とある竜のお話 改正版 FE オリ主転生 独自解釈 独自設定あり   作:マスク@ハーメルン
安穏とした空間の中、暗闇に包まれる室内に鎮座したベッドの上に幼い神竜はその身を横たわらせていた。
まるでいつもしている様に、何枚かの毛布に包まれてファは眠っていた。
陽が、太陽が地平に沈み行く中ファはうたかたの夢と現実の間に意識を浮かばせている。
そんな彼女のすぐ傍らにはソフィーヤが付き添い、巫女である彼女の背後にはイデアが何も言わず佇み、娘たちの光景を眺めつづける。
すみれ色の髪の少女は、妹の様に愛するファの手を握りしめて幼い竜に自らの熱を与え、ここから消えないでと願いを捧げる。
ファとソフィーヤを見つめる神竜の頭の中はこれ以上ない程に冷え切っていた。
イリアの極寒が砂漠と変わらないと思えてしまうほどに凍てついた思考を彼は鋭く回転させる。
もはや彼の中に今まであったネルガルへの情は心の奥底にしまい込まれ、念入りにカギを付けて閉じ込められていた。
かつてない程にイデアは冷静であった。胸の中にある熱とは裏腹に頭は何処までも冷たい。
彼は今までの状況と、こうなってしまう前にあった前兆を整理している。
ソフィーヤが感じた恐怖。
自らが危惧していた彼に感じる引っ掛かり、そしてかつてのナーガの言葉、魔道へと踏み入る初歩の掟。
何もかもが欠けたピースがくっ付く様に繋がってしまった。アンナの思いは正しかったのだ。
そして自分がこの500年で最大の失敗を犯してしまったこともイデアは理解している。
これはとてつもなく大きな間違いだ。竜は、ネルガルを信じすぎた。
既に友人であったネルガルは消え失せ、残るのは知識と力への欲求に喰われた男の残骸。
残忍な事を残忍だと思わない狂気の心を持ち、ネルガルの皮を被り、彼の声で喋り、彼の力を使う“怪物”をイデアは誕生させてしまった。
あの時の質問に答えられなかった時点でもうこれは決まっていたのかもしれない。
希望的観測はなくなり、今現実に起こっている状況だけをイデアは淡々と見つめている。
ネルガルの暴走の兆し、ファへ彼が行いかけた事、そして最近多発している不可思議な植物の死滅。
全ての報告を受け取った神竜はネルガルに対しての判断を半ば決めている。
彼は既に里の植物に手を掛けて枯れさせた。命を、エーギルを奪った。
更には恐らく小動物の類にも同じような事をしている。
アンナがもってきた秘密裏の調査書に目を通したイデアは思わずため息を吐いていた。
何故、とは言わない。もう、言っても意味などない。
もうネルガルはイデアの潜在的な敵になった。してしまった。
よりにもよってイデアの手で竜の叡智の一部を学んだ彼が。
外に出すわけにはいかない。そしてアトスから聞き及んだ彼の思想に賛同するつもりもない。
イデアは今で満足している。外界とはやり取りする事もいつかは来ると思っているが、それは外の世界の文明と人の思想が発展し、円熟する遠い日の出来事になる。
少なくとも剣や槍で相手を殺すことに熱を上げる情勢の世界に対して何かをしようと思う事はない。
それが何時になるかは判らない。もしかしたら永遠にないのかもしれない。
支配に対してイデアは興味などこれっぽっちもないのだ。
「イデアさま…………」
ソフィーヤはその美麗な顔に影を湛え、イデアを見つめていた。
ファの手を握り、彼女に自らの熱を与え続けるソフィーヤの姿はまるで雛を守る親鳥の様でもある。
「ファの……もう一つの手……握ってあげてください。きっと……安心しますから」
イデアは足音も立てずにファの傍に近寄ると、そのあどけない寝顔を覗き込んだ。
規則正しく息をし、心臓を動かしているファは紛れもなく生きている。ここにいる。
ゆっくりと指で頬をなぞると、何時もよりも少しだけ冷たい。
しかし生きている。死んでもいないし、奪われてもいない。
ファは、イデアの娘は、ここにいる。姉の様に消えてはいない。
この幼いわが子を奪われかけたという実感が今になってイデアを満たし出した。
チリチリとした、想像だに出来ない程の熱が胸の中の“太陽”から生み出される。
これはいつか感じた黒い太陽ではない。真っ赤に、残忍に輝く夕陽の様に真紅の色。
永遠に爆発を繰り返す創世の熱は、神竜の胸部を突き破り、今にも何もかもを焼き尽くしてしまいそうな程に勢いを高めている。
イデアがファの手を握ると、彼女は眠っているというのに無意識の内に握り返してくる。
小さな掌にあらん限りの力を込めて、離すまいと。左右の手でソフィーヤとイデアを繋ぎとめていた。
ファがゆっくりと瞼を開けた。そこにいる父の姿を認めて彼女は目に見えて安心した様だった。
ぐっと毛布の中で足を伸ばして背伸びして、大きく息を吸って、吐く。
「おとうさん」
ファの眼は今までに見た事がない程に力強い。
ほんのついさっき死が掠めていったとは思えない程に。
彼女は心に傷を負ってしまったと思っていたイデアの予想は外れていた。
翡翠色の瞳がゆっくりとイデアを見つめ、そしてソフィーヤへと視線が映る。
「もう少しゆっくり眠っていろ……ソフィーヤとゆっくり今夜は過ごすといい」
イデアは微笑みを浮かべてファに語り掛ける。しかしファはイデアから眼を離さない。
何時もの様に父親の声に従い、夢の世界に旅立とうとはせずに何かを考えているようだ。
今、ファの頭の中では彼女の知っている全ての言葉が飛び交い、父親に伝えたい言葉を伝える為の思いが重なり合っている。
イデアはファが言葉を発するまで彼女から眼を逸らす事はなかった。
ここで逃げるのは絶対に許されないと本能で理解していたのだ。
「ファね……おとうさんの所にうまれてこれて、よかったとおもうの」
「…………」
余りにも予想外の言葉だった故かイデアは一瞬だけ我を忘れてしまった。
惚けた様に眼を丸く見開き、ファの言葉が胸の中にしみ込むのをじっと待つ。
時間にすれば瞬き数回にも満たない刹那だったが、それはソフィーヤがまじまじと滅多に見れない顔をしているイデアを見つめて、くすくすと笑うだけの間でもある。
ふふふ、と上品に笑うソフィーヤの姿はまるで可憐な花の様である。
そういえば、最近は余りソフィーヤの笑顔は見れていなかったとイデアは思い至った。
彼女の笑顔はイデアのよく知る人物にとても似ている。もう会う事は出来ない存在だが、確かに居たという証をソフィーヤの所作から感じ取る事が出来る。
繋がっていく命の流れ、時の中でも色あせないモノはある。
断じて命は……エーギルはまるでモノの様に奪い取り、薪の様に消費していいものではない。
命を奪う時は敬意が必要だ。食料にせよ、道具にせよ、命を使う以上は元になった存在への感謝と敬意だけは忘れてはいけない。
ソフィーヤの笑顔に釣られてファも初めて寝て起きてから微笑みを浮かべた。
ふっと彼女の全身に巡っていた無意識の緊張がほぐれていく。
つらつらと、ファはそのまま感情の流れるがままに言葉を口から零し出す。
幼く、文章としての纏まりはないがそこに篭る熱は未だかつてない程に巨大。
彼女の中にあるのは未だ恐らく産みの親にさえその存在を否定されているであろうキシュナの姿。
道具とさえ認識されず、存在を認可さえされない。その苦悩を思えば思うほどにファは胸が痛くなる。
同時に自分がどれだけ恵まれているか、どれだけ愛されているか。相対的な視点を有し始めたファは自らが裕福で幸福な事を知った。
そしてその幸福を噛みしめるのに、ただ無邪気に笑っているだけではダメな事も。
余りに早い成熟だが、命の危機を体感し、無意識の内にファの精神は成長を遂げている。
「“いらない”っていわれるの……凄く痛いこと。ファは、みんなに“ここにいていいよ”って言われてて、必要だって言われて、しあわせなんだって」
だからとファは言葉を続ける。
「おとうさん、キシュナさんの事……ファを“見て”くれたように“見て”あげて。キシュナさん、おじさんの事ずっとよんでる。悲しいこえで、ずっと」
イデアはファの言葉を聞きながら何も言わない。
ただ、じぃっと自分を見据える幼い竜の瞳から感じる心の圧とも言える念を受け止めている。
かつてない程に真摯なファの声は、舌足らずなのを除けば言葉の中身は大人のそれとそん色ない程に深い。
ファの言葉はイデアの中で大きな衝撃になってもいた。
彼女のモノの見方に父は今までの自分を顧みて、そして衝撃を受けた。
ファは、このまだ産まれて間もないちっぽけな神竜はイデアよりも深く物事の本質、真理を理解していた。
彼女にとって種族や産まれなど関係ない、その純真さの中に差別はなく、より単純に物事を捉えて心が赴くままに真実を口にする。
キシュナという存在をイデアは知っている。
ネルガルが創りだした【モルフ】で、その誕生の瞬間を竜は見ていたのだから。
あの男の魔道の探究の一つの到達点にして出発点。心を、考える力を寄与された【モルフ】がキシュナだ。
そうだとも。【心】だ。
この際【モルフ】なのか人なのか、そんなことはどうでもいい。
【心】をキシュナは持っている、これが大事な事だった。
そしてイデアはあの時、自分がキシュナについて考えるのを途中で打ち切るべきではなかったと思い知る。
ネルガルがイデアにキシュナを紹介した時、イデアが考えるべきだったのは上から目線で訳知り顔を晒しながらうんちくをこねくり回す事ではなかった。
余裕がある時に考えよう? 違う、間違っていた。
あのネルガルが生み出し、最も彼の傍にいるであろうキシュナに最大の注意と関心を向けなくてはいけなかったのだ。
結局のところ、イデアは傲慢であった。命を支配する技術を手に入れ、マンナズを産み出し、そしてキシュナを無意識に見下してしまっていた。
もし、に意味はないが、キシュナを通してイデアがネルガルを見ていれば。
ネルガルが自分の歪みにキシュナを通して気が付き、己が命を操作するという恐ろしい所業を犯していると気が付いていれば。
もう、全て遅いが。
過ぎた事にもしもを訪ね続けても返答はない。
キシュナの事も大事だが、今はネルガルの事が最優先であるとイデアは内心で決定した。
そしてネルガルの事柄はもう間もなく決着がつく。早ければ、次の夜明けまでには。
全てが終わったら、一度キシュナとゆっくり話をすべきだと竜は決めてファの手を強く握りしめる。
ファは自分の話したい事を話し終えた後は目線を虚空に向けた。
一度思いを語りつくし、空っぽになった彼女の身体に時間遅れでとある感情が満たしていく。
それは恐怖。産まれて初めて命の危機に直面し、もしも何かが違っていれば死んでいたかもしれない状況を理解した竜が抱くモノ。
緊張がほどけた結果、抑圧され無意識の底に押し込められていた存在が流水となって零れる。
ファは感情の整理の仕方を学んでいるが、余りに強すぎる想いの制御は出来なかった。
ファの身体に唐突に汗が浮かぶ。
背筋は凍り付いたような寒気を発し、歯はかみ合わずにカチカチと鳴った。
目尻に浮かんだ涙はあの時ネルガルに懇願した時に浮かべたモノとは別種の感情が溢れださせる。
これが何なのかファにはよくわからない。
ただ、ただ、目の前に父とソフィーヤが居る事だけが救いで、無性に縋りつきたくなった。
混乱した頭でファはイデアの手を両手で強く握りしめる。
指が真っ白になるほど力を込めてもイデアの手は消えないし、壊れない。
そこにある繋がりを確認し、ファは自分が生きているとここではっきりと自覚する。
死んでいない、生きていると。
「……お、とぉさ…………!」
瞬間、いきなり涙を浮かべたファに驚いた様子だったイデアだったが、直ぐに何かを悟ったのか彼はファを抱きしめた。
母親が我が子を寝かしつける様に背中を優しく叩き、自分の衣服に大きな皺が出来る程強く襟を握りこむ娘を彼は受け止めた。
「あた、し……! こわかったよぉ……おじさん、どうして……どうしてぇ…………っ!」
「遅れて済まない。本来ならばすぐにでも駆けつけるべきだった……」
キシュナの沈黙の結界による一時的な錯乱によりイデアはファの存在を僅かな時間だけ見失った。
その結果が今の娘の顔だ。何も言い訳をする気はない。
ただ、自分の子供の危機に遅れた事を謝罪する。それだけだ。
ふと、イデアは今自分が発した言葉に対して酷く既知感を覚えた。
今の言葉の羅列を彼は聞いたことがある。自分が言ったのではなく、言われた側として。
……………………。
あぁ、とイデアは更に強くファを抱きしめた。
あの時、もしかしたらあの男もこんな気持ちだったのかもしれない。
何百年も昔の男がどう思ったかなど全く判らないが、少なくとも、自分はこの子の親なのだと深く思った。
えぐえぐ、と父親の胸で嗚咽を漏らしていたファはやがて身動きしなくなり、イデアの襟を掴んでいた腕から力が抜け落ちる。
今度こそ彼女は本当の意味で安心の中、何時も通りの眠りに落ちたのだ。
全ての感情と恐怖を発散し、乱れていたエーギルが安定した今、彼女は休眠による体力の回復を求めていた。
少しだけ目線を落とし、眠るファの顔を見てイデアは猛烈な気持ちに襲われた。
離れたくないという強い念が胸の底から湧き上がるのを竜は感じる。
しかし自分にはやることがある。この先にもう一つ、大きな仕事が。
イデアはソフィーヤを見た。彼女はそれだけでイデアの意を察して頷いた。
言葉を用いなくても、ある程度の意思疎通など彼女とならば容易い。
そっと、労りを以て慎重にファをベッドの上に寝かせると、ソフィーヤが彼女の手を握った。
ファは目覚めることはなく、安堵に身を任せている。
「娘を頼む」
はい、とソフィーヤが今度は言葉に出してはっきりと硬い意思を内包した声で答えるとイデアはファに背を向けて歩き出す。
転移の術をあえて使わずに徒歩で部屋の扉に手を掛けると、ゆっくり開き、音を出さないように気を付けながら閉める。
廊下で待っていたのはイデアもよく知った者達だ。
アトス、フレイ、メディアン、そしてアンナ。
彼らの顔は一様に無表情であり、イデアの言葉を仰いでいるようでもあった。
「今夜、最終的な決断を下す。同時にナバタ一帯の“場”を一時的に隔離し、結界を構築する。そして里には更にもう一枚、外部からの干渉を防ぐ結界を張るんだ」
その意味が判らない程に愚鈍な者はここにはいない。
皆が皆、神竜が何を仄めかしているか理解していた。
『仰せのままに。モルフ・ワイバーンはどういたしますか?』
乾ききった声で老竜が尋ねると、イデアは迷いを感じさせない流れる口調で流々と返答を返していく。
「全て待機状態にしておけ。里には一切の被害は出させない。これは徹底しておくべきだ。万事に備えろ」
はい、とフレイは淡々と神竜の言葉を受け止め、数歩下がる。
既に彼の頭の中では事後の処理についてが始まっていた。
彼の無数の知識と経験が詰め込まれた頭脳は若者以上の素早さと効率をもって回転する。
幸いネルガルはまだ直接的な被害を里には出してはいない。
ただ……この里の中でも代表的な存在であるソフィーヤを傷つけ、ファにも彼女が望まない干渉を押し付けた。
この二点はとても大きなポイントになる。
いかに長であるイデアの権威を守るか。神竜への信頼を揺らがせないか。
そしてネルガルへの処罰が納得にたるものか、アトスへの飛び火の少なさ。
それら全てを考慮しなくてはいけない。
無垢で幼い少女と、心優しい巫女を傷つけた男。
既にこの話題が出た当初から彼の中ではある程度の道筋は出来ている。
竜の長に友として迎え入れられながら、我が身可愛さに道を踏み外した者。
自らの欲望のままに、長との友情によって分けられた知識と力を悪用しこの里に脅威をもたらしかけた。
里の民の怒りを向けられるに相応しく、同時にそれを成すイデアの絶対性は再度認識される。
次にイデアはメディアンに声を飛ばす。
ソフィーヤがあのような事になり、もしかしたら一番何か思う所があるかもしれない彼女に。
しかしイデアが見た彼女の顔には一切の表情はなく、“眼”で見てもその内面さえもまるで夜の海の様に凪いでいた。
彼女は怒っていない。
ただ、竜族の全てを長であるイデアに委ね、その結果を受け入れる気であったのだ。
彼女は要所要所では感情をかなり無機的に処理する。
その心の奥にあるのは始祖の混沌とは違う種類の……暗黒か。
「里を覆う結界の展開と維持はお前に任せる。ナバタの隔離と異界化は俺がやる」
「はい。長のご指示通りに」
一礼し、メディアンが下がった。
一瞬だけ、彼女の“眼”が室内のファと自分の娘に向き、その瞬間に彼女の心が僅かばかり綻んだ事をイデアは察知したが何も言わない。
彼女ならば何も言わなくとも全てをやってくれるという信頼がある。
ソフィーヤも、ファも、そしてこの里の住人の全てを彼女は愛しているのだから。
「アトス」
イデアはアトスの名前を読み上げる様に発すると、手元に転移の術を用いて一つの書物を呼び寄せた。
分厚い本は片手で持つのは多少面倒だったが、イデアは5本の指で表紙と裏表紙を鷲掴みにしてソレをアトスの前に掲げる。
見事な金細工を施され、微かに朱い魔力光を漏らすソレの名前は【フォルブレイズ】と言った。
【業火の理】と称される神将器は竜殺しの力であるが故に、ただ触れているだけのイデアの手をジワジワと焼いているが
神竜はそのような事を全く気にせずに平然とし、それに答えるように無意識に収束された黄金のエーギルが彼の腕を破壊の数倍の速度で再生する。
「これを貴方に返す。メディアン達と共に里を守ってくれないか?」
アトスの答えは「よいのか?」ではない。
そんなつまらない疑問を大賢者はこの期に及んで口に出す程愚かではなかった。
イデアが必要だと判断し、アトスと彼の書に脅威がないと認めたのであり……そして人や竜など関係なく、今ここにいる“自分”を信じたのだとアトスは察した。
八神将と竜。本来ならば相容れない存在だったが、この数年でソレは変わった。
それはいい変化であるが、同時にコインの裏の様に負へと寝返ってしまったモノもある。
だからこそアトスは余計な事は言わない。
肝心な部分で臆病風に吹かれ、友の暴走を許し、そしてファの心を傷つける事になってしまった自分を変わらずに信じてくれる友の思いに答える為に彼は恭しい動作で竜殺しの兵器を受け取った。
かつての竜を殺すための兵器は今や竜と人の理想郷を守るための力としてここにある。
「アンナ」
そして最後にイデアはアンナを呼んだ。
彼女の顔には何時も通りの微笑みが浮かんでいたが、そこには常に湛えている余裕はなかった。
何か彼女はとても混乱し葛藤しているようにも見える。
しかし張りぼてと化した今も彼女は笑みを消さない。
ただ、ただ、心の奥底、とても深い部分は絶対に晒さずくすぶる火種の様にイデアの前に立っていた。
思えば彼女は最初からずっとネルガルに接し、彼には恋愛とは別種の思い入れが在るようでもある。
最初にネルガルに対して違和感を感じ、最初に彼に“恐怖”と危うさを嗅ぎ取ったのも彼女。
そして彼とアトスとこの里に招く役割を果たしたのもアンナ。
今回の騒動の中心とは言えないが、限りなく重要な場所に彼女はずっと座している。
この場合休息を与えるべきか、仕事を与えるべきかとイデアは悩んだが直ぐにその答えを出す。
「付いて来い。離れた位置で待機し、見届け人になってくれ」
彼女はイデアの言葉をまるで予期していたかの様に首を縦に振ると、無言のまま従者としてイデアの背後に控えた。
最後にもう一度背後のアンナを“眼”で見ると彼女の胸の中から一切の葛藤はなくなり、代わりにあるのは冷たい煤の様な冷淡な感情。
これは……“諦め”に近い様であり、何かに期待しているようでもある。
しかし期待とはいっても、これは良いものではない。
不幸の中から小さな光を探し求めるような、必死な足掻きにも近い。
最後に一度だけ、イデアはアンナを振り返って見つめた。
もしも彼女がここで辞退するようならば受け入れるつもりで。
己の内心を探られてる事など当に把握しているアンナはイデアに向けて今度は微笑みではない、しっかりと笑顔を浮かべて返す。
この笑みは竜の活力を宿した笑み、アンナという女の芯の図太さを示すような、困難を乗り越えるだけの力を宿した顔。
諦めも失意も既に超過し、アンナは神竜イデアの臣下として、そしてこの里の一員としての役割を担う竜として強く在る。
いや、在らなくてはならないのだ。先代から今に台替わりした時から。
「私は大丈夫ですわ。“彼女”に比べれば、こんなモノ大したことなどありません」
イデアは一瞬アンナが語る“彼女”が誰の事を示しているのかが判らなくなった。
だが直ぐにイデアは前を見る。見ざるを得ない。
もう後ろを見る事は彼には許されない。もしも、たら、れば、で甘い事を言う事は出来ない。
やってしまった事の後片付けをしなくては。
外は既に太陽が沈み行き、この里が出来て以来最も長いかもしれない夜が来る。
夜の中にもう一つの“太陽”を掲げるべく、神竜は歩き出した。
音もない夜だった。
普段はうるさい程に轟々と渦を巻く砂嵐もなく、雲一つない空には真っ青な月が堂々と座している。
果ても境界線もなく続く天地が僅かに“歪んだ”
一見するだけではその違和感には気が付かないが、もしもある程度の学をもった者がこの現象を見てしまったら、伝承の終末の冬とはこうだったのかと唸るだろう。
星々がまるで魚の眼に映る光景の様に丸みを帯びて、ある一点を中心にして東から西へではなく、まるで嵐の渦の様に回転を始めた。
台風の中心の眼の中から見れば周囲を雲が回転しているのと同じように、夜の光景そのものがクルクルとまるで一定の方向へ風車の様に回る。
偉大なる神の御業によって創りだされた箱庭の中で、星たちは踊る。
その華やかで幻想的な景色の下で何が行われようと、一切の興味さえ抱いていないように。
あくまでも景色と空間を歪めただけで、いかに神竜の力といえど遥か彼方の星々にまでは実際の影響を及ぼす事は出来ない。
これは種を明かしてしまえば蜃気楼に近い原理。
かつて竜族が作り上げたアンティキノラという星々の動きを模倣し、光と影によって星の動きという大いなる神秘を部屋サイズで再現する絡繰り。
それが全天規模で再現されたかのような錯覚を見たモノは抱くが、変わったのは星ではなくミスル半島、ナバタ砂漠の方だ。
大きく水面が揺れている水の中から外の景色を観測すれば外の景色が不規則に揺れるのと同じ。
この場合の水中はミスルであり、揺れる水面は空間の事を示す。
かち、かち、という歯車同士が噛みあうような無機質な音波と共にナバタの全域は一瞬にしてエレブより隔離され、一つの巨大な独房となる。
外部からは何も見えない。そこに何があるのかも判らず、そもそもココに独房があるのかさえ理解は出来ないだろう。
あのアトスでさえ里に掛けられた隠ぺいと遮断の結界の調査には途方もない時間を消費したのだ。
数百年前の人智を超えた戦役時代ならばともかく、今の魔道士ではエトルリアの魔道軍将でさえもイデアの創りだす場の歪みと遮断には気が付ける訳もない。
可能性があるとすれば、かつてのアトスの弟子だったリグレ公爵家のモノか。
それでもその可能性は砂よりも小さい。
そう、これはとても理想的な檻であり、執行場だ。
どれだけの力を行使しようともかつての全盛の八つの兵器と竜の力の激突に及ばない限りは崩れない壁。
ネルガルとアトスが探し当てて、疑似的な『秩序』の崩壊を齎そうとした時よりも遥かに力を込めて作られた隔離異界。
『竜脈』と評すべき世界に溢れる力の流れさえ遮断され、何も見えない、聞こえない、通らない。
ここならば例え天変地異が起ころうと外界には一切の影響はありえない。
一晩だけのエレブと異界の狭間がここにある。
黒く冷たい砂の上に二人は立っていた。
一人は温和な笑みを浮かべ、もう一人は無表情で。
その身に纏う衣装も対照的に黒と白。
金で縁取りをされた純白の衣装はイデアの長としての正装。
マント、ローブ、そして頭に被るターバンの様な帽子も金白だ。
そして彼の目の前の人物はこの里に来た時と一切変わらない顔で、同じ服を着ている。
二人の男、ネルガルとイデアは10歩分程の距離を置いて向かい合っていた。
吹き抜ける風がマントを揺らし、彼らの髪を撫でる。
「ネルガル。ここに呼び出した理由は判っているな?」
うん? とネルガルは無垢な顔で顔を傾げた。
彼の中での予定と今の目の前のイデアの様子が上手くかみ合わず、齟齬に対しての戸惑いさえそこにはある。
だが彼は直ぐに温和な笑顔を浮かべて、溢れる喜びを隠そうともせずに話す。
「判っているよ。今日は記念すべき日になる。イデア殿と、アトス、そして私達が真に素晴らしき位階へと上り詰める始まりの日なのだからね」
両手を広げ、イデアを抱きしめるような大仰な動きをする彼はまるで聖人の様に汚れのない笑顔を浮かべている。
これから自分の努力が報われ、友と共に栄光の道を歩むと信じているからこそ、そこには悪意などない。
「それならばどれだけよかった事か」
一泊の間を置いて、イデアは言葉で切りこんだ。
この会話はとても大事なモノになる故に、あらゆる矛盾も、不足も許されないのだから。
「ファを傷つけたな」
竜の力を狙ったでも、幾つものエーギルを己の為に犠牲にしたことでもなく、最初にイデアが紡いだのはその言葉だ。
そこには全ての意味が含まれており、ネルガルから一瞬だけ笑顔を消し去る程の圧が込められている。
思わず神将にも匹敵する術者である彼が半歩だけ後ずさる程に、その念は深く重く、黒い。
この世界でたった二つだけの同族を冒された怒りは彼自身も理解できない程に質量を増大させている。
だが、とネルガルは勇気を振り絞り答える。確かに彼は自分が悪い事をしてしまったと思う気持ちは残っているのだから。
下手に弁明や言い訳を幾つも吐き出すよりも、素直に謝罪してしまおう、そうすればきっとまた。
「あぁ、その事か。もうどうでもいいことじゃないか。そんなことは。今はもっと大事な事を話すべきだ」
何だ? とネルガルは内心で鎌首をもたげる。違う、自分の言いたいことはコレじゃない。
自分は謝罪しなければならないはず。イデアの娘を傷つけ、摂理を犯し…………それの何が悪い?
娘を、奪われる憎しみ。子を失う絶望、家族を奪われる憎悪、その全てが鬱陶しくネルガルには映る。
イデアの顔がネルガルの眼の前で見る見る更に硬くなっていく。その眼にあるのは冷静な光。
ネルガルという男を観察し、今はどうなっているのか診断を下そうとする医者の様な眼差し。
光の中にある彼の姿はネルガルが憧れる存在そのもの。
彼が最も敬愛し、師と仰いでもいい程に眩く輝く存在。
そんな彼から放たれた言葉はネルガルの予想を遥かに超え、そして彼という存在を侮辱するものでしかなかった。
「ネルガル。長としての命令だ。全ての研究資料を破棄し、これからは里の一住人として過ごせ」
それはイデアの最後の甘さか、もしくは絶対者の傲慢か。
はたまた500年の月日を経ってなお埋められなかった喪失への恐怖が齎す鈍った判断か。
ネルガルの顔が瞬間的に憤怒に染まるが、彼はソレを強靭な精神力で抑え込む。
イデアの言葉はネルガルにとっては死よりも恐ろしい事。力を手に入れたモノはソレを失うことを最も恐れる故に。
あふれ出る怒りをネルガルは必死に押し殺し、最も愚かな選択をしようとする尊敬する男の説得を試みる。
「なぜだ? 何故そのようなつまらない事を言うんだい? 私達が力を合わせれば何だってできる! 私に無限の可能性を示してくれたのは他ならぬ君じゃないか!!」
眼を血走らせ、顔を真っ赤に染め上げながら激情に駆られたネルガルは更に言葉を口走っていく。
胸の奥底で燃えるどす黒い念が過去類をみない程に膨らみ、まるで竜のブレスの様に吐き出される言葉は彼が無意識の内に観測しながらもどこか眼を背けていたモノ。
「どんな理由があろうと、生き物がいつか死ぬことは変わらない! ならばその命を我らが“有効的”に利用して何が悪い!?
我々という絶対者が外界に君臨することによって、この争いばかりのエレブは真の意味で永遠の平和と、秩序を迎えることが出来る!!」
胸の奥が痛む。膿んだ見えない傷口がはれ上がり、絶望という毒を産み出す。
ネルガルの眼には残忍な欲望が浮かび上がっていた。全てを支配し、この“同じ痛みを知っている存在”と共に何もかもを無茶苦茶にして世界を創りかえられる喜びと共に。
「ネルガル、やめろ」
「よりにもよって君が私を裏切るというのか!! 親友だと、人と竜という種族の違いこそあれど、理解者だと信じていたのに!!」
「やめろと言っている────自分が何を口走っているか判っているのか?」
ネルガルはもはやイデアの言葉を聞いてはいない、見てはいない。彼の中にある黒いモノが噴き出して視界を染め上げている。
想像だに出来ない程の痛みと絶望が彼を覆い尽くし、盲目となってしまう。
黒い瞼の裏でバチバチと音を立てて雷が鳴り渡り、彼という全存在を焼いていく。
「私の何が悪い……奪い奪われるは当然の事だろう……っ! “おまえ”だって奪われる痛みは知っているはずだ…………」
「…………………」
まくしたてるように半ば叫びと化した言葉を紡ぎ終えたネルガルはイデアを憎悪の篭った瞳で睨みつけた。
だがイデアは動じない。ネルガルの全身全霊を掛けた憎悪を受けても一歩も引かず彼から視線も逸らさない。
ただ…………イデアは何処かでネルガルに“共感”を覚えていた。
彼はまるで……イドゥンと引き離された頃の自分を見ているようでさえある。
だが共感こそすれど、イデアはイデアであるが故に一切芯を揺らさない。
「俺は力を手に入れる事を止めはしない。自分の無力に泣くのはうんざりだし、誰かがそうなるのも見たくない」
淡々とイデアは喋る。まるで清流の様に淀みなく声が弾む。
ネルガルの顔が瞬いた。判ってくれたのかとその顔は一瞬希望に染まり……。
「だがお前はファを傷つけ、ソフィーヤを裏切り、この里の平穏を乱そうとしている…………もう十分に強いお前が、よりにもよってお前を信じていた無力な子供達を泣かせたんだ」
男の顔がみるみる憎悪に染まっていくのを見ながらイデアは言葉を止めない。
この先に言おうとしている言葉が何を齎すか、何を完膚なきまでに破壊するかを知りながらもう止まらない。
「ネルガル。お前をそんな様にしてしまった責任をこの場で取らせてもらう」
ブチッと、目の前の男の中で決定的なナニカが切れた音をイデアは確かに聞いた。
ただ、イデアは、あぁと眼を閉じて僅かなばかり逡巡するように沈黙し、次いでネルガルを見据えた。
男は震えていた。血走った眼を禍々しく輝かせ、握りしめた拳は爪が皮に食い込み、血が滴る。
全身からゆらゆらと漏れ出て周囲の空気を歪ませるのは想像だに出来ない程に強大な魔力。
怒りという原初の念によって高まる心はエーギルという概念を欠片とは言え理解するネルガルの力を高める。
「イィィィデアァァァァ───!!」
男は激昂し咆えた。それが合図。
瞬時に魔力を練り上げ、イデアに向けて手を翳すと無詠唱、無動作で上級術の一つを瞬時に発動。
【ノスフェラート】
闇夜に映える紫の円状魔方陣が展開され、幾つもの魔術的な言語が不気味に回転し、円の中央に集結していく。
そして顕現するは魂を啜る凍てつく炎。円の中央から音もなく、何も焼かずに飛び出すのは死を凝縮した凍てつく焔。
一直線にイデアに向けてブレスの如く放射されたソレの影響を受けた砂漠の砂が成すすべもなく凍り付く。
パキ、パキ、と夜の砂漠でさえ滅多に聞くことのない物質が急速に凍り付き崩壊する音だけが響く。
ネルガル程の術者が使用するソレはもしも並の人間に放たれれば例え相手が精強な騎士団でさえただの一撃で半壊にまで陥れる規模と密度を誇ることだろう。
死という冷酷な概念を表し司る上級術を前にイデアは動かない。
弓矢よりも早く飛び込み、終わりを齎す術を彼は無機質に見つめ……軽く、まるで飛び交う羽虫を払いのけるように腕を薙いだ。
黄金のエーギルを纏い輝く竜の腕は物質的には存在しない古代の魔術に“触れる”事も出来る。
当然の帰結がそこにはある。
イデアの軽く動かされた手の甲にあたった冷炎はあらぬ方向へと膨大な力によって軌道を叩き曲げられ、空の彼方へと飛んでいく。
幾つもの星が輝く夜の彼方に飛び去った【ノスフェラート】はやがて消え去り、深い夜の闇に飲まれる。
イデアの腕には傷一つなく、今の行為が彼にとっては戦闘の内にさえ入らない事だけがネルガルに伝わった。
「な…………!」
じくり、じくり、と見せつけられた力の差にネルガルの胸は更に激しい痛みを覚える。
ヤアンに向けられた目線が彼の中で浮かび上がる。あの目線を。
まるで絶対者の様に見下す眼。
自分の存在など欠片も意にとめない。
お前は無価値だと断じられたような屈辱。
そうやって彼はいつも奪われた。絶対者を気取る屑が彼を何時も苦しませる。
ネルガルは唇をめくり、歯をむき出しにする。まるで獣が全身全霊で闘争を行う時の様に。
獲物を狩り殺そうとする残忍な思考と、最も敬愛していた親友が自分を裏切ったという絶望が彼の喉を震わせ、低く深く冷たい声となる。
「もうあれは私の“力”だ! 誰にも奪わせはしない! 誰にも、絶対に!!」
バチバチと更に頭の中で天雷が弾け、脳髄を焼いていく、
夢幻の不協和音は彼に一つの言霊を囁く……“呼べ”と。
竜が片腕の五指を彼に向けるとそこから赤色の稲妻が放たれる。
落雷に匹敵、凌駕する電流が空気中の塵を焼き尽くしながら空間を走った。
最下級の術である【サンダー】だが次元違いの力を持つ神竜がソレを行使するとなれば話は別だ。
視認不可能の雷速で飛来する稲妻はネルガルの魔法防御能力を上回る威力を以て彼の全身を内部から焼いた。
ぶすぶすと全身から煙を巻き上げ、ネルガルは大きく術の力によって後方へと弾き飛ばされる。
「──ぐ、うぅっぁああっ!!」
口、鼻、眼、あらゆる所から煙を吹き出しながらネルガルは自らの臓器が丹念に炭に創りかえられる音を聞く。
だが、体に傷が増える度に彼の内部にある底知れない活力は更に活動を強め、膨大なエーギルを産み出す。
砂塵に背から叩きつけられたネルガルはうめき声も上げずに空を見上げた。
彼の見つめる中、一つ、二つ、三つ、四つ……ぽつぽつと夜空に黄金が増殖する。
やがては雨の様に天を埋め尽くすのは黄金の“点”……違う、あれはエーギルで編み込まれた剣だ。
何百か、何千か、はたまた無限か。
その全てが切っ先をネルガルに向け、地に落ちることなく空に留まっている。
重力も無視し留まる黄金の剣舞はただ待っていた。主が許可を出すのを。
煌々と輝く月の光を反射し神の裁きは下される。
ネルガルは光に向けて手を伸ばした。まるでそこに求めるモノがあるかのように、掴むように。
【シャイン】
一切の慈悲もなく黄金の雨が降り注ぐ。逃れる事など出来ない滅びの豪雨が。
純粋な“力”で形作られた光剣はおおよその世の法則を無視し、矢とは違い初速の時点で既に目では追えない速度をたたき出す事が出来る。
これは決して減速もせず、風の影響を受けることもなく真っ直ぐに飛び進む矢でもあった。
ネルガルが倒れ込んだ砂丘を粉々に砕き、砂を抉り、巨大な湖の様な溝を創りながらもまだ足りない。
周囲の砂が融解し硝子化し、砕け、更に粉々になって巻き上がった粉じんに火が灯り、それは連鎖的に砦さえ粉々に吹き飛ばす大爆発を誘発する。
光の束と化す勢いでたった一人に対して向けるには余りに過剰な暴力が容赦なく動き、その存在そのものを消し去らんとする神威は咆えた。
最後の剣群……それでも数百単位の剣がぽっかりと砂漠の中心に開いた巨大な“穴”に吸い込まれ、爆砕したのを確認してイデアは歩き寄る。
この程度で終わるなどイデアは到底思っていない。ここからが本番だと彼の勘は告げている。
巨大な穴の中で純粋な“闇”と“雷”が一瞬で膨らみ、次いでソレは一つの球状の形に収束する。
まるでこの世全てを憎んでいるような深い暗黒と、この世の全てを壊すまで止まらない天雷。
おぞましい力が球体の内部で急速に膨れ上がり、天に座す神竜に向けて殺意と憎悪を紡ぎ出す。
この球体の中で蠢く力を二つともイデアはよく知っていた。
一つは何百年も前に見たモノであり、そしてもう一つは今まで自分の手中にあったものだから。
驚きは当然あったが、同時に自分でも目の前の現象に何処か納得を覚えていた。
何かが引っかかっていた気がした。
それがナニカは判らないが、きっと今の状況はネルガルが起こした奇跡でも何でもなく当然の帰結なのだろう。
数百年前の狂戦士の残留思念か何かの力を彼は恐らく引き出しているのだと神竜は判断する。
ならばもう一度地獄の底に叩き返してやればいいだけだ。何もやる事は変わらない。
暗黒の太陽の如き底なしの暗闇の球体。何もかもが消えた神威の跡地の真ん中にポツンと音もなくソレは置いてある。
正にソレは形を持った“闇”であった。ドロドロに熔けた鉄のような粘性を持った“闇”だ。
ソレが発するのは並の人間では直視しただけで脳髄を蕩けさせる程に甘く、暗く、冷たい死の香り。
まるで叫ぶかのように腰の【覇者の剣】が震えた。
一つの巨大な暗黒の球体が三つに分裂し、太陽たるイデアに対してまるで拒絶するかのように禍々しい夜を振りまき、憎悪と絶望を啜っている。
空間を飛び越えるために一時的に物体としての姿を捨てた暗黒が再収束しその物体としての姿をこの場に表す。
現れたのは三冊の本。
その名を───。
【バルベリト】 【エレシュキガル】 【ゲスペンスト】
これらをイデアは呼んでいないし、当然この場に持ってきてもいない。
何より今この3つの書にイデアは力を流しておらず、発動さえもしていない、だというのに三冊の魔書は禍々しく神々しい黒い光を纏い、宙に浮かんでいる。
人の身には余りに大きすぎる想像を絶した天変地異の力はもう神竜の手の中にはない。
善も悪もなく、ただ“黒”だけを万象に齎す災禍の魔書は、その御業を今、この地で、産まれた理由とは真逆の方向に力を行使しようとしている。
無限の深淵を以て神竜の秩序に牙を剥き、秩序を破砕した混沌を齎さんと。
今を以て竜の里を守るための力であった2つの兵器はイデアの敵となる。
その事実だけを神竜は噛みしめ、それでも何もやる事は変わらないと客観的な認識の元に行動。
覇者の剣の柄を軽く握りしめ……刃を抜かない。
ただ、自分に向けられた視線を見返し、そこに立っていた男の眼と交差する。
爆心地と評されるべき溶けた砂が流れ落ちる箇所にネルガルは暗黒の太陽の中から孵り、そして立っていた。
イデアを無言で見上げる彼の顔には何も表情はなく、彼はその手に何時の間にか大切に握りしめていた“ソレ”をイデアに見せつけるように掲げる。
ネルガルの指に摘ままれてギラギラと凄惨な光を放つのは小さな小さな、まるでビスケットの欠片程度の金属片。
見る者の網膜を焼き尽くす程に激しい光と熱を放つソレは、鼓動しているの如く膨大な光と熱を周囲に一定の間隔で振りまいている。
チリチリと音を立てて僅かばかりに生えていた植物が一瞬で焼け落ち、灰となる。
本質は何も変わらない。全ての命を拒絶する天雷の暴力。無限の死と混沌を振りまく災いの結晶体。
イデアはその瞬間、初めてその顔に驚愕を張り付けた。
目を見開き、たった一つの小さな金属片を穴が開くほどに強く見つめる。
竜の瞳孔が細まり、その瞳には磨き抜かれた刀剣を思わせる敵意が宿った。
アレが何なのかイデアは知っている。当然だ、何せアレを粉々にしたのは自分なのだから。
だが違う、違う、もうアレには神将の狂気も意思も何もない。確かにこの手で滅ぼし、今もアレからはあの時に感じた戦闘狂いの男の念など微塵も感じない。
そうだ。感じないのだ。
イデアはこの稲妻、天雷は当初はアルマーズに宿っていたテュルバンの残留思念か何かが巻き起こしたモノだと予想を立てていた。
だが、違う。真実はもっと深く、底が見えない。
爆発的な稲妻を帯び、周囲の闇を急速に取り込んでいく姿はさながら一つの生き物の様だ。
生き物という事は何者かの意思がある。そしてその意思の存在まではイデアは感じ取れている。
だが…………やはりあの時に観測した狂戦士とは何かが決定的に違う。
テュルバンの意思はアレを持ち帰った時にメディアンが言った通り完全に滅びたとしか思えない。
アルマーズをすり潰した神祖の力はその牙を向けた存在の万が一を許さない。
万が一もありえない。確実に、完全に、完膚なきまでにテュルバンはあの場で本当の意味で死んだ。
そしてただの死骸でしかなかったはずのソレには既にテュルバンの妄執は残っていないはず。
更にいうならばイデアはあの天雷の破片の中に宿る意識が“誰”なのかを心の何処かでは知っているが思い出せない。
“アレ”をとても近い場所で見た事がある。だが今はとても遠い場所に居て、皆目見当さえつかない。
正体不明の“誰か”
それが今イデアという存在に害を成す存在に力を使われている。
だがしかし、やる事は一つしかないし、変りもしない。
ネルガルは何もかもが抜け落ちた声で至極冷静に朗々と声を発する。
そこには何時もの彼が声に帯びさせていた温かみは全くない。
「最後のチャンスをやろう。イデア殿…………今からでも考え直すんだ。平穏が欲しかったのだろう?
我々が創りだす世界こそが平穏に満ち溢れているぞ。そうだとも。私たちという絶対者が支配する世界は平和そのものになる」
「その“平和と平穏”を作る過程でどれだけの怨嗟を買うつもりだ? そして仮にエレブを支配したとしても、必ず終わりは訪れる。それこそこの世界を完全に消しでもしない限りはな」
脳裏の何処かに見たこともない怪物の姿がよぎる。
何もかもを食いつぶして安息を手に入れた余りに哀れな竜の姿が。
永遠などない。どれだけ強大な国家や文明だろうといつかは崩れ落ちる。
事実500年前にイデアはその残骸を見た。何もかもが砕かれ、無人の廃墟と化したかつての竜族の本拠地を。
諸行無常とはよく言ったモノで、あの中に有ったのは無数の死体と死にぞこない達、そして家族だけだった。
そしてこの小さな里でさえ500年維持し、守る事にどれだけ細かな配慮が必要だったことか。
こんなナバタの中の理想郷でそれだ。もしもエレブ全土を支配等したら、きっとそれは余りに歪で、足元が空っぽの空虚な国家になる。
その様な国は作るときも崩れる時も、膨大な数の無意味な死を撒き散らすのは明らかだ。
イデアは外界に混乱をばら撒くつもりはない。
何故ならばそれが回りに回って自分に帰って来る可能性が高いからだ。
エレブという巨大な歯車の中にナバタが存在する以上、その歯車が軋み、壊れればその崩壊には間違いなく里も巻き込まれる。
はぁ、とイデアの返答に対して心底落胆した様子でネルガルはため息を吐く。
下から見上げているというのに、まるで王者が民を見下ろすかの様に彼は仰々しい態度で腕を組み、つまらないモノを見る眼でイデアを見た。
「ここまで君の物わかりが悪いとは思わなかった」
女性が宝石を愛でるように、少女が可憐な花を飾りつけるように、ネルガルは指先でアルマーズの破片を弄る。
ギラギラと禍々しい光彩を放つ破片を彼は愛しい女でも見つめるような熱い視線を送りながら、艶めかしいため息を吐いた。
「尊敬していた君を殺すのは、正直嫌だが……私の邪魔をするというのならば仕方ない」
彼の声は更に深みを増し、深い井戸の底から響いてくるように重くなる。
じわじわと彼の眼の中に貪欲な念が燃え上がり始めた。
イデアを倒し、里の竜の知識の全てを手に入れてから自分が外界に飛び出て思うが儘に振る舞う景色が彼の中には映っている。
彼は何かをやりたかった。新たに手に入れた力で。
もはやネルガルの思考は既にここにはない。彼はこの後の未来を思い描いていた。これから何をしようか、何を成そうか。
ネルガルはニヤリと笑い…………一瞬の間を置いてから、アルマーズの破片を飲み込む。
途端に彼の力は更に膨れ上がる。もはや神将アトスさえも凌駕し、純血の竜にも届くほどの力を持った“闇”を彼は抱え込む。
耐えきれない程の力の暴力に彼そのものでもある器にヒビが入り、再構築され……彼は全く別の存在へと完全に変貌を遂げた。
もはや彼は人ではない。
肉体と同じく完全に精神までもが人とは言えない様になってしまった。
無数の命を啜り、力へ無限の渇きを覚えた“魔人”……それがネルガルという男。
「見るがいい、この私を…………君が得ようとしなかった絶大な“力”の凄まじさをとくと味わえ…………!」
魔人が恐れなど感じずに神竜に対して一歩を踏み出す。
彼に付き従うように三冊の魔書が膨大な闇を吹き出し、イデアの領域を侵食していく。
イデアは引かずに、両手を大きく広げてその箇所に力を集め、ただ一言竜族の言語で“呼んだ”
次の瞬間には彼の両手にはそれぞれ一冊ずつ魔道書が握られている。
書から吹き荒れる光と神風が闇を弾き飛ばして拮抗する。
周囲に霧散した力は行き場を無くし、巨大な雲となり星夜を遮り始める。
【ルーチェ】 【ギガスカリバー】
残り2つとなったこの里を守る兵器。今使わずに何時使うというのか。
喜びに満ちた絶叫が砂漠に響き、それが本当の意味でのネルガルと神竜の激突の始まりを告げる合図となった。