渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

三原の町、中世は海の中 ~古代製鉄をめぐる旅~

2022年12月13日 | open



備後国三原城は戦国時代末期に
毛利一族の小早川隆景によって
築かれた。

永禄10年(1567)に築城が開始
され、完成は天正10年(1580)
だったという。

その後、江戸時代に入り、安芸
備後に入封した福島正則により
更に海上の二重櫓などが整備さ
れ強固な城に固められた。
福島氏改易後は、紀州から浅野

氏が46万5千石で入封(にゅう
ほう)し、三原は城ではなく要
害とすることで一国一城令を
クリアして城が残存された。
三原城管内の石高は三万石。

三原城には浅野家一門の家老が
入ったが、多くの三原城主は
江戸藩邸から出ず、国許には
住していない。
三原の広島藩家老は大名格なの
で維新後には華族に列している。
ある時代の三原城主は、江戸城
で遊ぶ幼子の女子を見つけて、
危ないよ
と注意をした。その
注意を受けた将軍の姫が三原城
主浅野氏に一目
惚れして、一緒
になれなければ
死ぬだなんだと
大ゴネして、江戸城内が大騒動
になった。

春日局の口利きで、側室として
将軍家から姫が下るという形
にして落着した。江戸期にはまず
されぬ大恋愛事件だった。
そして、非常に仲睦まじく過ご
したらしいが、その浅野氏が亡
くなった
後は姫は出家して寺に
入った。

その寺は将軍家の三つ葉葵が下
賜されて、今でも使っている。
他家の家紋を僭称したり盗用す
るのは言語道断の日本人とし
て人に非ずの行為である事は現
代も変わらないが、支配者本家
家紋そのものを下賜された寺
も結構大変だ。
一般参拝者も、畏れ多くもかし
こくも天下の将軍家三つ葉葵
の紋の前では粗相をしたら首
が飛ぶ。江戸時代とは、無礼
非礼は即、死を意味する時代
だった。
かといって、現代はあまりにも

世の中無礼者だらけで話になら
ない。

戦国末期中世までの三原には
平地が殆どなかった。

小早川は海上に浮かぶ大小の
島々を繋いで海上に城を作った。

いってみれば、江戸湾の台場
を繋いでいるようなものだ。

ゆえに三原城は海上から見る
と浮いているように見えるた
め、「浮城(うきしろ)」

と呼ばれた。

では江戸期に発達した城下や
田園は江戸期直前まではどう
だったかというと・・・


現三原市の市街地はすべて
海の中である。

大きな入り江が現在山間部
である広島空港ふもとの辺
りまで入り込んでいる。


現在の地図に入り江の海岸線
を引いてみるとこんな感じ。



(クリックで拡大)
ちなみに・・・
●は安芸国。
○は備後国。
Aは三原城。
江戸期には城下町も整備され、
城下には人口1万人が住した。


今の三原の市街地すべては海
の中!

現在の三原市中心部に住む人
はすべて全員が江戸時代以前
からそこには住んでいない
ことになる(陸地がないため)。
上の地図の入り江西端から西
側の陸地部分には古墳群があ
るので、隣接する吉備国や
ヤマト中央とも密接な関係の
有力な豪族が古代には存在し
たと思われる。
古墳時代後期の竪穴式石室は
50基ほど三原市内で確認され
ている。
戦国時代の海は沼田川(ぬた
がわ)の尋常ならぬ堆積に
よりじわじわと平地が自然に
出現した。
また、江戸期には埋め立て新開
(しんがい)も開発された。

明治維新後も沼田川の堆積は
続き、維新後の一時期、明治
政府は三原に西日本鎮守総督府
を置こうとしたが、堆積が激し
いため断念した。

沼田川は今でも天然鮎が溯上
する川として、毎年6月の鮎
解禁には鮎釣り師が訪れる。
釣り穴場は空港の下の方の渓流
(とまでいかないが)の相が
ある場所。


三原市の沼田川。上流の渓流に
見えるが、戦国時代まではこの
画像地点のすぐ下流が河口で、
入り江はこの付近まで奥深く
延びていた。


鎌倉~南北朝~室町~戦国~
安土桃山・・・

三原は、地名はあるが地面は
なかった。

万葉の頃、瀬戸内海交通は
盛んだったが、もちろん三原
にはかくたる港もないただの
寒村だったので、素通り。
古代湊としては尾道と福山の
鞆の浦が交通の要衝であり、
保水地としては糸崎が井戸先
としてあった。


それでも、沿岸部から少し
入った三原地域では古墳時代
以前から製鉄(製錬か精錬か
は学説が分かれている)が盛
んな土地で、これは7世紀に
吉備国が備前・備中・備後の
三国に分けられる以前から

の歴史があり、国内有数の
産鉄地だった。弥生頃から。

平成3年(1995)に発掘され
た三原市の小丸遺跡は、現在
のところ学術的には日本国内
最古の「製鉄遺跡」とされて
いる(異説あり)。
しかし、スラグ=鉄滓(てっ
さい)と共に鉄鉱石も出土し
ているので、砂鉄製鉄が行なわ
れたのかどうかは今後の研究に
より明らかになっていくだろう。
直接鋼を取り出す製鋼(ケラ
出し)と、銑鉄(超高炭素鉄)
を吹き出してから脱炭させて
鋼を取り出す間接法の二者は、
日本の製鉄の歴史にも関わる
ので大きな問題でもある。
(各地の出土遺跡も間接法か
直接法かで学説が二分している)
小丸は韓鍛冶(からかぬち)系
ではなかろうか。
時代比定は3世紀との事なので、
邪馬台国卑弥呼の時代という
事になる。
その頃、現在の三原市山間部に
製鉄もしくは精錬集団がいた。
「倭国騒乱」の頃だ。
卑弥呼死亡がA.D.245年前後。

現在の三原がある旧備後国の
御調郡(みつぎごおり)の名
は、『万葉集巻之十五』「備後
国水調郡長井浦(きびのみちの
しりみつぎのこおりながゐの
うら)に丹泊まりする夜に作る
歌」に「水調(みつぎ)郡」と
出ており、「長井の水」を神功
皇后に貢いだことによって命名
されたといわれている(ここで
は献上物は鉄ではなく水とされ
ている)。ここが糸崎となった。
山間部に位置する八幡町宮内に
ある「御調八幡宮」は、和気
広虫(法均尼)が備後に流さ
れてここに来たとの伝えがあ
り、参議藤原百川が宝亀8年
(777年)に御調八幡宮の社殿
を建てたと神社縁起に記録され
ている。
現三原城から北東方面にある
現中之町には式内社賀羅加波
(からかわ)神社があり、
『延喜式』(905~927)による
と、現高坂町には真良駅(古
代山陽道)があった。「八幡
(やはた)」「からかわ」
「しんら/まうら=まら」・・・
全て産鉄・製鉄に関する単語であ
り、古代の御調郡がいかに製鉄
文化と密接な地域であって、同時
に古墳群を形成する勢力が影響
力を持つ土地であったことがう
かがえる。

最近学問の世界では、反目し
合っていた考古学と歴史学が
ここ10年程で手を結びつつある
が、
歴史的な事象の学究的解明
は総合的な立場からやらないと
研究進度が牛歩のようになるの
は目に見えており、いままでの
歴史学と考古学の確執は学術研
究の進展を妨げていたと確信す
る。
だが、刀剣をめぐる日本の鉄文
化の解明は、学術的にもまだ
明るい未来は保障されていない。
刀剣界では、つまらない権威主
義がいまだに我が物顔で居座っ
ているからだ。
江戸時代が始まるまでは三原は
海の中であるのと同じく、人の
心も海の中、といった感がある。
 
刀剣という観点だけでなく、
日本の鉄の歴史そのものを探る
という点で
この書はとてもため
になります。


『鉄と日本刀』(天田昭次著/
土子民夫解説/慶友社)


本書は、作者が「玉鋼神話」
から脱却できていないのが
珠に疵だが、古代製鉄を考古
学の研究資料含めて多角度か
ら分析を試みているその姿勢
は大いに評価できる。十分参
考になる書であると思う。

第一、たとえ人間国宝だろう
と刀鍛冶がこのような重要な
書を残したのは近年記憶にな
い。岩崎航介氏以来ではない
だろうか。

ただ文章が書けるだけでも駄
目だし、ただ名品が作れるだ
けでも駄目だし、ただ最高学
府を出ただけでも駄目だ。

人間国宝刀工だった故隅谷正
峯先生が書いてくれるかと思
っていたが、ついにここまで
の書は残してくれなかった。

視座というか確固たる旺盛な
研究心がないとできない。

天田先生は、研究者としても
素晴らしい方だったと私は思
う。

この書は、天田刀工の渾身の
書だ。
日本刀研究者と歴史研究者に
はおすすめ。


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