とある竜のお話 改正版 FE オリ主転生 独自解釈 独自設定あり   作:マスク@ハーメルン

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皆様大変おまたせしました。最新話の更新になります。


とある竜のお話 前日譚 三章 8 (実質17章)

 

 

全てが終わり、玉座の間に戻ったイデアはアトスと向かい合っていた。

滔々と流れる清水の音が響く空間の中、大賢者と竜は向かい合い、互いにかける言葉を探しあっている。

どちらともなく、何を言えばいいか、何処から話せばいいかを探り合いを続け、結果無言のまま時は流れてしまう。

 

 

 

 

そして今、この場にいるのはアトスとイデアだけだ。

フレイ、メディアン、アンナ等は思ったよりも激しい傷跡を残してしまった戦場跡の隠ぺいや、里を覆う結界の再調整などにかかりっきりで今この場にはいない。

そして何より……彼らは直感で判っていたのだ。イデアとアトスが二人っきりで、本当の意味で腹を割って話す時が来たのだと。

 

 

 

 

 

イデアは玉座に腰かけ、たった今全力で戦闘をしてきたというのに全く疲れた様子も見せずにアトスを見つめている。

胸の中で燃えたぎる“太陽”は未だに熱を放出し続け、更なる活力をイデアに齎すが、戦闘は終わった今となってはもはやこれだけの力は邪魔でしかない。

もしかしたら、今の自分は第三者からみれば、とても近寄りがたい雰囲気を発しており、それのせいでアトスは何も言わないのかもしれないとイデアは思った。

 

 

 

 

竜は諦めた様にため息を吐くと、単刀直入に口火を切った。

ここでは自分が主であり、主導権を握るべきなのは自分なのだと気が付いた故に。

 

 

 

 

「アルマーズの件だな?」

 

 

 

 

 

アルマーズ。数百年も昔に砕かれたというのに、未だに濃い影を落とし続ける異形の神将器。

イデアにとっては忘れがたい苦痛と、勝利の愉悦に酔いかけた過ちの記憶。

そして、そこから当然の様に引き戻してくれた彼の尊さを思い知る思いで。

 

 

 

 

だが、アトスにとっては違う。

彼はイデアよりも深く、何倍もアルマーズとテュルバンの事を知っている。

人外がひしめき合い、この世の地獄と終焉を創りだした戦役で戦友が振るった力の一つ。

 

 

 

 

間違いなく彼はネルガルとの戦いを見ていただろう。

そしてアルマーズの欠片を見た。見て、何を思ったかは判らない。

 

 

 

 

思えば最初からイデアの中には確信染みたモノもあった。

これはアトスとネルガル、二人と出会ってから薄々気が付いていたことだ。

確かに大賢者アトスならばいずれ自力で里を見つける事も出来ただろう。

 

 

 

 

だが、その切っ掛けは何なのだろうか、と。

まさか、最初から「竜の里が何処かにあるはずだから探そう」なんていう考えは、彼がここを見つけた時の反応からしてありえない。

ならば彼が世界中を旅し、自分たちを探そうとした切っ掛けがあるはずだ。

 

 

 

 

切っ掛けだ。

何故、この辺境にわざわざ足を向け、あんな面倒な調査をしたのか。

 

 

 

そして、イデアの知る限り、自分がエレブの外界に対して明確に尻尾を出した事は二度しかない。

一つはアルマーズの奪取。そしてもう一つはメディアンによる賊の大規模な征伐だ。

更に彼が神将だという事を考慮すれば、答えは自ずと一つに絞られる。

 

 

 

「お主、だったのだな……テュルバンを倒し、アルマーズを持ち去ったのは」

 

 

 

「そうだ。500年前……俺がテュルバンを殺して、【天雷の斧】を奪った。俺が、お前の戦友を殺したんだ」

 

 

 

そうか、とアトスは自らの髭を弄りながら瞳を閉じた。

彼の懐にある【業火の理】を考えれば、ある程度神将器同士でのつながりを手掛かりに捜せたとしても不思議ではない。

やがて、アトスの中で考えがまとまったのか、彼は眼を開け、小さく息を漏らす。

 

 

 

 

「……以前、戦役の際の話をしたな?」

 

 

 

淡々とアトスは語っていく。数百年前の物事の裏を。

戦役が終わり、獲物を失った怪物が何をしたか。

 

 

 

「恐らく既に知っているとは思うが、あの戦役の終結後、テュルバンはよりにもよって我らの仲間の一人を襲った。

 ……共に戦い、何度も命を救ってくれたバリガンを、奴は己の欲望で殺そうとしたのだ」

 

 

 

アトスの眼には暗い感情が宿っている。流れ出す嫌悪を彼は気にも留めず、言葉を続けた。

 

 

 

「竜族の保有する知識だけを求めて戦争に参加したわしも人の事は言えんがな。

 だが……少なくとも自らの欲望を優先し、友にさえ手を出した奴とは違う、絶対に」

 

 

 

 

いや、そもそもテュルバンの中には自分と自分に狩られる獲物という区別しかなく、彼にとっては友でさえなかったのかもしれない。

 

 

 

 

戦役の最中にもあの男は幾度も問題を起こしてきた、味方を巻き添えにしての神将器の力の行使、物資不足となれば近場の住人を虐殺しての調達、口減らしと称しての自軍内のけが人、病人の大量殺害。

女子供を何処からか拉致してきては、おそらくは親族同士のそのもの達を殺しあわせてそれを己の肴にし

気に入った女がいたら無理やり犯し、飽きたらゴミの様に部下どもの性欲処理の道具と成したり、あげればキリがない。

 

 

 

挙句の果てにはかつての戦友さえ殺そうとした化け物。

正直、竜よりもよほどテュルバンは異常な怪物だった。

理性なき怪物だ。

 

 

ハノンの顔がアトスの脳内で浮かんだ。彼女もはっきりとテュルバンに対して嫌悪を抱いていた。

何度も何度も、軍内部で対立しそうになっていたのもアトスは見ている。

 

 

 

「イデアよ、わしはここに来てから本当に満たされている。それは、ここにある知識が素晴らしいだけではない」

 

 

 

知識の素晴らしさを否定しない所が何処までもアトスであった。

そんな彼に対してイデアは先を促すように沈黙で答える。

 

 

 

アトスはネルガルの様な芸術家ではない。

彼は何処までも知識を求める一人の男であり、故にネルガルの様な気取った言い方は出来ない。

だからこそ、彼はかつての友が残した表現を使う。

 

 

 

この地を愛し、歪み、狂った彼に対して想いを馳せながら。

 

 

 

 

「ここが真の意味で“理想郷”だからだ」

 

 

 

 

アトスは瞑目した。彼の脳裏にあるのは戦役で戦った化け物たち。

尾の一撃で山ごと人を薙ぎ払い、腕を振えば地が砕け、口を開けば吐息で万物を滅ぼした絶対の災厄。

災厄と共存など不可能だと彼は思っていた。何気ない軽い動作一つで国を亡ぼす存在など、生き物ではなく、形を持った滅びだと。

 

 

 

 

大賢者の中では竜は人格をもった“個人”ではなかったのだ。

もっと荒々しく抽象的で、災害という人には抗えない絶望の擬人化でさえあった。

嵐が山を削ぎ、海を割り、火山が空を漆黒に染めるのと同じく竜はその存在で人を虫けらのように踏みつぶすと。

 

 

 

怪物……正にアトスが抱いていた竜への幻想は“個人”ではなく災厄そのものである怪物であった。

 

 

 

 

人は同じ人同士でさえ争うというのに、どうして隣人に巨大な怪物を置くことが出来るというのだ?

これは彼が戦役を通して抱いた考えであり、ここを見つけるまで抱いていた不変の真理でもあった。

 

 

 

誤魔化すことは出来ない。

彼の魔道への路の始まりは、思えば「竜」という偉大なる先駆者の後を追い、その背を刺すためにあったのかもしれないのだから。

 

 

 

 

だが……この“理想郷”は彼に違う可能性を見せた。

彼の中の「ありえない」を軽々とひっくり返し、常識を破壊し、新たな未来を彼に感じ取らせたのだ。

 

 

 

アトスは知らなかった。

竜族が料理を作ってくれるなど。屈託のない笑顔で、まるで孫が祖父にそうするように親しみを込めて名を呼んでくれるなど。

 

 

アトスは知らなかった。

彼らにも家族があり、愛する存在があって、友がいて、夜通し語り明かせる学者仲間がいたなど。

 

 

アトスは知った。

竜は絶対の悪ではない。災厄の擬人化でもない。自分たちと同じように心を持ち、喜怒哀楽を備えた生き物だと。

 

 

 

これにもっと早く気付く機会はあったはずだというのに。

伝承の中の『魔竜』が元はかつての竜族のやり方に反発を抱いていたが結局利用されてしまった存在だと判明した時に。

当時の彼はそんなことはどうでもいいとさえ思っていた節があった。

 

 

何故、ハノンがあそこまで魔竜の殺害に反対し、ハルトムートから半ば奪うように封印の剣を借り受けて魔竜を封じたのか今の彼には判る。

彼女は知っていたのだ。竜が災厄ではなく、共に歩めたかもしれないこの世界に産まれた同胞であると。

 

 

アトスはかつて見た。ハノンの脳裏に焼き付けられた姿を。力を。

一目で理解した。アレは産まれた時点で全てが終わる存在だと。

今のエレブには居ない。これからも産まれるかは判らない。

 

 

 

 

何故ハノンがアレを見ていたのか。全て判らない。

だが、今の彼にならあの時より多くの事が判る。

必要だったのは、ただ知識を貯めこむ事ではなかった。

 

 

 

一度立ち止まり、周りを見渡し、視野を広げ、それでも見えない部分を代わりに見てくれる大勢の仲間と共に歩むことだった。

この“理想郷”がある限り、あの“怪物”が現れる事はないと彼は朧に理解している。

 

 

 

“ここ”ではない何処かの存在は“ここ”には産まれない。

 

 

 

そして、今アトスの前には“友”がいる。

外見こそ少年だが、500年の歳月を生きた神竜が。

彼もまた、ついさっきもう一人の“友”をその手で殺してきた。

 

 

 

どう言いつくろおうとそれは変わらない。

「イデアはネルガルを殺した」という短い文の羅列に全てが収まってしまう。

 

 

 

結果だけ見ればテュルバンがバリガンを殺そうとしたのと同じだ。

違うのは、バリガンは殺されなかったが、ネルガルは死んだ。

 

 

 

 

……違うのだ。全く違う。

アトスは逃げ、イデアは長としての責務を果たした。テュルバンは獣の衝動に駆られて暴走した。

本当は言うべきだった。自分もネルガルの説得と……処刑に立ち会うと。

 

 

 

 

正直、あの神話を再現した闘いの中に自分が混ざろうと何も意味はなかったと認めざるを得ないが、アトスは少なくともネルガルをここに招いた責任を取るべきだった。

 

 

 

 

イデアは強い。

今までアトスが見てきた存在の中で、単純な“個”の能力だけをみればハルトムートや『魔竜』さえ大きく超えている。

外見からは想像できない程の知識量とそれを運用する知恵と経験、戦闘の主導権を軽々と奪う狡猾さ、常に余裕を以て相手だけではなくありとあらゆる全てを利用して勝利を手に入れる大胆さ。

 

 

その全てをアトスはついさっき見たばかりだ。

天変地異を巻き起こし、二転三転する戦場の中でも神竜は常に思考を巡らせ、最後は天地を断ち切る程の奇跡を以て勝利に吠えた。

 

 

 

神竜としての偉大なる“力”を抜きにしても、彼は強かった。この数年彼を見ていたアトスには断言できる。

イデアは微笑をする。そしてまるで人間の様にため息を吐き、時折冗談を口にし、どんな苦難が来ようと逃げずに立ち向かい、仲間と共に最後は自らの望む平穏を掴みとる男だ。

現に今も、ネルガルを殺して何も感じていないわけはないというのに、そんな様子は全く感じさせず、玉座に堂々と腰かけ、神としての厳粛な態度を見せている。

 

 

 

その上で彼はとても友達思いだとアトスは知っている。

ネルガルの件でも、彼は最後の最後まで彼を信じていた。

娘を奪われかけたというのに慈悲さえかけ、最後のチャンスを与えもした。

 

 

 

そんな彼が、イデアが、本来は絶対に知られたくないであろう事実を話してくれた。

自らが竜であり、この里にも大勢の竜が存在しているというのに『業火の理』を託してくれた。

それがどれほど重い決断か理解できないほどにアトスは耄碌はしていない。

 

 

 

アトスは言葉を紡ぐ。始まりの時に言われた言葉を。

あの時と似ている様で、全く変わってしまった今だが……何もかもが悪い方向に変わってしまったわけではないのだから。

 

 

 

「そうだな…………では、少し話をせんか?」

 

 

 

 

アトスの顔は少年の様に輝いていた。

渾身のいたずらを披露した悪ガキの様に。

彼にとっては記憶の中にある当時のイデアの顔を再現したつもりだったが、その顔は不自然なまでに悪役染みた笑顔が張り付き、何処からどうみても怪しげな翁にしか見えない。

 

 

 

イデアの顔は固まった。

一瞬アトスが何を言って、何をしているのかも判らず、ぽかんと口を開けて眼をまん丸く見開く。

だが直ぐにこの翁が年甲斐もなく悪戯心を出し……その上で、今、最も自分の事を考慮してくれて出した言葉だと理解する。

 

 

 

イデアは苦笑した。初めて彼の顔に少しだけ、ほんの僅かな疲れが浮かぶ。

これは肉体ではなく、精神から来る疲れ。長としてのイデアと個人としてのイデア、その中間地点の顔を彼は今出している。

 

 

 

 

 

「降参だ。全部、何から何まで話すよ」

 

 

 

 

「降参も何も、ただ話をするだけ……だったか?」

 

 

 

今度こそイデアははっきりと喜色を浮かべて笑った。

玉座に座り直すと、彼は人差し指を自分の目の前……アトスの隣に向けて術を発動させる。

金色の光が弾け、イデアは一つの物体をここに持ってきた。

 

 

 

アトスの隣に出現したのは質素ではあるが、しっかりとクッションが仕込まれ、背もたれもついている木製の椅子。

そしてその椅子の前にはセットで小さなテーブルも置かれており、その上には焼き菓子と清水が注がれた盃が置いてある。

 

 

 

 

竜が無言で椅子を勧めると、アトスは友人と談笑でも始めるかの様な気楽さでその椅子に座った。

ふぅとイデアは意識を切り替える為に深呼吸をし、まずは何から話そうかと悩んだ。

色々と……話題が多すぎて、どこから手をつければいいか判らない。

 

 

 

 

そんな竜の様子を、アトスはまるでストレスなど感じていない様に、理知的な瞳で見つめ、待っている。

かつてイデアが授業を行った際に出した課題を、必死に解こうとする二人を見ていた時と同じく。

 

 

 

「……どうして、俺が【天雷の斧】を手に入れようとしたかだ」

 

 

 

 

イデアは瞼を瞑り、あの時の自分の記憶を引っ張り出す。

何百年経とうと基本劣化しない竜の記憶はそれがほんの数か月前に起こった印象的なイベントの様にイデアの脳裏で花咲く。

闘い、痛み、愉悦、そして光と帰還。

 

 

 

今の自分を構築する大きな要因ともなった闘い。

神竜と神将がぶつかり合ったという記号だけでは表せない深い意味があそこにはあった。

故にイデアは言葉を慎重に選ぶ。何処から言おうか、何処まで言おうか。

 

 

 

嘘をつくつもりも、誤魔化す気もなかったが、それでも言葉を出し渋る。

やがてイデアは意を決した。全部、と自分で言ったじゃないか、と。

アトスは既に自分に対して十分なまでの誠意を見せてくれた。ならば返さなくてはいけない。

 

 

 

「俺には目的がある。長としてではなく……とても個人的な。その為にあの時、ハルトムートの死を待ってアルマーズを奪ったんだ」

 

 

 

 

竜は昔話を語る様に言葉を紡ぐ。

実際ただの人間にとっては昔話に当たるほどに遠い過去の出来事なのだが、両者にとってはソレはとても身近な話題であった。

人とは桁が違う時間感覚の中で交わされる言葉の中では百年という単位がとても小さく見える。

 

 

 

その中でも、だが、色あせない存在は間違いなくあった。

彼が確かに居たという痕跡が、イデアの隣で何時も笑っているのだから。

 

 

 

ここまでとても長い道のりだった。

とても、とても。

あのぬるま湯と評すべき愛しい世界から解放され、この里に来て、そして今に至るまでをどうやって表せばいいのだろうかとイデアは早々に言葉に詰まった。

 

 

 

「その目的の為に神将器を手に入れようとしたはいいんだが……勢い余って壊してしまってね。回収することが出来た欠片だけがこの里で保管されていた」

 

 

 

イデアの言葉にアトスは眼を細めた。

この大賢者はアルマーズの事を多く知っており、当然アレがどういうモノなのかも知っている。

テュルバンとアルマーズ、その二つの存在の間に境界線はなく、土と水が混じり合って泥になったかの様に分ける事が出来ないという事も。

 

 

 

アルマーズを砕いたということが、どういうことか、知っている。

そしてだからこそアトスが言う言葉は「よく倒せたな」でも「激しい戦いだっただろう」でもない。

彼がもはやこの世に存在しない獣に対して思う事、そしてアレに最期を与えた存在に対して問いたい事は一つ。

 

 

 

 

「“奴”は最期に満たされたのか?」

 

 

 

あの戦いのみを追い求め、命を理解せず、ただ壊して蹂躙するだけだった彼が、いざ自らが蹂躙される側に回った時……果たしてソレを受け入れて満足したのかと。

 

 

 

 

アトスの言葉にイデアは肩をすくめて答えた。

あの化け物の最後をイデアは忘れてはいない。忘れられるわけがない。

大きく伸ばした腕、あの丸い瞳に並々と注ぎ込まれた殺意、全身をずたずたにされてもそんなこと意にも介さない狂気。

 

 

 

もはや敗北が確定し、大地に倒れ伏しながらもあの男は戦意を衰えさせることなどなかった。

狂える獣は、最後の最後まで獣であり、そこに一切の矛盾など存在しなかった。

当に人から外れ、一本の破壊斧になりはて、闘争という概念そのものにまでなった彼は、エレブで戦争が尽きることがないのと同じように、その欲望にも果てなどない。

 

 

 

 

迫りくる自らの終わりに向けても彼は自らの存在が消え失せるその時まで、本当に、一片たりとも自分の敗北など認識していなかった。

そしてイデアは彼の事をアトス程深くは知らない。

だが、彼の最後の言葉は覚えている。

 

 

 

 

「……最後まで自分と闘えって囀っていたよ」

 

 

 

 

そうか、とアトスは瞑目した。

そしてイデアは胸の中で覚悟を決めていく。

今まで絶対にばれるまいと内密にしていた自らの正体を隠すわけにはいかない。

 

 

 

アルマーズの話題に触れてしまった以上、もはや隠し通すのは難しくなってしまった。

“個人的な目的”という単語を出した時点で内密にするのは無理なのだ。

ならばそれは何か? と聞かれ、嘘をつくなり、誤魔化すなり色々とあるが……それはしない。

 

 

 

イデアはもう既に宣誓してしまったからだ。全て話すと。

そしてアトスはその言葉を信じて待ってくれているし、彼は彼なりに受け入れようとしてくれている。

アトスが示したイデアへの“信頼”……大賢者と竜でもなく、戦役時代の対立する両者でもない、一人の男と男の問題だ。

 

 

 

イデアは、アトスとの信頼を崩す気はない。

それはネルガルとの関係が消えてしまったからではない。

長としての打算的な考えと、イデア個人の望み、両方から来る目的であり望みである。

 

 

 

ふー、とイデアが大きく息を吐くと、アトスは少しばかり身じろぎし、自らのローブの襟を正す。

イデアの纏う気配の微細な変化に気が付いた彼は、姿勢を正し、改めて竜の言葉に耳を傾けた。

 

 

 

本当に短い間、イデアは言葉を切った。

それは本当に僅かな間だけだったが、完全なる無音と化した空間の中で、滔々と流れる清水の音だけが場で反芻する。

イデアにとっては正にこれは永遠とも言える程の長さを持った間だ。

 

 

ここから何て話そうか? どうやって切りだすべきか? アトスはどんな反応をするか?

あの、恐らくは自分も夢で垣間見た人竜戦役で地獄を創りだした戦闘竜たちの創造主の弟がイデアだとしたら、彼はどんな感情を抱くのか。

間違いなく、戦闘竜は彼を傷つけようとし、そして彼の部下や仲間を大勢殺しているのだ。

 

 

 

アトスは何処までも穏やかな瞳で何も言わずイデアを待っている。

無謬を具現化させたような蒼い瞳は澄み切っており、さながら穏やかな海面の様でもあった。

彼の瞳はネルガルと違い、何も変わっていない。

 

 

 

彼は信頼してイデアを待っている。

だからイデアは意を決した。

 

 

 

「魔竜イドゥンは俺の親族だ。俺の目的は、【八神将】が封じた彼女を解放してこの里に招くことだ」

 

 

 

簡潔に竜が絞り出した声は、まるで一日中吼え続けた獣が喋っている様にガラガラで、生気が抜けていくようでもあった。

イデアはこの言葉を頭で編み上げ、口から絞り出すことによって、自らの目的を再確認して自分に言い聞かせた。

この里の長をやっているのも、力を手に入れるのも、全ては家族との平穏の為だと、強く、強く。

 

 

 

 

この“芯”はとても重要だから。

これをなくせば、自分もネルガルと同じになってしまうかもしれない。

 

 

 

 

「ああ」

 

 

 

アトスの反応はそれだけだった。

彼は驚愕も、問い詰めも、ましてや怒りを浮かべることさえしない。

人竜戦役の当事者であり、英雄でもある男は魔竜の親族だと吐露したイデアに対して少なくとも表面上は何も特異な感情は抱いていない。

 

 

 

 

戦闘竜が創りだした惨禍を彼は知っている。数えきれない程の兵士が炎に呑まれたのを見て知っている。

人が唯一竜に対して優位性を誇っていた数というアドバンテージを崩され、一気に戦況がひっくり返った事も。

 

 

 

なのに彼の返事は「ああ」だけ。

怒りも何もなく、それでいてイデアの言葉を馬鹿にしているわけではない。

イデアがアトスの様子を伺うように彼の顔を覗き見ると、アトスは無言で懐に手を伸ばし、一本の鞘に包まれた特殊な形状の剣を取り出す。

 

 

 

ベルンやエトルリアで作られている剣とは全く違う形状の剣だ。

それはただ、切るという事にのみ特化され、鍛え上げられたモノ。

始めてアトスと出会った時から、彼はこれを持ち歩いていたのをイデアは知っていた。

 

 

 

あの時は彼女とアトスは同胞である故に、その伝手で単に譲られただけだと思ったが……彼の様子を見るに、イデアが想像していたよりも遥かに深い裏があるようだ。

 

 

 

 

まだ刀身を表した訳でもないのに、鞘の中からでさえその剣は特殊な存在感を放っている。

少しばかり通常のモノに比べて太く、恐らくは男性用と思われるコレは……サカに伝わる倭刀という種の武具。

 

 

 

“眼”を通してその中身を見てやると、映り込むのは穏やか草原の景色、そして流れる風。

それは草花や種を運び、水を流動させる生命の流れを可視化したような優しく、包み込んでくれる命の息吹だ。

この一本の太い倭刀には、その外見からは想像できない程に大きな意思と力が宿っている。

 

 

 

何百年という途方もない年月が経過したというのに、ソレは決して色あせることなくここに在り続ける。

大業物、等という言葉では言い表せない程の存在感。

武器等というちっぽけで、無骨な表現では不足してしまう芸術性と神秘性。

 

 

 

故に神竜は直ぐに思い出すことが出来た。

コレが何なのかを。誰がこれをもっていたかさえも。

 

 

 

……そうだとも、イデアはこれに見覚えがあった。

あの日、サカに姉と足を運んだ時に出会った彼女がもっていた二振りの刃の内の一つ。

その名を【ソール・カティ】と語られたコレは姉妹剣の片割れだったはずだ。

 

 

 

 

アトスはイデアの興味と、郷愁にも似たような感情が宿った視線を辿りながら、一つ一つ言葉を丁寧に編み合わせた。

 

 

 

 

「この刀は……我が友の形見であり、意思だ……彼女に託された願いがここにはある」

 

 

 

 

“彼女”……そしてエレブでは珍しい刀、それも人ならざる力を宿したソレは神竜の記憶を刺激し、あの時の思い出を鮮やかに脳裏に映し出した。

 

 

 

 

ハノン。その名前をアトスが口に出せば、神竜は目に見えて様々な感情を顔に浮かばせた。

それによってまた一つ、アトスの中で様々な情報が繋ぎ合わさっていく。

イドゥンという魔竜。その殺害に文字通り全てを掛けて反対したハノン。彼女の中にいた“怪物”と後悔。

 

 

 

 

そして目の前のイデアだ。魔竜イドゥンの親族であると言う……とてつもない力をもった竜。

ここまで全てが揃えば、例えアトスでなくともこの皮肉に満ちた運命に何らかの形で感じるモノが浮かぶはずだ。

 

 

 

 

だが………。

 

 

 

 

「彼女の願いはただ一つ。父なる天、母なる大地、そしてそこに生きる者らが平穏を謳歌して命を回す事……そこに人も竜も関係はない。ちょうど、この里が彼女の“理想”だな」

 

 

 

 

イデアの眼が一瞬も視線を逸らさずにアトスを見ていた。

色違いの紅と蒼の眼の奥は揺れに揺れているようでもあるし、鉱石の如き硬質さを備えてもいるようだ。

だが……その瞳は言葉以上に多くの事をアトスに訴え、そして彼に確信を抱かせる。

 

 

 

 

イデアが何を不安に思っているかも、アトスは悟った。

彼は大賢者であるが前に、一人の魔道士であり、そして経験豊富な人間でもある。

ネルガルという友情を抱いた存在を自らの手で滅ぼした“友”が今、こうして自分に本当の意味で全てを打ち明けた意味も、その裏にある感情も、彼は多くを読み取れた。

 

 

 

だからこそ、アトスはもっと判りやすく、更に簡潔に言葉で全てをまとめる。

 

 

 

「お主の言葉を借りるならば、戦役は500年も昔の、遥か歴史の彼方だ」

 

 

 

それが全て。時間にして5世紀、世代で言え十は超えている。全ては過去の悲劇でしかない。

 

 

 

光に抱かれ、消えた亡霊に投げかけられた言葉が、そっくりそのままイデアへと返された。

これはアトスの偽らざる本音であった。彼はもう戦役を過去の“記録”としてとらえている節がある。

日記帳に書かれた文字を読み上げ、あぁ、そういえばそんなこともあったなと思っているのに近い。

 

 

 

 

もう戦役は終わった。闘いの時は過ぎ去り、エレブからその痕跡さえも消えかけているのが現実だ。

今の時代の者は正直な話、アトスを見る眼さえも懐疑的で、本当に数百年も生きているのか? や、本当に戦役はあったのだろうか等と疑問視している。

だが、それでいい。アトスは戦役が忘れられる事に対して怒りはない。

 

 

 

もう終わった事なのだ。全ては。

数百年前に起こった事は既に歴史になりはて、多くの書物の中で埋もれていくだろう。

今を生きる若者達がやるべきことは過去を探ることではない。

 

 

 

彼らはよりよい明日の為に今日を生きればよい。

 

 

 

 

「少なくとも、わしはもうどうでもいい事だと思っておるよ。ただ……お前が家族を救いたいというならば、“応援”するだけだ」

 

 

 

“応援”という言葉にはただそれだけではない様々な意味が含まれており、それらは素晴らしい可能性としてイデアに差し込まれる。

 

 

 

その言葉にイデアが何を思ったかはアトスには判らない。だが、竜の眼は揺れていた。

余りに多くの感情と、彼の中で芽生えたこれからに関する“もしも”が花咲き、イデアを胸中から突き上げていく。

アトスが言葉にせずとも、何を言っているか判ってしまった。だからこそ、イデアはいきなり目の前に現れた可能性に戸惑い、次にそれを封じ込めた。

 

 

 

今回の件で彼は自分の無力さと、一歩間違えばどう転ぶか判らない魔道の恐ろしさ、そして自分の持つ知識の危険性を改めて認識したから。

何も考えなかったわけではない。知らなかった等はありえない。そして、イデアとしては十二分に配慮し、冷静に物事を進めてきてた筈だった。

だが、結果はどうだ?  二人の娘は危機に晒され、里への危険因子を産み出し、何より……素晴らしい友を彼は狂わせ、壊したのだ。

 

 

 

こんな情けない自分が、もしも今家族を……予定より早く里に迎え入れたらどうなる?

少なくとも外界では魔竜と恐れられ、竜族の長としてあらん限りの人の畏怖を向けられている彼女を。

恐らくはかつての竜族に利用され、平常な状態を保っていない彼女と、今のこの里、そして娘たち、全てに対して完全な選択肢を選べるのか。

 

 

やっぱり駄目だったなどという「IF」は許されない。

 

 

 

ここで自信をもって「出来る」と断言するほどにイデアは傲慢ではないし、そうなった時が破滅への一歩を踏み出す時でもある。

500歳という竜族にしては若すぎる神竜、青二才と称されても仕方がないイデアは、更に未来に対して慎重に行動するべきだ。

現実においては遊戯版の様に失敗したからやはりこの一手はナシで等は出来ないのだから。

 

 

 

だが…………一番の理由はそれではないのだろうとイデアは自己分析をしている。

ソフィーヤ、アンナ、メディアン、フレイ、アトス…………ネルガル……ファ。

今の彼の周りには仲間と新しく加わった家族がいる。

 

 

 

何よりたった二人で完結していた真っ白な時代とは違い、自分の一挙手一動作に影響を受ける里が今はある。

 

 

 

自分の居場所。そしていつか帰ってくる彼女の居場所でもある。

自分たちの手で守り、発展させ、隠さなければいけない“理想郷”がイデアの肩には重く乗しかかり、彼もそれを受け入れていた。

この地の平穏と安定こそ、神竜イデアに課せられた責務であり、そして彼自信が胸を張って生きていくために必要な義務だ。

 

 

 

「ありがとう」

 

 

 

イデアの言葉に大賢者は顔の筋肉をこれ以上ない程に総動員させて、とても魅力的な笑顔を浮かべる。

凪いだ水面の様に穏やかで、とても人当たりの良い老人にしか見えない笑顔だった。

 

 

 

「いや……礼を言うのはこちらの方だ」

 

 

 

 

その先の言葉はアトスの口の中で噛みしめられた。

光の中に消えたかつての同胞である“彼ら”について、ネルガルについて、この里に受け入れてくれたこと……。

 

 

 

 

ひとしきりの会話を終えた二人の間に沈黙が戻る。

嵐が過ぎ去り、竜と人は互いが互いに与えた言葉を、そして与えられた言葉を胸中で噛みしめ、分解し、味わっていた。

 

 

 

 

「ネルガルは────」

 

 

 

唐突に沈黙をアトスが破る。

彼のとても耳障りのよいはっきりとした発音は、水が滔々と流れ続ける玉座の間にあってもよく通った。

彼の目線はイデアから逸らされ、中空を彷徨っている。大賢者の蒼い眼の中にあるのはとても穏やかな光だ。

 

 

 

「奴は……素晴らしい男だった。彼と出会えてわしは幸福だった。まさかこの年になって、新しい友人が出来るとは夢にも思わなかったというのが正直な感想だったよ」

 

 

 

一度言葉を切ってアトスはイデアを見た。

 

 

 

「“今回の件。お主が気に病む必要はない” ……この言葉は今のお主にとって気休でしかないか? 友同士の傷の舐めあいにも聞こえるか? だが、これだけははっきりとさせておこう」

 

 

 

裁判長が全てを取りまとめ、絶対の審判を下すような圧倒的な圧を言葉に送り込み、アトスは竜へと言葉を叩きつける様に述べた。

 

 

 

 

「選択肢を与えたのはお主だ。だが、選んだのは我らだ。

 それがただの親切心からでないことはわしらも重々承知していたし、それに加えて忠告もあった。何度だって戻れる機会は用意され、伸ばされた手は見えないだけであったはずだ」

 

 

 

我らは一一善悪の判断を親に問いかける子供ではない。何が正しくて、何が悪で、何をしてはいけない等という事は自分で判断できるとアトスは続けていく。

だが、と大賢者は先ほどよりもはっきりとした言葉で告知した。

 

 

 

 

「彼は進んで“喰われた” よき友であった彼は自らの虚栄心、欲望、知識に飲まれ、ねじ曲がり、挙句自分の惨めさに気が付かずあらゆる命へと手を掛けようとした」

 

 

 

 

ネルガルが死んだのはいつか? 

それは少なくとも神竜の一撃によってこの世界から消えた瞬間ではない。

イデアが滅したのはかつてネルガルであった異形であり、もうその時点で彼は死んでいたのだ。

 

 

イデアが殺したのはいわば彼の“遺骸”だ。

 

 

では、いつ彼は死んだ? 

 

 

 

竜の知識をその手にし、溺れた時から?

キシュナを作り上げ、自らが神の領域を犯していると歓喜した時?

それとも、ソフィーヤに恐怖を抱かれる行動をとった頃?

 

 

真実は誰にもわからない。

だが、毒が体を蝕み、手足が時間をかけて腐り落ちるのと同じくネルガルという男も自らが取り込んだ「闇」に魂から汚染され、晒した姿があのおぞましき邪神の容貌だ。

あの姿の何処にネルガルがある。瘴気と悪意を撒き散らし、絶望を嬉々として啜る醜悪な化物の姿に。

 

 

 

 

もう、彼はいないのだ。どこにも。

例え彼と同じ姿のナニカが現れたとしても、それはネルガルではない。

とある種の虫が擬態をするように、ネルガルの姿をした肉体を被った別物がそこにはあるだけだ。

 

 

 

 

一しきり断罪するように、言葉を苛烈に言い放ったアトスだが、直ぐに彼は萎んだ。

そこにいたのは歳衰え、臆病になり、大賢者等と他人に勝手に評されているただの老人だった。

彼は懺悔するように、深く頭を垂らし、両手で顔を覆い、自らの表情を隠す。

 

 

 

 

「だが……正直、偉そうな口を幾ら叩こうと、わしはネルガルから眼を背けた。最も奴の隣にいながら、眼を逸らしていたのは他ならぬわしだ」

 

 

 

 

基礎の基礎故に誰も気に留めなかった不安要素。おおよそまともな師がいればまず最初に習うべきはずの知識への恐怖。

アトスが最初に彼に抱いた懸念である純粋さと一度何かに没頭すると他が見えなくなり、自分を客観的に見れなくなる悪癖。

知っていた。見抜いていた。そして警戒もしていた。だが、見過ごした……否、わざと見逃したのだ。

 

 

 

ネルガルならば大丈夫。自分と同等の知識と力を持つ彼ならば問題はない。

何故ならば、それを見逃せば、自分もそうなってしまうという肯定になってしまうから。

「友を信じる」という甘い言葉の膜を張り、その中で何が蠢いているか知りつつアトスは眼を逸らしていたと思っている。

 

 

 

“偉大な大賢者”の声には辛辣な皮肉と自嘲がこれ以上ない程に篭っていた。

 

 

 

「わしは見ていたはずだった。得体の知れないモノがネルガルを貪り、成長していく様を。アレに近いモノを知っていたはずだった。世界に何を齎すかも」

 

 

 

 

竜の持つ“眼”がなくとも、アトスには人の限界を遥かに超えて生きてきた経験という“眼”がある。

それらは確かに捉えていた。

素晴らしい男の中で人知れず誕生し、善意、好意、倫理、記憶、そして彼の魂を蝕み、性質の悪い寄生虫の様に穴だらけにしながら巨大に成長を遂げていった怪物の姿を。

 

 

 

川の流れが年月をかけて岩を削り取っていくのと同じく、彼を削った化け物を。

 

 

 

そして全ては消えてなくなった。アトスは最後にそう締めくくると、顔をあげ、イデアを見つめた。

今の彼の瞳の中には悲しみだけがあった。友を亡くした事を純粋に悲しみ、自らの不手際に対して深く痛恨の念を抱いている眼だ。

 

 

 

イデアは腕を組み、慎重にアトスに対してどうするか考えつつ、心の何処かが急速に冷えていくのを感じていた。

だがこれは怒りではない。先にネルガルに対して抱いた磨き抜かれた刀剣のソレではなく、もっと人間味のある……そうだ、これに名前を付けるならば「沈静」だ。

先ほどまであった闘いの余熱ともいう胸の底の底で煮えたぎっていた沸騰する感情は完全に冷えて固まり、氷河の様な冷静さが竜に戻る。

 

 

 

 

 

冷たいが、決して冷酷にまでは至らない思考で竜はアトスの言葉と自分の失態、そしてネルガルの落ち度などをはかりに乗せて考え……その錘の比が割り出された。

 

 

 

 

「もういい。……もう、これ以上はやめにしよう」

 

 

 

殺したモノが、殺された者への思考を止めた。

 

 

口から出たのはイデア自身、我ながら何て傲慢なんだと思ってしまう言葉だったが、不思議と抵抗はなかった。

今の自分たちを客観的に見て考えた結果……これ以上は必要ないという結論だけが出てきたから。

これ以上やったら、延々と泥沼に嵌りつつ、ネルガルの事を言えない程落ちていってしまいそうだと彼は直感した。

 

 

 

「それに…………」

 

 

 

どうやらお客さんも来てるようだ、とイデアがこの玉座の間の入り口に眼を向けると、そこにある一本の柱……その陰からすみれ色の髪が僅かに飛び出ていた。

イデアが視線に力を込めて、暗に「ばれているぞ」と伝えようと、意地でも……彼女は隠れているという体を装いたいらしい。

アトスが薄く笑った。どうやら彼もこの居心地のよい茶番に付き合う事を決めた様だ。

 

 

 

だが、その前に彼は幾つか優先してイデアに伝える事があった。

 

 

 

「ミスル半島、エレブへの被害、およびソレの隠ぺい計画などは今まとめておるようだ。もう暫く立てばかなり具体的な所まで把握した資料が完成するぞ」

 

 

 

どちらにせよ、今晩中には間違いなく完成するとアトスが告げ、イデアは鷹揚に頷いた。

精神的な高ぶりも収まり、次にやるのは書類仕事と、大がかりな修繕作業……また多少の力を使う事にはなるが……問題はないだろう。

 

 

 

更に気がかりなのは未だに見つからない【エレシュキガル】【ゲスペンスト】【バルベリト】の三冊の書だ。

【エレシュキガル】と【ゲスペンスト】に対しての保護を掛けたのはナーガであるが故に、イデアのブレスの直撃を受けたとしてもまだ存在している可能性は高いというのに、何処にも見当たらない。

もしくは単にイデアの破壊の力がナーガの加護の術を超過する破壊を産み出し、魔書が消えてしまったかもしれないが……それでも懸念は残る。

 

 

 

何故ならば、最後の時点であれらは既にネルガルという異形を構成する血肉そのものになり果てていたのだから、警戒を怠る事は出来ない。

 

 

 

 

「判った」

 

 

 

 

さてと、とイデアがもう一度柱付近を見やれば、今度は髪だけではなく、鮮やかな瞳がそこから覗いていた。

両手を胸の前で組んだソフィーヤが、じぃっとこちらを見つめている。

彼女の眼はとても……複雑な感情が映り込んでおり、きっと彼女自身自分が何を言いたいのかは判ってないだろう。

 

 

 

 

彼女は確かファと一緒にいたはずだったが、何故ここにいるのかは判らない。

だが、イデアは彼女の何時もと変わらない姿に確かな癒しを覚えた。

彼女を見ていると、とても心が和む。

 

 

 

イデアは彼女を間違いなく愛している。しかし恋愛感情ではない。更に深く、慈愛に近い。

神竜はこの竜人が産まれた時にも立ち会っていたし、彼女のおしめを変えた事も何度もある。

祖父が孫を愛する感情に近く、イデアの場合は彼女をもう一人の娘に近しいとさえ思っているほどだった。

 

 

ファとソフィーヤ。

今回の件に深くかかわった彼女たちだが……今は何を思っているのか、確認しておきたいというのも事実だ。

 

 

 

「出ておいで。丁度アトスとの話も一区切りついた所だ。色々とソフィーヤとも話がしたい」

 

 

優しく、何時ものように、自分は無事にここに居て、そして何も怒ってなどもいないという事を強調しながらイデアが彼女の名前を呼ぶと、ようやくソフィーヤは全身をゆっくりと柱の影から表した。

はっきりと彼女の顔には不安が映っていた。

ネルガルがおかしくなり、居なくなった事への恐怖、イデアがネルガルと戦う事によって起こりうる事への心の痛みがこれ以上ない程に表れている。

 

 

 

そしてイデアはそんなソフィーヤの内心を読み取ることが出来る程度には長い付き合いがあった。

 

 

 

「大丈夫だ。俺は無事に、無傷でここにいるぞ。何処かへいったりはしない」

 

 

 

ひらひらとイデアが手を振り、ソフィーヤに早く「おいで」とすると、彼女は歩き出した。

最初はゆっくりとしていたが、徐々に足の運びは早くなり、最後は走り出す。

腰より下まで伸びたすみれ色の髪の毛が大きく左右に揺れ、何度か自分で自分の髪の毛に足を絡ましてしまいそうになりながらも、ソフィーヤは勢いを全く落とさずにイデアに抱き付いた。

 

 

 

幼い少女の体躯とはいえ、人一人分の全力での飛び込みを受けたというのに、イデアも、そして彼が腰かける玉座も同じように軋み一つあげずにソフィーヤの全身を受け止める。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 

何時もの様にソフィーヤはとても口数が少ない。だが、決して感情に乏しいわけではないのだ。

現に今、イデアに抱き付いたソフィーヤの身体は震えている。

ネルガルを失い、彼女にとっても大切な“家族”と評してもいいイデアが危険な場所に赴き、あれほどまでに世界に影響を与える力を行使せざるを得なかった事実に彼女は恐怖していた。

 

 

 

彼女は一度、既に父親を失っている。

だというのにもう一度、父に匹敵する存在を失うという事は、ソフィーヤにとっては正しく絶望でしかない。

一度に二人、大切な人を無くしかけた彼女は赤子に戻った様にイデアの腕の中で泣いた。

 

 

無事にイデアが戻ってくるまで、彼女はファと一緒に居た。お姉さんとして妹を安心させるために。

だが……彼女にも心があり、それは喪失を酷く恐れていた。

 

 

 

一度目は母が泣いていて、朧に“コレ”はそういうものなのだと把握し、冷静に、判っていたことだと理解できた。

だが、二度目は違う。ある日、いきなり家族が目の前から消えるのに等しい。

 

 

 

 

ぐす、ぐす、っとファとは違い、大声を上げることなく嗚咽を漏らすソフィーヤに対してイデアは彼女の耳元で囁く。

 

 

 

「見ていたのか?」

 

 

 

イデアはソフィーヤの背に腕を回し、遥か過去に彼女の父親がそうしたように小さな娘の背中をぽんぽんと優しく叩いた。

赤子だった彼女が泣き止まない時に何度もこうして、彼女の心が落ち着くのを待っていた事もある。

 

 

 

「……はい。“見えてしまった”……です……イデア、さまが……ばら、ばらになって……」

 

 

 

里の殿、その一室で大人しくしていたソフィーヤは、当然のようにイデアとネルガルの戦い、その時に起こったことを口にする。

 

 

 

“見た”ではなく“しまった”という微かな言葉の違い。

ソフィーヤはとても……竜と比較してなお、とても感性が鋭い少女であり、時には未来さえも見通す力を持っている。

そんな彼女からすれば、幾ら隔離していたとはいえ、限りなく近い場所にある異界を覗き見る等容易い事なのだろう。

 

 

 

 

本人が望む、望まないにかかわらず、だ。

自分の大切な存在がバラバラになる光景など、誰が見たがる?

 

 

 

 

「大丈夫、大丈夫だ。もう痛くもない、ほら、手足だってしっかりあるだろ?」

 

 

 

大仰に腕を広げて、何度か指を開閉するのを見たソフィーヤの眼は既にひりついていた。

彼女が意図せずに観測して断続的に見えた光景は、恐ろしいモノだった。

バラバラになるイデア、もはや人として、生物としての元型さえ留めないネルガル、無数の亡者に、彼女では理解することも出来ない超魔法を惜しみなく使われた総力戦。

 

 

いっそ全く理解できないのならば無責任だとしても幸せだろう。

だが、彼女は竜の子で、それらが何なのかを朧とはいえ理解できるだけの頭はあった、あってしまった。

 

 

 

 

全てが怖くてたまらず、彼女はファの手を握りしめながらぶるぶると震えていた。

頭が粉々になってしまいそうで、胸が焼けてしまいそうで、何もかもを否定してベッドの中で身を縮めて痛かった。

だが、ファの手前、そんなことは出来ない。自分が彼女を守らず、誰が守るのだという自負で彼女は恐怖を……見て見ぬふりをした。

 

 

 

 

イデアの服が涙と鼻水でべとべとになってしまっているが、そんな事は神竜にはどうでもよい。

 

 

 

よしよし、とソフィーヤを宥めながら、イデアは「これは後でメディアンに何か言われるかもしれない」と思っていた。

彼女は……とても冷静で知的で、常に何が正しいか、何を優先すべきかを見極められる程に大人だが、少しばかり自分の親族の事になると論理的な思考が出来なくなる時がある。

それも含めてイデアは彼女の事を信頼しているというのも紛れもない事実ではあるが。

 

 

 

 

暫くソフィーヤが望むがままに、自分が生きているという簡単な事実をソフィーヤが完全に理解し尽くすまでイデアは彼女を父親が子供をそうするように抱きしめてやっていた。

やがて完全に冷静さを取り戻した彼女は、まだ少しだけ震えながらも、小さく細い腕に強い力を込めてイデアから離れ、玉座の前で身なりを整えると一礼する。

 

 

 

「……すこし、取り乱しました………ごめんなさい」

 

 

 

そこにいたのは、ただ泣いているだけの弱くて無力な少女ではなかった。

これはナバタの巫女としての顔。怯えながら、震えながら、自らの生まれ持った力に向き合い、受け入れ、どうするべきかと自分に問いかけられるだけの強さを持った巫女としての顔だ。

幼いながらに、父と母が自分にどんな役割を与えてくれたのかを彼女は知っていて、それを全うするときの顔でもある。

 

 

 

だが……イデアの眼には、今の彼女は少しばかり………。

 

 

 

 

「何か、あったのか?」

 

 

 

 

少し違うと、ソフィーヤは首を振った。

だが、それが単純な否定ではないことは明らかであり、イデアは玉座から身を乗り出すと、ソフィーヤの眼を真っ直ぐに見つめた。

威圧が目的ではない、ただ……彼女は余り口が得意な方ではない……だから口に準ずるほどに心の声を代弁する眼からも真意を読み取りたいと思ったが故に。

 

 

 

彼女の瞳には……恐怖があった。これは、イデアに対する喪失の恐怖ではない。

もっと過去の、戦場の兵士が命の危機を記憶に焼き付けられ、それを思い出すたびに死を想起して震えてしまうのと同種の恐怖だ。

 

 

 

「焦らなくていい。ゆっくり、ありのままを語ってくれ。以前の話を、もっと詳しく頼む」

 

 

 

ソフィーヤの感じた恐怖と絶望。

あの時は確かに参考にしたが、今では更に重要性が増したソレを再度イデアは聴きたいと思っていた。

同じ話かもしれない。だが、今とあの時では違った視点で彼女の話を聴く事が出来るかもしれない、もしかしたら、見落としていた何かを……。

 

 

 

 

僅かな間をおいてから、ソフィーヤは記憶を想起する。

忘れて等いない。忘れたくても忘れらない絶望が、そこにはあった。

一つ一つ、念入りにカギを閉めて閉じ込めた無限の「暗夜」を掘り出し、言葉に置き換えていく。

 

 

 

 

カチ、カチ、カチ、と、今までどこにもいなかったはずの黒いナニカが、あの時みたそれが、彼女の背後から迫る。

 

 

 

「……夜です、冷たく、暗い、夜が………」

 

 

 

 

言葉を吐くと同時にソフィーヤの視線は遥か彼方へと跳躍する。

眼前のイデアは消え去り、周囲の青白い玉座の間でさえない所へと彼女は放り込まれる。

頭の中で歯車が軋む様な音がし、瞼の裏で現実感をもつ光が激しく瞬いた。

 

 

 

自分自身の能力である未来視が、制御できない時に起きる現象だった。

 

 

 

 

あの時と同じ、いや、あの時よりも遥かに深淵はその深さと恐怖を増してソフィーヤを見つめてきた。

ネルガルは消えたというのに、何も変わってないどころか、更にひどさを増している。

 

 

何時も通り、全く以て変わらずに彼女が生まれ持った力は彼女の意思を無視し、継ぎはぎだらけの世界を彼女に見せる。

ページの大多数が失われた本を無理やり読ませるような、ずたずたの未来を。

 

 

 

最初に感じたのは何もかもを飲み込む闇。

闇だ。真っ黒な闇が何もかもを飲み込んでいく。

水玉の様にまん丸い闇が炎で炙られた紙に浮かぶ焦げの様に世界を塗りつぶし蹂躙する。

 

 

 

 

大いなる闇は語った。

黄金の輝きは永遠ではない。いつか汚れ、曇り、埋もれる。

しかし闇は永遠だ。世界の始まりも終わりも、絶えることなく影はそこに在る。

 

 

 

彼女は“終わり”を見ていた。万象が終わる光景を。

それは火山の噴火や疫病の発生などで起こるものではなく、絶対の黒が全ての色を上書きして完了する。

本能を刺激し、掌握する恐怖を前に悲鳴さえ上げることさえ許されなかった。

 

 

 

更に深く、深淵の底まで眼を差し込み、ナイフの様に暗闇をこじ開けると、そこには逃れようのない終わりがあった。

死、幕引き、終了……かつてはずっと一緒に居ると信じていた父親でさえ例外ではないそれがある。

 

 

 

人が死ぬ。骸を晒し、その骸も黒に溶け出し、やがては黒い川となる。

あの【ゲスペンスト】の様に。

 

 

植物は枯れる。

一切合財の草木がその瑞々しさと青さを失い、灰の様な様相を見せると、バラバラと子供が手で枯れ葉を揉み込んだ時と同じように崩れる。

 

 

水は消えた。湖、海、川、そして大地にあるあらゆる水は汚染され、そこを代わりに流れるのは【黒く濁った液体】

あの怪物が撃ちだした【黒海の飛沫】が全世界を満たしたような悪夢の光景。

 

 

 

天にはまるで巨人が巨大なカーテンでもかけたように、何も映さず通さない闇があるだけ。

話しに聞いた事がある終末の冬さえ上回る秩序なき世界の象徴。

 

 

 

死、死、死、原始の混沌が望み、ついぞ叶わなかった暗黒の理想郷がそこにはある。

太陽は堕ち、命は消え去り、竜も含めた何もかもが滅び去った絶死の世界だ。

 

 

 

 

 

これこそが「あるがままの世界」だと信仰していた者らがいる。

彼らは純粋な混沌、絶望の権化故に、そこに理由などない。

その片鱗をソフィーヤはついさっき見たばかりなのだ。

 

 

 

 

 

 

だが、今、ソフィーヤは「ソレ」と向き合った。

逃げることなく、見つめ、観測し、そして咀嚼する。

溶けた鉄を無理やり嚥下するような拷問に等しい痛みをソレは彼女に与えた。

 

 

何とか吐き出した言葉には、血さえも滲んでいそうな程の凄絶な苦痛の念がある。

 

 

 

「太陽も……何もかも……飲み込んでいくのです……みんな、しんで……いなくなって………わたしは……」

 

 

 

かちかちと歯が噛みあわずに軽快な音を立てる。紛れもない、恐怖が彼女を襲っていた。

視界がぼやけるのは涙が溢れかえるためであり、膝が震えるのは小動物が死の恐怖に直面したからに近い。

だが逃げる事は出来ない。それだけは。

 

 

 

しかし、口は勝手に動き続ける。

決して言うまいと思っていた恐怖さえも表す言葉と、ネルガルの死によって閉ざされたと思っていたはずの“黒い未来”の脅威が覗き、彼女を混乱させる。

ただ、一言「嫌な予感が消えていない」と言いたいだけなのに、その中には無数の負の念が込められ、ソフィーヤはこみ上げてくる胃液を何とか抑え込む。

 

 

 

 

「まだ、予感が………………」

 

 

 

頭に靄がかかったように思考が斑に倒錯し、唇がわななく。身体の中のあらゆる熱が【フィンブル】でも受けた様に急速に消える。

それでも更に言葉を続けようとすると、イデアが立ち上がり、ソフィーヤの両肩に手をやった。

じんわりとした熱がソフィーヤに流れ込み、彼女の身体を内側より温めた。

 

 

 

これは……【ライヴ】だろうか? いや、もしくは単純にイデアの神竜としてのエーギルに近くで触れ合うだけでソフィーヤは安堵できるのかもしれない。

そして彼女は、安堵と居心地のいい優しさの中に逃げ込んだ。巫女が、未来視を止めて。

 

 

 

 

「十分だ。これ以上は必要ない」

 

 

 

短い言葉の羅列の後に、片方の手が頭に伸びて、それはくしゃくしゃと彼女の長髪を撫でやる。

小動物でも愛でるような乱暴な手の動きだったが、時折イデアにじゃれついた時によくされるソレは彼女に安堵を与えた。

視界がまた変わる。夜が消え、死が消え、何時も彼女を取り巻く、これからもずっとそばに在りたいと心から願う平穏な世界と人が映る。

 

 

 

「でも……」

 

 

 

「お前は十分にやった。心に負担がかかる事を、無理にさせたくはない」

 

 

 

イデアの言葉はもしも何も知らない第三者が聴けば、間違いなく頷いてくれるほどの説得力をもっていた。

子供に負担を掛けさせ、無理やり情報を聞き出すなど、褒められたことではない、と。

 

 

 

だが、そんなイデアの優しさにソフィーヤの胸は痛む。小さな針で刺された様に、ちく、ちく、と。

エーギルが僅かに乱れ、それは湖面に小石を投げ込まれた際の水面の様にさざ波を広げた。

 

 

 

はっきり言うならば、今のイデアの言葉は彼女が今まで築いて来た【巫女】としてのプライドを傷つけた。

ソフィーヤにやんわりと部屋に帰り、ファの傍にいる様に指示し、もはや彼女の事など眼中にないかのように、今回の件の後片付けの計画を考案しだすイデアの姿は長として立派で、ソフィーヤは尊敬している。

 

 

 

だが…………。

 

 

 

まだ伝えたい事、言いたい事がたくさんある。自分はソレをイデアに伝えなくてはいけない。

そんな使命感と、同時に今自分が生きて、とても安心できる場所にいる、これを崩したくはないという矛盾する気持ちが彼女の呂律を乱す。

自分でも何を言えばいいか、どう伝えればいいか判らなくなった彼女の口から出るのは後に何も繋がらない「でも」だけ。

 

 

 

これでいいのか? とソフィーヤの頭に言葉がよぎる。何時もと同じだ、と。

自分だって何かが出来る、少なくとも微力であったとしても、僅かでも他人の役に立てるはずだと信じ、今まで生きてきた。

だというのに、自分を信じ、愛し、優しくしてくれる存在に甘え、自分だけ痛い事から眼を背け、文字通りの「箱入り娘」として生きていいのか。

 

 

 

巫女としての地位も、言ってしまえば彼女の父がイデアと相談して残した一種の“偶像”に近い事もソフィーヤは知っている。

彼女という存在は言葉を選ばず言ってしまえば“中途半端な存在”だ。

 

 

 

竜でも人でもない、真ん中の、どちらに天秤が傾くか判らない、下手に人に近い存在が竜にも人にも持ちえない得体の知れない能力をもっている。

そこから起こるであろう様々な不和、歪み……この際差別と言ってしまおう。

竜ほど隔絶しておらず、人ほど矮小ではないソフィーヤが自らの力と存在に悩むことなく、更に部外者からの白い目で見られないために作られた地位と理由が“巫女”だ。

 

 

 

 

父がかつて幼い頃にもてなかった自己肯定の念。自分はここにいていい。自分はこうなんだという感情を作れなかった苦しさという辛い記憶。

自分がいなくなっても、この先娘が精神的に自立し、自分を肯定できるため、自分の力を受け入れる為の第一歩として与えられたかけがえのない贈り物が彼女の立ち位置でもある。

 

 

 

決して、これは飾りではない。

まして、巫女という地位の持つ役割は、長に「もうやめろ」と一言告げられただけで口を閉ざしていいものではない。

彼女だけが知っている事を、何も言わず秘して胸にしまい込むのは、許されないのだ。

 

 

 

 

 

彼女の瞼の裏に瞬間、ネルガルの顔が映った。

とても魅力的な笑顔を浮かべ、自分の描いた絵を誇らしげに見せびらかしていた彼を。

ファの繭の前で暇さえあればその様子をスケッチし、幼い竜の誕生をソフィーヤと同じほど楽しみにしていた彼が。

 

 

もういない男。、ソフィーヤ、ファと仲良くしてくれた父の友達の顔。

だが最後に見た彼の姿は異形、人としての最後は憎悪に満ちており、もうこの場所に戻る事はない。

イデアにとってのネルガルの喪失、そしてファとソフィーヤにとってのネルガルの喪失。

 

 

 

すると腹の奥底から、今までの長い生涯の中でも数える程度にしか感じたことのない熱が猛烈にこみ上げ、それをソフィーヤは竜がブレスでも吐く様に吐き出した。

 

 

 

 

「きいて下さい………! わたし、まだ……話したい事があるんです……っ」

 

 

 

それは、数百年ソフィーヤを見てきたイデアでさえ滅多に聞いたことのない声だった。

ソフィーヤという少女が発するには、余りに大きな声。

 

 

 

 

普段のソフィーヤならば、例え相手がイデアであったとしても、真正面から眼を見つめられ、強い意思の篭った瞳で覗きこまれれば堪らず気恥ずかしさで顔を逸らしていただろう。

だが、今の彼女はナバタの巫女だ。何百年もこの里で未来予知をし、時にはイデアの手助けになる情報を齎した事もある、立派な里の一員である。

長であるイデアが勤めを果たしたというのに、どうして自分だけ子供だからという免罪符で逃げる事ができる?

 

 

 

竜は沈黙し、つい今しがた「もう必要はない」と言った己の言葉を取り消すように、ソフィーヤを見つめる。

キシュナを見ていなかった自分について後悔を抱いたばかりだというのに、今度はソフィーヤを“見ない”気か? と、己の何処かが語り掛けてくるようで、今彼女から眼を離してはいけないと直感したのだ。

 

 

おずおずとした様子でありながらもソフィーヤの瞳にはとても強い意思が宿っている。

そこにあったのは先ほどまでの“巫女としての顔”ではなく、純然たるソフィーヤとして、自分の意思を表している。

何時も物静かで、余り自分から何かをしよう、他人に働きかけようとしない彼女がここまではっきり言った事の重大性を理解出来ない程、イデアは愚かではなかった。

 

 

幸いにしてまだ時間はある。

後片付けに関する書類の完成と報告までは、まだ時間があるのだから。

 

 

 

イデアはアトスに目くばせすると、彼は頷き、指先を光らせ、術を展開する。

一瞬だけ光が場を満たすと、そこにあったのは紅茶の入ったカップが幾つか置かれた丸いテーブルと椅子。

イデアはソフィーヤに椅子を勧めると言った。

 

 

 

 

「座って、一度そこの茶を飲むんだ。……舌が乾いていたら、話せないだろう?」

 

 

 

 

そして今度こそ教えてくれ。お前の見た全てを、とイデアが続けると、ソフィーヤは頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは歴史の幕間。遠い昔に始まり、そして終わった事。

 

 

 

 

 

彼には愛する者がいる。

何に変えても守り、そのためならばどんなことをしてででも力を得ると確固たる決意を抱かせる存在が。

 

 

 

 

まだ年端もいかない少女と少年が彼を見つめている。

真っ赤な瞳を悲しみで腫らし、その中に隠す事も出来ない程深い不安を覗かせていた。

嫌だ、行かないで。一緒にいてほしいと彼の着ている服の裾を掴み、今にも泣きだしそうな顔をし、彼に懇願する。

 

 

 

だがそれでも彼はこの愛しい子らと離れなくてはならない。

何故なら彼は奪われたから。取り返さなくてはいけないのだ。

自分の命よりも、身体よりも、心よりも、何と比べてもなお大きすぎる程の愛を奪われた彼は、我慢など出来なかった。

 

 

 

決して彼はこの子らを愛していない訳ではなかった。

むしろ、この子供たちの為ならば自分等どうなってもいいと思っている。

だが……それでも、それを知ってなお、彼は全てを取り返したかった。

 

 

 

そもそも、何故諦める? なぜ、奪われた自分たちが妥協しなくてはいけない?

自分たちはただ、平穏に生きていたかっただけなのに、どうしようもない屑どもの裏切りによって全てを破壊され、それでも我慢しろと?

 

 

 

 

───お姉ちゃんを、しっかり守るんだぞ?

 

 

 

くしゃくしゃと髪の毛を撫で、少年に優しく彼は言い聞かせると、少年は頷き……そして見る見るうちに下唇を噛んで涙を瞳に貯めてしまう。

床に涙が零れ、更に彼の裾をくしゃくしゃにするほど強く握りしめてくる。

 

 

 

───とぉちゃ……いっちゃ、やだ……。

 

 

 

彼は少年に布に包まれた贈り物をすると、強く抱きしめた。

またこの熱を胸で味わえる日が来ることを自分に誓いながら。

 

 

 

愛しい子供たち。

この世界で最も愛する家族を彼は眼に焼き付けるように見つめ、そして、本当に名残惜しそうに双子から離れた。

腕の中に残る温もりと気配、愛しさの残照を抱きしめ、彼は唇をわななかせながら言葉を紡いだ。

 

 

 

───いい子だ……二人とも。……きっと迎えに来る、約束するさ、父さんは絶対にお前たちを迎えに来るから……

 

 

 

きっと、必ず。親子はきっと、また巡り合う事が出来るはずだ。

こんなにも愛しているのだ、思いあっているのだ、また会えないはずはない。

 

 

 

そして、全てが黒に塗りつぶされた。これが最後。

二度と、彼は、大切な存在と触れ合う事は出来ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

永遠に。

 

 

 

 

 

 

 

 





あとがき



9月に更新予定でしたが、少し9月にリアルで大規模なごたごたがありまして、かなり遅れてしまいました。
難産だったのと噛みあって、まさかここまで遅れてしまうとは……。
活動報告の方に、少しばかり今までのキャラ紹介、使った技の紹介、仕込んだ小ネタなどの解説を書いています。



では、少し早いですが来年もよろしくお願いします。



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