この時の大虐殺は曹操の生涯最大の汚点となり、少なからぬ名士が徐州での蛮行を理由に曹操に失望します。例えば、?州の名士の辺譲は曹操を批判しています。曹操は失策を分かっていたのか、あるいは批判されたことを不快に思ったのか、辺譲を殺してしまいました。
曹操は攻撃を続けたかったのかもしれませんが、兵糧が切れたために撤退します。
陶謙は、公孫瓚配下で袁紹や曹操に圧力をかけるために斉に駐屯していた田楷に助けを求めます。この動きはまず間違いなく、陶謙と同じく袁術ラインにいた公孫瓚を頼ってのことでしょう。田楷は劉備とともに陶謙を救援します。
この時、劉備の配下には私兵1000人余りと幽州の烏丸に属する諸部族の騎兵がいました。そこに、飢えた民衆数千人を無理やり組みいれて数を増やし、陶謙のもとに赴きます。
陶謙は4000の兵を劉備配下に加えました。厚遇を受け、劉備は田楷のもとを去って陶謙に身を寄せることになります。陶謙は上表して劉備を豫州刺史とし、小沛に駐屯させました。
曹操の徐州攻撃は翌年も続けられるのですがそれに触れる前に同じく193年に怒った出来事について触れておきましょう。
6月、李傕らは太尉の周忠を免職し、後任に太僕の朱儁を充てます。この動きは間違いなく東方の諸侯の切り崩しと関係しています。少し、朱儁を取り巻いていた状況を見てみましょう。
朱儁は李傕と郭汜の乱の際、中牟に駐屯していました。陶謙は朱儁は名臣で多くの戦功があることから大事を委ねるべしと指摘し、他の豪傑たちと共に朱儁をリーダーに担いでして李傕らを討ち、天子を迎えようと図っています。陶謙に賛同したのは泰山太守の応劭、北海の相孔融らで、「国家は既に董卓に遭い、今は李傕と郭汜の禍により幼主は囚えられ、忠義の臣は疲弊し、長安は隔絶して吉兆(皇帝の生死)すら定かではない。明哲雄覇の士でなければ乱を治めることはできぬであろう。我々は国難を消すには、文武に優れ全ての君子に期待を寄せられている朱儁しかいない」と主張していました。
反董卓連合軍とは異なるところで、同盟を結んで董卓に対抗しようという動きがあったのです。
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posted by 仲井 智史 at 12:00|
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三国志
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