2019年01月16日

ゴーピ・クリシュナ「クンダリニー」(1)

中島巌訳 平河出版社(1987/01)ISBN-10:4892030333

立身出世の道を断念し、ゴーピ・クリシュナは毎日欠かさず瞑想するようになった。それから17年して、34歳の時クンダリニーが覚醒する。自我の拡大を体験したが、超能力が具わった訳ではない。彼はこの体験を秘したまま、カシミール政府の中級官吏の地味な生活を続けた。しかし蛇の炎は不断に燃え続け、身体の諸器官は再調整され、意識は少しずつ拡大した。46歳の時、新たな展開が見られ、詩人としての才能が突然現れた。

【光明世界への目覚め】 1937年、クリスマス休暇に入ったある朝、私はとある小さな部屋で、一人結跏趺坐を組んで坐っていた。白み染める東の空からの光芒が部屋に差し込んでくる窓に向かい、私は禅定に入った。長い修練の結果、私は同じポーズで何時間坐り続けても一向に平気だった。ゆっくりとリズミカルに呼吸しながら、私は「頭頂」に心を向け、輝く開敷蓮華を観想した身じろぎもせず、背筋を伸ばして坐りながら、想念があらぬ方向に彷徨い出ないように、注意力を光る蓮華に繋ぎ止める。集中度が深まると、呼吸も抑えられて、次第に回数も減り、殆ど息をしているかいないか分からぬほどになった。すると瞑想している蓮の花に、いつしか私の全存在はすっかり呑み込まれてしまい、しばらくの間、私は自分の身体と周囲の物事に対する感触をなくしていた。肉体的感覚は失せ、まるで空中に浮かんでいるかのようだ。私が意識していたのは、幾条もの光を放つ鮮やかな色をした蓮華だけだったこうした体験は、規則正しく瞑想を積み重ねてきた人の間では、さほど珍しくはない。しかし、その後私を襲ったそのようなことは稀だろう。それをきっかけに、私の生活はまるっきり変わってしまった。

深く深く定に沈む。突然、尾骶骨の先端(結跏趺坐をしている身体が下に敷いた毛布に触れるところ)で奇妙な感覚が走った。全く異常な感覚ながら、極めて心地が良いのでどうしてもそれに気を取られる。しかし、心がそれに向くと、たちまちその感覚はやんだ私は構わず、心を蓮華に向け直した。蓮華のイメージが鮮やかに浮かんでくると、またその感覚が起こってきた。心がそれに引っ張られる。すると、その感覚は消えてしまう。またこれを繰り返す。その間、その「異常な感覚の上昇力」は次第に勢いを増していった。心臓の動悸は激しくなった。その感覚はだんだん上昇してくるようだった。自分が揺れているような感じがした。しかし、あくまで蓮華の像から心を離すまいと努めた。すると突然、滝が落ちてくるような轟音とともに、一条の光の流れが脊髄を伝わって脳天にまで達するのを感じた光はますます輝きを増し、音もだんだん大きくなった。身体がぐらっと揺れた途端、自分が光の輪に包まれて、肉体の外に抜け出た感じがしたこの有り様をはっきり伝えるのは難しい。私は一点の意識となり、広々とした光の海の中に浸っていた。視界がますます拡がっていく一方、通常、意識の知覚対象である肉体が遠くにどんどん引き下がっていって、ついに全くそれが消え去ってしまった。私は今や意識だけの存在になった。身体の輪郭もなければ内臓もない。感官からくる感触もなくした。物的障害がまるでなくて、四方八方にどこまでも拡がる空間が同時に意識できるような光の海に浸かっていた私はもはや、私ではなくなっていた。もっと正確に言えば、私は肉体の中に閉じ込められた点のように小さな意識ではなかった。点にしか過ぎない肉体を包み込む「大きな意識の輪」が私であった。筆舌に尽くせない歓喜と至福の海に没入していた。

 どれほど時間が経っただろうか。しばらくして輪が狭まり始めた。自分自身が小さく「圧縮」されていくような感じがした。再び微かに身体の輪郭が意識され始め、それがはっきりしてきたかと思うと、私は元通りの場所へ収まった。突然、町の騒音が聞こえ、手足の感覚も戻り、私は再び肉体と環境に制約された小さな自分になった。

自我と意識の拡大はあった。脊椎下部から昇ってきた生きた流れが、脊髄を経て脳に達した感じは確かにあった。

翌日、定が深みに達すると、また「上昇する気の流れ」を感じた。注意を散らさないようにしていると、また「唸るような音」が聞こえ、まばゆい「光の束」が頭の中に入ってきた。生命力が漲り、自我は肉体の枠を超えて四方に拡がっていった。凝視している光る一点と自分は一つだ。しかし、自我がそれに全く融合してしまった訳ではなかった。平常状態に戻ると、心臓の鼓動が激しく、苦い味が口に残っていた。身体の消耗感は前回よりも大きかった。

●私が瞑想を始めたのは17歳のときだ。進級試験にも落ちてその年専門コースに入り損なったことが、若い私の心の変革をもたらした。

惰弱な性格がもとで起こる失敗を無くしたいという最初の現世的発想から、私は無意識的に正反対の方向へと向かうことになった。そのうち、意志の修練や瞑想の実習も、現世的関心からではなく、むしろヨーガにおける悉地成就を目指すようになり、世俗的野心が私から全くなくなってしまった。



ラベル:瞑想 ヨーガ
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posted by samten at 09:30| 読書録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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