木戸川森林鉄道 (乙次郎~木戸川第1発電所) 導入

公開日 2012.07.05
(改稿 2022.12.25)
探索日 2006.12.09
所在地 福島県楢葉町~川内村


【周辺図(マピオン)】

木戸川森林鉄道は、福島県の南東部、阿武隈山地から太平洋に注ぐ一級河川木戸川に沿って存在した、前橋営林局富岡営林署所管の森林鉄道(2級線)である。
常磐線の木戸駅を起点に伸びていた軌道は、最盛期には約21kmの長さを誇り、福島県浜通り地方を代表する林鉄のひとつであった。

この路線については、廃線跡探索の有名書である宮脇俊三氏の『鉄道廃線跡を歩く』シリーズ第一作目に取り上げられ、平成7(1995)年頃の廃線跡の状況が大まかに紹介されている。

また路線の歴史については、関東森林管理局内のコンテンツ「福島の森林鉄道WEB史料室」に解説がある。
それによると、木戸川森林鉄道のルーツは、大正3(1914)年に民間の丸三製材所が木戸駅から約5km離れた女平まで開設した「木戸川軌道」にある。
当時は木戸川上流の川内方面で伐採した原木を、川流しによって女平まで運び、そこから軌道で木戸駅へと運び出したという。

だが、大正11(1922)年に発生した木戸川の氾濫と山崩れによってこの事業は続行不可能となる。その後まもなく双葉軌道会社が設立され、軌道を改修して利用していたが、昭和8(1933)年に富岡営林署がこれを買い上げ、ここに国有林森林鉄道としての木戸川森林鉄道(正式名は木戸川林道)の歴史が始まった。
この時点の全長は7857mで、女平から2kmほど奥の芝坂国有林内に終点があったが、昭和9年に早くも5013m延伸され、全長12870mとなった。

その後、昭和13年頃から路線はさらに延伸を続け、昭和23年時点では木戸川支流の戸渡川上流、いわき市上戸渡付近まで伸びていて、木戸駅からの全長は約21kmに達していた。
これが本路線の最大版図となり、昭和36(1961)年11月1日に全線廃止となるまで利用された。


木戸川森林鉄道の木炭乗り下げ風景。
(『鉄道廃線跡を歩く(1)』より転載)

昭和10年からはガソリン機関車が導入されたが、これは空の台車の引き上げにもっぱら利用され、運材方法は右の写真の通り、木材を満載したトロッコ1両ごとに制動手が付く、いわゆる単車乗り下げ運材だった。

軌道が廃止された後、廃線跡の一部は自動車道に改築され、現在は福島県道250号下川内竜田停車場線になっている部分もあるが、奥地はそのまま放棄された部分が多い。
また、木戸川の渓谷を堰き止める木戸ダムが長い工期を経て平成20(2008)年に完成したことで、路線の中間付近は数キロにわたって水没した。

今回紹介する探索は、木戸ダムの建設が大詰めを迎えていた平成18(2006)年12月に行ったのであるが、その後、本レポートの執筆を中断していた期間中、平成23年3月11日に発生した原子力災害によって、ダム付近から下流は立入不可能となったが、平成27年9月に(当該地域については)解除され、廃線跡へ再び近づけるようになった。

以上が木戸川林鉄の歴史である。
ここからは探索について述べていきたい。
探索を行ったのは、平成18年12月9日(土)である。

私は当時木戸ダムの完成が迫っていることを知り、湛水が始まると軌道跡へのアプローチが難しくなる(もちろん水没する部分も出るだろう)と考えたことで、いま思えばかなり準備不足の状態で、それこそ『鉄道廃線跡を歩く』と新旧の地形図くらいしか持たずに探索を試みたのだった。
そのためこの探索の踏破目標はダムの影響を受けるであろう区間、すなわち木戸ダム建設予定地(楢葉町上小塙)から、その上流5.5km地点にある木戸川第1発電所(川内村下川内所倉)までとした。

そして、これは単純な不運であるが、仲間の沢&滝マニアであるくじ氏と決めた合同探索の当日は、生憎の雨模様となってしまった。
そのため探索は実行したものの、写真はかなり失敗が多く、いささか記録としては不本意となってしまったために、一度はレポートを執筆しない没ネタと考えたのだったが、その後原発災害による立入り制限が始まってしまい、いつ再訪できるか不透明となったことで考え直し、2012(平成24)年に改めてレポートの執筆をスタートした。同年中に順調に第5回まで公開したものの、第6回の執筆中に機材トラブルによって完成間際のレポートをロストしたことで気持ちが萎え、誠に勝手ながら長期間の執筆中断となってしまった。

2022(令和4)年12月に、遅ればせながら執筆を再開することにした。(←いまここ)
気付けば中断から10年、探索からは実に16年も経過してしまっており、廃線跡の現状を知るには少し古くなりすぎたレポートであるが、改めて当時の写真を見直してみると、原形を辛うじて留めていた木橋の多さに改めて驚かされた。雨や薄暗さなどの理由から、手ぶれなどの失敗写真が非常に多いのだが、いまから万全の装備を持って再訪したところで、もはや跡形すらも残ってなさそうな、当時でも既にギリギリの状況で残っていた“破橋”の数々を、そこに確かに架かっていた記録として残しておきたいと思った。それが再開の一番大きな動機である。


それでは、母親の故郷にほど近い木戸川の上流に眠る失われた軌道跡のレポートを再開していこう…。
以下、第5回までは2012年の執筆分、第6回からは2022年から2023年にかけての執筆だ。



探索のスタート地点と目論んだ、木戸ダム建設現場では…



2006/12/9 5:57 福島県川内村下川内 《現在地》

今回の探索参加者は、私とくじ氏。
それぞれ秋田と岩手から夜駆けで参集した2人は、まだ夜の明けぬ下川内で再開の挨拶もそこそこに、早速探索の準備となる車のデポ作業を開始した。
(画像でくじ氏が頬ずりしているのは、当時彼がハマっていたキムチの乾物である。この味を彼に教えたのはトリ氏であり、私はこの合調を前にトリ氏からこれを2袋預かり、くじ氏への再会のプレゼントしたのだ…)

まずは私の車を、今回の探索の終着地と予定される、木戸川第1発電所へ移動させた。
それから私はくじ氏の車に便乗し、2人で探索のスタート地点を予定していた、木戸ダムの建設現場へ向けて出発した。
その際のルートには、遠回りではあったが整備状況の良い、県道36号の富岡経由を選んだ。
そして、富岡町内で食料などの買い出し後、国道6号から県道250号下川内竜田停車場に入り、木戸川沿いに木戸ダム建設現場を目指したのである。



そして、途中多少寄り道しながら進んだせいもあるが、午前8時少し前に木戸ダム建設現場に近付くと、

なんということでしょう…。

ダム堤建設現場の少し手前で、真新しい県道上に守衛が立ち、一般の立入を厳重に規制していたのである。


…まあ、よく考えれば当然の措置だったかも知れない。
また、深夜の内に辿りついていたとしても、おそらくゲートが閉じられていたろうし、さらに無人と言う事も無かったであろう。
いままさに建設真っ盛り(だったと思う)のダム堤体を乗り越えて、その湛水エリアに侵入しようという計画自体が、そもそも無謀であった。

…しかし、もう既に気分は探索モードになっている。車もデポってしまっているし…。

そこで我々は、なんとか合法的にダム堤体を乗り越えて上流へ行く手段が無いかと、地図をくまなく見た…。



う~ん。道がねぇんだよなぁ…。

と、しばし頭を抱えてしまった。
右岸からダム堤体より上流へ入り込む道が地形図には描かれているのだが、この道もダム堤体に近付けない以上、使うことが出来ない。
そうなるとあとは、この辺りで唯一の集落である乙次郎(おっとじろう)に行き、そこから木戸川へ流れ込んでいる沢伝いに道無き道を下る… くらいしか思いつかなかった。
もう少し土地勘があったら、他のルートを思いついたのかも知れないが、私の隣にいるのはなんと言っても“沢屋”のくじ氏である。
とりあえず、沢に関しては最も頼もしい仲間がいるわけだし、この乙次郎からの入渓ルートを試してみることに決めた。

…よく地形図を見れば、確かにそれは距離こそ短いが、高低差が120m以上もある明らかに険しそうなルートであった。だが、探索を急ぎたい我々は、これを選んだ。



しかし、新たな入渓地点と目された乙次郎へ辿りつくためには、このような大迂回を余儀なくされた。

ダムから乙次郎までは、直線距離でわずか2kmと離れていないのに、そこへ直接行く車道が無かったのである。(なお、ダムの完成と共に上の地図に黄破線で示した道が開通し、県道250号となった。本ダム建設では県道の水没を伴わないはずだが、それにともなって従来は繋がっていなかった区間に県道が開通したことになる。おそらく工事用道路を活用したのだろう)

この迂回ルートの距離はおおよそ18kmあったが、途中の地名が女平(おんなだいら)、夫太郎(おったろう)、乙次郎(おっとじろう)と変っていくのはいとおかしかった。



木戸川渓谷の北側2kmほどの山中を東西に横切る乙次郎林道は、楢葉町側から乙次郎集落へと向かう唯一の道(探索当時)であり、ということは同集落の一番の生活道路であったはずだが、道は山に入るとたちまち砂利道となって、郭公山の峰続きにある峠へ上り詰めていった。

しかも、林道としての整備状況は決して悪くはなかったとはいえ、こんな1車線の道がダム工事関連の車両通行路になっていて、頻繁にダンプカーが往来していた。
彼らがガードレールも無い砂利道を、道幅いっぱいに使いながら、端からは意外と思える高速で駆け抜けていくのは、後続に付いた我々を釘付けにするに十分な妙技であった。




やがて先行のダンプカーは左の枝道に消えていき、我々の車の単独行となった。

するとまもなく、周囲の森にうっすらとした積雪が…。

今朝の雨が、この標高400m前後の場所では雪となっていたらしい。
これから日中にかけて再び積雪することは無いと思うが、これから未知の渓へ分け入ろうとする身には、ただただ不安な白さであった。

道は2つ目の峠も越えて、思い出したように下って行く。
やがて舗装が復活し、遠かった乙次郎への接近を予感した。




麓の夫太郎から車でちょうど30分。

雪混じりの長い砂利道の果てに辿りついた乙次郎集落は、みぞれが降りしきる中にあった。

標高330mから400mにかけて南北に細長く広がる集落は、月並みな表現であるが、端から見れば完全なる隠れ里のようである。
ケータイの電波も当然のように通じず(au)、谷沿いの小平野を占める水田や山沿いにある数件の民家は見えたが、色のない世界であった。

そして、そんな山間の集落には似つかわしくない、真新しい2車線のアスファルト道路。
これが当時建設の進んでいた県道250号の新道であり、我々が通った乙次郎林道をやがて影へと追いやる本命であった。
しかし、このときはまだ開通しておらず、白線の浮いた感じもまた寂しさに拍車をかけていた。
と同時に、私には探索の邪魔をする憎きダムの片割れと思えてきたから、余計に心の置けない存在だった。




10:27 《現在地》

そりゃ焦りもするよ。

今朝、予定通りの時間に2人が出会ってから、ようやくデポ作業が終了して外へ出るのに、4時間30分もかかったというのでは。
今回は日帰りの予定なのに、もう明るい時間の1/3を使ってしまったのだ。
しかも、依然として目指す軌道跡の端にもかかっていないのである。
挙げ句の果てには、みぞれとも雪ともつかぬものが降り止まない空模様であるし、最も慎重な判断を下すならば、今日の探索は中止としてもおかしくないような悪条件であったと思う。

しかしともかく、辿りついた。
ここは乙次郎集落の南の端あたりの当時の県道の最先端。
右の方にはさらに林道が通じていたが、その道の状況はよく分からなかったし、車はここに止めて歩く事にした。


【 10:28 徒歩で乙次郎を出発! 】



探索の装備を整えて歩き出すとまもなく、見慣れた林道の標柱が現れた。

林道名は乙次郎林道の乙次郎川支線とあり、これから我々が入渓しようとしている沢が、乙次郎川ということを知った。
また起工は昭和59年とあるから、林鉄の廃止から23年後のこと。施工者の富岡営林署というのは、木戸川林鉄の管理者と同じである。

この乙次郎川支線は、現在は拡幅されて県道250号の路盤になっていることだろう。

しかし、我々はこれ以上林道を進まず、果して下降可能な渓相であるかをいち早く把握すべく、手近なところから入渓した。

林道まで渓声を轟かせている流れの状況は…。




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ご覧の通り。

とりあえず、普通の渓流の風景が我々を出迎えた。

季節的なことももちろんあるだろうが、両岸とも下草が少なく、地面も締まっていて歩きやすかった。
川の水量も心配していたほど増えてはおらず、先細りゆく勇気を支えてくれた。


…でも

考えてみれば…

この沢を本流まで無事下降出来たとしても、軌道跡はおそらく対岸なんだよな…。

本流が渡れない状態だったら、それで万事休す。
しかも、その時はこの沢を戻ってくる羽目になるのだ…。

…いろいろ考えると、やっぱりこのルートは心細すぎるものだったが、相方は渓に降りるや水を得た魚のように歩速を早めて先行していった。





川端の植林地をショートカットし…







再びであった渓は、

少しだけ険しさを加えていた。




ピョンピョンと、川の右左を身軽に行き来する青い背を、
頼もしく見遣りながらも、それなりに必死に追い掛けた。

そろそろ、地形図の上でも等高線が密になってくるあたりだろうか。

さっきから、行く手が騒がしい…




ゴーロゴーロゴロ…。

プロの動きに、徐々に次第に離される私であったが、

単に足元が悪くなってきただけでなく、

精神的にも威圧されつつあった。





ちょっと、ちょっと、ちょっと…

行く手の比高感が、私の普段の「廃道探索」と言う名の世界観には
ない感じなんスけど…。

いけるんスか? いけるんスかね??!

ちょっと!!


くじ氏が、小さく見えた。

それはおそらく、距離を離されたからだけじゃない。
彼の周りのスケールが、変化してきている……。




うおっ滑る。

滑るぞッ! 


気がつけば、渓の様相は一変しており、
連瀬、連瀑の境地へと侵入していた。

しかし、徒手空拳で下れぬほど険しくはない。
この調子で、120mの比高をフォロー出来るならば、
下降の線も見えてきたかッ?!


…頼むぞ。

俺たちには、もうあまり後がない。




くじ氏が止まった。

俺のことを待っている。


ま、

ま さ か…。




こ、この “縁” って…。

それに、この吹き上げてくる “風” ……。

止めどなく響き来る “爆音”……

…………。




10:53 《現在地》

歩き出して25分、入渓から20分を経過した時、


我々の前に、

地形図に記載のない  が現れて、

満を持したかのように、

進路を遮った。

【動画】


とりあえず、「乙次郎の滝」と呼んでみる。

滝は全水量を一挙に虚空へ放り捨てていて、
流れ来るものに、冷徹な制裁を下していた。
危うく我々も餌食となりかけようだが、
直前で威圧されて踏みとどまり、

直ちに迂回の進路を探すことになった。




迂回中。



幸いなことに、

滝の左岸側には
滝よりもだいぶ傾斜が緩やかな山の斜面があり、

それでも相当の急斜面ではあったものの、
良く根を張った木々や笹がふんだんに茂っていたので、

当初心配していたほどの、

命のやり取り

を演じることなく、この目測で20mはあろうかという
乙次郎の滝を、
征服することが出来た。

とまれ、この迂回には10分を要したし、

引き返し難いハードルを背負ってしまった。




11:03 滝の下部に到着する。

そして観賞をする暇も持たず、
再び下降を開始した。



5分ほどゴーロ地帯をゆくと、景色に
大きな変化が現れた。

今まで上下にばかり広かった風景が、
急に左右への広がりを現わしたのである。

それは紛れもなく、
我々が恋い焦がれた
木戸川本流谷の出現を告げる変化だった。

そして、この景色の変化とほぼ同時に、
谷に響き渡る重機の音も聞こえはじめた。

我々は緊張した。

これまでは自然との闘いだったが、
ここから少しの間は、
人目との闘いになるのかもしれなかった。



それともう一つある。

果して本流は渡河出来るのか?

…という不安。




11:13 《現在地》

前途への不安は山積みだが、それでも本日の進退を占う上では最も重要な一歩を踏み出し、それを修めることに成功したようである。

我々は建設中の木戸ダムサイトから1.5kmほど上流に位置する、木戸川本流に乙次郎川が合流する地点へと進入した。
写真は乙次郎川の出会いであるが、現在はここも湛水域内である。
その証拠に、どこのダム工事でもそうであるが、湛水位内の森林が伐採されている。

さて、こっからが本題だ。




本流筋に目をを向ける。

そこを工事関係者がうろうろしていたら、もうその時点で「ゲームオーバー」だったわけだが、そういう事は無かった。

両岸とも伐採されて、我々にとっては極めて不都合な状況になっていた本流谷中であるが、相当遠くまで見通せる範囲には、一切の人影が見られなかった。

だが、それだけでは喜べない事情があった。

肝心要の軌道跡らしきものが、未だはっきりとしないのである。

正確には、何となくそれらしいラインは見えていたのだが、「そうだ」と認めたくならないほど、か細かった。
そして、それがある斜面は異様に急峻で、しかも一面の笹に覆われていて…。

こんな雨の中で辿るには、

あんまりだ… きつい……




また、この谷が完全に我々の独擅場として許されたかと言えば、そうではない可能性もあった。

本流の上空には、谷筋に沿うように1本の架空索道が張られており、今は動いてはいなかったが、その一方は我々の進路(上流)の方向へ通じていたのである。

また、先にも書いたとおり、下流の方向からではあったが、さほど遠くない感じで複数の重機が動き回る騒音が聞こえていた。

やはり、湛水予定地を通り過ぎるまでは、我々が真に安堵して軌道跡に打ち込む環境にはなれなそうである。




もう一つの心配事であった、本流の水量であったが…

こちらも雨の影響をまだ受けていないのか、或いはダム工事のために上流で調節されているのかは分からないが、予想よりも遙かに少なかった。

写真の所は本流に乙次郎川が注ぐプールになっていて深いが、跳び石伝いに渡河出来る場所は随所に存在した。
(なお、この日の我々は沢向きの装備だったので、単純な濡れについては余り厭う必要がなかった)



それにしても、辿るべき軌道跡を早くはっきりと見たいものだ…。

それが無いのでは、いつまでも河床を無為に歩き続ける羽目になりかねない……。


求ム! 軌道跡!!




脚、キタ――ッ!


かなりデカい橋脚を、対岸に捕捉!




高い橋脚とその両側にある一対の橋台は、乙次郎川合流点から300mほど上流にある無名の右支流を跨ぐものであった。

この橋脚の発見により、本流沿いに軌道が存在したことが確定し、そのラインも自信を持って見定めることが出来るようになった。

とはいえ、改めて見直しても橋の前後は相当の急斜面であり、隧道でないことが不思議なほど。

いつ人目に遭うか分からぬこの状況で、時間をかけて路盤へアプローチするのは、大局的に見て得策ではないという判断と、単純にこれまでの探索の遅れを取り戻すべく、もうしばらく、楽な河床を進むことに決めた。
今は伐採のため、河床からでも路盤の様子は手に取るように見えるしな。




そういえば、人目に付きたくない一心からだったと思うが、ここまで1枚もダム堤体がある下流方向の撮影をしていなかった。

乙次郎川合流地点から100mほど上流の、適当に右岸へ徒渉した所にあった大岩の影で、久々に休憩した。

そして、初めて下流の方向を撮影した。


実は、我々が下ってきた乙次郎沢はホントに絶妙な入渓点であり、そのすぐ下流には写真にも見える大規模な湖畔整備地区があって、重機が唸りを上げていたのである。
もう少し下流から入り込もうとしていたら、上手く行かなかったと思う。

なお、今回はこのような経路で探索を行ったので、当初は計画に入っていた「ダムサイト~乙次郎沢合流点」までの軌道跡(約1.5km)については、探索することが出来なかった。
この区間は湛水域に入っているから、水位が高いときには湖底に沈んでいることだろう。
何か橋や隧道などがあったとしたら、惜しいことをしたと悔いるより無い。




さあ、こっからが本番だぞ!