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義経の「蝦夷地」渡航説を逸話や伝承地から読み解く

鬼滅の戦史99


義経が奥州平泉を脱して、北方に逃げ延びたという北行伝説。その足取りは東北地方に止まらず、北海道にまで渡航したとも言い伝えられる。今日まで残るさまざまな逸話や伝承地から、その真相を紐解いていきたい。 


林羅山や新井白石も信じた義経の蝦夷地渡航説

「奥州高館合戦、義経主従勇戦働くの事 『義経記』/都立中央図書館蔵

 源義経(みなもとのよしつね)が奥州平泉(ひらいずみ)で自害せず、北方へ逃げ延びたという北行伝説が、まことしやかに語られることがある。その東北ルートに関しては、すでに前回(『義経は奥州平泉で死なず、実は北方へ逃げ延びていた?』)紹介した。

 

 それが奥州藤原氏最後の当主・泰衡(やすひら)が義経の館に攻め込む1年以上も前のことで、密かに平泉を脱出した義経一行が、奥州や遠野、八戸などを経て、津軽半島に至ったところまでを記した。今回は、その後の義経の動向についてである。

 

 一説によれば、義経は津軽半島の三厩(みんまや)で風待ちをした後、竜飛岬(たっぴみさき)から蝦夷地(えぞち)こと北海道に渡ったとされる。彼の地に渡った義経が、行く先々で妻を娶(めと)って子をなし、挙句、オキクルミなるアイヌが崇める神(カムイ)として崇め奉られたとまでいうのだ。

 

 一見、突拍子もない話と思えそうだが、江戸時代初期の朱子学者・林羅山(はやしらざん)が義経の蝦夷地への渡航話を信じたばかりか、江戸中期の朱子学者・新井白石(あらいはくせき)までもが「義経=オキクルミ(アイヌに伝わる国土創生の神)」説を提唱したこともあって、多くの人々が義経の蝦夷地渡航説を信じたようである。その真偽はともあれ、まずはその伝承地から見ていくことにしたい。

積丹半島手前の弁慶岬にある弁慶銅像/フォトライブラリー

渡島半島西岸から平取へ

 

 津軽半島最北の竜飛岬を出立した船が北海道に上陸するとすれば、考えられるのは、渡島(おしま)半島最南端に位置する白神岬(しらかみみさき)の周辺である。しかし、言い伝えでは義経が津軽海峡を渡ろうとした時、急に海が荒れて現在の矢越岬(やごしみさき)まで流されたとされている。義経が矢を放つや、たちまちにして風が止んだと言われたことが地名の由来になったとも。

 

 ここから反転して、渡島半島の西海岸をたどったと考えられそうだ。江差町の沖合の鴎島(かもめじま)に、義経が愛馬を残して立ち去ったとの伝承が残されているからである。

 

 驚くことに、その北の乙部(おとべ)町に2年間も暮らしたという。注目すべきは、静御前(しずかごぜん)がここまで追いかけてきたというエピソード。彼女が義経の居どころを探り当ててようやくこの地にまでたどり着いたものの、すでに義経は立ち去った後。絶望した静が、川に身を投げたところから、姫川と呼ばれるようになったのだとか。

 

 さらに、北上した積丹(しゃこたん)半島手前には、弁慶岬や弁慶の刀掛岩(かたなかけいわ)、弁慶の薪積石など、弁慶ゆかりの伝承地が目白押し。道中における弁慶の活躍ぶりが推察できそうである。

 

 その北の積丹半島には、義経に捨てられて身を投げたといわれるチャンカというアイヌの娘の悲恋物語が伝えられている。神威岬(かむいみさき)や女郎子岩(じょろっこいわ)などが、その伝承地である。現地の人々の義経に対する印象が、女性を泣かせるような理不尽な男であったのも無理はない。

 

 ここから内陸部へと歩を進め、羊蹄山(ようていざん)をたどって日高町北に位置する平取町へ。そこには義経神社を始め、弁慶池、弁慶橋といった、義経や弁慶ゆかりの地名や伝承地がひしめいているのだ。義経神社近くにある義経資料館には、判官神様(ハンガンカムイ)として親しまれてきたという義経にまつわる資料も数多く展示されている。

平取町にある義経神社/フォトライブラリー

アイヌの民を懐柔するため、統治する側とされる側の思惑

 

 平取町からさらに北に向かった本別町にそびえる義経山(294m)は、義経が当地の民に農耕や狩猟の仕方などを教えたことで、神(サイマルク)と仰がれたと言い伝えられており、義経の里本別公園などが整備されている。

 

 その他、羅臼(らうす)町や増毛(ましけ)町、稚内市、浜益(はまます)町、恵庭(えにわ)市、函館市、松前(まつまえ)町など、義経や弁慶にまつわる伝承地が北海道中に点在している。その数、何と100以上と言われているから驚くばかりである。

 

 では、この義経一行の北海道渡来説は、本当のことだったのだろうか?

 

 残念ながら、真相は不明としか言いようがない。それでも義経の北行伝説のうち、東北地方に伝わるものとは違って、北海道に伝わる義経伝説には、政治的な思惑が大きく絡んでいた可能性が考えられそうだ。先住民である、アイヌの民を懐柔するための施策の一つだった可能性が、否定できないのだ。

 

 わかりやすく言えば、内地の人々が北海道を開拓するにあたり、あたかも義経が聖者や神のごとく崇められていたとの伝承を広めることで、懐柔を狙ったのではないか? 義経がたどったとされる場所で、判を押したように、耕作や狩猟の仕方を教えるなど多大な貢献を成したと伝えられているのが、その表れであろう。

 

 反面、義経が女好きで、良からぬ人物であったと評されることもある。おそらく、義経の名を騙(かた)って地元の人たちを搾取したり、女性を騙(だま)したりする人物も少なくなかったに違いない。

 

 統治する側にとっては好都合な神として、統治される側にとっては内地からやってきたよそ者としての印象が心に刻まれていたのかもしれない。北海道に流布される義経伝説は、単に義経を慕うがためのものばかりではなかったようである。

 

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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