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夏の風が吹く。
全てを奪い去るような爽やかさだ。
うん、カレー日和だ。
整は鍋をぐるぐるとかき混ぜる。玉ねぎを飴色になるまで炒め、小さく切ったじゃがいもを全て入れ終えたところだ。今日は豚こま肉が安かったので、それをいれたポークカレー。本当はブロックのものが良いと思うけど今日は豚こま肉で。
機嫌よく炒めながら水を注ぎ、市販のカレールーを入れる。塊が溶け出すとカレーのスパイスの香りがキッチン一杯に広がった。
「我路くん、今日は来るかな?」
自由気ままな友人を思い出す。彼は僕を"うざい"と言わない珍しい人だ。彼は精神鑑定に回されそうになった煙草森さんを文字通り"断罪"し、警察に追われている。不起訴になったらうちに来てくれると言ったのに……そう非難めいた気持ちを抑えて、気付くと止まってしまっていた手を慌てて動かす。これではせっかくのカレーが焦げてしまう。
「いつになったら来てくれるのかな、ガロくん。カレー、一緒に食べたいな」
そう呟くと、慣れたように棚から真っ白な食器を取り出し、炊飯器からご飯をよそうと、鍋から出来立てのカレールーを注いだ。
ガロを思って沈んでいた気持ちが僅かに上昇する。カレーは偉大だ。スプーンをとって、水を用意すると食卓代わりにしているこたつに置いて座った。冬はこたつだが、夏の今は布団を取り去っている。落ち着いたところで手を合わせ"いただきます"と口にした。自分しかいない部屋にその音は小さく響く。あっという間にカレーを口に運び終え、"ごちそうさまでした"と溢した瞬間、部屋の呼び鈴が鳴る。まさかガロくん?もうカレーは食べ終わっちゃったよ、と淡い期待に文句を言いながら玄関に向かう。
「こんにちは!宅急便です」
「あ、はい。今行きます」
またこの展開か、いや期待してなかったよ。全然、別に本当に。誰ともない人に言い訳をしながら扉を開ける。
「久能整さんに冷蔵便です」
「ありがとうございます」
人の良さそうな若い男性配達員はなんだか力持ちそうだ。お礼を言ってサインをする。ふと宛名を見ると"狩集 汐路"と印字されていた。汐路さんから?不思議に思いつつ荷物を受け取ると配達員を見送り、室内に戻った。
「汐路さん、急に郵便なんてどうしたんだろう」
そこで整は入院していたときに自分に届いたプリザーブドフラワーを思い出す。あの時はガロが彼女の名前を借りて見舞いの花を寄越した。まさか……ダンボールを開け、中を覗き見る。また人の腕だったらひとたまりもない。だが、そこにあったのは人の腕とは程遠いものだった。
「これは花?」
ダンボールの中には五センチほどの無色透明なガラスの箱に入った、血のような赤い薔薇が一輪だけ置かれていた。花の大きさは直径三センチほどだろうか、数十枚ほどの花弁が肩を寄せ合うかのように咲いている。薔薇の他には何かないのだろうかとそのガラスケースを持ち上げると、下から白い便箋が出てきた。それを広げて文面に目を走らせる。
"整くんへ
今日もまたカレーを食べているのかな?
あまりそれだけだとバランスが良くないよ。
それはそれとして、最近は汐ちゃんの学校の子たちが奇妙な病に罹っているらしい。
汐ちゃんから助けを求められた。
この花はその奇妙な病の産物だ。
僕ひとりで行っても良いけど、いかんせん自由に動けないから一緒に来て欲しい。
今週の土曜日、広島で待ち合わせ。
あとから僕は合流するから。
それではまた会えるのを楽しみにしている。
下手の横好きレベルより"
そして封筒の中には広島行きの新幹線のチケットがご丁寧に入っていた。
「ガロくん?!」
もっと普通に会えないものかと思いつつも彼らしいきっかけに少し目尻を下げてしまう。仕方ない、面倒ごとは嫌いだが、自分がまた話したいと思う数少ない人物だ。整は目を窓の方に向けるとぽつりと溢した。
「広島に行こう」
視線の先の木々は夏を迎えるような鮮やかな青さを湛えていた。
それから三日後の土曜日、幸いにも今は試験も終わり夏休みに入ったところだ。
品川駅に到着すると、届いていた新幹線のチケットを改札に通してホームに向かう。お弁当は売店で購入済みだ。お気に入りの貝づくし弁当を片手にホームまで階段を軽い足取りで登っていく。広島では何か事件が起こっているとは承知しつつも、やはり渇望していた我路に会えると思うと気分が高揚する。それに今日はお気に入りのお弁当もある。整はホームに入ってきた新幹線に乗り込むと指定されていた窓側の席についた。新幹線はスピードを上げて進む。土曜日だというのに、横浜を過ぎても僕の隣の席には誰も座ってこない。悠々とひとりで食事ができることに安心感が募る。お弁当を開き、いただきますと小さな声で呟くと割り箸を割って帆立を口に運んだ。肉厚の貝が口の中でほろほろと紐解かれていき、醤油と砂糖の甘辛い味が口いっぱいに広がった。思わず笑みを深めながら他の貝も食べていく。やっぱりこれは好きなお弁当だ。ガロくんは貝、食べられるかな?苦手な人もいるけど、僕の好きな食べ物を彼も好きだと嬉しいな。そう思いながら窓の外を眺める。雪解けした山肌を見せる富士山の横をちょうど過ぎていくところだった。それを見て、横山大観の水墨画を思い出す。富士山は日本人にとって、馴染み深い山だ。あの綺麗な山型に自身の心を投影するために大観は一五〇〇点もの富士山を描いた。あの大観が今のこの富士山を見たらどのように描くだろうか。
"はっきりとした濃い墨で輪郭を描くんじゃないかな?"
絵を描くガロくんだったらそう言うかなぁ。そんなことを思いつつ、後ろの人に声をかけて椅子を倒して眠りに着く。そこから広島までは一度も目覚めなかった。
気付くと広島に着いていた。思ったより、はっきりしている頭に安心する。改札を抜けると黒髪の少女が声を掛けてきた。
「整くん!」
少女特有の少し高い声は真夏の日差しの下で整の耳にまっすぐ届いた。
「汐路さん、お久しぶりです」
「相変わらず首元見せないんだね」
汐路は整のハイネックのサマーセーターを見て呆れたようにそう呟く。
「新幹線の中は冷房が効きすぎるくらいなので丁度いいんですよ」
「それでも見てるこっちが暑いくらい。しかもよりによって色も黒だし……」
これ以上追及されたくなくて整は汐路に尋ねた。
「それより汐路さん、ガロくんは?」
「ガロちゃんは後から合流。とりあえず友だちの話、聞いてくれる?」
「ガロくんと一緒に聞くんじゃないんですか?」
「ガロちゃんはお尋ね者だから後からこっそり来るよ。先に整くんが現状聞いといてって言ってた」
「そうなんですか」
すぐに会えるとは思っていなかったものの現実を知るとやはり寂しい。汐路はスマホで誰かに連絡すると歩を進めた。整はそれに続く。
「今からあるカフェで友だちと待ち合わせしてるの。そのカフェにいる子が奇妙な病に罹ってる」
「ちょっと思ったんですけど、僕は医者じゃないです」
「知ってる」
「え、でも病って……」
「お医者さんに見せたけど原因はわからないって」
「だったらやっぱりその道の専門家の方が……」
整の言葉を汐路は遮った。
「もう、着いた」
汐路によって連れてこらたカフェは広島駅からそう離れていなかった。よく見るとそのカフェは見覚えのある装いをしている。眩しいほどの黄色の壁に同じく黄色のオーニング、そしてその影に置かれた複数の白い小さな丸テーブルは印象派の画家、フィンセント・ファン・ゴッホが描いた"夜のカフェテラス"にそっくりだ。看板を見るとカフェ・ゴッホとある。好ましい外観だと思いつつそのテーブルのひとつに座る少女のもとに汐路は近寄る。するとそれに気づいた少女は片手を上げて汐路を呼んだ。
「汐ちゃん、こっち!」
「優ちゃん!」
足早に近づくと二人は両手を重ねて笑い合う。優、と呼ばれた少女は日に焼けた肌に明るいストレートヘアが似合う人物だった。
「汐ちゃん、このひとが?」
「うん。私も前、助けてもらった」
汐路は照れくさいのか、少し目を伏せながら話す。汐路の手首にはルビーとカーネリアン、そしてアクアマリンのブレスレットが嵌められていたが、今はそれを軽く手のひらで握っている。彼女の父親から力を貰っているのだろうか。それをぼんやりと眺めながら優ちゃんと呼ばれた少女に自己紹介をする。
「久能 整です。以前、狩集家の皆さんにはお世話になりました」
「ととのう?珍しい名前、どんな漢字?」
少女は小首を傾げると、汐路より少し高い声で整に尋ねた。
「整理整頓のせい、ですね。あなたのお名前は?」
「飛成川 優です。漢字は飛ぶ、成功の成に川、ゆうは優しいの優。汐ちゃんと同じ高校二年生」
彼女は名字の漢字を聞かれることが多いのか、自分から漢字を説明する。
「ひなりかわ、とても珍しい。川を飛ぶような仕事だったんでしょうか……」
整は顎に手を当てると考察の海に思考を流そうとするが、それをすぐさま汐路が引き止める。
「それで、今回は優ちゃんの話を聞いて欲しいの」
「あ、ああ。そうでした」
「優ちゃん、話して」
汐路が促すと、優は話始める。
「う、うん。実は最近体調が悪くて吐き気がするんです」
「吐き気、ですか。病院は行ったんですよね?」
「一応行ったんですけど原因はわからないって……それでそのうちに苦しくなってそれで……」
少し不安そうに優は瞳を揺らす。
「無理しなくても良いですよ」
この時期の女の子は多感だ。あまり無理をさせて心を傷つけたくはない。
「いえ、その信じてもらえないかもしれないんですけど」
ここで優はさらに口籠る。
「優ちゃん、大丈夫だから」
汐路は優の背中を安心させるように摩った。友人思いなんだなとそれを見ていると汐路から鋭い視線が無言で向けられた。何か言いなさいよとも言いたげな視線に焦りながらも口を開く。
「あの、とりあえず聞かせてください」
整がそう優しく促すと、優は決心したように話し出す。
「胃が苦しくなって、それで"花"を吐いてしまったんです」
「えっ……花、ですか?!」
ここで整は家に届いた真っ赤な薔薇を思い出した。まさか、そんな背景があったとは……
「信じて、くれるんですか?」
優は驚いたように整を見つめる。
「まあ、それは……ちなみにどんな花ですか?」
「そうですね……これくらいの大きさで、色は赤で、多分薔薇、だと思います。あと、花を吐くのは私だけじゃないんです」
「他にもいるんですか?」
整の質問に優と汐路はほぼ同時に頷いた。
「全部で六人かな」
「そんなにいたのに先生たちは何も言わなかったんですか?」
「一応信頼できる、私たちが嘘ついたとか言わない先生一人だけには相談したけどその先生はやっぱり治すとかはできなくて」
「大人のひとに伝えたのは偉いですね。じゃあ他にその六人の特徴とかはありますか?」
「特徴?見た目とかですか?」
「見た目だけじゃなく、気づいたことはなんでも大丈夫です」
これには汐路が答えた。
「見た目はみんなばらばらかな?ショートヘアだったりロングヘアだったり、好きな物もみんな違う。強いて言うなら同じ部活かな?」
「部活?」
「うん、テニス部。唯一相談した先生もその部活の顧問」
整は少し考えると優に尋ねた。
「その顧問の先生と他の同じ症状のご友人からお話って聞けますか?」
「大丈夫だと思います。いま夏休みだし。明日の部活の後にみんなに聞いてみますか?」
「そうしてください。またここで待ち合わせできたらと思います」
整はぺこりと優に頭を下げる。
「じゃあ、よろしくお願いします」
「それで?整くんは今日泊まるところあるの?うち来ても良いよ?お母さんたち会いたがってたし」
「いえ、今日は駅前のホテル取ってるんで気にしないでください」
「え?そうなの?気にしなくても良いのに」
「いえ、それよりガロくんはどこにいるんですかねぇ」
結局来なかったガロはどこにいるのやら……もし、今回来なかったらいじけてしまいそうだ。
「本当だね。まあでもしばらくしたら来るんじゃない?」
汐路は頼んでいた桃のタルトを口に運び、紅茶を一口飲むとその香りに微笑みを浮かべた。
「ここ、桃のタルトも紅茶も美味しい」
それに釣られるように優はレモンティを飲んだ。どうやら飲食には問題ないようだ。話も聞き終わり、今日はお開きにしようと財布を開くと汐路がそれを制した。
「今日の分、実はガロちゃんの奢りなんだ」
「え?」
「あとで振り込んでくれるって言ってた。だから整くんは良いよ」
「え、でもガロくんに悪いんで僕の分は払いますよ」
「計算めんどくさいから今はいいよ。あとで整くんがガロちゃんに直接払って?」
汐路の勢いに負けてそのまま頷いてしまった。カフェの外に出ると、この日はそのまま解散となった。今日はあまり動いていないためか、それほどお腹は空いていない。整はホテルに直行して休むことにした。
広島に来る前に予約していたホテルに着くと2031のキーを貰い部屋に入る。安いビジネスホテルにはベットがひとつとテーブルにテレビと小さな冷蔵庫、そしてユニットバスが備え付けられていた。外が暑かったのですぐにシャワーを浴びてしまおうと風呂場に向かう。シャワーのコックを捻ると少し温度が低いぬるま湯が流れてきた。程よく身体が冷えていく。さっと汗を流し、ドライヤーで髪を乾かす。天パの扱いにくい髪は空気を含むようにふわふわと膨らんでいった。ガロくんはさらさらで良いなぁと自身の乾いた髪を触ると部屋のチャイムが鳴った。
誰か部屋を間違えたか?そう思ってそっと覗き穴から外を眺める。するとそこにはキャップを目深に被った男がいた。よく見るとその帽子の隙間から眩しいくらいの金色が垣間見える。整はそれを見た途端、弾かれたように扉を開ける。
「ガロくん!」
「こんばんは、整くん」
目深に被ったキャップを少し引き上げ、整に目を合わせた。その瞬間、整は目を見開く。
「ガロくんだ!うわぁー本物?!」
「君は相変わらず面白いことを言うね?足、あるだろ?」
整は我路に言われるがまま視線を移す。そこには見間違いようがないくらい、はっきりと彼の長い脚がそこにあった。
「ほんとだ」
整はにこにこた微笑みを浮かべるが、すぐにはっとしてガロを室内に招き入れた。
「早く入って!」
「ありがとう」
室内に入るとガロは被っていたキャップを脱ぐ。
「整くん、遅くなってごめんね」
申し訳なさそうに言葉を零す彼に首を横に振って否定する。
「ガロくんが無事だったら良いよ」
「ありがとう」
「とりあえず座って!」
整は室内の椅子を引き、我路を座るように促した。
「喉乾いてない?お茶煎れる?って言ってもホテルの備え付けのやつだけど」
「じゃあ貰おうかな」
「少し待ってて!すぐ煎れるから!」
整は冷蔵庫の中のミネラルウォーターを取ると室内に置かれていたケトルに注いでお湯を沸かす。湯飲みを取るとティーパックをそれぞれに入れる。するとすぐにぱちんとケトルのスイッチが落ちる音が聞こえた。二人分のお湯はすぐに沸いたようだ。少し冷ましてから湯飲みにお湯を注いでいく。茶器の中に緑茶の濃い緑が広がった。
「お待たせ、ガロくん」
「ああ、悪いね。ありがとう」
我路はそう言って整からお茶を受け取ると、それをゆっくりと口に含ませた。
「どう?」
「美味しい、備え付けのやつとは思えない」
「ふふっ、少しお湯を冷ましていれたから苦味が抑えられてるんだ」
整は我路に会えたこと、そして自分が淹れたお茶を美味しいと言ってもらえて上機嫌だ。そこでふと我路が話出す。
「汐ちゃんの話は聞いたかい?」
「……ガロくんはどこまで知ってるの?」
「汐ちゃんの友人たち複数人が花を吐いているってところかな。それで君はこの件についてどう思う?」
我路の瞳は整を試すようなものだ。
「まだ詳細を聞ききれてないからわからないけど、フォリアドゥ、感応精神病っていう集団ヒステリーみたいなやつだと思う」
「へぇ」
我路は目を細めて整を捕らえる。
「そもそもヒステリーってヒステロって子宮が語源だけど、女性だけじゃなくて男性にも見られるから最近では使われないようになってるし、僕も好きじゃないんだけど、便宜上集団ヒステリーって使うね」
「集団ヒステリーって時々ニュースになるよね。昔、集合時間に遅刻した女子高生七人が次々に過呼吸発作を起こして救急車十三台が出動する騒ぎになったやつとか。確か遅れていた生徒を教師が注意していたところ一人が過呼吸を起こして倒れて、それを見ていた生徒が連鎖的に次々に過呼吸症状を起こしていったやつとかそうだよね?」
「そう、特に集団ヒステリーがみられるのは心理学的に結びつきが強い集団のメンバーの中ってことが報告されているんだ。宗教団体、寮生活の仲間、学校のクラスメイトとかあるけど多分今回はみんなが同じ部活って言ってたからそれだと思う」
「集団ヒステリーってさっき言った過呼吸の例みたいに、けいれんとか興奮とかだけじゃないんだね」
「うん。基本的にはそんな感じの症状だね。心理的な原因で起こって、強い刺激があった時に最初の発端者に症状が現れて、それを見ていた人、続発者っていうんだけど、そのひとたちに次々と同じ症状が伝染するように起こる。特に集団ヒステリーは若い女性のグループが多いってことも今回の件に当て嵌められるんじゃないかな」
「同じような症状を持ってる子たちみんな女の子だったんだ?」
「うん。それで今話したのは集団ヒステリーなんだけど、これと似ているのがフォリアドゥで、具体的には密接な生活を送っている小集団で一人の妄想が他の人にも共有される現象のことなんだ」
「集団ヒステリーと何が違うんだい?」
「集団ヒステリーは短時間のものだけど、フォリアドゥは長い間続くことが大きな違いだね。普通、妄想の内容は他の人と共有はされないけど、フォリアドゥは例外で同じ妄想をその小集団が共有するんだ。大体は妄想の発端者が入院したりして切り離されると他の人の妄想も消えるらしいから、今回は花を吐くと言うようになった最初の子を隔離したら良いんじゃないかなと思ったんだけど……」
「問題は彼女たちの妄想ではなく、実際に吐き出された花が実物としてあるってことだね?」
「そうなんだ、ガロくん。君から送られてきた花がそうなんだよね?」
「そう、汐ちゃんから連絡が来て実物送ってもらったんだ。あれは本物の花だろ?」
「そうなんだよね。だからわからない」
少し考える素振りを見せる整に我路は声を掛ける。
「いや、誘ったのは僕だけどさ。あんまりこういうことに首を突っ込まない整くんが珍しくない?」
「ガロくんが誘ったんでしょ」
呆れた顔を我路に向ける。
「実は僕、教師になりたいんだ。だから、迷ってたり、困ってる子どもは助けたいなって」
「ふぅん。整くんは良い教師になりそうだね」
我路の言葉に目を見開く。
「そう思う?」
「ああ」
なんだか改めて第三者から言われると照れてしまう。
「ところで、ガロくん。明日その子どもたちと花を吐くことを相談した部活の顧問の教師に会いに行くんだけど一緒に行く?」
「うーん、一緒に行きたいのは山々なんだけど僕はお尋ね者だから何かあったとき君に迷惑がかかりそうだから、今回は君一人に頼んでも良いかな?」
「えっ、一緒に行かないの?」
「ほんとゴメンね」
そう申し訳無さそうな顔を向けられると何も言えない。
「じゃあ、明日の夜またここで会える?」
「ああ。じゃあまたこの時間で良いかな?」
「大丈夫。あ、あと今日のカフェ代だけど、僕の分は払うよ」
「いや、それは良いよ。今日一緒に聞けなかったお詫びとして奢られて」
「そんな……いいのに」
「良いから、じゃあ今日は君もお疲れだろうからそろそろお暇するよ」
そう言って我路は立ち上がるとベットに座る整の頭を撫でた。思わず固まってしまう。
「な、んで撫でたの?」
「整くん、シャワー上がりでしょ。ドライヤーした後でふわふわだなって思ったから」
そう悪戯っ子のように笑うと我路は見送りはいいよと言って外に向かった。我路が出ていくと扉はゆっくりと閉じられ、オートロックがかかった。思わず赤くなった顔に手を当てる。
「イケメンはあんなこと簡単にできちゃうの?」
整は速くなる鼓動を抑えるように深呼吸をする。もう今日はこのまま寝てしまおう。寝て忘れてしまおう。横になり、布団を手繰り寄せるとそれに身を包ませ目蓋を閉じた。
次の日の夕方、待ち合わせの時間にカフェ・ゴッホに向かう。意外にも日曜日の夕方の利用客は少ないようだ。今日は人数が多いのでテラスではなく、店内の奥に案内される。長テーブルには三人座り用のソファが二つ挟んで置かれていた。しばらく待つと汐路と優の他に少女が二人、そしてその少し後に教師と見られる男性が入店してきた。
「お待たせ、整くん」
汐路が整に挨拶をすると、その隣に座る。
「大丈夫です。僕も今来ましたから」
そう答えながら汐路が連れてきた人たちを座ってもらうように促す。
「そう?ちょっと全員は無理だったんだけど優ちゃんとあとこっちは平谷瑞希と水川菜月。そしてこっちがテニス部顧問の郡代流央先生」
汐路の隣に優、反対のソファには整の正面に当たる場所に郡代、そしてその隣に瑞希と菜月が座った。郡代は二十代後半の男性教師だった。黒いストレートヘアに濡羽色の瞳、そこを縁取るかのようにシルバーフレームの眼鏡をかけていた。それに知的な印象を受ける。瑞希と言われる少女は汐路と同じくらいのショートヘアに猫のような大きな瞳を持つ少女で、菜月はくるりとしたカールのミディアムヘアに垂れ目の少女だった。部活帰りのためか、みな制服を着ている。整は彼女たちに挨拶をする。
「はじめまして、久能整です。大学生です。事情は汐路さんと優さんから聞きました。少しお話しを聞かせてください」
少女たちが頷くのを確認すると、整は尋ねた。
「まず、花を吐き出したのはどなたが最初ですか?」
この質問に菜月が答えた。
「最初は瑞希からだったよね?」
「うん、急にお腹が苦しくなって気づいたら吐いてた。最初は何か悪いもの食べたかと思ったけどみんな大丈夫って言うし……」
「みんなってことは皆さん寮生活を?」
同じ食事を摂っているような口ぶりに不思議に思い尋ねると、優が答えた。
「あ、違います。瑞希が花を出した時、ちょうど夏休みの合宿中で同じご飯食べてて」
「合宿中、ですか……」
フォリアドゥ特有の共同生活だ。
「その合宿はどれくらいの期間やってたんですか?」
これには郡代が答えた。
「一週間です。丹波の方に合宿場がありまして、そこで毎年夏休みにテニス部の合宿があるんです」
「そうなんですか。では瑞希さん以外の他の人も同じ日に花を?」
瑞希は首を横に振る。
「その次の日、かな。優と菜月が次の日の朝、今日来てない残りの三人がその日の夜に吐いた」
「……郡代先生は彼女たちが吐いた瞬間、側にいましたか?」
「いや、彼女たちだけのときだったようで私はその場にはいませんでした」
「なるほど。他に何かきっかけ、みたいなものありますか?」
「それは、私が思い当たるところがあって……」
最初に吐き出したという瑞希が話そうとするが、ちらりと郡代を見ると視線を落とした。何か郡代がいたらまずいのだろうか。それを察した郡代は困ったような笑みを浮かべる。
「ちょっと、私は席を外そうか」
そう言って郡代は立ち上がると外に向かった。姿が見えなくなったことを確認して瑞希は口を開く。
「実は、先生にはあまり聞かれたくなくて……」
「なんでですか?」
「その、花を吐いた私たちの共通点、みんな片思いしてる、の……」
彼女のその答えにぽかんと口を開ける。そんな、まさかと思いつつ顎に手をやる。
「えっと、じゃあその前に恋バナとかしてた、の?」
整の質問にみな一様に頷く。
「それを郡代先生に聞かれたくなかったんだ」
「うん、だってバレちゃったら恥ずかしいし……」
そう言って頬を染めて目を伏せる少女たちはなんとも微笑ましい。
「わかりました。これは先生には言わないでおきます。恋のおまじないとかやったわけではないですよね?」
その質問に汐路は呆れた声を出す。
「整くんって意外とロマンチストだよね」
「ち、違います!これにはちゃんと意味があって!」
"こっくりさんも集団ヒステリーの一例だからおまじないのことも聞いたのに"と思いつつも集団ヒステリーの話はできないので整は黙り込む。そんな整を無視して汐路は皆に尋ねた。
「どれくらいの頻度で花を吐くの?」
「多分だけど、好きな人を思い出して会いたいな、話したいなって思ったときかも」
菜月の言葉に皆同意する。
「……わかりました。じゃあ、また聞きたいことあったら聞くかもしれないですけど今日はこれでおしまいです」
「えっ、もう終わりでいいの?!」
汐路は驚きの声を上げる。
「ええ。あ、君たちと入れ違いで良いから郡代先生を呼んでもらえますか?君たちはもう帰った方が良いですよ」
整はスマホの時間を見て少女たちを返そうとする。
「お代は……?」
「お代は良いですよ。さあ、今日はゆっくり家でおやすみください」
少女たちはお互いを見ていいのかなといった顔をすると汐路が立ち上がる。
「整くんが良いって言うから良いよ。帰ろ」
「う、うん」
「じゃあ汐路さん、また連絡しますね」
「わかった。またね」
汐路は少女たちを引き連れて外に出ると、外で待つ郡代に声をかけた。すると郡代は席に戻ってくる。
「久能さん、すみません」
郡代は申し訳なさそうにその黒い瞳を伏せた。
「いえ、先生に言えないこともあるでしょう。安心してください、犯罪とかそういうことではなかったので」
彼女たちのためにぼやかして説明する。
「いや、子どもたちのために教師になったのに頼られてないのかなと思ったら少しだけ、自信がなくなってしまって」
元気をなくしている郡代に整は話しかける。
「……僕は時々思うんですけど、日本って多くの現場で何でもできる人材を求めている。いわゆるゼネラリストですね」
郡代は何か思うところがあるのか、静かに頷く。
「そうですね。最近の教師の仕事も多岐に渡って多くの物事を求められている」
郡代の視線は目の前のコーヒーに向けられていた。そんな彼に話を続ける。
「そう、お聞きしています。ですが僕はゼネラリストではなく、スペシャリストが必要だと思っています。今回のことで言えば彼女たちに必要なのは養護教諭やスクールカウンセラーなどです。日本ではそんな人たちに相談することは恥と思っている人が多い。だけど欧米では人間の弱さを受け入れて、社会全体で支えようとしている。僕は良い制度だと思っています」
「……ああ」
コーヒーに向けられていた視線はいつのまにか整に向けられていた。
「そしてそんな中、彼女たちはあなたにだけ、事情を話そうと話し合ったそうです。信頼できない人にそんなことはできない。それに人間は一人だけで解決することもあれば、そうじゃないこともある。世の中にはそんなことばかりです。まあ、年下の学生の身分である僕に言われるのはアレでしょうけど」
整がそう言うと郡代は首を横に振り、左手でカップを取ると、コーヒーを口に含んだ。
「久能さんは、不思議な人ですね」
郡代は目を細めて整を見据える。なんだかそれがむず痒くて、視線を逸らそうと時計を見た。
「わっ!こんな時間!郡代さん、すみません!僕、このあと人と会う予定があって!」
「そうなんですか?じゃあまた、お会いしましょう。今日のお代は僕が払うんで行ってください」
「えっ、それは申し訳ないです!払います!」
「いや、君はまだ学生でしょう?大人に甘えなさい」
そう言われてしまうと何も言えない。整は唇を少し噛むと郡代に頭を下げた。
「ありがとうございます」
駆け足でカフェ・ゴッホを立ち去る。空には星が瞬いており、本当に絵の世界に入ってしまったようだ。そんな世界を背にホテルへと戻る。
急いで部屋に戻り、一息つくと扉をノックする音が響いた。ガロくんだ。整は立ち上り、扉を開くと我路を出迎える。
「いらっしゃい、ガロくん」
「ああ、こんばんは。整くん」
蛍光灯の光に照らされる蜂蜜色の髪は綺麗だ。ガロくんに似合っている。ぼんやりそんなことを思いながら部屋に我路を招き入れた。
「まだ外暑い?」
「ああ、日は陰ってきたけどやっぱり夏だね。まだ暑い」
暑いと言いながらも汗ひとつかいていないその顔はとても涼しそうだ。
「座ってよ」
「ありがとう」
そう言ってガロが座るのを確認すると、ホテルに戻る前に買っておいたペットボトルを冷蔵庫から取り出す。室内に置いてあるグラスを取ると、そこに注いだ。中身はストレートティーだ。無糖なのでさっぱり飲める。それを我路に手渡した。
「はい、ガロくん。紅茶、今日は買ったやつ」
「ありがと」
「どういたしまして」
整は自分の分のグラスを我路の座る椅子の前にあるテーブルに置くと、ベッドに腰をかけた。それを確認すると我路は声を掛けた。
「今日はどうだった?」
「花を吐く女の子たちと彼女たちが唯一相談した部活の顧問の先生に会ってきた」
「へぇ」
「花を吐いた子たちの共通点は同じ時期の合宿で、ある一人の子つまり発端者が花を吐いた次の日から連鎖的に花を吐くようになったって言ってた。あとはその子たち、先生に聞かれたくない共通点があるって」
「相談したのに聞かれたくないこともあるんだね」
「うん、それでそのときだけは先生に席を外してもらって聞いたら、その子たちみんな片思い中なんだって」
整の答えに我路は顎に手をやると話出す。
「片思い、か……確かに人間は恋をすると脳内でフェニルエチルアミンとかドーパミンと言われるようなホルモンが分泌されるよね。それは通常とは異なる精神状態になる。まさかそれがきっかけ?」
「多分。それで……」
ふと整が話を続けようとした瞬間、我路は自身の口を手で覆った。そして苦しそうな表情を浮かべると嘔吐きだす。
「ガロくん?!」
整は駆け寄ると我路の背中を摩った。
「大丈夫?!気持ち悪いの?!」
「うっ……えっ、ごめ、なんか急に……うっ……」
「洗面所行ける?」
整の質問に無言で我路は頷く。整はそれを確認すると、我路の右腕を取って自身の肩にかけると洗面所に向かった。
「……っ、ありがとう、……うっ、あっ……」
そう漏らして我路は洗面台に手をつくと、我路は何かを吐き出した。それは血のように赤い小さな薔薇だった。
「これ、花……?」
「え……?」
二人は目を見合わせるともう一度洗面台に目を移した。まごうことなき赤い薔薇だ。
「……一旦、口ゆすぐ?」
整の提案は場に沿っているようで沿っていない気がするが、我路は素直に頷くと手を洗い、うがいをする。その間、整はベッドに座って我路を待つ。窓の外を見るとすっかり夜の帳が下りていた。しばらくすると洗面所から我路が戻ってくる。
「いや、まさか。オレも花を吐くとは……」
そう呟く我路は困惑していた。
「……とりあえず、座って」
「ああ」
我路は元いた席に戻ると整に視線を合わせた。整は何か決心したような面持ちを見せて口を開く。
「ねぇ、ガロくん。君はなんでこんなことしたの?」
突然切り出した整に我路は少し目を伏せた後、再び視線を整に合わせる。すると誰もが魅了される笑みを浮かべると整に笑いかけた。
「こんなことって?」
まるで試すような言い方に整の心は乱されそうになる。
「あの子たちはフォリアドゥじゃない。君が仕掛けた一種のサイコドラマ、でしょう?」
整は我路から目を逸らさずにそう答えた。無言を貫く我路をそのままに整は話し始める。
「サイコドラマは、即興劇を使った心理療法だ。クライアント、今回の場合は僕かな。どういう意図があるかわからないけど僕を観るために今回の全てを用意した。監督は君で、彼女たちは舞台、演者は僕で、補助自我は郡代先生、かな?っていうか郡代先生も君、でしょ?」
整は思わず非難めいた目で見ると、我路は声を上げて笑った。
「ふふっ、正解だ。いつから気づいてた?」
整は深いため息を吐くと我路に答えた。
「やっぱり……カフェ・ゴッホでコーヒーを左手で持ったとき、我路くんも左手だったなって思ったらあとは名前から気づいた」
「君は聡いね」
「郡代流央ってローマ字にして並び替えたら犬堂我路になる」
「そう、アナグラムにしてみた」
名案だろと言わんばかりの顔に苛立ちが募る。
「あの子たちは全部演技のバイト?」
「うん。汐ちゃんに連絡して演技してもらった」
またもや整は汐路の演技に巻き込まれたと思うとため息しか出ない。今回は誰も傷ついていないことが救いだ。
「なんでこんなことしたの?」
「整くんはサイコドラマの目的って何か知ってる?」
質問に質問が返ってきたことに面目するが、答える。
「クライアントが生活の中で、問題に対する新たな解決策を発見し、クライアントが自発的にその中で生活できるような役割を身につけられるようになること」
「そう。それとさっき僕が花を吐いたからこの病は僕で七人目なんだ」
ここで整は考える。サイコドラマの目的は自発的な役割の発見だ。我路は整に何かを発見させたがっている。
脳内で今の話を反芻する。我路が吐いた花は赤い薔薇だ。赤い薔薇の花言葉は"美"や"愛情"そして"熱烈な恋"だ。そして、薔薇は本数によって花言葉に違いがある。我路で吐いた人間は七人目、七本の薔薇の花言葉は"密かな愛"だ。なぜこんな面倒なことをするのか考える。天達先生にライカのことを聞いた際の言葉を思い出した。直接的な言葉ではなく、暗号を使う意図は……
"あなたの興味を引きたいか、あなたを利用したいか、あなたを操りたいか、陥れたいか、あなたに助けを求めてるか。なんにせよ根底には怯えがある、誰かに知られたくない"
ふと目の前の我路を視界に捕らえると口を開いた。
「ガロくんは何かに怯えているの?」
「君は突拍子もないこと聞くね」
整の中では突拍子も何もないことだが、いきなりそんなこと聞かれたら誰でもそう思うか。我路は整を利用する必要はないし、操りたいとも思えない。陥れるほどの関係でもないし、整自身には、我路から助けを求められるほどの甲斐性はない。考えられるのは整の興味を引きたいということだが、今までこんな駆け引きをしたことがないからどうして良いかわからない。ほとほと困っていると我路は話始めた。
「オレは君と離れている間、色んなことがあったけど、その度に君だったらどう答えるかな、君だったらどう解決するかなってことをいつも考えてた。こんな風に誰かの考えを聞いてみたいって思うのは君が初めてなんだ」
我路の言葉一つ一つを噛みしめるように聞く。そのあとしばらく沈黙を貫く整に我路は焦れたのか、組んでいたその長い脚を組み替えた。それを見て整も脚を組み替える。それに気づいた我路は頬杖をついた。整もそれに倣い頬に手を当てる。それを見て我路は少し寂しそうな顔をすると、整に尋ねた。
「もしかして整くん忘れちゃった?」
それはバスジャックのときに我路が気付かせてくれたことだ。
「……わざとだよって言ったらガロくんはどう思う?」
可愛くはないと思いつつも小首を傾げて尋ねた。
「……それは都合良く捉えてしまうよ?」
「都合良く、捉えて良いよ」
「オレの真似をする整くんは……」
「君の興味を引きたい」
間髪入れず答えた整に我路は目を見開いた。
「恋とか、したことないからわからないけど、僕もいつも何かあったときは君だったらどうするのかなって考えてた。だからこの君への気持ちが恋なのかはわからないけど、僕は君と同じ気持ちだと思う」
そう答えた整を我路は思わず引き寄せる。
「い、きなりなに!」
我路の突然の行動に文句を言う。我路は何かを確認するように整を引き寄せた腕の力を強める。
「夢じゃないかなって思ったから」
「……っ、これで現実ってわかったで……」
整の言葉は最後まで紡がれることはなかった。我路の唇が整の唇に重なる。
「……っ!」
「オレの気持ちはこれだと思うな」
そう言って我路は綺麗に笑った。整は首まで朱に染まる。唇へのキスは"愛情"だ。
二人の綻んだ恋は、愛に溢れた。
6巻までのネタバレあります。
本作中の心理学系の話は空想科学として楽しんでください。
このお話はフィクションです。実在の人物、団体、出来事とは一切関係ありません。
つい二週間ほど前に落ちました。
7/20追記
ふと気づいたんですけど汐路さん東京っ子でしたね?!
広島の子にしてしまった…!見逃してやってください…