2009年05月23日23:34落語ウォーキング 『ぞろぞろ』を歩く
今回のウォーキングは、JR四ツ谷駅から若葉町、左門町を歩いて落語『ぞろぞろ』の舞台であるお岩稲荷を目指します。
四ツ谷駅(四谷見附)→四谷見附公園(鮫ヶ橋)→鉄砲坂→西念寺(服部半蔵墓)→たい焼きわかば→文化放送跡→東福院坂→愛染院→須賀神社→戒行寺→陽雲院(お岩稲荷)→田宮神社(お岩稲荷)→解散→先鋭4名で信濃町にて飲む
コースの地図は追記にあります。
四ツ谷駅麹町口を出て、信号を渡ったロータリーからの写真です。(場所)ちょうど写真右側に石垣が見えますが、それが四ツ谷見附跡になります。見附とは枡形を持つ城門の外側に面する部分のことで、見張り番を置いて、暮れ六つ(午後6時)になると城門が閉められました。赤坂見附もそうで、地名として残っています。
(写真はクリックすると大きくなります)

超・手書きで書いてみました。わかります?四ツ谷見附の枡形門です。新宿通りがまっすぐに通ったのは大正2年のことで、それまでは鉤状のような道になっていた。
橋を渡り新宿側へ出て、外堀通りを迎賓館の方へと向かう。四谷中学校を越えて四ツ谷見附公園でこの近辺の話を聞く。
迎賓館は1909年に東宮御所として建築。あまりに華美すぎることからあまり利用することなく、赤坂離宮と改称された。戦後は国のものとなり、国会図書館や裁判所、東京オリンピック組織委員会に利用されたりした。それまでの迎賓館は戦後の一時期に現在の東京都庭園美術館を使っていたが、あまりに手狭だったため、現在の赤坂迎賓館に移転した。
江戸時代、鮫ヶ橋と呼ばれたこのあたりはスラム街(貧民窟)で現在の四谷赤坂からは想像もつかない。この近くの某有名小学校では学校説明会の日だったようで、私たちがこのあたりは相当な貧しい町と言っているのと対照的でおかしく思えました。完全に整地化されてしまったが、昭和初期までは存在していたようだ。
写真は四ツ谷見附公園のプラタナス。結構大きい。新宿の区立公園最大の木なのだそう。このあたりを歩いたのは初めてだったが、迎賓館周辺は秋の散歩にはもってこいという場所のような気がした。
鮫ヶ橋坂は下らずに住宅街に入りましたが、坂を下ったみなみもと公園には「四谷鮫河橋地名発祥之所」という碑があるようです。どうやらここが鮫河橋貧民窟だったようです。ちなみに迎賓館は紀伊家の広大な土地でした。通りを隔てた場所がスラム街とは皮肉なものです。
そんな有名小学校の壁づたいを歩いて若葉町の住宅街へと入ります。蔦のからまる古い屋敷はフレンチの名店オテル・ドゥ・ミクニです。こんなところにあるんだね。ランチは8500円、ディナーは20000円のようです。
ここから延びる坂の名称は鉄砲坂と言います。江戸時代、近くに御持筒組屋敷と屋敷内に鉄砲稽古場があったからだそうだ。それこそミクニの場所周辺は御持筒組屋敷だったようだ。
落語では聞き覚えのあるような名前の西念寺へ向かう。浄土宗・西念寺は服部半蔵が創建した寺で、麹町清水谷にあったが江戸城の拡張工事で新宿区若葉へ移転した。西念とは半蔵の戒名です。(専称院殿安誉西念大禅定門)忍者を取りまとめる頭ではあるが、忍者ではなく武士。家康の長男信康に仕えていたが、切腹の折り介錯を命ぜられたが果たすことができなかった。その供養のために仏門に入った。後年、信康供養のために西念寺を建てました。境内本堂裏に半蔵の墓地があり新宿区指定史跡となっている。宝篋塔という墓のスタイルは半蔵の身分としては立派すぎるらしい。半蔵の墓の奥に信康の供養塔もある。
西念寺を出て新宿通り方面へと歩くと通りへ出る手前にたい焼きの「わかば」がある。たい焼き御三家のひとつ。ほかは人形町の「柳屋」、麻布十番の「浪花家」の三店。こちら二店よりは比較的買いやすいか。ちょうど私達が通った時は行列ができていなかった。というか私達がごっそり買ったため行列ができてしまった。1回で焼ける量が決まっているからしょうがない。しっぽまでみっしり餡子が詰まっているというので有名ですが、塩っ気の強い餡子が飽きない理由なのか、焼き立てはことのほかおいしかったです。冷凍にして半解凍していただくというのを一度やってみたいですね。たい焼きの形は木村荘八先生の図案から起こしたオリジナル。店内でいただくとアンツル(安藤鶴夫)直筆のお皿で出てくるそうです。夏になるとかき氷もあるのかー!
新宿通りへ出て新宿方面へ歩く。四谷2丁目(四谷大横町)のあたりに「喜よし」という寄席があったという。詰めれば千人入る大きな寄席で、代演を頼むと二度と呼ばれないという強気な寄席だったそうだ。寄席の席亭は鳶頭。戦争で焼けてしまうまでは繁盛していたのでしょう。
四谷小学校のある角を曲がり入ると地図では空き地になっているが今は立派なマンションが建っている。浜松町へ移転してしまった文化放送跡地だ。マンション入り口に文化放送発祥の地という案内版があった。友達に頼まれて半日出待ちしたティーンの頃を思い出してしまった(笑)不思議な建物だったなという印象が残っているが、設立母体がカトリック聖パウロ修道院だったそうだ。
(←クリックで大きくなります。)
正面の須賀神社の階段へと続くまっすぐ延びる坂は東福院坂(天王坂)です。東福院は坂の中腹にある寺院。別名の天王坂は、明治以降の須賀神社が牛頭天王社と称していたからとのこと。何とも立派な坂道です。
坂の途中にある愛染院という寺院には、高松喜六と塙保己一の墓が残されている。(中には入らず)もとは麹町貝塚にあったが、西念寺と同じく江戸城拡張工事でここに移転してきた。
高松喜六は内藤新宿の生みの親。宿場を開いた人です。
塙保己一は盲目の江戸時代の国学者。


須賀神社 日本武命を祀っている四谷の総鎮守。主神は須佐之男命と宇迦能御魂命(うかたまのみこと・倉稲魂尊ともいう)。麹町清水谷にあった宝蔵院の稲荷神社を江戸城外堀普請のため現在の場所に替地として拝領したことを発端とし、後に神田明神の牛頭天王を合祀した。境内に大鳥神社や大国社もある。
社殿内に三十六歌仙絵があり見ることができる。天保7年に描かれたもので、戦時中の火災を免れ社宝となっている。旗本の画家・大岡雲峰の作。
丸正とポプラ社(喬太郎師の著書の出版社)の提灯が並んでいた。


戒行寺と戒行寺坂 戒行寺は鬼平犯科帳ファンならば周知の寺です。長谷川家代々の菩提寺だったが今は墓はなく、境内に長谷川平蔵 宣以 (のぶため) 供養乃碑がある。平蔵は寛政七年(1795)他界。
戒行寺坂は別名を油揚坂という。坂の中腹に豆腐屋があり、油揚げがことのほか旨かったという。坂の名前なんてそんなもんだ(笑)
戒行寺坂の先にある西念寺と真成院の間の観音坂が好みの坂です。
本日の目的地・於岩稲荷へと向かう。
向かい合う二つのお岩稲荷。於岩稲荷陽運寺と於岩稲荷田宮神社、どちらがホンモノとは言えない。どちらもホンモノ。
写真は「日蓮宗・於岩稲荷陽運寺」
とっても日蓮宗らしい作り。なんでもあります。お岩さんを祀っているお寺。
田宮神社の方は実在のお岩さんが信仰していた屋敷社で、現在はお岩さんを祀っている神社。
なぜこうなったかという経緯は、田宮家の屋敷社が神社となり、 1879年の大火事で中央区新川に移転することになる。その間に左門町にお岩稲荷がないのはと向い側の寺院が於岩霊堂を設置し、お参りに来た参拝客を受け入れていた。その後、再び同じ場所に田宮神社が帰ってきたということです。
実際は貞女で夫婦円満だった田宮家。田宮の屋敷社が有名になり人気が出たことにより、それに目を付けた鶴屋南北が怪談に仕立て上げたということだ。お岩さんも死んでから200年も経ってこんな怪談が作られるとは思ってもみなかったことだろう。怨霊というのは後付けだったとしても一度形が作られてしまうと呪にかかってしまうのだろうなあ。


田宮神社の入り口には劇場や役者の柱が立っていた。四谷怪談を演じる際には、左門町の二つの於岩稲荷と巣鴨・妙行寺にあるお岩さんのお墓の3カ所をお参りすることが決まり事となっている。
これまた余談だが、巣鴨の妙行寺は学生時代の通学路だったため、お遊びで何度も覗きに入っていたことをここでお詫びします。いやあ、子供の頃って肝試しが好きだよね。
4時を少し過ぎて田宮神社で解散。ほとんどの人が四谷三丁目に向かい、信濃町へ移動した4人で軽く喉をうるおしに寄り道しました。
今回歩いた行程はこちら→
四ツ谷駅(四谷見附)→四谷見附公園(鮫ヶ橋)→鉄砲坂→西念寺(服部半蔵墓)→たい焼きわかば→文化放送跡→東福院坂→愛染院→須賀神社→戒行寺→陽雲院(お岩稲荷)→田宮神社(お岩稲荷)→解散→先鋭4名で信濃町にて飲む
コースの地図は追記にあります。
(写真はクリックすると大きくなります)
超・手書きで書いてみました。わかります?四ツ谷見附の枡形門です。新宿通りがまっすぐに通ったのは大正2年のことで、それまでは鉤状のような道になっていた。
迎賓館は1909年に東宮御所として建築。あまりに華美すぎることからあまり利用することなく、赤坂離宮と改称された。戦後は国のものとなり、国会図書館や裁判所、東京オリンピック組織委員会に利用されたりした。それまでの迎賓館は戦後の一時期に現在の東京都庭園美術館を使っていたが、あまりに手狭だったため、現在の赤坂迎賓館に移転した。
江戸時代、鮫ヶ橋と呼ばれたこのあたりはスラム街(貧民窟)で現在の四谷赤坂からは想像もつかない。この近くの某有名小学校では学校説明会の日だったようで、私たちがこのあたりは相当な貧しい町と言っているのと対照的でおかしく思えました。完全に整地化されてしまったが、昭和初期までは存在していたようだ。
写真は四ツ谷見附公園のプラタナス。結構大きい。新宿の区立公園最大の木なのだそう。このあたりを歩いたのは初めてだったが、迎賓館周辺は秋の散歩にはもってこいという場所のような気がした。
鮫ヶ橋坂は下らずに住宅街に入りましたが、坂を下ったみなみもと公園には「四谷鮫河橋地名発祥之所」という碑があるようです。どうやらここが鮫河橋貧民窟だったようです。ちなみに迎賓館は紀伊家の広大な土地でした。通りを隔てた場所がスラム街とは皮肉なものです。
ここから延びる坂の名称は鉄砲坂と言います。江戸時代、近くに御持筒組屋敷と屋敷内に鉄砲稽古場があったからだそうだ。それこそミクニの場所周辺は御持筒組屋敷だったようだ。
四谷小学校のある角を曲がり入ると地図では空き地になっているが今は立派なマンションが建っている。浜松町へ移転してしまった文化放送跡地だ。マンション入り口に文化放送発祥の地という案内版があった。友達に頼まれて半日出待ちしたティーンの頃を思い出してしまった(笑)不思議な建物だったなという印象が残っているが、設立母体がカトリック聖パウロ修道院だったそうだ。
正面の須賀神社の階段へと続くまっすぐ延びる坂は東福院坂(天王坂)です。東福院は坂の中腹にある寺院。別名の天王坂は、明治以降の須賀神社が牛頭天王社と称していたからとのこと。何とも立派な坂道です。
坂の途中にある愛染院という寺院には、高松喜六と塙保己一の墓が残されている。(中には入らず)もとは麹町貝塚にあったが、西念寺と同じく江戸城拡張工事でここに移転してきた。
高松喜六は内藤新宿の生みの親。宿場を開いた人です。
塙保己一は盲目の江戸時代の国学者。
須賀神社 日本武命を祀っている四谷の総鎮守。主神は須佐之男命と宇迦能御魂命(うかたまのみこと・倉稲魂尊ともいう)。麹町清水谷にあった宝蔵院の稲荷神社を江戸城外堀普請のため現在の場所に替地として拝領したことを発端とし、後に神田明神の牛頭天王を合祀した。境内に大鳥神社や大国社もある。
社殿内に三十六歌仙絵があり見ることができる。天保7年に描かれたもので、戦時中の火災を免れ社宝となっている。旗本の画家・大岡雲峰の作。
丸正とポプラ社(喬太郎師の著書の出版社)の提灯が並んでいた。
戒行寺と戒行寺坂 戒行寺は鬼平犯科帳ファンならば周知の寺です。長谷川家代々の菩提寺だったが今は墓はなく、境内に長谷川平蔵 宣以 (のぶため) 供養乃碑がある。平蔵は寛政七年(1795)他界。
戒行寺坂は別名を油揚坂という。坂の中腹に豆腐屋があり、油揚げがことのほか旨かったという。坂の名前なんてそんなもんだ(笑)
戒行寺坂の先にある西念寺と真成院の間の観音坂が好みの坂です。
向かい合う二つのお岩稲荷。於岩稲荷陽運寺と於岩稲荷田宮神社、どちらがホンモノとは言えない。どちらもホンモノ。
写真は「日蓮宗・於岩稲荷陽運寺」
とっても日蓮宗らしい作り。なんでもあります。お岩さんを祀っているお寺。
田宮神社の方は実在のお岩さんが信仰していた屋敷社で、現在はお岩さんを祀っている神社。
実際は貞女で夫婦円満だった田宮家。田宮の屋敷社が有名になり人気が出たことにより、それに目を付けた鶴屋南北が怪談に仕立て上げたということだ。お岩さんも死んでから200年も経ってこんな怪談が作られるとは思ってもみなかったことだろう。怨霊というのは後付けだったとしても一度形が作られてしまうと呪にかかってしまうのだろうなあ。
田宮神社の入り口には劇場や役者の柱が立っていた。四谷怪談を演じる際には、左門町の二つの於岩稲荷と巣鴨・妙行寺にあるお岩さんのお墓の3カ所をお参りすることが決まり事となっている。
これまた余談だが、巣鴨の妙行寺は学生時代の通学路だったため、お遊びで何度も覗きに入っていたことをここでお詫びします。いやあ、子供の頃って肝試しが好きだよね。
4時を少し過ぎて田宮神社で解散。ほとんどの人が四谷三丁目に向かい、信濃町へ移動した4人で軽く喉をうるおしに寄り道しました。
今回歩いた行程はこちら→