当院での看護研究の位置づけは、私から見れば少し特異なところがあります。いくつかの点がありますが、ここで全部を論じることはありません。私がここで論じたい点は一つだけ、表題の件に関してです。
院内で年に2回行われる看護研究発表会の席で、医師が発表者に対して、いわゆるダメ出しをするのが、どうやら慣習になっているようなのです。これは辞めた方が良いと私は思います。
理由はいくつか挙げられますが最終的には一点に集約されます。それは当院における医師と看護師の関係は本来的に平等ではないということです。当院のように、看護師が医師と対等に議論することが非常に特殊であると考えられる現場では、少なくとも上位者である医師が、下位者である看護師に対して、議論をふっかける、あるいは持ちかけるようなことは、しない方が良いと思います。
「対等な議論をすることが非常に特殊」というのは、あくまで私の印象です。私の知らないところで十分な議論が行われている可能性があります。私は、自分が観察する限り、片方が他方を一貫して「先生」と呼ぶ一方、もう片方は一貫してため口であるような状況を、対等な議論と見ることができないのです。これはどんな年齢上の関係においても見られる現象です。もっと過激な状況もさまざまな訴えにより把握していますが、それは別の機会に述べたいと思います。
今回は、医師が看護師に議論を持ちかけることの是非についてです。
当院の環境、雰囲気、空気において、医師が看護師に議論を持ちかけることは、いわゆるいじめ問題とか、学校の部活体罰問題などに通じる大きな問題の底流になる可能性があると私は思います。なぜなら、当院では看護師が医師の発言に対して基本的に逆らわないことを、医師は知っているはずだからです。
私が知る限り、看護師は医師に対して疑義紹介のようなことはしません。「それはおかしいじゃないですか」といった調子の議論もしません。私が在籍した哲学や人類学、社会学の講座で交わされていたような議論などありえません。するとしたら「お忙しいところすいませんがちょっとだけ」といった確認作業ぐらいです。それも自分自身の疑問に由来する問い合わせばかりでなく、他職種の方から、なぜか看護師宛に問い合わせの内線電話があったのを、後から看護師が医師に問い合わせる場合すらあります。こんな場合は、私は看護師を介する意味がわからず首をかしげてしまうこともあります。
医師同士の「御高診」「御待史」等の用語を多用するコミュニケーションも私には複雑すぎてついて行けませんが、いずれにせよ率直な議論を行う雰囲気を感じないことだけは確かです。
それはともかく、看護師に対する医師によるダメ出し、議論を持ちかけることが、単に看護研究発表会でみられる現象だけであればまだマシとは言えます。その場にはダメを出された本人だけでなく、その上司や同僚たる他の看護師も同席しているので、後から励ましたり、気持ちを共有して落ち着かせてあげたりすることもできるからです。
おそらく医師の立場からすれば、看護“研究”発表会と名付けるくらいで、“研究=科学”は当然だろうから、科学的な問題に関して疑義を述べ立てるのは当然だ、という程度の気持ちではなかろうか、と私は推測します。この点に関して、きっと医師の方に悪気はないのです。ただし私は、以下の二点について、医師の方が知らないか、知らないふりをしているのではないかと思います。
一つは、当該の看護師がその教育課程で、どの程度の科学教育を受け、現在どの程度の科学リテラシーを持っているかについて。もう一つは、看護師の現場に対してどれほど科学的に業務を行うことが現場で奨励されてきたかについて。
前者についてですが、高校専攻科の教育課程については、以前に文部科学省の学習指導要領を調べたことがあります。研究的な文脈については大学の基礎教育課程と比べて、当然でしょうが非常に心もとない印象でした。専門学校についても、記憶に頼っていますが厚生労働省の基準は、事例研究についてはありましたが、より研究的な文脈についてはほとんどなかったと記憶しています。
要するに、大卒ではない看護師が主流を占める現場の看護師は、研究という文脈に関しては、あまり教育を受けていない可能性が高いのです。従って現任教育においては、まずは“研究って何?”といったところから説き起こして、しかも長い間継続していく必要があります。医師の現任教育とは全然意味が違うのです。院内研修の内容などを一覧しても、看護研究に関する文脈は、あまり業務とは関係ないと考えられがちなようで、本筋ではないからと後回しにされる傾向があると感じます。
次に後者についてですが、先に私は「当院における医師と看護師の関係は本来的に平等ではない」「対等な議論をすることが非常に特殊」と書きました。これはたぶん、当院だけの現状でなく、日本中の平均的な状況ではないかと思います。なぜなら普段の業務では、医師が指示を出したことについて、いちいち議論の深みや科学的な正確さにこだわるよりは、看護師がその指示の意図を従来の慣習に沿って好意的に汲み取りながら、現場毎の文化に沿って実践する方が、実務として効率的だからです。
学校や研究所ではなく、患者やその家族が目の前にいる現場の状況だから、と考えられる傾向があると思います。
従来から看護師は、マニュアルに沿って業務を行うように指導されます。マニュアルは必ずしも現実に沿ってはいませんが、沿わないところがあるからと言って、現場の看護師はいちいち業務を止めてまで「おかしいじゃないか」と言い立てて改定を迫ることはせず、従来どんな風に業務が行われているかを日々の業務の中で体得しながら、時間をかけて手順として身体的に理解していく文化を持っています。それ自体が暗黙のマニュアルです。それに従えば、少なくとも普段の状況においては最も効率的に業務は遂行されます。
そういえば昔、確かフランスの看護協会の先生がこういったやり方を過去のものとして“手順の文化”と呼んでいました。“手順の文化から企画の文化に変わりましょう”といった言い方だったと思います。私はそれを聞いて“すごい”と思いましたが、今振り返って、日本の手順の文化を最悪のものとは思いません。もちろん看護師の学問的リテラシー教育において根本的な問題があると思います。しかし日本の手順の文化は、少なくとも低コスト体質の組織体制にも耐え、ある程度の高度化にも対応できるという利点を持つと思っています。
ちょっと上手な言い方が見つかりませんが、私の考えはこんな感じです。つまり、現場の看護師が集団として“分かってて敢えてロボットのように振る舞う”技術を持っている場合、現場は相当程度効率化できる、しかしその場合は看護師自身の科学性や市民性が犠牲になるので十分にケアする必要がある、ということです。今回は市民性については触れず、科学性について触れています。
科学性や資格の裏付けなしで習慣化、あるいはマニュアル化された業務上の知識として現場の文脈上の医療知識に通じた看護師は、当院に限らず現場にはたくさんいます。彼ら自身が“門前の小僧…”と自称することが多いのはそういう意味だと思います。これは病院の経営上の効率という点から見ても、従来から日本の看護師に求められてきた資質として意味があったと考えられます。“資格は持たないから給料は安いが個人的に勉強して知識は持っている”看護師は、本人の科学性や市民性を抜きにすれば最高であり、後は“分かっててロボット”状態になってくれたらより理想に近いでしょう。
ことほど左様に現場の看護師は、普段はあんまり科学的、学問的な文脈に慣れることのない環境に置かれているのです。科学的であるより微妙にマニュアル化され効率的であることを通じて、組織全体の効率化にも貢献しようとしています。
私はそんな風に分析しています。善悪ではなく、そうやってきたように見えるということです。だから看護師の業界では、自分たちの研究を単に研究と呼ばず「看護研究」と呼ぶのだと思います。奥ゆかしく愛おしいと勝手ですが思います。純粋科学としての数学とか物理学の人たちなら、自分たちの研究をわざわざ数学研究とか物理学研究とか呼んで他と区別するでしょうか。科学は科学、それどころか理系と文系の区別すら彼らにはピンとこないでしょう。真実は結局一つしかないと思うのが理科系に多い科学主義というものです。
そんな現場の看護師たちが「この場でこそ科学的に、学問的に」という思いを込めて頑張って、しかし楽しんでやるのが私たちの「看護研究」です。ちょっと言いにくい話ではありますが、純粋科学に比べれば体裁悪い感じに見えることが多いのは当たり前です。
ですから医師の方が看護“研究”発表会の名前につられて“この場は無礼講でしょう”とばかりに容赦なく科学性の欠如やらなんやらを突っ込んだりして、さほど経験年数も多くないような現場の看護師に議論を持ちかけるようなことは、しない方が良いと私は思います。医師の方からは「よくやった、頑張った」程度の声掛けで十分ではないかと思うほどです。ダメ出しは、必要なら看護研究委員会の方でひっそりとやらせていただきたいと思います。