とある竜のお話 改正版 FE オリ主転生 独自解釈 独自設定あり   作:マスク@ハーメルン

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とある竜のお話 前日譚 三章 3 (実質17章)

 

 

 

 

鍋に油が敷かれ、熱せられたソレはとても香ばしい音を立てて弾け続けている。

ぱち、ぱちと一定の間隔で弾ける油の音は、一つの楽器として通用するほどに、印象的で、とても耳に残る。

椅子に腰かけて、食用のテーブルに向かい合うイデアたちの視線の先では、頭巾で覆われたすみれ色の髪がゆらゆらと左右に揺れていた。

 

 

 

いつもソフィーヤとメディアンが食事を行っている家庭的な空間。

厨房と食事処を兼ねたこの場所には今、様々な人物がいる。

 

 

 

 

「…………」

 

 

 

 

言葉こそ何も発さないが、ソフィーヤが上機嫌なのは背後から見ても一目瞭然であった。

小さく鼻歌を交えて手早く、何一つ迷いのない動きで彼女は様々な食材を調理していく。

そして、その隣では彼女より一回り程低い場所で揺れる暁色の頭部があり、ソフィーヤが今現在機嫌がいい理由の一つでもある。

 

 

 

「ごはーん、ごはーん、おいしく作るよぉー……」

 

 

 

 

ソフィーヤに比べれば僅かばかりおぼつかない所こそあれど、小さな手と指で食材をしっかりと掴み、丁重に迷いなく捌いていくのはファだ。

口からは即興で作った歌を小さく零しながらこの幼い神竜は今までイデアから習った料理の知識と知恵、経験を最大限に活用していた。

何故ならば、今日こそが以前にイデアと約束していた「料理を食べてもらう」という言葉が、遂に実るのだから。

 

 

 

 

ソフィーヤと二人で御揃いのエプロンと頭巾をかぶり、一緒に料理を作る。これはとても、とても楽しい事だ。

皆が楽しく笑ってくれれば、ファはそれだけで幸せになれた。

何やら最近、幼いファでも判るほどに時折父が物憂いに浸った顔を見せる時があるが、それもきっと皆でご飯を食べれば解決するのだと彼女は信じている。

 

 

 

 

あの日、皆で宴を開いたあの日の様に。

父の乾杯の一言と共に幕を上げたあの宴を彼女は今も覚えているし、これからも忘れることはない。

出会いそのものに祝杯をあげた父の言葉は絶対に正しいと。

 

 

 

 

だからファは頑張っていた。いつも与えられてばかりの自分が、父の役に立てるように。

何もいきなりイデアがいつも淡々と片付けている膨大な量の作業をやろうとは思わない。

ファは自分の力量と能力をある程度客観的に見つめていく中で、今の自分が本当に無力極まりない子供だと気付いていた。

 

 

 

 

神竜とは言っても、今の自分に何が出来るかと問われれば、ほとんどない、としか言えない。

ソフィーヤの様に未来を予知はできず、メディアンの様に強くもなく、そしてアンナの様に優雅でもない。

ない、ない、ない、と3つ並べたのが自分だ。ヘタをすればこの「ない」がもっと増えていく。それこそひっきりなしに。

 

 

 

だがファは何一つ悲観はしていないし、する気もない。

父であるイデアは眠るときに優しく撫でながら、焦らずゆっくり成長すればいいといってくれた。

ソフィーヤお姉ちゃんとは何時も一緒に遊び、アトスおじいちゃんにお話をしてもらい、ヤアンおじさんにはお菓子を貰う生活。

 

 

 

最後にお父さんに様々な事を教えてもらう。この繰り返しがファを成長させていく。

 

 

 

 

既に産まれ落ちてそれなりの……少なくとも確固たる自我を手に入れる程度の年月を経たとはいえ、まだまだ竜族の中では“赤子”と評される程に若いファの成長はある程度の安定を見せていた。

余りに急すぎる成長を危惧したイデアは彼女の勉強の内容を少しだけ“薄め”た上で、彼女には知識もそうだが、当初の予定通りに様々な人生での経験を積ませる事を重視するようになったのだ。

ただ部屋に閉じ込めて、形だけ本の内容を頭に詰め込んでいくような事ではなく、物事に実際に見て触れないと世界は広がらないという考え。

 

 

 

 

むふふとファは笑いをかみ殺す。これを食べてもらったら、きっと皆は凄い喜んでくれる。

最近の悪い空気なんて吹っ飛ばしてやるつもりだ。

 

 

 

そんな妹の様な存在を見やり、ソフィーヤは注意を促した。

刃物と火の恐ろしさを知っているからこそ、彼女は何時もよりも幾分か硬い口調で言う。

 

 

 

 

「ファ……集中を忘れないで。火は、危険です……」

 

 

 

「……ごめんなさい」

 

 

 

 

ふにゃん、そんな音がしそうな程に、今までは上機嫌に天に向かってそそり立っていた尖耳が力なく垂れ、ファは素直に謝罪を口にした。

しっかりと今まで包丁などを握って動かしていた手を止めて、ソフィーヤを見てから謝ると、彼女は満足したのか今度は優しく微笑む。

こくり、頷いてからソフィーヤは言葉にしなくても判るほどにファに優しい気配を投げかけ、続きを促すと二人は息を揃えてから調理を再開した。

 

 

 

 

 

 

とん、とん、とん、リズムよく一定の間隔で食材が切り刻まれる音を聞きながら、今回のこの宴の客たちは各々の反応を見せている。

500年程娘の成長を見守ってきた母親であるメディアンは何やら落ち着かない様子で何度も何度も椅子の上で体を動かし、体重をしきりに移動させていた。

何時もの彼女の様にどっしりと構えて、物事を冷静に見るのではなく、今は初心な乙女の様にそわそわし、口をへの字に曲げて何かを堪える様に二人を見る。

 

 

 

握ったり開いたりする手を、最後は胸の前でしっかり組んで動かないように固定すると彼女は深呼吸をしてようやく落ち着きを取り戻したのか、動きを暫し停止させた。

 

 

 

 

 

「どうしたんだ」

 

 

 

 

その隣の椅子に腰を下ろしたイデアが苦笑交じりに問うと、この地竜の母は眦を下げて感涙しているように声を震わせて答えた。

ヒソヒソと小声で、ソフィーヤとファに聞こえないように彼女は喋るが、二人の熱中具合を見るに恐らく普通の声量で喋っても耳には届かないだろう。

 

 

 

 

「……いい年して、とは重々理解しているんだけど…………嬉しくてね、つい。

 まさかこんな日が来るなんて……薄々想像はしていたんだけど、やっぱり実際に来ると……たまらないのさ」

 

 

 

 

自分の娘とイデアの娘が姉妹の如き密接な関係となり、親友として絆を育んで、更には自分たちに恩返しとして一緒に料理を作ってくれる。

その余りに素晴らしい因果にメディアンは感じ入ったのか肩を僅かに震わせていた。

何時も親子として共に料理を作っているが、やはりこうやって「ありがとう」と言われて感謝の為に宴をしてくれるのは別格なのだろう。

 

 

 

尖った耳が感情に任せて上下に振れているのを見る限り、彼女の胸中で渦巻く感情は決して小さくはない。

 

 

 

「……本当に、何度も思った事だけど。あの子の母親になれて幸福さ。あたしのちっぽけな想像なんて、あの子はいつも超えていく」

 

 

 

 

無言で神竜は頷いた。その言葉全てに同意をするという意思を込めて。

出来るならば、この宴にあいつも居たらよかった。

自分の娘、ファを紹介したらあいつはどんな顔をするのか想像はつくが、それは叶わない願いだ。

 

 

 

お前の娘はしっかりと、強く生きているぞ。お前の言った通りだ。

胸中で呼びかけるようにイデアは思いを紡ぐと、頬杖を付いて二人を見守った。

目線だけを動かし、メディアンとは反対の方向を見やる。そこにはヤアンが何時も通り石像の様な表情で座っている。

 

 

 

 

腕を組み、視線を虚空で彷徨わせながら火竜は何も変わらない様子で料理を待っていた。

何だかんだ言ってソフィーヤとの交友も長い彼はここに居て当然という雰囲気を醸し出し、時折すみれ色の髪に視線を向けていた。

 

 

 

 

「なんだ?」

 

 

 

イデアの視線に気が付いた彼はそれでも腕組を解除することなく、淡々と声を発する。

だが、500年の付き合いがあり、それなりに気心の知れた関係でもあるイデアには彼が上機嫌なのが見て取れ、笑みを浮かべてしまう。

 

 

 

「いや……思えば、俺たちの周りもそれなりに大勢になったと思ってね」

 

 

 

500年前、この里に来た当初は少なくとも当時の自分は味方などいないと思っていた。

イドゥン、ナーガ、エイナールと、ニニアン、ニルスだけで世界は完結していて、その範囲しか見ていなかったのだから。

それら全てを無理やりに、自分の意思など一切関係なく理不尽極まりなく奪われ、ここに押し込められたと思っていた。

 

 

 

事実それは正しいと今も思うが、同時に自分はまだ幸福な方であるとも判っている。

健康に生きていて、衣食住に苦労することなく、仕事をして、そして目標もあって、更には家族も多少困難はあるが、それでも再開できる目途があるのだ。

これほど恵まれた環境に文句などないが……ナーガに感謝するつもりはない。絶対に。少なくとも軽々しく言う気は毛頭ないのだ。

 

 

 

 

「時が経てば世は移り変わる。お前の今まで長として積み上げてきた結果がこれだ。何もおかしい所などない」

 

 

 

にべもないヤアンの言葉にイデアの隣でメディアンが小さく喉を鳴らして笑う。くくく、と肩を震わせ、彼女は口中で小さく素直じゃない男だと零した。

全く、本当に素直じゃない。いや、直球で物事を言い切りすぎて、逆に遠まわしに聞こえるだけかもしれないと地竜は思う。

簡単に言い換えてしまえば、お前の努力の成果だと褒めているだけじゃないか、と。

 

 

 

ヤアンの更にイデアとは反対の側に座っていたアトスは眼を眩しいモノを見る様に細め、温厚な声でヤアンに語り掛ける。

前々から薄々気になってはいたが、言い出す機会を見つけらなかったことを彼は聞いた。

 

 

 

 

「この理想郷が出来た当初、イデア殿……長は、まだまだ竜としては幼かったのかの?」

 

 

 

「里に来た当初を私は知らない。その時は、私はお前たちの仲間の一人に切り捨てられていたからな」

 

 

 

 

烈火の剣による身体への傷痕は既に癒えたが、記憶は一向に戻る気配はない。

既にかつての己に対する割り切りを完全につけたヤアンはどうでもいいことだという思いを込めて語った。

今の生活に満足しており、特に何か問題などないのならば、彼はまるで植物の様に物静かに生きていけるのだから。

 

 

 

 

「当時は竜族の間でも色々あったんだ。本当に、前にも言ったが人間と変わらないだろ? そして俺が長になったのはまだ10代の頃だよ。最初は全てが手探りだった」

 

 

 

 

頬杖を付いたイデアはやれやれとため息を吐き、苦い笑いを口に浮かべて語る。

彼らは気が付いていたのだろうか。自分たちが見下していた人間と同じように動いていたことを。

感情やら何やらなどを排除し、自らは完全な存在であると自覚のない傲慢を抱いた結果が最大派閥であったナーガ派との決別であり、そして滅びである。

 

 

 

 

イデアの話を聞いたアトスは10代である意味では極小規模とはいえ、都市国家ともいえるこのナバタの里

……理想郷を統治することになった眼前の神竜に対して僅かばかりの同情と当時の情勢への興味を抱いた。

人間側からの情勢など腐るほど見ていたが、逆に竜視点での大戦勃発までの過程というのは目新しい情報だ。

 

 

 

 

竜は外見による年齢判断が難しいが、これで目の前の神竜は500歳程度だということが判明したのも大きい。

まだ年齢をイデアに尋ねたことはないが、自分よりも年下というのが確定し、同時に竜と比較できるほどに命を長らえてる己に苦笑する。

 

 

 

 

「しかしこの規模の集落を作り上げるとなると、いかに竜族と言えどそれなりの年月は掛かるはず。 ……つまり、最初から戦争が起こるのは予見されていたわけか」

 

 

 

 

 

やれやれとアトスは肩を落とした。

各地の兵士や傭兵の動き、物資の流れ、王都に流れる風や雰囲気である程度の発覚は致し方ないとはいえ、恐らくは何年も前から戦争を予想した者がいる。

恐らくは当時の長、イデアの先代にあたる竜族の支配者は、自分にとって反抗的な勢力を一掃するのと同時に、自らの賛同者にはこの里を始めとした選択肢を幾つも与えたことだろう。

 

 

 

確かにこの里には竜族が数多くいるが、それでもその全体的な数はかつて自分たちが神将として参戦した戦役で屠った竜の数に比べれば少ない。

イデアの話を聞く限りでは、竜族は戦争直前には既に分裂しており、更にはかつて彼が語った“好戦派の方が少数だった”という言葉。

そこから導き出される答えは、自ずと見えてくる。つまり、この里以外にも何らかの手段を以て竜族を安全な所に隠したという事。

 

 

 

たかが500年で竜が寿命で滅ぶことなどありえない。病などもっとありえない。

そしてイデアの統治を見る限り、彼の治世に反対し、イデアの手によって滅ぼされた竜が居るとも思えない以上、行きつく先はそこしかない。

何処に竜が行ったかを聞く気はない。どうせ答えなど返って来るはずがないし、自分が彼の立場だったとしても言わないはずだから。

 

 

 

 

故にアトスは一言だけ呟く。

 

 

 

 

「当時の竜の長は、お主に勝るとも劣らない、優れた統治者だったようだな」

 

 

 

 

 

その一言にイデアは様々な顔を見せた。

苦虫を何十匹もかみつぶしたような渋面を浮かばせたかと思えば、瞳の中には何処か喜びを湛え、更には決してそれを表には出すまいと一瞬で引っ込める。

最終的に彼は胸中に混沌極まりない感情を吐き出すかのように深く、重いため息を吐いてから苦笑とはまた違う、寂しさと怒り、更には敬意さえ含まれたあやふやな表情を浮かべた。

 

 

 

 

「俺に全部丸投げしてくれたとんでもない奴だ。もしも出会ったらタダじゃおかない……まぁ、実際やりあったら、絶対に勝てないだろうが」

 

 

 

「お主程の存在が? 正直、お主が負けるなど想像できんな」

 

 

 

アトスの中のイデアは竜の知識に精通し、超大な力を以てこのナバタの秩序を支配する絶対の神竜である。

そのイデアにそこまで言わせる存在とはどれほどのものかと考えを巡らせ、当時の情勢と照らし合わせた後、自分たちの戦争の勝利はもしかしたら、かなりの綱渡りの上だったのかもしれないと思った。

いや、綱渡りというよりも、自分たちには決して干渉できない勝利か絶滅かの二択が裏で進んでいたというべきか。

 

 

 

ヤアンは相変わらず腕を組み、微動だにしない。

イデアの話を聞いてはいるのだろうが、もはや居なくなった男の話題など彼には関係なく、興味もないのだろう。

メディアンは視線は娘に向けられているが、その意識の一部はしっかりと聞き耳を立てているのがイデアには判った。

 

 

 

他愛ない世間話の一部として、戦役の裏事情を知れるというのも大きな情報の収穫になる。

だからこそ神竜は淀みのない口調で話題の方向性を少しだけずらした。

正直、あの男の話はあまりしたくないというのも大きな理由だったが。

 

 

 

ファとソフィーヤを見ると、彼女たちは料理の折り返し地点にたどり着いたらしく、二人で慌ただしく言葉を掛け合いながら肉などを焼きだしている。

もう少しだけ、時間はあるようだ。ほんの少し前の【昔話】を語ってもらう程度には。

いきなり魔竜関係の話を切り出さずに、イデアはあえてかなり遠まわりな話題を出す。

 

 

 

 

「そっちはどうだったんだ? 人類が団結した戦役だったと聞いているが」

 

 

 

とんでもないとアトスは大きく口を歪ませて断言した。

もう当事者は500年もの過去に居なくなっており、何と言おうと文句など言われないが故に彼は歯に衣を着せずに言うと決めた。

今思い出しても僅かばかりに頭に来る事も多々あるが故に、彼はまるで気心の知れた友に愚痴を零すように言う。

 

 

 

 

「最初から最後まで竜族と闘いながら、己ら同士でも意味不明で不毛な闘争を繰り広げておったよ。

 人類連合と言えば聞こえはよいが、いわばただの“寄せ集め”だったからの。主張も主義も信仰も何もかもが違うモノを集めるとああなるといういい見本だった」

 

 

 

 

夢を壊すかもしれないが、とアトスは前置きした後に淡々朗々と語りだす。

彼の深い声によって紡がれるお話はまるでおとぎ話の様に遠く聞こえる。

髭を弄りながら、彼は頭の中で印象的だった事実を片っ端から僅かに脚色して吐き出した。

 

 

 

 

「やはり一番問題だったのは、エトルリア貴族の一部じゃったな。

 全てがとは言わないが、能力に見合わない自負……傲慢さを持った奴は得てして自らの幻想を守るために手段を選ばなかった」

 

 

 

人は、すぐそばに種族としての絶滅が迫っている状況でさえ、陰謀を紡ぐことを止めはしないという証明があの戦役では成された。

 

 

 

裏切り。嫉妬。怠惰。絶望。憎悪。アトスは過去を懐古し、ハノンの疲れ切った表情を瞼の裏に浮かべる。

その他ありとあらゆる人の業があの戦役では蠢き、時にそれは竜の吐息さえも超えた脅威になりかけさえもした。

竜の罠ではなく、味方であるはずの人類の策謀に巻き込まれた事も1度や2度ではない。

 

 

 

アトスは前から飛んでくる魔法とブレスを何とかする知識と力はあるが、背後から飛んでくる矢を何とかする知識は当時は持ち合わせてはおらず、それはそれは苦労した。

ハノンが特に苦労したといえる。彼女はまだまだ当時のエトルリアと交流は余りなかったサカ出身であり、それだけで野蛮人となじられ、挙句には殺され掛かった事もある。

更には戦役終了後の英雄と彼女を湛えて、一斉に手のひら返しを行った貴族たちにはもはや乾いた笑みさえ出る程だ。

 

 

 

 

魔道一辺倒で政治的闘争、駆け引き、陰謀の紡ぎ方などには興味をもっていなかった彼はまだ“青かった”ともいう。

最も彼としても別に人類の為に立ち上がったわけでもなく、ましてや英雄となって名を売りたかった訳でもなかったのだが。

 

 

 

 

奇しくもその願いは戦役では叶わなず、巡りに巡って500年後の現代にて成就することになった。

 

 

 

 

「最も代表的なのは、当時の我らのまとめ役であり、わしの友でもあるハルトムートを激怒させた男だな」

 

 

 

 

「それはまた、命知らずな奴だ。どんな男だったんだ」

 

 

 

イデアは頭の中で状況を整理し、薄く嘲笑した。

ハルトムート、つまり八神将の全員とその軍勢に敵対した上で、竜とも敵対していたであろうその男について考える。

結果はどうあっても、“詰み”だ。どうしようもない。行き場などどこにもない。

 

 

 

アトスは頭の中でその男の事を思い出しながら、一つの事実に気が付き、一瞬だけ口をつぐんだが、直ぐに気を取り直す。

当時、あの者が“絶望の竜”と称していた竜は今、この里で学んだ単語の一つと完全に合致したのだ。

あの時は多少興味こそあったものの、戦役を通して竜の知識を丸ごとあわよくば手に入れようと目論んでいたアトスにとっては、所詮はその程度でしかなかった。

 

 

 

今になって思い返してみれば……なるほど。あの男はかなりいい線まで行っていたというのが判り、大賢者の中で既にこの世から退場しているであろう男への評価が僅かに上がる。

 

 

 

 

「典型的な己の力に溺れた魔道士だったな。どうも古代竜族について調べていた様だったが……今思えば奴は“始祖”の存在に気が付き、それを題材にした研究をしていた、のだろう」

 

 

 

 

“始祖”の言葉にメディアンから向けられる意識が強まり、イデアは眼を細めてその続きを促す。

一泊間をおいてから、大賢者はつまらない事実を読み上げる様に簡潔にその人物の末路を述べた。

 

 

 

「奴は“始祖”の力をどうにかして手に入れたいと願っていた。もはや滅んだ存在であるとも知らずに。

 己のみが全てを支配したいと願っていた男は結局、人を裏切り竜を頼ったが竜にも相手にされず、最後は全てを敵に回した上で深い地の底へと追いやられたのだ」

 

 

 

 

優れた術者ではあったが【理】を超える程ではなかった為、もう死んでいるはずだとアトスは締めくくる。

最初にアトスの昔語りに感想を漏らしたのは、イデアであった。彼は薄く笑いながら、数多くの苦労を背負い込んだアトスに率直な感想を述べてみた。

 

 

 

 

 

「……人というのは、本当に判らないものなんだな」

 

 

 

 

人類が一つに結束せねば勝てない存在が現れた時にも人は結局内部で分裂する。

その証明を聞かされたような気がして、イデアは何ともいえない気持ちになった。

次に、イドゥン……魔竜関係の話を聞こうと口を動かそうとすると、そこに丁度ファとソフィーヤが大きな声で宣言を飛ばし、遮られる。

 

 

 

 

できたー! と歓喜の声を上げたファとソフィーヤは複数枚の皿の上に程よく焼かれた肉を置き、釜土から炊けたご飯を丼に盛り付けていく。

どうやら、アトスとの会話はイデアが思っていた以上に時間を経過させたらしく、既に料理は完成し、後は並べるだけの様である。

 

 

あっという間に部屋の中に湯気と良い香りが充満していく中、イデアは速やかに頭を切り替えて彼女たちを手伝うべく立ち上がろうとしたが、ファとソフィーヤは顔を揃えて頬を膨らませて拒絶の意を表す。

 

 

 

 

「……最後まで、やらせてください」

 

 

 

「かいぞくせんに乗ったつもりで、待っててね!」

 

 

 

 

娘たちにそこまで言われた以上、イデアも我を通すわけにはいかずに椅子に座りなおすと、ゆっくり息を吐いた。

もうこうなってしまったら、最後まで彼女たちの好きにやらせるしかないと悟らざるを得ない。

ただ、海賊船に乗ったつもりで待てとはどういうことなのだろうかと頭を捻る。

 

 

 

面白そうにアトスが笑い出し、無邪気な神竜に少しばかりの訂正を悪ふざけを兼ねて提案する。

 

 

 

 

「ファよ、海賊船に乗ってしまったら、色々と面倒なことになるぞ。そこは、そうだな……商船にでもしたらどうだ?」

 

 

 

 

そうする! と提案に乗っていく娘を横目にイデアはアトスに頼むからこれ以上話をこじらせないでくれと言いながら、二つ程空いた席に目をやった。

一つはアンナの椅子。“眼”を使って周囲を見回すと、すぐ近くにまで彼女が来ているのが判り、そこは直ぐに埋まる。

もう一つの椅子は、ネルガルの椅子だ。彼は……どうやら今日は来れないらしい。

 

 

 

 

彼の研究を許可したのは自分であるが故に、強くは言えなかったが……出来れば彼にも出席してもらいたかった。

自分はともかく、ファとソフィーヤは気にしてしまうかもしれない。

 

 

 

 

「来ないというのならばそれは仕方がない。あの男にも用事というものはあるのだ」

 

 

 

 

イデアの表情からある程度の胸中を推察したヤアンは淡々と理屈詰めの言葉を放ち、目の前に置かれていく料理を見つめている。

何時もは料理を配る側であるメディアンはどうにもただ座って料理を受け取るというのが慣れないらしく

そわそわと身じろぎをして何か一つでも娘たちが見逃している事があれば直ぐにでも手伝おうとしているが、残念な事に二人の童は完璧に近い形で料理を作り上げ、後始末も終えていた為に何も出来ない。

 

 

 

 

やがて観念した彼女は耳をクタッとヘタレさせながら、料理を受け取っていく。

そして全員に料理が行きわたった後、アンナが見計らったように以前と同じく違和感なく現れて着席し、そして宴は始まる。

 

 

 

 

ファは食べて食べてとイデアに自分が味付けを施した肉料理や、芋を用いたサラダなどを差し出し、イデアに食器を手渡すと、後は輝く眼でジィッと眺め続ける。

余りの気迫で眺められて、妙な緊張感を抱きながらもイデアは娘の料理を口に含み、咀嚼し、嚥下した。

ゴクリ、という嚥下音をファも唾を飲み込んだの父親と同時に立てて、じっと評価を待つ。

 

 

 

イデアは無言のまま、能面のような表情でゆっくりと首を動かして娘に視線を向けて……そのまま沈黙。

暫し見つめあい続ける神竜親子の場に奇妙な空気が漂い、ファは負けるものかと凛とした瞳で父の眼を真っ向から見つめ返す。

 

 

 

 

 

だが唐突に破顔一笑したイデアはファの頭を撫でると、とても満足したような声で優しく語り掛けた。

 

 

 

 

「美味いよ。ありがとう」

 

 

 

その一言は紛れもなくファが望んだモノ。この一言の為に彼女は努力したのだから。

輝くような笑顔という言葉があるが、ファは正にその言葉を体現したような、喜びに溢れた笑みを浮かべて堪え切れないように体を震わせ、ソフィーヤへと走り寄り、その両手を掴んだ。

 

 

 

 

 

「お姉ちゃん、ファね! おとうさんによろこんでもらえた! “ありがとう”って言われたの!! だから、ファも、ファもお姉ちゃんに───!」

 

 

 

 

その先は感極まりすぎてしまい、何と言っているか自分でも判らなくなってしまったファは言葉を探すように眼を白黒させながら鼻息も荒く身体を震わせ、ぶんぶんと握りしめたソフィーヤの手を上下に揺する。

ふふふ、と静かに苦笑したソフィーヤはまずは彼女を落ち着かせる様に手をそっと離すと、ファの両肩に手をやって震えを収めてやる。

ふーふーと未だに荒い息を吐きながらも、ファは涙で滲んだ瞳をソフィーヤに向けて顔を傾げた。

 

 

 

 

「……ファ? 落ち着いた……?」

 

 

 

 

水を土にしみ込ませるように、ゆっくりと発せられた言葉がファの心に浸透する。

多少の時間を掛けて、徐々に落ち着きを取り戻した神竜の娘は、うん、と一回頷くとソフィーヤから2歩程下がった後、またイデアの隣へと、今度は歩いて進む。

さっきとは違い、静かに少女は胸の内を明かすように、父に語り掛けた。

 

 

 

周りの者がある程度は意識を割いて神竜親子のやり取りを見ている中、ファは言う。

 

 

 

 

「あのね……さいきん、おとうさんが疲れてるようにみえたから。少しでも元気になってほしかったの」

 

 

 

 

イデアが虚を突かれたような、唖然とした顔を浮かべるが、直ぐに真剣な表情に戻り、ばれていたのかと内心苦笑する。

表には絶対に出すまいと思い、500年間そうしてきたように、塗り固め、作り上げた顔の下に隠してきたというのに。

ファは更に言葉を続けていく。産まれてきてから、手に入れた言葉の全てを駆使して必死に。

 

 

 

 

 

「ファね。まだまだ子供だから、むずかしい事はわかんないけど……おとうさんやお姉ちゃん、おばさん、おじさんやおじいちゃん……皆にはわらっててほしいの」

 

 

 

 

ナーガとは違うが、同じように胸の内側を丸ごと覗きこまれたような、奇妙な感覚を覚えてしまい、イデアは眼を少しだ逸らそうとして……出来ない。

今ここで彼女の言葉から逃げることは許されないと本能的に悟ってしまい、何より自分のプライドがそれを許してはくれない。

娘の必死の訴えから逃げてしまうのは、かつてナーガが自分たちにしたことと同じ事だと思ってしまったから。

 

 

 

今のファには自分はどう見えているのだろう? イデアはたまらなく気になった。

彼女の済んだ翡翠の瞳に映っている自分の顔はとても奇妙な顔をしている。

頼りになる父親か、もしくは愛してくれない父親? はたまたナーガの様に便利な道具として娘を見ている親か?

 

 

 

 

「何をやっている?」

 

 

 

 

突き刺さるようなヤアンの一言にイデアは我に返ったように眼を瞬かせた。

ヤアンの意図は読めないが、その言葉は神竜の心に大きなさざ波を作り出す。

彼の言葉が人の心を考慮しないのは今に始まった事ではないが、今回はそれが良い方向に物事を動かす。

 

 

 

ただ、言葉にすることは出来なかった。

必死に言葉を探すが、今の気持ちを表せる単語が見つからず、神竜はただ娘の頭に手をやっただけ。

むふふと満ち足りた顔をしたファは、暫く父親の掌の熱を堪能してから、いつの間にか用意されていた、イデアの隣に置かれた椅子にピョッンと飛び乗る。

 

 

 

 

本当に何時の間に? 近づいて来ていた所までは判っていたのだが。

 

 

 

そう思ったイデアの視界の端で、アンナがニコニコとこれまたいつも通りの胸中を誰にも悟らせない笑みを浮かべていた。

気が付けば神竜の周囲は活気が満ちており、日常生活の一部が流れている。

 

 

 

奥では、いつの間にかソフィーヤが差し出した辛口料理をメディアンが豪快に頬張りつつも、その辛さで顔を真っ赤にしている。

しかしソフィーヤの料理はただ辛いだけではなく、あくまでも“辛味”は料理の旨みを引き出すための一つでしかない。

伊達にあのメディアンの娘として何百年も家事を学んだわけではないのだから。

 

 

 

 

事実、数千年単位で食事という娯楽を追求してきたあの地竜も身内びいきではなく、本当の意味で美味しいから喜んで食べているのだ。

地竜が目尻に涙を浮かべているのは、彼女の感情が極まってしまっているからである。

 

 

 

ヤアンとアトスという理知的とも言える大人達は何やら食事をしながら、味付けについての議論を交わしていた。

曰く、辛子の量がどうの、成分がどうの、肉体に与える影響やら、何やらとここでも学者気質を発揮する二人の筋金入りの理屈主義にイデアはむしろ感心するほどだった。

何時の間にやら、開始の合図をすることもなく食事が始まり掛けている現状は、悪くはない空気に包まれている。

 

 

 

 

だが、一応のけじめはつけなくてはいけない。

パンパンと、二回手を鳴らし、全員の視線が自分に集まるのを待ってからイデアはファに目くばせをする。

今日の主役は彼女とソフィーヤであるが故に、ファは直ぐにイデアの思惑を察したのか立ち上がった。

 

 

 

 

メディアンの元から足早に移動してきたソフィーヤを隣に控えさせ、神竜の娘は以前見た父親の姿を真似し、手に取った盃を精いっぱい背伸びして高く掲げる。

大きな声で、ここにいる全員に気後れせずにファは宴の始まりを宣言し、イデアも含めた全員がソレにならった。

 

 

 

 

 

 

しかし……最後までネルガルがその宴に現れることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「彼の行動に一切の問題は今の所は認められませんわ。

 以前長が目を通した資料の通り、彼の日常生活にも思想にも多少の変化はあれど、それはあくまでもその時の気分程度としか言えません」

 

 

 

 

「ああ、それは俺も承知している。彼は“理”を超える程に研鑽を続けた男だ。数百年という年月を知識に飲まれずに生きるというのは、それだけ強い自制心があるということ」

 

 

 

 

宴も終わり、ファとソフィーヤが寝静まった時間帯。

滔々と流れ続ける清水の音を響かせる青い玉座の間で、神竜と火竜は言葉を交らわせている。

ネルガルの事を二人は議論していた。何度も確認し、彼の素行などに問題がないことは裏付けも取れているのだが、それでも念には念を入れている。

 

 

 

 

火竜は玉座の主に言葉を続ける。

余裕に満ちた笑顔という仮面を被りながら。

 

 

 

 

「ですが世に絶対はありません。ましてや彼が得ようとしているのは古代竜族の力ですわ」

 

 

 

 

「……今まであいつが身につけて、モノにした知識とは根本から異なる“力”そのものとも言える情報の塊」

 

 

 

 

 

人の世で手に入る知識とはもはや別次元の叡智。命の創造。大陸規模、否、世界規模の滅却術。時空間を超えた大掛かりな転移の術。

幾つか具体例をあげるだけでも、それがどれほど危険か子供でも把握できる禁断の知識、神の域の奇跡を理論体系に落とし込んだ誘惑の果実たち。

その果実の一つを大賢者は拒絶し、ネルガルはもっと味わう事を選んだ。

 

 

 

……大きな力の前に人は“変わってしまう”事を知っているアンナは笑みを薄くし、その顔に陰りを見せた。

 

 

 

 

 

「……私も、彼の魔道士としての比類ない才覚と実力、そしてあの大らかで知的な性格は評価しています」

 

 

 

 

その言葉全てに同意するようにイデアは頷く。彼もネルガル程の人間の魔道士にはアトス以外では心当たりがない。

 

 

 

万に一つもアンナは彼が闇に落ちる等とは思っていない。

あそこまで高潔で、人間味に溢れていて、そして好感が持てる人格の魔道士に出会ったのは始めてだから。

そうだとも、ネルガルという男は少々研究に熱が入り過ぎてしまう欠点などはあるが……それだけだ。

 

 

 

不安など何処にもない。そうだとも、何もないのだ。

そうアンナは自分に言い聞かせながら、イデアの臣下である火竜アンナではなく、ただの女性アンナとしての言葉を零した。

 

 

 

 

「……私は、少しばかり、臆病になってしまったようですわ。“かもしれない”に常に怯えているだけの到底竜とは思えない臆病者に」

 

 

 

 

自分の言葉を振り返ると、彼女は自分自身がまるでネルガルが“そうである事”を願っている様に見えてしまう。

自分自身の中では既に“どちら”の意味でも違うという答えが出ているのに。

 

 

 

 

 

「臆病の何が悪い? ただ竜であるというだけで傲慢に君臨した奴らがどうなったかは、今のエレブを見れば明らかだ」

 

 

 

 

500年という長い付き合いの中でも初めて見るアンナの疲労と弱さが滲み出る表情にイデアは少なくないモノを感じ取り、その不安を吹き飛ばすように胸を張って、神竜としての言葉を吐く。

絶対の力を持つ超越者としては思えない弱さを肯定する言葉にアンナは微笑みを返した。

この目の前の神竜はこういう所が遥か過去に彼女が仕えた先代のナーガとは違う。

 

 

 

ナーガには弱さなどなかった。彼は単体で完成した正に完璧な神の権化。

竜族を率いてはいたが、極論すれば彼には部下など必要なく、全てがその身、その意思一つで思うがままの絶対存在。

今にして思えば彼にとって竜族を率いるという責任は単なるしがらみでしかなかったのだろう。

 

 

 

 

数万、数十万年単位で民たちを率いるという事は、先代にしてみれば随分と……こう言ってしまうのは気が引けるが、面倒事でしかなかったはずだ。

だが彼の息子であるイデアは絶対の神というよりは王、もしくは竜族の指導者として振る舞うことが多い。

アンナとしてはこちらの方がとても……仕事がしやすいとは思っていた。

 

 

 

どちらが優れているという問題ではない。どちらとも長所も短所もある。

 

 

 

だがイデアの治世に今の所は何ら問題はない。この500年間、里の住人は誰も不満に思った事はない。

衣食住が揃っていて、花火という娯楽やカードを利用した遊びなどの楽しみもあるのだから。

 

 

 

 

「……私は彼を信じていますわ。これはいわば単なる後詰めのようなもので、取り越し苦労が前提の行為でしかない事は重々承知しています」

 

 

 

 

ソフィーヤはファと戯れる光景。かつてメディアンの家でアトスと一緒に舌鼓をうち、笑顔で飲み食いしていた姿。

話法一つとっても、彼は魔道士に多い、自分の知識をひけらかして悦に浸るような事はせず、まずはじっくりと人の言葉に耳を傾ける事もできる。

多少、魔道の事になると熱を帯びてしまうが、その欠点は本人も自覚しており、更にはあの大賢者アトスさえも深い信頼を寄せている男。

 

 

 

 

 

どれを取っても完璧だ。高潔で、理知的で、そして人間味に溢れた男……ネルガルとはそういう人物だというのはアンナもよく知っている。

 

 

 

そうだ。

 

 

 

全てを彼女は知っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ネルガルは自分の頭の中から次から次へと沸いてくる芸術的な理論体系に眩暈を起こしてしまいそうだった。

最近の調子はとてもいい。かつてない程に意欲が溢れ出し、様々な理論が頭の中で、イデアが作り上げた“花火”の様に閃いている。

今まで何百年と生きてきたが、ここまで魔道士としての己が冴えわたっているのは初めてかもしれない。

 

 

 

 

何時からか? という疑問に答えはない。

ただ、ある一時を境に心の奥にあったような、妙な栓が抜けたような感覚と共に頭が冴えわたってしょうがないのだ。

心の奥で何かが原動力として燃えている。とても心地の良い活力を無限に与えてくる燃料の正体をネルガルは判らなかった。

 

 

 

 

だが、とても懐かしい。ナニカに与えられたというよりは“思い出した”という表現の方がしっくりくる。

これはそう、元々自分のモノのような懐かしさを抱きながら彼は魔道を往く。

【理】を超えた時の瞬間を彼はもはや朧にしか覚えていないが、その時もきっとこのように何かに燃えていたのだろう。

 

 

 

エーギルという無限の可能性を前にしてこの頭の冴え。

今の自分ならば友であるアトスにも並ぶ程ではないかとさえふと思ってしまう。

手は一時も止まらずに、頭の中で目まぐるしく浮かんでは消えを繰り返している発想をノートに書き写し、食事も睡眠も全てを今は置き去りにして彼は動く。

 

 

 

 

ファとソフィーヤからの招待についてもとても口惜しいが、今は手が離せないから仕方がない。

あの二人の娘が悲しそうな思いをするのは頂けないが、そこはきっと、イデアも考慮してくれるはずだ。

さすがに自分にも都合があり、毎回毎回付き合うというわけにもいかないということ位は。

 

 

 

 

霞が掛かったように欠落した記憶の中にあってもネルガルはイデアがナニカをしたことを覚えていた。

とても大きな、凄まじい、素晴らしい力を用いた事を。

自分では到底及びつかない、神の域にある彼の力と、それを御する精神の強さにネルガルは敬意を抱いている。

 

 

 

更には彼は自分にもその力の一端を得ることが出来る機会を与えてくれた。このネルガルに。

エレブの数多くの伝説や神話を見ても、竜の力と知識を得て、行使した存在は本当に数少ない。

 

 

 

ほとんどは戦役が始まる前に描かれた神話の英雄たち。

今や完全悪として定義された竜のおとぎ話の中に出てくる人と竜を繋げた勇者。

最も代表的なのは12の使徒と呼ばれる聖なる加護を得た戦士たちだ。

 

 

 

竜と人を繋げ、悪しき邪悪なる神に立ち向かったとされる使徒の威光はそれが実話にせよ、竜族の想像力豊富な誰かが作り上げた創作にせよ、陰りを見せることはない。

自分はおとぎ話の中でしか存在しえなかった偉大なる存在達と同じ道を歩んでいると考えると、ネルガルは眦に熱いモノが浮かんでくるのを堪え切れない。

力には責任が伴い、更に力を得るのも自己責任。責任という言葉を幾つも乗り越えて自分はここにいる。

 

 

 

 

アトスと部屋を別けた際に、心機一転として新しくイデアが用意してくれた個室の広さは、人間一人が生活するには十分すぎる大きさだったが、既にネルガルはこの自室を自分なりに“アレンジ”していた。

部屋中の壁という壁に張り尽くされた様々な術の術式の図を書き連ねられた紙がびっしりとスキマを余さず押しつぶし、床には幾つもの幾何学的な、魔道の陣が描かれている。

窓を開けて定期的な空気の入れ替えこそしているものの、部屋の内部には典型的な引きこもり型の魔道士が発する陰鬱な気が満ち満ちていた。

 

 

 

 

 

余り好ましい状況ではないが、こればかりは仕方ない。人間が老廃物を作り出すように魔道士はこういう風に“足跡”を残すものだ。

一枚一枚の内容をネルガルは覚えているし、その内の3割は息抜きの為に描いた何の意味もない絵のデッサン。

今となってはどうでもいい内容の絵ばかりだが、捨てる時間さえも惜しい為に邪魔にならないように計算された場所に張られている。

 

 

 

 

時間というのは本当に何物にも代えがたい財産であり、万人が等しく持つ富である。

彼は絶え間ない努力と僅かばかりの才能の後押しによって人より長く探究をする時間を与えられたが、それでも無限には程遠い。

だからこそ、ネルガルは今や絵の話題については余り考えないようにしていた。

 

 

 

 

 

しかし世の中何が役に立つか判らないモノだとネルガルは思ってもいた。

今となっては趣味の領域からも削除され掛かっている絵描きとしての基礎……人間を代表とした生物の体構造の基礎図やら、その可動域を絵として再現するための知識はモルフ作成にも大いに役に立つ。

知らないモノを再現する事は出来ないという基礎において、彼はアトスの数歩先を言っていたのだ。

 

 

 

 

 

その先は簡単だ。他に知らないのならば知ればいい。

急がば回れという言葉があるように焦りは何も生まない。ネルガルは知識の溜り場に赴き、その手の本を読み漁った。

幸いこの里には人間の筋肉や骨格の構造をまとめた本や、臓器のスケッチ、血液の存在理由の論文等々、つまり生物をどうやって生かしているのかという疑問について言及した書物が多量に有り、困る事はない。

 

 

 

 

実に、ここは素晴らしい里だ。全てがここにはある。魔道士にとっての“理想郷”といえる。

戦役以前の、竜と人が近かった時代の華やかな文明と文化を維持したゆりかご。

 

 

 

 

モルフについてもそうだ。

エリミーヌの言う神は人を土塊から作り出したというが、実はコレの事を言っているのではないかとさえ思ってしまう。

 

 

 

 

……まぁ、そういったうんちくや歴史、宗教関係の話はネルガルには余り興味のないことだ。

今の彼にとって重要なのは一日も早くモルフ作成の技術を完成させること。それだけ。

それに比べれば、他の何もかもは後回しにして問題は少ない。

 

 

 

 

そう、何一つ。

 

 

自分は知識と共に力を手に入れるのだ、それに比べれば。

 

 

 

 

 

ネルガルには見えていた。

モルフの術を神竜であるイデアさえも超える域で完成させる自分の姿が。

友であるアトスとイデアは恐らく祝福してくれるし、自分もそうなれば嬉しい。

 

 

 

ファやソフィーヤはきっと訳が分からないといった顔をするだろうが、それでも自分がナニカをやり遂げたのだと察しとてもいい子である彼女たちも判ってくれるはず。

その時にこそ、食事会の埋め合わせをしなくては。

 

 

 

考え事に没頭しながらもネルガルは自分の部屋の前に、何者かが近づくのを感じ、直ぐにその顔に喜色を浮かべた。

彼にとってアトスと双璧を成す友であり、尊敬している存在に直ぐに声を掛ける。

 

 

 

 

「イデア殿!」

 

 

 

 

 

続けざまに扉の前で入室の許可を待つ存在にネルガルは変な所で人間らしい謙虚さを持つイデアに苦笑を浮かべた。

この里における絶対の支配者なのだから、もう少し傲慢になればいいものをと思いつつも、この竜のこういった側面については好意を抱いている。

 

 

 

 

 

「よく来てくれたね。どうぞ」

 

 

 

 

 

丁寧に扉を開けて、屋内の火という光源によって入出してきたイデアの顔が照らし出される。

蝋燭とランプの揺れ続ける光によって影に浮かぶイデアの顔はとても白く、儚いようにも見えた。

紅と蒼の瞳だけが闇の中で浮いており、その眼光は何時もと変わらずにネルガルを射抜く。

 

 

 

 

 

「夜遅く悪いな」

 

 

 

 

「とんでもないさ。むしろこんな引きこもりを気に掛けてくれるだけ、ありがたい」

 

 

 

 

取り止めの無い挨拶を交わした後に、ネルガルは口元の笑みを消して本題に入る事にした。

心臓は乙女が憧れの王子にでも出会ったかのように早鐘をうち、手汗が滲み出す。

彼はイデアに走り寄ると、その手を引っ張り、部屋の中まで案内する。

 

 

 

 

「幾つかの試行錯誤と、砂山にも及ぶ失敗の果てに、以前の“アレ”をようやく形にすることが出来たんだ」

 

 

 

アレ……アトスと共同で作り出した素体の最初期の存在。

素体001と名付けられた小さく、滑稽で、モルフ技術という分野の奥深さを教えてもくれた失敗作。

砂粒の最初の一粒から、更に多くの砂が継ぎ足しを繰り返し、今に至る。

 

 

 

現在ではネルガルにとっての素体001の価値など限りなく無に等しい。

かつての己の不出来さの象徴であり、学ぶべき点は全て改良し、もはやあれはただの……“絞りカス”だ。

何ら興味をもてない、研究しつくされた廃棄物は既に瓦解し、砂とも錆とも取れない灰色の粉になってしまっている。

 

 

 

 

「ここまで来るのに、まさか趣味でやっていた絵描きとしての能力が役に立つとは我ながら思わなかったよ。私は彫刻家ではないんだがな」

 

 

 

 

「モルフを作るには、まず骨格や筋肉の構造を知る所から始まるからな」

 

 

 

 

モルフ作成を彫刻と例えるネルガルの相変わらずさにイデアは安心したように返す。

ネルガルが勧めてくれた椅子に腰を下ろすと、その前にネルガルは立ち、大きく、少しばかり過剰な動きで背を向けて数歩進む。

 

 

 

 

「さて、本題はここからだ」

 

 

 

 

大きく手を広げ、まるで舞台の中央で華麗に歌う役者の様に男は語る。

さながら、ミュージカルを歌うかの如くネルガルは朗々とした声音で観客である竜に言葉を投げかけていく。

何処か自分の技術に酔っているとも取れる言葉を発してこそいるが、イデアは黙々とその声を受け止めつづけた。

 

 

 

 

「命というこの世で最も身近に溢れていて、同時に底知れぬ奥深さを持つ真理への挑戦の結果をお見せしよう」

 

 

 

 

命への挑戦。その全てを竜に対して披露する彼の顔は、誇らしげな様相だ。

ある意味ではこの里で、竜の知識方面では師とも呼べるイデアへの研究の結果発表というものは、彼にとっては特別な意味がある。

 

 

 

 

 

ネルガルが手慣れた様子で魔力を練り始めると、部屋の中央の床に複雑怪奇な魔方陣が浮かび上がり、不気味に光を放つ。

魔道士からの魔力の放出が更に高まり、それは純粋なエーギルとへと変貌を遂げていく。

ごぉっと小さな風切り音と共に、エーギル、力が陣の中央に収束を始めてそれは物質へと作り替わる。

 

 

 

 

 

血を、臓器を、それらを繋げて命を巡らせる血管を──。

身体の重量を支える一本の長い骨──。

思考をつかさどる脳髄、全身に体液を循環させる心臓──。

 

 

 

それは、一気にモルフの身体を作るのとは根本から違う。

臓器の一つ一つを、全て、パーツを一から作り出して組み合わせていく。

瞬時に十を作るのは不可能ならば、一を十回積み重ねればいい。

 

 

 

おおよそ必要な情報は全て揃っている。

本で手に入れた知識と、予行として似たようなことを別の存在でやったから。

生命体のエーギルへの分解と再構築。

 

 

 

 

人ではなく、植物での実験ではあったが、それはとてつもなく有意義な結果を彼に齎した。

 

 

 

 

おおよそ人の赤子が母の胎内で行われる人体の形成を何百倍にも加速させた光景がイデアの眼前で行われる。

その様子を竜は瞬きさえすることもなく、全てを脳裏に焼き付ける様に凝視していく。

術式の構成、力の流れ、一つ一つの相互関係と作用。もしも失敗した場合のリスク等々。

 

 

 

 

 

 

おおよそ今の光景だけで10にも及ぶ情報がイデアの中に吸い込まれていく。

幾つか面白い発想を取り込み、イデアは内心で満足を覚える。

全体を同時にではなく、体を複数のパーツに分けて作り上げ、それを組み立てる方式は彼にも盲点であった。

 

 

 

 

しわくちゃではあるが、以前の石灰じみた色ではなく、間違いなく人肌と評される“布”がぴっちりと全身に隙間なくへばりつき、ソレは完成した。

 

 

 

誕生の産声は、赤子のソレではなく、今にも果てそうな、枯れた老婆の声であった。

 

 

 

 

 

「ァ………アァァ…………アア」

 

 

 

 

ガリガリの肉体は、正に骨に皮だけが張り付いている様に飢餓の極みとも言える姿。

だが、これは間違いなく生きている。生物として呼吸をするし、動く事も出来る。

これは獣染みたうめき声と思考をもっている。そう、この存在はある程度は、考える事が出来た。

 

 

 

 

そして何より、これの真骨頂はこれだけではない。

ネルガルは、早鐘を刻む心臓を必死に抑え込んだ。まだだ、まだ、もう少し待つのだ。

 

 

 

 

「これは“素体0252”という。私がこの里で、イデア殿から学んだことの全てを応用して作り上げた作品さ」

 

 

 

 

竜は無言であった。ただ、興味をもったのは確かであり、その双眸がまじまじとこの【モルフ】……“作品”に注がれている。

竜の眼が何処までを解析できるのかは判らない、だが、きっと、自分よりも遥かに深く、一目でこの存在の事を理解しているのは間違いない。

ネルガルは、イデアという一人の魔道士に深い敬意を抱きながら、説明の為に落ち着けと自分に言い聞かせながら言葉を発した。

 

 

 

 

「コレは思考をすることが出来る。自分で考え、判断し、動くことが出来るのだ。最も、今はまだ赤子のようなものだが」

 

 

 

 

“心”という抽象的で、宗教的な言い回しをネルガルはあえて避けた。

そんな一言で片づけたくはない。

 

 

 

 

 

そして……と。ネルガルはモルフに魔力を通しての命令を飛ばす。

人形を動かすように、この存在の根幹に与えた力を動かさせるべく。

まだ力の扱い方さえ判らない人形の手を取り、操る。

 

 

 

 

モルフを中心に、部屋内部を埋め尽くすように“ナニカ”が展開された。

それは音もなく広がり、何か派手に物を壊したというわけでもない。

だが、イデアだけはそれを理解したようで、愉快そうに肩で笑った。

 

 

 

 

「俺が初めて二人に出会った時に使ったアレか」

 

 

 

 

爆発する太陽の瞳。あふれ出る秩序。

【バルベリド】と【フォルブレイズ】を掻き消した暴力的な力の濁流。

さすがにこのモルフにそんな力はないが、あの時の現象を悲しい程に規模を縮小させて真似することは出来る。

 

 

 

 

“太陽”に対しての憧れが生み出した力。何とかあの領域に昇りたくて模倣した結界。

一定範囲内の、一定の力量を超えられない、いわばネルガルにとっては有象無象に等しい魔道士から魔力行使を奪う結界の展開。

このモルフに持たせた力はそれだ。魔封じの結界、もしくはサイレスという詠唱に頼る小賢しい魔道士を黙らせる術にちなんで、沈黙の結界というべきか。

 

 

 

だが、原理は違う。

あれは文字通り対象から音を奪う術だが、これは世界の秩序に僅かに干渉し、魔術の発動をせき止めるという原理。

 

 

 

「私やイデア殿、アトス程の術者にはほとんど効果を及ぼせない出来ではあるが、それでもこれは強力な結界だ」

 

 

 

 

掌の先にイデアは難なくファイアーを用いて蝋燭程度の灯りを出現させる。

何度か調子を確かめる様に、火の大きさを加減しつつ、イデアはネルガルに視線を向けた。

ゆらゆら竜の指先で揺れる焔は、何ら魔封じの結界の効果を受けていないように見える。

 

 

 

 

「コレは、結界の外部から飛んでくる“既に発動した術”を止める事は出来ないみたいだな」

 

 

 

 

「多少の効果はあり、必ず減衰するはずだが、やっぱりイデア殿にとっては無意味か」

 

 

 

 

ガラス細工や、表面が凍り付いた湖にヒビが入るような音が不気味に室内に響く。

結界が軋む音、ナバタ全域に満ちたイデアの力による外圧で押しつぶされかけている為に起こった異音。

深海奥深くに、地上の生物を投げ込む様な所業により起こる当然の握りつぶしが発生しかけていた。

 

 

 

 

 

神竜が支配する大海に、水滴程度の力で干渉を試みればこうもなる。

大洋のど真ん中に、小さな穴をあければ一気に周囲の水は流れ込み、その穴をふさぐ。

 

 

 

 

 

「早く結界を解いたほうがいい。“潰れて”しまうぞ?」

 

 

 

 

こうなる事は薄々察していたイデアは何とか意識をこの場に集中し、周囲から流れ込む自らの力を抑え込む。

だが、それでもモルフに掛かる負担は相当なものらしく、口元からは掠れたうめき声をあげ、その全身を震わせている。

ビシ、ビシッと皮膚に亀裂が入っていくのを認めたネルガルは少しばかり余裕のない様子でモルフを操作し、結界を解かせた。

 

 

 

 

瞬間、今まで場に満ちていた独特な、何処か落ち着かない気分を誘発させる結界の“色”は消えてなくなり、一瞬にして室内の中が押し寄せてきた“ナニカ”に塗りつぶされる。

イデアの秩序、神竜の支配が再び場を支配し、何もなかったような無音だけが残った。

だが、その沈黙をイデアは一瞬で言葉によって打ち消す。

 

 

 

 

「よく、ここまで来たものだ。正直な話、もっと多大な時間が掛かると思っていたよ」

 

 

 

 

竜の眼には驚きと、敬意と、そしてほんの少しばかりの、ネルガルには理解できない苦味に近い感情が宿っていた。

だが、真っ直ぐに背筋を伸ばし、堂々と里の支配者として魔道士に労いの言葉を掛ける様に、男は更に深い感服を抱く。

竜や人という括りを踏み越えて、ただの男、魔道士、ネルガルとして自分を認め、称える姿はネルガルの理想の友そのもの。

 

 

 

 

 

「私は、優秀だからな。これでアトスのあの髭をファと一緒に引っ張りながら、自慢が出来るというものさ」

 

 

 

 

その言葉にそうだなと返答を返され、ネルガルは苦笑した。冗談に対してここまで真っ直ぐ返されると、彼も困る。

アトスのヒゲなど、欲しいとは思わないし、もしも間違って抜いたりしたら即座にフォルブレイズが飛んできそうだ。

 

 

 

 

「正直、色々と運が良かったというのもある。この頃調子がよくてね……どちらかといえば、初心に戻った気分だが」

 

 

 

 

初心という言葉にアトス達との会話を思い出した神竜は、同じような事を語るネルガルに対して、少しばかり興味が沸き、質問を投げる。

横目でうずくまって動かないモルフの、かろうじて人肌と認められる、背骨が浮き出た肉体を見つつ、声を飛ばした。

 

 

 

 

「初心か。お前にもやっぱり駆け出しの頃はあったのか? お前は、何を望んで魔道に入ったんだ?」

 

 

 

 

純粋な疑問と同時に、ある意味これは確認である。

初志を忘れていないかどうかを確認するための大事な。

闇に深入りしすぎてしまい、知識に食われた魔道士は往々として自らのやりたかった事を忘れ果てていることもあるが故の。

 

 

 

 

問われ、ネルガルは遠い過去を見る為に瞼を閉じて、視界を闇に満たす。

何もない真っ黒の世界の中で、燃えるような感情を、胸にくすぶる願いを、何年経とうと消えない念を、ネルガルは無意識に呟いた。

自分でも想像を絶する程の、驚愕さえ覚える領域に達した念の深さを込めた言葉は、部屋の中に木霊し、神竜をほんの僅かに動じさせる。

 

 

 

篭った感情の名は、憎悪か、それとも羨望? はたまた悲痛と絶望か。

もしくは、未知に憧れる子供の無邪気な好奇心か。

 

 

 

 

「強く、なりたかった……? 私は、私の大切なモノと自分を誰にも傷つけられたくない……守りたくて」

 

 

 

 

言葉は哀愁と、ごちゃ混ぜになった感情にかき混ぜられており、竜は男に何も声を掛けることは出来ない。

ただ、ただ、何処かでネルガルの思想に賛同し、理解を示す自分が居ることだけは判る。

はははは、とネルガルは無言になってしまった神竜に対して破顔し、笑いかけた。

 

 

 

 

 

「当時はともかく、今の私は自分で言うのも何だが、そこいらの人間に比べれば強いからね。目的は達せられたようなものさ。私は守れたんだ」

 

 

 

 

既に目的は達したと続けると、彼はそのまま言う。両手を掌の前に持ってきて、ふらふらと振りながら。

全く困ったものだと世間話でもするように。

 

 

 

 

「その後が問題でね。ひょんな事から【理】を超えてしまい、時間だけはたっぷりと出来てしまった。

 だから、自分が何処まで行けるのかを知りたくなって旅をしていた所に、アトスとの出会いがあり、今がある」

 

 

 

 

ただ、とネルガルは苦笑のような、それでいてどこか清々しい気配を放ちながら言葉を続ける。

 

 

 

「この里に来てからは、私自身の矮小さを思い知らされたよ。井の中の蛙は、大海を知ったんだ」

 

 

 

部屋の片隅でうずくまるモルフに視線を移し、彼はその自らの“作品”を愛おしそうに眺めた。

自分が神の域に一歩を踏み込んだ証拠であり“力”の象徴でもあるソレを。

 

 

 

だが、まだイデアには到底届かない。

人型であり、思考をする能力と結界展開の能力こそ優っているがそれだけだ。

生殖をし、活動を停止しても砂に戻らない神竜の御力による完全なる命の創造には、全く。

 

 

 

 

マンナズは、ネルガルにとっての正に“完璧”の象徴だ。

素晴らしい。あれこそ、神竜の奇跡。完全なる命の創生。完璧なる生命の支配。

それに比べれば、自分のあのモルフなど……。

 

 

 

 

ここで、ネルガルは思いついた。マンナズという名をイデアは己の被造物に与えた。

だが、自分はまだこのモルフに名前を与えていない事を。

この記念すべき“作品”には、世の遍く芸術家が己の芸術に名を与えるのよ同じように、固有の名称が必要だ。

 

 

 

 

 

ただの素体0252では相応しくない。

モルフという名も、言わば“絵”というジャンルのようなものであり、相応しくない。

視線を彷徨わせ、ネルガルは頭を回転させて適当に様々な単語を組み合わせていく。

 

 

 

 

一瞬の間の後に、組みあがった名前をそのまま口に出していた。

 

 

 

 

「“キシュナ”……そうだ、このモルフの名前は“キシュナ”と名付けよう。私が初めて作り出した本格的なモルフで、思考能力……“心”を宿した作品」

 

 

 

どう言い回しをしても“心”という言葉以外に表する単語が見つからずに、ネルガルは不承不承ながらも詩的な言葉よりも、端的にそれを使ってキシュナを表した。

イデアは腕を組み、その様子を観察しながらキシュナに“眼”を向けていた。その内部までを見透かすように。

心という言葉を確かめる様に、その胸の内側を除くと、未だ産まれて間もないキシュナの心は壁も何もなく、簡単にある程度は見透かすことが出来た。

 

 

 

 

感じたのは“感謝”と“感動”

自らが産まれ落ちたことを朧に理解し、その創造主に対してキシュナは感謝を捧げていた。

さながら人間が神に感謝を注ぐように、一点の曇りもない忠誠と信仰を。

 

 

 

赤子の様に真っ白な思考の中で、恐らくは名も知らない感情だけを抱えている。

違う。それしか知らないのだ。それ以外は、ない。

創造主に対する忠誠しかないものは、果たして自らの“子供”といえるのか?

 

 

 

 

イデアの“産んだ”マンナズは良くも悪くも奔放だ。

彼らは独立した存在であるが故に、ある程度はイデアが干渉できるが、強制的に命の機能を停止させようとすると、かなりの労力を有する。

それは、彼らが一つの命として名の如く確固たるモノとしてあるが故の当然の状態。

 

 

 

 

知能の与え方。思考能力と人格の付与。深く掘り下げると「魂」や「心」という概念の作り方。

マンナズを産み出す中、イデアは朧にそれがどうやってやるのかを理解していたが、どうしてもその一歩が踏み出せずにとどまっている。

恐怖していたのだ。そこから先に踏み出してしまえば、もう戻れなくなると。

 

 

 

 

だが、このキシュナは、それを作り出したネルガルはイデアが獣を作るという域において犯した地点にまで届きかけている。

人をモデルにしたマンナズと人間、そこに違いはないはずであり、ネルガルはもしかしたらその域にまでいくかもしれない。

 

 

 

 

「イデア殿。我々の歴史上……エリミーヌの教えによると、人は神によって創られたモノだという」

 

 

 

イデアの視線が注がれる中、ネルガルは朗々と語る。演説をするのではなく、まるで子供が親に質問を投げかける様に。

人である彼は竜であるイデアに回答を欲しているのかもしれない。

彼の眼はキシュナだけを見て、そこに己自身を投影している。

 

 

キシュナはネルガルのエーギルから創りだされた、いわばネルガルの一部だった存在。

そこに自らの望みを見る様に、彼は真摯な声で言った。

 

 

 

 

「ならば、私の手で創りだされた“コレ”は……“コレ”を創りだした私は…………いったい、何なのだろう?」

 

 

 

「人間だよ、お前は」

 

 

 

間髪入れずにイデアは答えを弾いた。少年の声で、竜は重く断ずる。

余計な装飾など入れずに、ヤアンがいつも行う様に言葉という事実をネルガルに突きつけたのだ。

無感情な声。人に対しての嘲りも、見下しもなく、同時に称える風でもない。

 

 

 

 

淡々と真理を言い聞かせるように発された言葉は単語の羅列としての意味しかなく、否が応でもネルガルにしみ込む。

 

 

 

 

「そうだな…………イデア殿の言うとおりだ。そこまでしっかりと断言されると、むしろ清々しい」

 

 

 

くくくとアトスの様に喉を震わせて笑うと、彼は自分のクローゼットから一枚のローブを取り出してそれを未だに服を着用していないキシュナに放り投げた。

さくさくと動き出す、ネルガルを横目に椅子に深く座りなおすとキシュナに肉眼を向ける。

 

 

 

 

心の有無は竜にとっても重大な議論の対象であり、姉にも関わって来る問題だ。

心の付与を成されたモルフ。【彼】はその与えられたモノで何を思う?

 

 

自分がモルフだとそもそも理解しているのだろうか?

小さな偽りの命でしかない事を。マンナズにもなれず、人にもなれない存在。

モルフ・ワイバーン共は知性もなく、ただ本能として自らに隷属する存在だが、【彼】は考える力を手に入れてしまった。

 

 

 

 

……この問題を考えるのはもっと余裕がある時にしよう。

イデアはさっくりと胸中の気持ちを割り切ると、ここからの流れを纏め始める。

 

 

まずは、祝杯といくべきか。アトスも呼ばなくては。

酒を飲むと人は、色々と口が軽くなる。色々と。

 

 

ネルガルが歓迎の為に酒を持ってくるのを視界の端に移し、イデアはアトスを呼ぶために念を彼に飛ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神竜と大賢者がひとしきり飲み食いし終わり、帰宅した後、ネルガルはとりあえずひと段落終えた研究に対して満足を抱いていた。

やっと今日で彼は一つの確かな成果を出すことに成功し、その余韻に浸りながらも次の計画を早くも考え始めている。

モルフの研究と並行して進めながらも彼はまだまだ自分の中から次々と別の研究をしたいという欲求が沸いてくることを心地よく思う。

 

 

 

夜の冷気が酒で少しばかり熱を帯びた体を冷やしてくれるのは、いい事だ。

窓から静かに入り込む月明かりの影に体を半分ほど晒しながら彼は胸の内側で燃える念を噛みしめ、宥める。

まだ、足りない。まだまだ全然。もっとやれることはある。

 

 

 

竜の知識は永遠の謎と可能性の塊。そこに限界などないのだから。

 

 

 

そして今日、彼はその成果をつい先ほど創りだす事に成功した。

視界の端にうずくまるキシュナは身じろぎもせずに寝息を立てて活動を休止している。

これから暫くは人間の赤子と同じように活動と休止を交互に行いつつ、自我の組み立てを優先的に行うはずだ。

 

 

 

 

だが、既にネルガルはキシュナへの興味と、これを創りだした興奮についても、徐々に冷めだし始めていた。

一応の通過点であり、結果であり、これからの基礎になるが、裏を返せばそれだけだから。

自分の遥か後方にある足跡に興味を示す者がいないように、既にキシュナも遠い足跡になりかけている。

 

 

 

 

 

花瓶の中に入れられていた一輪の花をネルガルは手に取る。かつては絵の為に栽培しようとしていて、結局は刈り取れなかった花の一つ。

闇魔法【リザイア】を発動させ、黒紫色の光と共にそこに宿っていた生命力を吸い取ると、花はあっという間に萎れて枯れてしまう。

特に病気でもなく、怪我をしているわけでもないネルガルの身体はエーギルである程度は満ちてはいるが、それでもキシュナ作成で減った分を埋め合わせるように力が体内に入り込む。

 

 

 

 

 

ほんの僅かな力の回復。

だが、何かがネルガルの頭に引っかかってしょうがない。

何時もならば、直ぐにでも消えてしまう気のせいだと片付けていた事。

 

 

 

 

花を無駄に枯れさせてしまい、意味もなく命を狩り取った事に自己嫌悪と反省を抱くのがネルガルという男。

だが……今日は違った。彼は、瞳を閉じて己の内側に深く問を投げた。

 

 

 

 

 

私は、何が出来る? 何を“見た?”

何処までも落ちる様に思考を斑に沈殿させ、原因を探る。

頭の何処かでは、これはもしかしてとても危ない事ではないのかと囁く部分もあったが、ネルガルはそれを黙殺した。

 

 

 

 

そして最初に頭を焼くように閃きとして映ったのは、一つの完成された姿。

何者かが見た景色と気持ち。共感。憎悪。最後に残ったのは……爽快な、とても晴れ晴れしい気分。

満ち足りて、何もかもが上手くいくと思う程の充足感。

 

 

 

蕩ける程の充足感と全能感と共に、ネルガルは答えを見た。“誰か”が見た情報を覗いたのだ。

頭の奥底で突っかかっていた、棘の刺さった部分が綺麗に治るのを感じつつ、彼はその姿を見て感動を覚えた。

 

 

 

 

それは一人で何千という軍団となった姿。彼にとっての理想の一つを体現した姿。

黄金色に輝き、周囲に幾つもの稲妻を撒き散らす神々しい巨斧を担いだ“怪物”がいた。

 

 

 

 

内部に大量のエーギルを渦巻かせた一人の“怪物”

死という概念を支配し、形にした規格外の存在。

冷たく、無慈悲な死がこちらを見つめていた。

 

 

 

 

天雷の落雷音を、遠くからネルガルは聞いたような気がした。

 

 

 

 

だが凶念と狂念が深すぎる憎悪と共に爆発し稲妻を飲み込み、闇だけが果てなく膨れ上がる。

万物を慈しむ太陽の様であり、全ての終焉を願う暗黒の様でもある、永劫の力の連鎖を前にネルガルは圧倒されて声も出ない。

 

 

 

 

その全てに彼は魅了されていたのだ。

 

 

 

死ね、死ね、死ね、滅べ。消えろ、消えろ、消えろ。

無尽蔵に、無限に増幅を繰り返す黒い太陽はあっという間に雷を覆い隠し、絶対の天蓋としてそこにある。

魔道士はその膨れ上がる超大な感情の渦に翻弄されながらも、ただ、無心に一つの事を思った。

 

 

 

心の底から、もしもこの感情の持ち主に出会えば、彼はこう言うだろう。

 

 

 

 

 

 

───君の気持はよく判る。

 

 

 

 

 

もう何度感じたか判らない“共感”をネルガルは、かつてない程に深く抱いた。

 

 

 

 

 

 

 


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