セレモニー
彼女は、一人ぼっちになった。
十二月。寒い日。師走はどうやら犯罪や事故が増える傾向にあるらしく、歳末警戒のためにあちこちにちらほらと警察官の姿が見える中、俺は一人白い息を吐きながら、寺町通りの電気街を歩いていたことを覚えている。
何のために電気街を歩いていたか。そんなことは忘れてしまった。多分、トイレの電球でも買いに学校帰りに寄っていたんだろう。本当なら、その日は何事もなく、俺は電球だけを買って家に帰っているはずだった。
本当に何気なくだった。特に理由もなく、俺は電気屋の表に出ていた液晶テレビにふと目を留めたのだった。やけに輝度の高いディスプレイの中で、男のアナウンサーが何か紙を片手に読んでいた。ちょうど六時のニュース。本当に、今となっても、なんで俺はそんなものを足を止めて、真剣に見ていたのかわからない。
テレビの中で、仰々しいテロップが踊っていた。カップ麺を食べようとした一人暮らしの老人が、火をつけたコンロをひっくり返して焼死したニュース。銀行から出てきたところをバイクに乗った引ったくりに襲われて、三百万円を奪われた中年女性。アナウンサーが無機質に一つ一つの原稿を読み上げては、次の事件へとベルトコンベヤーの流れ作業のようにニュースを進めていった。
かわいそうだな。
恐ろしい世の中だ。
俺はどうでもいいような小さな感想を心の中で浮かべて、そのたびにニュースは頭の中で飲み込まれて消えていった。テレビの中の出来事は、ただそれだけの、俺には関係のない世界の出来事だった。
その日は寒い日だった。毎日の代わり映えしないニュースに飽きた俺は、ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んで、明るすぎる液晶テレビの前を去ろうとした。身を翻して一歩を踏み出そうとしたとき、耳に懐かしい響きの言葉が飛び込んできた。それは俺の、実家のある街の名前だった。
「――で、車に乗ってドライブ中の夫婦が自動車事故に巻き込まれ死亡する事件がありました」
俺は足を止めた。ふらりと、本当に、そのときは何のことかよくわからないままに、テレビの画面に視線を戻した。画面の右下に事故に遭ったと思われるバンパーがぐしゃぐしゃに潰れたワゴン車の写真が映っていた。それが、俺のいた街で、起こったこと。
アナウンサーは無機質に言葉を続けた。
「事故は佐々木さん夫婦の乗っていた車に、対向車線からはみ出したトラックが正面衝突したもので、警察はトラック運転手の――」
まともにニュースの声が聞こえたのは、そこまでだった。
俺の視線はテレビ画面の下に、白い文字で映った人の名前と、括弧で括られたその人が生きてこれた時間だけに、釘付けになっていた。
まさか。そうだ。別に珍しい苗字なんかじゃない。そんなに大きな都市ではなくても、人口五十万人弱の都市で、そんなことが――ただの偶然だ。
何度も、自分にそう言い聞かせた。でも、俺はあいつの両親の名前は知らない。胸の中で、どす黒い雨雲のように不安が広がっていった。
アナウンサーはそんな俺を置いて、もう次のニュースへと移っていた。まるで、これでもうこの事件は全て終わった、とでも言わんばかりに。きっと、このニュースを見ていたほとんどの人も、この瞬間に忘れてしまうのだろう。
みんなが忘れしまう世界から一人取り残された俺は、ただぼんやりと突っ立っていた。おもむろにポケットから携帯電話を取り出した。履歴の一番目、ディスプレイを見ることなく、俺は通話ボタンを押した。
呼び出し音が妙に遠くに響いて、待ち時間はなぜか長く感じられて、早く出て欲しいと思ったし、このままずっと待ち時間であればいいとも思った。
プツッという音の後、遅れて「はい」という聞き慣れた声が聞こえた。
彼女は、あっけないほどに、簡単に、一人ぼっちになっていた。
*
そのまま、俺は下宿に戻ることなく、慌てて電車に乗り込んだ。なにか、あいつのために出来ることの当てがあったわけではない。それでもただ今までと同じ日常生活を、当たり前に下宿に帰って、当たり前に飯を食いながらテレビを見て、当たり前に布団に入って寝るということを、どうしても出来なかっただけだ。どこかで、間違いなく何かが壊れてしまっていたから。
大学と俺の実家とはそんなに離れているわけではない。私鉄を乗り継いで、大体二時間強。ただ、さすがにそれだけの距離を毎日通うのはしんどいので、俺は下宿しているわけだ。
仕事帰りのサラリーマンでごった返す車内で、つり革にもたれながら、あいつにメールをしようと考えた。でも、文面がなにも思い浮かばなかった。こんなときに、一体俺は何を伝えたらいいんだ? どうしようもなく、俺は何もわからなくて、目の前の暗い景色の上に、ただどうしようもなさそうな俺の顔だけが重なっていた。
頭の中がぼんやりする。頭の中で、何かしなくてはいけないということはわかっている。でも、感情は付いていかない。あまりにも視線の先はぼんやりとしすぎていて、現実感がない。
ただ目の前の景色が過ぎていって、ただ少しずつ俺の体はあの街に近づいていって、そして俺は何も出来ないまま、ただここにいる。二十一歳。もう大人になったはずの俺は、どうしていいかもわからないまま、ただ現実を目の前にしてぼんやりとしているだけ。
*
午後十時の冬空の下に何も出来ない男がやって来た。
たどり着いたあいつの家に、灯りは付いていなかった。まだ戻っていないのだろうか。そう思った俺は、一人あいつの家の玄関に背中を預けて待つことにした。そして、二十分ぐらい立った頃、目の前に一台のタクシーが止まった。
「よお」
俺はポケットに手を突っ込んだまま、タクシーからぼんやりとした影のように降りてきたあいつに声を掛けた。
「……わざわざ来てくれたのかい」
俺のほうを振り向かないまま、佐々木は口の中で言葉をすりつぶすように答えた。
「あぁ」
その様子に俺はたじろいだ。どうでもいいため息のような言葉しか出ない。
「そうか。ありがとう。でも、悪いけれども、これから色々と打ち合わせしないといけないことがあるんだ」
「そう、か」
「ごめん」
佐々木は俺とは目をあわさないまま、早口にそう言い捨てると、玄関に向かって歩き始めた。
「かまわないさ。それよりも、その……」
俺はそんな佐々木の背中に追いすがるように言葉を掛けていた。しかし、その続きが口から出てこない。ただ、ただあいつが目の前にちゃんとしっかりと存在していることだけを、確認したい。それだけ。それだけで――
「なんでもない。その……元気出せ、よ」
口から出たのは最低のどうでもいいセリフだった。そんな空っぽの言葉、あいつに届く前にこの暗闇に飲み込まれて消えてしまう。もっと、もっとあいつをしっかりとつなぎとめて、支えてやれる言葉が、必要なんだ。必要なのに、俺は、何も言えない。
「そうだね」
その一言だけを残像のように残して、佐々木の姿はドアの向こうに消えた。
佐々木の後から出てきた、タクシーの清算を終えた中年男が不思議そうに俺の姿をちらりと見ると、何も言わずに玄関に入っていった。おそらくは、あいつの親戚なんだろう。そして、目の前にタクシーがもう一台止まって、また一組の夫婦らしき人が佐々木の家に入って行く。
その姿を遠い世界の出来事のように見ながら、俺は佐々木と俺を繋いでいる絶対的なものなんて存在しないことを思い知った。遠い。今、何かが俺と佐々木の間に入っただけで、永遠に離れてしまうような気がした。
目の前を一匹の野良猫が歩いていた。そいつは俺を見るとにゃあと鳴いて、そこに何もないかのように、堂々と通り過ぎていった。
*
『今から家に帰る。』
『ごはんは?』
『食べる。』
携帯のメールで母親と短いやり取りをしてから、俺は実家に帰ることにした。
佐々木の家と俺の家は同じ街にあるとはいえ、徒歩だと三十分くらい離れている。夜の住宅街はほとんど人なんて歩いていなくて、俺は暗い道を一人とぼとぼと歩いた。肌に突き刺さるように、辺りの空気は冷たい。そして、何事もなかったかのように、辺りは静まり返っている。
歩きながら、俺は無意識のうちに遠回りをしていた。いつも、佐々木と通った道を避けていた。
「おかえり」
「ただいま」
玄関の鍵を開けると、家の奥から母親の声が飛んできた。ほどなくして、スリッパを鳴らしながら俺を出迎えに玄関まで出てきた。
「あんたも、知ってるの?」
少し言いよどむような母親の一言で、大体の事情を察した。俺は無言のまま頷く。
「そう」
「……テレビのニュースで、知った」
俺は小さな声で無愛想にそうとだけ告げると、靴を脱いで玄関に上がった。
「……大変よね」
「あぁ。妹の奴は?」
「やっぱりショックだったみたいで、部屋に行ったっきり」
母親がため息を付くように言う。
妹も、もう高校生だ。大体、それがどれほどの意味を持つかもわかるだろうし、それにちょくちょく家に遊びに来ていた佐々木とも仲がよかった。俺たちが下宿を始める三年前には、おねーさん、なんて呼んでずいぶん懐いていたいたもんな。あいつ、実の兄はあだ名で呼ぶくせに。
その瞬間、急に目の奥が熱くなった。頭の中で、妹と遊んでいたあいつの姿がいやおうなしに浮かぶ。
うちの出来の悪い妹は、この出来の悪い兄が信頼できないみたいで、宿題を俺が教えてやると、わざわざあとでその答えを佐々木に確認しに入って行った。妹が中学生になって思春期に入りかけた頃には、面と向かって「おねーちゃんは、こんなののどこがよかったの?」と俺の目の前で訊かれたこともあったな。
そして、いつだったか、あいつが小さな紙の箱を持って、遊びに来たことがあった。あいつはちょっと照れくさそうに笑いながら「これは、母から。いつもお世話になっているからってね」と言い訳みたいに言いながら、箱を開けた。中身は手作りのチーズケーキだった。
――とてもうまかった。俺は、まだ、その味を覚えている。
「ごめん。俺もちょっと部屋に戻るわ」
俺は母親から身を逸らすと、二階へ上がる階段へ向かった。
「晩御飯は?」
「落ち着いたら、食うよ」
「……ラップ掛けて電子レンジに入れておくから、温めて食べなさい」
俺は頷くと階段を上り始めた。
「また、お通夜とお葬式の時間が決まったら、教えてあげるから」
俺は何の反応もせず、立ち止まるだけだった。そんな言葉、聞きたくなかった。でも、行かないわけにはいかなかった。
「喪服も一応確認しておきなさい。もう高校生じゃないんだから、ちゃんとしたのを着ないと」
俺はその言葉から逃げるように、階段を駆け上がる。そんなものを、わざわざ見たくなかった。何も考えたくなかった。時間が止まったように、ただ何もしないでいたかった。
自分の周りの空気がどんよりと重くて、静かなのを感じる。それは、全身をくまなく締め付けるように、俺を静かに押さえ込む。ゆっくりと、底へ、より深く。深く、沈んで行く。
*
夜は暗い。深い黒と静寂が俺の部屋を包んでいる。
忙しい一日を過ごした身体は疲労を訴えている。両肩に重りが載っているような、だるさがある。歩き回った足が随分とくたびれている。それでも、目を閉じても、意識は闇の中には落ちていかない。
ベッドに寝転がったまま、俺は天井を見つめている。目も、随分と暗闇に慣れてしまった。布団の中に入った身体に、じんわりと汗の粒が湧いてくるのを感じる。
――なんで、夜なんてものがこの世にはあるのだろう?
暗闇も、静寂も俺に逃げ場所を作ってくれない。俺はこの小さな部屋でただ一人、抗うことも出来ず、今日の記憶だけが壊れたレコーダーのように繰り返し再生され続ける。 現実じゃない気がする。今でも、それが夢であるように思える。
もしかして、明日になれば、俺は何事もなかったかのように下宿で目覚めていて、底冷えする京都に辟易しながら服を着替えて、歯を磨いて、バイトに行って、
『また晩御飯を作りすぎてしまったので、よろしく。』
そうやって毎日のように料理を作りすぎるメールを携帯で確認して、佐々木の下宿に顔を出すんだ。
当たり前の日常だったんだ。つい、ほんの十二時間前まで、目の前の時計が午後二時を指していたなら、俺は普通の当たり前の日常にいたんだ。
突然ちょん切られたように、俺はふらついたままで、目の前にある暗闇の底は見えなくて、俺は一人、怯えている。
*
半分意識を失うようにして、朝を迎えた。少しずつ俺に部屋を照らす朝日を確認してから、俺は少しだけ眠った。
意識を抜けばふらつきそうな頭を抱えながら、俺は一階に降りる。親父も妹も、もう出て行った後だった。俺は母親に「おはよう」と言うと、冷蔵庫を開けて牛乳のパックを掴み取り、ゆっくりとコップに注ぐ。
「眠れた?」
「……あんまり」
母親の話に適当な相槌を返しながら、ゆらゆら揺れる白い牛乳を胃に流し込む。冷え切った牛乳がキュウと寝不足の胃を締め上げた。母親はそれ以上何も言わず、台所で朝の洗物を続けている。
時計を見た。午前九時半。眠っていたのはせいぜい二、三時間程度か。
習慣で、ほとんど無意識にテーブルの上にあった新聞を手に取る。何気なくテレビ欄の次に開いた面に出てきた文字は、あの事故の記事。
反射的に払いのけるように、新聞の面を閉じた。怖かった。改めて、その現実を突きつけられることが。けれども――
俺は新聞に手を置いたまま深呼吸する。逃げても何にもならない。目を逸らしたって、何も変わらない。向かい合わなくてはならない。きっと、俺よりもあいつのほうが辛いはずだから、だから、俺が逃げてどうする。
自分に何度も言い聞かせる。そして、意を決して俺は新聞をめくった。そこには短く小さな、数平方センチメートルの空間に、彼女を襲った出来事がまとめられていた。
居眠り運転で対向車線に飛び出したトラックと普通乗用車が正面衝突。普通乗用車を運転していた夫婦は死亡。警察は軽傷を負ったトラックのドライバーを業務上過失致死の疑いで逮捕――
なんだそりゃ。
頭の中に浮かんだのは、ただそれだけ。相手のトラックドライバーに対する怒りなど湧かなかった。頭の中を埋め尽くしたのは、感情じゃない。疑問符だった。
なんで、ドライバーが対向車線にはみ出たのか。なんで、その前にいたのが佐々木の両親の車だったのか。どうして、そんなほんの一瞬の瞬間に二つの出来事が重なってしまったのか。どうして、佐々木の両親でなければならなかったのか。どうして、佐々木がこんな目に遭わなくてはならないのか――
教えて欲しい。神様なんてのが、もしこの世にいるなら、教えて欲しい。どうして、こんなことが起こったんだ。どうして、こうなってしまったんだ。どうして、それが佐々木なんだ。なんで、こんなものが現実なんだ。これから、佐々木はどうなってしまうのか。俺はどうしたらいいのか。
教えてくれ。誰でも、何でもいいから、正解を教えてくれ。
*
不思議な光景だ。白い布で覆われた空間はがらんどうに広がっていて、本当にここが何度か訪れた事のある佐々木の家かと思わせた。非日常だった。灯篭の光も、祭壇の花も、額縁に飾られた写真も、そして一番奥にうつむいて座る佐々木の姿も。
御通夜は斎場ではなく、佐々木の家で行われた。黒々とした人々の列が、玄関から門を抜けて延々と伸びている光景は異様だ。その末端に俺と母親と妹は並んでいる。妹は、もうこの時点でハンカチで涙を拭いているし、母親もどこか沈痛な面持ちだ。俺一人だけが、死の意味もわからない無邪気な小学生のように、何もわからない顔で突っ立っている。
「ねえ、お母さん。どうしてこんなことになっちゃったの?」
それは、俺が訊きたい事だ。母親は妹の質問には何も答えなかった。ただ前を見たまま「しっかりしなさい」と言うだけだった。
俺は妹の様子を見た。妹は高校の制服を着て、白いハンカチと数珠を握り締めている。なぜか、不思議な気持ちだった。佐々木と付き合い始めた頃は、こいつが本当に大人になるのか、と思うくらい幼かったけれども、今となってはもう十分に身長も伸びて、あの頃の面影はかなり遠くなっている。
俺は、それだけの時間を、佐々木と過ごしてきたんだ。それだけの時間を、ずっと。なのに、なぜ――
妹はただ泣きじゃくる。俺も、妹みたいに泣くことができたら、もっと楽になれるのだろうか。そうすれば、俺は正しく悲しめているのだろうか。
まずは親族に一礼してから手を合わせて焼香、それからもう一度手を合わせて親族に一礼してから退室すること――母親は繰り返し、俺と妹に焼香の作法を教える。俺は曖昧に頷きながら、少しずつ近づいてくる祭壇を見つめていた。遠い、とても遠い。俺が近づける場所からは、佐々木に触れることすら出来ない。
俺は焼香台の前に立つ。母親に教わったとおり、俺は親族に向かって一礼をした。それに合わせて、椅子に座った親族も一礼をする。佐々木も一礼をした。俺を見ないまま、ただ周りの動きに合わせて、機械的に頭を下げた。
俺は両手を合わせて、遺影を見つめた。佐々木のお父さんとは会ったことはないけれども、お母さんとなら会った事がある。お父さんは誠実そうな目でまっすぐに前を見ていた。お母さんはやわらかく微笑んでいた。お母さんの目元は佐々木にそっくりだ。初めて会ったとき、佐々木はお母さん似だな、そんなことを思ったことを思い出した。そして――お母さんは言ったのだった。
「あなたがキョン君? あ、ごめんなさい。いつもこの子がそう言うものだから、つい。でも、いつもいつもありがとうね。この子と仲良くしてくれて。ちょっとひねくれたところのある子だけど、根はいい子だから、できたらずっと仲良くしてあげてね」
恥ずかしそうに目を背ける佐々木をちらりと見てお母さんはくすりと笑った後、俺の両手を取って、しっかりと俺の目を見ながらこう言った。
「この子のことを好きになってくれて、ありがとうね――」
高校生にもなった男の両手を取って、「仲良くしてあげてね」はないだろう――
俺は、お母さんの顔をまっすぐ見ることが出来ずに目を逸らしていた。お母さんの柔らかい両手の感触だけがした。
両肩が震えた。両手を握り締めた。涙が出た。今になって、ただ、涙が溢れた。
やっと理解できた。いなくなったんだ。この人が、この世界からいなくなってしまったんだ。もう、二度と、会うことは出来ないんだ。あの日、娘が初めてボーイフレンドを紹介したことを、あんなに喜んでくれた母親はもういないんだ。しっかりと握ってくれたあの手を、俺がもう一度握り返すことは出来ないんだ。
きっと、この人たちはもっともっと、自分たちの娘を見つめていたかったはずだ。大学を卒業して、就職をして、結婚をして――そんな娘の将来を誰よりも見たかったはずなんだ。
想像力の欠如していた俺の胸を、熱い水が溶かすように、透明な痛みが広がっていく。俺は、顔を上げると、遺影を見つめた。
お母さん。俺はこの子のことを好きになったんです。この子が苦しんでいるなら、そばに行って助けてあげたいんです。ヒーローみたいに、助けたいんです。――でも、どうしていいかわからないんです。
俺はこれ以上先に進めない。佐々木との距離は、遠い。手を伸ばしても、届かない。俺が声を上げたら、きこえるかい?
俺があいつを繋いでいるものが、こんなにも弱いものであることを思い知らされた。今、ただの他人でしかない俺は、あいつに触れることが出来ない。
ただ手の温もりだけが残って、それが、その記憶だけが何になるっていうんだ――
*
月明かりだけを頼りに、俺は一人真っ暗な帰り道をわざと選んで、歩いていた。寒さに震える指先で、携帯電話のフリップを開く。無機質な灯りが、小さな一点でぼうっと広がる。
『最近冷えるから、鍋でもしようか。』
メールボックスにある、最後のメール。見慣れた、顔文字なんか全くない、あっさりとした文面。俺の返信は『いいな、それ。賛成』。
――そんなやり取りが、昨日の昼まで続いていたんだ。
携帯をたたむと、俺は一人白い息を吐いた。暗闇に俺の息が広がる。立ち止まったまま、背中を近く塀に着けた。服が汚れてしまうかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
俺は「中学時代の知り合いを見つけたから、ちょっと声を掛けてくる」と嘘をついて、母親と妹を先に帰らせた。ただ、泣いている顔を見られたくなかった、それだけじゃない。あっさりと、こんなにも簡単に命が終わることを知って、その後で家族の顔を見るのが怖くなったからだ。
母親が死んだらどうする? 父親が死んだらどうする? 妹が死んだら――
やめよう。俺は頭を右手でくしゃりと掴むと、首を振った。考えるだけで、恐ろしかった。そして、改めてそんな恐ろしい現実があいつの身に起こったことを思い知った。
再び携帯電話を開く。俺はあいつの彼氏だ。この場面で、何か言わないといけない。あいつを励まさないといけない。
メールの作成画面を呼び出す。カーソルが無感動に点滅している。指を動かした。
『だ――』、だいじょうぶか、だって? そんなわけないだろう。何を馬鹿げたことを。消去ボタンを押す。
『げ――』、元気出せよ。そんな無責任な言葉に何の意味がある?
『何かあったら、いつでも呼んでくれ。遠慮なんかするな。駆けつけるから』
結局は、こんな言葉になった。何も出来ないだろうけど、でも何も出来ないなりに、何かしようとしたい。
俺は、今日の佐々木の姿を頭の中で思い描いた。せめて、泣いているのなら、まだよかった。あいつは、椅子に座ったままだった。無表情に、今にも消え去りそうに。見失ってしまいそうに。
「やさしい、お母さんだったよな」
俺は空を見上げる。どうして、こんなにも底が見えないほどに、冬の空は暗いのだろう。
ありもしない餌を探す痩せぎすの犬のように歩き始める。自分の細い影が、闇に紛れて消えてしまう気がした。
*
遠くから、遺影を抱いたまま歩く佐々木の姿を見つめていた。同じ場所、同じ空気、同じ空間にいるはずなのに、どうしてこんなに遠い世界の出来事のように見えたのだろう。出棺する車の列に乗り込む佐々木の目は、この世界の何も見ていないような気がした。
告別式が終わって、家に戻った。告別式には参列した親父はそのまま仕事へ向かった。妹は学校があるので、告別式には参列していない。家の中は俺と母親の二人だけだった。
俺は喪服のまま今のテーブルに座っている。その向かいで、母親が椅子の背もたれに左肩を持たれかけさせて、ぼんやりとしていた。
「やっと、お葬式まで終わったわね」
「あぁ」
今日に限って、この場所はなんでこんなに静かなんだろう。時折、道路を車が通り過ぎる低いエンジン音が聞こえるだけだ。
「お昼ご飯はどうする?」
「なんか適当に」
それだけ会話をして、また沈黙だ。
結局、あのメールの返信は来なかった。けれども、もしも佐々木から返信が来たとして、俺に何が出来ただろう。正直な話、心のどこかで佐々木から返信が来なかったことに安堵している自分がいる。――そして、そんな自分に反吐が出る。
「これからが大変なのよね」
「……え?」
「お葬式が終わったから、それで終わりじゃないのよ。遺産相続とか、法事とかお墓のこととか。突然のことだったから、本当に、何の準備も出来ていない状態でやらないといけないから。それに、佐々木さんはもう二十歳を超えているでしょ? あの子、一人っ子だから、そういう意味で、これから本当に負担がいっぱいかかってくるはずよ」
母親は全く感情の見えない声で言った。そこにあるのは、ただの冷たい現実だった。
「なんだよ、それ……。あいつに、今のあいつにそんな余裕なんかあるはずがないだろ」
「でも、それが現実なのよ。あの子の身の回りに支えてくれる人がいてくれたらいいんだけど……」
母親の言外に含まれたニュアンス。この年になれば、俺にだってその秘めたるものがわかる。世の中が絵に描いたような善人ばかりであればいいが、実際には、そんな馬鹿げた理想を信じたら痛い目を見るだけだということはわかっている。
「キョン。あんたがしっかり支えてあげないとだめよ。あの子には散々お世話になっているでしょう」
「わかっている、わかっているよ。けど」
この数日の出来事を思い返して、俺の心によみがえるのは、ただの無力感ばかりだ。全ては遠い世界の出来事のように思えて、まるで俺はスクリーンの前の観客みたいな気分だ。スクリーンの中でヒロインが泣いていても、俺には手を差し伸べることすら出来なかった。出来ることといえば、せいぜい無責任にエンドロールに拍手を送るだけ。
「俺に何が出来る? 何も出来なかったじゃないか。佐々木の遺産相続の話にしたって、お墓とかそういう話にしたって、俺は門外漢もいいところだ。口出しなんて出来ないし、そんな権利もない。結局、外から無責任にがんばれとか、そんな言葉を掛けるしか出来なくって」
俺は頭を抱え込む。苦い、俺の心の中に沈殿している何かがとてつもなく苦い。
「別に、あんたが何かしなくちゃならない必要なんてないわよ」
「……何も出来ないなら、いないのと変わらないじゃないか」
「そんな事言っても仕方がないわよ。あんたはまだ学生なんだから。それに、スーパーマンがいるのはお話の世界の中だけよ」
「けど道を歩く通行人Aが一人いても、どうにもならないだろう」
「お話と現実の世界は違うって言ったでしょ。その道を歩くなんでもない通行人でしか、ありえないんだから」
俺は黙ったままだ。何も見えていない目で、テーブルの模様だけをじっと見つめる。
「人生は映画じゃないから。全てうまくいったところで、エンドロールが流れて、そこでハッピーエンドっていうわけじゃないから。佐々木さんも、あんたの人生もこれからまだまだ続いていくのよ」
「そんな、ありきたりの陳腐な話をされたって、どうしようもないよ」
「知ってるっていうのと、本当にわかっているっていうのとは、また別の話よ」
母親は俺の答えを予想していたかのように、ふっと笑った。
「ただ、誰かが自分のことを大切に思ってくれている。そんな人がいる。それだけでいいのよ。ヒーローなんかいなくても、それだけで」
「……わからない。そんな簡単なことが、一体なんになる」
「それでいいのよ。それだけで」
母親は立ち上がってポンッと俺の肩を叩いた。
「たったそれだけの簡単なことだからこそ、力強く守り通せるでしょ」
*
倉庫から台車に載せて、段ボール箱を二箱運び出す。箱いっぱいに詰め込まれたハードカバーの新刊はずしりと重い。意外と本という奴の重量は馬鹿にならないものだ。
「おい、キョン。ポップアップはちゃんとセッティングしておいたぜ。あとはそいつを平積みするだけだ」
「サンキュー、谷口。手があまっているなら、こいつを運ぶの手伝ってくれないか? 結構重い」
「あぁ、別に構わないぜ」
倉庫の入り口から声を掛けてきた谷口に、礼代わりに右手を挙げる。随分と車輪のがたついた台車を軋ませながら、俺は出口へと向かう。
「あ。でも、悪い。やっぱ手伝ってもらわなくていい」
「ん? なんでだ? 別に俺は特に用事があるわけでもねえぞ?」
「いや、そうじゃないんだ」
不思議そうに俺の顔を覗き込む谷口から俺は目を逸らした。
「今は、ただ、なんか単純作業に没頭していたいんだ」
こうして無心で身体を動かしていれば、その間だけは忘れることが出来る。その時間は、長ければ長いほど、いい。俺はへたくそな作り笑いを浮かべる。
谷口の言ったとおり、ポップアップはもうセッティングされていて、あとは平積みの台にこの新刊を載せるだけだ。俺は小さな掛け声と共に重い段ボール箱を床に降ろすと、ガムテープを切り裂いた。ダンボールの蓋を開くと、カラフルな表紙が目に入る。
『日本中が涙した切ない恋の物語』
帯に書かれた文字を見て、俺は段ボール箱から視線を逸らした。
一人でこの作業をやろうと思ったのは、失敗だった。怒りとも悲しみともいえない感情が湧き上がって来る。
――何が切ない恋だ。お前みたいな奴に、なにがわかる。本当に辛い、というのがどういうことか、わかっているのか?
必死に頭の中から消そうとしていた現実が、また蘇ってくる。
俺は今何をやっているのだろう?
その答えはアルバイト、だ。実家で俺が一人喪に服していたところで何にもならないし、それを理由にバイトのシフトに穴を空けるわけにもいかない。そうして、俺はまた京都に戻ってきて、こうして本屋の床に座り込んで、新刊本を並べている。
本当に、何をやっているんだ。
「おい」
不意に肩を叩かれた。見上げると、怪訝そうな顔をした谷口が立っている。
「お前、どうしたんだ? 今日は何か変だぜ?」
谷口は俺の返事を待たずに、俺の隣に座り込んだ。そして、俺の空けたダンボールから本を取り出していく。
「悪い」
「謝らなくてもかまわねーよ。それよりも、何かあったなら話してみろよ。俺が力になれることだったら、協力してやるぜ」
俺は何も答えないまま、ダンボールから本を取り出して、谷口の向かい側から並べ始めた。谷口はちらっと俺の表情を窺ったが、何も言わず本を積む作業に戻った。
「なぁ」
「ん、どうした?」
「不思議だよなぁ、谷口。世の中にはこんなにいっぱい本があってさ。その中で、売れる本と売れない本があって。でも、売れる本っていうのは結局なにかのブームだったりしてさ。それが過ぎたら、あっという間に忘れ去られて」
「急にそんな話をしだして、どうしたんだよ?」
俺は目の前にある無責任なポップアップを見つめた。恋、涙、悲劇、死、そういった言葉がピンクの紙に白い丸文字で書かれている。まるで、それらが現実には存在しない架空のエンターテイメントのように。
「一年前にさ、この台にどんな本が平積みされていたかって、覚えているか?」
「一年前か? ……さぁー。あの頃は何が流行っていたかな。よく覚えてねえや」
この世にはこれだけたくさんの本がある。けれども、そのうちの何割がそのようにして読まれては忘れ去られていくのだろう。誰の心にも残らずに、そんなものが存在していたことすら忘れられて。ふとした拍子に話題に上がったとしても、まるで終わった過去の出来事のように語られて。
そんな現実を、どうしようもなく虚しく思った。
「なぁ、谷口」
「ん、どうした?」
俺はポップアップに映った死という字を見つめていた。丸くて何の重みもない文字。ただ、逆にそのあっけなさが怖くて、俺は口を開いた。
「……佐々木の、佐々木の両親が、死んだ」
言葉はするりと出てたのに、出終わった後で、どうしようもない重さが口に残った。口に出してから、思う。こんな言葉、言いたくなかった。
俺はけばけばしいピンクの本を平台に並べながら、とつとつと谷口にこの数日間の出来事を全て話した。
「すまねえ。俺には、その、なんていったらいいか、わかんねえ」
谷口は申し訳なさそうに頭を掻く。
「いいよ、谷口。俺だって、こういうときになんて言うべきなのか、わからないんだから」
谷口は俺の方をちらちらと見ては、何か声を掛けようとするが、何もかもがうまく言葉にならないようだった。俺はそんな視線に気付きながらも、気付かない振りをして、平台に本を並べ終えた。
「……飲みにでも行くか? こんなときに不謹慎かも知れないけどよ。でも、気分転換くらいにはなるだろうし、お前まで塞ぎこんぢまったら、元も子もねえ」
「あぁ。それも、それも悪くないかもな」
立ち上がった俺の背中を谷口は叩いた。俺は谷口を振り返らないまま、返事をした。
こういうときに、側に知り合いがいてくれるというのは、それだけで助かる。ぽきりと倒れそうなところに、つっかえ棒が一つ増えてくれたような、そんな安心感だ。
谷口と俺は同じ大学の同級生だ。こっちに出てきてから、知り合った。最初は、軽い男だと思っていたが、付き合ってみると案外友達思いのいい奴だった。
その日、俺はずっとレジ打ちなどの接客はせずに、ひたすら裏方で働いていた。とてもじゃないが、笑顔で接客という気分にはとてもなれなかったので、そういう仕事は全部谷口に代わってもらった。
もともと俺と谷口が同じ本屋でバイトをしているのも、友達同士一緒にバイトをすれば気が楽だし、何か用事があったときにも気軽にシフトの交代などが頼めるから、というのが理由だ。今回は、そのありがたみが、身に染みてわかった。
俺はひたすら、人が手に取った後、荒れてしまう本棚ばかりを直していた。普段は飛び出した背表紙や、台に無造作に放って置かれた本を見ればいらつくのだが、今日だけは違う。それが、ありがたいものに感じた。いっそ、誰かこの本棚を全て倒してくれればいい。そうすれば俺は、一人でずっと、辺りに散らばった本の海の中で、それを直しているから。
時間は、ただ流れていく。ぼんやりと本棚の隙間を縫うように歩きながら、俺はここに集まった人たちが流れるように通り過ぎるのを見ていた。何も、変わらなかった。何も、変わっていなかった。いつもと同じ、見慣れた光景だけが過ぎ去っていく。友達と話しながら笑っている奴、暇つぶしの立ち読みで退屈そうな顔をしている奴、真剣に本を選んでいる奴、新刊本を指差して騒いでいる奴、無表情な奴――その全てがいつも通りで、それが俺にはどうしようもなく虚しかった。何も変わらないのは、それはそれらが空っぽなせいだと思った。
少し日が傾き始めた頃、携帯のバイブレーターが鳴った。俺はすばやく控え室の壁にもたれるように隠れると、携帯電話をポケットから取り出した。メールの着信、一件。その差出人の名前を見て、指が震えた。ずっと待っていたはずの便りだったが、開いて中身を見るのが怖い。固唾を呑みながら、ゆっくりとフリップを開くと、恐る恐る決定ボタンを爪の先で押した。そこにあったのは、ただ短い文章が、一つ。たった一つだけ。
――なにもかも、なくしてしまいそうだ
ただ一言、そうあった。
*
また、もう一度。あの日と同じように、俺は電車に揺られている。あの日と同じように、たった一人で。同じようにはやる気持ちと押しつぶされそうな不安を胸に抱えながら。
アルバイトは谷口に頼んで、早めに上がらせてもらった。ただ「わかった」と頷いていてくれただけの谷口に、俺は友達のありがたみを知った。
なにもかも、なくしてしまいそうだ――どういう意味だ。なにもかもって一体なんなんだ。あいつの何もかもって、それは一体なんなんだ。
ぽつぽつと光が点った夜の街の向こう、そこに光のない山が見える。底の見えない黒い影のように、人の住んでいる町を取り囲む。何もない場所、というのはああいうところをいうのだろうか。佐々木は、今あんな場所にいるのだろうか。
『いますぐ、そっちへ行く。実家にいるんだな? 今、そっちへ行くから』
俺のメールに佐々木は何の返信も返しては来なかった。それでも、俺はあの街へ行く。あの街へ帰る。
何も返してこないということは、肯定の意味だ。長い付き合いだ。俺にはわかる。いや、わからなくては、困るんだ。もしも、そうじゃなかったとしたら、俺があいつと過ごしてきた時間は一体なんだったっていうんだ。
逃げ出したい――本当は。
怖い――どうしようもなく。
でも、俺が逃げたからといって、本当にそれが何になるっていうんだ――
降り立った駅で、電車のダイヤが乱れていた。誰かが、飛び込んだらしい。でも、誰も気にしなかった。電車が遅れて迷惑する、ただそれだけのことだった。
駅に降り立って、改札口へと向かう会社帰りの人たちに混じり、携帯電話を掛ける。無機質なコール音。それだけが遠くに響いて、繋がらない。
俺はメールを打つことにした。これなら繋がることはできなくても、伝えることだけは出来るはずだ。
『駅に着いた。どこいけばいい? お前は、どこにいる?』
携帯電話を握り締めて、俺は改札口から出る。辺りは冬の空気の匂いがした。
俺は人混みを避けるように、駅の端っこへと向かう。売店の隣の壁にもたれかかって、ぼんやりと空を見ていた。冬の空はとても高くて、俺の吐く白い息はそこに届く前にどこかへ消えてなくなってしまった。
右手の中で握りこんでいた携帯電話が震える。俺は右手を開くと、親指でフリップを開いた。メールの着信が、一件。
『あの公園』
俺は携帯電話をポケットにしまうと、壁を押して背中を勢いよく飛び出させた。「よしっ」と呟きながら、コートの裾を直す。気分は、これからヒロインの元へ駆けつけるヒーロー。そうでも思い込まないと、前へ進む勇気が、持てなかった。
あの公園――それだけで、俺にはそこがどこかすぐにわかった。俺と佐々木の間でそれだけで伝わる場所はひとつしかない。
なぜ、この冬空の下で、佐々木は公園で俺を待つのか。考えれば、考えるほど、悪い方向へしか想像は向かない。それでも、俺は大股で歩く。自分は、佐々木を助けるために向かうヒーローだ。少しずつ、歩く速さが上がって、そして足が震え始めた。
公園の入り口にたどり着いた。公園、などとは言っても、せいぜい滑り台とブランコと砂場しかないような小さな公園だ。時計を見る。午後七時。辺りはもう陽が落ちて真っ暗で、公園内に人の気配はない。昼間なら簡単に見渡せる公園も、夜の闇に呑まれてしまって、その全体像がはっきりとつかめない。あの時、あの場所と同じところにいるのなら――。俺はブランコへ向かって歩き始めた。街灯と月が重なって、俺の影が十字に開いた。
それは最初、公園にある陶器の動物のように見えた。それくらいに小さくて、砕け散ることが出来るようにその姿は儚く映った。ブランコに乗った人影は、まるで写真に書き足したように存在感が薄く、一歩間違えれば景色と同化してしまうほどだった。
「佐々木……?」
わかっていて声を掛けたはずなのに、不自然に語尾が上がってしまった。ゆらりと漂うその影は、俺の言葉に数秒反応を示さなかった。
「……本当に、来てくれたのか」
俺の方を見ずにポソリと言葉を地面に落とした。まるで、俺がここに現れるのを望まなかったように。
「当たり前だろう。そんなの。俺は、何かあったら遠慮なく言え、ってお前に言っていたんだから」
なぜ、俺の声にはこんなにも力がない。なぜ、俺の言葉にはこうも強さがない。なぜ、俺は何も出来ないということを受け入れ始めている。
「そうか。もしも本当に僕が何もかもをなくしていたとしたなら、キミも今ここにはいないはずだね」
「なぁ、佐々木――」
どうして、今のお前の言葉はまるで幽霊の影のように響くんだ。なぜ、お前は俺を見ようとしない。
俺の言葉は喉の奥で、引っかかる。
「キミの名前を呼んで、もしもキミが返事をしてくれないとしたら、どうしようかと思った。怖くて、キミの名前は呼べなかった」
「……なにもかもなくしてしまいそう、っていうのはどういう意味なんだ?」
「言葉どおりの意味さ」
佐々木が白い息を吐いて、少しだけ顔を上げた。
「なくなっていくんだ。何もかも。僕の持っていたものは。帰りを待ってくれている人も、帰る場所も。多分ね、人が持つべきものはそれだけでいいんだ。そして、それをなくしたら、全てなくしてしまうんだ」
「佐々木、だからそれは一体――」
「僕は、大人なんだろうか。子供なんだろうか。大人だったら、きっと自分一人の力で、何とかできるはずだ。子供あったら、きっと誰かが守ってくれるはずだ。でも、一人では何も出来なくて、でも誰かが守ってくれるわけでもない僕は一体何なんだろう。中途半端だね」
俺に答えられるわけがない。俺だって、その中途半端な存在でしかないのだから。この数日間で、痛いほどに骨の奥まで理解させられたのだから。
俺はただ、白い息を吐きながら沈黙する。
「僕には、家族のいなくなった家を守るだけの力がなかった。それ以前に、もはや守ろうとする意志すらも風前の灯だ。空っぽになった場所にしがみつくことにもう意味が見出せない」
頭の中で先日の母親の言葉が思い浮かぶ。そうだとも。まだ、終わってはいないんだ。いや、永遠に終わらない。続いていくんだ。
「キミが、キミさえここに来なかったら、僕はもしかしたらこのまま凍え死ぬことが出来たかもしれないのに。何もかも失ったとしたら、何を恐れることもなく」
「そんなこと、言わないでくれ。俺は、お前の――」
「キミと出会っていなければ、キミとこうして共に歩まなければ、こうして失う恐怖にかられることもなかっただろうに」
「佐々木、頼む。お願いだから、お願いだから、そんなことは言わないでくれ」
どうして、この場所で、そんな話をしなくちゃならないんだ? そうだろ? お前だってきっと覚えているはずだろう? この俺が初めてお前に想いを伝えた場所で、どうして俺たちはこんなことを話しているんだ――
「逃げ出したい」
佐々木の呟いた言葉が心に突き刺さる。汗ばんだ両手を開いて、俺は馬鹿みたいに突っ立っているだけだ。
俺は神様になりたい。そして、魔法のステッキを振るようにあっけなく、この冷たい現実をぶっ壊してやりたい。何事もなかったことにして、またあの日の前から穏やかな日常の続きを。こんな現実が絶対に来ないように。
俺は頭の中でくだらない空想を作って、そこに逃げ込んでいた。いっそ鍵をかけて、何もかもを閉ざしてしまおうか。
「佐々木、帰ろう。お前の帰る場所は、まだ残っているんだ。一緒に、帰ろう。俺と一緒に、二人で、帰ろう――」
俺は佐々木に寒さでかじかんだ手を差し出した。
俺は――俺たちは逃げ出した。でも、それでよかった。終わってしまうよりは、全然よかった。
少なくとも、俺がいる限りは、彼女は全てをなくしてしまうことはない。俺は、そう信じた。
掴んだ佐々木の手は、どうしようもなく、冷たかった。その冷たさのまま暴力的なほどに、俺から全てを、奪ってしまってもらいたかった。
*
俺は逃げ出した。現実から逃げられないということは、頭では理解できている。それでも、それが無駄だとわかっていても、俺は佐々木の手を取った。
「狭いところで、悪いな」
俺は背後の佐々木に声を掛けながら、散らかった部屋を片付ける。一応、来客用に布団はもう一組ある。コタツを片付ければ、二人が寝ることは出来るはずだ。
「いや、かまわないよ」
「そうか」
俺は佐々木の手を引いた。幽霊のように、ただ俺に引かれるままの佐々木の手を握り締めて、俺はここまで戻ってきた。
「その、腹減ってないか? 大したもんはないけど、カップ麺くらいはあるはずだ。それとも、もうちょっとまともなもん食べに外へ行くか?」
自分で、自分の声がわざとらしい明るさを帯びていることがわかる。大げさな身振り手振りで、俺は一人芝居を続けている。
「大丈夫」
佐々木はそうポツリと呟くと、ストンと落ちる様に床に腰を降ろした。そのまま両膝を立ててうずくまる。このままもう動く気はないという意思表示だろう。
「そうか。じゃあ、俺はコンビニにでも行ってなんか買ってくるよ」
しかし、そのまま身を翻そうとした俺の袖を佐々木が掴んだ。その力は弱弱しくて、手を強く振れば簡単に振りほどけそうで、俺は自分の勢いがそこまで強くなかったことに、こわれものがぎりぎり床に落ちなかったときのように、安心した。
佐々木は俺の袖を掴んだままだ。俺は二人の両手が繋がっているまま、佐々木の隣に腰を降ろした。
「エアコン、つけるわ。寒いだろう」
ピッとエアコンの電源が入る音がした後、この部屋にある音は送風音だけだった。俺も佐々木も押し黙る。
「風呂、どうする? 俺、普段はシャワーだけで済ましているんだけど、今日は湯船に湯を張っていいぞ」
――なんて、くだらないことを言っているんだ、俺は。
「あぁ、そうか。着替え、ないもんな。俺のTシャツくらいなら貸してやれるけど、それだけじゃな」
――自分で言った話をすぐに自分で否定する。馬鹿か、俺は。
何の考えもなしに、勢いだけで佐々木をここに連れてきてしまった。そのことを否応なしに思い知らされる。食うものもない、着るものもない。かろうじて寝床が一つあるだけだ。冷たい八畳一間のフローリングに二人で座り込む。この狭い部屋は俺たち二人で十分で、それ以上はもう何も受け入れられそうになかった。
「せめて着替えくらい、持って家出すればよかったな」
「……あそこには帰りたくない。帰れない」
自分の冗談めかしたセリフに俺は後悔する。
「そうか……じゃあ、お前の下宿まで荷物を取りに行こうか。ここじゃ、着替えも何もない」
しかし、佐々木は答える代わりに俺の手を掴む力を強くしただけだった。最初、公園で手を掴んだときとは違って、今は彼女のやわらかい体温が伝わってくる。
せめて、俺は彼女を温めることだけでも、できたのだろうか。
「一人にしないで欲しい。今は、ただ、ゆっくり、眠らせて。キミの隣で」
俺は何も言わずに、佐々木の身体を抱き寄せた。彼女の小さな肢体は、震えていた。佐々木は俺の胸に顔を埋める。
このまま、何も考えずに、全てを忘れて眠ってくれればいい。それで、何も変わらないとしても、せめて今は、今だけは。
わかっている。わかっては、いるんだ。俺は、俺たちは、間違いだと知りながら、逃げ出したんだと――
いつまで、これは続くんだろう。夜明けが来るまで? 明日が終わるまで? それとも一生?
わからなかった。俺には何もわからなかった。ただ、あまりにも外の世界の夜だけが、救いもなく寒過ぎた。
*
朝を迎えた。逃亡者の潜む夜は長かった。その間、俺は何も考えていなかった。自分の腕の中に、ちゃんとあるべきものが存在していること、それさえあれば、それだけでよかった。
「んっ……」
腕の中で彼女が小さな声を上げると同時に身体をぴくりと動かす。
「起きたか?」
「……うん」
「眠れたか? まだ、朝早いぜ」
俺はベランダの方角を目線で差す。空はゆっくりと白み始めていた。
「大丈夫。本当に――意識が落ちるように眠っていたから」
「そうか。なら、腹減ってないか?」
「……そうだね。少し」
「なら、なんか買いに行こう。俺も昨日の昼から何も食ってねえから、腹減ったよ」
ぐぅ、とタイミングよく鳴った腹を右手で押さえながら、俺はわざとらしい仕草で笑った。佐々木は鼻を鳴らすだけで、小さく笑った。
俺は立ち上がると、佐々木に手を差し伸べる。辺りでは何の音も聞こえない。静かで穏やかな明日が始まっていた。
佐々木と二人並んで歩く。この時間、学生街のアパートばかりのこの辺りは静かで誰もいない。寒さで少し霧がかかった空気のおかげで、まるで自分が誰もいない別の世界に迷い込んできてしまったような錯覚に陥るほどだ。時折、出会う人といえば自転車に乗った新聞配達の人くらいなものだ。
「朝は、やはり冷えるね。それに空気も澄み渡っている」
佐々木がポツリと呟く。
「そうだな」
冬の京都は寒い。本当に、寒い。これは京都に下宿してから初めて気が付いた。気温的には雪国ほどは低くはないのだけれども、ほとんど雪の降らない気候のせいで、ただ寒さだけが丸裸に無慈悲に突き刺さるような気がする。これが底冷え、というやつだろうか。
空を見上げてみた。灰色で重苦しく、今にも泣き出しそうなのに、きっと今日も雪は降らないのだろうな、と思う。
「キョン。昨日は、すまなかった」
「いいよ。気にするな」
佐々木の言葉に俺は空を向いたまま答える。
「随分と、取り乱してしまっていたようだね」
「構わないよ。俺だって、似たようなもんだった」
「昨日は、少しでも油断するとキミまでどこかへ言ってしまいそうで、だからキミの名前を呼ぶのが怖かった」
「……今日は、もう平気なんだな」
「あぁ。夜っていうやつは、どうもいけないね。暗闇には、何かを飲み込まれてしまう錯覚がある。睡眠は言うなれば、世界から断絶された人間の普遍的で絶対的な孤独だ。――だから、駆られなくてもいい余計な不安にばかり、駆られる」
「佐々木。俺たちはこれから――」
「キョン。今は、コンビニへ行って空腹を満たすことだけ。そのことだけを、考えよう。そうしよう」
「――あぁ。そうだな」
大通りへと近づくに連れて、車が通り過ぎる音がだんだんと大きくなってきた。
向かい合ってとる二人きりの朝食は、静かだった。お互い、何も話すこともできずに、ただ目の前のバターを塗ったトーストにかじりつくことだけに集中していた。二人きりの、二人だけの世界はこんなにも静かで、どうしようもないほど、何もなかった。
俺は彼女を自転車の背に乗せた。どうしようもなかったから、ただ外に出た。
俺は自転車を漕ぎ続ける。京都の町は、そんなに大きくない町だ。自転車さえあれば、どこへでも行ける。三年前、初めてこの町へやって来た時から、俺たちはこうして二人で自転車に乗っていた。どこにも逃げ場所はないとしても、俺たちはケージの中のハムスターのようにかごの中を走り回っていたかった。
白い息を吐きながら、進路を西にとる。自然に足が向かう場所。俺はまるで失ったものを一つ一つ拾い集めるように、昔に通ったこの道を行く。
京都の町には二本の川が流れている。京都の東側を流れる鴨川と西側を流れる桂川だ。鴨川はカップルたちが等間隔で座るとかいう話で有名なデートスポットにもなっていたが、佐々木が好きだったのは桂川の方だった。都会的できれいに舗装された鴨川よりも、背の高いススキの生い茂る桂川の川縁の方が好きだと、彼女は言っていた。ありのままのいい加減なやさしさが好きだ、と彼女は言っていた。
嵐山から南へ向かうサイクリングロードをよく佐々木を後ろに乗せて走った。佐々木も自分の自転車を持っているくせに、デートの時はいつも「一台分の方がいろいろと経済的だろう」とうそぶきながら、俺の自転車の背に乗っていた。車やバイクは情緒がないから嫌だ、とも言っていた。
川縁にある公園のベンチで、二人並んでよく弁当を食べた。いつだったか「ずいぶんと金のかからないデートだな」とからかってやったことがあった。佐々木はおにぎりにかぶりつこうとしていた口を俺に向けて、「特別なんかいらない。ただ、ずっとこうあり続けられるように、ありふれていたいんだ」と笑った。
彼女が望んだように変わらない景色の中を、俺は走り続ける。畑のにおい、薄茶色のススキの波。そして背中にある佐々木の顔が、あの頃と同じかどうかは、俺には見えない。
「映画にでも行こうか」
俺はそう言って、進路を映画館へと向ける。佐々木は特に何も言わなかったので、俺はそれを肯定ととった。初めて佐々木とデートをしたときも、慣れない町でどうしたらわからなくて、俺はそんなことを言ったのだった。
あのときのように、もう道に迷うことはなくなった。けれども、相変わらずどうしていいかわからないままでいるのは、変わっていない。
駐輪場に自転車を止めて、映画館へと向かう。見る映画はなんでもいい。ただ、あの頃とつながってくれれば、それでいい。
二人分のチケットを買った。午前中の一番。俺は上映中のドアを開く。人の姿は少ない。ど派手なハリウッド映画なんかとは無縁のミニシアターだ。
俺は佐々木の手を取り、スクリーンに反射する光でぼんやり照らされているだけの薄暗い通路を歩く。あの日と同じように、俺は隅の席に腰を下ろした。
映画はいい――ただ何もせずに座っているだけの自分に理由を与えてくれるから。スクリーンに反射して瞬く光が泣いているように見える。
あのときここで初めて見た映画はどんな映画だっただろう? あのときの自分が向かいの家の子供と産院で取り違えられたと信じる男は、結局自分の幸せを見つけられたのだろうか。
俺は佐々木の手を握りしめる。初めてのデートで訪れた映画館で、彼女は、今、暗闇の中震えている。
*
京都の町は碁盤の目上に何本もの道路が交わっているが、道路はあまり広くない。主要道路も広くてせいぜい六車線ぐらいだし、それ以外も細かい路地だらけだ。だから観光シーズンにでもなれば、あっというまに道は渋滞して動きづらくなる。そんな町だからこそ、ここを移動するのには自転車が一番便利だ。
この町は不思議なもので、歴史があるというのかなんというのか、そんな小さな路地のそれこそ「いつから建っているんだ」とつっこみたくなるような店が歴史のある有名な老舗とかだったりしておもしろい。そして、適当に路地をくねくねと曲がっていれば、必ずどこかの歴史的な名所にぶち当たる。
俺と佐々木のデートというのも、もっぱらそんな感じで、自転車に乗ってはこの町をずっとうろちょろとしていた。佐々木はそうやっていろんなものを発見するのが楽しいらしく、大きな瞳を輝かせて興味を引いたものをチェックしては、後で自分で調べたうんちくなんかを俺に語っていた。彼女の興味を引いたのは、そんな歴史的な遺産とか老舗の名店のみならず、たとえば商店街の寂れたおもちゃ屋にディスプレイされていた謎のキャラクターもの(おそらくは、ずっと前のアニメか何かのものだと思うが)のネーミングをえらくおもしろがって、本気で買おうかどうか悩んでいたこともあった。結局は恥ずかしかったらしく、買うのはあきらめたみたいだが。
大学進学と同時にやって来た町で、俺と佐々木はそんな風に時間を過ごしてきた。だから、ただ町の中を二人で自転車に乗って通り過ぎるだけで、思い出すものはいくつもある。俺はぼんやりと大学に通って、単位を集めて、週に三日本屋でバイトをして、そんな生活をしていただけだけれども、楽しかった。本当に、そう思う。
懐かしい場所を通り過ぎても、彼女は何も言わなかった。
だから、俺はまっすぐに道を進むことにした。
俺は佐々木の下宿へと向かっている。俺は腰に回された佐々木の手に触れてみた。冷たかった。手袋が必要だと、思った。
「よし。着いたぜ」
静かな住宅街のど真ん中でギギィーと軋む音を立てて止まる自転車。どうせこの町でほとんど乗り捨てるようなものだから、と中古を買ったのはいいが、このブレーキ音のうるささには本当に閉口する。
「ありがとう」
佐々木はポツリとつぶやくように言うと、すっと地面に降り立った。
俺の大学も佐々木の大学も同じように京都の北側にあって、だからお互いの下宿の位置も結構近い。自転車だと十分くらいの距離だろうか。
通い慣れた場所だ。俺が自転車の運転をする代わりに、佐々木はよく晩飯を作ってくれた。一人で自炊するよりも、二人で食べる方が効率がいい、などと毎回のようにうそぶきながら。
俺は階段脇の駐輪スペースに自転車を停めるため、階段を上る佐々木の背中を見ながら、自転車を押していった。佐々木が歩くたびに、あいつの柔らかい髪がサラサラと揺れる。その後ろ姿を見つめながら、俺は、以前はもっと大きくあいつの髪が動いていたような錯覚を受けていた。
佐々木を追って階段を上る。二階にある佐々木の部屋のドアは俺がすぐ来ることを見越してか、鍵は掛かっていなかった。
ドアを開けて部屋にはいると、相変わらずの甘いような匂いが鼻につく。玄関から見渡した部屋の中はいつも通り、整然としていた。
「何日ぶりかな」
先に部屋に入っていた佐々木がボソリと言う。それから冷蔵庫を開けると牛乳パックを一つ取り出して、「飲むかい? 賞味期限は一日過ぎてしまっているけれども」と俺に笑いかけた。
「それよりも、部屋が暗いから、カーテンを開けよう」
おそらくあの事故の知らせを聞いて佐々木が実家へ飛んで帰ったのは外出中の時だったのだろう。遮光カーテンがきっちりと閉められていて、昼時だというのに部屋は暗かった。
「いや……。そうだね。開けておいてくれ」
一瞬佐々木は俺を制するような仕草をしたが、すぐに思い直したのかカーテンを開けることを承諾した。
俺はそのままカーテンを開ける。脳天気なまでにさんさんと輝く太陽の光が部屋中に注ぎ込まれる。
「明るくなっただろう?」
「うん」
佐々木は俺に表面だけ貼り付けたような笑顔を返した。
とりあえずは俺からの提案で佐々木の荷物――着替えとかその他諸々を取りに佐々木の下宿へ戻ってきた訳なのだが、それからどうするかについては正直全く考えていなかった。このまま荷物を持って俺の下宿へ行くのか、それとも佐々木はここに留まるのか。
しかし、今はそんなことを考えるよりも、この部屋にやってきた目的を果たす方を優先しよう。
「佐々木、一応シャワーでも浴びておいたらどうだ? 疲れているだろう? それに服だって着替えた方が――」
そこまで言って、俺はまた自分の失言に気がついた。佐々木がきょとんとした表情で俺を見つめている。
あぁ、そうだ。脱衣所なんてないこの部屋でシャワーを浴びにいけということは……
「あぁ、悪い。佐々木。俺、その間部屋の外に出ているから。ほら、だから遠慮しなくていいし。そもそもそう言う意味じゃなくて」
慌てて自分の発言を修正する俺。そんな言い訳めいたことを口にしながら、そそくさと部屋を出て行こうとすると、服の袖を佐々木に掴まれた。
「かまわないよ」
「え?」
佐々木の言葉に俺は振り返った。佐々木は笑っていた。
「かまわない、ってどういうことだ?」
「そのままの意味だよ。かまわないよ。それに……キミがしたければ、してくれてもかまわない」
「それはどういう――」
「お礼だよ。キミは世話になったから、せめてもの」
佐々木は笑っていた。空っぽに笑っていた。
佐々木の言葉はまるで俺の顔に掛けられた氷入りの冷や水のようだった。一気に自分でも表情が冷めていくのがわかった。
そんなこと、そんな言葉――
「やめてくれ。そんな、礼なんて、そんなことを言うのは」
佐々木は空っぽに笑ったまま首をかしげた。なぜだろう。それが涙がこぼれ落ちるように見えた。
「そんな自分を傷つけるような真似はやめてくれ……。俺は、ちゃんといるから。俺は、ちゃんとお前の側にいるから」
なんて言ったらいいのか、わからない。こういうときにどういう言葉を掛けるべきか、わからない。ただ間違いなく、この変わらない日常の風景の中に、大きな傷跡は、確かにそこにあった。目の前の、この細くて小さな体の中に、間違いなくあった。
「……変なことを言い出して、すまなかったね」
佐々木は俺の目を見つめていたが、やがて視線を伏せた。前髪が表情を隠す。
「いや、大丈夫だから。気にするな」
ゆっくりと袖を掴んでいた佐々木の手が離れる。俺は顔を伏せた佐々木と向かい合ったまま、佐々木を置いて部屋を出て行くわけにも行かず、ただ二人で向き合っていた。
その時だった。不意に玄関のドアが開いた。俺は慌ててドアを振り返る。鍵を閉め忘れていたことに、今頃気が付いた。
「よお。お帰り。ずいぶん待ったで」
ドアに左肩をもたれかけるようにして、一人の中年の男が立っていた。真っ黒なトレンチコートと黒いズボン。白い開襟シャツに黒っぽいジャケットを羽織っているようだったが、ネクタイはしていない。髪は短く、無精ひげみたいな顎髭をたくわえて、俺たちを見ていた。
「すぐにこっちに来ると思て張り込んどったんやけどな。このクソ寒い中家出少女の張り込みはほんま難儀やったで」
男は冗談めかした口調で言った。佐々木は一瞬驚いたような表情をしたが、すぐに視線を下へ向けた。男は佐々木から俺へ視線を向ける。深く黒い瞳は笑ってなどいなく、まるで俺を射すくめるようだった。
「ちょっと待て。あんたは、いったい何なんだ?」
その視線に負けないように、俺は腹の底から声を出す。
「あぁ、俺か?」
男はわざとらしい仕草で自分を指さした。
「そうだ」
相手のペースに巻き込まれるわけにはいかない。俺はさっきと同じ調子で言葉を吐いた。
「俺はな、あんたの」
男は俺を指した。
「恋人の」
次は顔を伏せたままの佐々木に指先を移す。
「お父さんの」
そして天井を指さし、
「弟や」
最後に自分を指さし、何事もなかったかのようにしれっと言ってのけた。
*
俺は突如として現れた中年の男をにらみつける。佐々木のお父さんの弟、ということはつまり、
「あんたは佐々木のおじさんということか?」
俺は男を睨み付けながら、敵意を隠さない声で尋ねる。
「あぁ、そうや。伯爵の伯を使わへん方のおじさんな」
そんな俺の敵意がわかっているかわかっていないのか、男は飄々とした態度で口笛でも吹くように言ってのける。
ドアにもたれかかるようにして立つ佐々木の叔父さん――いや、こんな奴はもう佐々木のおっさんでいい――は俺を値踏みでもするように見つめている。正直、かなり腹立たしい。それにさっきからうつむいたままの佐々木の様子も気に掛かる。
「何をしに来たんだ?」
言外に「さっさと帰れ」というニュアンスを思う存分振りかけながら、俺は低い声で話す。
「何をしに来たって、そら突然姪がふらっといなくなってしもうたら、探すやろ。とはいっても、いなくなっていることに気が付いたんは、今朝になってからやけどな」
おっさんはふんと鼻で笑うような仕草をする。あまりにもどうでもよさげな態度に、また腹立たしさが増す。
「悪いけれども、彼女は今そんな話をできるような状態じゃないんだ。お引き取り――」
「なら、かまへん。お前が話を聞け」
「え?」
おっさんは俺の言葉を遮って、俺を人差し指で当然とでも言うように指さした。追い払おうとした矢先の、この予想外の展開に俺は固まる。
「ちょっと、待ってくれ。いったいどういう――」
「こいつが話を聞けへんのやったら、お前が話を聞くしかないやろ? なんか不思議か? 俺の言うてることがおかしいか?」
おっさんは機関銃のように言葉を矢継ぎ早にまくしたてる。俺は何も応えられないまま、呆然とおっさんを見ている。一通りしゃべり終えたおっさんは当たり前だという表情で俺を一瞥すると、もたれかかっていたドアから体を浮かせた。
「ほな、行くで。付いてこい」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。話が見えないし、いきなり付いてこいって」
おっさんはあきれかえるようにため息を付いた。
「俺とお前で二人っきりで話をするということはや、つまりはここから俺とお前が出て行くか、それともお前の彼女を追い出すかしかないやろ。お前、自分の彼女をこの寒空の下に放り出すつもりか? まぁ、俺は別にかまへんけどな」
俺は慌てて佐々木を振り返る。佐々木はまるで自分がこの場に存在していないと思いこもうとするように黙ったままだった。
佐々木を一人にすることに不安がなかったわけではない。だが、それ以上に今のこの状態の佐々木とこのおっさんとを話させるわけにはいかない。おっさんの真意がどうであれ、佐々木にとっては聞きたくない話が飛び出す可能性の方が高いように感じられたからだ。
「……わかった。行こう」
俺はおっさんの方を振り向く。おっさんは俺の言葉に「んっ」と軽く顎を動かすだけで応えると、ドアの外へと出て行く。
「じゃあ、佐々木。俺はちょっと話をしてくるから。ドアにはちゃんと鍵を掛けておけよ」
佐々木に声を掛けると、俺も後ろ髪を引かれながらもおっさんの後を追って外へ出た。部屋を出るまでの間、哀しいくらいに、背後に人の気配が感じられなかった。
「この近くに公園があるな? そこで話するけど、ええよな?」
階段の下で俺を待っていたおっさんは俺を見上げて言いたいことだけ言うと、くるりと身を翻して、さっさと俺を置いて歩き始める。
「ずいぶんとこの辺りに詳しいな」
傍若無人な態度に腹が立ったので、先を歩くおっさんの背中に嫌みをぶつけてやる。
「まぁな。今朝、このアパートに来たんはええけど、誰もおらんかったからな。しゃあないし、しばらくこの辺り歩き回って、あの公園でちょっと暇つぶししとった」
黒いトレンチコートのポケットに手を突っ込んだまま少しうつむき加減におっさんは歩く。佐々木のお父さんの弟というには、雰囲気が若々しい。まだ三十代くらいに見える。しかし佐々木が否定しなかったことを思うと、嘘ということはないはずだ。年の離れた兄弟なのだろうか。
「ちょうどええ具合にベンチが空いとるな。あそこに座るで」
おっさんはポケットに手を突っ込んだまま独り言のように言うと、俺を置いて公園の入り口のポールをまたいで、さっさと公園の中へ入っていく。この寒い中正午近くのこの時間を公園で過ごしている人影などほとんどなく、閑散としたものだ。
「話をするなら、喫茶店とかの方がよかったんじゃないのか?」
「阿呆か」
ふとした疑問をぶつける俺に、おっさんは全く取り合わず、ベンチにどかりと腰を下ろす。足を投げ出して、「あー、さむ」と白い息を吐いた。仕方なしに、俺もおっさんの隣に腰を掛ける。
「おい」
「なんだよ」
「あいつの調子はどうや?」
俺が座るやいなやおっさんはぶっきらぼうな調子で尋ねてきた。おっさんは俺の目を見ようとしない。
「あいつ?」
「お前のかわいい彼女や」
「……見ればわかるだろう」
「ふん」
おっさんは軽く鼻を鳴らしただけだった。そして、おっさんは少しだけ目を細めると唇を尖らせた。
「それよりも何があったんだ。昨日、あいつが家を出たきっかけ。何かあったはずだろう?」
「別に、大したことはない。親戚連中が遺産配分を巡って、お互いに罵り合いながら喧嘩し始めた。ようある話やろ?」
「遺産配分?」
「親戚連中いうてもいろんな奴がおるからな。借金こさえとる奴、何か事業を始めるのに金が必要な奴。おもろいで。そういう連中はどいつもこいつも必死やったわ。権利だの、なんだの言うてな。肝心の一人娘はほったらかしでな」
「……その光景を目の当たりにして、あいつは家を出たのか」
「笑えるで。さんざんお互いを罵り合って、連中があの子がおらんことに気がついたんは、今朝になってからやからな」
それからおっさんは軽く鼻で笑うと「くそったれどもが」と吐き捨てて、地面をつま先で軽くえぐった。
「で、あんたはあいつを連れ戻しに来たのか?」
「別に」
おっさんはまたどうでもよさそうに言う。連れ戻しに来たのではないのなら、ほかにどんな目的があるというのだろうか。俺はおっさんの真意を計りかねて、おっさんの表情をのぞき込んだ。
「……だいたい、あの子の態度見てたらわかるやろ。俺ら兄弟がどんな関係にあったかくらい」
おっさんは俺とちらりと目を合わせると、ポケットからタバコを取り出しながら言った。まだ封を開けたてらしいタバコの箱の底を人差し指で叩く。
「そうだな。あんた、言葉も訛っているしな」
「気ぃ付いたら、人生のもう半分近くの時間を故郷から離れて過ごしてきたからな。言葉も変わってしもうたわ」
おっさんは足を組んでタバコに火をつけると、まただらしなく両足を投げ出した。
「兄弟仲が悪かったのか?」
「……一方的にな。俺らも、結構早うに両親なくしたんや。俺と兄貴は結構年が離れていたからな。兄貴は俺の面倒よう見てくれたよ。近所では兄弟で助け合って暮らしているって評判やったんや」
おっさんはポケットに両手を突っ込んで、すこし前屈みになった。
「けどな。ちゃうねん。兄弟が助け合うとったんちゃうねん。ほんまは俺が、一方的に助けられとっただけやねん。腹立たしかったわ、ほんまに。無責任に同情する奴らが。どいつもこいつも人がまるで兄貴のおかげで生きているみたいな目で見くさって。『お兄さんに感謝しなさいよ』? じゃかあしいわ。まぁ、そんなこんなで迷惑ばっかかけとったアホな弟は、高校卒業するや家飛び出して今に至るっちゅう話や」
「一人で生きていくのは大変じゃなかったのか?」
高校卒業と同時に一人で生活を始める。今なら、どうしようもない無力感を味わされ続けた今なら、その難しさが身に染みてよくわかる。
「それなりにな。でも、兄貴の付属品みたな扱いからは抜け出せたからな。とりあえずは、それでよかったわ」
それからおっさんはまたつま先で地面を削ると、「ひとりぼっちになったとも言うけどな」と少し自嘲気味に笑った。
「兄貴が交通事故で死んだ、って聞いたときな。最初に頭ん中浮かんだのは、兄貴の姿ちゃうねん。俺の、子供の顔やった。なんやろ。兄貴が死んだことが悲しいとか、そういう以前に、もしも俺がおらんようになったらこの子らはどうなるんやろって、そう思た」
おっさんはため息のようにタバコの煙を吐く。曇天模様の空の下で、タバコの煙がぼんやりと広がる。
「そんなもんや。俺と兄貴の関係なんてな」
おっさんはタバコを地面に投げ捨てた。投げ捨てられたタバコが放物線を描いて、地面に火花を散らしながら転がる。
「人にさんざん偉そうに説教たれときながら、何死んどんねん。アホが。娘だけ残して、何やっとんのじゃ。ほんまくそったれが」
おっさんは髪を掻き上げながら、一人地面に言葉を吐き捨てるようにつぶやく。
「おい、こら。ガキ。お前、俺がタバコをポイ捨てするのを見て、ほんま態度悪いなこのおっさんは、とか思とるんやろ」
おっさんは自分の髪の毛を掴んだまま、俺を見ずに言う。突然のおっさんの言葉に俺はどう反応していいかわからずにとまどっていた。
「俺はな、タバコ、やめたんや。子供が生まれるときにな。やからポイ捨てなんかもせえへん。けどな、俺がそんなんやらへんようになったから言うてなんになんねん? え? 人一人が死んでまう。それの重さに対して、たかがタバコをポイ捨てすることがなんになんねん。どうでもええやないか。モラルもへったくれもないやないか。どうしようもないやないか。ほんまに。くそったれが。なぁ、おい。ほんまどうしようもないやないか」
おっさんはベンチの先に落ちている空き缶に視線を釘付けにしたまま、一人しゃべり続ける。
「人が、死ぬ、いうのは、どうしようもなく強いな。どうしようもない。逆らえへんわ。ただ、いなくなる。それだけの、ことや。あるかないか、ほんまそれだけのことや。間を取った譲歩の余地なんて、なんも残されてへん。ほんまにな……。くそったれが」
おっさんは両手で頭を抱えたまま、ずっと空き缶を見つめている。地面に転がっている空き缶は、誰かに踏まれたらしく形がへこんでいて、飲み口の辺りに錆が見えた。
右手で前髪を掻き上げるように頭を押さえていたおっさんは再び「ふん」と鼻で笑うと、俺を見た。
「関係ない話してすまんな。お前に言わなあかんのは、こんな話違たんやけどな」
少し自嘲気味に唇をゆがめる。そしておっさんは大きく息を吐いた。
「例のトラックのドライバー。そいつが遺族に謝罪したいと言うてる。一応警察の事情聴取も終わって、病院側からも許可が出たらしいわ。俺は、それを伝えに来た」
トラックのドライバー。この状況の原因となった人間。居眠り運転で対向車線にはみ出して、そして――
現実感のわかない感覚の中、義務的に怒りがこみ上げてくる。唐突に頭の中に顔も知らない相手のイメージだけが作られ始める。生きているのだ、こんな事態を引き起こした張本人が。
俺は右手が震え始めるのを感じた。
「避けては通れへん道やで。これは」
おっさんは俺の心理を見透かしたのか、ぼそりと言った。
「本来は俺辺りが付いていくのが一番筋が通っているはずなんやけどな。いかんせんこんなんや。あの子が一番信頼できる人間が側に付いてたるほうがええ」
「……だから、わざわざ俺を連れ出したのか」
「まぁな。他人にこんなん押しつけるのはどうかと思うけど、けど、逆に他人やからええのかもしれん」
おっさんはそう言うと、ふところから一枚の紙を取り出した。それをずいっと俺に突きつける。
「病院の場所と、連絡先や」
「あんたは……どうするつもりなんだ?」
俺は紙を受け取らないまま、おっさんの表情を見つめる。
「俺も、まぁ、顔は出さなあかんやろな」
「例の遺産相続の話はどうするつもりだ」
「アホどもは勝手に吠えさせとけばええ。世の中には法律いうもんがあるし、別にあのくそったれどものためにこっちが慌ててやる必要もないわ。それに遺産なんて、俺にはどうでもええ。この年になってやっとこさ一人で生活支えられるようになったのに、また兄貴のおかげで生活できているなんて陰口叩かれるのはごめんやからな」
俺は紙を受け取った。おっさんは俺に紙を渡すと、ゆらりと立ち上がる。
「丸投げみたいな形になって、すまんな」
おっさんは両手をポケットに突っ込んだまま、上を見上げて呟くように言った。
俺は何も言わずに、紙をポケットに折りたたんで突っ込む。おっさんは視線を下にずらすと、
「ほんま、なんなんやろな。人生順風満帆にいっとったはずやのに、何突然死んどんねん。くそったれが。ほんまどうしようもないわ。なんやねん、わけわからんわ。ガキだけ残して、そんなアホみたいな終わり方。ほんまに、くそったれが」
おっさんは一人そう言葉をつぶやくと、投げ捨てたタバコをぎりぎりと踏みしめて、ポケットに手を突っ込んで歩き始めた。
取り残された俺はベンチに座ったまま、ポケットの中の紙の感触だけを確かめる。
ポケットから手を出して、足下の小石を拾ってみた。それを目の前に転がっている空き缶に投げる。小石は空き缶に見事に命中して、コン、という音がして空き缶が半分ほど回転した。
こんなくだらないことばかりうまくいって何になるっていうんだ――
「くそったれが」
ポケットに手を突っ込むと、俺は一人呟いた。
*
俺はうつむいたまま、ポケットの紙の感触だけを確かめて、インターフォンを押した。すぐに鍵の開く音がした。扉はそのまま開く気配はしない。俺は自分でゆっくりとドアノブを回した。
「ただいま」
「おかえり」
明かりをつけないままの玄関に佐々木が立っていた。口元に笑みを浮かべながら、俺を見つめている。その姿がどこか嘘みたいで、俺は視線を下に向けた。
「どうだった?」
「大丈夫。追い返してきたよ」
佐々木の予定調和な質問に俺はうつむいたまま答える。
「そう」
佐々木はそれ以上何の詮索もしないまま、くるりと踵を返すと、部屋の中へ戻っていく。
「コーヒー。お湯を温めておいたから、すぐに淹れるよ。外は、寒かっただろう?」
「……あぁ、ありがとう」
俺は先ほどまでとは違う佐々木の態度に少し驚きながらも、やはり違和感は拭いきれずにいた。いつも通りだ。きっといつも通りの佐々木なら、こういう風にして俺を出迎えてくれるだろう。そして、いつも通りだからこそ、おかしい。
俺は部屋の中に入って佐々木の様子を改めて見つめる。服は着替えている。髪も少し濡れている感じがするから、俺が外へ出ている間にシャワーでも浴びたのだろう。
「さっきは、変なことを言って、ごめんね」
佐々木は電気ケトルの口からぼんやりとかすんだ糸のように湯気が流れ出るのを見つめながら言った。
「気にしていないから、大丈夫だ」
佐々木の後ろ姿を見つめる。なぜかそれは水彩画のように見えて、そこに水を掛ければ簡単にすべてが滲んで消えてしまう気がしたし、ナイフを振りかざせば簡単に引き裂けるように思えた。
やはり、おかしい。佐々木は必死に時間を止めようとしている。けれども、そういうわけにはいかない。時間が止まった世界にいるのは、死人だけだ。俺たちも、そうなるわけには、いかない。
「佐々木、あの――」
「なんだい?」
佐々木は振り向かないまま、答えた。俺はその先の言葉がうまく続かない。
丸投げみたいな形になって、すまんな――
全くその通りじゃねえか、おっさん。一番やっかいな所を俺に押しつけやがって。
「先に、テーブルに座っておいてくれ。今、丁度豆を蒸らし終えた所だ」
「佐々木、だから俺には話が――」
「……別にコーヒーを飲んでからでも、かまわないだろう」
佐々木は俺にかまわずに濾紙の上にとぽとぽとお湯を注ぎ始める。コーヒーの香りが部屋中に広がり始めた。
「佐々木、次はどうするつもりだ?」
「え?」
俺の言葉に佐々木は初めて振り返った。その表情には驚きととまどいの色があった。
「どうするってどういう――」
「次、俺が話を切り出そうとしたとき、お前はどうやってごまかすつもりだ? 次は昼飯でも食おうっていうのか? そうしたらその次はおやつでも食べようっていうところか?」
佐々木は先ほどまでの笑顔を一気にろうそくを吹き消すように消して、振り返ったまま無表情に俺を見つめている。世界からは音が消えている。時間が、止まったような錯覚に陥る。
「それとも、また馬鹿なことを言い出すのか」
俺の口から無慈悲な言葉がするりとこぼれ落ちた。
「……キョン。それは、少し、ひどくないか」
無表情な彼女の言葉は心の奥に突き刺さる。
「あぁ、そうだな、ひどいな」
俺は彼女にひどいことを言っている。わかっている。けど、俺たちのいる現実は、もっとひどいことになっているんだ。傷つかずに済む事なんて、あり得ない。なら、同じ傷つくなら、前へ進みたい。逃げないで欲しい。
「あのおっさんがここへやって来た本当の用事は」
そこまで言って、俺は息を呑んだ。空気中の酸素が薄くなったように感じる。胸が苦しい。呼吸が出来なくなったみたいだ。
佐々木は無表情なまま、俺の次の言葉を待っている。偉そうな事を言って、俺自身がおびえて震えているわけにはいかない。そうだろう?
「面会を、求めているんだ。あのトラックのドライバーが。遺族に謝罪したいと」
俺はポケットの中の紙をぎゅっと握りしめた。手の中の汗が紙に染みこんでいく感触がする。俺は彼女をまっすぐに見つめる。
ひとりぼっちになった彼女に、俺もただ一人で向き合う。これで五分だ。文句は言わせない。
別に俺は神様になりたいわけではない。こんな風に何も出来ないままでもかまわない。ただ、勇気が欲しい。ずっと彼女を支え続けられるような、勇気が欲しい。
「大丈夫だ」
俺は一歩前へ出た。そして、所在なげに下がったままの佐々木の手をぎゅっと握りしめる。佐々木は長い睫毛で縁取られた瞳を上へ向けた。
「俺が、ずっと付いてるから。ずっとこうして手を握っているから。だから、大丈夫だ。絶対に、離さないから」
少し冷たい佐々木の手に、俺の体温が広がっていくのを感じる。
俺に出来るのがこれくらいしかないのなら――俺は馬鹿みたいにそれをやり続けてやる。
「まるで、プロポーズしているみたいだね」
佐々木は少し困ったように笑った。小首をかしげると、おもむろに余った片手を俺の肩へともってくる。
――似たようなもんだよ。
俺は言葉を口の中で噛みつぶした。
「すまない。まじめな話だったのに、茶化してしまったね」
佐々木は俺の肩をぽんと叩くと、すっと距離を取った。
「……行こうか。なんだか、今はいろいろあって頭の中が混乱していて、なにがなんだかよくわからなくなっているから――だから、今行こう。この勢いのまま、逃げ出せないくらい近くまで行ってしまおう」
「……わかった」
俺にはそう答える事しかできない。これから佐々木が何に出会うのかもわからないし、どれだけどんな風に傷つくのかもわからない。それでも、ただこの手を離さないでいる。それだけは貫き通したい。
「キョン」
「え?」
佐々木に声を掛けられて、俺は目を丸くする。
「どうした?」
「これは実に言いにくいことなのだが……」
「あ、あぁ」
不安に駆られて俺はがくがくと頷いて相づちを打つ。
佐々木はくっと吹き出すと、
「そうやってずっと手を握られていると、コートが着られない」
「あ、すまん!」
俺は慌てて佐々木の手を離す。
佐々木は口に手を当てると、喉の奥であきれたように、そしておかしそうに笑い声を上げた。
それは、久々に見た気がする、彼女の笑顔だった。
*
無機質に磨き上げられた床に、足音はよく響く。気持ち悪いほど綺麗な病院のロビーは、ここへは二度と来たくないという想いを強くする。
俺は彼女の手を握りしめる力を強めた。彼女の足音を見失わないように。
「ちょっと、待っててくれ」
俺はダウンのポケットからおっさんにもらった紙を取り出した。そこにかかれている病室の番号と相手の名前を確認する。
これはアポイントもくそもない突然の訪問だった。常識が全くない行動だと非難もされるだろう。でも、しかたがない。佐々木がその気になった、その瞬間に合わせてやって欲しい。
相手の名前と病室の番号を確認する。乱暴に破かれたスケジュール帳の一ページには、おっさんの汚い字で他に病院の名前と住所が書いてあるだけだ。愛想もくそもない。
俺の隣を若い母親が子供をたしなめながら通り過ぎた。紙から目を離して、大学病院のロビーを見渡してみる。ただ見回してみただけでは、ここに重病人がいるようにはとても見えない。でも、それはただ見えないだけのことなんだろうな、と思う。
「俺、あそこの受付みたいなところで訊いてくるから、お前はここで待っていてくれ」
「わかった」
俺の言葉に佐々木はすぐに答えたけれども、お互いになかなか手を離すことは出来なかった。佐々木の手のぬくもりに後ろ髪を引かれるような重さを感じる。今、ここに彼女を一人置いていくことは俺にとっても不安なことだった。でも、ここで相手の都合を確かめる真似を彼女一人にさせたくはなかった。
俺は意を決して、手の力をスッと抜いた。突然重力に引かれた彼女の手は、すとんと落ちる。
一秒ほど、彼女は二人の手のあった先を見つめていた。
俺は軽く右手を挙げてみせると、大丈夫だとわざとらしく笑ってみせる。そして、つま先を向かうべき方向へ向けた。
「……早く戻ってきてくれると、うれしい」
二歩ほど進んで、背中の向こうから小さな彼女の声が聞こえた。
*
おっさんからもらったメモの下に汚い字で、それでもおっさんの字よりかはましな字で、黒いボールペンで走り書きされた言葉をじっと見つめる。
――六階 面談室。
相手方に確認を取ってもらって、準備が整うまで待合いロビーで過ごした三十分程度。それはどうしようもなく長く感じられた。まるで死刑執行でも待っているような気分で、俺と佐々木は待合いロビーの隅の椅子に並んで座っていた。
佐々木は今日の昼間見せたような快活な笑顔はもう見せなかった。じっと自分の足下を見つめながら、俺とつながっていない左手で時折髪を掻き上げる仕草をしてみせるだけだった。その間、俺はただぼんやりと目の前を通り過ぎていく人たちの姿を見つめていた。
このただ当たり前のようにしか見えない光景の中に、いったいいくつの傷口が潜んでいるのだろう。そんなことばかりを、ずっと思っていた。
不意に体にぐんっと下向きの重力が掛かった。ドアの左脇の表示を見る。六のランプが鈍く光っている。着いた、みたいだ。
俺は佐々木に視線を向けた。佐々木は俺に視線を返さない代わりに、空いている手で俺の袖をぎゅっと掴んだ。
エレベーターのドアが脳天気に開いて、俺の視界を一気に広げる。見えるのは蛍光灯色した無機質な廊下だ。愛想のないクリーム色の壁の向こうに、その場所はある。
俺は佐々木の肩を抱くようにして、エレベーターから降りた。身長差のある俺が少ししゃがむようにして佐々木に高さを合わせて歩く光景は、肩を抱くというよりも、まるで一人で歩けない彼女に肩を貸しているように映るのかもしれない。
――多分、それは正しい。
*
ドアの前に立つ。そのドアがまるでどこか異世界にでもつながっているような気がする。俺が感じているのはただ、このドアを開いて現実が壊れてしまわないで欲しいという、ただ祈りにも似た気持ちだった。
ゆっくりとまるで壊れ物を叩くようにドアをノックする。このドアをノックするのも、このドアを開くのも俺の役目。そして、佐々木が逃げ出してしまわないように、この部屋の入り口を塞ぐのも、俺の、役目。
ゆっくりとドアを開いた俺は拍子抜けした。当たり前のことかもしれない。けれども、そこにいたのは悪魔でも何でもなくて、普通の人だった。普通の家族だった。
部屋の真ん中に置かれた白いテーブルの片側に並んで、パジャマ姿のまま足にギブスをつけた男と腕に赤ん坊を抱いた女がいる。男は頭にも包帯を巻いて、眼鏡を掛けていて、ぼさぼさの頭のまま俺たちを見るとうつむくように頭を下げた。
そう言えば、俺は相手の男の状態を聞いていなかった。
目の前の男がこの程度で済んでいるなら、佐々木の両親だってこれくらいで済んでいてもよかったんじゃないか。なんでだ? なんで同じ事故なのに、片方はこんな風に普通に生きていて、もう片方は死んでしまうんだ?
俺はある種の理不尽さと無慈悲さを感じていた。それを神の思し召しなどと呼ぶのなら、俺は神様なんて信じないだろう。
部屋に現れた俺たちに相手の男が頭を下げたので、俺も反射的に形だけの会釈を返す。佐々木は無言のまま、相手を見ようとせずにいる。
部屋の中にすべての物音を殺してしまったような沈黙が広がる。佐々木の希望により仲介者はいない。相手の方もその条件を了承した。
男の隣にいる人は――多分、奥さんだろう。年は三十前後といったところだろうか。すだれのようになった長い髪の隙間から、真っ赤な目が俺たちを見つめている。それは許しを求めるようにも、救いを請うようでもあって、その目に俺は正直胸の中で何か重苦しいものがもやもやと広がるのを感じざるを得なかった。
「……佐々木さん、ですか」
重々しい沈黙をゆっくりと膨れあがった風船に針を突き刺すような声で、男が破った。
「そうです」
沈黙したままの佐々木に代わって、俺が答える。男はうつむいていた顔を少し上げると、俺に怪訝そうな視線を送ってきた。
「付き添いです」
その意を察した俺はぼそりと素っ気なく答えた。
男の向かいに椅子が用意してある。おそらくは、そこに俺たちが座るために用意されたのだろう。
俺は視線を逸らしたまま固まっている佐々木の肩に少し力を掛けて、椅子の方へ誘導してみた。しかし、佐々木は全く動こうとする気配を見せない。ただ、異質なこの部屋の中でまるで水に落とした油の一滴のように、ぼんやりと浮かび上がろうとしている。
「おい」
小さな声で呼びかけてみたが、佐々木は何も聞こえないふりをした。
男が心配そうな視線を俺に送る。
やめてくれ。俺に頼られてもどうしようもないだろう。
「すみません。このままで」
言葉に出した後、なぜ俺が謝っているのかと一瞬腹立たしく思ってしまった。
しかし、とにかく佐々木が動こうとしない以上、このまま話を進めるしかない。不安そうな目で俺を見上げる男に、俺は頷いてみせた。
――とっとと終わらせちまってくれ。こんなの。
「このたびは、本当に、申し訳ありませんでした」
男は深く頭を下げた。
哀しいくらいにありきたりの言葉だ。でも、それ以外にどういう言葉があるのかは俺にはわからない。
「すみませんでした。申し訳ありませんでした」
女の方も男に合わせて頭を下げた。
震える声と、どうしようもなくありきたりの言葉がこの部屋を満たす。いま、ここで、このどうしようもなさから無関係でいられるのは、女の胸にいる赤ん坊だけだろう。
「すみません、すみません」
男は涙声で、壊れたテープレコーダーのように同じ言葉を繰り返しながら、水飲み人形みたいに頭を下げ続ける。
――こんなことに何の意味があるのだろう。あんたは頭を下げてくれているけれども、それで何かが変わるのか?
目の前の男がそれ以外に言う言葉を知らないように、俺たちにもこの言葉の受け止め方はわからない。ただ、渦を巻く水に絵の具を落としたように、何か得体の知れないものが広がって、濁っていく。
次第に俺の手からは力が抜け落ちていった。
「すみません、すみません」
男はまだ頭を下げ続けている。それはもう俺たちに謝っているわけでもなんでもなくて、どっかにいるかもしれない救いを求めて神に頭を祈っているように見えた。
もしも、その祈っている神様がこんな現実を引き起こした相手なら、俺は祈りではなく罵詈雑言をぶつけてやる。この世界のどこかに、そんな都合のいいものがいればの話、だが。
「すみません。こんなことなら、私も、死ねばよかったんです」
男が発した言葉に佐々木の手がぴくりと反応した。その変化を感じ取った俺は佐々木の横顔に振り向く。
「私だけが、こんな風におめおめと生き残ってしまって、人の命を奪ってしまって、自分だけ生き残ってしまって。私も、死ねばよかったんです。いえ、むしろ私だけが死ねばよかった――」
「ふざけないで」
佐々木が初めて言葉を発した。冷い鉄のように堅く尖っている声だった。
男が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げて佐々木を見つめる。
「ふざけないで。私が、私たちがどんな風になったかも知らないで。生き残ったくせに。一人だけ悠々と生き残ったくせに。口先だけで、死ねばよかったなんて」
佐々木は大きく腕を振り上げると、そのままつないでいた俺の手を振り払った。
「だったら、死ねばいいでしょう! 今すぐ! その窓から飛び降りて! わかったようなふりをして……。死にたいんでしょ。だったら、今すぐ死になさいよ! あんたが本当に謝るべき人はここにいないから、だったら死んで謝りに行きなさいよ! この人殺し!」
そして矢継ぎ早に息もせずに大声で言葉を発し続けた佐々木は、肩で大きく息をしていた。
俺は豹変した佐々木を見つめたままぼんやりとそこに佇んでいた。ふりほどかれた手の感触だけがそれでも生々しく残っている。
狭い部屋に泣き声が響き渡った。それは、佐々木のものでもなくて、男のものでもなくて、女の手に抱かれた赤ん坊のものだった。赤ん坊が大きな声で泣いていた。
その赤ん坊の姿を見て、佐々木は目を大きく見開いた。そして両手を口に当てる。また、取り返しの付かない何かを見てしまったかのように。
がたん、と椅子が倒れる音がした。
佐々木の怒声にしばらく我を忘れていた男が椅子をなぎ倒して床に土下座している。その方が小刻みに震えていた。
「すみませんでした! 本当に、すみませんでした!」
額どころか顔面を床にこすりつけるようにして男は叫ぶ。
佐々木は震える指先の隙間から、赤ん坊の姿と男の姿を交互に見て、そして、部屋を飛び出した。
様々な出来事に気を取られた俺は、一瞬の間の後佐々木を追って部屋から走り出た。背中の方から聞こえてくる男の声。俺が閉めたドアの向こう、そこに地獄が閉じこめられている気がした。
*
ドアを開いてからエレベーターまで、廊下が一直線で助かった。ドアから出ると、すぐに先に廊下へ飛び出た佐々木の背中を見つけることが出来た。
よろけるように壁に時々ふれながら走る後ろ姿を追いかける。あいつは自分がどこへ向かっているのかも定まらないように走る。多分、あいつ自身にも逃げられる場所なんてわからないんだろう。
「佐々木!」
まっすぐに佐々木へ向かって走る俺はすぐに追いつくことが出来た。俺は佐々木の肩を引き留めるように掴む。
佐々木は抵抗することもなく、立ち止まった。必要以上に荒い彼女の息づかい。呼吸のたびに胸が大きくふくらむ。
「最低だ……」
佐々木は服の袖で目頭を押さえながら呟いた。
「仕方がない」
仕方がない? 何が仕方がないのだろう? 俺は何を伝えたいのか。何を伝えるべきなのか。俺はこんな見当違いの言葉しか掛けられない。
「ほら、お前はちょっと疲れてしまっているんだ。だから、少し休もう。まずは落ち着こう。なっ」
「最低だ。本当に最低だ……」
佐々木は俺の声など届かないかのように、同じ言葉を繰り返す。
「あんな小さな子供の目の前で、私は、人殺し、なんて」
佐々木はそのままその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
「あの大きな目が、私を見ていた。私は、あの子の前で、あの子の父親を、人殺しと言ってしまった。あの子は、ずっと背負っていくんだ。一生、ずっと、あの子は。あの家族も、ずっと」
「おい、しっかりしろ」
俺もしゃがみ込んで佐々木の肩をさする。佐々木は震えたまま、俺を見ようともしない。
「私が、壊したんだ。あの家族の生活も、幸せも。同じように、私が壊してしまったんだ」
佐々木は呪詛のように繰り返す。俺は下向きの螺旋をゆっくりと落ちていくような佐々木の肩を揺さぶる。
「違うだろ。お前のせいじゃ、お前のせいなんかじゃ」
「見ないで」
それは色のない声だった。
「お願いだから、見ないで。こんなの、キミには、見られたくない」
「だから、って、お前――」
「触らないで」
その一瞬、触れる佐々木の肩と手の間に冷たい憎しみがあることを感じた。佐々木をさする俺の手が止まる。手のひらを、何か尖ったものが貫いたように思った。
「馬鹿なことを言うな。こんな――」
「見ないで!」
佐々木の声が辺りにサイレンのように響いた。俺はのけぞるようにして、佐々木から手を離した。廊下のドアが開いて、看護士らしき人物が数人顔を出す。
「んな、あ」
うまく言葉が出ない。何も、言葉が出ない。目の前でうずくまって震えているのに。
俺の手はさっきふりほどかれたままだった。つながらない。彼女に、つながらない。
ぼんやりと存在しているのかどうかもあやふやな右手で、こんなちっぽけな何も出来ない手で。俺は、自分が彼女にとっての何になれると思っていたのだろう。なぜ、こんなちっぽけな手ですべて受け止められると、そんな気がしていたのだろう。
「おい、立て。邪魔や」
誰かが俺の肩を突き飛ばすように乱暴に俺を立たせた。ぼんやりとしたまま、俺を掴む腕の主を見る。
それは今朝と同じ格好のままの、佐々木のおっさんだった。
*
窓の外から降り注ぐ西日を浴びながら、待合室の隅にある壁際の椅子に座っている。夕方の病院はもう外来の患者もほとんどいなく、待合室は閑散としたものだ。ぼんやりと俺は足下の影を見つめている。
「ほらよ」
隣にどすんと人が座る気配がして、下を向く俺の視界にずいっと人の右手が入ってきた。
「一応、差し入れみたいなもんや。なんや? いらんのか? ひょっとしてコーヒー嫌いなんか」
「いや、別に」
俺は相手を見ないまま、答える。
「ほうか。なら、受け取れや。俺が人におごったるなんて、結構レアなんやからな」
そう言って俺の膝に缶コーヒーを放り投げるように置いた。冷たい感触が太ももから広がっていく。
「このくそ寒い真冬につめたい缶コーヒーかよ」
「その方が頭も冷えるやろ」
おっさんは素っ気なく言うと、自分の缶のプルトップを引いてそれを一口飲んだ。
「ふぅー。あったまるなぁ」
「って、あんたのは温かいのかよ」
「アホか。このクソ寒い中、飲むんやったらあったかい奴に決まっとるやろうが」
「信じらんねえ。このクソオヤジ」
悪態をつきながらも、俺も缶コーヒーの蓋を開ける。冷たいコーヒーを胃に流し込む。ろくに何も食ってなかった胃袋にコーヒーが染みる。確かに、悔しいけれども、頭が冷えるような気がする。
おっさんは「ふぅー」と大きく息を吐くと、後頭部を壁につけて、だらしなく両足を投げ出した。
「小僧」
「なんだよ」
「あの子は、今、鎮静剤が効いて眠っとる」
「……そうか」
「あぁ」
そう呟くとおっさんはまた一口缶コーヒーを口に運んだ。
あの時、廊下で佐々木が大きく取り乱した時、おっさんが看護婦さん数人を連れて現れた。震え上がる佐々木に手を差し伸べたまま、その手を届かせることも出来ず、ひっこめることも出来ないでいた俺をおっさんは佐々木から離すように抱え上げると、そのまま看護婦さんたちにうずくまったままの佐々木を任せた。
結局、あのとき、俺はおっさんが来てくれなければどうしようもなかった。
どうしようもない無力感がまた俺を支配する。そして、そのことにもう悔しさすらも感じなくなっている自分自身に気がついた。頭の中ではっきりしているのは、どうしようもないほど、何かが壊れてしまったことだけだった。
からっぽ――その言葉の意味が、今なら身に染みてよくわかる。
「ほんの二、三時間しか寝えへん生活を続けていたらしいわ」
おっさんは誰にともなく、呟くように話し始めた。
「あのトラックの兄さん、子供が生まれたばっかで、仕事クビになるわけにはいかへんからてな、真面目に会社から言われたとおりに働いとったらしいわ。一日のほとんどを高速の上で過ごすような生活をしてな。その結果の居眠り運転やった、らしい」
おっさんは缶コーヒーを両手で持ったまま、うなだれるように体を折り曲げた。
「えらく、詳しいな」
「一応、警察から事情の説明は受けているし、新聞の社会欄にもちっこく載ってるわ」
おっさんはゆっくりと缶コーヒーを唇に近づけた。しかし、それを飲むことはなく、また膝の上に缶を戻す。
「なぁ。もしも相手がどうしようもないクソ野郎で、これが飲酒運転とかやったら、もっと楽に相手を憎めたんかなぁ。相手が血の通うてへん悪魔で、家族とかそんなんもおらんくって。殴っても蹴飛ばしても心が痛まへんような相手で」
「……あの人たちに会ったのか」
おっさんは数秒ほど黙り込んだ。
「いや」
聞こえるか聞こえないかというほど小さな声で、おっさんは言った。
「俺と佐々木には会うように勧めたくせにか」
「卑怯で臆病やねん、俺は。避けては通れないとわかってはいるんやけれども、とてもやないけど、一人では、な」
「……あんたの家族と来ればいいんじゃないか」
「家族には、その時の俺の姿は見せたくないんや。特に娘にはそんなもん、見てもらいとおない」
おっさんは右手の中指で缶を叩くと「それにな」と前置きして続けた。
「俺、自分がどうしたらええかわからへん。泣けばいいのか、怒って殴りかかればいいのか。ずっと、俺ら、いや、俺が意地張っていがみ合うてばかりいたからな」
そして、おっさんはまた缶コーヒーをコンと叩く。
「なぁ、もしも俺が相手に泣きながら殴りかかったりとかしたら、俺ら仲の良かった兄弟やったみたいに見えるんやろかな」
おっさんは唇の端を歪めるように上げると「なんてな。まさかな」と一人吐き捨ながら笑った。
「すまんな。偉そうなことを言いながら、俺自身はこの体たらくや。一応それでもいとかなあかんと思て、病院へ飛んで来たんやけど、看護婦さん呼ぶ程度しか役に立たへんかったな」
「……俺だって、似たようなもんだった。結局、何も、出来なかった」
あのふりほどかれた手の感触が、まだ生々しくこの右手に残っている。うずくまって震える佐々木に届かなかった、この右手に。
おっさんは缶コーヒーを左手に移して、右手で髪を掻き上げた。そしてそのまま片手で頭を抱え込む。掻き上げられた前髪の下で、おっさんの視線はここではないどこかに向けられていた。
「どうしたらええかなんかわかるか、アホ。たった一人しかいいひん兄貴やったんや。この世にたった一人しか。そんなんが死んでまうなんて人生でたった一回、これが最初で最後やないか。どないしたって、いくつになったって、んなもん慣れるわけないやないか。アホみたいに面食らうしかないやないか。なぁ」
おっさんは矢継ぎ早に言葉を、冷たい床に落としていく。
「なんでこないなってしもうたんやろ。なぁ、なんでや? どうして、俺たちはこないなってしもうたんや? 俺はどないしてたらよかったんや?」
俺は何も答えられないまま、ただおっさんの横顔だけを見つめていた。この人の姿が形が薄く滲んでいくような気がした。
「ほんま、弱っちいなぁ。なんで、こんなに。人間は、ほんまに、どうしようもないくらい弱っちいよなぁ」
おっさんは同じ言葉を繰り返して、震える左手で両目を押さえた。そして、髪から離した右手を振り払うようにして、壁を殴り始める。何度も、何度も、力強く背後の壁を殴り続ける。
鈍い音が辺りに響いた。音に気がついた看護婦さんが、不審そうに俺たちを見る。
「おい。何をやっているんだよ」
俺はおっさんに飛びついて、その右手を掴んだ。俺が掴むと、一気におっさんの右手から力が抜けた。先ほどまで壁に打ち付けられていた拳が、赤く燃えるように腫れ上がっていた。
「やってられへんのや。なんか痛めつけな、やってられへんのや」
おっさんは左手で両目を押さえたまま、答えた。声が、震えていた。
*
俺は病院の応急処置室のドアを開いた。そして、ゆっくりと部屋の真ん中にあるベッドを仕切っているカーテンを開く。
そこには点滴を隣につり下げながら眠る佐々木の姿があった。
あのとき、俺が側にいたせいで彼女がパニックになった可能性があるため、俺がそのまま佐々木に付き添うことを医者は勧めなかった。それに、俺は世間的には佐々木にとってはただの他人だ。そういう意味も含めて、佐々木のおっさんが彼女を引き取る事になった。
本来ならそのまま俺は追い返されてもおかしくなかったのだが、佐々木のおっさんが「眠っている間にでも顔を見ておいたれ。お前も、その方が安心できるやろ」と言って、こうして佐々木の様子を見ることを許可してくれた。
病院のベッドで眠る佐々木は、普段よりももっと小さく見える。佐々木とつながっている点滴のチューブが細くて、心許なく彼女をこの世界に繋いでいる気がした。
佐々木の右手にそっと触れてみる。小さな、手だった。
どうしてこんな小さな手に、この世界はこんなに辛い出来事ばかり投げかけるのだろう。こんな小さな彼女が、一体何をしたというのだろう。
もしかしたら、このまま目が覚めない方が、幸せなのかもしれない。辛い現実なんか、そっと忘れて。このまま眠り続けて。
窓の外は真っ暗で、闇が彼女を飲み込もうと口を開けているように見えた。窓には何も出来ないまま立ちつくす男の姿が映っていた。
壊れた。心の中にあったのは、それだけだった。もう悲しいとも悔しいとも思えなかった。心が石になってしまったみたいに冷たくて、鈍い動きで静かに海の底へ沈んでいるようだった。
なんでここはこんなに冷たいのだろう。
規則正しい寝息だけが聞こえる。時折、佐々木の眠りながら唇を噛みしめる。そして、その閉じた目からは涙がこぼれ落ちていた。
俺は右手でその涙を拭き取った。でも、涙の跡は消えなかった。
そして、結局俺が彼女のために出来ることは、本当はそれぐらいしかなかったということを、思い知った。
*
後のことをすべて佐々木のおっさんに任せて、俺は一人病院の自動ドアをくぐり抜ける。辺りはもう真っ暗で、冷たい風が頬を突き刺した。凍りそうなくらいに冷たい夜だった。
帰り道を、俺はずっと一人で歩いた。今日一日が、いや、今までがすべて嘘だったように思える。
ありえないよな。佐々木がいて、俺がいて、あんな風に日々が過ぎていたなんて。ありえないよな。
俺は一人で真っ暗な下宿に帰る。誰もいない真っ暗な部屋へ。そんな場所に、昨日の夜佐々木がいたなんて、信じられない。
最初からこうだったような気がする。元々、俺も佐々木も関係のない人間で、それが何の因果か付き合っているなんてことになって、そんなものがまた元の姿に戻っただけだ。
とりあえず眠りたかった。眠っている間、意識が現実から離れるなら、俺はずっと眠っていたかった。
負け犬の遠吠えが鳴り響く夜だ。でも、誰にも聞こえない。
*
どれだけ心が枯れていても、体というのは生きている限り目覚めてしまうらしい。
ぼんやりと眠っているのか、闇の中で息を潜めているのか、その間にいるように夢と現実を往復しているうちに辺りは明るくなって、だんだんと俺の意識もはっきりとし始めてきた。
目覚まし時計が金切り声みたいなアラームを鳴り響かせる。時刻は昼前。バイトへ行く時間だ。
あぁ、ちくしょう。
喉の奥で言葉を吐き捨てる。なんで、こんなときに、こんな状態でバイトのことなんか考えているんだろうか、俺は。
鈍い頭のまま、とりあえず起き上がる。生理現象という奴は、人の心理状態なんかお構いなしにおそってくるから、厄介だ。
トイレから出ると、俺は自分が腹を減らしていることに気づく。けれども、何かを食べようという気力がわかない。ぼんやりとしながら、台所を見るとコンビニの袋が一つ置いてあった。
あぁ、そうだ。佐々木の奴が食欲なさそうだったから、ウィダーインゼリーを一つ買ってきておいたんだったっけか。
俺は袋から銀色のパックを取り出す。プラスチックの蓋をひねって口をつける。なんとなく中途半端に生ぬるい気がするが、かまわない。胃袋に入って、とりあえず栄養になってくれればそれでいい。
まさか、佐々木のために買ってきたものを俺が飲む羽目になるなんてな。
握りつぶすようにパックから一気にゼリーを体に流し込む。からからの胃袋に生ぬるい感触のゼリーが流れ込んでいく。
それから玄関のドアを開けて、階段を降りていった。アパートの入り口にある郵便受けを開く。アルミ製の蓋がとても冷たくて、さわった指が痛むほどだった。
ここ数日のごたごたで、ろくに郵便も確認していない。どうせたいした知らせもないと思いながらも、郵便受けを開けている俺は何を期待しているのだろうか。
鍵を開けた郵便受けの中は、案の定ダイレクトメールばかりだった。そのまま放置してもよかったが、なんとなくこんなものが郵便受けにたまっているのが気持ち悪くて、中に入っている郵便物を全部わしづかみにして取り出す。
乱暴に取り出そうとしたせいか、一枚のはがきがひらひらと地面に落ちた。
「くそっ」
一人呟きながら、そのはがきを拾おうと腰をかがめた。そのとき、そのはがきの文面が目に飛び込んできて、俺は伸ばした手を止めてしまった。
『大学三年生の皆様へ。就職セミナーのお知らせです』
日常は過ぎ去っていく。俺の気持ちなんて無視して、俺がどれだけ泣きわめいても、当たり前のように流れていく。そして、今に向かってねじ曲がってやって来る。
*
コートのポケットに両手を突っ込みながら、通用口から外へ出る。ドアを開けると夜の冷たい風が一気にコートの中に吹き込んできた。
バイトの帰り道。今日は谷口がフォローをしてくれたおかげでなんとか助かった。谷口の奴がいてくれなかったら、本当にどうなっていたことか。
「だめだなぁ。本当に」
吐いた息があまりに白過ぎて、なぜか笑えてくる。
神様。あんたはなんでこんなだめな人間をこの世に産み落としたんだ?
家に帰ったところで何かやることがあるわけではない。かといって、他に行く当てもない。
このまま外をぼんやりと歩き続けて、凍え死ぬのを待ってみようか。それもいいかもしれないな。
「おい、キョン!」
後ろから谷口の声が聞こえた。振り返ると、同じように通用口から出てきた谷口が慌てた様子でマフラーを巻きながら走ってくる。
「てめぇ、バックルームで声掛けてるのにぼーっとした様子で無視して出て行きやがって」
白い息を吐きながら、谷口が走って来る。そして俺に追いつくと、膝に両手を置いて少し呼吸を整えて、改めてマフラーをちゃんと巻き直した。
「あぁ。悪い。気が、つかなかった」
「気がつかなかった、じゃねえっつうの。バイト中もぼーっとしやがって。らしくねえぞ、お前」
何も答えられない。俺は唇に薄ら寒い笑いを浮かべるだけ。
「お前、今日はこれからどうすんだ?」
「……下宿に帰るだけだけど」
「なら、今日はお前、用事ないんだな?」
「あぁ。まぁ、そうなる、な」
「よし」
谷口は鼻を鳴らして笑うと、やけに鷹揚な様子で俺の肩を叩いた。
「なら、今日はちょっと付き合え」
*
「あー、ちくちょう! 寒い!」
俺の隣で谷口の奴が悪態をつきながら震えている。ただ、谷口ではないが、今日は本当に寒い。しかも、よりにもよって川縁に男二人で突っ立っているからなおさらだ。
今、俺達二人は年末の人でごった返している三条大橋にいる。目の前を大勢の人が寒さから逃げるように少し足早に通り過ぎていく。
「すぐ来る、ってメールで返信よこしたくせに。一体、俺達何分くらい待っているんだよ?」
「まだ、十五分くらいだ」
腕時計で時刻を確認する。
「まじで? あぁー、ありえねえ、この寒さ。ほんと、ここは夏はクソ暑いくせに、冬は馬鹿みたいに寒いしよー。とんでもないとこだな、おい」
「うるさい。第一、無茶を言うな。さっき誘ったばっかじゃねえか」
「いや、あいつもこの時間にバイト終わっているはずだ。歩いたって、あっこからじゃあ五分もかからねーはずだぜ」
「……なんでそんなこと知っているんだ」
「基本だ、基本。こういう小さな努力の積み重ねが大きな結果を生むんだよ」
「気持ち悪がられるだけだと思うけどな」
そこで俺のポケットに入れた携帯が震えた。ポケットから取り出して、着信を確認する。
「もしもし。あぁ、ちょうど今俺達は橋の東側にいる。うん、そう。あ、見つけた? あ、こっちからもそっちが見えた。ほい」
適当な相づちとともに通話を切る。やれやれ。これでようやくこのクソ寒い我慢レースから抜け出せる。
「ちょ、なんで、お前のケータイにかかってくんだよ!」
「お前が、そういうストーカー的知識を持っているような人間だからだろう」
谷口のうらめしそうな視線を横目に携帯をポケットにしまい直す。
人混みをかき分けて、向かいの信号から赤いコートを着た人物が手を軽く振ってこちらに向かって歩いてきた。俺達は、目の前に現われた待ち人に軽く右手を挙げて挨拶をする。
「こんばんは。お二人さん」
「お前、おせーよ」
「おう、こんばんは。朝倉」
ぶつくさと文句を言いたそうにしている谷口などどこ吹く風という感じに、朝倉涼子は赤いコートを颯爽と翻しながら現われた。彼女には真っ赤なコートなどという派手な出で立ちだが、そこから伸びているジーンズを履いた彼女の細くて長い脚と黒いブーツで悠然と構えるその姿のおかげで、モデルのように決まっている。
「寒いわねー」
全く悪びれる様子もなく、朝倉は肩にかかった髪の毛を払った。
「お前、こっちはこの寒い中お前を待って十五分もここで立っていたんだぜ」
谷口が口をとがらす。
「仕方ないでしょ。とーとつなお呼び出しだったんだから。それにわたしはあなたみたいにバイトを終わって着替えたら、ハイ即お帰りー、っていうわけにはいかないの」
そのやりとりを端から眺めながら、今日はさばさばとした朝倉の様子が心なしか普段よりも喜ばしいものに映っている事に気がついていた。自分が世界から必要とされていないような、そんな鬱屈した気分であるため、余計に彼女が輝いて見えるのだろう。
谷口が彼女を呼んだ理由は単純明快。谷口君は朝倉さんに絶賛片思い中なのである。だから、こうして何かと理由をつけては彼女を誘う。谷口も朝倉も同じ大学の同級生なので、もちろん俺も二人とは面識がある。よって、たまにこういう形で谷口に巻き込まれたりする。
ちなみに谷口のアプローチはことごとく空振りに終わっている。もともとうちの学科一の優等生で才色兼備の彼女と谷口は釣り合いもしないのだが。
この通り朝倉涼子はこっちが引け目を感じてしまうくらいに完璧な人間だが、そのさばさばした性格が幸いして、男女ともに人気が高い。おかげでそりゃもうモテルわけなのだが……俺の知る限りでも、大学三年間の間に一体何人の男の骸が彼女の前に積み重なっていったことか。
その中で骸になってもゾンビのように立ち上がり続ける谷口の心意気には、すこし敬意を表してもいいかもしれない。
「あー、もう本当に寒い。早くお店に行きましょう。お腹空いたしね」
朝倉はわざとらしく両腕を組んで震えながら、俺達二人の顔を代わる代わる見る。それからにこりと微笑むと、
「じゃあ、今日はごちそうになるわね」
俺と谷口はお互いの顔を見合わせた。
*
うるさい居酒屋で暖色系の照明を浴びながら、朝倉の気を引こうとして一人空回りする谷口を見て笑うのは、すごく久しぶりな気がする。そして、それが昨日から続いていた現実で、当たり前であったような気も、同時に。
四人がけの正方形のテーブルに三人で座って、目の前に置かれたビールのジョッキも、食いかけの枝豆と皿に一個だけ残った鶏の唐揚げも――なんだか、俺はずっとここにいたような気がする。もしかしたら、夢だったのだろうか。俺と佐々木に起こったことも。もしかしたら、佐々木が俺の目の前にいたことすらも。
谷口が何やらを必死にしゃべりかけているのに、朝倉は枝豆をつまみながら「ふーん。そう」と愛想のない返事しか返さない。そして、メニューを開いてはがんがんと追加注文をかける。
「……お前、そんだけ食って大丈夫なのかよ。太るんじゃねーの」
「大丈夫よ。あなたと違って頭も使っているし、体も動かしているし。あ、すみませーん。おでんの追加注文よろしくお願いしまーす」
「くそぉ。人の奢りだと思って、遠慮なく食いまくりやがって……」
谷口の奴が大げさにため息をついて、席から立ち上がった。
「ちょっと、俺、トイレ行ってくるわ」
頭を掻きながら、谷口は店の奥へと歩いていく。ここで、俺は朝倉と二人になってしまった。
今までは谷口の奴が一人でしゃべりまくっていたので、一気に話題を失って場は静かになる。普段なら、朝倉相手になんとでも会話は出来るのだが、今日はそういう気分にはなれない。朝倉もそんな場の空気を読んでか、髪の毛をさっと払うと表情から色が消えていった。
「大変だったらしいわね、キョン君」
朝倉が口を開いた。わざと感情の色を押し殺したような声だった。
「谷口の奴から聞いたわ。わたし、相手に気を遣って隠し事するのとか苦手だから、言っちゃうけどね。あいつ、俺一人じゃ手に負えないから一緒にキョンを励ますのを手伝ってくれ、って連絡よこしてきたのよ」
俺は目の前のテーブルについた割れ目に視線を集中している。
「何があったかは、だいたい聞いた。大変だったわね――なんて月並みな言葉しか出てこないけど」
朝倉はビールジョッキの縁を人差し指でなぞっている。
「ときどき、谷口の馬鹿がわたしに話しかけながらちらちらあなたの様子をうかがっていたことに気がついた? あいつ本当にそういうところ気が利かないというか、へたくそだから、あなたを会話に参加させるきっかけがうまく掴めなかったみたいね」
気がつかなかった――と言えば嘘になる。元々、最初からわかっていた。谷口の奴が意識的にその話題を避けていたことも。
朝倉を呼んだこともそうだ。谷口の奴は、普段はアホみたいに言わなくてもいいことまで言うくせに、いったん他人のデリケートな部分に対して触れるときに妙に気弱になって踏み込めなくなるところがある。あいつ自身も自分のそういうところがわかっているから、朝倉に助けを求めたのだろう。
おせっかいな奴だ。普段は俺と佐々木のことについて根掘り葉掘り尋ねてきては茶化すくせに、俺と佐々木がケンカをしたりするとおろおろと本気で心配したりする。不器用で、本当におせっかいな奴だ。
わかっているよ。いつもお前はそういうとき、一人で馬鹿みたいに空回りしてはしゃいで、それからどこか不安そうな目を俺に向けるんだ。わかっているさ――お前とのつきあいもいい加減三年目になるんだからな。
朝倉が俺の目をまっすぐに見据える。
「回りくどい表現は苦手だから単刀直入に訊くけど、あなたの彼女は今どうなの?」
「どうって言われても……」
なんて言えばいいんだろう。言葉だけがぽっかりと真っ白な空白になって、何も俺の口から出てこない。
俺は目の前のジョッキに入っているビールを一気に飲み干した。ずいぶん前からテーブルにあったビールは生ぬるくて、気持ち悪い。
「……辛いことがあるんだったら、遠慮なく愚痴ってくれたらいいわよ」
朝倉はほおづえをついて素っ気ない様子で言う。
「私たちはどうせ無関係で無責任な存在なんだから。だから、何を言ってくれても大丈夫よ」
そう言いながら、朝倉は枝豆を口の中に放り込む。それから、俺の背後に向けて軽く顎で合図をした。谷口がなにやら申し訳なさそうな様子で頭を掻きながら、俺の隣の席に座った。
*
視界が変な風に曲がる。真冬だっていうのに、お腹の辺りが熱い。頬に当たる冷たい風が気持ちいい。
「あー、なんかもうフワフワする」
「お前、いい加減飲み過ぎだっつうの」
左脇から声が聞こえた。俺はぼんやりと頭を起こす。
「おぉ、この懐かしい声は我が親友谷口君じゃないか」
「くそっ。完璧にできあがりやがって」
「いいんじゃない。わたし、こんなに酔っぱらったキョン君を見たの初めてだし、なんか新鮮かな」
「無責任なことを言うなよ。こいつに肩を貸して歩いてる俺の身にもなれっつうの」
「おうおう、朝倉よぉー。お前まで、俺をキョン君呼ばわりするのかよー。っていうか、俺自分の事をキョンと呼んでくれなんて言ったかー、おい」
「絡んでんじゃねえよ、この酔っぱらいめ。お前のそのヘンテコなあだ名が定着したのは……」
谷口は何かを思い出したかのように一瞬、黙った。
「お前の彼女と初めて会ったときから、だったな。あん時のことは今でも覚えているぜ。お前の横に立ったちっこくてかわいい女の子が開口一番『いつもキョンがお世話になっています』って言ってよ。笑ったなぁ、あん時は。ほんと笑ったなぁ。キョンって誰だよ、っていうかそもそも何だよっ、てな」
「おもしろい人だよね、佐々木さん」
彼女たちの会話に出てきた人物の名に、俺は黙ってしまう。さっきまでのどこか愉快な気分が嘘のように頭の中が冷えていく。
俺は――
俺は、こんなところで一体何をやっているのだろう。一人で歩けなくなるほど酔っぱらって。それで、何をやっているのだろう。こんなことをしている場合だったのか。違うんじゃないのか。
「なぁ、なんで、なんで佐々木がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。あんな小さな背中に、一体なんでこんなに辛いことばかりが降りかかってくるんだ。なぁ、おかしいだろ、そんなの。何でだよ」
頭の中に思い浮かべた言葉が口からそのまま漏れ出てくる。
「俺、なにやってんだろ。あいつが辛い時にこんなところで、歩けなくなるまで酔っぱらって。何も出来ないからか。何も出来ない人間だからか」
俺は、何を言っているのだろう。そして、何をやっているのだろう。
「キョン」
「そりゃ、谷口も心配そうな声を出すわな。こんなんじゃ、こんな何も出来ない人間じゃあ」
俺と谷口の後ろを歩いていた朝倉が俺の肩に手を置いた。
「なぁ、なんでこんな風に辛いことばかり起こるんだ。どうして、こんなに現実は辛いんだ」
右手には、まだあのとき切られた感触が生々しく残ったままだ。夜の闇の中で、宙ぶらりんのまま浮かんでいる。
俺は目を閉じて流れそうになる涙をこらえる。
「逃げ出したい。もう、逃げ出したいよ。何もかもから。もう、逃げ出したい。俺は、逃げ出したい……」
情けない言葉ばかりが口をついてこぼれ落ち続ける。俺の情けない本心が夜の道に浮かび上がる。
本当は、ずっと震えていたんだ。ずっと怖かったんだ。こんな現実に立ち向かうなんて。本当は。
「キョン君。辛いことがあるなら、今のうちに全部出しちゃいなさい」
朝倉の声は優しかった。
「……おうよ。愚痴や泣き言なら、俺がいくらでも聞いてやるからよ。それぐらいしか出来ないけどよ、それぐらいならしっかりやってやるからよ」
谷口の声も優しかった。
「そういうこと。こんな情けない姿を彼女に見せられないんだったら、わたしたちが見てあげるから。わたしたちはあなたたちの辛さには悲しいくらいに無関係な人間だけれども、そういう無関係な人間だからこそ出来ることも、こんな風にあるから。だから、大丈夫よ。洗いざらい自分の弱さをさらけ出しちゃったら、後は勇気が湧いてくるだけでしょ」
朝倉は俺の背中を力強く叩く。
「大切な――大切な、あなたの彼女でしょ」
俺は何をやっている――?
あぁ、そうか。わかった。俺は、俺は今、家に帰ろうとしているんだ。
とにかく、まずは、そこからなんだ。
*
酩酊状態から回復した朝、というのはいつだって「もう二度とこんな事なんかやるもんか」という恐るべし後悔を伴って訪れるものである。しかしながら、そうやって律儀に毎回毎回慚愧に堪えぬ思いを味わうくせに、それでも一日でも経てばころっとそんなことは忘れてしまうのが人間の業とでも言うべきものだろうか。
そんな前置きをして何が言いたいかというと、ただでさえ記憶の空白の向こうにある最悪な朝を迎えるはずなのに、さらにはその目覚めのきっかけが口に突っ込まれた谷口の足となると、それはもう最悪を極めるべき悲劇であるということだ。
俺は谷口の靴下の味を噛みしめながら、目が覚めた。元気があったら活動を再開した休火山のごとく怒鳴り散らすくらいやってやりたいところなのだが、あいにく酩酊明けの体にそんな元気はない。げんなりしながら、谷口の足をどけるので精一杯だった。
ぼけまくった頭を漬け物石でも持つみたいな気分で持ち上げて、俺は目をこすりつつ上半身を起こす。堅いところで寝ていたせいか、背中が痛い。
「え、っと。ここは……」
かすむ視界がだんだんとはっきりしてくるにつれて、周りの景色が見慣れたものであることに気づく。それと同時に、こんなところで普通寝るはずもないことにも。
「なんで、俺は廊下で寝ているんだ?」
そう、ここは懐かしき俺の下宿。でも寝ているのはベッドじゃなくて、台所の前の廊下。そこになぜか俺と谷口が折り重なるように眠っていた、らしい。
ぼんやりと昨日の記憶を呼び起こす。酒を飲んでいた辺りまでは覚えているのだが、どうやって帰ってきたかは記憶にない。
この状況から察するに、おそらく谷口が俺をここまで運んでくれて、鍵の問題があったのか、それとも谷口も酩酊していたのかはわからないが、一緒に寝る羽目になったらしい。
「しかし、いくらなんでも廊下で雑魚寝はねえだろ」
俺と谷口が並んで寝るのでいっぱいいっぱいの広さしかない廊下を恨めしい目で見る。そもそもこんな狭いところで野郎二人が毛布にくるまってサバイバルさながらに寝ようとするから、こんな悲惨な朝の目覚めをするはめになるんじゃないか。
「あぁ、さみー。ベッドでちゃんと寝直すか……」
谷口を踏まないように足を進めて、奥へと向かう。そして俺がまさにふすまに手を掛けて今にも引かんとしたとき、谷口がやおら俺の足を掴んだ。
「キョン、そこは開けない方がいい」
「はぁ? 何を言っているんだ? ここは俺の下宿だし、第一廊下でなんか寝てられるか。寒いし、背中は痛いし、お前は近いし」
「いや、それでも開けない方がいい。お前のためだ」
俺の足を掴んで懇願の声を出す谷口。言っている言葉の意味がわからない。寝ぼけているのか。
「わけがわからん。第一、なんで俺が自分の下宿の部屋のふすまを開けるのに遠慮せねばならないんだ」
哀願するような目を向ける谷口を無視して、俺はふすまに再び手を掛けようとした。そうして手を伸ばしている途中、触れてもいないのにふすまの方がすっと勝手に開いた。俺は手を伸ばしたまま、ぽかんと固まったままの腕の先を見ていた。
「もお。女の子の寝てる部屋を覗くなんて趣味が悪いわねー」
「朝倉ぁ?」
なぜかそこではあくびを口で隠しながら眠そうな目で立つ朝倉がいた。エアコンの暖かい風が部屋の奥から流れてくる。
「あ、おはよう」
「いや、おはようじゃなくて、なんで、お前がここにいるんだよ?」
「何よ。まるで泥棒でも見つけたみたいに。私達が酔っぱらって出来上がちゃったあなたを下宿まで運んできたんでしょ」
朝倉は「いや。運んだのは実質俺一人なんだけど」という谷口の言葉を無視して続ける。
「それであなたをここまで運んだはいいけど、まさか鍵を開けたままサヨナラなんてわけにはいかないし。だから、私達は仕方なく泊ってあげたのよ」
「いや、だからって廊下はねえだろ」
「うら若き乙女が、そんな簡単に男の人と同じ部屋で一夜を過ごせるわけないでしょ」
「けどな……」
「彼女に変に浮気の疑いを掛けられない方がいいでしょ」
そう言われると返す言葉がない。
「……そもそも、そう思うんだったら、俺を送った後で自分の下宿へ帰ったらよかったんじゃないか?」
「暗い夜道に女の子一人を放り出すわけ?」
そう言われると、やはり返す言葉がない。
「……じゃあ、俺を送らずにさっさと自分の下宿に帰ればよかったっていうのは?」
「ここの方がわたしの下宿より近かったし、それに何より眠かったのよ」
全く悪びれずに朝倉はしれっと言ってのける。
「……それで、俺の布団で寝てたのか?」
「別にいいじゃない。何? 何か変な菌でも持っているの?」
うわぁ、と朝倉は両腕で自分を抱くような仕草をしてわざとらしく顔をしかめる。
「んなことはない! っていうか、普通は男のベッドで寝るなんてしないだろ! 本当にうら若き乙女なら!」
「あ、大丈夫。私、そういうの全然気にしない方だから。男の人だから汚いなんて、差別に満ちた偏見もいいとこでしょ」
「……そうですか」
俺ごときの力で朝倉の詭弁を論破するのは不可能であるということを、悟った。酩酊明けの朝に、俺は肩を落とす。
「けど、廊下に転がすのはひどいだろ。風邪を引いたらどうするんだよ」
「そのために谷口を置いておいたから」
朝倉は谷口をぴっと指さす。
「俺はキョンの暖房代わりかよ!」
毛布にくるまった簀巻き状態のまま、上半身だけ持ち上げて谷口が反論する。しかし、声にとげとげしさはあまりない。
「なぁ、谷口」
「何だよ、キョン?」
「お前、こんな扱いでいいのか?」
俺は持ちうる限りの憐憫の情を込めて毛布にくるまって廊下に転がる谷口を見る。
「……好きな女の子と一つ屋根の下で一夜を過ごすって、なんかドキドキしねえ?」
アホだ。前々からうすうすそうじゃないかなー、なんて思っていたが、やはりアホだ。
「それよりも、もういい時間よねえ。お腹が空いたわ」
朝倉が腹を押さえながら、気の抜けた声を出す。
俺もとりあえず時計を確認してみた。十一時。確かにちょうどいい感じに腹が減っている時間帯だ。
「そうだな。俺も腹が減ったな。朝飯……いや、もう時間的に昼飯か」
「仕方がない。泊めてもらったお礼に私が腕を奮って上げますか」
朝倉がわざとらしく腕まくりをする。
「お、マジで!」
朝倉の言葉に谷口が目を輝かせて飛び起きる。やれやれ。現金な奴だ。
「で、キョン君」
「なんだ?」
「カップラーメンとか買い置きある?」
「湯を沸かすのにどう腕の奮いどころがあるんだ!」
*
昼前とはいえ冬の京都はよく冷える。息も白く、むき出しの手は凍り付くようだ。俺はポケットに両手を突っ込みながら、少し前屈みに階段を降りる。
「ちょっと、待ってよー」
振り返ると、ブーツに足を突っ込んだままの朝倉がドアに手をついて立っている。
「そんなもん履いているからだろ。もっと動きやすい靴にしろよ」
「ひどーい。女の子のファッションに対してそういう言い方するわけー」
とか何とか言いつつ朝倉は大して憤慨していない表情だ。仕方がないので、俺も階段の途中で待つ。しかし、なんで女というのはこうも身軽に動けないのだろうか。
「別にコンビニで飯買うくらい、俺が一人で行ってくればいい話だろ」
「やだ。なんか変なもの買ってこられたら困るし」
と言いながら朝倉は軽快に階段を降りてくる。
わざわざ変なものを探して買う気はなかったが、ふらっとそういうものを見つけていたら仕返しに買っていたかもしれない。ラーメン缶とか。この朝倉はそういう危機管理能力にも長けている。
「谷口は置いてきてよかったのか?」
「本人が、寒いから嫌だ、って言ってるんだからいいんじゃない」
下宿のドアを見つめる俺などお構いなしに「うーん」と大きく伸びをして朝倉は先に歩き始める。仕方がないので、俺もその後をとことこと付いていく。
「いやー、でもさぁ、なんかこういう風に二人で一緒の部屋から出てくると、こう情熱的な一夜を過ごした恋人同士に見えたりするのかなぁ」
俺は朝倉から数メートル距離をとる。
「冗談なんですけどー」
「わかっている」
吐き捨てるように返す。朝倉はそんな俺を見て軽快に笑い飛ばす。
「大丈夫、大丈夫。私、年収一千万円以上の人でないと、恋愛対象として見ないから」
「そのまま行き遅れちまえ」
ふんと鼻先であしらう。しかし、朝倉はそれに動じることもなく、また愉快そうに笑う。
「いやー、でもキョン君の言うことも一理あるかな」
「どういう意味だよ?」
「私、自分が誰かと付き合っているのとか、想像できないんだ」
「……谷口が泣くぞ」
俺の言葉に朝倉はただ柔らかく笑うだけだった。
「佐々木さんって、うらやましいよね」
朝倉はまた唐突に話題を変えた。
「お前があいつのことをうらやましがる理由がわからねえよ」
「ん、なんで?」
両手を後ろで組んで、朝倉は本当に不思議そうな顔をして振り返る。
「なんでって、そりゃあいつの行っている大学の方がレベル高いけれども、お前もあいつも優等生だしさ。頭はいいし、なんでも結構器用にこなせるし」
二人とも見た目もいいし、というのはいろんな意味で言うのをやめておいた。
「あー、優等生ねえ」
「なんだよ、その意味深な笑いは」
「ん? 昔はそうだったなぁ、なんて思い返して」
「昔は?」
今でも十分そうだと思うが。
「納得してない顔しているね」
「そりゃそうだろ。成績は主席クラスのくせに」
「んー、そういう意味の優等生じゃなくてね」
「どういう意味だよ」
「そうだなぁ」
朝倉はぴたりと立ち止まる。なんとなく、俺も距離を保ったまま同じように後ろで立ち止まる。朝倉は背伸びをするようにつま先立ちになって、空を見上げた。
「昔、っていうか高校生くらいのことだからそんな昔でもないんだけれどもね。それこそ私は絵に描いたような優等生だったわけよ。今、あなたたちとバカな話をしているけれども、昔はそんなこともしなくて本当に絵に描いた優等生。上品で清楚で思いやりがあって成績優秀、なんてね。そういえばクラス委員長なんかもやっていたかなぁ」
「今みたいに思ったことをズバズバ言ってはいなかったっていうことか?」
「まぁ、そんな感じかな。教科書通りってやつ?」
俺が大学で出会った朝倉はその外見に似合わず思ったことをそのまま言うような奴で、女友達というよりも男友達みたいな感じで接する事ができるような奴。そんな感じでずっと付き合ってきた。けれども、朝倉自身の言う優等生としての朝倉も何となく想像できるような気がする。
「なら、その優等生がなんで、優等生をやめたんだよ?」
朝倉は俺を振り返って「聞きたい?」と笑う。数秒迷った後、俺が無言で頷くと、朝倉は「本当にくだらないきっかけなんだけれどもね」と前置きして話し始めた。
「何もかもを完璧にこなしているつもりだった私よりも、ずっと完璧にこなす人が現われたの」
「お前より?」
「そう。そいつがまた何やらせても、立ち振る舞いから何からまで私よりも出来たんだよねー。私より優等生で、実は多分私よりも腹黒で……。あー、今思い出してもなんか腹立つな。喜緑め」
朝倉はこめかみに手を当てながら、一人でぶつぶつと呟く。
「まぁ、それで私は見事に自分のアイデンティティを奪われたわけよ」
「それが、きっかけ?」
「そ。なんか優等生演じるのが馬鹿らしくなってねえ。何をやっても二番目だったしさ。そっからはもう、開き直ってこの腹黒性分ご開帳というか何というか。まぁ、こんな感じになったわけよ」
「はー。しかし、お前より完璧にこなせる人間がいるっていうのは、にわかには信じがたいな」
「ま、世の中広いって事よ」
「……で、そんなお前が佐々木がうらやましいっていうのは?」
唇に手を当てて少し考える仕草をした後、朝倉はくるりと再び前を向いた。
「あの子、ひねたり斜に構えたりしているように見せているくせに、根っこの部分は純粋だからさ。なんかね、あの子みたいに人を好きになれるっていうのがうらやましくてね」
俺には返すべき言葉がうまく思い当たらない。朝倉はそんな俺の沈黙など気にしないように、再び歩き始める。
「意外と大したことなかったのよ、私にとっては」
「何がだよ?」
朝倉の後を、さっきより少し距離をつめて歩く俺は問い返す。
「人にほめられるのも、優等生の自分を演じるのも。そんなきっかけであっさり捨てられるんだからさ。よく考えてみればたいしたものじゃなかったんだよ。だからさ」
そこまで言って、朝倉はぴたりと立ち止まる。俺も、またさっきと同じように足を止める。
「だから?」
「だから、キョン君も、あれもこれもってなるんじゃなくて、本当に自分にとって大切なものは何か。切り捨ててもいいものは切り捨てられても、絶対に切り捨てられないものは何か。本当に捨てちゃいけないもの。そういうことを考えるのがいいと思うよ」
その後で「うまく言葉に出来ないけど」と朝倉は笑った。
「朝倉――」
「さてと、言うべきことは言っちゃったし、私このまま帰る」
俺の言葉を遮って、朝倉はすたすたと歩き始める。
「おい、ちょっと待ってくれ」
朝倉は待たない。それどころか歩く速度を少し上げた。
「まぁ、また何かあったら愚痴ってくれたらいいよ。それくらいなら力になってあげられるから。それじゃーねー」
俺の言葉も無視して、朝倉は逃げるように早足で歩く。その勢いに気圧された俺は呆然と後ろ姿を見送るだけだった。
朝倉は十数メートルほど歩いたところで、背を向けたまま大きく右手を挙げてみせた。そして、そのまま交差点を曲がって、すぐに後ろ姿は見えなくなった。
*
弁当の二つ入ったコンビニ袋をぶらぶらしながら、帰り道を一人歩く。年末の四条界隈や錦市場なんかは人であふれかえっているらしいが、こんな北の住宅街ではそんなものは全く関係ないらしく、ほとんど人とすれ違うこともない。
「あいつ、好き放題言うだけ言って帰りやがったよ」
二人分の食料しかないビニール袋に向かって言葉を落とす。
朝倉はいつもそうだ。自分で言いたいことだけさっさと言って、こちらが何かを言い返そうとしたらもういなくなっている。
俺はため息をついて、右隣を流れる川面に目をやった。今にも凍りそうなくらいに薄い水の列が岩の隙間を流れていく。
なんとなく川縁の道を歩きたくなって、俺は遠回りをしていた。流れていることすらもわからないほどの薄い透明な水の線路に沿って、歩きたかった。
間の抜けた金属音の足音を立てながら、下宿の階段を上る。
何だかんだ言って、今回は結構谷口には世話になった。礼、と呼べるほどのものでもないが、今日の昼飯くらいは奢ってやろう。
そんなことを思いながら、ドアの前に立ってポケットから鍵を取り出す。冷たさで手がかじかんで、うまく鍵穴に鍵が差せない。
「あぁー。ほんと、寒ぃ」
両手を胸の前でこすりあわせて、やっとこさ鍵を差し込めた。ゆっくり鍵を回して、鍵が開く音を確認する。
ちょっとコンビニまで買い物のはずが、少し遠回りをして帰ってきたからな。谷口の奴が口を尖らせて待っているかもしれない。
そんなことを考えながら、ドアを開ける。
「ただいまー」
自分の下宿に挨拶しながら入るというのもまた変な感じだ。コンビニの袋をカサカサいわせながら、玄関で靴を脱ぐ。
「谷口、遅くなって悪かったなぁ」
家の奥に声を掛けてみるが、返事はない。ひょっとしたら谷口の奴、寝ているのだろうか。襖も閉じられているし。
キッチンの上にコンビニの袋を置いて、奥へと歩いていく。
「谷口、寝てるのか?」
さっと襖を開いて声を掛けた。そこで谷口は、
「あー、朝倉の匂い……」
と、幸せそうに俺の布団に顔をうずめていた。それを見た俺の右頬が変な形でつり上がってしまったのは言うまでもない。
「……何やってんだ、お前」
「……あ、キョン」
顔を上げて、ぽかんと俺を見つめる谷口。
とりあえず、こいつから昼飯代はきっちり徴収してやろうと決意した。
「いやー、朝倉の残り香が残っているかなー、と思って」
谷口は頭を掻きながらばつが悪そうに答える。どうやら自分が人に見られるとまずい行為をしていたという自覚はあるらしい。
「っていうか、バカかお前は!」
間髪入れずに俺は谷口を指さして叫んでいた。
「バカとはなんだ! 男なら好きな女の子がいたらついやってしまうあらがえぬ本能だろうが!」
「一般論にするな! っていうか、それは俺の布団だぞ!」
「大丈夫だ、その前に朝倉が寝ているから!」
「っていうか、俺がお前がすりすりした後の布団で寝る羽目になるんだけど!」
谷口はそりゃ満足かもしれんが、その後で俺が寝ることを考えると……。ファブリーズどこにしまったっけな? いや、それとも殺虫剤の方がいいか?
「お前、なんか失礼なこと考えてねえか?」
「……声に出して言ってやろうか?」
「いや、いい」
そう言いながら谷口はもそもそと布団の上であぐらをかく。
「はぁー」
その姿を見ながら、俺は心の中鉛いっぱいの疲れ果てたため息をつく。
今回の一件で少しは見直したのに、こいつは考えないといけないな。友達付きあいとか。
「そんな心底あきれかえるような目で見るなよ。お前だって、こういう男の心理がわかるだろ? いいか? 好きな女のついさっきまで寝ていた布団。そこにはそいつの匂いやら何やらが染みついている。魅惑のでんぢゃらすぞーんだと思わないか?」
「わからねーよ」
「そうか? お前、自分の彼女が今さっきまで寝ていた布団が目の前にあったとして、何もしないと断言できるか? ん?」
「お前みたいに顔をうずめたりはしない」
ここで谷口の目がめざとい光を放った。なにやらまたろくでもない事を思いついたらしい。顔をしかめて、俺は目を逸らす。
「ん? 『うずめたりは』? じゃあ、どこまでならするんだ、え?」
「うるさい」
谷口はあぐらをかいたまま下卑た目で俺を見上げてくる。俺の返答が一瞬遅れたことにめざとく麻薬探知犬のように気がついたようだ。こういうしょうもない洞察力は鋭い男である。普段は抜けているのに。
「え? どうしたんだ、正直に言え? 何をやらかした、ん?」
「黙れ。お前と一緒にするな、まったく」
ふん、と谷口を鼻であしらって、俺もどかりと床に座り込む。
ちなみに俺の名誉のために言っておくが、佐々木が寝ていた後の布団に谷口のように顔をうずめた経験はない。……布団の中に手を突っ込んで、寝ていた後の生暖かさを確かめたことはあったが。なんかすごく恥ずかしいことをしているような気がして、すぐに手を抜いたが。
「なんだよ。すましやがってよぉ」
俺が目を逸らして座っていても、まだ谷口の奴は絡む気満々らしい。こういう話になると餌を目の前にした犬のように俄然元気になる男だ。
「じゃあお前よぉ、目の前に彼女が脱いだパンツがあったとして、それを拾って匂いをかがないと断言できるか?」
「しねえよ! っていうか、お前はするのかよ?」
「さすがに、そこまで行くと冗談ではすまなさそうだからなー」
そう思っているなら、訊くな、アホ。
「しかし、ついつい彼女がいない間にタンスの中とか覗いてみたくなったりとかはしないか? 女子のタンスの中、そこは俺達男子には想像も付かないワンダーランドが広がっているのかもしれんぞ」
「せん」
正直、妹がいるおかげでそういった女物の下着の類は見慣れている。あれはただの洗濯物だ。ただ、正直佐々木の家に行くたびにそういったものが干されていないか少しドキドキしていたことがあったのも事実だが。
「じゃあ、彼女が風呂に入っている間にこっそり洗濯かごを覗いてみたりとか?」
「したことねえよ」
ちなみに佐々木はそこらへんはきっちりガードが堅い。
「ちっ。なんだよ、お前それでも男かよー」
つまらなさそうに両手で枕を作って、谷口は布団の上で寝っ転がる。言いたいことだけ言いたい放題言いやがって、お気楽な奴だ。
「うるさい。お前みたいなエロと一緒にしないでくれ」
天井を向いている谷口のアホ面に言葉を投げかけてやる。そうすると、その言葉がしゃくに障ったらしい。なんだと、と言いながら谷口は上半身を起こす。
「お前、エロに掛ける男の情熱をバカにしちゃいけねえぜ。そもそも、インターネットがこんなに早く普及したのは野郎どものエロ画像に掛ける情熱以外にありえないんだぞ! それに、だ。人類がエロくなければ人類は生まれん。ということは、野郎どもがエロくなればなるほど少子化対策もばっちり、いいことづくめだ!」
「あー、そうかそうか。そんな偉そうなことを言うなら、お前一人で宗教でも始めるといい。マスラオ教とか名付けてな」
そして宗教が出来次第、俺の中でカルト認定して絶交してやる。
「なんだよ、ノリが悪いなー、お前」
谷口は俺の反応が不満だったのか、ブーたれた声を出す。
「うるさい。第一、さっきのあの姿を朝倉に見つかったらどうするつもりだったんだ、まったく」
「あ、そっか」
今更思い出したように声を上げる谷口。そこまで考えてなかったのか、こいつは。あんな光景を目の当たりにしたら一発で情状酌量の余地なしの死刑だぞ。
「ただでさえ、朝倉に相手にされてないくせに、本格的に嫌われるぞ」
「ははっ。それもそうだなぁ」
谷口は軽快に笑って、布団の上で仰向けになる。至極あっさりとした反応だ。いつものこいつなら「うるせえ」とか言って、もっと食ってかかってくると思ったのに。俺は拍子抜けしてしまった。
「……それでいいのか、お前」
「ふん。わかってるよ。俺と朝倉が釣り合わねーことくらい」
谷口は拾った糸くずを人差し指と親指の間でねじりながら素っ気なく答える。
「あいつはすげーやつだからな。頭はいいし、顔は綺麗だし。才色兼備ってやつか? 性格は悪いけどよ。俺みたいな中途半端な奴とは釣り合わないことぐらい、よくわかってるよ。住む世界が違うからなぁ。あいつが俺に振り向くことは絶対にないと思うぜ」
谷口は至極あっさりと言ってのけた。それが当然のことであるかのように。俺はどれだけあいつが普段朝倉朝倉と言っているかを知っている。それだけに、やけにそのあっさりとした言葉は俺の心の中に糸を引いて残った。
「……んじゃあ、なんでそこまでわかっていて、お前は」
「ん?」
谷口は不思議そうな顔をして俺を見つめた後、手に持った糸くずを投げ捨てて、ごろりと体をこちらへ向けた。
「そりゃあ、お前、みんながそうやって住む世界が違うからってあいつを避けていたら、あいつ、ひとりぼっちになっちまうだろうがよ」
当然のように笑って言った。それから谷口は何もなかったように一人で話を打ち切って立ち上がって「さぁー、メシ、メシ」と言いながらコンビニの袋を取りに行った。俺はそんな谷口の背中を床にあぐらをかきながら、ぼんやりとした目線で追っていた。
*
玄関のドアを開けると、外の冷たい空気が一気に流れてくる。俺はコートを羽織った方がよかったか、と思って、それから少しの間だから必要ないだろうと思い直す。
「寝起きにハンバーグ弁当はきつかったぞ、おい」
谷口が靴を履きながら、低い場所から声を掛けてくる。綺麗に完食したくせによく言うよ、お前は。
「文句言うなよ。この寒い中、買いに行ってやったんだ」
俺の返答に谷口は「ふん」と軽く鼻で笑って返事をすると、マフラーの結び目を直した。それから、目に涙を浮かべながら大きくあくびをする。
「家に帰ってからきっちり寝直しだな。背中が痛えや」
谷口は右手で背中をさすりながら、左手を大きく挙げて伸びをする。よく晴れた天気のおかげで、その姿がやけに気持ちよさそうに映る。
「同感だな」
俺も谷口の言葉に同意する。ただし、俺は谷口の奴がさんざん顔をこすりつけた後の布団で寝る羽目になるのだが。
谷口は俺の脇を通り過ぎて、一人で玄関の外へ出る。ふらりと俺の方へ体を向けると、
「ほんじゃあな。まぁ、その、なんて言ったらいいか、俺頭悪いからわかんねーけどよ、その、がんばれよ」
ぼそぼそと半分口ごもりながら言った。それから恥ずかしそうに人差し指で頬を掻く。
「あぁ」
「お前までへこんでいるようじゃ話にならねえからな。そこんとこ気をつけろよ」
「わかってるよ」
谷口はくしゃみを一つして大きく体を震わせると、「じゃな」と右手を挙げてから歩き始めた。
谷口の背中を見つめながら、俺はさっきの谷口の言葉を思い出していた。
――ひとりぼっちになっちまうだろうがよ。
この目の前にいる一人のバカはどれだけけんもほろろに扱われたとしても、これからも不毛なアプローチを繰り返すのだろうか。実らないとわかっているくせに、なぜ? 何のために?
「谷口!」
俺は遠ざかっていく谷口の背中に声を掛けた。谷口は面倒くさそうな仕草で俺に向かって振り返る。
「んだよ?」
「……ありがとうな」
「おー」
谷口は「何だよ。そんなことかよ」と言いたそうな表情で、めんどくさそうに俺に手を挙げて応えた。そして、すぐにまた体を前に向けて歩き始める。カンカンという金属音を立てながら、ゆっくりとした足取りで階段を降りていって、直にあいつの姿は見えなくなった。
*
やるべきことは、はっきりとしていた。
谷口の奴にあわせてこれから寝直すなんて言ったけれども、寝ている場合ではない。部屋に戻った俺は、早速壁に掛けてあったダウンのジャケットを羽織る。わざわざ俺のジャケットをハンガーに掛けてくれたのは朝倉だろうか。よく見れば辺りに散乱していた漫画本やら雑誌やらが隅っこの方で積まれて整理されている。朝倉のことだ、「散らかってた本とかは隅っこの方にまとめておいてあげたわよ。でもいつ人が来るかわからないんだからちゃんとエッチな本は隠しときなさいよね」とか言うに違いない。それでも、俺は素直に朝倉に礼を言ってやるさ。谷口と俺が食い散らかした弁当がそのままになっているが、それはこの際どうでもいい。部屋の中をぐるりと見回して、大まかに戸締まりと火元のチェックをする。
メールを送る、電話で話す――どれも回りくどい。直接会わないといけない。あいつの表情、呼吸――そんなものを感じながら伝えなくてはならない。伝わらない。
俺は一歩一歩を踏みしめるようにして、階段を降りた。何も出来ない――なんていうのは謙虚なふりをしたただの言い訳だ。どれだけちっぽけなことでも、俺出来ることがあるというのははっきりとわかった。もう逃げる言い訳はないし、逃げる気なども毛頭ない。
蹴り飛ばすような勢いで自転車のスタンドを上げる。深呼吸を、二つ。雲を切り裂いたように空は晴れていた。向かい風もない。どこまでだって行ける。行ってやる。
急ぐわけでもなく、ゆっくり進むわけでもなく、自転車を漕ぐんだ。前へ進み続けられるスピードで。どこまでも立ち止まることなく進んでいけるスピードで。
「負けねえぞ」
坂道を立ち漕ぎで駆け上る。ペダルは重い。でも、踏み込める。
「絶対に負けねえぞ、こんちくしょう!」
今やるべき事、向かうべき場所は、たった一つ。この街へ来てからの三年間。俺は数え切れないほど、この道を走った。悲しいことも、嬉しいことも、辛いことも、車輪でこの道に刻みつけてきた。そしてまた走り慣れた道を、俺は走る。
*
白い息を吐きながら、自転車のブレーキを力一杯握りしめる。油の足りない中古自転車はひっかき傷のような金属音を立てながら止まった。片足を付いて見上げた見慣れた佐々木の下宿。そこで俺はアパートの二階渡り廊下の手すりに肘を乗せて、こちらを見ている男に気がついた。それは見たことのある顔だった。自転車のブレーキの音で俺に気が付いたその人物は、よれよれのトレンチコートと疲れた顔で「よお」と肘から先だけ手を挙げた。
「おっさん?」
予想外の人物の登場にどうしていいかわからず立ちつくしている間に、おっさんは階段を降りてきた。
「よお。待っとったで」
両手をポケットに突っ込んで階段を降りながら、しょぼついた目を細めておっさんは笑う。この距離からでもはっきりとわかる。おっさんは、数日前とは別人みたいにやつれている。
「ここで待っとったらきっと来るやろ思て、待っとったんや」
おっさんは階段を降りきらずに、階段の手すりに背中を預けながら、「連絡先、訊いといたらよかったなぁ」と一人言のように呟いた。
「待っていた、ってあんたいつから?」
「いつからかなぁ……。あれから、あの子が丁度一日ばかし病院で休ませてもうて、それから昨日の夕方ここへ戻ってきて、んでまあそっから一晩経って今日になるかな」
「まさか、一晩中ここで?」
「あほか。俺かて、このクソ寒い中、一晩中外におったら死んでまうわ」
おっさんは上を見上げながらどうでもよさそうに鼻で笑う。それから俺の自転車を指さして「えらいボロっちいチャリやな。そんだけブレーキがうるさかったら近所迷惑やろ。油差せや」と言った。どうやら話題を逸らそうとしているらしいが、そうはいかない。
「じゃあ、いつからいたんだよ?」
「別にええやろ」
「よくねえよ」
俺の言葉の調子に逃げられないと思ったのか、俺と目をあわせては逸らす仕草を数回した後、おっさんは口元を人差し指で掻いてから、「今朝からやな」と呟くように言った。
「今朝からって……」
俺は時計を確認する。今はもう昼過ぎだ。優に数時間はこの凍えそうなほどに冷たいコンクリートの上にいたことになる。それにこの様子だと下手したら昨日の夕方から夜まで待っていた可能性もあるんじゃないか。
「まぁ、さすがにそんな時間からあそこに立っとったら警察呼ばれてもうて往生したわ。話し相手が出来て、ちょうどええ暇つぶしにはなったけどなぁ」
俺の考えに気が付いたのか、よれよれのトレンチコートのポケットに両手を突っ込みながら、おっさんは冗談めかした声で少し自虐的に笑う。
「……俺が来なかったらどうするつもりだったんだよ?」
「いつか来るやろ」
おっさんは素っ気なく言う。風が吹いて、遠くで何かがカラカラ鳴った。
「いつか、って。いつになるかもわからないのに」
「かまへん。俺にはお前に言うとかなあかんことがある。それに――これは俺自身の不始末の問題や。お前は関係あらへん」
「不始末の問題って……」
おっさんは横目でちらりと俺を見た後、ちいさくため息をつきながら、階段に崩れるように腰を下ろす。
「あの子と初めて会うたんは、親の十三回忌のときやった」
両手をだらりと膝の上にのせて、おっさんは空を見上げるようにして話を始めた。
「兄貴に逆らうて半分家出みたいにして、家は出たけどな。まぁ、こっちもそれなりに年を取ったわけや。ちったあ、分別いうのも出てくる。いろいろごちゃついとることもあったけれども、でも親の法事くらいには顔を出したろうかな、と思うてな。家を飛び出して以来、久々に兄貴に会うたんや」
おっさんは目を細める。その姿は懐かしそうにも、悲しそうにも見えた。おっさんを包む冬の日差しは暖かく見える。だからこそ余計に騙し絵みたいな表情がくっきりと浮かび上がる。
「兄貴に娘がおったことは知っとったけど、実際に会うのはその日が初めてやった。あいつ、あの頃からほんまに小憎たらしいガキでなぁ。初めて会うた俺のこと、じーっと見とんねん。おびえているわけでもない、興味津々という風でもない。ただ、まっすぐに俺を見つめとるんや。ちっこいガキが正座して真っ直ぐにな。俺の方が、目を逸らしてしもうたよ」
「佐々木が、か?」
「ほんま、変なガキやったで。まるで人の心の底をのぞき込もうとするみたいになぁ。あんなちんまるこいガキのくせになぁ。あの子と会うたんは、それが最初で最後やった」
それから小さく「あのことがあるまではな」と付け足した。それっきりおっさんは黙って足下を見つめる。
「……それが、俺に言いたかった話、か?」
「おぉすまん。あかんなぁ。思い出話してしんみりしてしまうんは、年取った証拠やな」
おっさんは座ったまま、髪をぐしゃぐしゃに掻きながら俺の顔を見上げて笑う。そしてエビが跳ねるように後頭部をガンと手すりに当てた。頬を緩めてくしゃくしゃになった目尻は、泣いているようにも見えた。
「なぁ、お前、前俺が言うた話を覚えているか?」
「あん時の公園でのことか?」
「そや」
俺は拳を握りしめたまま、頷く。おっさんは俺が頷いたのを確認すると、また視線を逸らして空を見上げた。
「兄貴が死んだって聞いたとき、俺が真っ先に頭の中に思い浮かべたんは俺の娘のことやって言うたよな?」
「あぁ」
覚えている。
「もっと正確に言うとな、兄貴らと同じように俺と嫁とが同じように事故で死んでもうたらどうやるんやろと思たんや。娘がたった一人だけ、残されてしまう。怖なったよ。不安になったよ。自分が死ぬことがやない。俺ら親がいいひんようになってしもうたら、娘はどないなってしまうんやろ、て。誰があいつに飯を食わせたんねん? 誰があいつの学費を払う? 誰が、あいつのこと守ったんねん? てな」
おっさんは下を向いて、振り絞るように言葉を吐いた。
「きっと、死んでも死に切れん、っていうのはこういうことなんやろな。きっと、兄貴もこんな気持ちなんやろなぁ」
きっともっといろんなもん見届けたかったやろうに――おっさんは口の中でそう言葉を一つ潰した。俺は、あの日、佐々木の両親の葬式で感じた体にじんわりとまとわりつくような悔しさを思い出した。そして数秒ほどおっさんは足下を見つめた後、目を閉じて膝を叩いて立ち上がった。
「小僧」
「……なんだよ?」
「俺は、後悔しとる。こういうとき、本来やったら俺がしっかりしてなアカンのや。けど、今更俺にはもうどうすることも出来ひん。ないんや、俺にはあの子と積み重ねてきたものが、なんも。それでやで、今更、どの面下げて面倒見るいうねん。なぁ」
「おっさん」
おっさんは額に手を当てて、髪の毛を掻き上げる。何度もこうして頭を掻きむしってきたのだろう。おっさんの頭はぼさぼさもいいところだ。ここで、佐々木の部屋の前でいろんな事を思い出しながら何度も、何度も。記憶の中で後悔の種を一つ一つ見つけるたびに。
「……全ては、俺のツケや。いきがって、口先だけは一人前で、逃げ回ってきた俺の。今更、もうどうもこうもできひん。もう何も取り返しがつかへん。もう――なんもないんや。けどな、小僧。もうどうしようもないから、いうて何もせえへんのやったら、何も変わらん。それでも、俺は俺に出来ることをやらなあかんねん」
そしておっさんは目を開いて俺を真っ直ぐに見つめる。
「小僧。このままやったらあの子は一人になってしまう。頼む、あの子の傍にいてやってくれ」
おっさんは両手をそろえて俺に向かって深く頭を下げる。握りしめたおっさんの拳が震えている。
「何もあいつと結婚して欲しいとか、そんなことが言いたいわけやないんや。けど、せめて、せめてあの子が立ち直るまで傍に付いていてくれ。俺には――俺には出来ひんのや。多分、お前にしか、出来ひんのや」
おっさんは「頼む」と言いながら、さらに深く頭を下げる。その姿は後悔に押しつぶされそうな背中で必死に踏ん張っているように見えた。
「もう、これぐらいしかないねん。俺が兄貴のために出来ることは。もう、これしかないねん。たったこれだけやねん。頼む。ほんま頼む。頭やったらなんぼでも下げたる。この寒空の下、いつまでだって待ってやる。やから、やから、頼む。俺のことはあざ笑ってくれてもええ。でも、兄貴の、兄貴の気持ちだけは汲んだってくれ――」
おっさんの足下のコンクリートに、雨も降っていないのに小さな斑点がぽつぽつと浮かぶ。俺は空を見上げた。
死ぬ、というのはただなくなるということ。それだけ。交渉の余地も妥協の余地もなく、ただいなくなる、それだけ。
佐々木は、これから一人で誰も待っていない家に帰って、一人で飯を食って、一人夜を過ごして、そして、一人誰もない家で目を覚ます――そんな生活がずっと続いていく? 一人で? ずっとひとりぼっちで?
「大丈夫ですよ」
俺は目の前の佐々木のいる場所へ視線を向ける。
「そんなこと、絶対にさせません。俺、何の力もない金もない若造で、幸せにするだとか、守ってやるだとか、そんな偉そうなことは言えませんけど――」
でも、俺があいつの傍にいる限りひとりぼっちではなくなる。それだけなら、俺にでも出来る。絶対に、出来る。
雨は降りそうにもない。日差しはそのままうずくまってしまいたいくらいに暖かくて、柔らかく降り積もった後悔を、ただ溶かそうとしていた。
*
階段を上る一歩一歩の足音が、えぐるように胸に響く。自分の鼓動が壊れる寸前くらいにまで高まっているのを感じる。喉の奥に何かがまとわりついているように息が苦しい。
そばにいること、は出来る。でも、そばにいることすら許されなかったらどうすればいいのだろうか。
不安ばかりが心の中に黒いペンキをぶちまけたように広がっていく。あのとき、繋いでいたはずの俺達の手は、はっきりと切れた。
一歩、また一歩。一つ一つの歩みが重い。
おっさんは別れ際に俺の腕を掴んだ。まだ、その感触ははっきりと腕に残っている。大丈夫、大丈夫。もう――迷う時間は終わったんだ。
俺は佐々木の部屋のドアの前に立つ。小さく息を吐いて、右手の握り拳を目の高さにまで上げる。
扉を開く。もう泣き言は言わない。前へ進むだけ。腹を括れ。地獄の底を見つめる覚悟を決めろ。何があってもあきらめるな。
俺は、目の前の扉を叩く。乾いた耳障りな金属音が響く。
「佐々木、俺だ」
ドアにキスをするほど顔を近づけて、呼びかける。白い雲がドアの表面に広がった。そして、俺は耳を冷たい扉に当てた。
おっさんは佐々木は中にいると言っていた。居留守は効かない。冷え切った金属のドアに当てた額に心地よい冷たさが広がる。そして、それはじきに痛みに変わる。
ドアノブが回る音がした。それからドアがゆっくりと開く。
「やぁ、キョン」
開いた扉の向こうで、佐々木は穏やかに笑いながら俺を見ていた。
「よぉ」
いつも通りの聞き慣れた声のトーンに、いつも通りでない俺が戸惑う。もしかしたら悪い夢でも今まで見ていただけなのだろうか――そんな都合のいい考えが頭に浮かぶ。しかし、そんなものは佐々木の目を見たときに、ろうそくの炎を吹き消すように消えた。
「お前、目が真っ赤だぞ……」
「あぁ」
佐々木は人差し指と親指の間で前髪をいじって、柔らかい髪をさらりと揺らしながら冗談めかした声で言った。
「まるで、ウサギみたいかい?」
俺には、何も答えられなかった。
*
当然のように部屋の中へと入っていく佐々木の後を、俺は影のように付いていく。想像していたよりも、目の前の光景は普通で、逆にそれが不安に映った。
「どうしたんだい? 唐突に何の連絡もなく訪問するとは?」
佐々木が腰をかがめて俺が座るクッションを拾いながら、背中越しに尋ねてくる。
「いや、それは――」
理由はあって来たはずだ。けれども、そんなことを馬鹿正直に答えるわけにはいかない。俺はかがんでいるの佐々木に近づけないまま、かかしみたいに棒立ちになって口ごもる。
「別に、自分の彼女の部屋に遊びに来るのに、特別な理由なんていらないだろ」
佐々木はクッションを拾い上げる動作を一秒ほど止めた後、
「そうか。それもそうだな」
と一人言のように言った。
「僕はどうも杓子定規な思考から抜けられなくてね。何をするにしても、明確な理由付けがないと落ち着かないんだ」
佐々木はそう続けながら、クッションを自分の隣に置いて、ぽんとその上を叩く。
「そんなところに突っ立ってないでくつろいでくれたまえ。飲み物は――そうだな、温かいココアでいいかい? ちょうど中途半端に粉が余っているので、その消費を手助けして貰えるとありがたいんだ」
佐々木は立ち上がると、俺の横をすぅっと空気のように通り抜けて、台所に立った。俺は佐々木に何も声を掛けることが出来ないまま、仕方なしに用意された席に座る。
あぐらをかいて、部屋の様子にどこかおかしなところはないか見回す。しかしながら、当然というか部屋の中はいつも通り見慣れた綺麗に整頓された佐々木の部屋のままだった。特に何かがちらかったり壊れたりしている様子もない。ただ締め切ったカーテンから差し込んでくる太陽の光が部屋全体をマッシュルームブルーに染め上げていて、淡い海の底みたいな静けさの中、俺は何かに押しつぶされるように息を潜めるだけだった。
「はい。温まるよ」
コトンと柔らかい音を立てて、湯気を上げるマグカップが一つ目の前に置かれる。
「あ、サンキュー」
なぜか俺は体をびくりとこわばらせて、油の切れたロボットみたいなぎこちない仕草でカップに手を伸ばす。そんな俺の様子を気にとめることもなく、佐々木は湯気を上げている自分のカップを両手で持ったまま俺の向かいに座る。
元々、何か当たり障りのない話題を持ってここへ来たわけではない。湯気を上げるココアをすすりながら、すぐに俺は話題を見失って沈黙する羽目になってしまった。
ぎこちない仕草で、水飲み鳥のおもちゃみたいなペースでカップを口に運ぶ動作を繰り返す。時折、佐々木の様子をちらりと横目で見ながら、何かいい話題はないかと必死に思考を巡らせる。ここに来てあまりにも無策な自分の勢いに任せただけの突貫っぷりを思い知らされる。
佐々木はそんな俺の逡巡を知って知らずか、目を閉じたままゆったりとしたペースでココアを口に運ぶ。まるで、俺一人だけがピエロみたいにあわくってどたばたしている気分だ。
本当は、もう何でもなくなっているんじゃないか?
だとしたら、もうそれで十分――
「これから、どうしようか」
佐々木が沈黙を破る。その声があまりに穏やかすぎて、一瞬俺は佐々木が会話を切り出した事に気が付かなかったほどだった。
「え? これから、か?」
「そう。このまま二人でココアを飲みながら、悠々とした時間を過ごすのも悪くはないだろうが、それはいささか若さに欠けるというものだからね」
佐々木は両手で持っていたカップをテーブルに置く。その口調、表情からは特に何の特別な感情も見て取れない。
「……いや、俺は、特にそこまで考えていたわけでもない」
俺は自らの無策っぷりを露呈するので精一杯。
「なら、せっかくだから出掛けようか」
佐々木は相変わらずの穏やかな口調で言いながら、カップを持って立ち上がる。そして台所へ向かって歩き始める。
「出掛けるって、どこ行くんだ?」
慌てて、カップに残ったぬるいココアを飲み干しながら佐々木の背中に声を掛ける。
「別にどこだって構わないさ」
佐々木はシンクに自分のマグカップを置きながら答える。シンクのステンレスが間延びした音を立てる。
「恋人同士がどこかへ出掛けるのに、特別な理由なんていらないだろう? 俗に言う、デートという奴だよ」
佐々木は笑いながら俺を振り返る。
何も変わらない、ありきたりすぎる見慣れたはずの光景が、なぜか胸を焼く。
*
河原町周辺には自転車を停める駐輪スペースはほとんどないに等しい。なので、大概の場合は河原町の交差点にあるデパートの駐輪場に自転車を停めることになる。千円買い物すれば、駐輪料金がただになるので、千円分適当に食料なり生活必需品を買えば問題ないという算段だ。
大して広くもない駐輪場の中を、自転車を押しながら歩いて、適当に開いているスペースをかき分け自転車を押し込む。
「これでよし、と」
誰も盗りそうにもないあちこち塗装のはげた中古の自転車だが、一応鍵をしていることを確認する。買った当初はもう少し綺麗だったんだが、思えばこの三年間結構乗り回しているからな。ずいぶんと、三年間の思い出分痛んでしまっている。
感傷に浸りそうになる自分を自制して、小走りに駐輪場の出口へと向かう。こうして自転車をこのデパートに停めるときは、いつも佐々木は駐輪場の入り口で待つことにしている。今日も同じように。
コンクリートにしめった足音を響かせながら出口の方を見ると、壁背を預けて待っている佐々木の姿が目に入った。鞄を両手で後ろに持って、ぼんやりと今日の晴れた空を見上げている。
一瞬、佐々木の姿が透けてしまったような気がして、俺は足を止めた。
「ずいぶんと、時間がかかっていたみたいだね」
足音が止まったことで俺に気が付いた佐々木が、視線を俺に向けて首を少しかしげながら微笑む。
「結構混んでるからな、この時間帯は」
「あぁ。それもそうだね」
佐々木は左腕に巻いた腕時計に目をやる。男物とは違う細身の時計とそれが似合う佐々木の細い腕に、なぜか目を取られた。
「お前のリクエストでここへ来たわけだけれども、どうする? まずは、どっかで飯でも食うか? それとも何か見たいものでもあるなら、そこへ行こうか?」
佐々木は俺の言葉には反応せずに、しばらくじっと腕時計を見つめる。仕方なしに、俺も黙って佐々木の様子を見守る。そして数十秒ほど逡巡した後、流れる髪を揺らしながら俺に向かってこう言った。
「せっかくだから、今日は遠出をしないかい?」
*
佐々木の提案により電車に乗って移動することになった。行き先は――特に決めていないらしい。初乗り運賃だけ払って、駅のホームに降りた。佐々木曰く、「乗り越し精算すれば同じなんだから、それでいいだろう」と。
ただなんとなく、行き先は決めていなくても、結局行き着く場所は俺達の街なんだろうな――何もしゃべらずに並んで電車を待ちながら、ずっとそんな気がしていた。
どこでも降りられるようにと各駅停車に乗って、座席の抹茶色がほとんどそのままさらされている電車に揺られる。
「人が、少ないな」
「休日のこの時間帯に運行している各駅停車だからね。ちゃんと目的地のある人は、目的の駅までもっとも停車する駅の数が少ないルートを選ぶものさ。目的のもの以外を全て余計なものだと決めつけてね」
「……別にそんな言い方はしなくてもいいだろう」
「そうかい? まぁ、キミの勘に触ってしまったのなら、謝ることもやぶさかではないよ」
窓に備え付けられたブランドを上げることなく、太陽の光に前髪を透かせながら佐々木が答える。がらがらに空いた車内真ん中に、俺と佐々木の影が並んで伸びる。
「そういえば、最近はあまりこうして二人で電車に乗って移動した記憶がないな」
「……そうか? んー、まぁ、そうだなぁ。こっちへ来てからはあまり電車で移動する事もなかったからな」
「高校時代は毎日のようにこうして電車に乗っていたというのに。なぜか、今改めてこの状況に新鮮な気持ちを感じているよ」
「そんな大したことでもないだろう。大げさだな」
「いや、ただ――いつの間にか気づかないうちにいろいろなことを忘れていっているんだな、って。そう思ってしまっただけさ」
それっきり佐々木は何も言わず、口元に薄い微笑みを浮かべていた。ただ、逆光の中で向かい合った窓の先だけを見つめていた。
*
何ともなしに、買い物の間店の前に繋がれた飼い犬のように手持ちぶさたの俺は、目の前のテーブルを人差し指で叩いてみる。なかなかに芯の太い音がした。さすがに素敵なお値段を提示しているだけあって、ずいぶんと中身が詰まっているらしい。
「なぁ、佐々木よ」
「ん? なんだい?」
俺の言葉に目の前を歩く佐々木がくるりと振り返る。
「お前が見たいっていうのなら、俺は別に構わないんだが……。しかし、家具なんか見てどうするんだ?」
そう。俺と佐々木はなぜか郊外にある大きな家具センターにやって来ている。それまで黙って電車で座っていた佐々木が、不意に立ち上がり当然のように降り立った駅。そのすぐ近くにこの家具センターはあるのだった。
「なぜ、キミはそんな不思議そうな顔をする? 家具なんてものは生活必需品だろう? 特に何か好事家的趣味を持ったものを見ているわけでもないのに」
「いや、まぁ、確かにそうなのだが……」
佐々木は口元に軽く握った右手を当てて、不思議そうに笑う。俺自身もそれ以上は何も言い返せずに、頭を掻くだけだ。
ニスできらきら光る木の色に包まれた空間を佐々木の後に付いて歩きながら、俺は何気なく辺りを見回す。食器棚にテーブルに椅子。どうやらこの辺りはダイニング用の家具を展示しているらしい。どいつもこいつも安くなっているとはいえ、結構馬鹿にならない値段をしている。
辺りを見回してみると、やはり家族連れが多い。ここの客層からいえば、俺達はもっとも若い部類にはいるだろう。それにしても、どの家族を見ても、家具ほど買い物している姿が幸せそうなものはないのかもしれないなと思わされる。
「オーク、か。やっぱりダイニングテーブルは木で出来ているものがいいな」
「ん? あぁ」
なぜか真剣にダイニングテーブルを品定めしている佐々木に、俺は何ともなしの生返事を返す。俺の相づちを聞いているのかいないのか、佐々木はテーブルを指先で撫でて感触を確かめたり、天板を裏側から眺めてみたりしてじっくりと商品を鑑定中の様子だ。
「二人だけで使うには少し広すぎるかもしれないが、きっちり二人分の広さしかないテーブルというのも貧相なものだからね。これくらいの大きさがあったほうがいいかな。いや、スペースに余裕があるなら六人座れる位の大きさがあったほうが鎮座している姿が様になるね。客人を迎えるのにも心強い」
「そう、だな」
真剣にテーブルを見ている佐々木。正直、俺は佐々木のこの行動の真意を掴みかねていた。こんな大きなテーブルを買ったところで、それをあいつの下宿に持って行けば小さなワンルームがこのテーブルでいっぱいいっぱいになる。あいつが家具なんかを今真剣に見る理由というのが、俺にはわからない。ただ、こういう風にして家具を見て楽しむのが純粋に好きだったのか? けれども、こいつと付き合ってきた数年間、そんなそぶりは全く見られなかったはずだ。じゃあ、なぜ――?
「――ョン、キョン!」
「え、あ、なんだ?」
顎に手を当てて考え込んでいた俺は佐々木の声で慌てて佐々木の方へ振り向く。
「全く。さっきから呼びかけているのに上の空で……」
両手を腰に当ててふくれっ面の佐々木が言う。俺は右手で謝るポーズをすると、
「すまん。で、なんだ?」
「このダイニングテーブルなのだが、どう思う?」
「どう思う、って言われても」
「別にそんな難しい意見を求めているわけではないさ。キミの率直な感想を聞かせてくれればいいんだよ」
佐々木はテーブルを見つめたままぽかんと口を開けている俺の姿を見て、おかしそうに笑う。
「いいんじゃないかな」
仕方なしに、ぽろりと喉からこぼれ出た言葉をそのまま言った。俺の返答に佐々木は大げさにため息をついてみせる。
「確かに難しい意見でなくてもいいとは言ったが、そんな適当な返事でいいとは言っていないよ」
「そんなこと言われたってなぁ……」
さもあきれかえりましたとでも言うように佐々木は首を左右に振って、改めて視線をテーブルに向ける。
「実際に、実際にキミがこのテーブルを使うとしたら、どう思う?」
「実際に俺が使うとしたら、か?」
「あぁ、そうだ」
佐々木は右手の人差し指でテーブルの表面をなぞりながら言う。
「実際にこのテーブルにキミがいて、そして僕がいたとしたらどうだろうか、とね」
佐々木の声がぽつりと水面に水滴を落とした波紋のように広がる。
俺とお前がここにいて――?
その光景を頭の中に浮かび上がらせてみる。それは――
「すまない。変な冗談だったね。少し悪ふざけが過ぎてしまったようだ。忘れてくれ」
俺の思考を、佐々木の声が遮った。佐々木は目元だけをゆるませると、それまで熱心に見ていたはずのテーブルから全く興味をなくしてしまった仕草で素っ気なく目を逸らして、また先を歩き始めた。俺は取り残されたようにその背中をぼんやりと見つめていた。
後ろ姿が一瞬透明になってしまったように見えて、俺は目をこすった。
*
それからも佐々木は日常品ばかりを見て回った。家具が終わったら、キッチン用品、雑貨……佐々木はその全てを真剣に選んだ。まるでこれから本当に新しい生活が始まるみたいに。けれども、何一つ買いはしなかった。
線路沿いの道を俺は佐々木の後を付いて歩く。ずっと佐々木の影を踏んで歩いていた。そうすれば繋ぎ止められそうな気がしていた。小学生の頃、横断歩道の白い部分から落ちないように歩いていたこと――そんなくだらないことを思い出していた。
これから俺達はどこへ行くのだろう。俺はきっと佐々木の影を見失うことなく付いていくだろう。けれども、もしも夜が来て、影そのものがなくなってしまったら――?
「あっ」
突然、佐々木が小さな声を上げて立ち止まった。影を踏む俺も当然立ち止まる。佐々木の背中越しの先にその目の前にあるものを窺った。けれども、何もない。誰も歩いていない。わけがわからないままミーアキャットみたいに首をぴょこぴょこ動かしていると、佐々木がしゃがみ込んだ。
「どうしたんだよ?」
思わず息を呑んで、佐々木の隣に早歩きに歩み寄り声を掛けた。佐々木は俺の声に顔を上げることもせず、うずくまっている。
「おい」
反応がない。もう一度声を掛けて、肩を揺すろうと手を伸ばしたとき、
「ほら、かわいいよ」
佐々木が子供みたいに無邪気な笑みを浮かべて振り返った。
「はぁ?」
自分でも情けなくなるくらいに間の抜けた声が出た。
「かわいいって、何が?」
辺りを見回しても、かわいいなどと言われるような対象は見あたらない。まさか――俺か? 俺なのか?
「見て、こんなに小さいよ」
小さい? その言葉に佐々木の視線の先、足下に目線をやる。そこにいたのは、
「猫?」
「うん」
よく見れば小さな、まだ子猫くらいの三毛猫が佐々木の足にじゃれついている。ちちち、と佐々木が小さく舌を鳴らしながら子猫の首筋を撫でてやると、猫はにゃあと気持ちよさそうな声を上げた。……まぁ、俺がかわいい、わけはないわな。
「よしよし、いい子だねぇ」
佐々木は今まで聞いたことのないような、文字通りの猫なで声で猫に話しかける。
「なぁ、お前」
「ん、なんだい?」
「猫、好きだったのか?」
「うん、実はね」
満面の笑みで猫と戯れる佐々木。普段と違って、ずいぶん幼く見える。正直、佐々木にこんな一面があったとは知らなかった。
「いい子、いい子だねー。どうしたの? お腹すいてるの? 遊びたいの?」
喉を撫でながらの佐々木の呼びかけに子猫がニャアと鳴いて答える。
「へー。じゃあ、俺も」
と、俺が手を伸ばすと、佐々木の手の中ではおとなしくしていた猫がするりと体を動かして逃げる。
「なっ」
「くっくっ、キミは猫君に好かれる質ではないらしいね」
俺から逃げ出した猫も再び佐々木がしゃがんで舌を鳴らすと、ちらちらと俺を見ながらまた戻って来て佐々木の足に体をすりつける。
「……何なんだ、この扱いの差は」
「キミは大雑把過ぎるんだ。猫にはちゃんとわかるんだよ」
「納得出来ん」
両手を腰に当てて、仕方なく部外者の俺は戯れる佐々木と猫の見物者となる。しかし、こいつがこんなに猫が好きだったなんて、本当に今まで知らなかった。
「かわいいなぁ。ねぇ、キョン」
「ん? なんだ?」
「猫、飼えたらいいよね。こんな風に」
「ん、あぁ……」
目を細めながら無邪気に猫を飼うことをねだる子供のような目線を向ける佐々木に、俺はうまく答えられないでいた。なんで、そういう言い方をする?
「うん。賑やかな方がいいから、飼おう。あっ、でも、猫もかわいいけど、犬もいいかな。大きい犬は飼うのがきっと難しいだろうから、これくらいの小ぶりの犬で元気のいい子を一匹。休みの晴れた日には公園のドッグランに離して、フリスビーで遊んだりなんかしてね」
佐々木は両手で柴犬くらいの大きさを作る。突然、犬の話に切り替えられた猫が怒ったようにまた鳴いた。佐々木は「ごめん、ごめん」と猫に声を掛けながら、猫を撫でる。
「そうだな。いつか――そうなるといいな」
夕日を浴びて、道にしゃがみ込んで猫と戯れる佐々木を見つめながら、俺はでまかせみたいな言葉でその場を取り繕う。
*
そうやって佐々木の影を追っていくうちに、その影は街灯が映し出すものに変わった。暗くなった線路を光を漏らす箱が音を立てて俺達を追い越していく。
この奇妙な旅の目的は何なんだろう? 俺には見当も付かない。佐々木は何かを真剣に探して、選んで、そして手に入れない。そんな空振りの動作ばかりを繰り返して、どこへ向かって歩いている?
俺は何も言えないで、ポケットに手を突っ込んで佐々木の影を追い続ける。日が落ちた頃には、もう言葉もなくなっていた。遠くにこれでいくつ目かの駅の光が見え始める。
「そろそろ、行こうか」
佐々木が言った。俺は影を見つめていた顔を上げる。佐々木は遠くの駅の明かりを指さしている。
「そろそろこの散歩もお開きとしよう」
佐々木が俺を振り返る。暗くなってしまった空のせいで、その表情はよくわからない。
駅までの歩く道のりはせいぜい十分程度だった。券売機で切符を買う。今度は初乗り区間ではなく、ちゃんと下宿までの道のり分を。佐々木は俺の隣で切符を買うと、先に自動改札をくぐり抜けた。
俺は佐々木を追って、改札を抜ける。佐々木の奴は薄情にも俺を待つことなくさっさと駅のホームに上がったみたいだ。辺りに姿はない。駅を通過する電車が走り抜けるたびに階段を吹き抜ける風をまともに受けながら、俺は階段を上る。風が全身を刺すように、冷たい。
駅のホームに上がると、階段に背を向けて立っている佐々木の背中が見えた。
「ほっといて先に行くなよ」
俺は佐々木の背中に文句をつける。佐々木は目を細めただけの曖昧な笑顔のまま、俺を振り返った。
細長い小さなプラットホームだ。ホームの左右を上りと下りの電車が行き来する。さすがにいい時間なのか、こんな小さな駅でも周りには電車を待っている人たちの姿がちらほらと見られる。
女の子の笑い声が聞こえて、俺は何となくそちらへ視線を向けた。プラットホームの黄色い点字ブロックの前で、電車を待つ両親の間で小さな女の子が立っていた。右手と左手をそれぞれお父さんとお母さんに繋いで、ブランコに乗っているような体勢で、笑いながら何事かを両親に話しかけている。
「かわいいね」
俺と同じく視線を親子に向けた佐々木が言った。
「そうだな」
俺も同意する。
「僕も、将来あんな風になれたらいいな。子供が出来て、あんな風に手を繋いで。みんな、家族になって。やっぱり、家よりも、家族の方が大切だね」
「……佐々木?」
顔は笑っていて、口調も優しいのに、佐々木の言葉はどうしようもなく寂しく響いた。
「いったいどうしたんだ? その、今日のお前は、なんか変だぞ」
ずっと、心の中に溜めていた言葉を、これを言ったら何かが終わると感じていた言葉を、俺は言う。
「今日はね、数えていたんだ」
「数えていたって、一体何を?」
佐々木は親子に視線を向けたまま、さらに目を細めて少しうつむく。
「一体ね、これから僕が、どんな未来を失うのか」
前へ進まないといけない。もっと彼女の近くまで行かないといけない。それはわかっている。けれども、機を間違えば全てが間違いなく壊れてしまう。そんな不安が俺の足を地面に縛り付ける。
「キョン、今キミはとても大切な時期にいるんだ。人生において。キミはこれから人生をどう生きていくのか大きな選択に迫られる。それが就職にしろ、他のキミ自身の夢を追う選択にしろ、ね」
佐々木の真意を量るために、俺は佐々木の目を真っ直ぐに見つめる。佐々木はそんな俺の目線を受けて、困ったなという風に視線を俺から逸らす。
「僕は、キミに迷惑を掛けたくないんだ。キミの人生を、壊したくない」
「……お前の言っている言葉の意味が、全然わかんねえよ」
「キミだってわかっているだろう? 今は、大切な時期だ。キミのこれからの人生を大きく左右する選択が待っている」
「それと俺がお前と一緒にいるのとは関係ないだろう」
「僕は、もう犬猫以下だよ」
「なんだよ、それ……」
「自分でも、いや自分だからこそはっきりわかるんだ。僕は、だめだ」
笑うな。そんな風に笑うな――
「何馬鹿なことを言っているんだよ。だめな訳がないだろう」
「今日は、本当に楽しかった。キミと、もしもずっと一緒にいたら、こんな未来があるんだろうな、ってそんな光景ばかり思い描いていた。それでずっとキミに対して思っていた。ありがとう、ね」
なんだよ、それ――
「まだ来もしてない未来に対して礼なんか言うな! これから、これから俺達二人でそんな未来へ行けばいいじゃねえかよ! お前の住みたい家を創ったらいいだろう! 猫だって、犬だって、何匹だって飼えばいい! そうやって、そうしていけば……」
俺の声をかき消すようにホームに電車が流れ込んでくる。何人かの電車待ちの人が俺達を不思議そうに見つめる。
「だめだよ」
ホームに着いた電車のドアが開く。
「なんでだよ」
開いたドアからまばらに人が降りてくる。
「きっと、今の僕はキミの全てを欲しがる。キミに噛みついて、キミの肉をはぎ取って、骨になるまで食い尽くして。もしかしたら、それでも飽き足らないかもしれない」
先ほどの親子が手を繋いだまま開いたドアの中に入る。
「かまわねえよ。俺から、全てを奪ってくれればいい」
電車から降りてきた乗客が階段の前に立つ俺を迷惑そうに見て通り過ぎていく。
「僕が嫌なんだ、そんなの、僕が絶対に嫌なんだ」
佐々木は目に涙を浮かべて笑う。違う、俺はそんな表情を見るためにここまで来たんじゃない。ここで何かを、何かを繋ぎ止めて――
俺は佐々木へ向かって歩き出そうと右足を踏み出す。そして、手を伸ばす――
「だって、僕は、キミのことが好きだから」
涙が落ちると同時に零れ落ちた佐々木の言葉に、一瞬俺の時間は止まってしまった。その止まっている時間の中で、佐々木は走り出す。
一瞬だった。伸ばそうとした手は届かなかった。佐々木は閉じようとしていた電車のドアに体を滑り込ませる。そして、扉は固く閉ざされる。
俺は閉ざされた扉の世界の向こう側を見つめる。佐々木は扉の中の世界から俺を見つめる。
電車が間の抜けた時間の針を動かすようにゆっくりと動き始める。佐々木が、扉の向こうで唇を動かした。
さ・よ・う・な・ら――
「聞こえねえよ――」
彼女を攫った箱は流れていって、伸ばした俺の手はもう届かない。
「聞こえねぇよぉおー!」
誰もいない時間のネジが落ちた世界で、拍子外れの叫び声だけが、こだまする。
*
ぼんやりと光る携帯電話の画面を、ため息と共に折りたたんだ。
――ただいま、電源が切られているか、電波の届かない地域にいます。
それもそうだろう。簡単に電話を掛けてつかまるくらいなら、こんなことはしないはずだ。
電車が通り過ぎて人気のなくなったホームのベンチに一人座る。目の前を電車が通過するたびに、冷たい空気が全身を突き刺すように吹きすさぶ。
不思議と悔しさや無力感はそういうほど感じていなかった。むしろ、納得できた、という方が正しい。もともと、そうそううまくはいかないことはわかっていたはずだ。
もう一度携帯電話を開く。待ち受け画面に映った時計を確かめる。
あいつは、これからどうするのだろう。この時間が止まったみたいに寒い世界で、どうやってこの夜をやり過ごすのか。この夜に、あいつの居場所はあるのだろうか。
「考えたって、わかるもんじゃないよな」
もう一度携帯電話を閉じる。夜はまだ始まったばかりだ。
「好き放題言いたいことだけ言って、勝手にどっか行きやがって」
白い蛍光灯の光が俺の網膜に彼女の姿を焼き付けた。俺はその光景を遠くから眺めているだけだった。
もしも、あのままあいつが目の前にいたとしたら、俺は一体何を言っていたのだろう? どんな言葉がこの心の中にあったのだろう? そんなことを考える。
――絶対に切り捨てられないものは何?
思い出すのは、朝倉の言葉。俺がやりたいこと、伝えたいこと。それは何? どんどん頭の中で余計な言葉を切り捨てていく。頭の中で言葉の影が揺れている。自分の言いたいことだけ言って俺には何も言わせてくれなかったあいつに伝えたいこと。いろいろな言葉が泡のように浮かんでは消えていく。
扉を開ける。その中にいるあいつが俺にかすかな光をたたえた視線を向ける。俺は、たった一言。扉を閉めると、俺はさよならだ。だから、たった一言。その時、俺はこの心の底から、一体どんな言葉を投げかけるのだろう。
ぼんやりと蛍みたいに浮かぶ携帯電話の光を見つめる。
お前にいて欲しいのは電波の届く場所じゃない。届いて欲しいのは、この手だ。この手の届く場所に、いて欲しい。
冷たさで感触のなくなった手を握りしめる。少しずつ、体温が凍った手を溶かしていく。
伝えたいことがある。失いたくないものも。この胸の中に。ずっと。
*
駅前のカードレールに腰を掛けていた。所々白いペンキのはげた鉄の上は、尻が大変に冷える。冷たい両手をすりあわせながら、俺は待つ。
ヘッドライトの光る目みたいな光が遠くから見えた。タイヤがアスファルトを踏みしめる音を響かせながら、俺の目の前で黒い車が止まる。
「おう、待たせたな」
おっさんは運転席から助手席まで身を乗り出して、開いた窓から声を掛けてきた。
「いや、それほども待っていない。っていうか、むしろ思っていたよりも全然早かったくらいだ」
おっさんは「ふん」と鼻を鳴らすと、運転席に体を戻して、早く乗れとばかりに助手席を叩いた。俺はお言葉に甘えて、さっそく助手席に乗り込む。ゆったりとしたファミリータイプのミニバンの中はエアコンがよく効いていて、暖かい。シートに深く座り込むと、体中の筋肉が弛緩していくのがわかる。
「結構、いい車に乗っているんだな」
「……お前は俺のことなんや思とるんや」
おっさんは口先だけで文句をつけながら、アクセルを踏み込んで車を動かし始めた。
「だいたいの事情は、お前が電話で説明した通りか?」
「あぁ」
おっさんは「ふぅー」とわざと声を出してため息をつく。
「ややこしいのう」
「そうだな」
「……なんや、もっと意気消沈しとるかと思たら、案外冷静やないけ」
「そうか? まぁ、これくらいのことは覚悟していたから」
「さよけ」
「そういうあんたこそ、もっと『このヘタレ』とか俺を罵ってくるかと思っていたよ」
「アホか。一応、俺はお前に丸投げした身や。その程度の身の程くらいわきまえとる」
不思議なくらいに静まりかえった夜の道を、滑り抜けるように車は走っていく。俺は目の前を通り過ぎていく街頭の光をぼんやり眺めている。
「……あの子の行きそうな場所、てか」
「あぁ」
おっさんがハンドルを握って前を見たまま、ぼそりと呟くように言った。
「多分、あいつのことだから、次は思い出の場所を一つ一つ回っていくんだと思う」
なくすものを拾い集めた後、今度はなくしたものを探し回るように。きっと、あいつならそうする。なくしたものを確かめて、なくしたくないものを心にしまって。
おっさんは数秒ほど沈黙した後、重そうに口を開いた。
「なぁ、なぜ、俺にそんなことを訊く? 少なくとも、俺よりもお前の方があの子と過ごした時間の長さも密度も全然上なんやで。俺とあの子の共通の思い出なんか、何一つとしてないんやで」
おっさんは一つ一つの言葉を突き刺すように自分の太ももの上に落としていく。
「違うよ」
「何が違うんや?」
「あいつが拾い集めるのは、俺との思い出じゃない。あいつと――あいつの両親との思い出だ。だから、俺にはわからない」
向かいから走ってきた車のライトがおっさんの顔を淡く強く照らす。
「……俺かて、わからへんわ」
「嘘をつくなよ。あいつの父親は、あんたの兄でもあるんだから」
おっさんは前を見つめたまま、唇以外を全く動かさずに言う。
「忘れた。忘れてもうたよ。そんな昔のことは」
「だったら、もう一度拾い集めればいい。あいつみたいに。そうすれば、きっといつかどこかで重なる」
俺達は、こんな風に走る車に乗せられて、飛び去っていく街灯の光みたいな時間が通り過ぎているのを黙ってみている。ずっと道を走り続けて、すぐに自分がどんな道を通ってここまで来たかわからなくなってしまう。けれども、来た道をもう一度たどれば、きっと思い出せるはず。道はなくならない。
「小僧……」
「あんたも、もう逃げるのは終わりだ」
おっさんは顎に手を当てて、しばらく前を見つめていた。おっさんの横顔を街灯の光がいくつも飛び越していく。
「知った風な口を叩くな、アホが。こっちかて、もう惨めな思いは、うんざりなんや」
黒いミニバンは、俺達を乗せて闇に溶け込みながら、走る。俺達は、これから深い場所へと潜っていく。光のない深海みたいな場所で、全てが終わってしまっている場所で、これからを動かしているネジを見つけに行く。時間切れの世界を動かすために。
声のない人たちの声を聞いて、顔のない人たちの顔を見て、俺達は自分のなくしてきたものに触れる。それが時間であり、俺達の来た道であり、それが俺達が生きてきたということだ。
「当たり前のこと何やぞ。人が死ぬのも、自分がいつか死ぬのも。当たり前のことなんや、やから人間が生きていくのに耐えられへんわけなどあらへん。逃げ出すのは、ただ言い訳が欲しいだけや。向き合うて、負けるはずがあるか。こっちは生きとるんや。こっちは今を生きとるんや」
おっさんはハンドルを握りしめたまま、一つ一つの言葉をすりつぶしてスポンジみたいに穴だらけの自分の体に塗り込むように言う。
「頼まれたって、死んで何も言われへん人間を言い訳にして逃げるか」
言葉を吐き捨てて、おっさんは顔を上げる。歯を食いしばって、目を細めて、必死に前へ進もうと決意しているようにも、泣くのを我慢しているようにも見えた。
「なんにせよ、あの子もこんな夜中にうろちょろするとは思えへん」
おっさんが落ち着き払った口調で言った。
「あぁ。その辺はしっかりしている奴だから、きっとどっかのビジネスホテルにでも泊るんだろうと思う。自分を見失っても、自分を壊すほどには弱くはない奴だ」
「全ては、この夜が明けるのを待ってからやな――腹括れや。道は一本きりや。逃げ道はないぞ」
「あぁ。もちろん。わかってる」
それっきりおっさんも俺も黙り込む。夜の闇が深く重くのしかかってくる。暗い世界をヘッドライトで切り裂いて、タイヤがアスファルトを刻む音が消えた。俺は、自分の心臓の鼓動だけを感じている。伝えたいことは、この胸の奥に、大切にしまっておいてある。だから、俺は動いている。
*
「……なぁ。最近、俺どうも睡眠運がないみたいだわ」
「そうか。睡眠、いうのは大事やで。ええ睡眠をとれば、そんだけ体も動くし、健康でいられる。ちゃんと気いつけなあかんで」
「そうか。ありがたいご高説を賜ってとても感謝しているのだが……なら、なんで車中泊なんだ!」
車のフロントガラスから気持ちのいい朝の日差しが差し込んで、隣の運転席で寝ているおっさんに綺麗な影を作っている。鳥のさえずりをBGMに、俺は目一杯倒した助手席のシートで上半身を起こしている。
「しゃあないやろが。夜中にうろついたて、どないもならんし」
「いや、そういう問題じゃなくてだな。ホテル泊るとかあるだろうが」
「……お前、金もっとるんか?」
「……ない」
「なら我慢せえ」
「いや、ホテル代がなくても、あんたの家に泊めてもらうとか、そういうのもあるだろう?」
「あかん」
「何でだよ?」
「うちのかわいい娘にお前が手え出したら、困る」
おっさんはうっとうしそうに俺から顔を背けて、ぼそっと答える。
おっさんに俺という人間を見くびられている感じが腹立たしい。一応、俺だってそれなりにモラルというものはある人間だ。見境なしに手を出すか。
「手を出すって、あんたの娘は一体何歳なんだよ?」
「今年、三歳」
初めての幼稚園。友達たくさん出来るかな。
「って、そんな子供に手を出すかぁー!」
「大声出すなよ、こんな狭い車ん中で」
佐々木を追いかけるべくおっさんに協力を仰いだ俺は、しばらく夜の街を走った後、パチンコ屋の駐車場にて男二人、車中泊を決め込むこととなったのだった。
おっさんと俺と仲良く運転席と助手席を倒して一眠り。思い返せば、昨日も廊下で目覚めたりと、ここ最近の俺の睡眠環境には悲しくなる。我々にもっとよい睡眠を! 頭の中で、俺健康管理局によるシュプレヒコールが聞こえる。ちょっと無理な体勢で寝ていたせいか、ひからびた米粒みたいに固まった腰がバキバキ鳴る。
「お前なぁ、なめたらあかんぞ、うちの娘を。あのかわいさは犯罪や。この世に生まれた天使や。あれを見てメロメロにならん奴などおらん」
「いや、それ親バカ以外の何者でもないから」
「お前も娘が出来たらわかるわ」
おっさんはそう吐き捨てた後、「ふん」と鼻を鳴らすと、右足を曲げてかかとで蹴りを入れてきた。
「いてえな」
「まだ、時間は早い。休んどけ。本番はこれからなんやぞ」
「……わかってるよ」
おっさんの行為に腹を立てつつも、正論なので渋々従うことにする。おっさんと背中合わせでもう一寝入りしようとしたとき、俺の頭越しにおっさんの手がにゅっと伸びてきた。手には千円札が一枚握られている。
「なんだよ?」
「これで朝飯買うて来て。飲み物は、ブラックのコーヒーでええわ。ホットでな。嫌がらせで冷たいの買うて来たら、しばくし」
「自分も行けよ!」
しかも、嫌がらせで冷たいのを買ってきたことがあるのは自分じゃないか。
野郎二人による狭い車内でのなんとも間の抜けた、疲れる朝の光景だった。
*
おっさんは片手でハンドルを回しながら、横目でちらちらと俺の様子を見てくる。
「んな、不機嫌そうな顔すんなや。ちゃんと朝飯奢ったったやないけ」
「あぁ、あんたの注文の品を全部買ったら二百円しか残らなかったけどな」
俺は手に持った菓子パンと牛乳のパックを掲げておっさんに見せつける。
「そんだけ食うたら十分やろな」
俺は鼻を鳴らすと、おっさんから顔を背けた。悪いと思うならやらなければいいと思うのに、やってしまってからこうして謝っている辺り、このおっさんはそういう人なのだろう。
「別にかまわねーよ。どうせ、食欲もあんましなかったし」
仕方なく俺はパンを包んでいるビニール袋を破る。別におっさんを気遣ったわけでもなく、あまり食欲が出ないというのは本当だ。胃の奥に何かずしりと重い塊があるような気がする。この分だとこんな一個百円の菓子パンを食うのでも、胃袋に強引に押し込めるような感じになるだろう。
「……アホなやりとりしとっても、なかなか気は晴れんもんやのう」
おっさんがため息と一緒に呟いた。おっさんの前髪が車の振動と周期をあわせて揺れる。
俺は無言で細長いパンを噛んでは、牛乳でそれを飲み下す。ドアガラス越しに外を見る。朝の住宅街は静かだ。少しだけ、パワーウィンドウを下げてみる。冷たい冬の空気が潮の匂いを運んできた。海が、近いらしい。
*
十数分町中を走った後、おっさんはスーパーの駐車場に車を停めた。無言のままドアを開けて降りるおっさんに付き従って、俺も車から降りる。
「どうしたんだ? まだ、なんか買い物でもするのか?」
おっさんは何も言わずにポケットに手を突っ込んだまま、何をするでもなくただスーパーの入り口を見ている。大手のスーパーマーケットのありふれたチェーン店の一つだ。特に大きくもなければ、小さくもない。取り立てて注目するものなど何一つないように見える。
「変わったなぁ」
おっさんは立ちつくしたまま、辺りを見回した。
「小学校があっこにあるもんな。場所はここでええはずやな」
どうでもよさそうにひとりごちる。
「何なんだよ、ここは?」
「昔はバッティングセンターやったんや」
おっさんは顎に手を当てて言う。
「もう三十年近く前の話やからなぁ。今時、あんなバッティングセンターなんて流行らんよなぁ」
一人空を見上げて、誰ともなしに言うと、おっさんはポケットに手をつっこんでくるりと踵を返して車の方へ歩き出した。
「何一人で納得してるんだ」
俺は風を受けて翻るおっさんの黒いトレンチコートを追いかける。
「昔、兄貴に連れてきてもろうたことがあるんや。ここのバッティングセンター」
おっさんは俺を振り返らずに話を続ける。
「俺なぁ、ガキの頃、あほやから野球がうまくなったらみんなの仲間に入れてもらえるとか思とってん。バットもグローブも何も持ってへんかったくせになぁ、なんかバッティングセンター行ったらすぐにうまくなれるような気がしてなぁ。兄貴に無理言うて連れてきてもろうたんや」
おっさんは車に寄りかかって、今度は遠くから元バッティングセンターの光景を見つめる。
「ここ、安いんはええんやけど、けちくさいとこやったんや。バットは自前の持ってこいいうてな」
おっさんはスーパーの入り口を指さしながら「そんな商売やっとるからつぶれてまうんや」と右頬だけ歪めて笑った。
「それ聞いて、俺バット持ってへんから、受け付けでどうしたらええかわからへんようになって、ぼけーと突っ立ってもうてたら、兄貴が『ちょっと待ってろ』言うてな、俺を置いて出て行ったんや。けど、待っても待ってもなかなか兄貴帰って来おへん。俺、どないしてええかわらへんで、一時間くらい泣きそうになるのを我慢しながら待ったよ。それで、ほんまにもう泣こかな、と思うた時にな、やっとこさ兄貴が戻って来たんや。手に木製バット一本持ってな」
おっさんは両手でバット一本分の長さを作って、「どっから借りてきたんやろな」と奥歯で笑いをかみ殺した。
「楽しかったよ。今にして思えば、しょぼいのんもええとこやったけどな。あん時は、ほんま、なんでかわからんかったけど楽しかったよ。この世にこんな楽しいもんがあるんか、いうくらいに」
おっさんの目には、あの頃の光景が見えているのだろうか。俺も同じように目をこらしてみる。けれども、視界に映るのは大手スーパーチェーンの姿だけだった。
「嫌いやなかったんや」
おっさんは再び空を見上げる。青く晴れ渡った空に、動かないままの雲が引っかかっているみたいに浮かんでいる。
「兄貴のこと、別に嫌いやなかったんや。ずっと。ほんまは」
おっさんの目の前には、その日の光景が映っているのだろうか。心の中で映る過去の光景は透き通っている。たぶん、涙をレンズにしないと見えないせいだろう。
「あんとき、バットどこで借りてきたか訊いといたらよかったな。なんか、今頃になって、訊いておきたかったことが、ぎょうさん頭ん中に浮かんでしまうなぁ」
おっさんは恥ずかしそうに吹き出して、うつむく。苦く、そして甘酸っぱく。届かない場所に消えてしまったものだからこそ、変わっていくものと変わらないもの間ですり潰されて、傷口に染みる。
*
それからもおっさんの旅は続いた。小学校、公園、神社――おっさんは何も言わないまま立ちつくし、俺も何も言わずただおっさんの後ろ姿を見つめる。校庭の水飲み場、ブランコ、神社の石――おっさんはそんな何気ないものを真剣に見つめる。その表情から、感情は読み取れない。でも、そこには誠実さと勇気と、そして後悔があった。
俺には、何もわからない。ただ、だんだんとおっさんを取り巻いている空気みたいなものが変わっていくのを感じた。それは落ちていっているのか、それとも拾い集めているのか。俺には、わからない。
「行こか」
「あぁ」
今日何回目かの同じやりとりをする。おっさんの後を、リードを付けていない飼い犬のように俺は付いていく。他に俺に出来ることはない。
黒いミニバンのドアを開けてシートに座ると、おっさんが上を見上げて一つ大きなため息を浮かべた。
「小僧、次で最後や」
「……あぁ」
何事もなかったかのようにシートベルトを締めながら、俺は生返事を返す。
「期待はずれか?」
「何がだよ?」
「お前、俺と一緒にノスタルジーに浸るために来たわけちゃうやろ」
ぶっきらぼうな仕草でハンドルを振り回しながら、おっさんは言う。
「藁を掴んだだけだ。元々、期待なんかしてはいない」
「そら悪かったな」
大して悪かったという風でもなく、おっさんはぶっきらぼうに答える。少しずつ車内に太陽に光が溜まってきて、肌に触れると痛むような寒さは和らいでいっている。
「次行く場所は、お前にも関係あるかもしれん。もちろんあの子にも。期待してくれとは言わんけど、あきらめもすんなや」
おっさんはアクセルを踏み込んだ。少しずつ辺りに車が増え始めた道を、黒いミニバンは走る。
*
駐車場の砂利道をタイヤが踏みしめるざらついた音をBGMに、おっさんは車をバックさせて白い枠の中に収めた。サイドブレーキを引き上げるのを合図にシートベルトの留め具を外す。
「なるほど」
砂利道に降り立った俺は目の前の道の先を見て一人納得した。
「ぼけーと突っ立っとらんと、さっさと行くぞ」
おっさんは大股開きに俺の先を歩いていく。俺も何も言わず、その後を付いていく。頭の中で、何を言おうか考えながら。
ここに佐々木がいるかもしれない――淡い期待は口に出したら消えてしまいそうだから、俺は何も言わない。
「ここにやってくるのは、初めてか?」
先にドアをくぐったおっさんが背中越しに話しかけてくる。
「いや。何回か」
「ほうか」
足を踏み入れた玄関は冷たく静まりかえっていた。この冷たさはただ気温が低いせいだけではないだろう。ぽっかりと抜け落ちたぬくもりの欠片が辺りに散らばっている。
「一応、鍵は俺も持っとる。ちゅうても、別に貰たわけでもなんでもないんやけれどもな」
鍵を開けっ放しで放置しておくわけにはいかへんかったからな、と付け足しながらおっさんは玄関で蹴散らかすように靴を脱ぐ。
「まだ、人が生活していたような匂いがする……」
「ほんの一週間前までは、普通に人が暮らしとったからな」
おっさんは靴下のまま、一人先を歩いていく。そして、おっさんは廊下の角にある部屋に入った。俺もおっさんの後に倣って部屋に入る。
おっさんはポケットに手を突っ込んで、大きく顎を上に傾けながら辺りを睥睨する。そこはリビングルームで、六人掛けのテーブルの上は綺麗に片付けられており、何もなかった。
「まぁ、あんだけのタンカ切って行ったんや。おとなしく戻っているはずもないか」
おっさんはひとりごちるように呟く。俺は、いつかこの部屋を訪ねたときのことを思い出そうとしていた。この家がまだ家族として機能していた頃に。
「ここで、俺、あいつのお母さんと話したんですよ」
テーブルの真ん中の椅子を指さす。綺麗にテーブルに差し込まれた椅子には、あのとき自分が座っていた面影は感じられなかった。
「緊張していて、何を話したか全然覚えてないんですけど、でもなんかニコニコしていて優しそうなお母さんだなっていうのが印象的でした」
指先が少しだけ震える。
「……行こか。こんなとこでぼーっと突っ立っとらんで、さっさと挨拶せえへんとな」
おっさんはそれ以上何も言わずに、先を歩く。
*
「写真とか、飾ってないんだな」
「急やったからな」
小さなテーブルの上に白い布が掛けられて、骨壺が二つと線香台が一つ。
「ほんまはもうちょいちゃんとしたいんやけれども」
俺の疑問に先に答えるようにおっさんが付け足した。
目の前にあるあっけなさに俺は動けなくなる。人が、こんなに小さくなるなんて。にわかには信じられない。でも、現実だ。悲しいくらいに、現実だ。
おっさんは素っ気ない仕草で近くの戸棚の引き出しから線香を取り出す。
「お前、火持ってるか?」
「持ってない。っていうよりも、あんたタバコ吸ってなかったか?」
「やめたよ。っていうか、持っとったらわざわざお前に訊くか、アホ」
悪態をつきながら、おっさんは線香片手に辺りを探る。俺もおっさんに倣ってテーブルの周辺を見回す。
「そこにマッチがある」
俺が指さすと、おっさんは「あぁ」と口の中で呟いてマッチを手に取った。マッチを擦って、炎に線香を近づけて炎が線香に移ると、おっさんは右手を振って火を消した。やがてその先端が赤く光り始める。
「数珠くらい持ってきたらよかったな」
「そうだな」
手を合わせてから呟いたおっさんの言葉に俺は同意する。風のない室内で、煙がくねりながら上へと上っていく。
「しっかり祈っとけよ」
「わかってるよ」
「頭ん中で『娘さんを僕にください』言うて土下座しておけ。んで、夢枕でどつきまわされる夢でも見とけ」
「なんだよ、それ」
「『娘さんを絶対に幸せにしますから、一緒にさせてください』でもええぞ」
「こんなときに冗談言うなよ」
「ふざけてはいるけど、冗談やない。お前、兄貴に会うたことはあるんか?」
「……ない」
おっさんは悪戯っぽく唇の端を引き上げる。
「兄貴はなぁ、堅物やぞ。いかにも堅物みたいな黒縁の眼鏡掛けてな。こっちを射抜くような目で真っ直ぐ見てくるねん。お前、その場におったら多分震え上がってまうぞ」
「脅すなよ」
両手を合わせながら、頭の中で勝手に佐々木の父親を創って、その前でかちかちになっている自分の姿を想像する。
俺はスーツを着ていて、目の前に出された紅茶のカップを震える手でかちゃかちゃ言わせながら、普段より甲高い声でしゃべっている。隣で俺を見ている佐々木の少し底意地が悪くて、でも優しそうな目まで思い浮かびそうだ。多分、一気にしゃべって、頭を下げて、許可をもらえたらその場で電池の切れたロボットみたいにへたり込んでいるんだろう。
やれやれ、なんて疲れる大仕事だ。一人娘を奪いに行く男っていうのは、つくづく損な役回りだ。
間違いなく出来うる限り避けて通りたい人生の十大イベントの一つだ。だけれども、今となっては、それがもう出来なくなってしまったことがどうしようもなく寂しく感じてしまう。
「お前、将来のことはどうするつもりや?」
「将来?」
「大学の三回やろ。ぼちぼち就活が始まるんちゃうんか?」
「あぁ。そういえば、そうだな」
今更ながらに、思い出した。俺の間の抜けた声を聞いて、おっさんは大げさに額に手を当ててため息を付く。
「ほんまに無計画やの。お前」
あきれかえるような声で言われたが、さすがに言い返せない。
「正直、いろんな事がありすぎて、考えられないんだよ。今は将来のことなんて」
「考えろ、アホが」
即答だった。
「お前、人様の大切な娘を奪うのに必要なのは、決意表明と将来計画のプレゼンテーションなんやぞ」
「なんだよ、それ」
やけにかしこまったおっさんの言葉に俺は吹き出しそうになってしまう。おっさんは「ふん」と鼻を鳴らすと、
「将来について、深刻に考えてはいけない。けど、真剣に考えるんだ。……なんてな。なんか兄貴の言いそうなことをシミュレートしてみた」
おっさんは笑いながら俺の背中を叩く。
「なんだよ、それ」
俺はおっさんに視線で不満の意を訴えるが、おっさんは全く意に返さない。
「アホか、お前。こっちゃ、兄貴の意志を代弁したってるだけやっちゅうねん」
くっくっと笑いを喉の奥でかみ殺しながら、おっさんは俺の背中をぽんぽん叩き続ける。どこか釈然としないものもあったが、おっさんの言いたいことはわからんでもない。――それにここではっきりと意思表示しないと先に進めないような気もした。
深呼吸。なんでかわからんが、手が少し震える。どこにいるかわからない佐々木のお父さんに向けて、まずは一言。
「えっと、はじめまし――」
「アホ。俺に挨拶してどないすんねん」
言葉を言い終わらないうちにスパーンとおっさんに漫才のツッコミよろしく頭をはたかれた。……別に俺はボケたわけではないのだが。
「んなもんは手え合わせて心の中で言うたらええねん」
おっさんは両手を合わせる仕草を俺に見せる。なんでおっさんに気安く頭をしばかれなくてはならないのか、釈然としないものもあるが、おとなしく俺は両手を合わせた。
祈る。心の中で、俺の気持ちはうまく言葉にならない。心の中にあるそれは、言葉にすれば一言でも、存在確率は不確かで、形を常に変えながら静かに広がっていっている。俺はそれを両手の間に込める。うまく言葉に出来なくても届いてさえくれれば、それでいい。
「けど、ここにもあいつは戻ってきていないんだな」
合わせた両手を解いて、腕を降ろしながら言った。いくら祈ったところで、まだ辿り着けてはいない。だから、まだ終わってはいない。
そうだろう? ここへは俺達二人が並んで訪れなくてはならないのだから――
「これで最後だって言ったよな? もう、あんたに思いつく場所はないんだな」
腹の中で覚悟を決める。これからは一本の藁みたな細い希望を掴むように俺は前へ進まなくてはならない。
「いや、そうでもないみたいや」
おっさんがどこか緊張感の抜けた声で言う。
「線香の跡があった。俺、この家を最後に出る前にそこを掃除したんや。けど、さっきここへ来たとき、線香を供えた跡があった」
おっさんは線香台を指さす。
「ということは、つまり――」
誰かが俺達の前にここへやって来て、お参りをしたのだ。つまり、そんなことをする人物はたったの一人しか考えられなくて――
「多分、参るだけ参ってさっさと出て行ったんやろな。こんなところにおったら見つかるのは間違いないからな」
おっさんが俺の言葉の後を継ぐ。握りしめた自分の拳に体温が戻っていくのがわかる。
繋がっているんだ。俺達はまだ繋がっているんだ。俺が立っているこの場所に、きっとほんの数時間前佐々木は立っていたんだ。
大丈夫、まだあいつの背中は俺の手から離れきっていない。きっと、もう一度その手を掴める。
「行こう」
俺は慌てて身を翻す。一分一秒でも惜しい。ここに来てやっと少しだけ繋がれたのに、もたついている分だけ、あいつの背中が離れていってしまう。
「待てや」
おっさんが俺の肩をぐいっと掴む。俺は右半身のバランスを崩したまま、おっさんを振り返った。
「心当たりはある。というよりも、最初からおるとしたらここやなと思てた場所があるんや」
穏やかな言葉とは裏腹におっさんの視線は鋭い。まるで俺の心の奥底まで射抜くように、まっすぐに突き刺さる。
俺は体を反転させると、おっさんと相対した。真っ直ぐにおっさんの目を見つめ返す。俺は今試されている。そして最終警告も受けている。この先へ行けば、もう引き返せないのだと。一歩進めば、俺はいろいろなものを背負うことになる。
――それがどうした。ここへ来てしっぽ巻いて逃げ出すために、俺は両手を合わせたんじゃない。覚悟は決めている。あいつが暗い海の底に沈んでいくというのなら、深海にまでだって俺はついて行ってやる。それで本当に幸せになれるか? 俺は神様に横っ面をはたかれたって、笑いながら言ってやる。それで幸せ、だと――
「行こう」
おっさんは上唇をひん曲げて鼻を鳴らすと、肩を組むようにして、俺の背中を叩いた。
「娘のことを頼む。兄貴に代わって、言うといたる」
*
砂に包まれて、足音は消える。けれども、足跡は残る。
砂上の楼閣――そんな言葉が頭の中に浮かぶ。ほんの数十メートル先にあるはずなのに、そこはとても遠く感じる。足音を立てて地面を揺らせば、それだけで崩れ落ちてしまいそうな、そんな遠い場所。
波の音が聞える。潮の匂いがする。目の前に広がる遠い光景に、人はここからやって来たと誰かに言われたら、これだけ広い世界のどこかにならそんなはじまりの場所もあるのだろうとなぜか信じてしまいそうになる。
だから、俺達は海を見るのだろうか。だから、お前の父親も、そしてお前もそうやって海を見ているのだろうか。
頬を撫でるように吹く風を切り抜けて、少しずつ俺の影とあいつの影の距離がなくなっていく。
「よう」
二つの影が重なった。俺の言葉に、砂浜に打ち上げられた気に座ったままのあいつは何も答えない。けれども、逃げもしない。ただ、俺の言葉など聞えないように、時間が止まったみたいに座っていた。
それ以上何も言わず、俺も隣に座る。二つの影が並んだ。
「よく、ここがわかったね」
水平線を見つめたまま言う。
「おっさんが教えてくれた」
俺も同じ水平線を見つめたまま答える。
「そう」
「あぁ」
目の前で白くはじける波も、遠くではただの揺らぎでしかない。光を反射しながら、それはただ揺れ続ける。いつまでも、ずっと。
「お前の親父さんも、よくこうして海を見ていたらしいな」
おっさんは俺にそう告げて、ここへと連れてきた。
何か辛いことがあったとき、佐々木の親父さんもこうして海を見ていた。小さかったおっさんは、親父さんの姿が見えなくなるたびに、ここまで探しに来ていた。けれども、小さかったおっさんにはあまりにも何もわからなくて、声を掛けることも出来ず遠くから後ろ姿を見ていることしか出来なかった。
おっさんは、言った。あのとき、無理をしてでも声を掛けていたら、また何か変わっていたかもしれないと。
意地を張り続けた先にあったのは、後悔の記憶ばかりで、だから、おっさんは言った。
――あの子は変なところで俺に似てもうとるから。
そして、寂しそうに笑った。
「きっと、その血を引いているお前も、こんなときはここへ来ているだろう、って言ってたぜ」
そして、お前はおっさんの言ったとおり、ここにいた。
肩が触れあうくらいの距離で、俺達はお互いに視線を向けないまま、ただ水平線だけを見ている。
「小さい頃、ちょうど幼稚園くらいのころかな。休日に父に連れられて近くを散歩するときによくここへ来たんだ。僕は波打ち際で拾った木の枝で砂浜に絵を描いたりして遊んでいて、父はいつもこの辺りに座って、遠くを見ていた」
訥々と紡がれる佐々木の言葉が、潮風にかき混ぜられて、耳に届く。足を組んで顎を引いてみた。親父さんが見ていた景色に少しでも近づくように。きっと、こんな風に。
「どうしてだろう? 思い出してしまうのは、こんな小さなな思い出ばかりだ。そうやってこの砂浜で遊んでいると、陽が水平線の向こうに落ちる頃に母が迎えに来るんだ。そうして、家族三人で夕暮れの家路を歩くんだ」
幸せだった頃の記憶。潮風に乗って、なぜか俺の心にまで包み込むように優しく痛く沁みる。
「遠いよね。空は、いつも変わらずに。ぼんやりと、昔も今も、同じ風景を見ていたんだ」
「そうだな」
自然と同調の言葉が口からこぼれ落ちていた。
「……あの人は?」
初めて、佐々木の口から疑問調の言葉が出る。
「俺をここに放り出して、どっか行っちまった。後はお前自身でなんとかせえ、って言ってな」
「そう」
「あぁ」
ここまで来てしまった。ここへ来てしまった。あんなに激しく望んでいたはずの場所なのに、どうしてこんなに静かで穏やかなのだろう。
「……何かを手に入れると、いつか失ってしまうから、怖いね」
俺は何も返せない。いつだって、真実って奴は単純すぎるから。抗うことも出来ないほど、単純だから。
「怖くなって、手に持っているもの全てを放そうとした。そうすれば――もう失うことはないから」
遠くで海鳥が飛んでいる。波が満ち引きを繰り返しながら海岸線を洗い続ける。全ては当たり前のように繰り返して、揺れて、そして少しずつ変わっていって。
「けれど、失ったとしても、それが『いた』ことだけははっきりと残っているんだね。終わってしまったことは、もう変わらないから。永遠に」
「……嘘だよ。全てを手放せば楽になれるなんて、大嘘だ」
「そうだね」
言葉は空虚に響く。結局の所、俺達は何の解決にも辿り着けなかった。ただ、こうして全てを受け入れいるしかなく。こうして、ここにいるだけ。
「キョン。キミはどんな大人になりたい? どんな人になりたい?」
「いきなりそんなことを言われても――なんとも答えられねえよ」
「そんな難しいことじゃないさ。どんな仕事につきたいとか、そうキミの夢はどんなものだい?」
佐々木が喉の奥で上げた笑い声は潮風にかきまわされて、耳に残る前にすぐに消えた。
「キミにだって夢はあるはずだ。叶えたいものがあるはずだ。あるだろう? ちょうど今、僕たちは人生の岐路に立っている。今が、自分が将来どんな生活を送っていくか、それを決める重要な時期だ。そんなときに――僕はキミの足枷にになって、キミの将来を台無しにしてしまうことは、出来ないんだよ」
あのときと、同じことを言う。何も、わかっちゃいない。
「勝手なこと言うんじゃねえよ」
あのとき言い返すことが出来なかった言葉を、今。ここに逃げ道はない。俺にとっても、お前にとっても。
「勝手に、人の夢とかなりたいものを決めるなよ。別に俺は金持ちになりたいわけじゃないし、有名になりたいわけじゃない。人からちやほやされたいわけでもない。そりゃ、そうなったらいいと思うけどさ。でも、そんなもんは俺の夢じゃないし、そうなることが夢を叶えることじゃないんだ」
この数日間で学んだ、本当に失いたくないもの。
「夢を叶えるっていうのは、自分が大切にしたいものをずっと大切にしていくことだと思うんだよ」
言葉が胸の奥から出て行くのを感じる。それはどうしようもなく不安で、弱々しくて、生身の飾らない俺の本当の言葉で。だから、ちゃんと届いて欲しい。たった一言だけでも、届いて欲しい。
「俺は、お前に出会えてよかった」
それだけだ。それだけのことを、大切にしていきたいんだ。
この一言だけで、全てがどうでもよく思えてきた。まるで、広い大きな空に身を投げ出したような気分だ。
空を見上げる。それがどう目をこらして見えても、何の変哲もないずっと見慣れた空で、自然と笑えてきてしまう。
馬鹿な奴だ。こんな一言を言っただけで、心が満たされてやがる。救いようのないくらいにおめでたい奴だ。自分という人間は。けど、いくら誰かに馬鹿にされたとしても、絶対にやめはしない。
「ねぇ、キョン」
「おう」
「……キョン」
「おう」
「キョン」
「なんだよ?」
佐々木が同じ言葉を繰り返して言うものだから、思わず笑って聞き返してしまう。
「……どうしよう?」
「どうしたんだよ?」
鼻の詰まった不安そうな声。こんな情けない佐々木の声なんて聞いたことがなかったら、俺はまた笑ってしまう。
――どうしてくれてもいいんだよ。お前になら。
「いっぱい話したいことがあったはずなのに、なんだか頭の中がくしゃくしゃで、全然うまく言葉にならない。どうしよう。話すことに、迷うな……」
「いいよ。お前の伝えたいことは全部ちゃんと聞くよ。どれだけ、時間がかかっても」
「けど、時間が経てば経つほどキミに伝えたいことが増えていくかもしれない」
「なら、ずっとお前のそばにいるだけだ」
「――じゃあ、このままここにいて」
「あぁ」
「ずっと、ずっとここにいて」
落ちていく陽を反射する海面が揺れる。瞼を一度閉じてから空を見上げると、空も揺れていた。目に映る何もかもが、揺れていた。
「ねぇ、キョン」
「……なんだ?」
「僕は、それでも思ってしまうんだ。もしかして、何かがあったら、ひとりぼっちにして辛い思いをさせてしまうかもしれない。ちゃんと元気な命を与えてあげて、一人前になるまでそばに付いていてあげられないかもしれない。そんなことはわかっていても、それでも自分自身のわがままだけで、自分の命を分け与えた子がこの世界にいて欲しいと願ってしまうんだよ」
俺達は二人並んで、同じ海を見ている。あいつの両親も、同じように並んで海を見て、同じことを願ったのだろうか。俺には何もわからない。ただ海の中の世界は、何もかも知っているかのように、たゆたい続ける。
「家族に、なろう。ひとりぼっちは、辛いよ――」
彼女の願いがひとしずく。海に、落ちた。願い事は変わらない海に何重もの波紋と共に広がっていく。
何も言わず、ただ俺は彼女の手をそっと握った。ぬくもりを、俺の存在だけを伝えたかった。
彼女はただ「強く抱きしめて欲しい」とだけ言った。
*
人生というものは、とにかく甘くはないものだ。
俺はスーパーで白菜を品定めしながら、一人そんなことを考える。ちなみに白菜を品定めしているつもりではいるが、どれがいい白菜かなどという判断基準はわかっていない。とりあえず格好だけだ。
三個目にして全く違いがわからなかったので、これでいいやと、かごの中に放り込んだ。かごの中から目利きすら出来ない俺をあざ笑っている白菜の視線を感じながら、次に向かうはネギである。野菜なんてどれが新鮮かわからないので、これはもう悩まずに適当に手に当たったものを掴もうと思う。しかし、メインの肉だけはわからないなりにもじっくり選んだものを使いたいものだ。なんとなく、気分的に。
スーパーのビニール袋から間抜けにネギの頭を出して歩く就職浪人生。もとい、プータローのフリーター。
「冴えねえよなぁ……」
目の前を通り過ぎていった大学生らしきカップルの姿を見て、ため息と共にそんな言葉がこぼれる。
人生、甘くはないものだ。一念発起して公務員になるべく公務員試験を受けたものの、特にそれに向けての特別な教育を受けたりとか勉強をしてこなかった俺は見事に落ちてしまった。本当に、現実は甘くはない。
そんな哀れで情けない男が今何をしているのかといったら、それはネギの頭が顔を出した鍋の用意が入ったビニール袋を持って、夕方の駅前商店街をとぼとぼと歩いているというのだから、本当に救いがないのかもしれない。
今、俺の背中には勤続数十年のサラリーマンに匹敵する哀愁が漂っていることだろう。あぁ、落日がよく似合う。
「おう、久しぶりだな!」
「イテッ」
いきなり何の前触れもなく背後から哀愁漂う背中を空気も読まずに気安く叩いてくれる馬鹿が一人。振り返れば俺をあの頃へと引き戻す、全く変わりのないアホ面。
「気安く人の背中を叩くな、谷口」
「ずべこべ言うんじゃねえよ。久しぶりに顔を合わせたっていうのによー」
「はいはい」
ため息で受け流して、俺はまた歩き始める。
「働き出して、ちったあ参っているかと思ったら、案外元気そうだな、お前」
「おうよ。一応金貰ってるからな」
相変わらずのアホ面で腕まくりをしてみせる谷口。あぁ、こいつもスーツ姿で街を歩くようになってしまったのか。
谷口の奴は町工場の事務と営業(人数が少ないせいで両方やらされるらしい)で就職した。とはいっても、こいつは真面目に就職活動をしたわけではなく、例によって朝倉にこっぴどく振られてやけ酒を飲んでいるところを偶然居合わせたおっさんと盛り上がり、実はそのおっさんは町工場の社長で、なぜか気に入られた谷口はあっさりと就職先が決まってしまったというわけだ。こんなふざけた形で就職を決めるなんて……
全くもってして、世の中は理不尽であり、運命というやつはいい加減である。
「そういうお前はどうなんだよ? 公務員試験」
「ちゃんと勉強はしてる。今年こそは受かってやる。っていうか、受からないとマジでやばいだろ」
「そうかー。でも、勉強ばかりするのもよくはないぜ?」
「当たり前だ。週五日バイトしてる。さすがに家に一銭も金を入れないわけにはいかないからな」
商店街の道を谷口と並んで歩く。一日のうちに数時間バイトを入れて、それ以外の空いた時間に勉強をするという生活。それをここんところ続けている。親は一応俺は大学には現役で入ったので、大学浪人したと思って一年間だけなら面倒を見てやると言ってくれている。それでも大学を卒業した身としては、さすがにスネをかじっているばかりではいられない。せめて自分の食費くらいはバイトで稼がねば。
「スーツ姿なのは仕事帰りか?」
「おうよ。つっても、まだ研修中のぺーぺーだけどな」
鞄を両手に持って背伸びをしながら谷口が答える。夕日のせいか、影がやけに伸びて大きく見える。
「お前の彼女の方は、どうよ?」
「――あぁ、佐々木か。元気にしてるよ」
佐々木はあれから俺とは違ってちゃんと一流の会社の内定を取って就職した。まぁ、あいつの実力からしてみればそれは大して驚くべきことでもない。
「もう卒業から、随分経つよな」
「そうだな」
なんとなく、お互い言葉がうまく出なくなる。それでも、きっと頭の中で考えていることは同じようなことだろう。
「あぁ! 佐々木ちゃんに会うのも久しぶりだぜ。きっと社会人になってまた一段と綺麗になってんだろうな」
谷口の奴が素っ頓狂な節回しでニシシと笑う。
「佐々木ちゃんが俺のために愛情を込めて手料理を作ってくれるなんて……もう、天へも昇る気持ちだぜ!」
「なら、リクエストにお応えして、お前の取り皿には毒でも盛っておいてやろうか」
谷口はブーと唇を突き出す。相変わらずのアホか。お前は。
「第一、お前は朝倉一筋じゃなかったのか」
「ばかやろー。俺ももう社会人だ。いつまでも昔の女のことを引きずっているわけにはいかねーよ」
眉間に人差し指を当てる谷口。本人はかっこを付けているみたいだが、どこか間抜けだ。
「あら、それはありがたいわね。でも昔の女とか、そういう誤解を招く表現はやめてくれる?」
後ろから声がした。俺と谷口は思わずお互いの顔を見合わせてから、後ろを振り向く。
「お久しぶりね、お二人さん」
「朝倉ぁ!」
「おう、久しぶりだな」
朝倉は右手を挙げて「おっす」と挨拶すると、俺達の後に付いて歩き始める。
「お前、いつからいたんだ?」
「んー、もうちょっと前から」
相変わらずのどこかわざとらしくすっとぼけた調子の朝倉の声。
「なんか男同士で恥ずかしい会話してるなー、とか思って、他人の振りをしようと声を掛けずに歩いていたんだけれどもね。谷口のうそ・大げさ・紛らわしい発言をさすがに寛大な私も看過することが出来ずに、ついつい声を掛けてしまったっていうわけ」
「その気持ち、よくわかるぜ」
「……なんだよ、お前ら二人して変なところで意気投合しやがって」
昔と変わらない調子で谷口がむくれる。俺と朝倉は何も言わず顔を見合わせて笑った。
「けど、いいのかい、就職浪人。こんな所でのんびり鍋パーティーなんかしていて?」
「いいんだよ、別に」
朝倉にはっきり言われると苦笑いを浮かべるしかない。その話はもうやめてくれ、と手を振り払う仕草をした。
朝倉はぺろりと舌を出すと、
「がんばってね」
「当たり前だろ」
将来がどうなるかなんて、わからない。けれども、ここから始めるしかない。うまくいく保証なんかない。泣いても笑っても全てはここからだ。ここから始めていくしかないんだ。
大きく息を吸い込んで、胸を張れ、就職浪人生。両手にネギの刺さったスーパーの袋を持って、前へ進め。生きることが辛いことくらい、よくわかっている。
「けれども、こんな季節に鍋パーティーなんてね」
疑問調の口調で唇に指を当てる朝倉。
「別にいいだろ。あいつのリクエストだ。久しぶりに、みんなで、集まりたいんだってさ」
「そう」
「あぁ」
久々、実に二ヶ月ぶりに佐々木はこの街へ帰ってくる。会社の研修を終えて、この街に。
「お? あれ佐々木ちゃんじゃないか」
谷口が道の先を指さした。その先にある人影はしばらくぼんやりと立っていた後、俺達に向かって右手を振った。
それに気が付いた谷口の馬鹿が大げさに両手を振る。朝倉はそんな谷口を横目で見て、あきれるようにため息を付いた後、人影に右手を挙げた。
――おかえり。
きっとここからだと言葉は聞えないだろうから、口の中で誰にも聞えないように言う。けど、聞えなければ意味がない。だから、早くちゃんと伝えよう。
両手を買い物でふさがれている俺は手を振れないかわりに、足を動かす速度を速めた。
帰ろう。俺達の家に。
――ただいま。
*
数年間付き合ってきた中で、こいつは基本的にあまり酒を飲まなかったから、おそらく酒は弱いんだろうなと思っていたのだが……まさか、これほど弱いとは思わなかった。酒を片手に俺達二人を見る谷口と朝倉の視線が、痛い。
「なぁ、佐々木。その、なんというか、くっつきすぎだな、とか思わないか?」
じわっと突き刺さる視線から逃れるように、おそるおそる佐々木に声を掛けてみる。
「何を言う、キョン。少し目の前がくらーとしてふわーとしているだけだ。キミが支えてくれないと、倒れてしまう。だから、おとなしくもたれかけさせたまえ」
佐々木は目を閉じたまま「フフン」と鼻を鳴らして言う。
いや、佐々木さん。あなたは目を閉じているからわからないのかもしれませんが、思いっきり人が見ているんですけど。
そんな俺の心の声も当然テレパシーなどとしてご都合主義的に伝わるはずもなく、佐々木は閉じた目をさらに細めて「うーん」と気持ちよさそうな声を出す。思いっきり俺の肩、というかほとんど胸に寄りかかるようになった形のまま。
最初の方は普通に談笑をしていたのだが、佐々木も久々の再会に気がゆるんだのか、いつもよりもハイペースで飲むうちに、気が付けば視線が怪しくなり、そしてこの状態に至る。
「ちっ――」
ちっ?
「ちくしょおー!」
やおら谷口が叫んだ。けれども、佐々木は無反応。
「思いっきり見せつけやがってー! ちくしょう、ちくしょう。思いっきりラブラブオーラを出しやがって……。俺だって、そんな風に女の子に寄りかかられたい!」
谷口が悲鳴とも泣き声ともつかない声を上げる。
「別に、これは、佐々木が酒に酔ってしまったから、その、事故みたいなもんだから」
申し訳ないようななんかやるせない気分になって、俺は遠慮がちに谷口に言い訳をする。
「はっ。そうか。酔わせる、その手があったか!」
今気づいたように何かに感心する谷口。っていうか、お前はこの状態になるまでの流れを見ていなかったのか。
「よし!」
何かを決意、そして期待する目で隣の朝倉へ視線を向ける谷口。悲しいくらいにまではっきりと、こいつの浅ましい魂胆がわかってしまう。あぁ、なんて単純な奴なんだ。それにお前、それは――
「朝倉、お前も酒を飲め――って、あぁ!」
「ん? 何よ?」
「て、手酌で日本酒の一升瓶を!」
朝倉を指さして衝撃に固まる谷口。それを右手に一升瓶、左手にコップを持ったまま、アホを見るような冷たい目で一瞥する朝倉。
そう、朝倉はこの中で一番酒に強い。ダントツで。日本酒なら一升瓶くらいほとんど顔色を変えず軽く一人で空ける。
谷口は上半身を固めたまま、涙目で俺の方を向いた。いや、そんな助けを求めるような目をされても、俺にはどうしようもないから。
「世の中は理不尽だー!」
両手で頭を抱え谷口が叫んだ。
*
谷口の魂の叫び以降、完全に出来上がってしまった佐々木は俺に寄りかかったままで、谷口は一人俺達から背を向けてちびちびとビールを飲み、そしてその隣で平然としたかの朝倉が一升瓶片手にやっておられる。そんな状況になった。
「ねぇ」
朝倉があぐらをかいて一升瓶片手に話しかけてくる。
「ん?」
「ここって佐々木さんの家なんでしょ?」
「あぁ。そうだ」
「ここで一緒に、暮らすつもり?」
朝倉の言葉の切っ先が突きつけられる。嘘やごまかしは通じそうにもない。
「ここで暮らせるかどうかはわからない。けど、結婚はするつもりだ」
この家は、佐々木が育ったこの家は、おっさんが守ってくれた。いくらなんでも部外者である俺に関わる権利などあるはずもなく、おっさんは「任せろ。それは俺が何とかしたる」と言って、佐々木の両親の遺産の件を一切合切引き受けてくれた。
そこで何があったかはわからない。けれども、少なくともおっさんはこの家だけは守ってくれた。
あの例の海での一件の後、おっさんとは顔を合わせていない。元気にしているだろうか、とふと懐かしくなった。
「違う」
突然佐々木が目を開いて、そう言った。しかし、いきなり何が違うのだろうか。全く意味のわからない俺は佐々木を見下ろす形で、佐々木の顔を間抜けみたいに見つめる。
「結婚するなんて、聞いてない。プロポーズはされてない」
半分ろれつの回らない口調で、俺の胸を右手で叩く。
「いや、そうはいっても、この間の海で――」
そう、あのとき俺達は約束したはず。約束したはずなのだが……。俺の言い訳など聞く耳持たぬように、佐々木は口を尖らせて、俺を責め立てる視線で見ている。
「キョン、いいかね? プロポーズというものはだ、男性が女性にするものであると決まっているのだ。もちろんそこに科学的な根拠があるわけではない。しかしながら、習慣や文化というものは軽んじるものではないと僕は考えているのだよ。そして、残念なことに僕は女性である。生物学的に、それはどうしようもない厳然たる事実だ。そして、キミは男性である。これもまた厳然たる事実だ。これらの意味するところ、つまりは結婚の約束を取り付けるプロポーズはキミの仕事であるということだ。しかし、あろうことか、僕はまだキミの口からそれを聞いていない!」
ばしばしと俺の胸を叩きながら力説する佐々木。……酔っぱらっていても、それだけ口は立つんだな、お前。
いつの間にか朝倉がテーブルに身を乗り出し、両手で顎を支えて生暖かい視線を俺に向けている。谷口の奴はビール片手に、背中を向けたまま首だけで俺を涙目で見ている。
ちょっと、待て。なんだ、この居づらい感覚は。なんか、こう思いっきり期待されちゃっている感は!
「そこははっきり言わないとねー。男として」
朝倉、明らかに楽しんでいるだろ、お前。
「けっ。この期に及んで尻込みか。ヘタレめ」
谷口、お前にヘタレとだけは言われたくない。
なんだか、かなりなし崩し的だが、ここまで言われれば仕方がない。言ってやる。あぁ、言ってやるさ。
俺自身も酒が入っている勢いのせいかか、ずいぶんと気が大きくなっているみたいだ。意を決して、佐々木の顔を見つめる。いざ。
「佐々木、俺とけ――ん?」
向かい合った佐々木は目を閉じたまま。そして、聞えてくるは断続的に繰り返されるすぅーという気持ちよさげな寝息。
「……寝てるよ」
額に手を当てて落胆。こういうオチかよ。
朝倉と谷口は仲良く大笑い。あぁ、穴があったら入りたいとはまさにこのことだ。とはいっても、佐々木に寄りかかられているままの俺には逃げる場所などあるはずもなく。とりあえずは、眉間にしわを寄せてやり過ごすしかない。
「笑いたきゃ、笑えよ。もう」
ため息しか出ない。
「そう拗ねるなって、キョン」
わざわざ谷口が俺のそばまでやって来て、乱暴に肩を叩く。励ましてるのか、傷口に塩を塗っているのか。
何とも言えない感をくさやの干物の放つ匂いのように全身から出しつつ、俺は谷口にされるがままになる。もうヤケだ。
「さてと、いいもん見せてもらったし、そろそろ行くかな」
しばらくからかいたいだけ俺をからかってから、時計を見ながら独りごちて谷口が立ち上がった。
「え? お前、もう帰るのか?」
立ち上がった谷口を見上げる。
「あぁ。明日、仕事早いんだよ。悪いな。せっかく呼んでもらったのによ」
明日は休日のはずだ。そう思って、この日を選んだ。けれども――やっぱり、一人前になって働くというのは大変なのか。
「谷口」
「へっ。ちゃんと俺も働いて社会人してるんだぜ」
谷口は得意そうに笑う。そう、こいつはもう社会人なんだ、立派に仕事をしている。それに引き替え、俺はそんなこともわからず毎日が日曜日みたいな生活を送って。
「すまないな。そんな忙しいのに……」
「おいおい、そんなしょぼくれたツラすんなよ。また声掛けてくれよ。やっぱ、大学時代の友達と飲むっていうのはいいもんだからよ」
「あぁ。ありがとうな」
「素直なお前は気持ち悪いな」
谷口は顔をくしゃっと握りつぶした紙みたいにして笑う。
「うるせーよ」
「へっ。今度、社会人になった俺の給料で一杯奢ってやるよ」
「……あぁ、期待してるぜ」
「んで、ちゃんと奢り返せよ。倍返しで。出世払いでいいからよ」
「あぁ。未来の高給取りに期待しておけ」
「何が高給取りだ。公務員になるくせによ」
それからお互い、数秒言葉を失ってしまう。
「……受かれよ。次は絶対」
「当たり前だ」
谷口の差し出したげんこつに、俺もげんこつを当てて応える。
あぁ、これで、今日、もう一つ、絶対に受からなくてはならない理由が増えたか――
*
谷口が帰ってしまうと、一気に部屋の空気が静かになってしまった。朝倉は変わらず一升瓶を抱えて、一人酒をちびちびとやっている。
「なんか、静かになっちゃったわね」
「そうだな。朝倉。お前も明日仕事あるんだったら、変に気を使わずに早く帰ってくれたらいいぞ」
朝倉はグラスに口を付けたまま、横目で俺を見ると、
「大丈夫。明日は休みだから。っていっても、さすがに泊るわけにはいかないわね」
朝倉は俺に寄りかかって眠ったままの佐々木を見ながら答える。
「にしても、谷口一人いなくなっただけで、やけに静かになってしまったものね」
おどけるような口調に変えて、朝倉が続ける。
「あんなバカでも、いてくれたほうがいいものなのかもね」
「お前、それはいくら何でも谷口にひどいだろう」
俺の言葉に朝倉はからからと笑う。
「それもそうねー」
あまりにもあっさりとしすぎていて、それだけに含みのある言い方だと思った。両手を腰の後ろにつけて、朝倉は天井に上半身を向ける。
「結局、私はあいつに勝てなかったなぁ」
唐突な朝倉の言葉。この空間に、ぼんやりとすじ雲のように浮かぶ。
「どういう意味だ。なんか、あいつと勝負でもしてたのか?」
朝倉は俺の方を向いて、数秒逡巡したようだった。そして、あきらめたように息をつくと、
「あいつには散々ひどいこと言ったりしたりしてさ、さっさと私のことなんか嫌いになってくれればいいのに、なんて思っていたのに。結局、あいつ、私から離れなかったね」
「朝倉……」
「ほんと、バカ。うんざりするくらいに。けど、そんなの一つ追い払えなかったんだから、こっちも大概か。バカに付ける薬はない、わね。さっさと、嫌ってくれた方が全然いいのにね」
「……まったくだ」
しみじみと胸の底からそう言って、俺は手にしたグラスのビールを飲み干す。本当に見事なまでのバカ、だと思う。そして、そんな滅多にいないバカ野郎と友達であることが、嬉しい。
「ねぇ」
「ん? なんだ?」
「佐々木さん、幸せそうな顔して眠っているわね」
「……そうだな」
肩に触れるあいつの額から寄りかかられている分だけの、佐々木の重さを感じる。
「普段は強がってるくせに、無邪気な寝顔しちゃって」
朝倉はテーブルに肘を突いて、佐々木の寝顔をのぞき込む。
「強がる、か。そうだな。こいつは、そういうところ、あるよな」
「彼女と初めて会ったときなんかさ、ちょっと話すしてはすぐあなたの方を向いて、あなたに話しかけてたわね。初対面の人と話すのはよっぽど不安だったんだろうね。きっと、本当は気が弱いくせにね」
朝倉の指摘に苦笑いで応える。意外とわかるやつにはわかるもの、らしい。
「この分だと人付き合いとか、友達作りとかも下手でしょう?」
「その場その場で話を合わせるのは結構うまいんだけどな。――けど、自分をうまく表現するのは苦手な奴だ」
「じゃあ、きっと、頑張ったんだろうなぁ」
しんみりとした口調で朝倉が言う。
「あの冬は、大変だったからな」
頭の中で大学三回生の冬を思い返す。あの出来事をきっかけに俺達の間で、いろんなものが大きく変わった。あいつ自身の生き方も、俺自身の生き方も。
「違う。そっちじゃない」
「へ?」
ところが朝倉が話題にしていたのは違うことだったみたいだ。てっきり話題はそのことだと思っていたので、俺は朝倉に向かって首を捻る。
「初めてあなたに話しかけるとき、きっと彼女すごく勇気を振り絞ったんだと思うよ」
「え?」
「こんな不器用で臆病な子が精一杯、自分の気持ちをあなたに伝えようとしたんだから」
予想外の朝倉の言葉に初めて佐々木と出会ったときのことをぼんやりと思い出そうと、記憶の引き出しに手を掛ける動作をしようとする。そうしたら、記憶の引き出しに手を掛ける前に、朝倉が身を乗り出してパチンと俺の額をデコピンした。
「ちゃんと彼女に向かい合っていてやれよー。精一杯の勇気でいつもあなたに伝えようとしてるんだからさ」
朝倉はわざとらしいまでにふざけた口調で、悪戯っぽく俺の額を指でぐりぐり押した。
もちろんそのつもりだ――と応えてやりたかったのだが、口にするとまた朝倉にからかわれてしまいそうで、俺はにやけているような顔をしかめているようなよくわからない表情で朝倉から視線を逸らすので精一杯だった。
*
勝手のわからない人の家を漁るものどうかと思ったのだが、とりあえず別の部屋で見つけた毛布を一枚持ってくる。寝息を立てたままの佐々木の毛布を着せて、一段落の深呼吸。
朝倉と谷口が帰ってしまった居間は、普段よりもがらんどうに広く感じて、少し寂しい。食器や酒の瓶は朝倉に手伝ってもらって、あらかた片付けた。だから、余計に広々としている。こうも寂しいと、食いっぱなしで散らかしていた方がよかったんじゃないかとさえ思う。
眠る佐々木の隣にどすんと腰を落としてあぐらをかいた。
大手の会社に就職して、数ヶ月の研修を終えて佐々木はここに帰ってきた。その日に、俺や友達を家に呼んだ意図、それはなんとなくわかる。けれども、それがどれほど深いものかは、多分俺にはわからない。
「結婚、か」
誰も聞いていないのをいいことに、一人でぼそりと呟いた。
うちの両親は例の一件以降、佐々木に対して今までより気を使うようになった。うちの家に呼んであげたらいい、と俺に言ってきたのだが、さすがに佐々木はそれは気を使うということで、ずっと遠慮していた。なので、ここ一年は俺が佐々木の家へ行くことが多かった。
辺りをなんとなく見渡してみる。もう、ここにはあのときのように佐々木の家族達が暮らしていたような生活感はない。全てがもう、過去のことになっている。
結局、遺産についてのごたごたがどうなったのかについては俺は何も知らない。そんなことを佐々木に訊くわけにもいかないし、当然のように俺にそんな権利があるはずもない。そこはおっさんを信じるしかない。ただ、この家だけは守ってくれた。それだけは確かだ。
隣で眠る佐々木の柔らかい髪をなでつける。佐々木の髪を撫でると、どこか優しくて懐かしい匂いがする。
きっと、この家で一人眠るのは寂しすぎるのだろう。
結局のところ、公務員を目指している理由なんて、そう大したものじゃない。給料がもらえて、安定しているから。それだけのことだ。そんな理由で就職を決めようとしていることを知ったら、きっといろんな人から夢がない、なんて言われてしまうんだろうな。けれども、俺にとって一番大切なことは、こいつを支えていくことだ。それさえ出来れば、十分すぎるほどに十分だ。
「ごめんな、頼りなくてな」
でも、世の中は甘くはない。いくら偉そうに決意をしたところで、俺は試験に落ちてしまった。勉強はしている。一年前とは全然違うという自身もある。けれども、やはり不安でしょうがない。
そんな自分の情けなさが悲しい。俺に任せろ、なんて自信たっぷりに言い放てない、自分自身の弱さが。
「もっと、強く立派な人間になりたいなぁ」
不安な言葉は、誰にも聞えないように、言うしかない。ときどき、本当にこんな人間があいつのそばにいていいのか、と本気で考えてしまう。
もぞりと毛布のすれる音がして、俺は慌てて佐々木の方へ振り向いた。もしかしたら、起きていたのだろうか。俺の、弱音を聞いてしまったんだろうか。
おそるおそる佐々木の表情をのぞき込む。目に入った光景に、俺はその場で息を呑み固まるしかなかった。
佐々木の目から、涙がこぼれ落ちていた。起きているような気配はない。彼女は、夢の中で泣いている。
俺は佐々木の涙を指先で拭う。きっと、こいつはこんな風にしてしか泣けないのだろう。
どんな夢を見ているのかはわからない。彼女は、一体何を見て泣いているのだろう。それは事故の日のことなのだろうか。それとも、幸せだった頃の家族の記憶なのだろうか――
こんな風に、心が無防備になった瞬間にだけ泣いている。
一体、あの事故の日から、何回こんな夢を見て過ごしてきたのだろう。
そっと佐々木に覆い被さるようにして、抱きしめる。小さな体を毛布で包み込むように。一瞬、佐々木の頬が笑うように緩んだ気がした。
何もしてやれないとしても、俺は佐々木のそばにいよう。少なくとも、必要とされている間はそばにいよう。こんな風にして、一人夢の中で泣くようなことがなくなるまで。もしも、そんな夜が永遠に続くのだとしたら、俺はずっとそばにいよう。弱音を吐くだろう。何度もくじけそうになるだろう。時には逃げ出しそうになっても――それでも。
無事、初めての給料をもらうことが出来たなら、カメラを買おう。バカみたいにことあるごとに写真を撮りまくって。大切な家族との思い出を、一つ一つ残していこう。嫁さんや子供にあきれかえられてしまうほどに。
そうやって、キミと出会えたことを、大切にしよう。
*
それは衝撃の事実だった。いや、俺にとってはそれはもはや死の宣告に等しい。一瞬で世界が暗転した。そう悪魔は確実に来たるべき終末の日に向けて、その牙を研いでいたのだ。
「な、何を言っているんだ。そんなことはない。そんなことは起こりえないぞ」
精一杯の強がりで抵抗する。しかし、そんなものは奴の憐れみとそれ以上の現実味を帯びた真実の言葉によって、簡単にねじ伏せられる。
「阿呆が。そんなん言うても、あっという間や。あっという間に終わりや」
おっさんは瞳にうっすらとした涙すら浮かべている。その事実が雄弁にそれが覆されることのない真実であるということを告げていた。
「だからって、だからって、そんな……うちに限って」
「あきらめろ。こればっかりはどうしようもない。遅かれ早かれ、起こってまうことや」
「だからって、だからって、納得できるか!」
俺はベランダの欄干を両手で叩く。思いっきりステンレスパイプを殴った両手に鈍い痛みが走る。しかし、こんなもの心の痛みに比べればどうってことはない。そう、この恐るべき事実に比べれば――
「そんな、そんなことは信じないぞ。そんな日が来るなんて、絶対に!」
「ええ加減、あきらめいや」
「いいや、認めないね。そんな、そんなハルヒが俺と一緒にお風呂に入ってくれなくなる日が来るなんて!」
握りつぶさんばかりに頭を抱えて、天を仰ぐ。
あぁ、神様。そんな恐ろしい終末の日が来るなんて。
「ふん。入ってくれへんばかりか、『お父さん、汚いから嫌』とまで言われてまうぞ」
「ノォオオー!」
しれっと悪魔の言葉を吐くおっさん。俺は思いっきり頭を振る。
そんな現実認めない。絶対に認めない!
「パパのお嫁さんになる、なんてかわいいことを言うてくれていたあの子は、どこへいってしもうたんやろうなぁ」
聞えない。聞えない。そんなものは、聞えない。
「……っていうか、あんた久々に顔を出したと思ったら、なんだ、俺をいじめに来たのか?」
「阿呆。人生の先輩としてのありがたいアドバイスっちゅうやつをしに来てやったんや」
掻きむしってぼさぼさになった頭で、おっさんを恨みがましく見る。おっさんはへへんと鼻の先で笑う。相変わらず偽悪的というかひねくれているというか。そんなところは俺達の結婚前に会った頃から、全然変わっていない。
「たく……」
「なんやねん。その不満面は。お前が来てくれ来てくれってしつこいから、こっちは顔出したったんやないけ」
「そりゃ、そうなんですけどねー」
はぁー、とあまりにも変わっていないあの頃のまんまのおっさんにため息を付く。
せいぜい年賀状のやりとりくらいしかなかったのを、今年娘のハルヒも大きくなったということで、是非顔を見に来てくれと誘ったのだった。ついでに今の俺達のいるマンションにも一回訪問してくれ、と。
それで久々に顔を合わせて何をしゃべってくれるのかと思えば……これだ。
「まぁ、あんときはどうしようもない若造のぺーぺーやったけど、今ではずいぶんとマシなツラになったやないけ。お前、今はもういくつになったんや?」
おっさんは欄干に背中を預けて言う。
「二十八だ」
おっさんは何を感心したのか、一人「ほぉー」と何かに大きく頷いている。
そんなおっさんの姿を横目で見た後、ベランダの窓越しにヨメの様子を窺ってみた。台所で料理をしている足下に、娘のハルヒがくっついている。
相変わらずおっさんが訪ねてきても、ヨメとおっさんの間で積極的に会話をすることはない。へんなところで意地っ張りな二人だから今更になってはなかなかきっかけが掴めないんだろう。
とはいっても、おっさんを家に呼ぼうという話をしたときに二つ返事で了解したので、本心では嫌ってはいないのだろう。
人見知りをしないようで、実は結構人見知りなハルヒもヨメにまとわりついたまま、あまりおっさんと絡もうとはしない。まぁ、母親があの調子だったら仕方がないか。それでもハルヒはさっきから、興味は在るみたいで、じーっと観察するようにおっさんを見つめているのだが。
と、ここでおっさんがガラス越しに自分を見つめているハルヒに向かってアッカンベーをしてみせた。ハルヒはびくりと一瞬肩を震わせたが、そこは母親譲りの負けず嫌いの血。両手で両目を広げて小さな舌を出し、アッカンベーをし返した。
「ふっ、やるやないか……」
「そういうあなたこそ……」
いや、娘よ。なに格闘漫画の主人公みたいなやりとりを初対面のおっさんとやっているのだ。
「キョン、この人誰?」
先ほどのやりとりで一気に親しみを覚えてしまったのか、ハルヒがいつもの調子でおっさんを指さし尋ねてくる。
「お母さんのお父さんの弟だ。大叔父さんってやつか? っていうか、お前人前で呼ぶときはキョンと呼ぶなとあれほど……」
「え? ってことは、私のおじいちゃんと同じ?」
くどくどと説教をしようとしたところをハルヒの声に遮られる。
「まぁ、確かに、お前のおじいちゃんと同世代ではあるなぁ」
あんまし意識していなかったが、そう言われれば隣にいるこの人相の悪い中年はそういう世代になる。
「そういや、あんたにとっちゃハルヒは孫みたいなもんだよな」
その一言におっさんカチンと来たらしい。眉間にしわを寄せて、ムキになって言い返す。
「って、ちょっと待てや、こら! 誰がおじいさんやねん。俺まだ四十代やぞ! っていうか、お前らが若くして子供を作りすぎなんや! なんや、お前、油断したんか! えっ? 油断してもうたんか!」
「別に油断して出来た子じゃねえよ! ちゃんとそこらへんは計画的にだな」
「キョンー、油断すると子供が出来るってどういうこと?」
ハルヒの言葉に、俺とおっさん、無言でお互いの顔を見合わす。
「いや、その、男いうのは勢いに任せてちょっとでも油断してかぶせなくてもいいかなーって予防を怠ったりすると――」
「保育園児相手に真面目に説明しようとすんな!」
おっさんの頭に、決まった、会心のツッコミ。何を言い出すんだ、この四十代は。
「痛いな! お前、なにすんねん!」
「あんたがアホなことを言うからだろうがー!」
「ねぇ、油断するってどういうことよー。かぶせるってー?」
どつき漫才を始めた俺達を無視して、おっさんのズボンを引っ張るハルヒ。
だめだ。ハルヒの奴の好奇心に火が付いた。こうなるとちょっとやそっとじゃおとなしくならない。あぁ、もうぐしゃぐしゃだ。フォローがフォローにならん。どうする? どうすればいい?
そうやって混乱の深淵へと俺の意識が飲み込まれようとした瞬間、肌を刺すような殺気を感じた。これは、このプレッシャーは……
「ご飯、できたよ」
見ればエプロン姿でにこりと氷のような微笑を浮かべるヨメの姿。パンパンと右手に持ったお玉で左手を叩く。それは、さながらデモンストレーションをする格闘家のごとく。そして我々はまさに蛇ににらまれた蛙がごとく。
「はーい……」
テイコウハムダデアル。タダチニトウコウセヨ。
一瞬のうちに我々三人の間で暗号文がアイコンタクトにてやりとりされる。そして、すごすごとおとなしくテーブルへと向かうおっさん二人と保育園児。
「お互いいい年なのに、さっきからバカな話ばかりして」
すれ違い様のヨメの言葉がいい年の大人二人の背中に突き刺さる。おっさんと俺はお互い「お前のせいだぞ」と目で合図を送る。
「ハルヒ。覚えておきなさい。男って、本当に、バカな生き物だから」
「はーい」
無邪気に手を挙げるハルヒに、俺達おっさん二人には何も言い返す言葉がない。
「……あんたのかぶせる発言をフォローする俺の身にもなれよ」
二十代(もうすぐ三十代)のバカ、その一。
「遅かれ早かれ、子供にはこういうことを訊かれるっちゅうねん」
四十代(そろそろ五十代?)のバカ、その二。
二つのバカな生き物は後ろを振り返らず小声で話す。後ろを振り返らないのは、怖いから。おそらくは俺達の背中を睨み付けているであろう、ヨメが。
「お前らは、いっつもこんな調子なんかい?」
「いっつもこんな調子だ」
「そうか。……そらよかったな」
おっさんはそっと息を吐くように素っ気なく言う。
家族三人とおっさん一人が一つの食卓に着く。ハルヒが手を合わせて大きな声で「いただきまーす!」と言うのを見て、おっさんも俺と目を合わせてから、ぎこちない仕草ながら両手を合わせる。あとはエプロンを外しているヨメが着席すればいい。
あれからたどり着いたのは、こんな毎日だ。大した特技もない俺の大して特別なことも起こらないかっこつけても様にもならないようなドタバタの日常を、こんな風に毎日精一杯生きている。そんな格好のつかない俺の毎日の生活をおっさんに見てもらうことが出来て、よかったと思う。
*
砂浜の上に降りると、周りに何も障害物がないせいか、風が強い。羽織ったジャケットの裾がはためく。
「スカートでなくてよかったよ」
俺の考えていることを察したのか、ジーパン姿のヨメが風に吹かれる髪を押さえながら得意げに笑う。
「浜風ってやつか」
「正確には海陸風というのだけれどもね」
昔と変わらぬ調子で蘊蓄を披露するヨメ。俺も昔と同じ調子で「ふーん」と頷く。
ヨメと手を繋いでいたハルヒの奴は、ヨメの手を振り払って、一人で波打ち際まで短い足跡を付けて走っていった。そして、なぜか波打ち際で仁王立ち。
「波よ。止まれ!」
ハルヒは波に向かって両手を向けて、気を送っている、らしい。
「引いた引いた。あ、また戻ってきた!」
一人で繰り返される波の満ち引きに一喜一憂している。力を入れると波が戻っていって、そこでふと力を抜くと波がこちらにやってくると思っているみたいだ。小さな体で、波打ち際にて子犬みたいにはしゃいでいる。
「あいつ、本気で自分の力で波をコントロールしているとか思っているのか?」
「まぁ、子供だからね」
ヨメが苦笑しつつ相づちを打つ。
そういえば、俺が子供の頃にもそんなヘンテコな妄想めいた世界を思い描いていたかな? おもちゃのベルトを腰に巻けば、変身できるとか。そんなことも今となっては、思い出したいような思い出したくないような、そんな出来事だが。
「ハルヒー、そんなに波の近くに行ったら濡れるよー」
ハルヒに声を掛けながら、ヨメが慌てて走り出す。そんなヨメの声が聞えていないかのごとく、ハルヒは今度は波に向かってキックを放とうとしている。
やれやれ。
声には出さずに、心の中で両手を広げて呟いた。
波打ち際に向かって走り出すあいつの背中を見つめる。
あいつとあいつの両親もこの砂浜でこんな家族の日常を描いていたのだろうか。そんなことを思うと、ふと胸が詰まるような気がした。
俺達はよくこの砂浜にやってくる。あいつにとっても、俺にとっても、思い出の詰まった場所だからだ。うれしいことも、悲しいことも、辛いことも、みんなこの砂浜から空に飛ばした。
俺達はあまりあの頃の話をしない。あの出来事を思い出すと、不安になるからだ。あの頃と違って、今の俺には絶対に置いていきたくないものがある。はっきりとここからいなくなれない理由がある。だから――あのときのことを思うと、今はあの頃と違う意味で胸が苦しくなる。
「あー、もう。靴が濡れちゃって……。海水だから乾かせばいいってわけにはいかないし」
ハルヒに追いついたヨメが濡れたハルヒの靴を脱がせながら、小言を言う。
「へへぇ」
しかしながら当のハルヒの奴は大して悪びれることもなく、靴を脱いだ素足のまま、ヨメの足に抱きつく。
「もう。次からはサンダル履かせないと」
怒っている風を取り繕っていたヨメであるが、海を目の前にした幼稚園児相手に小言を言っても仕方がないとあきらめたらしい。ヨメは俺を振り返って、「困ったね」というように笑う。
俺は懐からデジタルカメラを取り出して、この光景を切り取るべく、シャッターのボタンを押した。液晶画面に小さくなった目の前の光景が映る。
「また写真を撮っているのかい?」
少しあきれるような声。
「別にいいだろ。デジカメだから、お金がかかるわけでもないしさ」
「それでも、キミみたいに大量に撮っていたら画像の管理とか保存とかも大変だろう?」
「DVDとかに焼けば、データの保存も問題ないぜ」
「そのDVDも家には十枚近くあるのだがね」
「別にいいだろ、それくらい」
この世界には、戻ってこないものが多すぎるから。そんな世界で、変わらないものを残し続けることが、いつか胸を締め付けるとわかっていても。
「そのカメラ、キミが初めての給料で買ったものだろう? ずいぶんと長持ちしているものだね」
「そうだな」
ヨメが俺の使い古しのカメラを指さす。いつぞやか、自分の心の中で決めたことを思い出す。
「そろそろ新しいのには買い換えようとか思わないのかい?」
「まだ動くからいいだろう」
「……それもそうか」
もう五年にもなるとっくに型落ちの黒いデジタルカメラには小さな傷が無数に付いて、鈍く高く昇った陽を反射している。俺は、その傷を指先から自分の中にすり込むように、そっと撫でる。こうして楽しいことも、辛いことも、全部受け止めていくんだ。
「なぁ、せっかくだから、ちゃんとしたポーズで撮ろう。海をバックにして」
俺は顔を上げて言った。ヨメの返事を待たずに、右手を振って、早くポーズを取れと合図を送る。
「まだ撮るのかい?」
少しあきれ気味の口調。それでもヨメは「まぁ、いいけど」と続けて、ハルヒを背中から抱きしめるような格好になった。
「えー、また写真」
「文句言うな。父親孝行だと思って、協力しろ」
口をとがらす動きたい盛りのハルヒをなだめる。いやいやと体をくねらすハルヒの胸の辺りを叩いて、ヨメがハルヒをとりなす。
「いくぞー」
ピントを合わせて、シャッターを押す。少しむくれた様子のハルヒと、ハルヒに手を掛けて笑うヨメの姿がメモリーに記憶される。
「その写真、見せて」
ヨメがこちらへ向かって歩いてくる。俺はデジカメの液晶ディスプレイにさっき撮った写真を表示した。
「ほら」
俺の隣に立ったヨメがひょいと俺の手元をのぞき込む。潮風がなで上げる髪が、俺の鼻をくすぐる。
「いいね」
数秒の間、ディスプレイの写真を見つめたヨメが満足そうに言う。
「そうだろ」
「うん。……ねぇ、キョン」
「ん、なんだ?」
「やっぱり、家族っていいよね」
「――そうだな」
俺とヨメは二人でディスプレイをのぞき込む。それ以上、言葉はいらない。伝えたいことは、伝わっている。
「ねぇ」
「ん?」
ヨメが声を掛けてきたので、相づちを打ったのだが、ヨメの方は話の続きを言わない。なぜか少し話すことに躊躇しているようだ。
「なんだ? はっきり言えよ」
「いや、その、あの、だね……」
俺は首をかしげる。こいつは基本的に何でもはっきりと言うタイプで、こういう風に言いよどむことなどほとんどないのだが。
「どうしたんだよ? らしくもない」
俺が笑うとヨメはますます言いにくそうに両手をもじもじとする。
「いや、その、そんな大したことじゃないんだ」
「だったら、別にはっきり言えばいいだろ」
「いや、まぁ、そうなのだけれども――」
そこまで言って、ヨメは一つゆっくりと深呼吸をする。そして、意を決したように口を開いた。
「そろそろハルヒも手がかからない……こともないけど、でも大きくなってきたし、だからもう一人家族が欲しいなぁ、なんて」
「え?」
思わず聞き返してしまった俺の顔を見ることなく、ヨメは耳を赤くしてハルヒの方へ瞬間移動のように走っていく。そして、後ろからハルヒに抱きつくと、開口一番、
「ね? ハルヒも弟か妹、欲しいよね」
「あ、おい!」
バカ! ハルヒにそういうことを言うと――
しかし、言ってしまった言葉は、もう取り消せない。
「え? キョンとママ新しく赤ちゃん作るの! 私、どうやって赤ちゃん作るか、見たい!」
ほらね。予想通り。もう、悲しいくらいに。
「なっ……!」
口をあんぐり開けて、俺の方へ視線を向けるヨメ。いや、そんな視線送られても、俺にはどうしようも……。いくら恥ずかしいからって、ハルヒをそういう風にダシにすると、その子の性格上こうなってしまうことは火を見るよりも明らかだったわけでして。
「いや、その、ハルヒ。赤ちゃんっていうのはコウノトリさんが運んでくるから」
あたふたと、こらまた手垢にまみれた苦しい言い訳だな、ヨメよ。
「えー? でも、私はママのお腹から生まれたって?」
「いや、まぁ、確かにそうなんだけれど、それは、そのなんていうか……」
「あ、わかった! コウノトリさんがママのお腹に赤ちゃんを運んでくるんだ!」
「え? あ、うん。そうかな」
「じゃあ、私コウノトリさんがママのお腹に赤ちゃんを運んでくるところ、見たい!」
「えぇ!」
驚きすぎだ、ヨメ。それと、そんな目で俺を見るな。お前に無理なフォローが俺に出来るとは思えないから。
無理無理と手を振ると、ヨメは声に出さずに「えぇー!」と口を動かすと、またハルヒに向き合う。
「いや、でも、コウノトリさんが来るの夜遅くだから。ハルヒは寝てるよ」
「大丈夫。その時になったら起きる!」
「いや、でもいつくるかわからないし……」
「じゃあ、コウノトリさんが来るまでキョンとママのベッド見張ってる!」
我が娘ながら、強い意志力と行動力を持った子だ。こうと決めたらきっとやり遂げることだろう……。
「キョンー」
完全敗北を喫したヨメが半分涙目のもうどうしようもないという顔で、俺に向かって走ってくる。
「お前、娘をダシにするから……」
「だって……」
もういい年なのに、変なところは純情というかなんというか。普段は何も怖いものはないような顔をしているくせに、こういう変なギャップのある奴である。
「あ、でもコウノトリさんが赤ちゃんをママのお腹に運んでくる間、キョンは何しているんだろ? 気になるわね」
ハルヒが唇に手を当ててポツリと言った。
「へ?」
「え?」
俺とヨメの声が見事に同じタイミングでユニゾンする。
さすがはヨメに似て頭の回転の早い子だ。いろんなことによく気づく。……まだ気づいて欲しくないことまで。
「よ、よーし、ハルヒ! お腹空いてないか! アイスクリームでも食いに行くか!」
わざとらしいまでに威勢のいい声を上げる俺。
「え? でも、まだ――」
「あ、あとアイスクリーム食べたら、ハルヒが欲しがっていたゲームソフト買いに行こうね!」
俺の言葉に見事なだめ押しを加えるヨメ。
「え、ほんと! やったー!」
そして、無邪気に両手を挙げて喜ぶハルヒ。お互いの目を見て、俺とヨメは安堵のため息を交わす。
勢いで場の空気を流してみせたのはいいが、この分だと当分二人目はお預けだな。
一人心の中で嘆息してから、ヨメと二人でハルヒを挟んで、手を繋いで歩き出す。こんな小さな娘でも、握りしめるその手はあたたかい。
俺が生きているのは、こんな風に大してすごいことも起こらない毎日だ。たった一人の娘を育てるだけで、目が回りそうなありふれたちっぽけな父親だ。時々、思い出したようにこんな日々が終わりを告げる恐怖におびえるちっぽけな男だ。
ありふれていたい。何も特別なことの起こらないありふれた日常を守っていきたい。こんなありふれた日常が、どれだけ簡単に壊れてしまうか知っているから。だから、こんな当たり前の何も起こらない日常を、大切にしていきたい。
伝えたいことはきっとたくさんある。伝えようとしたことも、伝えられなかったことも、伝えきれないことも。
帰ろう――
娘の小さな手を握りしめると、娘はその小さな手で握り返してくれる。きっと、その反対側の手でもう一人の大切な人の手を強く握りしめてくれているといい。
目配せをして、同じタイミングで繋いだ手を引いた。娘の影が地面から離れる。
娘の両足が砂浜に着く。潮騒のように、笑い声が聞えた。