2022.12.25
# ドラマ # 映画

最後の黄門様・里見浩太朗「ゆっくりとでも一歩ずつ歩めばいいこともある」大石内蔵助を演じて至った境地

週刊現代 プロフィール

やくざに扮しても貫禄がなく、怖くもなんともない

デビュー間もない頃

もともとは歌手志望だった。

静岡県立富士宮北高校に通っていた1955(昭和30)年早春、卒業間近の里見は『NHKのど自慢』の東部地区予選に出場。スター歌手・伊藤久男の『山のけむり』を歌い、鐘を3つ鳴らして合格し、静岡県大会へ。そこで落選となり、さらに上の大会に行くことはできなかったが、「将来、歌手になれるかもしれない」との思いが芽生えたのだった。

里見が振り返る。

「高校を卒業して上京し、築地で魚の仲卸をやっていた叔父の会社で、経理係として働き始めました。私はそろばんと簿記が2級だったからね。そのかたわら歌謡学校に通った。『いつか叔父を裏切って歌手になろう』と思っていたわけです。

ところが、その頃たまたま遊びに行ったお宅の娘さんが、東映のニューフェイスに私の履歴書を送って応募してしまった。試しに受験したら合格したんです。

人との出会いや運命の不思議を実感した出来事です」

1956年、20歳の里見は第3期ニューフェイスとして東映に入社し、翌1957年に映画『天狗街道』で本格デビューした。ちなみに第2期ニューフェイスには高倉健、第4期には佐久間良子や山城新伍らがいる。

「ちょうどその頃、日本の映画界は絶好調で、1958年に年間観客動員数が11億人を突破してピークを迎えました。私もこの年、30本近い映画に出演し、『金獅子紋ゆくところ 黄金蜘蛛』で初めて主役を演じています。

あまりに忙しく、疲れ過ぎて胃が食べ物を受けつけず、身長は173cmあるのに体重が50kgに落ちました。栄養をとるため、ブドウ糖やビタミンCなどが入った注射を打っていましたね」

 東映京都撮影所の俳優会館2階には、里見専用の楽屋がある。「もとは片岡千恵蔵先生の部屋で、1983(昭和58)年に先生が亡くなったあと、半分を私の楽屋にしてくれました。私がいなくなるまで、このままにしてくれるそうです」(里見)。撮影/ハリー中西
 

その後、テレビの普及にともない、映画の観客数は年々減少。それを打開するため、東映は鶴田浩二主演『人生劇場 飛車角』(1963年)の大ヒットを機に、時代劇から仁侠映画へと路線を転換する。これが里見に試練をもたらした。

「仁侠ものに何本か出たけれど、スクリーンに映し出される自分の姿に納得がいかなかった。それまで若侍のイメージでやっていたし、だいぶ痩せていたから、やくざに扮しても貫禄がなく、怖くもなんともない。

何より、やくざ風の角刈りが似合わない。悩んだ末、仁侠映画にはもう出ないことに決めました。会社の人は怒りましたよ。でも、やくざを演じる私は、私ではないと思ったんです。自分はこれから役者として生きていけるのかと心細くなりましたが……」

そのとき、テレビ局から時代劇の出演依頼が舞い込む。銀幕で育てられた里見は逡巡するが、時代の波に乗ってみようと決意。テレビの時代劇に出始め、1971年には『水戸黄門』第3部で助さんを演じるようになったのである。

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