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100年を紡いだ日本サッカー 先人に感謝、未来へ決意

まさに「過去への感謝、未来への決意」というコンセプトどおり。1921年9月10日に創立された日本サッカー協会(JFA)は、節目の100周年を祝う式典を100年後の同じ日に千葉県浦安市の舞浜アンフィシアターで行った。サッカーという競技を日本に根付かせた先人たちの努力と労苦に感謝し、同時にそれを継承し発展させていくことの責任の重さと喜びをかみ締める一日になった。

2021年元日の天皇杯サッカー決勝を始点に、この1年間を「THE YEAR」と題したJFAはさまざまな活動を行ってきた。その一環として「THE DAY」と名付けられた9月10日に開催したのが、100周年のセレブレーションだった。

式典が始まるとJFA名誉総裁の高円宮妃久子さまのお言葉があり、日本サッカーのワールドカップ(W杯)絡みの名場面やインタビューを基に制作された「日本サッカー歴史絵巻」が上映された。映像も音響も素晴らしく、私が知らない時代の逸話もちりばめられて、「そうだったのか」という驚きの連続だった。

歴史絵巻は3部構成で、第1部は「なにも知らなかった時代」、第2部は「世界との差を意識した時代」、第3部は「世界に食らいついた時代」とそれぞれサブタイトルがついていた。

「なにも知らなかった時代」の映像や逸話から感じたのは、歴代の会長をはじめとするサッカー関係者の大変な努力である。1968年メキシコ五輪銅メダルに多大な貢献をされたドイツ人のデットマール・クラマーさんは「日本サッカーの恩人」と称されるけれど、財政的に決して豊かではなかった時代に、そのクラマーさんの招請を実現させた当時の野津謙会長の決断も本当にすごいと思った。

「世界との差を意識した時代」の登場人物である奥寺康彦さんの逸話も興味深かった。奥寺さんは77年に日本人選手で初めてドイツ・ブンデスリーガに渡り、86年に帰国するまで第一線で活躍したレジェンドだ。その挑戦の裏には当時、日本代表の監督だった二宮寛さんが、あえてドイツで代表合宿を張り、かねて親交のあった名将ヘネス・バイスバイラーさん(当時1FCケルン監督)の目に触れる機会を設けたことがあったらしい。

そこでバイスバイラーさんに見初められ、奥寺さんも渡独を決断し、その後の活躍につながったわけだから、どんな環境でも常に世界を見すえて、周りにどう思われてもチャレンジすることの大切さを思うのだった。

79年のワールドユース(現在は20歳以下W杯に改称)開催もそうだ。「そんな少年の大会をやってどうする?」という意見は当時もあったそうだ。しかし、ワールドユースを立派に運営したことが、2002年W杯招致の助けになったことを思うと、分不相応に見えても、ちょっと背伸びをして、つま先立ちで頑張るDNAはこれからも大事にしたいものである。

第2部の登壇者の中に、私の大学時代の恩師の大沢英雄先生(現学校法人国士舘理事長)がおられたのはうれしかった。大沢先生といえば大学サッカー界で知らない人はいないが、実は静岡の堀田哲爾さんらと一緒に現在の小学生の全国大会の基盤整備もされたのだった。

当時は「子供の大会なんだから勝敗なんか決めなくてもいい」という意見もあったそうだ。それを「チャンピオンを目指すから成長するし、見る側も感動するんだ」と関係者を説いて回ったという。高橋陽一さんが描かれたサッカー漫画の金字塔『キャプテン翼』とともに、それが小学生レベルでのサッカーの普及や振興にどれだけ役立ったことか。

有名無名、プロアマを問わず、草の根レベルのサッカーには多くの人たちの手が関わっている。そこの土壌が肥えていることを抜きにして、強い代表はつくれない。そういう意味で、元日本代表監督の岡田武史さんが壇上で、今後の日本サッカーの課題として育成における「多様性」を挙げていたのも印象的だった。

式典会場にはいろいろな配布物があり、その一つに、印象に残る試合のベスト10というのがあった。インターネットでサポーターにアンケートした結果をまとめたもの。

それによると第1位は日本が初めてW杯出場を決めた1997年11月のイラン戦、いわゆる「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれている試合だ。2位は2011年の女子W杯ドイツ大会で「なでしこジャパン」が優勝を決めた米国戦。3位は「ドーハの悲劇」として記憶される1993年10月のイラク戦。4位は28年ぶりにオリンピックに出場したアトランタ五輪でブラジルを破った「マイアミの奇跡」と続く。

5位は2018年W杯ロシア大会で2-0から逆転負けを喫したベルギー戦。6位はW杯初勝利を挙げた02年日韓大会のロシア戦。7位は1993年5月のV川崎(現東京V)と横浜MのJリーグ発足試合。8位はW杯日韓大会の第1戦でベルギーと引き分けた試合。9位は68年メキシコ五輪の銅メダルマッチ、そして10位は2018年のクラブW杯決勝でレアル・マドリードを追い詰めた鹿島の大善戦。

このランキングを見ると、まさに「世界との差を意識した時代」「世界に食らいついた時代」の歴史が走馬灯のようによみがえる。数多くの挫折を味わいながら、それでも、ひるまずチャレンジし続けてきた日本サッカーの歴史そのものというか。

JFAの田嶋幸三会長は式典の最後に「未来への決意」と題したプレゼンテーションを行った。「未来への布石を打ってくださった皆様に感謝し、私たちもこれからの100年に向けて布石を打ち続けていく」と。ひしひしと感じたのは、人を育てない限り、その集団に明るい未来はないという危機感であり情熱であった。私も同感だ。

身近な例でいえば、久保建英(マジョルカ)がいる。久保は小学生の途中からスペインのFCバルセロナの育成プログラムに組み込まれたことで、同年代の日本選手とは、ひと味違う選手になった。ずっと日本にいたら、どうなっていたかを考えると、日本の育成環境(指導者と練習環境と競争相手の質)をどういう方向に整えていくべきか、多角的に検証する必要を感じる。

特に私自身は指導者の育成が最重要課題に思える。いい選手はいい指導者から育つし、いい選手はいい指導者を育てもする。当たり前のことだが、サッカー大国と呼ばれる国は両方がセットで回っている。

良い指導者を養成するために、JFAは指導者のライセンス制度を設けている。それはクルマの運転でいえば、公道やサーキットを走るための〝最低限〟の免許をそれぞれに付与するもの。免許が取れたら終わりではなく、そこから先は自分で実地にクルマを転がして技術を身につけていくしかない。指導者も選手も、教えられるものではないことをトライ・アンド・エラーを繰り返しながら自分で学んで覚えていく必要があるわけだが、日本の指導者の場合、そういう経験を積める環境が乏しく、まだまだ改善の余地があると感じる。

セレブレーションの最後を飾ったのは「いきものがかり」の素晴らしいライブパフォーマンスだった。歌ったのは「ブルーバード」と「風が吹いている」で、聴きながら日本代表の「青」が未来に向かって羽ばたくイメージが強く喚起された。節目、節目で尋常ではない情熱を傾け、サッカーの裾野を広げ、頂点を押し上げようと必死にもがいた先人がいた。小学生や幼稚園の子供たちにまでサッカーが普及し、1990年代以降はW杯出場の常連になれたのも、そういう先人たちが懸命に歴史をつないでくれたおかげだと。

1世紀という単位で振り返ると、これまでの日本サッカーの100年は、人材育成の100年だったと読み替えることができるとも感じた。後に続く世代にきちんとしたパスをつながなければ。そんな決意を私も新たにしたのだった。

(サッカー解説者)

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サッカー解説者・山本昌邦氏のコラムです。Jリーグやサッカー日本代表で活躍する選手、指導者について分析、批評しています。

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