歌意考   賀茂真淵(1697~1769年)・江戸時代 出典:新編日本古典文学全集・小学館「歌論集」 藤平晴男 校注・訳

歌論書用例歌 
 目 次    
 〔一〕上代の歌の価値と復古の要  〔二〕万葉習学の勧め  〔三〕万葉と古今との学び方

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  解題  
  賀茂真淵の学問と思想、すなわちその国学の体系と内容については、真淵自身が「文意」「歌意」「国意」「語意」「書意」の五つに分けて説いている。「歌意」は、真淵の国学の中で重要な意義を持つ和歌について論じたもので、和歌の本質を論じ、それにもとづいて万葉集を学ぶべきことを主張している。刊本『歌意考』は、真淵の稿本を没後の寛政十二(1800)年になって門人荒木田久老が刊行したものであり、本文の結言によると明和元(1764)年ころの成稿であるが、『龍のきみえ賀茂のまふち 問ひ答へ』によると宝暦十(1760)年にはほぼ草稿ができていたらしい。刊本以外にも簡略な内容のものと豊富な内容のものとの異本が伝えられているが、共に刊本以前の草稿かと思われ」、ことに後者(広本)は、のちに刊本『歌意考』と『新学(にいまなび)』とに分けてまとめ直される以前の段階のもののようである(山本饒編『校本賀茂真淵全集 思想篇上』参照)。真淵自身は「歌意(うたのこころ)」と呼んだようであるが、刊本は『国意考』などとともに『歌意考』と題されている。
 真淵は、荷田在満の『国歌八論』をめぐっての在満と田安宗武との論争に意見を求められて、『国歌八論余言拾遺』(『国歌八論余言』は宗武の著作)を書き、のち『国歌論臆説』に改稿し、さらに『再奉答金吾君書』(「金吾君」は宗武)をまとめていて、それらにも詳細な歌論的見解がみられるが、真淵晩年の到達点を示しているのはやはり『歌意考』であって、『新学』によって補われるべき点があるとはいえ、真淵の歌論の精髄は『歌意考』にあらわれているといえる。
 賀茂真淵は、元禄十(1697)年に浜松の郷士岡部家に生まれ、荷田春満門の杉浦国頭夫妻に歌文を、また古学派儒学の渡辺蒙庵に漢学を学んだ。のち上京して春満の教えを受け、四十一歳のときはじめて江戸に出てやがて歌文を教えるようになったが、延享三(1746)年五十歳のおり、春満の養子荷田在満の推挙により田安家(宗武)の和歌御用として仕えることとなり、六十四歳で田安家を辞するまでの十五年間に多くの著作を撰進した。『国歌八論』をめぐる論争への参加とそれに続く田安家への出仕は、真淵の国学の展開の上に大きな転機となったが、歌論の面でも、古道説との関連を深めるとともに万葉主義への傾斜を急速に早めている。田安家を辞して後は、その復古主義的思想を徹底させるとともに、それを体系化して「歌意」などの「五意」の著作として結実させたのであった。明和六(1769)年七十三歳で没したが、その号県居(あがたい)にもとづいて見門(けんもん)と称されたその門下生は多くの数にのぼり、村田春海や橘千蔭らの江戸派はやや異なった傾向を示すが、多くは真淵の万葉主義を継承して、近世和歌史に万葉歌風の復古の風潮を顕著ならしめたのであった。『歌意考』は、そのような真淵の基本的見解の集約にほかならないのである。

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 うたのこころのうち  
 〕上代の歌の価値と復古の要 
  語釈   本文   訳
○標題「うたのこころのうち」
真淵の歌論は『歌意考』のほかに『新学』や『国歌論臆説』等数多く書かれていて、それらも「歌意(うたのこころ)」すなわち和歌の本義を説いたものといえる。「うたのこころのうち」という内題は、『歌意考』が「歌意」についての論に属することを示す。真淵は、彼の思想と学問の体系を「文意」「歌意」「国意」「語意」「書意」の五の論に分けて示している。
直くなん有りける
『新学』頭注に「直きといふ中に、邪に向ふと、思ふ心の強く雄々しきと、心に思ふ事をかくさずいふとの三つあり。そは事に従ひてみるべし。その中に、古人は思ふ事ひがわざにてもかくさず歌によめり。この直きにぞ歌はあはれとおぼゆる事有るなり」とある。
心しひたぶる
『新学』に「天の下には事多かれど心と言の外なし」と述べており、「心」「言」「事」とを密接な関係でとらえている。また『語意考』に「これの日出る国はしも、人の心直かれば、事少なく、言葉も従ひて少なし」と述べている。
遠つ神
「吾皇[あがすめらぎ]」の枕詞。
ことさへぐ
「言佐敝ぐ」(ことさへぐ)は「からの崎」「くだらの原」の枕詞。(冠辞考・巻三)であるが、ここは語源的に、詞がわからずうるさい国の意で、軽蔑した言い方をしている。
日の入る国
『語意考』傍注に「天竺をいふ」とあり、インドのこと。
隈出づる風の横しまに渡り
物陰から吹き出てくる風は横に吹き通るので、「よこしまにわたり」のたとえとした序詞的表現。
巷の塵の
右と同様に「乱れゆき」にかかる序詞的表現。
いと末の世
『新学』に拠れば、万葉時代を「上つ代」三代集時代を「中つ代」、それ以後を「下つ代」としているが、その「下つ代」に当るか。
古りぬる跡
ここは上代のことではなく、技巧上の手本になる古歌の意であろう。
塵のすわれる
「鏡」「花」はそれぞれ「心」「詞」のたとえ。
石凝登邊[いしこりとべ]
『日本書紀』神代上第七段一書に「天香山ノ真坂木ヲ堀シテ、上枝ニハ鏡作ノ遠祖天抜戸ガ児石凝戸辺ガ作レル八咫鏡ヲ懸ケ」
五十猛
『日本書紀』神代上第八段一書に五十猛神を素戔鳴尊の子とし、この神が木種を持って天降り、「凡テ大八洲国ノ内ニ播殖シテ青山ニ成サズトイフコト莫シ」としるす。次の一書にも妹の二神と共に「能ク木種ヲ分布ス」とある。
今しも傳はれる
「鏡」「花」は「心」「詞」のたとえであるから、すぐれた「心」「詞」の伝存とは『万葉集』などを主とする古典の伝存をいうか。
塵芥にも馴るれば馴れて
『国意考』に「儒の道こそその国を乱すのみ、ここをさへかくなし侍りぬ」とあって、儒教文化渡来による堕落をたとえている
※この辺りまで、外来の思想・文化の渡来による日本人の精神の堕落を説く。
異なるべき
人間については、生活の風俗習慣や思想の歴史的変化は認めるのであるが、そのような変化は本質的なものでないとし、従って復古も困難ではないと主張するのが真淵の考え方である。
人てふもの
『国意考』に「人ばかりさときはなし。そのさときが良きかと思へば、天が下に一人二人さとくば良き事もあるべきを、人皆さとければ、かたみにそのさときを構ふるにつけて、よりよりによこしまの起れるなり」と説く。
あさなさな
「朝な朝な」で、毎朝の意。下の「ひとしく」と照応して、毎日変わらず、の意となる。
其の形、其の色に
ここも「鏡」「花」は「心」「詞」のたとえであるから、すぐれた心詞を持つ古典の味わい美しさに似たいものだと願って、の意となる。
乞ひつゝ
底本「こひつつ」の「こ」に傍注「思イ」とある。
藪原を過ぎて
詞を「花」にたとえたので、技巧が小うるさく、流麗でない詞づかいを「薮原」にたとえている。
隈無き山の花
素直で純粋な詞や調を理想とするので、それを曇りなく色美しくて清楚な山の花にたとえている。
萬づの言の古に復かへらふをば
荻生徂徠らの古学派儒学の説を指すか、あるいは中国における尚古主義を指すか、明らかでない。
唐國
「から国」はここばかりでなく他の箇所でも中国のことを一般的に言っている場合が多い。

底本「ころ」。脱字とみて改める。
大空の高き
「大空の高き」は、下の「高山の峻しく」「青海原のかしこく」と照応。下の二つは、それぞれ古典の難解さの比喩。「春の月の・・・」「秋の風の・・・」も比喩であるが、上代と現代との時間の隔たりやその間の外来思想の渡来など、古書理解のための障害をたとえている。
本立
草木の根の部分を言うが、ここは本来のわが国の風のたとえ。
花紅葉
「花紅葉」は自然美の代表的なものであるが、真淵は自然はいつまでも変化のないものであることを強調しているので、いつまでもその魅力を失わない上代の歌を「花紅葉」にたとえた。
濃紫
「濃紫(こむらさき)」は「藤原」の枕詞。
山賤の橡
「山賤」は山で働くきこりなどのこと。「橡」はどんぐりで、ここは、そのかさの煮汁で染めた色。紫色の高雅さと対照させて、変な色だとし、後世の歌風をたとえた。
物無く事無く
「物なく事なく」は「物事なく」と同じで、物事は人の心が作り出すものだが、本来人間の心は素直で大自然のままに従い、理智を働かせて人為的に物事を作り出すことはなかった、という考えを述べているのであろう。人為をくわえようとする理智は不要なので「いたづらなる心」と言ったのである。
天地に適ひて
『国意考』に「この国はもとより人の直き国にて、少しの教へをもよく守り侍るに、はた天地のまにまに行ふこと故に教へずして宜しきなり」と説いているのと同旨。
※ここまで古歌を学び、それに習って試作しての復古の実践を説く。

 あはれ、あはれ、上つ代には、人の心ひたぶるに直くなん有りける心しひたぶるなれば、爲す業わざも少なく、事し少なければ、云ふ言の葉もさはならざりけり。然か有りて、心に思ふ事ある時は、ことに擧げて歌ふ、こを歌と云ふめり。斯く歌ふも、ひたぶるに一つ心に歌ひ、言葉も直き常の言葉もて續くれば、續くとも思はで續き、とゝのふとも無くて、ととのはりけり。斯くしつゝ、歌はたゞ一つ心を云ひ出づる物にし有りければ、古は、ことと詠むてふ人も、詠まぬてふ人さへ有らざりき。遠つ神、吾がすめらぎの、おほみつぎつぎ限り無く、千五百代を知ろしをす餘りには、ことさへぐ唐、日の入る國人の、心詞しも、こき交ぜに來交はりつゝ、物さはにのみ成りもて行ければ、こゝに直かりつる人の心も、隈出づる風の横しまに渡り、云ふ言の葉も、巷の塵の亂れ行きて、數知らず、くさぐさになん成りにたる。故、いと末の世と成りにては、歌の心言葉も、常の心言葉しも、異なる物と成りて、歌とし云へば、然かるべき心を曲げ、言葉を求め取り、古りぬる跡を追ひて、我が心を心ともせず詠むなりけり。其れはた塵のすわれる鏡の影の曇らぬ無く、芥に交れる花のしべの、けがしからぬ有らざるが如、さしも曇り穢れにし後の人の心もて、とめ撰びて、云ひ續けしが、汚からじやは。然からば打泣きて止みぬべきにやと云ふに、然かは有らず。抑も石凝登邊[いしこりとべ]の作れる鏡の形も、五十猛の尊の生せし木の花も、今しも傳はれるをば、忘らえ置き、塵芥にも馴るれば馴れて、穢しとも知らず有りつゝ、思ひ起す心の無きになん有りける。











 いでや天地の變らふこと無きまにまに、鳥も獣も草も木も、古の如ごとならぬし無きを思へば、人の限りしもなぞや古今と
異なるべき人てふものは、うたてさかしら心もて、かたみに爭ふ程に、おのづから横しまに習ひ來て、世の中も移ろふめり。そを一度惡ろしと思はん人、何ぞやよき方に移ろひ返らざらん。然か心を起して、古の八咫鏡にあさなさな向ひ、陰高き千もとの花に、ひとしく交りつゝ、其の形、其の色に似てしがもと乞ひつゝ、歌をも文をも取り成して見よ。もとの身の、昔人に同じき人にし有るからは、然か習ふ程に、心は磨ぎ出でたる鏡如なし、詞は藪原を過ぎて隈無き山の花とこそ成りなめ。萬づの言の古に復かへらふをば、主變り行く唐國にしも愛づるてふを、同じ天つ日嗣知ろしをす此の御國にして、み盛りなりしすめ大御祖のすめろぎの定めましゝ、天雲の高き御世振に復らで、山川の下れる時をのみ守るべきや。歌は其の時の姿に由りて詠む事ぞなど云ふ者は、私のの甚しきにぞ有りける。斯くしも下ちぬと云へど、畏き吾が遠つ御神の國の手振は猶も著くて、古を慕のぶる人も、はた少なからず。されども大空の高き世の文を見るに、高山の峻しく道も絶え、青海原のかしこくしておくがも知らず、春の月の中空の霞に隔て、秋の風のよその木の葉も吹き交へつらんと覺ゆる事あり。下れる世人は、其の霞に迷ひて有らぬ方に至り、或るは言さへぐ外の國の風に誘はれて、本立を忘るゝ類ひぞ多なる。こゝに古の歌こそ、千年のさいつ人の詠めりける心詞も、月日と共にまたく變らで、花紅葉如す、昔今同じき物はあめれ。濃紫名高く聞えたる藤原、寧樂などの宮振に心を遣りて、山賤の橡、怪しの色を忘れつゝ、年月に我も詠む程こそ有れ、おのづから我が心肝に染み通りなん。然さる時ぞ古人の心直く、詞雅びかに、いさゝかなる汚らはしき塵も居ず、高くはた雄々しき心習ひも思ひ取りぬべし。斯くて後に、萬づの古き文どもをも見んに、終には深き山を越えて里に出で、遠き海を渡りて國に至らんが如く、世の中てふ物は、物無く事無く、徒らなる心をも悟らへ、設けず、作らず、誣ひず、教へず、天地に適ひて、まつりごちませし古の安國の、安らけき上つ大道の、神の御代をも知り明らめてん物は、古人の歌なるかも、己が詠む歌なるかも。


 















 ああほんとうに、上代においては、人の心が率直であり純粋であった。心が率直だから行動も単純だし、行動が単純だから言語表現も複雑でなかった。そして、心の中に何か感動が生じると、それをことばに表わしてうたう。これを「うた」と呼んだようだ。このように、うたう時には率直に感動の集中した状態でうたったし、その感動を表現する言葉も飾り気のない日常語で表わしたので、そのような「うた」は、おのずから文脈が整っており、またしぜんとリズミカルでもあった。こうして、上代の歌はもっぱら感動によって集中した心を言語に表現するだけのものだったから、上代においては、別に歌人と非歌人との世間的な区別だってなかったのである。それが、尊い皇統が無限に伝わっていって、長く国をお治めになるご治世の末の時代になると、唐や天竺の思想・言語がいりまじってわが国に渡来して、わが国の思想・言語とまじりあい、まったく混乱した複雑な状態になっていったので、そうなると純直だった日本人の心も邪悪になり、日本語も乱雑になって、処理できないような複雑多端な状態になってしまった。そして、最末世に至っては、歌の心・詞も日常の心・詞とは異質なものとなり、歌というと、普通の素直な心をわざとひねくった複雑な内容にして、そのひねくった内容を表わすための特別なことばを選び用い、そのような技巧的な歌の詠まれていた昔のまねをして、自分の気持ちをそのまま歌の心とすることもなく詠むようになったのである。時代が下ると思想・言語が清純でなくなったが、このような歌もまた、塵の付着した鏡に映るものの姿がどれも明らかでなく、ごみの中に混じっている花のしべがどれもよごれていないのはないように、ひどく曇りけがれてしまった後世の人の心によって言葉を選び求めて詠んだものがきたなくないはずはないのである。それでは、後世における歌の堕落を悲しみつつしかたがないこととして諦めてしまわなければならないかというと、そうではない。そもそも、神代にイシコリトベが作った八咫の鏡のような日本人の純粋な心も、同じく神代にイタケルノミコトが育てた木の花のような清らかな日本語も、現在にまで古典として伝わっているのを忘れたままで、後世の堕落が続くのに馴れて清純さを失った後世の歌のけがらわしきにも気付かず、上代の古典が伝わっているのを思い出すことがないのが今の人の状態なのだ。

 ほんとうに、我々の住むこの天地が昔のままに変化することがないのに伴い、鳥獣草木がみな昔のままに変わらないということを考えるならば、人間だけが何で昔と今と異なるはずがあろうか、本来そんなはずはないのである。人間というものは、いやなことにお互いに利口ぶろうとして争うものだから、自然と邪悪な状態になってき、社会も堕落してきたようだ。そうなってきたのを一度よくないと気付いた人がいたら、何でその人は上代の純直さに帰っていこうとしないことがあろうか。そのように上代に帰ろうという気持ちを起こして、清らかな心・詞の古典に毎日親しみ、その味その美しさに似たいと願いながら自分の歌を詠んだり文を書いたりしてみよ。もともとが、堕落しているとはいっても昔の人と変わりない人間の身であるからには、古典に親しみ模倣しているうちに、必ず心は磨きあげた鏡のように純粋になり、詞は薮原を過ぎて山の花を見るように乱雑さがなくなって清らかになるだろう。すべての事についての復古を、統治者が次々に変わる唐の国でも尊ぶということだのに、一系の天皇がお治めになっているこの日本の国において、皇室のご先祖の天皇が平定していらっしゃった盛んな上古の風に帰ろうとしないで、堕落した後世風ばかりを墨守していていいものだろうか、当然上古の風に帰るべきなのである。和歌は、現代の歌風に従って詠むものなのだなどという者は、甚だしい独断論者である。現代は、上古からするとこのように随分時代が下って堕落してしまったとはいえ、恐れ多いわが上古の皇祖神の時代の風はまだまだはっきり残っていて、そのすぐれた上古の風を慕う人もまた少なくはない。しかしながら上代の書物を読んでみると、遠く隔たった時代のものなので理解する方法が見つからず、また内容が広く深いので十分に真意をとらえることができなくて、霞にさえぎられた春の月を見るようにそのすぐれた内容をはっきり知り得なかったり、あるいは秋の風が離れた場所の木の葉をも吹きまぜて吹くように外来思想も混入しているらしいと思われたりすることがある。そこで後世の堕落した時代の者は、よく理解出来ずに誤解したり、あるいは外国の儒教思想にひかれて本来のわが国の風を忘れたりするようなことが多いのである。そういう中で、上代の歌こそは千年昔の人の詠んだ心・詞も月日の経過のうちにも全く変わることなく、古今を通じて変わらない花や紅葉の自然美のように、昔から今に至るまで同じ感銘を与えるものであるようだ。高く評価されている藤原朝・奈良朝時代の歌風に注目して、賤しい後世の歌風を忘れるようにしながら、年月の過ぎる間自分でも作歌につとめているうちには、きっと自然と上代の歌風が自分の心の奥底にまでしみつくであろう。その時には、上代人の歌の心が純で詞が雅であることを悟り、ほんの少しの穢れもなく高邁で男性的な上代人の精神も真に理解できるに違いない。そうなってから後で、さまざまの上代の書物類を読むならば、途中で迷ってもおしまいには深い山を越えて里に出るように、また遠い海を渡りきって目的の国に着くように、この人の生きている世界というものは、本来事物が人為的に存在するものでないこと、人為を加えようとする考え方は何もならないことを悟るようになり、作為や強制をすることなく、ありのままのこの世界の理法に従って神がお治めになった昔の心安らかなすぐれたあるべき生活の有様をもはっきり知るようになるが、そうさせるのが、上代の人の歌であることだ。そしてそれに習って詠む自分の歌であることだ。




 







   
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 〕万葉習学の勧め 
  語釈   本文   訳
(かぐ山を)
この詞書は真淵が添えたもので、『万葉集』にはない。以下「題しらず」「ものがたり」を除き同様。
「古の事は...」
万葉巻七・1096。六帖二にも入る。
「旅人の...」
万葉巻九・1791。
「長らふる...」
万葉巻一・59。この歌、諸注解を異にするが、真淵の『万葉考』の解により口語訳した。他の万葉歌も『万葉考』に拠る。作者誉謝女王。『万葉集』には題詞左注とも伊勢行幸云々の記録がなく、その点は真淵の推定。
「丈夫[ますらを]と...」
万葉巻六・968。真淵は「水ぐさ」地名説をとっている。作者大伴旅人。
「下にのみ...」
古今巻十一・496。よみ人しらず、及び六帖五に初・二句「人知れず思へば苦し」としてはいる。
「在る時は...」
六帖五。
「名ぐはしき...」
万葉巻三・303。作者柿本人麿。次の作者も同じ。
「あはぢの...」
万葉巻三・251。
いと
底本「いと」に傍注「猶イ」。
手習ふとて
真淵は、宝永四(1707)年十一歳で浜松の諏訪神社大祝である国学者杉浦国頭に入門、手習いを始めている。国頭の妻真崎は荷田春満の義弟信元の娘で春満の養女であった。
歌ども
杉浦国頭は春満の門人で、春満が為家以降の優美な中世的歌風であったのをうけ継いでいる。ここにいう「歌ども」もそのような歌風の作品であろう。
古に復り
『論語』の「為政篇」や『中庸』の「温故知新」の教えを指しての語か。それならば「賢き人」は孔子(中村幸彦説)
身まかり給ひて
父政信は享保十七(1732)年真淵三十六歳の時、死去。実母は延享二(1745)年真淵四十九歳の時、死去。
おのづから古こそと
真淵が田安宗武に『国歌八論余言拾遺』(のちに改稿して『国歌臆説』)を奉ったのが延享元年四十八歳で、同三年から田安家の和学御用を命ぜられた。同四年には『文意考』『冠辞解』が成っているが、この時期から彼の復古主義が次第に明確になってきている。この転回には、荷田在満の『国歌八論』をめぐる論争に参加したことが直接の契機となったようである。
遠く惡ろき道
真淵の比較的若い頃に書かれた」ものは、いずれも『古今集』を最も重んじ、藤原定家については「定家卿は父卿にもまされり。この卿の書残せしことは卿もあだなることなく、今日に至りて歌作り習ふ人は、大空の月の如く仰ぎ貴み侍るもうべなるかな」(古風小言)と述べたりしている(ただしその作品は評価していない)。四十代の終りころからようやく復古主義万葉尊重の立場を明確にした。
今ぞ迷はし神
『今昔物語』巻二十七・第四十二話に「迷神[まどはしがみ]」につかれて道に迷った話しがあり、『宇治拾遺物語』巻十三にも同話がある。
※ここまで、自分の復古主義上代尊重の立場を確立するに至る体験を、若年時代の父母のことばへの回想を主として述べる。
大和魂[ヤマトダマシヒ]
「漢才[からのざえ]」に対する語で、生来の生活の知恵をいうが、ここは日本固有の率直で純粋な心。
千代の古道[ふるみち]
上代からいつまでも変わることのない世界や人間のあり方。
本繁き山口を押分けて
木の根の張っていて歩きにくい麓の道。
行きさぐゝみ
苦労しながら踏み入り進んで。
心の雲霧もはるけく
学ぶ途中で、わからなくなったり迷ったりしたような気持ちも払いのけることができて。
躍り上(が)り、飛び上(が)り
「躍りあがり飛びあがり」の略。
あやしきわざしも
雲や風に乗ることができる、不思議な仙人の使う術。学問が進歩して得意になり、何でもわかるような気がしている状態のたとえ。
雲に飛ばんも、下らずやは有らん
大変得意になっていたことに対し反省が生じてきた状態のたとえ
怪しのわざやてふ心の出で來ぬ
前の「あやしきわざ」と照応して、不思議な仙術などを疑い、前述の気分を異常なこととして疑う気持ちになった状態。誤った学問に大きな自信を持っていたことを反省し始める状態のたとえ。
麓へ歸り下りたる心
誤った学問をして進歩したと思っていたり、何でもわかるように思い込んだりすることのない、正しい学問を着実に研究する心構えができたことのたとえ。
皇神[すめがみ]の道の、一つの筋
天照大神以来の皇室を万世一系であるとし、その皇室を中心として、神代以来大自然の理法のままに従って素直に生きるという生き方が現代にまで一貫している、とする、それが「一の筋」である。
言噪[ことさへ]ぐ
「そもそも、かしこにもいと上つ代には何の事か有りし。その後に人の作りし事どもなれば、ここにも作り侍るべきことと思ふにや。人の心もて作れることは違ふこと多きぞかし。(中略)老子てふ人の、天地のまにまにといはれしことこそ、天が下の道には叶ひ侍るめれ。そを見るに、かしこもただいにしへは直かりけり」(国意考)
※ここまで古学の習学にあたっての心得を説く。
 己れいと若かりける時、母刀自の前に古き人の書ける物どもの有るが中に(かぐ山を)古の事は知らぬを我れ見ても久しく成りぬあめの香具山」、(子のもろこしへ行くを其の母)「旅人の宿りせん野に霜降らば吾子はぐくめあまの鶴群[つるむら]」、(つまの伊勢のみゆきの大御供なるを)「長らふるつま吹く風の寒き夜に我が背の君は獨りか寢らん」、(筑紫より上る時女に別るとて)「丈夫[ますらを]と思へる我れや水ぐきの水城[みづき]のうへに涙のごはん」、(題知らず)「下にのみ戀ふれば苦し紅の末摘花の色に出でぬべし」、(ものがたり)「在る時は有りのすさみに語らはで戀しきものと別れてぞ知る」、(たび)「名ぐはしきいなみの海の沖つ波千重に隱りぬやまと島根は」、「あはぢのぬしまが崎の濱風に妹が結びし紐吹き返す」などいと多かり。こを打詠むに、刀自の述の給へらく、近頃そこたちの手習ふとて云ひ合へる歌どもは、我がえ詠まぬ愚かさには、何ぞの心なるらんも分かぬに、此の古なるは、さこそとは知られて、心にも沁み、唱ふるにも安らけく、雅びかに聞ゆるは、如何なるべき事とか聞きつやと。己れも此の問はするに付けては、げにと思はずしも有らねど、下れる世ながら、名高き人達のひねり出だし給へるなるからは、然る由こそ有らめと思ひて、默だし居る程に、父の差し覗きて、誰も然こそ思へ、いで物習ふ人は、古に復りつゝまねぶぞと、賢き人達も教へ置かれつれなどぞ有りし。俄かに心行くとしも有らねど、承りぬとて去りにき。とても斯くても、其の道に入り給はざりけるけにや有らんなど覺えて過ぎにたれど、さすがに親の言なれば、況して身まかり給ひては、文見歌詠む毎に思ひ出でられて、古き萬づの書[ふみ]の心を、人にも問ひ、おぢなき心にも心を遣りて見るに、おのづから古こそと眞に思ひ成りつゝ、年月に然る方になん入り立ちたれ。然か有りて思へば、先に立ちたる賢しら人にあともはれて、遠く惡ろき道に惑ひつるかな、知らぬどちも、心靜かに覓め行かば、なかなかに善き道にも行きなまし。歌詠まぬ人こそ、直き古歌[いにしへうた]と、苦しげなる後のをしも、區別[わいだめ]ぬるものなれと、今ぞ迷はし神の離れたらん心地しける。

 


 物の始め惡ろく入り立ちにしこそ苦しけれ。萬づ横しまにも習へば、心と成るものにて、本の
大和魂[ヤマトダマシヒ]を失へりければ、偶善き筋の事は聞けども、直く清き千代の古道[ふるみち]には、行き立ち難がてになん有る。こを譬へば、高き山に登るが如し。本繁き山口を押分けて、木の根巖[いは]が根い行きさぐゝみ、汗もしとゞに、息も喘ぎつゝ、辛くして峰に到りぬ。斯く到りてば、仰ぎて向ひてし山々をも見下みくだし行きて、見ぬ國の奧所[おくが]も見明らめられつゝ、今こそ心の雲霧もはるけく、世に廣く暗からざめりと覺ゆ。さてしも有らぬは人の心にて、いでや雲風にもなどか乘らざらんと思ひ進まるれば躍り上り、飛び上り習はすに、あやしきわざしも習はゞ、習ひつと覺えて、二無く誇らしく、獨笑まひをしつゝ經るなりけり。然か有る程に、ある時、ゆくりなく雲に飛ばんも、下らずやは有らん。風に乘らんも、行方こそ極み有[あ]なれ。怪しのわざやてふ心の出で來ぬれば、いつと無く其の高嶺をも下りまがりて、本の麓に歸りぬめり。然[さ]て靜心に成りては、怪しき心ずさみにも有りつるかなと思ひ成れゝば、萬づ夢の覺めたらん曉の如ぞ覺えける。此の時に至りて、また古き書を見、歌をも唱へ試みれば、彼の怪しくすゝめる亂りわざは無くて、唯此の麓へ歸り下りたる心にぞ有りける。然かしてこそ古人の心は、善く貴かりける物と思ひ知らえぬれ。斯くて掛けまくも畏き吾が皇神[すめがみ]の道の、一つの筋を崇たふとむに付けて、千五百代[ちいほよ]も安らに治れる、古の心をも、心に深く得つべし。次いでには、言噪[ことさへ]ぐ國々の、上つ代のさまを善く知れる人に向ふにも、直き筋の違はぬも多かりけり。然かは有れど、斯くする程に、殘りの齡無く成り行くこそあやなけれ。如何で若き時より、自から心肝[こゝろぎも]を定めて、唯古き書、古き歌を唱へて、我も然る方に詠みも書きもせよ。身もいたづかで習ひ得つべし、思ひ得つべし。
 わたくしがまだごく若かった頃、母君の前に古人の書いた書物類が置かれていた中に、
(かぐ山を)「大昔のことは知らないが、わたしが見てからでも久しくなったこの天の香具山よ」
(子が唐の国へ行くことを、その母が気遣って)「旅人が仮寝する野に霜が降ったら、わが子を羽でかばっておくれ、空の鶴の群よ」
(夫が天皇の伊勢行幸のお伴をしているのを思って)「長い寝衣[しんい]の端を吹く風の寒い夜に、夫は一人で寝ているのだろうか」
(筑紫から上京する時、女に別れるというので)「ますらおと思っているわたしが水城の上で涙を拭くことか」
(題不明)「心の中でだけ恋い慕っていると苦しい。うちあけてしまおう」
(物語)「共に過ごしている時にはそれに慣れて十分に愛し合わないで、恋しいという気持ちを別れてから知ったことだ」
(旅)「名の美しい稲見の沖までこぎ出てくると、はるかに立ちわたる波に隠れてしまって見えないことだ、やまとは」「淡路の野島が崎の浜風に、妻が結んでくれた旅衣の赤紐をいたずらに吹き返させている」
などの歌が、たくさん書かれていた。それを読んでいると、母君がおっしゃることには、「このごろあなたたちが作歌の稽古をするというのでみなさんで口ずさんでいる歌の類は、作歌を知らない無教養な私の愚かさからすると、どういう気持ちを歌ったのかということも理解出来ないのに、ここに書かれている上代の歌は、なるほどと解って感銘も受け、声に出して言ってみても声調がすっきりしていて美しく聞こえるのですが、これはどういうわけのことだと思いますか」ということであった。自分も母君がこのようにお尋ねになるにつけては、ほんとうに母君の感じられる通りだと思わなくはなかったが、しかし自分たちの手本にしている歌は、後世の人とはいえ、有名な歌人が技巧をこらしてお作りになったものであるからには、よく理解出来ても、それを手本にするしかるべき理由があるのだろうと考えて黙っているところへ、父が顔を出して、「だれだって母のように思うのだ。一体何かを学ぶ者は古代に帰るようにするのを方針として学ぶということを、昔の賢人たちも教えのこされているぞ」などとおことばがあった。そう言われても急に納得がいったわけではなかったが、その場は「わかりました」とお答えしておわった。その後、父母はあのようにおっしゃるが、あれはいずれにしても父母が歌の道におはいりになっておられないからではなかろうかなどと思われて、年月を過ごしてしまったが、やはり親のことばであるし、まして父母がお亡くなりになってから後は、本を読んだり歌を作ったりするごとに父母のことばが思い出されて、それから種々の古書の内容を人に尋ね聞いたりまた愚かな自分の理解力によったりして注意して上代の書物の内容を読んでいるうちに、上代こそ真に手本として学ぶべき時代だと自然と心から思うようになって、長い間に復古主義の立場に立つようになっていった。そうなってから考えると、先輩の理智に頼って利口ぶる人に引っ張られて、長い間まちがった修行の仕方をして迷ってきたことであるよ。無智な人たちでも、迷わずに道を求めて行くならば、かえって正しい道にも行けるだろう。父母がそうであったが、歌を詠まない人は虚心なので、素直な上代の歌と窮屈そうに技巧をこらした後世の歌の違いをちゃんと区別したが、なまじ歌道にはいっていたために迷ったのだと、復古の正しさを悟った今になって、迷わし神が自分の身から離れたような気持ちがしたのであった。

 何かを学ぼうとする時、初めによくない学び方で始めてしまったのは甚だ困るものだ。万事につけ正しくない習い方をするから、それが本性となるものであって、そうなると本来持っていた日本人固有の精神を失っているから、たまに正しいあり方を耳にするのだが、それに従って素直で清純な上代の世界にはいって行くことが困難なのである。以上のことはたとえてみると高い山に登るおりのようなものである。木の生い茂る麓の道を強いて進み、木の根や岩に苦労しながら登って、汗びっしょりで息もあえぎながら、ようやく頂上に着く。こうして登り得てみると、今は、途中で仰ぎ見た山々も見おろし、行ってみない奥の方の土地もはっきり眺めることができて、その時には途中の迷いも払いのけ、自分はこの世界の事を広く明らかに知っているように感じる。このようなものだ。しかし、そこで終らないのが人間の心というものであって、さあここまで来られたのだから何で雲や風にも乗れないことがあろうかという気になってくるから、我が身を躍りあがったり飛びあがったりするようにさせていると、仙人の術でさえも習おうとすれば身につくように感じられ、この上もなく得意になり一人笑いをして過ごすのである。ところが、そうしているうちにある時ふと、雲に乗って飛んだとしても必ず地上におりる、風に乗って走ったとしてもどこまで行けるか限界がある、自分のやっていることは異常なことだという気持ちが生じるから、いつともなく登っていた高い頂上から元へ戻ってきて麓に帰ってしまうもののようである。そして落ち着いた気持ちになって、異常な心の勢いだったなあと思うようになってみると、すべてが夢のさめた明け方のような感じになる。この段階に至ってから再び古書を読み歌も口ずさむようにしてみると、あの山の頂上にいるような気分で異常に誤った学問の方へ突き進んでいくことはなく、ただ頂上から麓へ帰りおりたごとき、落ち着いた気持ちになっている。そうなったおりにこそ、古人の心は正しく尊いものと思い知ることができるのである。このようにして、恐れ多いわが皇祖神天照大神以来の一筋の道を尊祟するにつけ、長く世を安定させる上代の精神をも心得ることが十分にできよう。その上では、唐の国の諸国の上代をよく知っている人と話し合ってみると、上代精神の純直さは日本と同様な点が多いことであるよ。そういうわけであるが、以上のような体験をしているうちに余命が少なくなっていくのは、どうにもしかたがないことだ。何とか若い時分からしっかり覚悟を思いきめ、ひたすら古い文や上代の歌を口誦して、自分の文や歌の創作もその上代の歌文に習いつつ学習せよ。そうすれば、わが身を労せずに、上代の歌文を学び得るはずだし、また上代精神を悟ることができるにちがいないのである。
 
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 〕万葉と古今との学び方 
  語釈   本文   訳
橘の諸兄のおほまうちぎみ
天武天皇十三(684)年~天平宝字元(757)年美努王の子で臣籍に下り、右大臣を経て正一位左大臣に昇る。晩年は藤原仲麻呂に圧せられて勢力を失った。
撰び給ひけん
『万葉集』の撰者を橘諸兄とする説は、『栄華物語』の「月の宴」を初めとして平安時代末期以降かなり有力であったが(ただし、諸兄を中心とする複数の撰者を想定している場合も多い)、契沖は、橘諸兄説を否定して大伴家持説を主張した。真淵は、以下の文に述べているように、巻第一・二及び巻十一から十四に至る計六巻が橘諸兄撰の『万葉集』であるとし、その巻序を巻第一・二・十三・十一・十二・十四とするのが本来の形であると考えている。
宮ぶり
「国ぶり」の対照語。『詩経』における「国風」と「雅」を意識しているのだろう。下に「大宮風」とも言い替えているように、宮廷を中心とした都風の意。
古歌集
『万葉集』の巻第二・七・九・十・十一の左注にその名が出てくるが、ここの文意は、巻第十一・十二・十三の三巻を「古歌集」と称する例があるということになるので、それとは異なるか。『万葉考』「別記」に「今の十一・十二の巻に在る人麻呂歌集、古歌集の歌など云ふは、後に加へしものなり」とある。
十三と有るこそ
『万葉考』「巻三之考序」に、巻第十三について「この巻は、その歌よめらんよし(作歌事情)もよめるぬし(作者)もしらで伝はれる長歌どもなり。そが中に古きをいはば、記に出でし遠つ飛鳥の宮の前の日つぎのみこ(允恭記、軽皇太子)の御歌ぞある。次に歌ぬししらべねど必ず古き代の歌と聞ゆるあり。しか古へゆ奈良の宮の初めつ比までのうたなん載せたる」とある。
歌は人の心を述ぶるもの
『詩経』(毛詩)「序」に「詩ハ志ノ之ク所也。心ニ在ルヲ志ト為シ、言ニ発スルヲ詩ト為ス」とあるのに拠るか。
食國人の心をも知らする物なれば
詩歌には人民の真情があらわれるので、為政者は詩歌をよく知って得失を正すべきであるという考えは、『毛詩』序に説かれて以来、詩論・歌論ともにこの説がくり返し説かれ続けている。
東歌は
『万葉集』に巻第十四は「東歌」と題するが、巻第二十は「防人歌」と題している。○大伴の家持ぬしの取り集めし物
ここでは、大伴家持の編集した歌集の意で、下の「山上憶良の集」も同じ。真淵は、巻第一・二・十三・十一・十二・十四が『万葉集』で、他は憶良や家持その他の編であり、のちに二十巻全部を『万葉集』と称するようになった、とする。
本末
「本」は上の句(五・七・五)、「末」は下の句(七・七)。
詞の滯らず
声調に渋滞感がないこと。
理[ことはり]明らけく
意味内容がはっきりしていて、わかりやすいこと。
雅びて優しと
真淵は『国意考』に「風雅てふは、世の中のこと物の理りにつのれば、人の乱るるを、理りの上にて理りにかかはらず、天地のよろづの物に文[かざり]をなすがごとく、おのづから心を治め慰ましむるものぞかし」と説いており、真淵のいう「みやび」はこの「風雅」と同意か。
四千まり三百ばかりの歌
数え方で異なるが、総数は四千五百首前後○鎌倉の大まうち君
『新学』に「鎌倉の大まうち君の歌は、今の京このかたの一人なり。その体古へにかなひたれば、たまたま古今歌集の言を交へ用ゐ給ひしすら似つかず聞ゆるにつけて、本の心も調も勝れて高き事しられたり」とある。
※ここまで『万葉集』の編集事情の推定と、それにもとづく習学上の選択の必要を説く。
女の歌とすべし
『新学』には「大和国は丈夫の国にして、古へはをみなもますらをに習へり。故、万葉集の歌はおよそ丈夫の手ぶりなり。山背の国はたをやめ国にして、丈夫もたをやめにならひぬ。かれ、古今歌集の歌は専ら手弱女の姿なり」とあって、万葉時代の都のあった大和と古今時代の都のおかれた山城との風土性を、歌風の差異に結び付けている。
女は、たゞ古今歌集にて
『新学』に「このやまとだましひは女も何か劣れるや。ましてもののふといはるる者の妻、常に忘るまじきことなり。皇朝の古へよろづに母を本として貴とめり。児をひたす(育てる)より始めて、その功父にまされればなり。しかありて、平らけき時にはにぎびて(柔和に振舞って)事をとるを専らとすべく、天地の母父の成しのまにまに女は姿の荒びぬものにしあれば、言ひ出づることばも和びたる事などかなからむ。さはあれど、後の世にはすべてぬえぐさのしなひうらぶるをわざの如思ひ誤り、それが上も所狭くならはするままに、はてはくねぐねしくさへ成り行きぬるは、本のやまとだましひを我も忘れ行きしなり。今万葉集をまなびてその心を知り、古今歌集をかねてその姿を得ば、誰かいしくなき(及ばない)ものとせむ」とあって、女も万葉集の「やまとだましひ」を失うべきでないことを強調している。
※以上、女性の場合は、条件付で『古今集』を学ぶことを認めている。
唐國人も然か云へりき
『滄浪詩話』「詩弁」の説を指すか(宇佐美喜三八説)。
明和の初めつかた
明和元(1746)年、真淵六十八歳の完成と推定されるが、草稿はそれ以前に成ったらしい。『新学』は翌年の執筆である。出版は寛政十二(1800)年で真淵の没後であった。
 萬葉集は今二十卷[はたまき]有めれど、彼の橘の諸兄のおほまうちぎみ撰び給ひけんは、たゞ一つの卷、二つの卷こそさだかにそれと見ゆれ。それはた字の違ひ、訓みの誤れるなん多き。また十まり一つ、二つ、三つ、四つの卷も、右に次ぎて、撰び給へるにやと思しき事あり。何ぞと云はゞ一の卷、二の卷は、凡そ詠み人知られて、且つ宮ぶりなり。十一、十二、十三は、皆詠める人知らえぬ古き歌の、はた都の人なり。是れを古歌集とも云へる事あれば、他人[ことびと]の集めつらんとも思へど、猶一つ二つの卷の、詠み人知らえしのみを撰むべくも有らずと思ふ事あり。さらば十三と有るこそ、いと古き歌にて、古の雅びごと著しるく、はた長き歌多ければ、此れを三の卷とし、十一、十二を四五とし、さて十四は東歌にて、多くの國ぶりなり。唐國の古の歌にも國ぶりを集めしにも由り、固よりも歌は人の心を述ぶるものにて、其れに付けて、いとやんごとなき邊りに、食國人[をすくにびと]の心をも知らする物なれば、なぞや大宮風[おほみやぶり]のみを云はん。斯かるからに、東歌をも、末に付けて撰びつべし。今の二十の卷なる東歌は大伴の家持ぬしの取り集めし物、この十四の卷なるは、それより古き東歌にて、必ず上に續きて撰び添へられし物と見ゆ。また三の卷よりは、多くは家持ぬしの歌集[うたつめ]なり。五は山上憶良の集、七と十とは、事のさま等しくて、また誰その人の家に書き集つめし物、斯くさまざまなれば、善く撰び調へたる卷は少なし。由りて戲[たはれ]たるも、はたよく本末の調ほらぬも、また本は宜ろしくて末の詞の惡ろきも有り。然かれば今かたとして取らんには、更に撰びて取るべし。其の撰びはた難ければ、誰かは是れに當らん。唯詞の滯らず理[ことはり]明らけく雅びて優しと覺ゆる心言葉なるを取るべし。少しも聞きにくゝ苦しげなるをば、先づは惡しと思ひたれ。四千[よちゝ]まり三百[みもゝ]ばかりの歌なるが中に、其のなだらかなるをのみ取らんも少なからぬなり。此の事を善く心得ずて、二十卷共に皆同じと思ひ、萬葉風[まんえふぶり]とて、後にかなはずなど云ふなり。右の如く心得て、然かも調ひたる姿心をよく取りたるは、鎌倉の大まうち君なり。其の中にも、始と中と末と見ゆ。末によく取り得られたるをもて思ひ合すべし。





 されど女の歌には心すべし。古今歌集の中に、詠み人知らずてふ歌こそ、萬葉に續きたる奈良人より、今の京の始までの有り。此れを彼の延喜の頃の歌と、善く唱へ比べ見るに、彼れは事廣く、心雅びかに豐けくして、萬葉に繼げる物の、然かもなだらかに匂ひやかなれば、眞に
女の歌とすべし。古は丈夫は、猛く雄々しきを旨とすれば、歌も然かり。さるを古今歌集の頃となりては、男も女ぶりに詠みしかば、男女[をとこをみな]の分ち無くなりぬ。然らば女は、たゞ古今歌集にて足りなんと云ふべけれど、其そは今少し下ち行きたる世にて、人の心に巧み多く、言に誠は失せて、歌を作爲[わざ]としたれば、自[おのづ]から宜しからず、心にむつかしき事あり、古人の直くして心高く雅びたるを、萬葉に得て、後に古今歌集へ下りて學まねぶべし。此の理を忘れて、代々の人、古今歌集を事の本として學ぶからに、一人として古今歌集に似たる歌詠み得し人も聞えず。はた其の古今歌集の心をも、深く悟れる人無し。物は末より上[かみ]を見れば、雲霞隔たりて明らかならず。其の上へ昇らん階[はし]をだに得ば、いち早く高く昇りて、上を明らめて後に末を見よ。既に云ひし如く、高山[たかやま]より世間[よのなか]を見わたさん如く一目に見ゆべし。物の心も、下なる人、上なる人の心は計り難く、上なる人、下の人の心は計り易きが如し。由りて學びは、上より下すをよしとする事、唐國人も然か云へりき

 
明和の初めつかた、賀茂の眞淵が老の筆に任せて書けるなり。






 











 万葉集は現在二十巻あるようだが、あの橘諸兄の大臣が撰をなさったというのは、ただ第一巻と第二巻だけが確かにそうだと認められる。その二巻もまた誤写・誤訓が多い。また、第十一・十二・十三・十四の各巻も右に続いてお編みになったかと思われる点がある。それは何かというと、第一・二巻は大体作者がわかり且つ宮廷風である。第十一・十二・十三巻はみな作者不詳の古歌で且都の人の作である。これを集中に「古歌集」と称している箇所があるから、別人の撰だろうと思えるが、しかしやはり第一・二巻のような作者のわかる作だけで集を編むはずはないとみられる。そこで、第十三巻というのは、大層古い時期の歌で都風という性格が濃く且長歌が多いから、これを第三巻におき、第十一・十二巻を第四・五巻として、さて、第十四巻は東歌で多くの国々における地方風の作品である。唐の国の上代の『詩経』にも「国風」を集めてあるのとも同様になるし、本来歌は人の心の動きを外に表わすもので、その歌に託して、至って尊いお方に治世下の国民の気持ちを知らせるものだから、何で宮廷風の作ばかりを問題にしよう。こういうわけで、きっと東歌も以上の五巻の末尾に付けて撰したであろう。今伝わる万葉集の第二十巻にある東歌は大伴家持主が収集したもの。問題にしているこの第十四巻の東歌はそれより古い時代の東歌であって、必ず第一・二・十三・十一・十二の各巻に続いて第十四巻を添えてまとめたものと考える。また第三巻からあとは多くは家持主編の歌集である。第五巻は山上憶良編の歌集である。第七巻と第十巻は巷の編集のしかたが同じで、これもまただれか不明の人の家でまとめたもの。このように巻によって編集した人がいろいろ異なるから、十分に精撰してある巻は少ない。そのために淫情を歌ったものも、また一首の調子がまとまっていないものも、上の句の表現がまずいものなどもある。だから、いま手本として撰ぶとすれば、全部ではなく更に歌を選んで模範とすべきである。その選択もまたむずかしいので、だれだってたやすくできはしない。ただ声調が渋滞せず、意味内容がはっきりわかり、優雅だと思われる心詞の歌を選ぶのがよい。少しでも耳障りで調子の窮屈な歌はまず良くないと思うのである。万葉集四千三百首ほどの歌がある中で、そのように声調のなだらかな作のみを選んだとしてもその数は多い。こういうことを十分に知らないで、二十巻ともみな同様と考え、ひっくるめて万葉風として扱って後世には不適当だなどと言うのである。右のように心得て、その上で整っている声調と内容の歌を実朝公の万葉集への選びとり方にも初・中・末の三つの時期があるが、終りの時期に正しく選んで学ばれたのを参考として学ぶべきである。

 以上のようなわけだが、女性の作歌の場合には注意すべきである。古今集の中で、「よみ人知らず」とされている歌は、万葉集所収の歌に続いている奈良朝期の歌人の作以降平安朝期の初頭までの時期の歌を含んでいる。このよみ人知らず歌を、あの延喜時代の歌と十分に誦し比べてみると、題材の範囲も広く、歌われた心情が風雅豊潤で万葉に続く性格を持っているが、しかも調子がなだらかで余韻が感じられるから、女性の詠む歌の性格として真に適当であろう。上代においては、男子は勇猛で男らしくあることをあり方としていたので、歌も同様男性的に詠まれた。ところが、古今集の時代になってからは、男も女性的な歌風で詠んだので、歌風上の男性的・女性的の区別がなくなってしまった。それなら、女性は古今集だけを学べば足りようといえるわけだが、古今集時代はいささか衰え始めている時期で、人間の心に理智的な働きが多くなり、詞に真実味が失われて技巧によって歌を仕立てていたから、自然とよろしくないところがあり、歌に表われた心情に煩わしさが感じられるのである。そこで、上代人の素直で心情の高雅なところを万葉集の作品によって悟って、後に古今集へ下って学ぶとよい。この道理を忘れて、代々の人が古今集を作歌の本源として学んだために、後世の代々の歌人には、一人として古今集風の歌を詠み得た人の名が知られないのである。また古今集の本旨をも深く悟った歌人がいないのである。何でも物は下から上を見るから霞んだようで全体がよく見えないのだ。上へ登る梯子さえ手に入れば、まず先に高いところへ登って上の方をよく知り、その後に下の方を見よ。前にもたとえたごとく、高い山の頂上から世界を展望するように一目で全体が見えるにちがいない。人間の心も、被治者の人民には上に立つ為政者の心がわかりにくいが、為政者のほうは人民の心を測り知りやすい。こういうわけだから、ものを学ぶには、古い時代から近い時代へと下るようにして学ぶのが良い方法だと、唐の国の人も説いているのである。

  明和の初年、賀茂真淵が老年の筆のままに書いた文である。










 
















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