うまく挟み込めればよかったのだが、結局飛び出した一塁ランナーをアウトにすることはできず、これにて状況はツーアウトランナー一塁になった。後一つアウトを取れば勝てる。
 しかし、
「キョン、悪いが僕にはもうこれ以上の悪知恵は思い浮かばない。あとは、なんとか実力で抑えてしまうしかない」
 タイムを取って、マウンド上へ歩いてきた佐々木が俺にそう声をかける。
 あぁ、ついに万策尽きたか。
「佐々木、お前はよくやってくれたよ。十分すぎるほどにな。後は俺たちがなんとかしてみせるさ」
 俺ではなく、俺たちと言ったのは自信がないからだ。
 頼むぞ、バックの皆さん。ヒーローになるなら今しかないぞ。

 おそらく、もう彼らは小細工を施してくることはなく、真っ向勝負だろう。くそっ、ここへ来て勝てる気がまったくしねえ。
「キョン、がんばりなさい!」
 涼宮からの応援が入る。
 チアリーダーの癖に、腕を組んで仁王立ちで応援するんじゃねえよ。
「奇跡よ、起これ!」
 やけっぱちの俺が投げた最後の一球。投げ終わると同時に、その奇跡は起こった。

 マウンド上につむじ風が吹く。
「きゃあ!」
 そのとき俺の耳に入ってきたのは金属バットが軟式ボールを叩く音ではなく、女性の可愛らしい悲鳴が先であった。
 目の前のバッターが目を見開き、全く腰の入っていないスイングでボールを叩く。力のないボールは俺の足元を転がりぬけ、ショートの古泉のグラブに収まった。慌てて後を振り返ると、走り出そうとした姿勢のまま一塁ランナーが固まっている。そして、その目線の先には涙目でスカートを押さえている朝比奈さんがランナーを見つめている。
 まさか、先ほどのつむじ風で起こった奇跡は――
 そのまま古泉が二塁ベースを踏んで、ランナーホースアウト。これにてゲームセット。スコアは1-0で我がチームSOS団の勝利。

「やったっー!」
 鶴屋さんが勢いよくジャンプし、ようやく俺たちのチームが勝ったということがわかった。
 あっけない幕切れで、俺には何が起こったのかよくわからない。佐々木は苦笑いしながら、両手をあげてジェスチャーしてきた。涼宮の奴は苦虫を噛み潰したような、嬉しいのか不機嫌なのかよくわからん表情をしている。いったい何があったんだ?
 佐々木、解説を頼む。 と、俺は視線を佐々木に送る。佐々木はその意味を理解したのか、苦笑いをしながら、
「まぁ、そのなんだ。キミがボールを投げるとほぼ同時に風が吹いただろう? 大方キミも予想が付いていると思うが、その風で朝比奈さんのスカートがめくれてしまったわけだ。よって、バッターはあんな腰の入っていない打撃をし、走り出そうとしたランナーも目の前の朝比奈さんに見つめられて止まってしまったというわけさ。あのまま突進していたら、状況が違えば変質者そのものだからね」
 なんだ、そんな最終回のドラマが俺の真後ろで起こっていたのか。
「けど、朝比奈さんは涼宮と同じようにブルマーを下に穿いていたんだろ。ならそこまで問題ないだろう」
「……穿いていなかったよ」
 なっ、くそ! 試合に勝って勝負に負けたっー!
「キョン、試合に勝ったのに何か不服そうだね……」
 佐々木の凍りつくような笑みを向けられて、俺はとりあえず正気に戻った。

 試合終了の礼が終わる。
 パイレーツの皆様は、全員討ち死にという壮絶な様相を呈していた。半分以上が女子の高校生素人チームに素で負けてしまったからには仕方あるまい。
「さてと、二回戦はどうされますか?」
 古泉がわざとらしく尋ねてきた。
「どうするもこうするも、エースが怪我してしまったんだ。これ以上の試合続行はどう考えても不可能だろう。棄権しよう」
「そうですね。ちょうど僕も緊急のアルバイトが入ってしまったので、これ以降の試合は出られそうもありません」
 アルバイト? 日曜日にご苦労なこったな。
「では、僕は大会運営本部に棄権の旨を伝えてまいりますので、あとはよろしくお願いいます」
 さりげなく厄介な仕事を押し付けられた気がするが、まぁ、いいか。
「涼宮、腕の具合はどうだ?」
 チアガール姿のまま、まだ釈然としない様子の涼宮は不機嫌そうに、
「どうってことないわよ、それより」
「それより?」
「抑えてみせるって大口叩いた割には、ほとんど佐々木さんとみくるちゃんのおかげで勝ったみたいなもんじゃない」
 痛いところを突くな。
「俺なりにがんばったつもりだったんだけどな」
「せっかく私が完全試合をしていたのに」
「一応完封リレーはできたけどな」
 涼宮はふぅ、とため息をつくと
「まぁ、でもあのまま私が完全試合をしてしまったら、盛り上がりに欠けるからあれぐらいの方がちょうどよかったのかもね」
 とのたもうた。
「それはそうと、次の試合だが、棄権しよう」
「せっかく勝ったのに?」
 だから、不服そうに口を尖らすなっての。
「仕方が無いだろう。それよりも、まずはお前の怪我をちゃんとしたところで診てもらうほうが先だ」
 涼宮は考えるようなフリをして見せたが、すぐに
「まぁ、いいわ。私は十分堪能したしね。それより、お腹が空いたからお昼ご飯でも食べましょう」
 と言って笑った。なんかよくわからんがご機嫌は直ったみたいだ。

「お疲れさん」
 ベンチで荷物をつめて帰り支度をしている佐々木に声をかける。
「お疲れ、キョン」
「次の試合だけど、棄権することにしたから」
「あぁ、大体そうなるだろうと推察していたよ」
「正直、次の試合に勝てる気なんて全くしないからな」
 全打席で、神風が朝比奈さんのスカートにでも吹けば話は別だが。ただ、そんな奇跡を願うほど俺は人間として落ちぶれてはいない。……別に俺のほうから見えないのが悔しいからではない、ということは断っておく。
「何かよからぬことを考えていないかい?」
「いえ、何も」
 とりあえず今日の教訓は、佐々木の人の心を読む洞察力をなめてはいけないということだ。

「よし、涼宮、後に乗れ」
「ちょっと、何よ」
 俺は涼宮を引き連れて駐輪場へとやってきていた。グラウンドへ自転車でやってきたのは俺だけだったので、とりあえず俺が自転車に涼宮を乗っけて近くの接骨院に連れて行くことになった。
「別に大丈夫って言ってるじゃないの」
「ちゃんと診てもらえ。軟式とはいえ、あれが直撃したらただではすまないはずだ」
 どれだけお前の体が頑丈に出来ていたってな。
「そんなことより、お腹空いたからお昼ご飯が食べたい」
 拗ねるなよ。俺だって腹は減ってるちゅうの。
「ほっときゃ腫れ上がるだけだぞ、湿布くらい貼ってもらえ。昼飯はそれからでいいだろ」
 他の連中に後片付けやらなにやらを任せて、俺と涼宮で先に病院に行き、それから昼飯に合流する予定だった。佐々木の奴は、少し不服そうだったが、まぁ仕方あるまい、と納得していた。
「わかったわよ、行けばいいんでしょ、行けば」
 そう言うと、涼宮は俺の後ろに立ち乗りした。
「って、馬鹿。腕を怪我してるんだから立ち乗りなんかするんじゃねえよ」
「じゃあ、どうしろっていうのよ」
「後に腰掛けて、怪我していないほうの腕で俺の腰につかまれ」
 その体勢は中学時代俺が佐々木と予備校に通っているときのスタイルである。まさか、涼宮とこうして二人乗りすることになるとは思わなかったな。
「……わかったわよ」
 不服そうに座った涼宮が俺の腰に回してきた左手は、普段のあいつからは想像できないほど遠慮がちだった。

 ちょうど中学時代に足を捻挫したときに、この近くの接骨院に通っていた。あそこならサラリーマン相手に日曜も開いているし、ある程度顔も利くからすぐ診てもらえるだろう。
「ねぇ、キョン」
「なんだ?」
 自転車の後から声がかかる。
「今日の試合のMVPを決めなきゃいけないんだけど、誰だと思う?」
「なんだそりゃ」
「何よ。野球の試合が終わったら、その日一番活躍した選手がお立ち台に昇ってヒーローインタビューされるのがルールじゃない」
 野球にそんなルールはない。随分と勝手なルールばかり構築している我らがリーダー様だった。
 あきれ返りながらも、俺は馬鹿正直に今日のMVPについて考えた。
「でも、選ぶとしたら、お前か佐々木だろうなぁ」
「MVPは二人も選べないわよ」
「とはいわれてもなぁ」
 パーフェクトピッチングのハルヒに、巧みなリードと決勝点を入れた佐々木、どちらも甲乙付けがたい。無理にどちらか一人を選ばなくても、二人ともっていうことでいいんじゃないか?
「やっぱり、俺にはどっちかって選べないな」
「ちゃんとどっちかに決めなさい。二人ともっていうのはナシなのよ」
 ハルヒが言った言葉がなぜかふわりと俺の耳にまとわりついた。

 接骨院に着いて、涼宮の腕を診てもらった。骨には異常はなさそうで、ただの打ち身だろう、とのこと。湿布薬でも貼っておけば、二、三日で腫れはひいてしまうだろう、ということだった。
 さてと、みんなを待たせているのは悪いからな、さっさと合流しよう。佐々木に電話をかけて、みんながどこにいるかを確認する。
「おう、佐々木か。うん、今診察は終わったところだ。みんなは? ――うん、そうか。わかった。場所? あぁ、そこなら知っている。うん、大丈夫だ。すぐ行く」
 携帯をパキンと折りたたみ、さぁ、後は涼宮をつれてみんなと合流するだけだ。
 駐輪場から自転車を引っ張り出し、自転車にまたがって涼宮に乗れよ、と合図するが、あいつは俺の横を素通りしていく。
「おいっ、乗っていかないのか?」
 あいつはのしのしと歩みを止めないままに、
「手を怪我しているから、自転車の後ろにつかまると痛いのよ」
 来たときはそんな風にはまったく見えなかったけどな。むしろ立ち乗りしようとしたくせに。時間が経って、腫れが進んでしまったんだろうか。
 なんにせよ、本人が痛いと言っているなら仕方がない。
「わかったよ」
 俺も自転車を押して、涼宮に付き合おう。さすがに、こいつを放っておいて、一人で先に行ってしまうほど俺は薄情じゃないさ。

 佐々木の言っていたファミレスまでは、自転車なら十分ほどの距離だ。しかし、歩くとなると三十分はみておかなくてはならない。
 遅刻決定だな。佐々木にメールで連絡でもいれておこうか。
「あんたさぁ」
 俺の前をさっきまで無言で歩いていた涼宮が突然口を開く。
「何だ?」
 俺は携帯でメールを打ちながら、そっけない返事を返す。『少し遅れる』、これでよしっと。
「何で、あの時私のことを名前で呼んだわけ?」
 あの時?
 わけがわからない。俺がお前を名前で呼んだことなんて俺の記憶にはないはずだ。
「いや、俺にはそんな覚えはないんだが。それに、あの時っていつだ?」
 前を歩く涼宮は肩を少しいからすと、
「五月の、そう、半ばくらい」
 ……わかった、そういうことか。例の俺が別の世界に行っていたときの話だな。あの世界の俺は妙に涼宮と仲がよいみたいだったから、こいつのことを名前で呼んでいるのか。っと、そんなことはどうでもいい。うまくごまかさないとな。
「え、と、まぁ、そんな気分だったんだ」
「あんたってそんな言い訳ばっかりね」
 痛いところを付きやがる。悪かったな、語彙が貧困で。
「そういう気分はそういう気分だったとしか言えねえよ」
「佐々木さんとはちゃんと仲直りできた?」
 突然話題を変えるな。
 というか、いきなりなんなんだ? 佐々木と仲直り? 俺は佐々木とけんかしていたのか? そんな記憶は『俺』にはない、が心当たりはあるな。
「あぁ、おかげさんで」
「そう」
 自分から振っといて、そのやる気のない返事はなんだ。
「なんでそんなことを訊くんだよ」
「別に。少し気になったから」
 いったい何が訊きたかったんだ、お前は。
「それはそうと、あんたは本当に佐々木さんと――」
 そして、涼宮は言葉に詰まった。
 何だよ、いつもの傲慢不遜なお前らしくない。普段なら、言わなくてもいいことをまで平気で喋るくせに。
「――佐々木と?」
「別に、なんでもないわ」
 そうかい。
 俺は小さくため息をついた。そして、涼宮はそれからは何もしゃべらず、ただ黙々と俺の前を歩き続けるだけだった。

 結局、涼宮はそれ以上何も話しかけてくることはなく、二人で少し距離をおいて歩いていた。日差しが暑い、喉が渇いた、腹が減った。今日は本当に大変な一日だったな。まだ、昼飯すら食い終わっていないが、もう一日が終わった気分だ。
「あっ」
 先を歩いていた涼宮が突然立ち止まる。なんだ、いったい何を見つけたんだ。その視線の先には見覚えのある影。佐々木が両手を後に組んで、ファミレスの駐車場の壁に背を当てている。
「佐々木? 何してんだ、こんなとこで」
「やぁ、キョン。いや、何、もしもキミがこのファミリーレストランの場所がわからなかった場合のことを考えて、ここで道標代わりに待機していたのだよ」
 佐々木は俺のほうを見て答えた。
 涼宮は口を尖らすと「お腹が空いて死にそうだわ」と言って、さっさとレストランへ入っていってしまった。少しは俺に感謝の意ぐらい示してくれ。
「彼女とずっと歩いて来たのかい?」
 そんな涼宮の後姿を見送って、佐々木が尋ねてくる。
「あぁ。なんでも腕が痛いから、自転車の後ろには乗れないって言い出してな」
「ふうん、そうか……」
 佐々木は考えるようなしぐさをした。
「何だ? 何か気になることでもあるのか?」
「いや、なんでもないよ。ご苦労様だったね。さぁ、僕たちもお昼ご飯を頂こうか」
 そう言うと佐々木は俺の手を取った。

 佐々木に手を引かれて店内に入った俺は、谷口の指すような視線と、国木田の生暖かい視線と、朝比奈さんの驚くような視線と、鶴屋さんの大笑いに出迎えられた。
「お前、遅いんだよ。何やってんだよ」
 谷口がハンバーグを突きながら、ブーたれた声を上げる。ただのボランティアワークだ。
「お疲れ。キョンも、佐々木さんも」
 国木田がにこやかに話しかけてくる。
 席を見渡すと涼宮が不機嫌そうに外を眺めていた。とりあえず、涼宮の隣が空いているので、そこに座る。
「まだ、腕は痛むか?」
「……うっさいわね」
 何だよ、人がせっかく心配して声を掛けているというのに。なんでそんなに機嫌が悪いんだ、まったく。
「あんたのせいよ」
 昼飯食うのが遅くなったのは、俺も同じだっちゅうの。
 とりあえず席に着く。向かい側では妹が鶴屋さんと朝比奈さんに挟まれて、二人とじゃれている。ありゃ、完全になついてしまったな。まぁ、気持ちはわかるけど。そして、俺の隣に佐々木が座った。
「キョン、何でも好きなものを頼んでくれればいい。先刻、二回戦出場の権利を譲渡した際に、相手チームからここのお食事券を人数分頂いたんだ」
 それは、またありがたい臨時収入だな。では、遠慮なく注文させていただこう。

 俺と佐々木と涼宮が黙々と飯を食っている。他の連中はもう食い終わってしまっているようで、ドリンクバーのジュースを片手に談笑タイム。長門だけは本を読んだまま動かない。俺はテーブルの端にあるソースを取ろうと手を伸ばした。が、少し届かない。こういうのってイライラするよな、全く。
 そうすると誰かの腕がひょいと伸びて俺の目の前にソースを置いてくれた。
「お、さんきゅ」
 隣のハルヒの顔を見て礼を言う。「あんたが手を伸ばしているのがうっとおしいのよ」、とでも言わんばかりの視線を、俺にチラッと投げかけ、また食事に戻る。そんなにがつがつ食うなよ。そして、ふと隣を見ると、佐々木と目が合った。もっとも、佐々木の奴はすぐ目を逸らしたが。

「あー、食った食った」
 パイレーツの皆様のおかげで、ただ飯を堪能した俺たちは店の外に出て、帰る体勢になっていた。
 どうやら、俺だけが自転車で来た様で、他の連中は電車で帰るみたいである。妹の奴は、すっかり朝比奈さんと鶴屋さんになついてしまい、これから鶴屋さんの家に遊びに行くと言い張った。迷惑だから、やめなさいと注意したのだが、鶴屋さんはそれを寛大に
「ぜんっぜん、かまわないさー。妹ちゃんめがっさ、かわいいしねっ。なんなら、キョン君も遊びに来るにょろ?」
 という感じでOKしてくれた。妹は夜になったら迎えに行くか、仕方ない。

「じゃあ、また明日学校でな」
「おうっ」
 ファミレス前で国木田たちを見送る。みんながぞろぞろと駅の構内へ吸い込まれていくのを見届けて、さぁ、俺もそろそろ帰ろうかな、と。そして、自転車を回頭させ家路に着こうとすると、
「どうした?」
 涼宮と佐々木がいた。涼宮はなんとも形容しがたいチョコレートと唐辛子を一気食いしたような表情で腕組みをし、佐々木は佐々木で両手を後に組んで笑っている。
 お前ら、まだ帰らないのか。
「キョン、これを持って帰って明日学校に持ってきてちょうだい」
 と、涼宮は足元の野球道具の入った箱を指差す。というか、お前よくこんな箱とボストンバッグを担いで来たな。感心してやる、尊敬はしないけど。
「別にあたしが担いできたわけじゃないわよ。この荷物は古泉くんに頼んだの」
 そうかい。古泉も苦労してるんだな。で、バイトで帰っちまったあいつの尻拭いを俺がする羽目にね、
「何よ、文句あるの?」
 涼宮は挑戦的な目つきで俺を見る。
「いや、別に文句なんかねーよ。腕を怪我しているお前にこんなもの担がせるわけにはいかないからな」
 また、疲れる仕事が増えたが仕方が無い。怪我をしている人間に荷物運びをさせるほど、俺は冷たい人間じゃないからな。
 涼宮の表情が一瞬緩んだような気がしたが、すぐにいつもの不機嫌そうな表情に戻った。まったく、そんなんだから、クラスで野球大会のメンツに駆り出せるのが俺くらいになっちまうんだよ。もっと愛想よくしろ。
「で、佐々木も俺になんか荷物があるのか?」
 こうなりゃ一つも二つも同じだ。
「まぁ、確かにものを運んでもらうのを頼むといっても、そう大きな齟齬はないかな」
「何を乗せろっていうんだ?」
 佐々木は一呼吸置くと
「僕」
 と、あっさり一言のたもうた。

 妹が鶴屋さんの家に遊びに行ったおかげで、俺の自転車の後部シートは空いているので、誰かを乗せるのは問題ない。野球道具はなんとか前カゴに詰め込めるしな。しかし、しかし、だ――
「お前ら、いくらなんでもこれはアクロバティック過ぎないか……」
「大丈夫よ、ちゃんと前に進んでるじゃないの! あ、ちょっと今抜かれたわよ、キョン!」
 そりゃ、爺さんの運転する自転車にも抜かれるわ! というよりも、これは間違いなく道路交通法とかに違反しているんじゃないだろうか。確か二人乗りは法律か条例で禁止されていたはずだ。もっとも、三人乗りなんて摩訶不思議な事態を道路交通法様が考慮してくれているかどうかは知らないが。
 電車賃が浮いて助かるから自転車に乗せてくれ、という佐々木の依頼を俺は快く引き受けた。断る理由なんて何一つないからな。しかし、だ。そこで、予想外だったのが今まさに帰ろうしていた涼宮が、振り返ってのたもうたこの言動である。
「あんたたちどっち方面に帰るの?」
 どうやら涼宮の家も途中にあるらしく、
「ついでにあたしも乗せてってちょうだい」
 そして「涼宮の大丈夫いけるわよ」の一言により、荷台に佐々木が座り、涼宮が俺の後ろでボストン片手に立ち乗りという、雑技団顔負けの光景が繰り広げられることなったのである。
「お前なぁ。これだけの斤量を抱えて、走っているだけでも十分だと思え」
「何よ。あんた、全然野球の試合で役に立たなかったんだから、これくらいしてもバチは当たらないわよ」
 俺の肩に手を置いた涼宮は口を尖らしているが、声の調子は高揚してうれしそうだ。
 だが、まぁ、仕方がないと言えば仕方がない。全然俺が役に立たなかったのは事実だし、それに今俺が乗せている二人は間違いなく今日のMVPだからな。
「キョン、辛いようだったら僕が降りようか?」
「いや、大丈夫だ」
 これくらいやっとかないと、こいつらに明日以降頭が上がらない気がするしな。全くいいところを見せられなかったんだから、これぐらいは。
「お前ら二人はMVP候補だからな。これぐらいはやらせてもらうよ」
「MVP候補?」
 佐々木がその単語に食いついた。
「ちょっと、待ちたまえ、キョン。そのMVP『候補』という言葉は何か変ではないか? なぜわざわざ候補をつけるんだい?」
「あぁ、それな。涼宮と今日のMVPの話をしていて、お前と涼宮がMVPだ、って言ったら、MVPは一人だけだからどっちか一人を選びなさいってな。だから、候補。俺的には二人でもいいと思うんだが」
「いや、どんなスポーツにおいてもMVPに選ばれるのは常に一人だよ。……で、キミはどっちを選んだんだい?」
 佐々木の声のトーンが少し低くなる。こころなしか、俺の肩をつかむ涼宮の力も強くなっている気がする。
「だから、どっちも選べなかったって言ってるだろ。甲乙付けがたい」
「……そうか、キミらしいね。でも、キミが選べるのはたった一人だけだということは覚えておいてくれたまえ」
 お前も涼宮みたいなことを言うなよ。それに、俺にはどちらを選ぶべきかなんて本当にわからないんだ。

 じゃあ、明日また学校でね、と言って、颯爽と身を翻し歩き始めた涼宮の後姿を眺めた後、俺は佐々木を後に乗っけて家の近くまで送っていった。アクロバット乗りから、慣れた二人の乗りになって随分楽になった。
「キョン、僕はここでいいよ」
 そう、佐々木が言ったので、そこに自転車を停める。
「こんなところでいいのか?」
「うん。さすがに僕の家まで遠回りしてもらうのは申し訳ないしね」
 お前は涼宮と違って謙虚なもんだな。
「そうかい? そうでもないと思うが」
 なにやら意味ありげに笑う。なんだよ、全く。
「それはそうと、さっきの話だが」
「さっきの話?」
「あのMVPうんぬんの話さ」
 あぁ、そう言えばそんなことを話していたな。
「僕は自分では涼宮さんより一歩リードしていると思っている」
「それはまた、なんでだ?」
 佐々木がこういった自信を覗かせる発言をするのは非常に珍しい。こいつはたいてい自分を謙遜する。
「だって、僕は短い間だったけど、キミの女房役を努めたからね」
 なんだよ、それ――
 そう言おうとした俺の口をふさぐように、背伸びした佐々木の顔が近づいてくる。俺たちの唇は重なっていた。そして、佐々木は唇を離すと
「じゃあ、また明日学校でね、キョン」
 と、この日一番の輝くような笑顔を俺に向けた。
 佐々木はくるっと背を向けると、家の方角へと歩いていった。
 やれやれ。今日は本当に長い一日だった。明日からの学校生活が思いやられるのはなぜだろうな、まったく。
 そうため息をつきながら、公園のブランコを見る。そこは俺と佐々木が初めてキスをしたあの場所だった。
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