【壱】竜の血脈
第1話 入学
汽笛が海に消えていく。ばっくりと口を開けた岩の出入り口に、一隻の船の影。それは太陽に照らされて光の中へと溶けていった。
遠ざかって見えなくなっていく船を見送って、少年は黒髪の乱れを軽く整えてから肩にかけたボストンバッグの重みを再確認し、海から視線を外した。
着込んでいるのは紺色のブレザーにストレッチ素材の、上着と同色のズボン。胸元には校章と学年を示す学章。手にはキャリーケースも握られ、まさに新生活を始める学生といった風情である。
ここは
高さ八〇〇メートルに達する巨岩をくり抜いて作った街で、大昔から退魔師の要害として機能してきた土地である。初めに巨岩があったとも、要害としての立場を確立するために術で作ったともされているが、真相は不明である。
そんな岩の中にかつての偉大な退魔師が保有していた山を伐採して学園の基盤を作り、それが今日の『燦月学園』に至るというがパンフレットに記されていた。
岩戸の都、そして学術の都というわけだ。
「でけえ……」
ここからでも見える学園の威容に、少年——
十九世紀の異人館を思わせる城のような建物が山の中腹あたりに
岩戸内の光源は岩が抱く内海の島にある銀色の神炎と、道々に灯された電気提灯や電気灯篭、あるいは建造物の光だけだ。そのうっすらとした輝きの中で、学園はなおも鮮烈な存在感を放っている。
学園の半ば——東側の山の方などは岩戸の外に出ており、巨岩の内外を跨いでそこに佇んでいた。
「ほらどいて、邪魔だよ」
「とと、すみません」
後ろから籠を担いでいた男に言われ、奏真は大人しく引き下がった。
「よっほ、よっほ」と言いながら人を籠に入れて運ぶなんてタイムスリップでもしてきたかのような気分になるが、観光地では力車やなんかを普通に見るし、そういう類なのだろうと判断した。
どこを見ても目に飛び込んでくるのは人間よりも圧倒的に妖怪たちである。
角がある者、獣のような耳や尻尾があるもの、下半身が爬虫類であったり昆虫類であったりするものなどなど、多種多様な妖怪がいた。
これからは自分も妖怪の国の民として、退魔師として振る舞うことになる。
奏真は気合いを入れ直してバス停に向かって、ちょうどやってきた車両に乗り込んだ。空いている席はなく、乗客の実に七割が外見だけで妖怪とわかる連中であった。
奏真は吊り革に掴まって振動やら慣性やらに耐えつつ、残っている十名以上の客を見て、こいつらも学園に行くんだなと思う。
「まもなく燦月学園前、燦月学園前でございます」
いよいよだ。
待ち望んだ学園生活が、退魔師としての第一歩が始まる。
「やっとここまできた。……絶対に一流の退魔師になって——」
心の声が口に出ていて、はっとして周りを見ると「なんなんだこいつは」という顔していた。曖昧な笑みで誤魔化し、列に並んで運賃箱に乗車券とお金を入れる。
バスから降りて学園に向かう道中、新入生や進級生をメインターゲットにしている出店や屋台が軒を連ねていた。
退魔道具や食べ物、色々売っている。見ていきたいが遅刻したくはないので、奏真はそれらの誘惑を断ち切るようにあえて堂々と歩いて行った。
「あの、そこの男の方!」
と、声をかけられて奏真ははたと足を止めた。周りの男子たちも——年齢層はまばらだが——振り返る。
視線の先には青い髪に蝙蝠のような翼と、爬虫類めいた尻尾に、悪魔じみた角を持つグラマーな少女。手にはいっぱいの食べ物の類。
「黒髪で、今私を見て『胸と食い気半端ねえな』って顔した黒いボストンバッグの方です!」
「俺かよ……。何か用でも?」
「えっと、仲良くできそうな勘が働いたので声をかけたんです。私はクラム・シェンフィールドといいます。あなたは?」
「黒塚奏真。シェンフィールドさんも学生?」
周りの男子が羨ましそうに、中には舌打ちまでする者もいたが逆の立場なら奏真だって残念がっていただろう。
クラムと名乗った子はどうみても美人だし、なにより竜族だからだ。
「クラムで構いません。奏真さんと同じく、今日から燦月学園の学徒となる者です! お近づきのしるしに、これどうぞ」
満面の笑みと共に差し出されたのは大きなワッフルだった。人の顔くらいの大きさがある。本場ベルギーも真っ青なほどに結晶化した砂糖がくっついており、見ているだけで胃酸が込み上げてくるような甘さを感じた。
「……どうも」
「ひょっとして……甘いもの、苦手だったり?」
「苦手じゃないよ。どっちかといえば好きなくらいだし。いきなりで驚いただけだからさ。ありがと、腹減ってたからちょうどよかった」
お世辞のように聞こえるかもしれないが、実は全て本音だ。
大がつくほどではないが甘いものはそれなりに好きだし、降りる準備に忙しくて船で食事を取っていなかったので本当に腹も減っている。
大きなワッフルを齧ると小麦の風味と、意外なほど甘ったるくはない味わいが口に広がった。ざりざりする砂糖の粒を噛みつぶすと、さすがにちょっと甘さがきついが、鼻につくほどでもない。
「美味しそうに食べてもらえてよかったです。ちなみにコースとクラスは?」
「退魔師コースの一年二組。シェン……クラムさんは?」
「私も退魔師コースの一年二組です。あと、さんはいらないです」
「そっか」
目一杯の食べ物をクラムはあっという間に平らげ、その間にやっと巨大ワッフルを食べ終えた。
そうこうして正門前まで来て、二人は門の前で仁王立ちする黒ジャージの女教師に睨まれる。なにか悪さをしただろうか。
「貴様ら、入学早々いちゃついていいご身分だな。三〇〇になっても結婚できない私へのあてつけか?」
「は?」「えぇ……」
「くそっ、昨今のガキどもはやれマッチングだ合コンだの! 私だって男とマッチングしたいんだ! 巣立っていった生徒から声をかけられることもなく百年もここに立っている気持ちが貴様らにわかるか!?」
なんなんだこの女は……と呆れる奏真。隣のクラムに至っては、
「イキオクレエルフで眼鏡で巨乳ジャージはキッツ……せいぜい薄い本のネタになるのが関の山ですよ」
「なんだと、もう一度言ってみろ」
「なんでもありません。行きましょう奏真さん」
「え、あ……ああ」
決して肉体関係を持っていたわけでも、大っぴらに乳繰りあっていたわけでもないので決して風紀は乱していないだろう。
健全な交流だったはずで、それはあのイキオクレエルフ教師もわかっているのか、悔しそうな顔をしつつも指導部への連行はしてこなかった。
「なんなんですかねあのオバハン。ほんとあれ不良にマワされる要員でしょうよ」
「絶対本人の前で言うなよ」
妖怪も人の姿をとっている時や、人型のものは『人』の字を使うということを奏真は事前の勉強で知っていた。
それにしてもクラムは意外と歯に絹着せぬ物言いをする子だ。竜族自体がそういった性格なのだろうか。
「奏真さんの出身って、この辺です?」
「先祖が裡辺人だけど、俺の生まれは八洲本土の方だよ。祖父ちゃんの世代くらいから本土で暮らしてたらしい」
「人間社会の出身なんですね。妖怪社会って色々特殊ですから、戸惑いません?」
入学式が行われる燦月記念講堂は正門のほぼ対角線上にある。手入れされた池を抜けて、大きな時計塔を見つつ北へ向かう。
「まだ二日目くらいだよ。空港の近くで一泊して、今日ここに来たから」
「じゃあ完全にビギナーなわけですね。これは今のうちに唾をつけておくのがいいですかねえ」
「何?」
「なんでもありません。いや、なんていうかこう、他人って気がしないんですよね。まさかご先祖様が竜だったりして」
「それは知らないけど……でも、先祖の侍の中に竜って恐れられた使い手がいたのは確かだよ。竜の骨だったか、角だったか……まあ、それから作った刀を俺は祖父ちゃんから継いでるし」
背負っている竹刀袋を指差した。クラムは「ほほー」と頷く。
「なるほど、これで他人事じゃない感じがしてたんですね。ということはご先祖様は竜とさぞ仲良しだったんでしょう」
「どうなんだろうな……。ただ、
喋りながら歩いていたらあっという間だ。燦月記念講堂の前に来ていた。
石造りの大きなドーム状の建物で、改修しているのだろう、細部には最新の建材なんかも見えた。
耐震性能はもちろん、いざという時のシェルターでもあるとパンフレットには書いてあったので、そういった防護能力も付加しているのだろうか。
新入生たちが長蛇をなし、上級生が各々ワッペンを取り付けていた。
「男子に胸触られたらセクハラーって叫びましょうかね」
「流石にそこは空気読んで女子がしてくれるだろ」
学園には決まった制服が何種類かあり、それを自由に組み合わせて良いことになっているため、生徒一人一人でコーディネートが違うのが面白い。
校章と、そして学章で何年生かがわかるようになっているので、それもありがたかった。
なのでやってきた女子生徒が三年生であることがすぐにわかり、先輩だと察して口を引き結んだ。
「君は一年生……だね。はい、入学おめでとう。緊張しないで、リラックスして」
先輩の犬妖怪と思しき女子生徒にワッペンをつけてもらい、クラムも同じ先輩にワッペンをもらっていた。
やがて奏真たちも講堂内に入り、特に意見を言い合ったわけでもなく隣り合って座った。
「あ、そうだ。奏真さんはなんのために退魔師に?」
「それは……失わないため、見つけるため。それだけだよ」
「…………?」
「クラムはどうなんだ?」
「私は竜王になるためです。いい操竜師と共に、大空を舞うのが夢ですね」
「そっか」
キーン、ボンッボンッというマイクの起動音がして、二人をはじめ生徒たちが静かになった。
「これより第二八三回入学式を開始します。新入生、在校生、起立——」
こうして若き退魔師たちの学生生活が幕を開けるのだった。
ゴヲスト・パレヱド 雅彩ラヰカ @N4ZX506472
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