もしも

 散った桜の花びらに染まった道を歩きながら、大きく背を伸ばして息をした。五月のゴールデンウィークも終わり、いよいよ本格的に新年度になった気配に包まれる。六月には何も休日がないというのが、何か国家的な秘密組織の嫌がらせに感じられるね。
 今年は例年と比べて暖かいようで、まだ五月も始まったばかりだというのにもう半そでで歩きたいくらいの暑さだ。高く伸びた空に向かって、俺は大きく背伸びをしたまま手に持った鞄を背中にかけなおす。
 この早朝強制ハイキングも一年経つともうずいぶん慣れたもんであり、これはもはやありきたりの日常の一ページと化している。そのハイキングコースをえっちらおっちら踏破して、校門をくぐって、下駄箱から上履きを出して、教室に入る。この一連の作業もまた俺にとってはありきたりの光景だ。
 廊下の窓越しに陽気な太陽の光を浴びながら、教室のドアを開けるとまっすぐに目に入ってくるのが、教室の窓際マイ・ザ・セカンドベストポジションの後ろに鎮座する我らが団長、涼宮ハルヒ。俺の学校生活はいつも俺よりも先に教室に来ているこの涼宮ハルヒに挨拶をしてから始まる。
 そしてその日も、同じようにありきたりの学校生活が始まるはずだった――



「よぉ、ハルヒ」
 鞄を机に置いて、椅子に腰掛がてら後ろを向いて軽く挨拶をする。そう、いつも通りに。そして思えば、ここから全てがおかしかった。
 一瞬ハルヒは面食らったような表情で目を丸くした後、すぐに眼光するどく、唇を尖らせ、不機嫌極まった声でこうのたまった。
「何よ。なれなれしく声かけないでよ」
 今度は俺が面食らう番だ。いくらこいつが機嫌が悪くても、ここ最近はこんな対応を取られたことはない。
「何だよ、朝の挨拶しちゃ悪いのかよ」
 精一杯の皮肉を込めて言ってやった。
 まったく、機嫌が悪いのはかまわんが、朝から俺に八つ当たりするなよ。
 しかし、帰ってきた返答は俺の予想を大きく裏切るものだった。
「違うわよ。気安く名前で呼ぶなっていってんのよ」
 そう言って、ますます眼光鋭く俺をにらみつける。
 なんだよ、全く。それじゃ、まるで一年前みたいじゃないか――。さわらぬ神に祟りなし、だ。 今日一日はこいつのことは放っておこう。
「悪かったな」
 そう吐き捨てるようにつぶやいて俺は前を向き直った。
 そうは言っても、なんかこうやって相手にされないと、こう落ち着かないな。って、ちくしょう、ハルヒとの朝の会話がそこまで俺の日常生活に当たり前のように組み込まれていたのか。なんか、改めて驚愕の事実を押し付けられ愕然とする思いだ。
 そう嘆息しながら、この頃はまだのんびりと頬杖をつく余裕のあった俺に、本当の意味での驚愕の事実が突きつけられたのは、それから間もなくのことであった。

「おはよう、キョン」
「おう、おはよう」
 右隣から挨拶された俺は、何気なく挨拶を返した。しかし、挨拶を返した直後に不思議な違和感が残った。
 聞きなれたイントネーションだが、何かが違う。
 俺にそうやって挨拶するのは、国木田か谷口くらいなものだ。しかし、今の声はそれらよりも明らかに高い。そして、全くの初見ではなく、俺にとってはどこか聞き慣れた声。懐かしさよりも不安に襲われる。
 誰だ――
「どうしたのだい? そんなに目を丸くして。あぁ、ご心配なく。僕の風邪はもうほぼ完治したから大丈夫だよ」
 さっ――
「佐々木?」
 目の前にいた人物の姿を見て、そう俺は間の抜けた声を上げていた。

 隣の席では、佐々木が席について鞄をフックにかける動作をしていた。少し苦笑いに近い笑みを浮かべながら、
「そんなに僕が学校に来たのが不思議かい? しかし、キミには僕はインフルエンザでもなく、ただの風邪であるとちゃんと告げたと思うのだが。だとしたら、一般常識的に三日間の自宅療養は風邪の完治には十分なものであり、別段僕が今日登校していることに対してなんら驚愕すべき点はないと思うのだがね」
 そう苦笑いしながら俺に語りかけると、大丈夫だとでも言わんばかりに右手のひらをくるっとまわした。
 違う、そうじゃないんだ――。そうじゃない。
 なぜ、お前がここにいるんだっていうことだよ。

「すまない、キョン。質問の言質が僕には取れないのだが。これは一週間前の席替えで決まった僕の席順であり、キミもその場にいたはずだし、何よりそれから数日はこの席順で授業を受けていたと僕は記憶している」
 俺の言葉に佐々木はまるでおかしな人物を見るような目で、俺を見つめる。それでもまだ要領を得ない俺は口を半開きにしたまま佐々木を呆然と見つめる。
 そして、佐々木はふと気づいたように、俺の顔を覗き込んだ。よく光る二つの双眸が俺を見ている。
 違う、そんなことじゃない。俺が訊きたいのはそんなことじゃ――
 あぁ、目の前の景色がチリチリする。まるで、行き先のわからない電車に間違えて乗ってしまったみたいだ。
 俺は今どこにいる? そしてどこへ行こうとしている?
 そんな俺の表情を佐々木は見つめている。彼女の瞳の中に困惑する俺の姿が映る。
「大丈夫かい、キョン。ずいぶんと顔色が優れていないようだが。それに、その汗はあまりよくないものと見受けられる」
 心配そうな声で俺にそう優しく語り掛けてきた。
 なぜか、そんなことだが、少し落ち着くことが出来た。心臓の鼓動が少しずつゆっくりと収まるのを感じながら、俺は息を吐くように答えた。
「いや、なんでもない。なんでもないんだ」
 そのとき俺の頭の中にある記憶がよみがえっていた。俺はこれと似た経験をしている。
 あれは忘れもしない、十二月の話だ。現状は全く把握できないが、あの状況と酷似しているのは事実だ。
 そのときの教訓。こういう場合は無理に行動を起こさず周りに合わるほうがいい。でないと、得られる協力も得られなくなるかもしれんしな。
「すこし、暑さでぼーっとしてしまってるだけだ。大丈夫だ」
 そう精一杯の引きつり笑いを見せる。
「しかし、その汗の量は。熱があるのではないかい? まさか、僕の風邪が――」
 佐々木は心配そうに目を細めると俺の額に手を伸ばしてきた。
 反射的にその腕を掴んでしまう。リアルなやわらかい感触。温かい佐々木の腕。間違いない、これが夢である可能性は消えた。
「大丈夫。少し暖かくなったから、つい、走って学校に来てしまっただけだ。大丈夫だ」
 右手で佐々木を制し、もう席に着けとジェスチャーを送る。我ながらへったくそなウソだ。 佐々木は納得いかない表情で俺を見ていたが、始業のベルを聞くとおとなしく席に着いた。
「気分が悪くなったら、いつでも言ってくれたまえ」
 そう、言い残して。



 こういうときに授業があるのは幸いだ。誰にも話しかけられることなく、考えを巡らせられる。
 さぁここからはいったい何が起こっているのか、今自分がどこに、どのような世界にいるのか―― 、それを把握するのが第一だ。
 とはいっても、具体的にはどうすればいいのだろうか。ここで思い当たる人物の顔はただ一つ。やはりここで頼りになるのはあいつしかいない。文芸部の部室の椅子にずっと座りながら読書しっぱなしの、宇宙人製アンドロイド、長門有希。
 この状況を打破できる可能性があるのはあいつしかいない。『前のとき』も結果的にはあいつに助けられたんだ。
 よし、昼休みになり次第、文芸部室に行こう。そう、心に硬く決意を固めると、少し気分が楽になった。そうと決まれば、善は急げ、だ。後はさっさと授業が終わってしまうことを祈るだけ。そう思って、やっと黒板を見上げたとき、また奇妙な感覚にとらわれた。
 見たことがある――。俺は、この黒板に書かれている文字を見たことがある。違うんだよ、こうじゃない。昨日までの俺の記憶にある授業の内容はこれじゃない。違うんだ。だって、この授業は一年のときに受けたものじゃないか。ってことは、まさか――

 気がつけば、大学出たての女性英語教師がおびえるような目で俺を見ている。クラスメイトも全員だ。
「えっ」
 やばい、無意識に俺は立ち上がっていた。まずい、目立つような行動は避けると誓ったばかりなのに。
 どうする――
「すみません。彼は朝から気分が悪かったみたいなので、私保健室に連れて行ってきます」
 隣でガタンと誰かが立ち上がる音がした。そして、そう言うが早いか、俺の手は隣に座っていた女子に引かれていた。
「あっ、佐々木?」
「早く保健室に行こう。今日の君は明らかにおかしい」
 そう素っ気無く言いながらも、俺の手を引きずいずいと教室の出口へ向かっていく。佐々木はまっすぐに教室のドアへと進んでいく。
 この佐々木の細い体のどこにそんな力があるのだろうか。それとも、俺の体から力が抜けていたせいなのか。とにかく俺は佐々木に引かれるままに歩いていった。
 廊下に出る間際に、教室の中を振り返ってみた。クラスの全員が口をぽかーんとしていやがる。それはもちろん、ハルヒも含めて。



「なぁ、佐々木」
 佐々木に腕を引かれながら、俺は弱弱しい声でそう呼びかけた。
「なんだい、キョン」
 佐々木は振り返ることなく、短く切り返してきた。先を歩く佐々木の髪が歩くたびにサラサラとゆれている。
 間の抜けまくった質問だが、ここまでくればもうかまわないだろう。もう十分すぎるほど俺は変だと思われている。
「いったい今日は何年何月何日だ?」
 あぁ、もう恥ずかしかったさ。
 振り返った佐々木の目にはもはや憐れみすら浮かんでいた。そして、佐々木から告げられた日時はやはり俺の危惧していたとおりだった。ちょうど一年前、ハルヒの奴があの馬鹿げた団を結成した、あの五月に今俺はいる。

 普通の人間なら卒倒して、本当に熱が出てもおかしくない状況だったわけだが、いかんせん一年間でたらめ極まりない現実を送ってきた俺にはこの手の事件には耐性がついてしまっているようで、熱が出るなんてこともなく、平熱そのものだった。
「平熱です」
 デジタル体温計に表示されているのは三十六度五分。そう告げると、体温計を保健の先生に返した。
「熱はないみたいだけど、本当に大丈夫かい」
 俺のすぐ隣に立つ佐々木が心配そうに俺を覗き込んでいる。
 保健室に着いた時点で、もう大丈夫だから帰ってくれていい、と言ったのだが「心配だ」と言い張って佐々木は俺の検温に付き添っていた。そういえば、佐々木の不安そうな顔なんてほとんど見たことがなかったな。
 なんとなく佐々木に余計な心配を掛けてしまっている事にとても悪い気分になる。
「あぁ。少し、なんつうか疲れたというかしんどいけどな」
 出来うることなら、家に帰って布団でもかぶって現実逃避したい。あぁ、なんで俺ばかりこんな目に。
「今日は学校を早退するといい。キミの荷物は次の休み時間にここまで持ってくるから、それまで待っていてくれたまえ」
 佐々木は心底心配そうな声でそう言ってくれたが、悪いがそうはいかない。昼休みに文芸部室へ行くというのは、今の俺にとって何よりも重要な予定なのだ。一刻も早く、そうしなければ、本当に熱を出して寝込んでしまう。
「大丈夫だ。すこし、疲れているだけだから。少し休むだけで治る」
 佐々木は「キミの体調はキミが一番よくわかっているだろうし」としぶしぶ納得して教室に戻った。
 はぁ、しかし、今日俺は朝からいったい何回大丈夫と言ったのだか。その回数分だけ大丈夫ではないということだな。

 やることもないので、とりあえず保健室のベッドに横になる。
 ここで状況を整理しよう。今俺のいる世界と今まで俺のいた世界の違い。
 わかっている限りでは、ここは1年前の世界であり、前回とはちがってハルヒがどっか別のクラスにいるということもない。朝倉涼子はいないようだが、代わりに佐々木が俺の隣にいる。
 この程度か。くそ、状況を判断する材料が少なすぎる。早くこの現状を把握しないと。早く長門に会わないと――

 そんなことを考えているうちに気がつけば眠っていたようだった。誰かに揺り起こされて目が覚めた。保健室の先生だろうか。
 すいません、ついつい寝こけてしまい――
 って、目を開けるとそこには、懐かしい顔。ハルヒが俺を見下ろすように立っていた。
「やっと起きたわね」
「何の用だ?」
 ベッドの上で半身を起こす。ハルヒは腰に手を当てて仁王立ちで俺を見下ろしている。いつものあの輝かんばかりの笑顔――
 とまではいかないが、それでもガソリンを満タンに充填した光をその瞳は放っていた。これはまたなにかまたろくでもないことを思いつきやがったな。
「ねぇ、あんた」
 獲物を見つけたかのような笑顔。ただでさえいろいろと厄介なのに、これ以上何を引き起こそうっていうんだ。勘弁してくれ。
「今日のあんたの振る舞い、明らかにおかしいわ。そう、まるでこう異世界から迷い込んできたみたいに」
 得意満面な笑顔。唾を飛ばすな、まったく。あぁ、残念ながらそのとおりだよ。
「あたしの目はごまかせないわよ。あなたきっとなにか、不思議な目にあったわね。そう、たとえば宇宙人に誘拐されたとか、いきなり超能力に目覚めて混乱していたとか、実は自分は未来から来たということに気づいたとか!」
 宇宙人には誘拐されたというより、改変された世界に放り込まれたって感じだな、前回は。あと、それ以外はお前の身の回りの人物に訊いてくれ。
 百ワットの笑顔で俺を見つめるハルヒ。まるで、ヒーローショーでサインをねだられているような気分だ。
 ただ、着ぐるみの種明かしにはまだ早い。
「なんでそんなことに興味があるんだ」
 適当にすっとぼけてやる。ハルヒはそんな俺に構わずに目をきらきらと輝かせながら
「だってわがSOS団はそういった不思議を求めているんだから!」
 と両手を腰につけて、どうだと言わんばかりに大きな声を出した。
 あのなぁ。頼むから、保健室でそんな大声を出さないでくれ。ってSOS団?
「おい、ちょっと待て、SOS団? 今お前はそう言ったよな? あるのか、今この学校に?」
「何よ、知らないの? まぁ、ビラ配りは途中で邪魔されちゃったからね」
 両手を腰に当てたまま唇を尖らせて、思い出し憤慨をするハルヒ。
 ビラ配り。あのバニー姿でやったあれか。
「SOS団のメンバーはどうなっている? 長門や朝比奈さんや古泉もちゃんといるのか?」
「何よ、ちゃんと知ってるじゃないの、私たちのこと。だったら変なこと聞かないでよ。いや、でも変なほうがいいか」
 右手を顎に当てて考え込む仕草をするハルヒ。お前の価値観なんか知るか。
 そうか、SOS団のメンバーは同じなのか。なんとなくほっとした。
 いや待て。違う。そうだ、肝心なことがおかしい。そうだよ――
「なぁ、ハルヒ。俺はSOS団のメンバーじゃないのか?」
「はぁ?」
 目を丸くして固まるハルヒ。
 あぁ、また名前で呼んでしまったな。しかし、当のご本人様にはそんな些細なことはどうでもよかったらしく、
「やっぱりあんた何かおかしいわよ。何? 宇宙人が私たちの組織に送り込んできたスパイに改造でもされたの? 自分がSOS団メンバーだと洗脳するような手術を受けて!」
 ハルヒはきらきらとした目でベッドに両手を付いて、俺の顔を覗き込んだ。
 あぁ、改造ね。そうだったらよかったかもな。改造されるなら何か特殊な能力でも付けてほしいよ。憎らしいほど今は何も出来ない自分の平凡さが身にしみる。

「変わった組み合わせだね」
 そのとき入り口のほうから声がした。俺はハルヒの肩越しに、背を伸ばしてその人物の姿を見る。
 佐々木がこちらを見て立っていた。そして、心なしか少し声がとげとげしくないか?
「昼休みでお腹が空いただろうと思って、キミの鞄を持ってきたのだが、僕はお邪魔だったかな?」
「いや、別にそういうことはない」
「そうかい?」
 佐々木はゆっくりと俺のベッド、涼宮の反対側に来ると、手に持った鞄を俺に手渡した。
「本当はキミの昼食だけ持ってくればよかったんだろうが、人の鞄に許可なく手を突っ込むというのはモラルに欠ける行為に思えてね。鞄ごと持ってきたというわけだ」
「そうか、わざわざありがとう」
 昼休みか、長門のところへ行こうと思っていたんだが、この状況じゃ動けそうにないな。
 まぁ、長門がこの学校にいるということがわかったし、放課後でも問題あるまい。それだけでも少し安心した。
「涼宮さんは彼に何の用があったのかな?」
 今度は佐々木は改めてハルヒの方へ向き直り問いかけた。
「別に。大した話じゃないわ」
 ハルヒはくるっと背を翻すと、お得意の右手を払ってどうでもいいというポーズを取った。
「そう? 正直、あなたが彼の見舞いに来るなんて、意外だったから」
 見慣れたはずの佐々木の笑顔。しかし、なんだ、この背筋が凍るような恐怖感は。こう言葉尻に何か冷たいものを感じるのだが。
「ちょっと訊きたいことがあっただけよ。ほんじゃね」
 そう言うが早いか、ハルヒはその言葉を置いてサッと保健室から出て行った。
 そんなハルヒの後姿を見送った佐々木は改めてまた俺のほうへ向き直り
「涼宮さんとはどんな話をしていたんだい?」
 どんなって言われてもだな。
「俺の改造人間疑惑について」
 なんとも表現しがたい微妙な空気が漂う。そこで、佐々木は二秒ほど間をおいて、
「まったく、彼女は。本当にそういうのが好きだね」
 そして、あきれ返るようにため息をついた。

 せっかく佐々木が弁当を届けてくれたので、ありがたくそれを賞味させていただこう。腹が減っては戦ができぬと言うしな。しかしながら、保健室で弁当を食うというのも何か変な感じだ。そんなことを思いながら弁当を広げていると、佐々木が俺の隣にチョコンと座った。
「?」
 訝しがる俺の横で、佐々木は自分の弁当をベッドに備え付けのテーブルに置き、さらりと包みを解いた。
「ん? あぁ、一人で昼食では寂しいだろうと思ってね」
 俺の視線に気づいた少し悪戯っぽく笑うと佐々木はそう答えた。
 こいつが隣にいる昼飯は中学時代を思い出させる。実は気が滅入ってすこし食欲が失せていたのだが、佐々木が隣にいるおかげで気分が落ち着いた。なにはともあれ、こういうときに近くに人の存在をかんじられるのは安心できることだ。
「キミの様子がおかしいのを面白がってわざわざ保健室まで来るとは。まったく、なんとも形容しがたい人物だね、彼女は」
 と佐々木は独り言のようにしゃべりながら器用に箸を動かす。俺自身にとっては、ハルヒの奇矯な振る舞いはもう慣れてしまったことなので、今更なんとも思わないが。
「でも、彼女がクラスでまともに会話をするのは何の因果か、キミだけか。まったく、実にキミは人から好かれ―人に話しかけられやすい体質をしているよ」
 どうやらこっちの世界でもハルヒの奴と会話しているクラスメイトなんてものは俺くらいなものらしい。こっちの世界の俺もやっていることは大して変わらないみたいだ。
「しかし、涼宮さんではないが、今日のキミの振る舞いは実に奇妙だ。宇宙人に改造されたとは思わないまでも、まるで、こう白昼夢の中にいるようだよ」
 卵焼きを箸で口に運びながら、目だけを俺のほうへ向けて佐々木はそう言った。
「あまり気にしないでくれ。なんというか、こう……そういう気分だったんだ」
 気分の問題とは最低な言い訳だが、俺にはこの状況を一切の齟齬なく伝える語彙力はない。
「そうかい。まぁ、そうやって世界の見方を変えようとすることは悪くはないと思うが。ただ、もう少し、スマートな方法を取ってもらいたいものだね」
 佐々木のほうもそれに付いては取り立ててそれ以上突っ込んだことを聞くつもりはなかったらしく、喉の奥からくっくっと笑い声を上げた。
 この佐々木独特の笑い方を聞くのは随分久しぶりで、少し懐かしく感じる。もっとも、この世界にいる俺にとっては当たり前の日常なのだろうが。
「ところで、これからどうするのかね。顔色はずいぶんよくなったようだが。早退する? それとも教室に戻るかい?」
 佐々木は笑うのをやめて、真剣な眼差しで俺を射抜いた。
 昼休みの校庭の喧騒が俺を追い立てているような気がした。

 結局、俺は教室に戻った。
 正直、クラスの連中から向けられる奇異の視線は痛くて仕方なかったが、放課後文芸部室を訪問するという最優先課題があるため仕方がない。保健室でももうこれ以上寝かせてはくれないだろうしな。特に体のどこかが悪いわけでもないから。
 教室に戻った俺に谷口のアホがうれしそうに近づいてくる。
「お、うらやましいねえ。かわいい彼女が保健室まで連れて行ってくれて、あげくお弁当まで届けてくれるなんて」
「だって佐々木さんはわざわざ、もっとレベルが上の高校へ行けたのに、先生と両親の反対を押し切ってキョンにあわせて北高に来たくらいだからねー」
 谷口のアホに国木田が余計なフォローを入れる。
 うるさい。悪いが、お前にかまっている余裕はないんだ。
「あー、つれないぜ、キョン。俺も早く彼女作りてー」
 両手を挙げてあきれ返るようなしぐさをして谷口のアホは離れていった。国木田もなんともいえない笑みを浮かべながら谷口についていく。
 まったく。谷口、お前だけはいっぺんくらい性格を変えられろ。真面目な優等生の谷口君として俺の目の前に現れてみやがれ。そうだ、佐々木も何か言い返してやれ。
 そう佐々木のほうへアイコンタクトを送る、しかし、
「ん? まぁ、いつものことだ。気にする必要はないだろう」
 となんでもないようにあっさり笑い飛ばされてしまった。まぁ、確かにこんなことで今は神経を使っている場合ではないな。
 俺は席について、気がついたように後ろを振り返ってみる。やはり、あいつの姿はない。また、休み時間ぎりぎりまでどこかをほっつき歩いているのか。あいつだけは本当に変わらないな。
 そして、俺は椅子に深く背を預けて、胸の中の息を大きく吐いた。憎らしくらいに晴れた五月の空で、太陽がぎらぎらと照っていた。

 それから何のこともなく時間は過ぎて、六時間目の授業も滞りなく終わった。最後のHRを終えると、教室がざわめきだす。
 さてと、俺もこちらの世界での長門と朝比奈さんとついでに古泉の顔でも拝みに行くか。
 そう思って、立ち上がろうとした俺の背中を後ろから叩く奴がいた。涼宮ハルヒ。
 俺が振り返ると「わかっているでしょ?」と言わんばかりににやっと笑った。
 あぁ、わかっているよ。こっちだって一刻も早く助けを求めに文芸部室に行かねばないんでね。ただし、お前に助けを求めるわけではないけどな。
 それからハルヒは何かを言いかけたが、ちらりと右隣を見ると、左手を軽く上げてさっさと教室を出て行った。
 ハルヒの視線の先で佐々木がこちらの様子を見ていた。
「今まで短い挨拶を交わす程度の仲だっただけなのに、いつのまにか随分と親睦を深めたみたいではないか、キョン」
 そう皮肉に包まれた笑顔を俺に向ける。何が言いたいんだ、佐々木。そんな俺の心情を察したのか、その皮肉の色合いはすぐに和らぎ、
「さてと、それじゃあ帰ろうか、キョン」
 鞄を担ぎ上げた佐々木が俺の目を試すように見つめている。
「悪い。今日は寄るところがある」
 何かうまい嘘でもついてごまかしたいような衝動に駆られたが、別に佐々木相手に隠すようなやましいことをしているわけではない。けど、なんで佐々木に見つめられてこんなにうしろめたい気分になるんだ。
「わかった。では、また明日。じゃあね」
 数秒ほど間をおいて、佐々木はそう挨拶すると俺より先に教室を出て行った。俺はその後姿をぼんやりと見送る。なぜかこの小さなウソが、今日一番俺の心に重くのしかかった。



 歩きなれた旧校舎への道を歩く。むかつくくらいにいつもと同じだ。何も変わっていない。唯一俺を除いては。
 文芸部室の扉の前に立ち、ドアノブに手をかける。ゆっくりとドアノブを回しながら考える。
 おそらくハルヒがあの時言いかけた言葉は――
「やっぱり来たわね!」
ドアをあけるとハルヒが脳内核融合でも起こしているのではないか、と見間違わんばかりの笑顔で俺を出迎えた。俺は辟易したようにわざとらしく肩を落とした。
 本当に用があるのはお前じゃないんだけどな……
 それから部室内を見渡す。長門はいつもの位置で時間が止まったかのように読書中。メイド服姿の朝比奈さんが、「わ、お客さんですかー」とかわいらしい声を上げながら、ぱたぱたとお茶を入れる準備をしている。古泉の奴は目が合うとむかつくくらいにさわやかなスマイルで会釈をした。
 さて、果たしてこの部屋にいるメンバーがどれだけ俺の知っているSOS団なのか……。まずはそれを確かめないと始まらない。
「で、なに? わがSOS団にやってきたということは当然不思議なネタを持ってきたんでしょ? 宇宙人にさらわれた、実は自分が未来からやってきた未来人とか、自分の超能力に気づいたとか! さぁ、もったいぶらずに早く教えなさい」
 そんな俺の心情をとことんまでに無視してハルヒは満面の笑みの勢いそのままにまくし立てた。
 ハルヒ、お前にこんなことを言うだけ無駄だと思うが、敢えて言わせてもらう。空気を読んでくれ。それとついでに言うなら今の俺はお前のご注文の中では異世界人に近い。
 しかし――冷静に考えればこれはネタフリとして悪くない。そう、俺はこのSOS団の正体を確かめるんだ。
「さすが、ハルヒ。そうなんだ。俺がここへ来たのは、今朝自分の正体を知ってしまったからなんだ」
 俺の言葉にハルヒの瞳孔が獲物を見つけた猫のように広がる。心なしか古泉のスマイルが若干硬くなった気がする。
「実は俺は未来から送り込まれてきた未来人であるということに今朝気がついたんだ。そして――」
「そして?」
「何を隠そう、そこにいる朝比奈さんも俺と同じ未来からやってきた未来人だ」
 そのままサスペンスドラマの犯人を当てるように朝比奈さんを指差す。
 朝比奈さんは一瞬訳が分からないという風に目を丸くして俺を見つめていた。そして、お茶を入れようとポットに手をかけたまま朝比奈さんの表情がみるみる変わっていく。驚愕の度合いが臨界値を超えてしまったようで、震えながら今にも泣き出しそうな目で俺を見ている。
 古泉の野郎は一瞬険しい表情を見せたような気がしたが、すぐにいつものスマイルに戻った。不気味なくらいに安定したスマイルに。
 長門は――まぁ、今の長門の表情の変化を読み取るのは俺には無理な話だ。
 ハルヒの奴もぽかーんとしていやがる。さすがに俺が朝比奈さんが未来人だと言い出すのは予想外だったみたいだ。
 しかし、今の反応でわかった。
 古泉や長門にはカマをかけてもこっちの思惑には乗ってくれないだろう。だとすれば、この人しかいない。
 純真無垢なこの人を騙すような真似をするのは心が痛むが、仕方が無い。許してください、朝比奈さん。けど今ので大体わかりましたよ。さて、この微妙な空気をどうするか――

「なんていうのは、うそピョンだ」

 その瞬間世界が停止したかと思った。
 ハルヒの奴は開いた口からさらにもう一段階あごを落としたが、すぐに気を取り直し、
「ちょっと、なんなのよ、それ!」
 唇をすねたペリカン状にし、俺を鋭い目でにらみつける。明らかに怒っている。
「冗談だよ、ただの」
「私は忙しくて仕方が無いっていうのに、そんなしょうもない冗談を言いにわざわざ来たわけ? それによりにもよってからかうターゲットにみくるちゃんを選ぶなんて!」
 わざわざ俺の登場を待っていたお前のどこらへんがどう忙しいのか、四百字以内で説明してくれ。それに朝比奈さんを脅かすような真似をしたことには俺だって心を痛めているんだ。
「みくるちゃん! こんなアホにお茶なんて淹れる必要ないわよ!」
 ポットに手をかけたまま固まっていた朝比奈さんにハルヒの一喝が飛ぶ。朝比奈さんは正気に戻ったように、「は、はい」と返事をするとお盆を抱えて後ろに下がった。
「まったく、ほんっとくだらない。今朝からあれはこのしょうもない冗談の前フリだったわけ?」
 唇を突き出し、目を吊り上げ、拗ねまくるハルヒ。
 俺自身もこれが何かの冗談だったらどれだけうれしいことかね。
「あ、わかった!」
「……なにがわかったんだ?」
「ふふーん、そういうことね」
 拗ねていたかと思うと、そこから一転、ハルヒは不敵な笑みを浮かべてあごに手を当てていやがる。
「何だって言うんだ?」
「あんた、みくるちゃんとお近づきになりたくてあんなしょうもない冗談をいったんでしょ! あ、それとも有希かしら? あの子もちょっと変わってるけどマニアックなファンがいそうだわ!」
 おい、何、脳内妄想を繰り広げていやがる。邪推もいいとこだ。
「けど、あんたもねー、有希やみくるちゃんとお近づきになりたいっていうのはわかるけど、あんたにはちゃんとした彼女がいるでしょ? そういうモラルのない恋愛は団長として断じて許せないわ」
 腰に手を当てて、どうだ、と言わんばかりに俺を不遜ににらみつける。大岡越前にでもなったつもりか、お前は。しかし、今はそんな細かい突っ込みはどうでもいい。
「悪いが、俺には彼女なんていない」
「何言ってんの。あんたが佐々木さんと付き合っていることくらい私だって知っているのよ。それをすっとぼけてごまかそうなんていやらしい」
「それは誤解だ」
 そうだとも。この世界の俺が俺と同じなら、佐々木と付き合っていることはない。だって、佐々木は、俺にとっては友達でしかないからだ。中学時代と同じように。それはこの世界でも変わらないはずだ。
「何が、誤解よ。そうやってごまかせると思っているの? ちゃんと、佐々木さんっていう立派な彼女がいるくせに、それでみくるちゃんや有希に手を出そうっていうんだから、ほんっとあんたって最低。人間のクズね」
 なんでそこまで言われなくちゃいけない。
「だから違うって言っているだろ」
「しつこいわね。この期に及んでまだ言い逃れするの!」
 今朝から色々あったせいだろうか、ハルヒの軽蔑しきった目で見られた俺は一瞬で頭に血が上ってしまった。
「断じて違う! 別に俺は佐々木の事が好きなわけじゃない!」
 気がつけば自分でも信じられないくらいの大声で叫んでいた。その迫力にハルヒも思わずたじろいでしまうぐらいに。
 部室内に居心地の悪い静寂が訪れる。俺は握り締めた手の中で、どろりとした汗が湧いてくるのを感じていた。喉が不自然にカラカラと渇く。俺の吐く息は荒い。
 それから、この静寂を破ったのは意外な人物の声だった。

「それは何が違うって言う意味かな?」
 聞き慣れた声が俺の背後からした。まるでナイフを後ろから突き立てられたように、俺はあわてて振り返る。
 佐々木――
 佐々木が両手に鞄を持って、俺が開けっ放しにしたドアのところに立っていた。顔を伏せているせいで、表情は前髪に隠れて窺えない。
「佐々木……」
 俺はただその名前を呼ぶだけ。
「キミの事が心配で様子を見に来ただけで、盗み聞きするつもりはなかったのだけど」
 目を伏せたまま。深海に沈んでいくような錯覚すら与える重い声だ。
「キミがそこにいる女子たちを目当てで涼宮さんに近づいたことを否定しているのか、それとも僕と恋愛関係にあることを否定しているのかは僕にはわからない」
 少し間を置くと、佐々木はその大きな瞳で俺を捕らえた。何かを堪えるように大きく見開かれた瞳を。
「でも、もし後者を否定しようとしていたなら、確かに僕たちはそういう誤解を受けてきたわけで、それは僕も認めるところだ。けど――」
 佐々木の瞳に今まで見たことのない表情が浮かんでいた。
「けどね、そんなに力強く否定しなくてもいいじゃないか」
 空虚な笑み。胸が痛む。心に突き刺さる。返す言葉が見当たらない。俺はこのとき、どんな言葉をどう返せばよかったんだ?
 何も分からないまま、俺は立ち尽くすだけ。そして佐々木はそのまま身を翻すと、廊下を走って去っていった。うつむいたままのあいつの横顔は前髪に隠れて、その表情を窺うことはできなかった。

 俺はその場にアホみたいに突っ立っていた。完全に思考停止。気がつけば、元の世界に戻ることなんてどうでもよくなるくらいに。
「あたしさ」
 ハルヒが重たそうに口を開いた。
「最初はあんたをSOS団に誘おうと思っていたのよ。あの英語の時間に思いついたときに」
 顔をあさっての方向へ向けながら、ハルヒの独白が始まった。
「で、それからあんたを連れ出してやろうと思った瞬間に、佐々木さんがこっちを見ているのに気がついたの。なんていうか、こう、あたしまで切なくなるような目で。だから、結局わたしはあんたを誘わなかったのよ」
 そんなことは初耳だ。この世界での話だけれども。
「あんたは馬鹿みたいに鈍感だから気づいていないかもしれないけどね」
 お前にだけは言われたくない。
「後で佐々木さんに謝っといて。悪かったって」
「自分で言えよ」
「うるさいわね。わたしの言うことにはちゃんと従いなさい、キョン」
 この世界へ来て俺はハルヒにはじめて名前を呼ばれた。

 それから結局のところ、俺は長門に助けを求めるような気分にとてもなれず、そのまま部室を出た。
 佐々木はどこへ行ったんだろう。そのまま家へ帰ったのだろうか。
 気がつけば、ずっとそんなことばかりを考えていた。
「あの、キョンくん、でいいのかな」
 廊下を一人歩く俺を甘い声が呼び止めた。
「朝比奈さん」
 メイド服の上級生は肩で息をしている。わざわざ走って俺を追いかけてきてくれたみたいだ。
「あの、その、あの佐々木さんって女の子とはちゃんと仲直りしてくださいね。え、と、なんていうか、その……」
「わかっていますよ。俺もあいつとこのままなんていやですし」
 それは偽らざる俺の本心だ。
「はい」
 そうやって微笑みかける俺に応えるように、朝比奈さんも微笑んでくれた。
「あ! え、え~と。あのわたしが未来人っていうのは、その……」
 あぁ、そうか。あなたにとってはそっちが本題ですよね。
「あぁ、それですか。それはですね……」
「それは?」
「禁則事項です」
 そう言って、俺は人差し指を口に当てた。

 部室から校門までの道で佐々木らしき影を見ることはなかった。本来なら、走ってでも追いつくべきなのだろうが、今の俺にはあいつにかける言葉が思い当たらない。重たい足取りでそのまま帰路に着く。
 そうするとちょうど家の前くらいにたどり着いたとき、見覚えのある影が俺を待ち構えていた。
「よう。待たせたか?」
「まるで僕がここであなたを待っていることを知っていたような言い方ですね」
 そいつは爽やかスマイルのまま右手で髪をかき上げる。残念ながら慣れているんだよ、この俺の方はな。それにお前の行動なんてワンパターンだしな。
「で、俺に色々と聞きたいことがあると思うが、疲れてるんで手短に頼む、古泉」
「わかりました。まず、取り急ぎ僕が確認しなくてはならないのはあなたの正体です」
「ハルヒに近づく人間の身辺調査は『機関』とやらがやっているんじゃなかったのか?」
「よくご存知ですね。確かにあなたは我々の調査では涼宮さんと全く関係のない普通の人間、のはずでした」
「過去形ってことは何だ、今は違うっていうのか。たとえば能力を発揮する場所を限られた超能力者になってしまったとか」
 古泉は俺の言葉にふっふっ、と笑うと、
「いえ、あなたは僕たちの仲間ではありません。もちろん、我々のお仲間ということでしたら、こんなところで立ち話ではなくてもっと歓待したいところなのですがね。長門さんに確認をとったところ、あなたは未来から来たわけでもない、この時代のただの何の変哲もない普通の人間であるとのことでした」
 長門のお墨付きなら間違いないな。誰も文句は言えまい。
「そうか。んで、その何の変哲もない普通の人間の何がご不満だ?」
「だからこそです。あなたが我々『機関』や未来人、もしくはそれに対立するような組織と接触した形跡が全くない。にも拘らず、我々の正体について、ひいては涼宮ハルヒの能力についてもよくご存知のようだ。あなたはせいぜい涼宮さんがまだ少し好感を持っている程度の人物に過ぎない。朝の挨拶を交わす程度にね。それが我々には納得できないのです」
 まぁ、それらについては体験学習させていただいたしな。俺の元いた向こうの世界での話だが。
「実はそれは俺にも納得できない事態なんだ」
「と、いうと?」
「そうだな。俺はお前にとっては一年先の未来から来た異世界人といったところか」
 少し自虐的に笑う俺の表情に少しだけ古泉は目を見開いた。それから古泉は額に手を当ててあきれ返るようなしぐさをすると、
「一見冗談のように聞こえますが、けど納得はできる答えですね」
「そういうことだ。また、俺について新しい情報が入ったら教えてくれ」
「わかりました。特に問題もないようですし、今のところはあなたの説明を信じることにしましょう」
「ついでにもし会ったら、新川さんや、森さん、多丸兄弟にもよろしく言っといてくれ」
 本来この世界の俺ならあずかり知らぬはずの古泉の同僚の名前をわざと出した。古泉は前髪を軽く指ではねると、爽やかスマイルのままで、
「伝えておきましょう。では」
「あぁ、そうだ。一つ訊きたいんだが」
「なんでしょう?」
「佐々木は……いや、なんでもない」。
「あなたのお友達、でいいんですよね、あなたの言葉を信じるならば」
 その回りくどい表現は何が言いたいんだ、と思ったが、そこはぐっと言葉を呑む。これ以上余計な厄介事へと事態を引っ掻き回すわけにはいかない。
「彼女は普通の人間ですよ。それこそごくありきたりの」
「そうか」
 なぜか俺は少し安心した。この分だと、こっちの世界では橘京子や自称藤原が出てくる心配はなさそうだな。
「ええ」
 古泉はにこやかに相槌を打つ。
「そういえば、相変わらず不思議探索という名の市内散策はやっているのか?」
「ええ。涼宮さんの気が向けば」
「そうか。あいつは相変わらずくじ引きでグループ分けをしているのか?」
「いえ? 我々は四人一緒に行動していますよ」
「そうか」
 不思議なことを聞く、という顔で古泉は俺を見ていたが、俺は苦笑いをして軽く手を振るだけだった。
 俺がいなければ俺がいないで、やっぱりそれなりに少しは違いが出てくるもんなんだな。と、変なところで俺は納得していた。



 疲れ果てた。一日がここまで長く感じられるとは。
 家の玄関を開けると、一足先に家に帰っていた妹がうれしそうに駆け寄ってくる。
「キョンくん、おかえりー」
 ただいま。っていうかお前はこの世界でも俺をそう呼んでいるのだな。
「ご飯出来てるよー」
「わりぃ。今日は疲れているから少し部屋で休んでから食うよ」
 体が鉛のように重い。緊張感から解放されたせいだ。一気に疲れが襲ってきた。正直、妹の相手をする体力も精神力も残っていない。
「ふーん」
 特に何も考えることもなく妹はそのままくるりと回れ右して戻ろうとした。鼻歌なんか歌いながら、本当にお前は悩み事がなさそうでいいな、妹よ。
「ところで、お前」
「何?」
「佐々木って知っているか?」
 俺は何気なく、本当に何気なく質問してしまった。特に何か深い考えがあったわけではない。ただ、本当になぜか佐々木の名前が口を突いて出たのだった。
 何気なく聞いた質問の答えは意外なものだった。
「佐々木って? 佐々木のおねえちゃん? 当たり前だよー。よくうちに遊びに来るもん」
 妹の口からさも当然のように佐々木の名前が出た瞬間に、俺は背筋を伸ばして妹の顔を見た。突然の俺の行動に妹は「キョンくんなんか変だよ」と、不思議そうに首を傾げた。しかし、俺は妹の声を無視して質問を続ける。
「あいつはよくうちに来るのか?」
「うん。キョンくんの勉強が心配だからって、勉強を教えに。あと、キョンくんが問題集を解いている間暇だからって、たまにお母さんの晩御飯の用意も手伝ったりしてるよ。それでよく晩御飯も一緒に食べるの」
 中学時代の延長みたいだな。相変わらず俺はあいつに心配ばかりかけているのか。いや、それ以前にこれじゃ本当に付き合っているみたいじゃないか。
「お母さんがキョンくんのお嫁さんの心配はこれでいらないわーって喜んでいるよ」
 まだ、そんな馬鹿げたことを言っているのか、うちの母親は。
 俺は母親と佐々木が並んで台所に立って料理しているところを想像してみた。俺の文句などを言いながら、二人で笑いあって料理している姿を。それで、佐々木と一緒に晩飯を食っている俺の姿を。
「で、晩御飯を食べたら、キョンくんが佐々木のおねえちゃんを自転車でおうちまで送っていくのー」
 俺には知りうるはずもなかった。
 あいつがどんな顔で俺に勉強を教えてくれているのか。
 あいつがどんな顔で母親と一緒に晩飯の支度をしているのか。
 あいつがどんな顔で俺たちと食卓を共にしているのか。
 そのとき俺はあいつにどんな言葉をかけているんだ。
 自転車で送っていく間、あいつがどんな表情をしているんだ。
 俺たちはどんなことを話しているんだ――
 そう、俺には知りうるはずもなかった。今のこの「俺」には。

 暗いままの自分部屋のベッドに腰掛ける。どんよりとした暗闇が今は心地いい。このまま自分が誰からも見えなくなればいいとさえ思う。
 そして俺は一人、この暗い部屋で考えを巡らせていた。
 この世界は以前の場合とは違って、ほとんど全てが俺の知っている世界と同じだ。唯一の例外は佐々木――俺の中学校のクラスメイトが同じ教室にいることだけ。本当に、それだけだった。ただ、それだけで俺の世界は随分と違っていた。
 あの時、あの瞬間、俺の言葉を聞いた佐々木はどんな気持ちでいたのだろうか。今の俺には到底わからない。この世界でのあいつとの思い出を俺は何一つ共有していないのだから。悲しいくらいに。
 そう思った刹那、今朝の国木田の言葉が頭に浮かんだ。
――佐々木さんはキョンと一緒にいたいから北高に来た。
 確かに、国木田はそんなことを言っていたはずだ。その時は何のこともないいつものからかいと聞き流していたけれども、もしもそれが本当だとしたら。
 ベッドから跳ね上がり、俺は部屋の電気を点ける。そして、慌てて机の上の本棚をまさぐった。あった、俺のアルバム。俺はそれを机の上に置き、アルバムを開いた。
 ここにはあるはずなんだ。この「俺」の知らないもう一人の「俺」の記憶が。もう一人の「俺」が佐々木と一緒に歩んできた記憶が。
 アルバムをパラパラとめくっていく。中学の卒業式の写真――
 しかめっ面か笑っているのかよくわからない表情をしている俺の隣で、卒業証書を持った佐々木が笑っている。黒い筒を胸に大事そうに抱えて、控えめにピースサインをしながら、そしてあいつのこんなにいい笑顔、俺は見たことはなかった。
 次のページには、入学式。北高の制服を着た俺と、セーラー服姿の佐々木が桜並木を背景に写っていた。相変わらずの俺の横で、両手を後ろに組んで少し胸を張ったあいつは年相応に幼く見えた。
 なぁ、そんなに嬉しそうな顔をするんじゃねえよ――
 胸が締め付けられる。俺のいた世界で、佐々木が県外の私立高校へ行くと告げたとき、あいつは本当は何を思っていたのだろうか。
 そういえば俺は俺のいた世界であいつがどんな制服を着ていたのかすら知らなかった。こんな風にして中学の卒業式で一緒に写真をとった記憶すらもない。俺と佐々木は本当にそれっきりだった。本当にそれっきりだったんだ。つい最近再び出会うまでは。
 机の上に無造作に置かれたホッチキスで留められたレポート用紙の束が目に入った。見覚えのある字で、表紙に『中間テスト対策』と書いてある。ぱらぱらとめくるとテストに出そうな問題と、そのチェックポイントを丁寧に色ペンで書き込んであった。
 なぁ、お前はどんな表情で俺にこれを渡してくれたんだ? いつもの悪戯っぽい笑顔を浮かべながらか? それとも、もっと真剣な表情で俺を心配するようにか? わからない。知らないんだよ、俺は。そんなことさえも。
 お前がどんな気持ちで、どれだけの想いで、俺と同じ高校を選んで、俺なんかの面倒を見てくれたかなんて、まるで知らないっていうのに。お前が教えてくれた勉強も、お前の作ってくれた晩飯の味も知らないんだよ、この俺は――

 ベッドの上にうなだれるように倒れこむ。蛍光灯が憎らしいくらいに白い光を放っている。
 もしも、この世界にいる俺と今の俺が入れ替わってしまったっていうなら、早く元いた場所に帰らないといけない。それは俺自身のためにも、この世界の俺のためにも、そして佐々木のためにも。
 携帯電話を開く。無機質なディスプレイの灯りがぼんやりと光る。俺の予想が正しければ、そこにあいつの番号があるはずだ。電話帳の中身を確認する。そこにハルヒや朝比奈さんや古泉の番号は登録されていない。
 長門の家には電話はつながるだろうか。――いや、今は長門を頼るべきではない。
 俺が今やるべきことを俺自身がやらなくてはいけない。誰かに頼るわけにはいかない。
 携帯の着信履歴を開く。携帯のディスプレイは佐々木の番号を表示している。俺はここに電話をかけなくてはならない。けど、コールボタンを押す勇気が俺には出なかった。
 俺はあいつの知っている俺とは違う。俺は、この世界の俺があいつとつくってきた思い出を何も知らない。俺にはないんだ。本当に大切なものが。あいつとのつながりが。
 そんな俺が会ってどうするっていうんだ。どうしたらいいんだ。

 握り締めた携帯を見つめる。そこで俺はあることを思いついた。漠然とした期待と不安が頭をよぎる。受信メールボックス。扱いなれた自分の携帯のはずなのに、なんでこんなにも後ろめたさと緊張を覚えるのだろうか。俺は自虐的に笑いながら、震える指で携帯のボタンを押す。そこに昨日届いた佐々木からのメールが入っていた。

From: 佐々木携帯 
Subject: Re:風邪
風邪は大丈夫。インフルエンザではないようです。だ
いぶ楽になってきたから明日には学校に行けると思い
ます。キミの家を訪問した夜に熱が出たので、キミに
も風邪がうつっていないかが心配です。まだ夜は冷え
るから体には気をつけて。じゃあ、明日学校で。

 馬鹿野郎。自分が風邪引いているくせに、俺の心配なんかすんなよ――。俺はお前との思い出なんて何も知らないのに。
 携帯を持つ手が震える。携帯のディスプレイに表示された文字が滲む。俺はそのまま携帯を握った手をゆっくりとベッドに落とす。
 今日の部室での俺の言葉をあいつはどんな気持ちで聞いていたんだろうか。俺のあの言葉はあいつをどれだけ傷つけたんだろうか。
 もしも、俺が元の世界に帰れなかったとしても、せめてあのときのあの言葉だけは取り消させてくれ。なぁ、悪戯好きの神様――

 コール音が五回ほど鳴る。ガチャ、と静かに電話のつながった音がした。
 受話器越しに聞こえる沈黙。
「佐々木、か……?」
 重たい口を開いた。この沈黙がどうしようもなく痛い。携帯を握る手に汗で滑る感触がする。しっかり捕まえていないと、そのまま落としてしまいそうだ。俺は何度も唾を飲み込む。
「あぁ」
 一呼吸置いて短くそう切り替えされた。素っ気無い言葉からは、まだ佐々木の表情は窺えない。
「佐々木、少し話をしたいことがあるんだ。今からでも、その、会って話せないか。電話じゃなくて、お前と直接話がしたいんだ」
 また、沈黙。勘弁してくれ、この無言の時間にまるで心が削られるようだ。
 頼む。俺は直接お前と会って、話がしたいんだ。話をしなければならないんだ。
「もう、夜七時を過ぎるところなのだが」
「非常識なのは十分承知だ。それについては俺も謝る。けど、俺はお前と今すぐ話さなきゃならない。話が……したい」
 俺の一人きりの部屋で俺の呼吸音だけが聞こえる。重苦しい空気をまとわりつかせて、俺は息を潜めながら答えを待つ。
「わかった。君の家の近くの角のコンビニと言えばわかるだろうか。そこで、待ち合わせよう」
 佐々木の声は最後まで無機質に響いて、俺はただその言葉が終わった後もしばらく携帯を耳に当てたままでいた。



「キョンくんご飯はー?」
「悪い、急用が入った。少し出てくる」
 玄関から飛び出そうとした俺の後ろから不思議そうに尋ねてきた妹にそう告げて、俺は家を飛び出した。
 自転車にまたがり指定の待ち合わせ場所に向かう。五月の夜の空気は少し肌寒かった。それでも俺は風を切るように走る。少しでも立ち止まろうとすると、もう前へ進む勇気をなくしてしまいそうな恐怖に駆られる。
 佐々木の指定した場所。コンビニの明かり。無機質に清潔な店内は、まるで俺を拒絶しているような気がした。俺はそのまま駐輪場で待つことにした。
 辺りを見回してみる。佐々木はまだ来ていないようだ。
 夜の冷たい風を浴びながら、自分の腹が鳴る音を聞く。結局、晩飯を食い損ねたな。……そういえば佐々木の作った晩飯ってどんな味がするんだろうな。
 この世界の俺が少しうらやましく思えた。
 俺にもこんな風になっていた可能性があったのか。この世界の俺は佐々木のことをどう思っていたんだろうか。
 自転車のハンドルを握る。俺が、佐々木を後ろに乗せていた自転車だ。
 もしも、あのときのまま自転車の後ろに佐々木をずっと乗せていたとしたら、俺たちの関係も変わっていったのだろうか。

「やぁ、キョン」
 背後から声がした。振り返ると、普段より少しだけ遠い距離に佐々木は立っていた。
「佐々木、すまないな。こんな夜中に呼び出してしまって」
「……こんなところで立ち話もなんだし、場所を移さないか」
 そのまま佐々木はくるりと身を翻すと「近くに公園がある」、と言って先に歩きはじめた。俺は自転車を押しながら、その後をゆっくりと歩く。
 後を追う俺の足取りは少し重い。不安と期待と緊張とが俺の足にまとわりつく。
 前を歩く佐々木の背中を見つめながら、俺は自分の中で佐々木の存在が大きく変わっていることを改めて、認識していた。
 この微妙な距離がもどかしい。でも、触れられない。
 あのころ佐々木は俺の自転車の後ろでずっと何を思っていたのだろう。

 住宅街にある小さな公園。
 俺たちは何気なくブランコに腰掛けた。佐々木は小さくブランコを揺らしている。
 その振動にあわせて揺れる前髪の奥の瞳は、ただ静かに地面を見ていた。その唇、透き通るような白い頬、そしてその瞳に思わず見とれてしまう。
 俺の視線に気づいたのか、俺のほうをちらりと見た佐々木と目が合ってしまった。俺はなぜか目を逸らしてしまう。
 そうだ。何か話さないと――
「その、今日はいろいろすまなかった」
 佐々木は再び視線を地面に落とす。
「いろいろって?」
「朝からお前の世話になったこと。そして、今日の放課後のこと」
 沈黙が広がる。佐々木のブランコを揺らす音が止まる。
「僕の方こそ取り乱してしまってすまない」
「それとあのメール、心配してくれてありがとうな」
「当然の事だよ。僕にとっては」
 ぼそりと呟くように佐々木は言う。街灯と月明かりが俺たちを照らしている。
 伝える言葉、到底信じてもらえると思えなくても、俺は正しい事実を伝えなくてはならない。
「すまなかった。本当にすまなかった」
「構わないよ。キミの本心は、キミの本心だ。僕に遠慮すべきことではない」
 違う、違うんだ、佐々木。俺が伝えたいことは違う。
「佐々木、お前はなんで俺に中間テストの対策問題集を作ってくれたんだ? 俺が頼んだのか? それともお前が気を回してくれたのか?」
「え?」
 佐々木は唐突に切り出した俺の話の意味が分からないという風に、俺の顔を振り返った。
「佐々木、お前の得意な料理ってなんだ? 高校の入学式で俺たち二人が一緒に写った写真があるよな。あの写真って誰に撮ってもらったんだ? 俺はお前の料理を食ってどんな感想を言った? 俺はお前に勉強を教えてもらう間どんな表情をしている? 俺はお前のことを――」
 そう、俺はこの世界の俺は本当はお前のことを――
「……キョン?」
「わからない。いや、違う。知らないんだ。俺は。この俺は」
 俺はうなだれるように、両手で顔を隠す。そんな俺を佐々木は沈黙したまま俺を見つめる。
「なぁ、佐々木。もしも――もしも俺がお前の知らない世界から来た全くの別人の俺だって言ったらどうする? 違う未来、俺とお前が同じ高校に行かなかった未来、俺とお前が離れ離れになった未来から」
 一瞬の間があった。全てを吐き出した俺は、静かにその答えを待つ。
「――納得は出来る、けど理解は出来ないというところかな」
「鼻で笑われるかと思ったよ」
「キミは鈍感だけれども誠実だからね。僕はキミの言葉を疑ったことはない」
 佐々木が俺の肩に手を置いた。俺はゆっくりと顔を上げる。そこには佐々木の笑顔があった。明るいやわらかい光のような柔和な笑顔。
「それに、僕はキミと話していて、いや、キミと一緒にいて楽しいから。ちゃんと僕にはわかるよ。だから、僕にとってどこの世界から来たキョンでも、キョンだよ」
 佐々木の一言で救われた気がした。佐々木はこの世界でも俺を見つけてくれた。
 そうだった、俺は俺なんだ。

「馬鹿馬鹿しいことを訊いてすまなかったな。なんか、おかげで安心できたよ」
「そうかい。なら、僕も別世界から来たキミに、お返しに馬鹿馬鹿しいことを訊いてもいいかな」
 佐々木の瞳の中に、やわらかく俺が捕らわれる。その白い喉元の呼吸が少し荒くなった気がした。
 俺はその瞳に吸い込まれるように、ただ静かに向き合う。
「もしも――もしも、僕が本当にキミの彼女になりたい、と言ったらキミはどうする?」
「――もしも、もしも俺がイエスと答えたらお前はどうする?」
 佐々木は喉の奥でくっくっと笑い声を上げた。
「……その答えが返ってくるとは思っていなかったから、何も考えていなかったな」
「じゃあ、今すぐ考えてくれ」
 くしゃくしゃの佐々木の顔。笑っているのか、泣いているのか、はっきりしてくれよ。
「佐々木、俺の彼女になってくれないか」
 今度は「もしも」は付けない。
 佐々木は頷くように頭を下げると、そのまま俺に額を押し付けるようにもたれかかってきた。
 俺は佐々木を倒れないように抱きしめる。
 本当に、こんな小さな距離だったんだ――俺と佐々木の間は。こんなにも近くに佐々木はずっと――そう、ずっと俺のそばにいたんだ。
 佐々木の体温が伝わってくる。
「ずっと好きだった」
 佐々木の言葉。触れ合った身体から伝わってくる鼓動が、まるで歌を歌うように俺の体の中に広がる。俺はそのまま子守唄に包まれるように、ただただ抱きしめているだけだった。
「キミのことが、ずっと」

 どれくらいの時間そうしていたのか、俺にはわからないが、やがて佐々木は顔を上げた。
 この間、必死に泣き止もうとしていたんだろう。泣きはらした目で俺を見る。
「こんな顔を見られるのはいやだけど、こうしないと君の顔が見えないからね」
 佐々木ははにかむように笑いながら、目じりを右手で拭った。
 平穏で優しい空間。
 俺は答える代わりに、あいつの唇に自分の唇を近づけた。
 俺には抗うことも出来るはずもなく。ただ衝動の突き動かすままに。そう、ただどうしようもなく。
 いっそこのまま深海にでも沈んでしまえばいい。そう思う。もしも、そこに俺たちしかいないのなら――それでいい。

 そして、突然に、一瞬にして方向感覚がなくなる。気がつけば地面に背中が当たっていた。
 そして、俺は目をゆっくりと開けた。目に映るのは見慣れた俺の部屋の天井。
 わかっている、わかっているよ。それが夢だったってことくらい。
 時刻は午前二時を指していた。カレンダーを見る。今日はあれから一年後の日付。
 帰ってきた、みたいだな。俺は、俺の別の未来から。
 ただ、俺の流した涙の跡だけは、はっきりと残っていた。
 俺はゆっくりと床に手をついて身体を起こした。それから、机へと向かって歩く。そして、アルバムを開いてみる。そこにはあの写真はなかった。
 また、現実という名の夢を見ていたんだな。そして、俺は一体誰の夢を見ていたのだろう。ほんの少しだけ掛け違えたボタン。
「人の夢と書いて儚いというんだよ、キョン」
 そういえば、いつかお前は笑いながら俺にそう言ったことがあったよな。
 そして俺は静かにアルバムを閉じた。
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