2013年05月02日

現場で実践する看護研究とWLBの意義

看護研究は学問の世界で言う“研究”と少し異なり、“看護”の文字を冠します。これは看護業界における一つの文化です。敢えて“看護学研究”とも呼ばないところに意味があります。この呼び方の理由に定説があるか知りませんが、私なりの理解は、他でもない看護師が現場で行う研究であるが故に、専門の研究者のそれに比べて日本的な意味での純粋学問より実学的でもあり、水準が落ちるかも、という自己批判的な奥ゆかしさの表れ、と思っています。

看護研究をそれぞれの現場で実践する意味は、要するに学問性の補完ではないかと思います。というのも、日ごろの現場では学問的にどうかという次元では仕事できないからです。ざっくりと言えば、学問的というよりはマニュアルに従って効率的に仕事をするのが現場での正義ではないかと思います。私はこの考えは普段の理にはかなうと思います。患者の急変も医療現場では日常ですから、ここで言う「普段」の理にかなうのです。

これは営利企業の効率性という意味で重要です。日本ではほとんどの医療機関には利潤が必要であり、その意味で事実上の営利企業なのです。しかし問題は医療を取り巻く社会状況が「普段」ではなくなった時です。私はそれが垂水の今だと思っています。マニュアルに従って効率的であり、と同時に他の医療者に対して従順でもある、という普段の看護師像が、今は立ち行かない状況になってしまったのだと思います。看護師も他の医療者と同じ待遇、負担、社会参加等を求める中で、その一つとして学問性も入っているのです。

学問性の回復という意味での看護研究も重要ですが、市民性の回復という意味でのワークライフバランス、WLBもまた看護師にとって重要です。この二つが今の日本の看護師を取り巻く社会状況の中心ではないかと思います。

看護師の世界は日本では数少ない女性中心の社会です。女性社会が他と同等の社会参加を求める意味は、これまでは「女性が男性並みの働きをする」という文脈で考えられてきた節があります。しかしそれは間違っていることがわかってきました。この考え方では女性が重労働化するだけで社会改革は進まず、結果として少子化が進み社会の活力は落ちます。垂水を含め日本の看護師の社会でもこの状況は顕著であり改善を要すると思います。

「女性が男性並みの働きをする」のではなく、これまで日本になかった新しい働き方を男性側を含め全体で開発していく、これが現代日本のWLBの意義だと思います。看護協会がこんな意図を持っているか知りませんが、少なくとも垂水ではその考えを持たなければ地域自体の存続にも関わる状況が既にやってきていると思います。

“現場の日常の中で失われる学問性と市民性を補完するための看護研究とWLB”という筋書きに、私は看護師の専門職としての未来に向けた確からしさを感じています。今後数年間は、この考え方を検証しながら実践していこうと思っています。

ちょっと後付けの議論になりますが、WLBとはワークライフバランスの略語です。これは一般的には仕事と生活のバランスという考え方として理解されています。英語からの直接訳としても理解されやすいと思います。一方、現場の看護師にとっては、市民性の回復という意味があると私は思います。というのも、看護師の日常においては市民性を失わせる現実が現場を覆っているからです。

“市民性を失わせる現場”とは、先に述べた“マニュアルに従って効率的に仕事をする”現場と同じ意味です。看護師にとっての医療の現場には、看護師に対して学問性を失わせると同時に市民性をも失わせる要因が、組織や患者にとっての正義としてあり、そういった要因が現場の文脈に大きく影響しながら実践が行われる場合が多いと言えます。ある立場にとっての正義が、別の立場にとっての害悪であるという現実が、営利企業と社会の関係、医療と社会の関係、医療における女性の労働という関係の中に重層的にあり、おそらく地域住民にとって痛みを伴う改革を必要としていると思います。

このように、私は現場の看護師が行う看護研究とWLBは、現場の看護師にとって学問性と市民性の確保という視点でつながっていると考えています。
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posted by 元垂水市住み男看護師 at 18:45| 鹿児島 ☀| Comment(0) | 垂水の現場から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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