CAST&STAFF
重信房子
1945年、東京都世田谷区で4人兄弟の次女として生まれる。
戦後の血盟団事件に参加していた、極右だった父・末夫の影響を強く受ける。高校卒業後、明治大学の二部(夜間部)に入学。学費を支払うために、当時給料の一番高かったキッコーマン醤油に就職する。大学では小学校の社会の先生になるため、文学部史学地理学科専攻。歴史的に正当に評価されていない人々に光をあてる小説を書きたかったと話している。房子は安定した家庭を持つことを望み、ごく一般的な生活をしていたが、学費増額に反対する運動に関わったことから活動家としての人生が始まる。71年に世界革命を目指しパレスチナで日本赤軍を結成し、最高指導者となる。70年~80年代にかけて、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と連携し、一連のハイジャックや外国公館を攻撃するなど、多数の民間人をも巻き込んだテロ事件を繰り返した。国際指名手配されながらも活動を続けてきたその後、偽造旅券を使って日本に不法入国し、2000年、潜伏していた大阪市西成区のマンションで逮捕される。2010年、懲役20年が確定し、現在八王子医療刑務所にて服役中である。
重信メイ
1973年、房子とパレスチナ人活動家の間に生まれる。ベイルート在住。
パレスチナ人の戦士でありリーダーだった父親の素性が知られると自身も暗殺のターゲットとなる恐れがあるため、16歳まで父親が誰か明かされず、28年間無国籍で過ごした。97年、ベイルートのアメリカン大学を卒業後同大学政治学科大学院に進学。2001年に日本国籍を取得し、初めて母の祖国の地を踏んだ。現在、ジャーナリストとしてパレスチナ問題を中心に、中東問題、アラブ世界、イスラム文化、イラクやクルド問題などを講演活動で伝えている。
ウルリケ・マインホフ
1934年生まれ。
学生時代、核兵器反対運動で学生闘士として注目される。卒業後、左翼的な雑誌、コンクレット誌の記者となり人気を得た。この頃、映画監督のミヒャエル・ハネケと知り合っており、彼はウルリケのことを「とても好感が持て、温かい心を持ち、政治に積極的に参加していて、そのうえユーモアに富んだ人間だった」と評している。61年同誌の編集長、クラウス・ロールと結婚し、二児をもうけたが後に離婚。68年にアンドレアス・バーダーとグドルン・エンスリンが率いる、反帝国主義・反資本主義をスローガンに掲げた極左地下組織に参加し、バーダー・マインホフ・グループ(後のドイツ赤軍)を結成。72年に逮捕され、シュトゥットガルトの刑務所にて収監、76年に獄中で首吊り自殺をした。
ベティーナ・ロール
1962年、ウルリケとクラウスの間に双子の姉妹として生まれる。
両親の離婚後、彼女たちは、娘をクラウスから引き離そうとする母とドイツ赤軍の仲間たちによってイタリアへと誘拐される。「闘争に捧げる人たちと共に成長できるのだから」という理由で子どもたちをパレスチナのキャンプ場へ連れて行き訓練しようと考えていたウルリケだが、ベティーナたちは政府当局に保護され、計画は阻止された。数日後、そのキャンプ場は爆撃に遭い、子どもたちは全員亡くなっている。76年、母の自殺をラジオで知った彼女は、「その時の気持ちは話したくない」と言う。現在はジャーナリストとして活動しており、夫と息子とともにハンブルグで暮らしている。
足立正生(映画監督)
1939年生まれ。
日本大学芸術学部映画学科在学中に自主制作した『鎖陰』で一躍脚光を浴びる。大学中退後、若松孝二の独立プロダクションに加わり、性と革命を主題にした前衛的なピンク映画の脚本を量産する。監督としても66年に『堕胎』で商業デビュー。71年、若松孝二とパレスチナへ渡り、『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』を撮影。74年、日本を離れ、パレスチナ解放闘争に身を投じる。97年にレバノンで逮捕抑留され、3年の禁固刑ののち日本へ強制送還。2006年、赤軍メンバーの岡本公三をモデルにした『幽閉者 テロリスト』を発表した。
塩見孝也
1941年生まれ。
62年に京都大学文学部へ入学。在学中から日本の新左翼党派である共産主義者同盟(通称:共産同、ブント)の活動家となり、69年に京大、同志社大、立命館大を中心に400人を集め、“武装闘争”を主張する共産主義者同盟赤軍派(通称:赤軍派)を結成し議長となる。同年、首相官邸襲撃の軍事訓練を行うため大菩薩峠に結集していた塩見ら主力部隊に逮捕状が執行される。70年“フェニックス作戦”と名づけたハイジャックを計画し、実施寸前に逮捕され懲役18年の判決を下される。しかしその後、実行部隊のメンバーは規定方針通りハイジャックを決行、羽田空港で日本航空機・よど号をハイジャックし、北朝鮮に亡命した(よど号ハイジャック事件)。塩見は19年9ヶ月に及ぶ獄中生活ののち、89年に出所し、現在は駐車場の管理人として働きながら憲法9条を守る運動団体「9条改憲阻止の会」で活動している。
大谷恭子
1950年生まれ。
高校時代にベトナム反戦運動を体験し、69年早稲田大学法学部に入学。すぐに学生運動に参加した。連赤事件を機に活動から手を引き、78年に弁護士へ。その後、あさま山荘事件、永山則夫事件、地下鉄サリン事件にも携わった。永山則夫死刑囚の弁護にあたっては、死刑廃止の提言もしている。2000年に逮捕された重信房子の弁護に当たる。大谷は重信を「リーダーとして彼女は非常に有能であり、彼女なくして日本赤軍は団結しえなかった」と話す。現在も障害児の自主登校裁判、アイヌ肖像権裁判などマイノリティーの人権を擁護する弁護士として活躍している。
シェーン・オサリバン
監督
ロンドンを拠点に活躍するアイルランド人のドキュメンタリー映画作家。
これまで『RFKマスト・ダイ』(原題) (08)、『革命の子どもたち』(11) 、『キリング・オズワルド』(原題) (13)という政治史に焦点をあてた3作の長編ドキュメンタリーを製作している。また、ポル・ポトとジャン=リュック・ゴダールを扱ったテレビドキュメンタリー番組や『セカンド・ジェネレーション』(原題)という長編劇映画も監督している。2008年には、『Who Killed Bobby? The Unsolved Murder of Robert F. Kennedy』(誰がボビーを殺したか?未解決のロバート・F・ケネディ殺人事件)という本を執筆しており、最近ではローハンプトン大学で映画学の博士号を取得した。大学を卒業したのち2年間日本に住んでいたが、その時、ビースティ・ボーイズのライブで知り合った日本人女性と結婚し、現在は妻と娘と共にロンドンで暮らしている。