【この人の哲学:芹澤廣明(作曲家)】中森明菜、チェッカーズ、さらには「タッチ」や「キン肉マン」「機動戦士ガンダムΖΖ」の主題歌など数多くのヒット曲を生み出し、最近は米国デビューも果たした作曲家、芹澤廣明氏(72)。意外にも22歳まで「作曲家」という職業があることも知らなかったという。芹澤氏を作曲の道に導いたのは、あの有名作詞家&作曲家だった。
――昔の親は厳しいイメージです。プロミュージシャンになることに対し、ご両親の反応は
芹澤氏 母は応援してくれたけど、父は冷ややかでしたね。「まともなことをやれ!」と。音楽で生活するなんてあり得ないと思ってたんじゃないですか。今でも親はそういうものかな。
――父親の見方は変わったんですか
芹澤氏 18歳から尾藤イサオさんのバックで演奏するようになって、テレビにも出てましたから、顔が知られていることに驚いてましたね。それに高校卒業するころには父親より稼いでました(笑い)。税金の申告で年収がバレるじゃないですか。金額を見てビックリしてました(笑い)。
――そんなにですか!?
芹澤氏 当時はカラオケがなかったでしょ。歌手が歌うためには、必ず誰かが演奏しなきゃいけないわけです。だから演奏のために日本全国行きましたよ。19歳のころは本当に大変でした。ほぼ毎日、演奏しては電車や飛行機に乗って移動。まだ日本に返還される前の沖縄以外は全て行きました。東京に戻っても、時間が空いたら横田など米軍基地で演奏です。米軍基地もあちこち行きました。
――19歳、1967年はベトナム戦争で日本に米兵が多かったころですね
芹澤氏 尾藤さんや他の歌手のバックで演奏するうちに、「譜面が読めないと仕事にならない」と気づきまして。初めての曲をすぐ演奏することもあるから。それで独学で必死に勉強しました。
――そのころから作曲家を目指していたんですか
芹澤氏 全く考えてなかったです。作曲家という職業があることすら知らなかったから。
――え!? では知ったきっかけは
芹澤氏 NHKの「ステージ101」(70~74年)という番組に「ヤング101」
として出演していましてね。番組にいろんな作曲家の人が来られるから、「そんな職業があるんだ」と初めて知ったんです。22歳のころかな。
――それで作曲家になろう、と思ったんですか
芹澤氏 思う思わないより、自分ができると思ってなかったです。その時は。
――意外です! ではどのような経緯で
芹澤氏「ザ・バロン」が解散し、「ワカとヒロ」もやめて、スタジオミュージシャンをやってるうちに、「CM曲を書かないか」と声をかけられたんです。編曲はできたんで、やってみようかというのが最初ですね。当時はCM曲ひとつ書くと15万円ぐらいもらえて、月に1曲書けば生活できました。リンナイとか週刊就職情報とか100曲ぐらい書いたかな。
――最初はCM曲の作曲からだったんですね
芹澤氏 CMを書くようになって生活が楽になり、毎日ゴルフコースに行って、ギターを弾いてみたいな生活をできるようになったけど、そのうち「頭打ちだな」という考えもよぎりだしたんですね。78年にソロアルバムを出したころ、僕は阿久悠さんの関係の事務所にいたんで、事務所の人に「阿久(悠)さんとゴルフやろう」と誘われたんです。
――あの大作詞家の!
芹澤氏 そのゴルフに作曲家の荒木とよひささんや三木たかしさんもいて、ゴルフやりながら話を聞いてると、一曲売れると1000万円ぐらい入るようだとわかったんです。
――荒木さんは「四季の歌」(76年)、三木さんは「津軽海峡・冬景色」(77年)
の作曲家ですね
芹澤氏 それに自分の接してきた人たちとはちょっと人種が違ったんですね。ポール・マッカートニーのギターはどうこうとか、そんなことをツバを飛ばしながら話してる。自分の好きなことで生計を立てていく作家の生活ってありだな。俺もこういうふうになりたいな、なれるかなと思ってたら、マネジャーみたいな人から「1000万円ぐらいすぐだよ。作曲始めなよ」と声をかけられたんです。
☆せりざわ・ひろあき 1948年1月3日生まれ。神奈川県横浜市出身。歌手、ギタリスト、作曲家、音楽プロデューサー。高校在学中から米軍キャンプで演奏し、67年にGSグループ「ザ・バロン」を結成して69年にデビュー。解散後に若子内悦郎と「ワカとヒロ」を結成。その後、作曲家として中森明菜「少女A」(82年)、チェッカーズ「涙のリクエスト」(84年)、岩崎良美「タッチ」(85年)ほか多数のヒット曲を生み出した。2018年に自ら作曲した「Light It Up!」を歌い全米デビュー。今年5月には芹澤氏作曲、売野雅勇氏が英語詞を担当した全米3枚目のシングル「Julia」が発売された。