2009年10月01日
流山の地名由来と赤城山
ようやく日記がリアルタイムに追いつきました(^^;)
10月になって涼しくなってきましたね。
さて、私は現在、流山市観光協会の副会長でもありますが、
来週10日(土)は観光協会主催行事として、
「流山人形供養会」(にんぎょうくようえ)を開催します。
人形には魂が宿るとされ、不要になった人形をお焚上する行事です。
興味のある方は私あてにご連絡ください。
ところで、流山という地名の由来は、
流山市教育委員会などでは、
「上州の赤城山の一部が崩れて
流れ着いたから流山という」としています。
しかし、私は異説のほうが正しいのではないかと
考えています。
それは「長連山」から転じて「流山」になった
とするものです。
上記写真の「なか連山」をはじめ、いくつかの道標には
「長連山」を想起させる表記が残っています。
「奈可連山」というものも存在したと聞き及んでいますが、所在不明です。
また、JA@流山隊士家には、「長連山」という印鑑も現存し、
印影は私もいただいて所有しています。
流山には、新選組の分宿先となった場所がありますが、
ここの小山が「赤城山」です。
上州の赤城山が流れ着いたという伝説は、
おそらくは江戸時代の人の洒落っ気から生まれたものではないでしょうか。
私は以前、国土交通省の関係で江戸川で船に乗る機会がありました。
川面を行く船の目線から流山方面を眺めると、
高台の斜面林が長く連なった山のように見えました。
まさに「長連山」という光景です。
しかし、流山の赤城山の碑にある「赤城山が崩壊して流れ着いた」という
伝説が信じられているという現状も、そのままにしておきたいですね。
新選組流山隊の殺陣に時々現れる「赤城天狗」も
この赤城山に住んでいます(^^;)
今年4月の「流山新選組まつり」で
赤城山に現れた「赤城天狗」
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この記事へのコメント
会津祭、今年も行けず、残念なことでした。
さて、「戊辰戦争を○○」ですが、
前に進んでおります。
詳しくは、また、お知らせ致します。
先日は、あさぎさま達と京都を廻りました。
新撰組隊士の方とご一緒すると心強いです。
では、また。
会津ではお会いできませんでしたが、またご一緒しましょうね。
先日の記事の件、早速隊士に紹介し、私も確認しましたよ。
情報、ありがとうございました。
「戊辰戦争を○○」も難産のようですが楽しみにしております。
あさぎ@流山隊との京都巡察、関西在住者の活動が活発になるのは喜ばしい事です。
今後ともよろしくお願いします。
長い連なる山だったのですね
山が無いのにどうしてだろう?と読んでいったら納得です!
確かに役所辺りからなだらかに高台ですものね
おおたかの森のほうから来て江戸川へ下ってゆくのが気持ちいい坂で好きです
道標は流山周辺にお住まいなら見たことがあるかたも多いでしょう。
地名の由来ははっきりわからないことも多いのですが、江戸時代ではなくもっと昔に遡ります。
でも、山が流れてきたから「流山」というのも、平地にぽっこりとしたあの赤城山の小山を見れば、そんな気がしてくるから不思議です。
江戸川の名も「江戸時代に出来た川だから」なんていうかたもいますが、
「本来は利根川というが、江戸へ行く川という意味で地元の方がつけたあだ名である」と書かれた史料が残っています。
実は流山には伊達政宗に関する地名がいくつかあるんですが、今では地元の方も知らないようです。
それを今の時代の人間で考えるのも楽しいものですね
江戸川は人工のものなのですよね
今じゃすっかり自然のままのようで大好きです
この前も松戸までひとっ走りしましたが虫の攻撃に参りました^^;
仙台は友達が多く、伊達政宗のズーミンストラップもらいました
政宗さんも流山にいらしたって事でしょうか?
江戸川は「太日川」の流れを利用して整備した川です。
「仙台堀」「仙台河岸」という言葉も残っていますが、その理由は地元の方も知らないようです。
実は仙台藩が流山近辺の浚渫工事を担当していたため、流山に陣屋もありました。
陣屋のあった場所も特定できたので、流山の新たな観光のひとつとして公表していく準備をしています。
ほかにも大鳥圭介らの進軍した道や宿泊した家など、未発表史料からの発見などで観光資源はまだたくさん掘り起こせそうです。