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小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議である──かの小説家の言葉のように、てのひらの紙の上でくり広げられる物語は、とうてい僕の人生では起こるまい。それは、だれかを愛したり、愛されたり、ということにおいても。文字のなかではさまざまな愛が踊りうごめいてい、僕はそれを読んで空想するだけで、僕の人生に必要なぶんの愛は満たされる。ずっとそう思っていたし、実際満足していた、のに。彼と出会って、僕は変わってしまったように思う。絵画のなかの色とりどりのひかりや、夢みる少女のきらめき、星たちのまたたき。朝つゆに濡れた花のしずかなつやめきのような、ささやかなときめきを、だれかに抱くことがあるなんて。
「初恋、なのかな」
火にかけたカレーをかき混ぜながらつぶやく。カレーはたくさん煮込むから、考え事をしながらぼうっとしていてもいい。そういうところもすきだ。おたまでジャガイモをつついてみる。角がとれたそれはコロコロと茶色いルウのなかを泳いでいた。
「しかし君、恋は罪悪ですよ、って言ったのは誰だっけ、……」
記憶のなかの本棚をすこしたどって、ああそうだ、漱石だ、と思い当たる。高校の授業で扱われる前に、僕は夏目漱石のこゝろを読んでいた。いかなる恋も罪悪なんだとしたら、僕の恋は、いやまだ恋なのかわからないけど、それでもこのきもちは、どうなんだろう。彼は、──ガロくんは、なぜかはわからないけど僕に切り落とした煙草森さんの手を送ってきて、きっと煙草森さんを手にかけていて、そのせいで逃亡中で。ほんとうなら、僕はそんなひとをすきになったりはしない。もう一度会いたいだなんて思わない。「いい」と「わるい」の境界線をこんなにもねじ曲げてあいまいにしてしまうなんて、恋とはおそろしい。自分の恋のために親友を自殺させてしまったあの人と、また会いたいがために殺人犯かもしれない人の罪を見逃すようなことをしている僕は、同じだろうか、……
思考の海を漂っていた僕を現実へと引きずり出したのは、来客を告げるインターホンだった。朝から待ちわびていたそれに、僕はコンロの火を落としながらソワソワする足取りで玄関のドアを開ける。
「いらっしゃい」
つややかな金髪を靡かせるその人は、見慣れた黒いコートを着ていた。上品なロングコートが彼のすらりとした長身を引き立てている。
「お邪魔します。ふふ、カレーのにおいだ」
「うん。もうできてるよ」
今日は、僕の家でカレーをたべる約束だった。ガロくんを居間に通してから、コンロの前に立つ。池本さんたちが来たことはあっても、この家に人を呼んだのはガロくんがはじめて。なんだかソワソワした。ゆうべのうちに作っておいたものをすこし前から温めはじめたから、きっとじゃがいももトロトロホクホクになっているはず。ああでももしかしたらガロくんはじゃがいもは大きめのゴロゴロしたのがすきなのかも、そもそも甘口派か辛口派かも聞いてなかった。今日はまろやかにしようと思って勝手にハチミツまで入れちゃったけど平気かな。
なんてグツグツ煮える鍋を前に考え込んでいると、ガロくんが思わずといったように笑いだした。
「整くんって、独り言大きいよね」
「え、あ……聞こえてましたか。ごめんなさい癖で」
どうやら口に出ていたみたいだ。よく外でもひとりでブツブツ呟いてしまって、まわりから変な目で見られることがある。もうべつに気にしていないと思っていたけど、ガロくんが相手だとはずかしい。
「整くんは甘いカレーがすき?」
「甘いのも辛いのもすきです。でも今日はなんとなく、まろやかにしたいと思って……ガロくんは甘口でも平気?」
「整くんが作ってくれたものなら、なんでも喜んで頂くよ」
言って、ガロくんはやさしくほほ笑む。僕は思わずドキッとして、一瞬なにも言えなかった。だって、それはつまり……僕のことがすきだから、僕の作ったものならなんでもうれしいというふうに聞こえる。というか、あれだけきれいな顔をもっていてそんなふうに笑うなんて、ほとんど確信犯めいている。ガロくんはいつもそうだ。僕のことをからかって振り回して、それを観察して楽しんでいる気がする。煙草森さんの手が送られてきたときも指輪が送られてきたときも、脳裏に浮かんだガロくんは飄々と笑っていた。ほんとうのところは、ガロくんは僕のことをどう思っているんだろう。
ふたりぶんのお皿に盛ったカレーをガロくんの待つコタツに運ぶ。まさかスペア用に買っておいたお皿をお客さんに出す日が来るとは。
「おまたせ」
「ありがとう」
僕も席に着いて、ガロくんと一緒に手を合わせた。それから、ガロくんのほうをチラとみる。ただのカレーだというのに、銀色のスプーンを口に運ぶ手つきはどこか洗練されているように見えた。犬堂家のことだから、小さいころから食事の所作やテーブルマナーを躾けられているのかもしれないけど、ともかくガロくんの一挙手一投足は品があって美しかった。
「……整くん、見すぎ」
「あ……ごめんなさい」
「平気だよ。それより教えてほしいな。整くんがふだん作るカレーはどんな味?」
「えっと、僕はいつもただ市販のルウを入れるだけなんだけど……基本は中辛が多いかな。たまに甘口をブレンドしてみたり……ガロくんは?」
「うちはいつも愛珠が甘口じゃないと嫌がったから、俺も甘口のカレーを食べることが多かったな。だから整くんのこのカレーも、なんだか懐かしいよ」
「……そう、なんですね」
愛珠さん。ガロくんの胸のなかには、やっぱり愛珠さんの影がある。ほんの一瞬で、そう思ってしまった。彼はおだやかな、いとおしいものを眺めるような目つきをしながら愛珠さんの話をする。僕も、額に飾られた写真に佇む、あの美しいひとを思い浮かべる。あのとき写真を見ただけなのに彼女の顔立ちをありありと思い出せるのはその美しさゆえか、はたまた意志の強そうな瞳のせいか。美しいガロくんが愛するにふさわしいひとだ、と思った。ガロくんにとって愛珠さんはきっと、唯一無二のひとだったんだろう。だからこそガロくんはあんなことまでした。青砥さんの言葉を借りるなら、一線を越えた。
(もし、僕がだれかに殺されたとしたら……ガロくんは犯人を探しだして、復讐してくれるんだろうか)
考えて、僕ははっとした。復讐してくれる? 復讐してくれるってなんだろう。まるで、復讐することがいいことみたいだ。そんなものは遺されたひとたちの自己満足でしかないと、ずっとそう思っていたのに。僕を殺した犯人をガロくんが殺してくれたら、僕はうれしい? わからない。けど、ちがう。たぶん、そうじゃない。
僕は、愛珠さんとおなじだけ、ガロくんに愛されたい。そう思ってしまった、ということなんじゃないだろうか。
自分のなかに、こんなにも他人に執着する心があったなんて思わなかった。びっくりした。こわいと思った。心理学の授業では愛情と執着は別ものだと習ったけど、僕のこのきもちは、なんなんだろう。ガロくんのことをもっと知りたいと思うきもち、もっと一緒にいたいと思うきもち、ガロくんもおなじ思いでいてほしい、というきもち。あの艶のある声で名前を呼ばれるとからだがフワフワして、会えない間はずっと頭の片隅に彼がいて。そういうきもちや感覚を寄せ集めて浮かぶ言葉は、……
「整くんって童貞?」
何ともない世間話の延長で投げかけたその質問は、やはり整くんの動きをぴたりと止めてしまった。くっきりとした二重の目がじっと細められて、えー…………と非難がるような声。どんな反応をするかと思ったら、どうなんだその表情。
「なんで急に、そんなこと……」
ていうかこれセクハラじゃ、と小さな声。嫌がっているというよりは居心地悪い、困惑、といった調子に聞こえたので、聞こえなかったことにして話を続ける。
「べつに? どうなのかなーって思っただけだよ」
「……イケメンでスタイルもよくて髪もサラサラストレートのガロくんは経験豊富そうですね」
あ、これもセクハラになっちゃう、とまた小さな声。これも聞こえないふり。
「髪の毛、そんなに重要?」
「重要です。ガロくんにもこの髪分けてあげたい……」
整くんは細い指先で前髪をいじっている。整くんの手から離れた毛先はぴょこんと上向きにカールして、その感覚に整くんはため息。俺はかわいいと思うけどな、とは言わない。まだ。
「まあ俺だって、経験豊富ってわけではないよ。整くんはどうなの?」
「…………たしかに、そういう経験はないです、けど」
やっぱり、と思ったけど、顔には出さない。それよりも、彼の言葉の先が気になった。
「けど?」
「ガロくんもそういう話するんだね。こういうのは人それぞれだと思うし、経験のあるなしで人としての価値が測れるわけでもないし、べつにいいと思ってたんですけど……ガロくんは変だと思う?」
「まさか。言ったでしょ、気になっただけ。そういうことをしたいと思ったこともない?」
「どう……だろう。べつにそういうもの自体に嫌悪感があるわけじゃないけど……セックスってもとは命をつくる尊い行為だし、愛し合うという意味でも商売だったとしても、もちろん性暴力とかは別だけど、いろんな形があっていいと思うし。だけど自分が、と思うと、僕は正直、したいと思わない…………こわい、と思う」
「……そっか」
整くんはたぶん、自分のことを話すのが苦手。それは、俺が彼を見ていて気づいたことのひとつだ。どんなことだろうと誰にたいしてだろうとあれだけ饒舌な彼が、自分のパーソナルな部分の話になると、とたんにたとたどしくなる。幼いこどもがなにかを隠しているようなそれを、俺は暴いてみたいと思ってしまう。この話だって、セックスをしたいと思わない、という言葉のなかになにか彼の深層心理のようなものが隠れている気がした。「恋人がいたことはない」彼の無に等しい恋愛遍歴もここに起因しているように思う。ただ単に性欲が乏しいというだけでなくて、もっとべつの意志を感じる。なにか、自分の性自体を否定したい、拒絶したいというような。
整くんはどこか歪だ。思慮深い聡明さの奥に、幼く、なにかに囚われているかのような脆さがあるように感じる。それでも、はじめて会ったときから、どうしてか俺には彼のそういうところが魅力的に映った。
「整くん」
整くんの腕を掴んで、その双眸を見つめる。俺の目線ひとつで、彼のそれを縫いつけてしまえたらいい。
「俺とセックスして、って言ったら?」
整くんのまぶたが大きくひらいて、まるい瞳の全体が見える。くっきり末広がりの二重がきれい。ながいまつ毛がふるりと震えて、彼のぷくりとしたくちびるがわずかに開くけど、なにかを紡ぐことはない。にじり寄るみたいにからだを整くんのほうへ傾ける。ふたりきりの部屋のなか、俺のセーターと彼のニットが擦れる音。カレーをたべたあと換気のために開けられていた窓から入った風が、ふたりの髪をそよそよ揺らした。
「ガロ、くん、……」
距離が近くなると彼のからだが強ばったのがわかって、やっぱり、と思う。やっぱり、こういうふれ合いが苦手なんだな。もっと整くんのことを知りたいけど、焦ってもしかたない。
「……冗談だよ。ごめんね、こわい思いさせて」
ああでも、俺が冗談でこんなことする人間じゃないってこと、きっと整くんならわかってるだろうな。だけど、いい。
からだを起こすと、整くんがは、と息を吐いた。それから思い出したように呼吸をはじめて、もそもそと体勢を戻す。
「…………こわく、は、なかったです」
「……」
「ごめんなさいやっぱりちょっとこわかったです」
整くんはうつむいたまま。フワフワの髪に隠れてしまって、その表情は伺えない。でも、と彼は続けた。
「どきどき、した」
「どきどき?」
「……ほんとうは、苦手なんです。人とふれ合うの。満員電車とかでも、僕がだれかを触ってしまうのもだれかに触られるのも嫌だし、極端に距離を縮められるのも苦手で……なのに、ガロくんは平気だった。すごく、ふしぎです。なんでだろうって、ずっと考えてた」
「考えて、答えはでた?」
「……いえ」
整くんは首を横にふる。彼は、何事においても決めつけることをしない。考えて、考えて、ゆっくりじっくり自分の答えを見つけていく。人と思考回路がちがうことは、もしかしたら面倒くさいのかもしれない。だけど、俺は整くんのそういう面倒くささが、きれいだと思っている。
「……けど、まだ、いいかな、って。わからなくても、わからないまま。きょうガロくんのカレーの好みを知れたみたいに、ひとつずつ、知って、わかっていきたい」
それじゃ、ダメかな。
そう言う整くんの瞳のいろはやさしい。おだやかなやさしさを孕んだ瞳。だれかにたいしてそういうふうに感じる感情に、人は恋と名前をつけているんじゃないかなと一瞬思ったけど、口にはしなかった。だってそれは整くんが決めることだから。今わかることは、どうやら俺は、彼が考え悩むに値する人間のようだということ。
「じゃあ、お互いゆっくり知っていこうか。お互いのこと」
「うん。……またうちに来てくれる?」
「整くんがいいなら、もちろん」
暦の上ではもう春だけど、カーテンを揺らす風はまだすこしつめたい。日差しはあたたかいのに、まどろむにはまだ肌寒い、そんなあいまいな天気。それも悪くないのかもしれない。
「そっか。じゃあまた、待ってるね」
整くんは目を細める。笑った彼の頬は、もうあわい桜いろなのにな、なんて思ったりもした。
はじめてお家に遊びに来たくらいの設定にしています。原作を読んだのがかなり前なので、口調や時系列などおかしいかもしれませんが広いお心でお読みいただければと思います。