インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ
今朝もダライ・ラマ法王は公邸内の居室に入られると、インターネットで法話を配信するために設置されたカメラとモニターの前に着座された。タイの僧侶たちが『吉祥経』(マンガラ・スートラ)をパーリ語で唱え、続いてベトナムの僧侶と尼僧のグループが、木魚で典型的なベトナム式のリズムを取りながら『般若心経』を誦経した。
法王は以下のようにお話を始められた。
「今日は法話会の2日目です。私は仏教の修行を実践する釈尊の弟子であり、チベットでは偉大な戒師であったシャーンタラクシタ(寂護)が根本説一切有部律に則って戒律を授けられ、チベットに僧団を設立されましたので、私もその伝統の系譜に従って出家しています。僧団の規定である律(ビナヤ)にはいくつかの種類があり、授かる律によって異なる系譜が相承されています。中国は四分律の伝統系譜に属していますが、多少の違いはあれ、どの系譜の戒律も主要な部分は同じです」
「伝統的な仏教国の皆さんを主な弟子として、この法話会が開催されていることを嬉しく思います。そこで、『三十七の菩薩の実践』と『修行道の三要素』の解説に入る前に、一つお話ししたいことがあります」
「私たちのように、サンスクリット語の伝統に従う仏教徒の多くは、『般若心経』を誦経していますが、この経典の中で観音菩薩は舎利弗(シャーリプトラ)に “善男子・善女子の誰かが般若波羅蜜の深遠なる行を実践したいと望むなら…、五蘊もまた、その自性による成立がない空の本質を持つものであるということを、正しく以下の如く見極めなければならない(観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空)” と言われています。しかし、漢訳と漢訳版から翻訳された経典には、五蘊 “もまた”、あるいは “でさえも” という言葉が抜けています。そこで私はサンスクリット語版を検証しましたが、確かにそこには “もまた” という言葉がありました」
「釈尊は初転法輪において人無我をお説きになりました。第二法輪では、人を構成する土台である五蘊 “もまた” 自性による成立がないこと(法無我)を明らかにされました。無我は人だけでなく全ての現象にも当てはまるものです」
「仏教の典籍には “小乗と大乗” という言葉が使われていますが、小乗という言葉にはこの伝統を軽んずるニュアンスが含まれていますので、私は “パーリ語の伝統とサンスクリット語の伝統” と呼ぶ方が好ましいと思います」
「初転法輪で釈尊が四聖諦(四つの聖なる真理)について初めて解説された時、苦しみの止滅が存在するという滅諦の概念が紹介されましたが、第二法輪では、滅諦についての根拠に基づく徹底的な解明がなされています。これが般若波羅蜜(完成された智慧)の教えが重要である所以の一つの側面です。それに加えて、弥勒(マイトレーヤ)が『究竟一乗宝性論』を著され、有情には仏性(如来蔵)が具わっていることを開示されました。ですから私たちは、一時的な障礙である間違ったものの見方を除去し、生来から具わっている仏陀の特質を高めていくことができるのです」
「さらに、一切智を得るための障りとなっているのが所知障で、それは煩悩が残した残り香のようなもの(習気)です。私たちはそのような微細なレベルの障りを取り除くために対策を講じることが出来ます。それについて『般若心経』には、“三世におわすすべての仏陀たちもまた、般若波羅蜜を拠りどころとして、無上の完全なる悟り(無上正等覚)を達成して仏陀となられたのである(三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提)” と記されており、般若波羅蜜、つまり空の見解の理解がその対治となります」
「チベットには “十七人の母と息子”、すなわち六人の母と呼ばれる経典群と十一人の息子と呼ばれる経典群があり、それらはチベット語に翻訳された般若経典群を指しています。六人の母の中には『十万頌般若経』『二万五千頌般若経』『八千頌般若経』が含まれています。一方、十一人の息子と呼ばれる経典群には『七百頌般若経』『金剛般若経』『般若心経』『一文字の般若経』が入っています。この中で最も長い経典は『十万頌般若経』で、最も短いのは “阿” という一文字のものです。“阿字” は否定を表しており、私たちが見ている通りに存在している現象は何一つないことを示唆しています」
「初転法輪から第二法輪、第三法輪へと進むにつれ、徐々に主体者の心の空についての教えが掘り下げて説かれるようになり、それは密教を実践できる弟子の出現を促したとの見方もできるのではないかと思います。釈尊の教えについての解釈には様々なものがあり、このような見方もその一つです。いずれにせよ、仏法は実践するために説かれているのですから、疑問の余地がなくなるまで徹底的に学ぶことが大切です。仏法を学び、それについて熟考することなく、いきなり瞑想を始めようとするならば、それは手がないのに崖をよじ登ろうとするようなものです」
法王はこのオンライン法話会に参加し、法王の言葉に耳を傾けているすべての聴衆に対して謝意を表された。そしてまた、参加者たちが住む国で教えを説いている、チベット人の学者たちに向けて感謝の言葉を述べられた。法王は、ナーガールジュナ(龍樹)の『根本中論頌』、チャンドラキールティ(月称)の『入中論』とダルマキールティ(法称)の『量評釈』第2章が中国語に翻訳されていることに言及され、もしまだベトナム語やその他の国の言葉に翻訳されていないなら、今から始めることを奨められた。
『三十七の菩薩の実践』の解説に戻られた法王は、このテキストの伝授を誰から受けたか確認出来ていないと話されたが、伝授に寄与したラツン・リンポチェの功績について思い起こされた。ヨンジン・リン・リンポチェはラツン・リンポチェから解説の伝授を受け、ラツン・リンポチェはこのテキストを再版し、一部を法王に献呈した。しかし、法王ご自身がラツン・リンポチェから直接教えを受ける機会はなかったそうである。
法王がラツン・リンポチェに最後に会われた時、リンポチェは、法王は長命であるようだと法王に告げられた。リンポチェは白ターラー菩薩の像を作り、法王の写真と並べて安置したところ、ターラー菩薩像から光が流れ出してきて、法王の写真の中に溶け入っていくヴィジョンを見たという。法王もまた、ラツン・リンポチェの長寿を祈願していると述べられた。
ツォンカパ大師の『修行道の三要素』は、悟りに至る修行の道について簡潔に集約したテキストであり、三要素とは、出離の心、菩提心、現象をありのままに見る正しい見解(正見)である。ツォンカパ大師ご自身が、学びと厳しい修行に多くの年月を費やされた後、ツァコ・ガワン・ダクパの要請に応じて、手紙の形でこのアドバイスを記された。そして「私のアドバイス通りに修行するならば、将来私が成道した際には、まずあなたに教えを授けましょう」との言葉を添えてガワン・ダクパに送られたのだ。
出離の心について書かれた第3偈から5偈までには、純粋な出離の心がなければ、輪廻における快楽への執着を鎮める術がない事、有暇と幸運を得ることは稀であるので、無駄に費やす時間はない事、もし昼夜たゆまず解脱を求める心を持てたなら、出離の心を起こすことが出来る事が明示されている。6偈から8偈は菩提心生起を促す偈頌であるが、法王は、しばしば7偈と8偈を、出離の心を強めるために下記のように置き換えて考察していると述べられた。
ここまで説明された法王は、参加者たちとの質疑応答に移られた。法王は引退した教師の質問に対して、他者を助けたいという動機が真摯なものであるならば、それに対して障害が起きたとしても、勇気を出して、精進と忍耐の実践の時が来たと捉えることが出来るだろう、と述べられた。六波羅蜜の実践は他者への慈しみと哀れみの気持ちを高める修行と結び合わせることが可能である。
次に、「欲望と執着に満ちたこの世界において、どのようにして出離の心を培うことが出来るでしょうか?」という質問に対して法王は、高度に物質的発展を遂げた結果、人々は以前よりも幸せになったのだろうか、と問われた。多くの人は心の平安を求めているが、心の平安は、自分たちがいかに他者に依存して生きているのかを認識し、他者の幸福のために貢献することによって訪れるものであると示唆された。
続いて、どの瞑想が一番有益かという質問に対して、法王は、瞑想には一点集中の瞑想(止:シャマタ)と分析的瞑想(観:ヴィパッサナー)の二種類があると述べられた。一点集中の瞑想では、五感によって散乱している心を引き戻し、選んだ一つの対象に心を留める。それが出来たところで分析的瞑想に進むことが出来る。ナーガールジュナに従う弟子たちに最も好まれる分析の対象は空である。しかし、空以外に心が一点に集中した状態で分析する対象には、明らかで対象を知ることが出来るという心そのものの他に、出離の心、菩提心、正見が含まれている。
思いやりの心を育んでいると、その気持ちを他人に利用されてしまうのではないか、という質問者に対して法王は、忍耐と知足を修習することで慈悲の実践を堅固なものにすることが出来ると述べられた。なぜ自分が思いやりの心を育み、布施や持戒の実践をするのかをよく考えてみる必要がある。
次に、精神的導師(ラマ)に頼ることについての質問に対して法王は、善い学校の先生に必要とされる善き資質について説明された。先生は自ら持っている知識を、子どもたちがわかりやすいように教える必要がある。同時にやさしさと愛情を持って生徒に接し、長期的な視野で子どもたちの利益を考慮しなければならない。
仏教の導師はよく「善友」と呼ばれる。ツォンカパ大師は、まず自分自身の心を鎮めることが出来て初めて他者の心を鎮めることが出来ると述べられた。それは、ラマが戒律を護り、慈悲深く、智慧を具えているべきことを意味している。そのようなラマであれば、弟子が歩むべき修行道の全行程を導くことが出来るのだ。ラマは二諦(二つの真理)について説明し、弟子に四聖諦(四つの聖なる真理)と三宝(仏陀・仏法・僧伽)の役割を理解させなければならない。仏教の導師は経典の教え(教法)にも体験に基づく教え(証法)にも精通している必要がある。
法王は、体験に基づく教えについて言うならば、ミラレパは3年間の隠棲修行によって悟ったわけではなく、全生涯を修行に捧げたのだと話された。同様に、ダライ・ラマ1世の弟子で、偉大な導師であったケドゥプ・ノルサン・ギャツォは40年間の隠棲生活を送った。菩薩が歩むべき五道(悟りに至る五つの修行道)と十地(菩薩の十地)の修行を実践することは容易なことではない。
次に、若い男性が法王に、どうしたら現在の状態から通常の生活に戻ることが出来るのかという質問をした。法王は、ヴァスバントゥ(世親)の『阿毘達磨倶舎論』などの典籍には、世界はまず虚空から現れ、その状態が維持され、やがて消滅する、と記されていることに言及された。そして、現在直面している地球温暖化は、ひょっとしたら、この世界が火によって消滅する始まりの段階にあることを示しているのかもしれない、と述べられた。
新型コロナウィルスの感染拡大に関して、法王は、患者の治療に尽力している多くの医師や看護師たちに対する感謝の気持ちをここで再び伝えられた。法王はターラー菩薩のマントラを唱えることは、この苦しみを和らげるために利益があるだろうと話され、ご自身も毎日この修行をされていることを明らかにされた。法王はこの修行とともに、“この虚空が存在する限り、有情が存在する限り、私も存在し続けて、有情の苦しみを滅することができますように” と日々祈っていることを付け加えられた。
最後の質問は、出離の心なしに菩提心を起こすことは可能か、というものであった。法王はテキストに書かれている修行道の三つの要素は、1日にして起こせるものではないと答えられた。出離の心も、菩提心も、現象をありのままに見抜く正見も、すべて根拠に根ざして生じるものである。それゆえ、聞・思・修注の各段階を進み、実際に他者に手を差し伸べることと結び合わせることによって、三つの要素が次第に具現化していくのである。
注:聞・思・修とは、教えをたくさん聞く、自らの知性を働かせて何度も考える、考えて確信を得たことについて瞑想を通して心に馴染ませることである。