とある竜のお話 改正版 FE オリ主転生 独自解釈 独自設定あり   作:マスク@ハーメルン

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とある竜のお話 前日譚 三章 1 (実質17章)

 

 

 

 

 

魔道で最も恐ろしい敵とは知識である。

いや、もっと掘り下げて、具体的に、そして相反するように抽象的に語るのならば魔道を往く上での敵は自分自身だ。

虚栄、傲慢、嫉妬、軽蔑、そして渇望と絶望。人として産まれ落ちた限り、決して離れることのない影達が耳元で囁き続ける。

 

 

 

 

もっとだ、もっと大きな力を手に入れよう。何を躊躇するんだ? 何を怖がっている? 恐怖する理由が何処にある?

究極ともいえる高みに昇るのに、何故、何故、何故?

 

 

 

 

それは己だ。知識ではない。知識は単なる文字の羅列でしかないが“自分”は違う。

常識と倫理、思いやりの中にぽたぽたと残忍な欲望を滴らせる。それは種。渇望と嫉妬という種を心の奥底に植え付け、その芽吹きを待つ。

例えその芽吹きが何百、何千年の果てにまで芽を出さないとしてもその存在は待ち続ける。

 

 

 

 

 

 

忍耐は果てしない。永遠に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日、混血の少女は朝早くから自室でてきぱきと荷物を整理していた。

幾つかの書類や筆を傍らに置いた特殊な構造の革袋の中に規則正しく並べながら収めていく。

ベッドの中央に正座している彼女の隣には、本や筆が転がっており、それらをソフィーヤは一つ一つ吟味している。

 

 

 

 

 

幼い少女が使う革袋は、この里の中では流行っている一般的な袋だ。

その内部は少女の性格を表しているかのように整理整頓されていた。

 

 

 

 

 

彼女でも担げるように、茶色い革袋の上部左右端から太く、丈夫な牛皮製にも似た性質をもっていたマンナズの皮のベルトが伸びており、それは袋の下部と連結して袋本体と合わせて大きな楕円形の輪を描く形をとっている。

この袋の正式な名前は背嚢という。従来の騎士や商人が用いる従来の肩掛け袋とは違い、ベルトの輪に両腕を肩まで通し、背中全体で荷物の重量を支える構造の袋だ。

更に肩に回す為のベルトとは別に、腰に回す為のベルトも存在しており、重量のあるモノを背負う時はこの腰のベルトを手で押さえることによって袋全体を背中に押し付ける。

 

 

 

 

竜族が人の姿を考慮し考え出した新しい荷物輸送のための袋であり、今や里の中ではこれを所持しているのが普通というほどに流通していた。

 

 

 

 

 

これはその何代目かの改良型となる。

初期型では肩に負担がかかりすぎてしまい、腕に麻痺を起す可能性も発見された為、試行錯誤を経て誕生したのがこれだ。

背負子、背嚢、背中掛け袋などと様々な呼び名で親しまれるこれ一つとっても、もしも外界に流出したら大規模な軍事の革命が起こるかもしれない。

荷物の持ち運び1つでも楽になれば、どれほど行軍の速度、士気の上昇、体力の温存が可能になるか。実際、これらの要素の改善は戦争に大きな影響を齎すだろう。

 

 

 

 

 

 

そして非力なソフィーヤでも、多少の荷物ならばこれを用いれば安定を維持したまま輸送することが出来る。

詰め込まれた書物の内容は、かつてソフィーヤがまだ幼子時代に母に習う際に使った数々の教科書。

竜族の歴史。文学。言語。力ある言葉。基礎的技術の解説など。

 

 

 

 

 

 

 

定期的に見直したりこそすれど、もう使うことはないと思っていた本の数々。

表紙に書かれているのは自分の名前。だがその筆跡は自分ではなく、父のモノ。

まだ名前さえ余り上手に描けなかった自分に代わって書いてくれたのだ。

 

 

 

 

 

 

ここからだ、とソフィーヤは高揚する。

基礎的な学習や倫理観の教育、竜化と人化の術、竜の力の基礎的な制御法などをイデアはこの数年間ファにみっちりと教え込んでいた。

竜の力であるエーギルの操作やその意味、危険性、可能性、運用方法、これらに代表される知識をイデアは基礎として娘に教えたのだ。

 

 

 

 

 

 

そして、今日からその応用が始まる。

基礎から、本格的な専門的な領域へと至る道に足を掛ける時が。

数万年、数十万年にも渡る竜族の“知識”を学ぶにはそれこそ無尽の寿命があっても足りないが、幸い彼女やファにはその時間がある。

 

 

 

 

イデアの教育は恐らく今日という日を発端として、ここから何百年も続いていくことが予想できた。

何せ竜族の知識をあのイデアでさえ完全には把握しているとはいいがたく、先導者であり案内者である彼自身の成長を待つこともあるだろう。

だが最終的にはそれさえもほんの僅かな“誤差”程度にしかならない。

 

 

 

 

無限の時間の前には、全てが等しい。

苦楽も悲しみも、全て。その中の努力だけが未来を変える力をもっているのだ。

 

 

 

 

 

黙々と作業をしていた少女は最後の一冊を背嚢に詰め込み、持ちやすい様に内部の書物の位置などを調整する。

これでとりあえずの作業は終了し、後は待つだけ。ファとイデア、そしてネルガル、アトス達との勉強がまた始まりを告げる。

ソフィーヤは部屋の壁にて存在感を発する、木製の質素な額縁に仕舞われ飾られているイリアの雪山を見て心の底で期待を転がす。

 

 

 

 

 

早く、みんなともっと勉強がしたいな、と。

 

 

 

 

 

ファの誕生から早くも5年という歳月が経った。それと同時にアトスとネルガル、両者が里に来訪してからの年月も同じであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エレブ新暦485年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

知識の溜り場は、その名前からは想像できない程に清潔な空間である。

大体の者が何千年も過去から存在する書斎と聞けば、至る所が崩れ、蔦や木の根が縦横無尽に駆け巡る森林と同化したような廃墟の如き有様を思い浮かべるだろう。

実際は違う。竜族は資料の保管の大切さを最も理解する種であり、そこの防備と環境整備はナーガの時代から厳正の一言だ。

 

 

 

 

書物の歴史を感じさせる薄い埃の匂いこそすれど、床や天井、壁などは常に磨き抜かれ、仮に着の身着のままで寝っ転がったとしても服には目立った汚れは付着することはない。

だからといって実際に転がる事はお勧めしない。図書館では静かに、皆の邪魔をしてはいけないのだから。

 

 

 

 

幾つもの縦長の机と椅子が規則正しく並べられ、利用者は極力大声などをたてずに黙々と読書に専念するのがここのマナー。

声を出してはいけないという規律はもちろんない。むしろ大人数での議論や意見交換は推奨さえされている。意味のない大声や喚き声がダメなだけなのだ。

 

 

 

 

それ故に静穏とした空間の扉が開かれ、数名の人物が足音を極力立てずに部屋の中に入ってきても室内の者達は対して興味を惹かれない様子で自らの読書を続ける。

ここを長が使うのは既に皆に知れ渡っていることであり、何よりもイデアがここを訪れるのは日常の光景と言ってもいい程に繰り返された事の為に誰も反応はない。

集団の先頭を行くのは大胆なスリットが入った真紅のドレスを着こんだ女性、アンナだ。

 

 

 

 

彼女のもつ様々な経験と知識、能力の一つにこの知識の溜り場に関する事項も多々含まれている。

この紅い竜はここの司書としての能力も保持しており、イデアたちが使う席の事前確保とそこまでの案内を行っていた。

嫌味にならない程度に色気と人懐っこさを振りまきながら、彼女は通りすがった者一人一人に挨拶をしつつ進む。

 

 

 

 

 

 

ある意味では里の竜族の“顔”と言える程に多種多様な仕事をこなす彼女の知名度は高い。

アンナ自身としては先代の長から引き続き、与えられた仕事を出来る限りにこなしてきただけで、どうしてそうなったかは余り判らないが。

むしろ“言葉にしづらい”裏方の仕事を得意とする彼女としては顔が知られるというのは余り好ましい事態ではないが、これはこれで悪くないとは思っている。

 

 

 

 

 

彼女の後ろに数歩離れて先導されるのはイデア、アトス、ネルガル、そしてソフィーヤとファだ。

アトスとネルガルは並んで歩き、その後ろを行くファとソフィーヤは保護者であるイデアの隣にぴったりと張り付いて歩いている。

アンナに負けず劣らずの数の者に挨拶されながら神竜は一人ずつ丁寧に返事を返す。

 

 

 

 

イデアは全員の名前と年齢、顔は把握している。更に言うならばここに居る者達の家族構成や思想や信条、得意分野などもある程度は記憶していた。

長として当然の事であり、何より500年もここにいれば自然と全て覚えてしまう。

ここに居る者達の面子の入れ替わりの速度もそれなりだ。500年前から変わらずにいるモノや、当時の者の老けた姿、更に言うならば子孫なども在住している。

 

 

 

 

 

あの時自分に注意をしてくれた者もまだ変わらない姿で居る。魔道士でありながらお人よしな者。

時間経過の速さについてはもう慣れてしまい、こういうものなんだと割り切るしかない。

つい前までは子供だった者が大人になっていたり、結婚し子供を作っていたなど特に珍しくもないのだ。

 

 

 

 

 

5年という年月をイデアは振り返ると、そこには様々な苦労があったと実感する。

この程度の年月ではファの外見は変わらないが、その中身は一回りは成長した。

少なくとも竜の力の使い方や基本的な危険性は理解している。

 

 

 

 

 

竜の爪の一撃はたやすく人の身体を挽肉に変えてしまう。

もしもそれで事故などがあったら幼い彼女の心には耐えられない負担となるのは眼に見えている。

エーギルとは精神と強く結びついた力であるが故に、トラウマなどを抱えてしまったら力を十全に引き出せなくどころか、暴走の危険性さえ高まる。

 

 

 

 

 

竜の姿で人とじゃれあえば簡単に傷つけてしまう事を判ったのは大きな収穫だ。

適切に、適当に、力とは余分に見せつけて驕るものではないと念入りに教え込んだ結果もあって、彼女は自らが神竜である事に対しての余分なプライドなどは持っていない。

もちろん、余分な、である。神竜としての自覚は成長させ、力への責任も朧とはいえ理解を始めている。

 

 

 

 

 

ファの成熟をイデアは待った。

急いで全てを注ぎ込んでも、どれほど彼女の学習能力が優れていようとそれらを吸収し、完全に把握し、モノにするまでは時間が掛かる。

だからそれを待った。彼女が里の中で大勢の子供や大人と出会い、コミュニティの一部となり、その中での自分の力の価値と大きさがどんなものかが判るまで。

 

 

 

 

 

時間は、途方もない程にある。急ぐ必要はない。

長い年月を経ても劣化しない建築物などは基礎が作りこまれているからであり、その基礎に当たる部分の経験が5年だ。

5年、ちょうどいい期間でもある。この年数は人間の子供が学習を始める能力を得るのとほぼ同じだから。

 

 

 

 

 

「お父さん、お父さん、今日からあたらしい、おべんきょうするんだよね」

 

 

 

 

 

自分の右手をしっかりと握りしめながらファはイデアを見上げて言った。

彼女の翡翠色の眼は知性と好奇の炎を宿し、そして活発な印象を見るモノに与えることだろう。

流暢に言葉を紡ぐ声は、人間の5歳児と比較しても確かな自我と意思を孕み、ファが段階的に成長を遂げていることの証明。

 

 

 

 

 

「今日から始めるのは今まで以上に踏み込んだ内容で、難しい内容になる。判らない事があったら何でもいうんだぞ?」

 

 

 

 

 

イデアの言葉に娘は「はーい」と手をあげて答える。

その様子に最も反応を示したのは意外な事に先頭を行くアンナだった。

彼女は首を横に向けて背後に意識を飛ばすと、上品に笑う。

 

 

 

 

嫌味など一切感じさせず、聞き惚れる程に品があり、艶やかな声。

 

 

 

 

 

「……本当に、しっかりと父親をしていますね」

 

 

 

 

 

 

ふふふ、と彼女は孫でも見るようにファを“見て”更に嬉しそうに笑みを深めた。

事実彼女からすれば遥か遠い未来とはいえ長になるファは孫だ。ナーガ、イデア、ファと彼女は三代に渡って神竜を見続けているのだから。

次いで、彼女はネルガルを見た後に視線を前に戻す。

 

 

 

 

 

そこにあるのは長い木製のテーブルだ。人数分よりも多少多めの椅子が置かれ、全員が座って手をめいいっぱいに横に伸ばしたとしても問題はない程の大きさのテーブル。

もはやお約束とも言える程にこういった場に馴染んだ“リンゴ”がちょこんと置かれ、両手で「予約済み」という旨が書かれた紙を掲げるそこが、今日使う席。

アンナとしてもあの“リンゴ”に悪感情はないどころか、こういった雑事や簡単な書類仕事程度ならば手伝える程の能力を持った彼らには敬意さえもっていた。

 

 

 

 

先代のナーガではまずありえない被造物だ。

絶対にそんな機会など訪れないが、もしもナーガが息子の作ったアレを見たらどんな顔をするか、少しだけ興味が沸いてしまう。

恐らくは無言で観察し続けるかもしれない。興味が沸いたりなどしたら、それこそ年がら年中、観賞用の植物の如く。

 

 

 

 

 

無機質な鉄面皮の前で笑いを取ろうと踊り続けるリンゴの図は……シュールだ。

口元が何時も浮かべているのとは違う種の笑顔で引きつりそうになるのをアンナは見後なまでに精神力で抑え込み、背後の主達を振り返った。

 

 

 

 

 

 

「さぁ、皆様。付きましたわ。長、こちらで御座います」

 

 

 

 

 

「ありがとう。後は自由にしていいぞ」

 

 

 

 

 

役目を終えたリンゴがいそいそと退場していく中、彼女は深く頭を下げて場の提供が完了したことをイデアへと伝える。

神竜はアンナを労うように笑い、アトスとネルガルへと着席を促す。

魔道士二人が並んで席に座り、その横にソフィーヤとファが並んで座り、もってきたノートを広げる。

 

 

 

 

 

 

アンナが淀みない動作で頭を下げて一礼し、視界の中から存在感を消しながら去っていく様をイデアは見届けてから動く。

全員の対面にイデアが堂々と臆面なく立つと、背後の黒板に何度かチョークを走らせてその具合を確認。

滑る様に黒に白が走る光景と手ごたえに神竜は満足気に頷くと、背後の全員を振り返った。

 

 

 

 

 

いや、全員ではない。

イデアにとってはファ以外はいわば“おまけ”であり、その事をこの場の全員が理解している故に、彼が見るのは娘だけ。

父の視線をファは受け止めた。今この瞬間の為にこの5年があったと薄々感づくだけの成長を彼女は遂げていたのだから。

 

 

 

 

 

だがこの言葉だけはファ以外の全ての者、人間たちにも伝えるべくイデアは言霊を吐く。

一切の表情を消し去り、鋭利な業物の如き視線の鋭さを伴いながら。

 

 

 

 

 

 

「───まず最初に。これからお前たちに教えようとしていることを、今一度、述べる」

 

 

 

 

 

 

次の言葉まで一泊半の間があった。

だがその間に身じろぎどころか、この場で呼吸したものさえいない。

神竜の存在が、緩慢ながらにも重圧となって空間を塗りたくっていたからだ。

 

 

 

 

 

「ここからは本格的に竜族の“魔道”の入り口だ」

 

 

 

 

 

 

“魔道”とは、そして“魔道士”とは単純に魔術を使うための学問や、魔術を用いる技術ではない。

そんなものは副産物に過ぎず、魔の道とは、知識と力を求める者が歩む道の総称である。

何も魔術だけではない、力とは知識であり、知識とは生き物だ。

 

 

 

 

 

 

「一度入れば、間違いなくお前たちを魅了する知識の数々がここにはある」

 

 

 

 

 

権力。武力。技術力。魔力。政治力。魅力。

簡単にあげるだけでこれだけの数の“力”が挙げられ、そしてその全てに対して“知識”は求められる。

権力が一番いい例だろう。自分の得た権力を絶対のモノだと驕り、その“力”に溺れた者は大概悲惨な最期にたどり着く。

 

 

 

 

 

それは即ち“知識”によって得た“権力”に逆に操られて殺されたのだ。

分を弁えない行動によって分不相応の力を得ればそうなるのは眼に見えているというのに、それに気が付く思考さえ失う恐怖。

魔術という分野ならばその破滅は更にわかりやすい。特に闇系統の術ならば。

 

 

 

 

 

 

「だからこそ、これだけは言っておく。気を付けろ、と」

 

 

 

 

 

 

己の身に対して更に強大な“力”を知識から得る度に、器は悲鳴を上げて、少しでも己の身に力を貯めこみつつも、その負担を和らげようとする反応が起こる。

 

 

 

 

 

その結果に何が起こるか?

上書きされるのだ。元々の術者の中にあった「ナニか」を上書きし、そこに力を取り込む容量を産み出す。

壺に例えるならば、中に入っていた水を取り出し、そこに新しい水を足していくように。

 

 

 

 

そして捨てられた水の名前は多岐に渡る。記憶とも、感情とも……自我や魂とも言う。

覆水盆に返らずという言葉があるが、それに近い。滅多な事では闇に染められた者は戻っては来れない。

かの八神将ブラミモンドは己の本質さえも闇の中に溶かし、そこから竜と戦うための力を得たという。

 

 

 

 

黒く、黒く、本来あったはずの「ブラミモンド」という名前の絵を闇で塗りつぶし、もはや概念に近しい存在へと成り果てたのが彼のものだ。

 

 

 

 

そんなこと、今更ファはともかく、アトスとネルガルには説明するまでもないことだが、イデアはあえてこの場で忠告を発した。

アトスはその言葉に重厚に同意するように視線を細め、ネルガルは、はやる気持ちを抑えきれない様子でいながらも小さく頷く。

暫しの間、全員の気配を神経質なまでに伺っていたイデアがふっと一瞬肩の力を抜くと、彼は破顔一笑し、親しげな空気を纏った。

 

 

 

 

 

さすがにこんな重苦しい雰囲気を維持したままの講義は、彼も疲れるのだ。

あくまでもファが優先であり、そのファが勉強を嫌う環境を彼は作るつもりはない。

だが、今だけは別だ。同じような事はもう何回も言っているが、念には念が必要だ。

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 

 

 

 

少しだけ父親が纏っていた空気に感化されて、身を震わせていたファの手をソフィーヤが優しく握りしめた。

彼女にはファの気持ちが判っていた。その胸の内側の恐怖を。自分がそうなってしまうのではないかという恐ろしさ。

その恐怖は必要な感情だ。イデアはきっと判って彼女にその感情を植え付けたことを知っている。その上で自分が何をするべきなのかも。

 

 

 

 

 

 

「……私も、長もついています。ファは……大丈夫」

 

 

 

 

 

 

 

言葉による返事はなかった。ただ、少しだけ、強く指が握り返された。

その上でファは頭をあげ、父親を真っ向から逃げずに見返す。

震えの取れた唇から、小さな竜は精いっぱいに声を出し、父に自らの心を伝えるべくイデアの眼をしっかりと見る。

 

 

 

 

 

 

「ファは、それでもいっぱい、いっぱい知りたい……こわいけど、それでも知りたいの」

 

 

 

 

 

娘の嘘偽り所か、怖いモノをしっかりと怖いと認めた上での言葉にイデアは重く、深く頷いて敬意を表した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

傾いた太陽が放つ真っ赤な光が部屋の中に差し込み、知識の溜り場は真っ赤な夕日に照らし出された個所と、その影響で深くなった影が存在している。

影の中でネルガルはランプの灯りを手元に影の中で夢中にノートを取っていた。

教壇に立ち、夕日を浴びながら輝くイデアから出される声を彼は一言一句聞き逃さずに正確に記録を繰り返している。

 

 

 

 

 

ネルガルは僅かに横に目を向ける。

そこには一切の表情を消したアトスが体の右半分に夕日を浴びつつも、意に介さず自分と同じように記録を書き連ね続けていた。

手だけが独立した一個の生き物の様に紙の上を駆けずり回り、ありとあらゆる神竜の言葉を彼は貪り、頭の中に叩き込んでいく。

 

 

 

 

 

そこにいたのはネルガルの鏡だ。ただ、アトスはネルガルとは当然ながら違う人間である。

彼とネルガルの大きな差異の一つに内心でどれほど興奮していようと彼はそれを……本当に集中している時は表に出さない。

伝説の金属さながらの忍耐力の高さを彼は素晴らしいまでに発揮し、知識の快感にとらわれない様に強固な“壁”を心の中に築く。

 

 

 

 

 

それは素晴らしい事だとネルガルは素直にアトスを尊敬していた。

自分は少しばかり未成熟な子供の様な所があることも彼は知っている。

それが魔道を歩むうえでの強みにも、弱点にもなることを。

 

 

 

 

 

 

 

好奇心は猫をも殺す。だが、好奇心こそが人の発展を支えてきた。欲望と好奇は紙一重だ。

ネルガルはあえて欲望を普段よりも解放していた。

そうすることで、頭の回転は速くなり、内側から溢れる無尽蔵の知識欲を効率よく“使う”ことが出来る。

 

 

 

 

 

 

ちらっとアトスの向こう側で完全に陽の光に全身を晒しているファとソフィーヤが垣間見えてネルガルは微笑ましく思った。

彼女たちは二人で足りない部分を補いつつ、軽い冗談や議論を混ぜながら一つ一つの疑問や課題に全身全霊を注ぎ、頭をうんうんと悩ませている。

イデアもどうやら二人の自主性を重んじているのか、本当に二人がどん詰まりになった時にだけ助け舟を出しているようだ。

 

 

 

 

 

 

あれこそが本来あるべき勉学の形かもしれない。

自分たち魔道士という人種は既に何のために知識を手に入れようとしているのかさえ忘れている事も多々ある。

 

 

 

 

 

 

 

世界の為、国家の為、権力の為、もちろん自分自身の向上心、欲望、悪意、そして…………。

 

 

 

 

 

何故、と一瞬だけ脳裏に浮かんだ言霊を消し飛ばしたのはイデアの言葉だった。ネルガルの耳は、今最も興味のある単語を拾い上げた。

エーギルという言葉に対してのネルガルの反応は半ば脊髄反射に近い。表面上は冷静沈着な紳士を装いながらも、その内心は幼子の如く興奮に塗れる。

少しだけ咳払いをすると、椅子に座り直し、汗でじっとりと滲んでいた衣服を着なおしてから彼はノートに向かい合い、耳を澄ます。

 

 

 

 

 

 

 

「エーギルというのは、魔力と混同されがちだが、それは違う」

 

 

 

 

 

 

イデアの少年らしさを残す高音はとてもよく響く。

その上そこに数百年を生きた竜としての圧を加えられて発せられる言霊は心臓の奥底に深く楔を打ち込むように、胸の内側にまで浸みこむ。

聴いていて心地よい音程と発音をこの神竜は熟知しているらしく、吟遊詩人としてもやっていけるのでは、とネルガルは頭の片隅で思わざるを得なかった。

 

 

 

 

 

 

「これは生命の本質に寄り添う概念だ。魔力もこのエーギルが表層上に噴出した現象の一つでしかない。魔力はエーギルから生み出される」

 

 

 

 

 

 

エーギル、魔力とは違う可能性。魔力よりも上位の次元にある概念。竜の力の一端であり本質の一部。

魔道士は魔力を大量に使用すればするほどに様々な弊害に襲われる。脱力感、睡眠欲求、生命維持機能への不安定さ、そしてそれでも多量の魔力を使えば待っているのは死。

魔力という概念について研究したことがないわけではないが、思えば魔力に対して出した答えは「そういうもの」として片付けていた節がある。

 

 

 

 

人がなぜ呼吸するのか、何を吸っているのか、何故呼吸が必要なのか。

それを気にする者が今の世界に少ない様に、それが世界の法則だと納得してそこで足を止めていた。

 

 

 

 

だが竜族は違った。“神”は全てに解を与え、授けた。

彼のものは絶対の存在であるが故に、誰であろうと彼の邪魔は出来ない。無意味な宗教も、論理も、常識も、何一つ鎖はない。

 

 

 

 

 

 

かつてのイデアが産まれるよりも遥か以前の時代、人もなく世界が創世を成された元始の時代にその謎に挑み解き明かした“神”が在ったのだ。

命の謎を一つ残さずバラバラに解体し、判りやすい様に後世に残る記録とし、竜族の常識にまで噛み砕いた神。

もはや命や魂とは、竜族の中ではただ一つの単語で片付けられる。

 

 

 

 

それはネルガルやアトスが名も知らない“神”が基礎を築いた偉大なる叡智の一部。

生命というこの世で最も溢れていて、同時に最も深い謎を秘めた存在の謎解きをイデアは二人の前で行い始めた。

 

 

 

 

 

 

「人も竜も、動植物、生きとし生けるあらゆる存在がエーギルをもっている。いわば平等に秘めた可能性なんだ」

 

 

 

 

 

 

エーギルは可能性だとイデアは端的に表す。あらゆる可能性、無論、栄光も破滅も等しく。

余りにも万能で、強大で、身の破滅さえ呼びかねない力にこの表現は相応しい。

命の可能性。進化の可能性。神が残した至高の遺産。

 

 

 

 

 

 

「この力の発現は多岐にわたる。魔術だけではない。秩序の修復、支配、仮想生命の創造、自らの存在の強化、果ては世界の最も深い部分にさえ干渉することも可能となる」

 

 

 

 

 

ネルガルの頭は半ば麻痺した感覚でイデアの言葉を受け入れていた。そんな馬鹿なとは言えない。何故ならば彼はイデアが何をしたかを知っている。

あの時、砂漠で初めて見たイデアの力は正に神がかったモノなのは疑いの余地がなく、何より自分自身が既に人の理を超えた数百年という年月を生きているのだから。

自分自身が既に非常識の中に身を置いている故に、ネルガルはイデアの言葉を否定できるわけがない。

 

 

 

 

 

 

神将器の力を押し流し、半壊した秩序を欠伸でもしながら当然の如く修復し、世界を支配したあの力…………。

超自然的な力さえこの概念の型に嵌めてしまえば「出来て当然」となる。

ネルガルの頭の中で素晴らしい可能性が花開いた。無限の欲望が片端から満たされていくような充足感が。

 

 

 

 

 

頭の片隅で無意識的に彼は囁いていた。それは、イデアが語る通り、神の力だ…………。

じくり、と胸の何処かが痛んだ。

 

 

 

 

だが、とネルガルは熱しそうになった頭を無理やりにでも落着けた。

彼は駆け出しの魔道士ではない。冷静さの大切さを心得ている。冷静さを失い知識を貪れば、待っているのは破滅だ。

慎重に、冷静に、臆病に、この問題には今までの人生の中でも最大にして最高の注意を払わなくてはいけない。

 

 

 

 

 

気が付けば彼は潜在的な興奮のせいで拳を強く握りしめていることに気が付いた。手汗が止まらず、気持ち悪い。

ネルガルは自分に力を抜けと言い聞かせ、座り直し、アトスに気が付かれないように深く呼吸をした。

 

 

 

 

 

まずは一切の雑念を排し、イデアの言葉に集中しよう。考えるのは彼の言葉を書き取った後に幾らだって出来る……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アトスと共に部屋に戻ったネルガルは未だに収まらない興奮に満ちた自分に何とか落ち着けと言い聞かせ続けていた。

しかし外見上は全く普段と変わらない。彼は部屋の隅に置かれた自分用の机に向かい合い、椅子に座り、指を額に当てて微動だにせず心の整理を続けている。

閉じられた目の内側でイデアが何度も何度も講義をしている姿がちらつき、離れない。

 

 

 

 

 

ようやく彼はため息を吐いて顔を上げ、周りを見渡した。

アトスはいつの間にかいなくなっている。恐らくはヤアンとでも話にいったのだろう。

何故彼がそういう行動をしたのか、ネルガルには痛い程に理解できた。

 

 

 

 

 

気晴らしがしたかったのだろう。気分転換をし、心にゆとりを作ってから勉学に取り掛かりたいと彼は思ったはずだ。

それほどまでに今日彼らが聴いた竜の知識は衝撃的だった。ネルガルをして、本当に自分はこの知識を学んでいいのかと僅かながらに畏怖するほど。

エーギル、魂を記号化し、それを効率的に使う技術。竜の知識の前に比べれば、エトルリア王国の魔道研究など子供のおままごと以下に落ちてしまう。

 

 

 

 

ネルガルは目の前の自らの文字が書き込まれたノートを穴が開くほどに強い眼力を込めて凝視した。

何度読もうと、そこに刻まれた文字が変わることはないが、それでもだ。

 

 

 

 

 

基礎的な竜族の言語。エーギルという概念とその力。竜の歴史の触り。

それが今日彼らが手に入れた知識であり、今ノートに纏められている内容である。

全ての言葉を聞き取りで書き連なった為に、今日一日だけでノートの3割は消費したが、それに見合うだけの価値はここにある。

 

 

 

 

 

中でも彼は始祖と神の時代に強く惹かれた。

世界の根源に関する重要な情報であり、この世界の成り立ちそのものの答え、その一部に心惹かれるのは魔道士としては当然のことかもしれない。

歴史ならば問題はない。知識ではあるが、歴史を学ぶことは、魔道には……余り直結はしないだろう。

 

 

 

 

余り、だ。最も興味ある話題がそこには含まれているが、概念と理屈程度だろうと予想している。

 

 

 

 

何処でどういう技術があった、こういう戦争があった、こういう術や武器があったと知るだけならば危険性は少ないと彼は答えを出す。

朗々と彼はノートの内容を一人で読み上げる。もう一度、しっかりと声に出して確認するために。

老人が昔話を語る様に、深みと憂いのある声が部屋に木霊する。

 

 

 

 

 

 

「創世記、かつて世界には“神”と“始祖”があった。渦巻く混沌と対を成す秩序……ここが始まり」

 

 

 

 

 

もしくは【光】と【絶望】とも名づけられる。希望の反転、光源と影。

 

 

 

 

 

 

そこには人もなく、自然もなく、大地も空も、空気も何もない。あったのは一対にしてありとあらゆる意味で鏡写しである同一の存在だけ。

闇はあらゆる場所に存在した。秩序の裏側、足の裏側、暖炉の燃える薪の中、ベッドの中、そして“神”の裏にも。

最も強く、尊く、輝かしい光はこの世で最も深く、恐ろしく、深い闇を投げかける。

 

 

 

 

 

ぶるっと、魔道士の男は身震いした。彼は潜在的にこの始祖がどれほど恐ろしい存在なのか理解してしまっている。

誰でも持つ闇の権化。始祖、世界創世からあるいわば世界が落とした影そのもの。

 

 

 

 

 

「“神”と“始祖”は一対にして一。混沌と秩序は同時になくてはならない」

 

 

 

 

実際問題、正義や悪など人の小さな倫理で作り上げたちっぽけな概念でしかない。

これはとても大事な概念ではあるが、それでもこの一対の存在からすれば無意味の一言で片づけられる。

そんな次元などこの存在達は超越しており、光だから正義、闇だから悪、等と決めつけるのは愚の骨頂だ。

 

 

 

昼と夜に優劣を付けることなど出来ないのと同じであり、純粋に善悪を超過した一種清々しい領域にある。

知りたいと、純然たる好奇をネルガルは抱く。人として、この世の真理が目の前にあるが故に願う欲望。

 

 

 

 

 

 

目線をノートの文字に焦点を当て、更にスラスラと読み解いていく。

 

 

 

 

 

「だが、その均衡も永遠ではない。

 やがて思想の違い、支配者の座を巡る決裂から袂を決定的に別けた彼らは壮絶な殺し合いを始める。何十万年もの過去に行われたソレはこの世で最も古い神話の戦争」

 

 

 

 

 

戦争は激化を究めた。

神と始祖は対等の存在が故に、その力も拮抗する。創造の力を使う神に滅びの力を得意とする始祖。

だが、この世の絶対的な法則の一つとして滅び、破壊に向かう力は万物に対して優勢を誇る。それは神と始祖の間にさえ例外ではなかった

 

 

 

 

しかし神はその万物の絶対法さえも覆す術を幾つも“創り”対抗する。

泥沼で、終わりがみえない闘い。尻尾を咥えた蛇がグルグルと回る様に。

 

 

 

 

永遠不滅を約束された存在が、滅ぼしあうという矛盾。

 

 

 

長い、長い戦争だった。幾つもの巨大大陸が跡形も残さず消え去り、場が崩壊し、世界の根幹が打ち砕かれる程の。

行使された術の数々は全てが残らず禁忌。一度の発動で文字通り全てを滅ぼしかけない力の数々。

全く冗談でしかない。人竜戦役の最中でさえ秩序が崩壊する事はあっても物理的に世界が消し飛んだことなどなかったというのに。

 

 

 

 

闘いの間にも様々な竜が産まれた。

戦争の前からも少数ながら存在したが、戦時下にも竜は産まれ、それぞれが神と始祖の陣営につき戦火を拡大させる。

 

 

 

 

その中でも際立って目立ったのは地竜、暗黒竜、魔竜といった種の表記。──メ──ィ───ス──というとある暗黒竜の始祖からの決別などが。

人竜戦役の際、たった1柱が存在していただけで人類を追い詰めたあの竜族の王とされる魔竜が少なくとも複数いたなど、価値観がおかしくなりそうだった。

 

 

 

 

 

 

だが、結局の所勝利をおさめたのは神だ。

始祖は敗北し、その存在を世界から消すことになる。もう、いない。

 

 

 

 

 

今判っているのはこれだけだ。

もっと深く知りたいならば、イデアの教えを更に深く取り込む必要がある。

この歴史の中には彼の知りたいことが全て含まれているのは間違いない。

 

 

 

 

モルフ───。

 

 

 

 

この単語だけがやけに彼の心を揺さぶる。強く。胸の奥底が求めてやまない。

目を閉じて、心を落ち着けるとその欲求は息を潜め、何処かへと消え去る。

 

 

 

 

 

 

「いかんな。これはダメだ」

 

 

 

 

 

ノートから目を離し、彼は空中に視線を投げかける。

そして誰か、ではなく、自分に言葉を投げかけた。もう一度言い聞かせるために。

すっきりとした頭で彼は考えずに直感で判断した。そうだ、散歩へ行こう。

 

 

 

 

うだうだ考えていて煮詰まり、更に自分の無能さに絶望して深みへと沈んでいく螺旋は御免こうむる。

大概の魔道士が壊れてしまう原因の一つに、彼らは息抜きが下手だという結果が見えてくる。

自分の限界を過信した者に訪れるのは、自滅でしかない。

 

 

 

 

 

 

ネルガルは思い立つと同時にノートを畳んで、立ち上がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼があるく整理された石畳の床は、適度な反発と共に、足を疲れさせないための工夫が幾つも施されている。

例えば今みたいに夜の時間になると、道の両端が薄く発光して足場を見失わせないようにするなど。

道の真ん中を緩やかに進みながら、彼は頭の整理と冷却の為にとりとめもない事を考えていた。

 

 

 

 

 

夜風が頬を伝わり、胸中で膨れ上がった熱を冷ましてくれる感覚をネルガルは好ましく思った。

ナバタの砂漠の里は、魔道士が隠遁して暮らすには正しく理想的な環境が整っている。

無尽蔵の知識、豊富な書物、叡智と倫理を弁えた人道的で、かつ優秀な魔道士たち…………。

 

 

 

 

聴けばエトルリア王国ではアトスが居なくなった後は、魔道の研究は“政治ゲーム”に堕落したという。

貴族に取り入るための研究、優秀な者を蹴落とし、その研究を躊躇いなく握りつぶす愚行、更には暗殺、賄賂、多種多様な膿が噴き出る場所へと。

魔道士というのはそれだけで特権を得ることが可能なほどに稀有な存在であり、人は往々として特別扱いと権力には弱いモノだ。

 

 

 

 

ナバタの里中心部の殿の周りを特に予定もなくぶらぶらと歩きつつ、ネルガルはいや、私も人の事は言えないと首を振った。

この世界での特別の中に自分は間違いなく含まれている。理を超えた事や、こうして人の手が届かない知識を学んでいることを思うと。

自分は特別で、選ばれた存在で、だからこそ全てを手に入れる権利がある……等と考えるのは典型的な物語に出てくる小悪党ではないか。

 

 

 

 

む? とネルガルは思考を停止させ、目の前にある建物に目を向けた。そこにあるのは円筒状の天まで伸びる巨大な塔。

いつの間にか自分はまた知識の溜り場にまで足を運んでいたようだ。無意識の内にここに足を運ぶとは。

 

 

 

 

 

入るのに全く問題はない。既に数年間この里で生活している彼はこの場のルールを理解していた。

基本的のこの建物には真正面から入り、利用するための手続きをすれば何時でも使用は許可されている。

何処かにまだ自分の監視がいるのだろうが、それも彼にとっては問題ではない。

 

 

 

 

ここにある書物は何も魔道だけに限ったものではなく、様々なジャンルの書物が理路整然と収められている。

歴史はともかく、誰かの日記やおとぎ話、小説や神話の類など様々な種類があり、時間を潰したいのならば最適だろう。

ほとんどの本は竜族の文字で描かれているが、中には当然、エレブの基本的な文体で記されたモノもある為に読むことは可能である。

 

 

 

 

 

 

 

 

扉に手をかけ、ネルガルは力を込めて押し開く。

金属製の頑丈な作りの扉はよく整備されており、軋んだ音を1つもあげることなく解放される。

彼が知識のたまり場に足を踏み入れると同時に、瞬間的に空気の質が変わった。

 

 

 

 

 

荒涼とした砂漠の空気から、重々しくも何処か心を癒される雰囲気を伴う歴史の世界へ。

扉が背後で閉まると、室内は外部の冷気を遮断し、本にとって最も適切な状態に調整された温度が全身を抱きしめる。

人が生きていくにも最適なこの部屋の中は、本だけではなく、それを手に取る者の事も考えて設計された空間なのだ。

 

 

 

 

何人かが扉の開閉に反応して眼を向けてくるが、ネルガルを認めると彼らは微笑みつつ一礼し、そのまま自分たちの読書へと戻っていく。

彼らは極力他人にはあまり干渉はしないが、こちらが探し物をしている時や、困った時には無償で手を差し伸べてくれる。

一人で黙々とやるよりも、コミュニティを作って議論を戦わせることを好む傾向があるのが、この里の魔道士の特徴だった。

 

 

 

 

 

 

足音を極力たてずに彼は目的もなく適当に本を見繕うべく歩く。

何か面白い内容のモノでもあればここで読んで時間つぶしをしてから部屋に戻るつもりで。

今は空いている時間帯であり、席も好きな場所に座れる。

 

 

 

 

 

 

人の身長の何倍もある本棚の森の中を歩き回り、目についた本をネルガルは手に取った。

今彼が歩いている場所は主に竜族の物語、おとぎ話、伝説などを収めた本棚である。

この中にはかつてソフィーヤが熟読していた裏切られ、焼かれてしまう騎士の話なども貯蔵されている。

 

 

 

 

ちょうど物語が佳境に入り、華やかな大団円になるかと思いきやその予想は最悪の方向で読者を裏切る。

友の裏切りによる主人公一派の死と、騎士の妻を洗脳して奪い取る等というふざけた展開に対して彼女は無言で枕に小さな握りこぶしを叩きつけて抗議していたことがあったほどだ。

この作者の方はおかしいです、等とソフィーヤにしては珍しく暴言を吐き、それにイデアが渋い顔をしたこともある。

 

 

 

 

何気なく思い立って手に取った本のタイトルを見やり、ネルガルは目を丸くしてしまう。

古い竜族の文字だが、何とか彼にはそれが何と書いてあるのかを読めて、まさか自分の知っている存在が本になっているとは思わなかったと息を漏らす。

いや、彼女が竜であるならばこういった伝承になっていてもおかしくはないかと内心で半分ほど納得してしまうのも、ひとえに彼女の性格と能力故か。

 

 

 

どんな時代のどんな場所にも当然の様に彼女ならば紛れてしまいかねない。

 

 

 

 

 

 

本のタイトルは商人アンナの記録。

 

 

 

 

 

自分の知っている彼女が由来なのか、それとも違うのかは判らないが、どちらせによ興味が惹かれた。

それなりに分厚い本ではあるが、速読が得意でもあるネルガルならば一晩じっくりと時間を掛ければ問題なく読破は可能。

次に、ネルガルは片手で本を持つと、もう一冊を気まぐれに書棚から引き抜こうと視線を走らせ続ける。

 

 

 

 

その最中に何気なく今手に持った書に視線を落とし込む、彼としては本当に何の意味もない行動。

結果は何も変わらない、そこにある本は何も言わず、ただあるだけ。茶色く、年季を感じさせる表紙が喋ることもない。

元より無意識での何の意味もない行動だったが故に彼は他に数冊本を手に取り吟味し、そちらに目線を動かす。

 

 

 

 

 

別の本棚にも大きな歩幅で赴き、そこからも気まぐれに一冊本を取り出す。年季の入った本で、所々には黒いシミの様なモノがある。

タイトルさえもないそれを軽く開き、流しながら読む……そしてネルガルは頭を傾げた。

書きなぐった様な文字の数々はもはや文章としての法則さえ守ってはいない。

 

 

 

 

 

ざらざらと荒れた手触りや、微かにかおるカビの匂い、扱いの雑さから数百年単位の昔の書物だということは推察できた。

そして恐らくは、この本は全くと言っていいほどに誰かの目に留まることもなかったと。

 

 

 

 

 

本の中身は無茶苦茶だった。

ページがインクで埋め尽くされ、文字と文字は重なり合い、意味不明な単語の羅列とただひたすら聖女エリミーヌを称える賛歌が記されるだけ。

もしもこれを聖女エリミーヌ本人に見せたとしても、丁重に包まれた言葉で「意味が判りません」と言われるのは間違いない。

 

 

 

 

 

 

子供が思いついた言葉を無数に書きなぐっただけのような、規則性のなさは見ていて不快にさえ思える。

普通ならばこんな訳の分からないモノなど直ぐにでも元の場所に戻し、記憶の中から数日でもすれば削除されてしまう。

だが……ネルガルはその中に、一つだけ今最も興味を注いでいる単語を見つけてしまった。

 

 

 

 

 

無数の文字の下に埋まっているような形だったが、彼はそれをはっきりと認識する。

 

 

 

 

その単語は【モルフ】

 

 

 

 

 

間違えるはずがない。

この文字は非常に読みづらいが少し古い文体なのを除けばエレブで一般的に使われる文字であり、難解極まる竜族言語ではないのだ。

何故この単語がここにあるのか、その理由は判らないが、興味をネルガルは抱いた。

 

 

 

 

 

面白い。運命というものがあるとすればよく出来ている。

しっかりと何時チャンスが来ても大丈夫な様に準備が出来ている者にこそ世界は微笑むというが……自分はどうなのだろうか。

 

 

 

 

 

 

これはチャンスか? それともただの肩すかしか? 

それさえも今は皆目見当がつかない。

 

 

 

 

とりあえず、ここで本を読むのはやめることにする。

この2冊の本は自室に戻ってゆっくりと読むことにするとネルガルは決めた。

強い意思をにじませた歩みと共に彼は本を受付の者へと渡すためにもっていく。

 

 

 

 

 

睡眠など不要な彼にとっては夜の時間全てを潰してしまっても、明日に支障が出ることなどない。

 

 

 

 

 

夜は、更にその深さを増していく。

 

 

 

 

 

その中をネルガルは突き進むように歩いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イデアは自室で出来るだけ気配を消しながら淡々と自らの研究を行っていた。

囁き一つ漏らすこともなく、彼は机に向かい合って幾つもの理論を構築している。

モルフの術式、封印解除の術式、その他にも様々な研究を彼には平行して行うだけの集中力と体力がある。

 

 

 

 

月は既に天辺を回り、周囲には音一つない。

開け放された窓から冷たい風が吹いて来てそれが彼の金糸を揺らす。

 

 

 

 

無限の竜の体力が人間ならば数か月で過労死するであろう労働と鍛錬を可能としていた

握りしめられた万年筆が滑らかに、一瞬たりとも停止することなく動き続け、作業として文字を刻んでいく。

指に疲労が溜ると、自動でそこに回復の術が発動して指の稼働を滑らかにする。

 

 

 

 

気が付けばイデアは今晩の作業に入ってからほんの一刻ほどで用意していたノートの3割は埋め尽くす程に文字を刻み込んでいる。

彼がノートに書いていた物は、様々な魔道の理論と構築式、それによっておこる結果の予測図。

頭の中でイメージしつつ実際に起こるであろう予想や、力の効率的な使い方、力を通す“道”……俗に視覚として魔方陣と映るモノの作成などをイデアは行っていた。

 

 

 

 

 

もっと噛み砕いて言えば、イデアは術を作っている。

既存の術の改良も含め、様々な方向性から封印の解放という難問に挑み続けている。

 

 

 

 

一つはモルフ作成の術の改良、自我意識を持ったモルフの創造。

マンナズはある意味ではこれに値するが、神竜はなぜか、どうやっても人のマンナズを作ることは出来ない。

精神的な意味で何処かが拒絶しているのかもしれないが、イデアはどうやっても自らが「家畜」と認識した存在しか創造出来ないのだ。

 

 

 

500年前から一切の妥協なく励み続けた結果の一つがマンナズであり、通過点の一つであった。

 

 

 

 

そして最も彼が重視するのが二つ目、姉の解放のための術の構築。

色々と試しているが、何かを掴めそうで、霧を掴むように手が宙を空振ってしまうのが現状。

あの水晶の結晶は全く全体、謎に満ちている。

 

 

 

 

幾つか判ったのが、あの水晶は物質の様に見えてその実物質ではないという事。

宝石の如く輝くアレはいわば凍り付いた“場”そのものであり、ただ単純に剣や斧でたたいたところで何一つ意味はない。

もう少し資料があれば深く掘り下げることが出来そうなのだが、そもそも封印の剣がどういう材質で作られているのかさえ不明なのだから、どうしようもない。

 

 

 

 

 

 

“手段”を選ばなければ力技で強引に破壊も……恐らくは可能だろう。その場合、中のイドゥンがどうなるかの保証も出来ないが。

チラリと腰の剣に目をやったイデアはそれはありえないと解を下す。戻れなくなる。断崖絶壁に身を投げ出すような行為でしかない。

 

 

 

 

 

現時点では二つとも歩みは牛歩と評するしかないが、そんなことを悩むぐらいならば一歩でも先に進むべきだとイデアは思っていた。

悩むことは大事だが、それに拘りすぎて腐ってしまったら本末転倒であり、愚者の行いだ。

 

 

 

 

ふぅと、ある程度区切りがいい所で筆を置いたイデアはノートに目を通して誤りなどがないかを確認するために手早く視線を走らせた。

1,2,3,4、とページを捲るたびに隙間恐怖症でもあるのかと我ながら疑わしい程に敷き詰められた文字が目に悪い。

 

 

 

 

 

鮮やかな魔道士の象徴とも言える魔方陣だが、それを完全に構築するのはとてつもない程な集中力と時間、そして根気を要求される。

一つ一つの魔術的な文字の流れや、その中を流れる魔力の流れを完全に把握し、それが何を齎すかも理解しなくてはいけない。

最初は慣れないモノだったが、今では逆にこれを書かないと落ち着かない程に彼は魔道に入り込むことが出来ている。

 

 

 

 

 

机の上で掌をかざすと、2冊の魔道書が黄金の光に包まれて現れる。

世界最高峰の魔道書であり、イデアの所有物ではない書が。

 

 

 

 

つい最近に解析が終わって、今は手持無沙汰になってしまったこれらをどうしようかイデアは悩んでいた。

 

 

 

金細工で装飾を施された全体的に紅蓮の色彩を基本色とする魔書……【業火の理】フォルブレイズ。

対を成すように銀で縁取りされる黒い表紙の暗黒魔法の書、その名を【バルベリト】という最高位の術書。

どちらも恐ろしいまでの力を内包する。用い方次第で間違いなく国家を破滅させることさえ可能なほどに。

 

 

 

 

 

 

轟々と燃える理の炎と、緩やかに流れる闇の大塊。理と闇の到達点の一つともいえる程に膨大な力の塊。

両方を“見て”からイデアは何事もないように本の表紙を摩る。

 

 

 

 

 

【バルベリト】は何も問題はない、何も感じないし、安定した闇の波動は夜に抱かれているような安息を感じさせた。

次にフォルブレイズに触ると、イデアの掌は焼けるような熱さを覚えてしまう。あの時アルマーズに焼かれた時の様な火傷痛を。

紛れもない拒絶の意思が掌の熱を通して伝わってくる。所有者であるアトスが許可を出したとしても、これは“そういうもの”であるが故に竜である身には拒絶しか返さない。

 

 

 

 

書から指を離して眼を向けると、べろっと皮がむける程の火傷がそこにはあった。

だが次の瞬間には、人間の傷が治る過程の速度を数百倍にもしたような光景と共に白い肌にまき戻る。

 

 

 

 

2冊の書の解析は既にあらかた終わっている。

どのような術で、どのような効果があるのか、威力、射程、範囲を把握して自らに向けられた場合の対処法なども問題はない。

里に向けて放たれた場合の想定ももちろんその中には入っているのは、イデアが二人を信用していないのではなく、長として当然の思考から来るものだ。

 

 

 

 

0ではないのならば、それは起こり得るが故に、全ての可能性を模索して対策を練っておくのは当然のことであるのだから。

 

 

 

フォルブレイズもバルベリトも、自分を害することは出来ないとイデアは油断ではなく客観的な事実として答えを導いている。

このナバタで、自らの力が完全に飽和しているこの地では例え全盛期の神将器が全て集おうと好きにはさせないだけの力が自分にはあった。

 

 

 

 

 

ため息と共に疲労と悩みを吐き出し、次いで新鮮な大量に胸の内側に取り込んだイデアは背後の自分のベッドを振り返る。

普段ならば自分が使うはずのそこを占領しているのはソフィーヤとファだ。二人の童女は互いを抱きしめあうように付き添いながら眠っている。

いや、どちらと言えば、ソフィーヤがファを抱きしめているようにも見える。まるで母が娘を抱きしめるように。

 

 

 

 

 

勉強の終了と同時にはソフィーヤがファと共にお泊りをしたいと言い出し、今に至る。

既にメディアンの許可はとってあり、現在のこの二人の保護者はイデアだ。

 

 

 

 

 

ベッドに広まるすみれ色の髪と共に、安堵しきった表情で眠る二人に対してイデアの視線は知らずの内に温かみを帯びた。

イデアは5年という年月の間にすっかりとファに感情移入してしまった自分が居る事に気が付いており、それを心地よく思っている。

父親と呼ばれ、それにこたえる内に気が付けばもう後戻りが出来ない程に彼女と共にいるのが楽しくてしょうがない。

 

 

 

 

 

今夜は寒い。二人が風邪などを引かないように念のためもう一枚毛布を掛けてやり、両手に神将器と闇の魔書を持ちながら部屋を後にする。

ファは、隣にソフィーヤが眠っているという安心感の為か、起きることはなかった。

 

 

 

 

 

焼き尽くされる手から煙が上り、激痛が走るがそれさえもイデアにはどうでもよいことだ。

黙らせるように竜のエーギルを送り込み、フォルブレイズから発せられる“熱”を“力”で押し戻すと痛みが消えた。

 

 

 

 

 

廊下に出てから、彼は数歩部屋から離れて本当にファが起き出してこない事を確認してから行動に入る。

 

 

 

 

 

 

とん、と軽く床を叩き、イデアは何度も用いた転移の術を発動させた。

高位の術だが、既に呼吸と同じようにこの程度は行えた。

 

 

 

 

 

 

行先は魔道士としての己の自室。刹那の光景の暗転の後に、直ぐに視界に映りこむのは静寂に満ちたもう一つの自室。

本来ならば入口である扉を開くのにもかなり精密に作りこまれた幾重もの防御陣を1つずつ解除しなくてはいけないのだが、イデアのもつ力は万能のカギとなってその過程を省く。

封印解除の術のちょっとした応用であり、姉の解放の為に学んでいたらいつの間にか出来るようになったことだ。

 

 

 

 

 

もちろん、他の者が転移の術で勝手にこの中に入ろうとすれば部屋中に張り巡らされた神竜の力によってはじき出されるか、または手痛い洗礼を受けることになる。

生活感の欠片も存在しない、静謐な世界を主であるイデアは我が物顔で歩き、一つの扉の前に立った。

 

 

 

 

 

その小さな物置はこの部屋の中からしか入ることはできず、窓なども無いために殿の外側からも見ることは出来ない箇所。

仮にこの壁を埋めてしまえば、そこは完全な個室となり、空気も入ることはできない密閉空間と化す。

ゆっくりと時間を掛けて扉に掛けられた術の“カギ”を撃ち込み、吟遊詩人が一曲歌う程度の時間を掛けて開門させる。

 

 

 

 

 

中に入り、部屋の中に“力”を送り込んで壁と床を光らせて闇を消し去った。

瞬く黄金が部屋を照らし出し、書物の小文字でさえ読める程の光に満ちた。

闇が払われた室内は閑散としており、一つの木製の簡素な本棚しかない。

 

 

 

 

 

 

 

人間一人がかろうじて生活できるかどうかという小部屋の奥にぽつんと置かれた本棚の前にイデアは歩み寄ると、その中にバルベリトとフォルブレイズを置き、更にもう一つ確かめる。

 

 

 

 

本の入っていない空洞のスペースにそれは置いてあった。人間の拳程度の大きさのちっぽけな布に包まれた塊が。

白い布に丁寧に包まれたソレは数百年前の遺物であり、今のイデアには無用の長物。かつて砕いたアルマーズの欠片は何も言わずに何百年もそこにある。

恐らくはアトスとネルガルがここに来る要因となったであろうそれを確認してから、イデアは玩具に興味を失った子供の様な眼でアルマーズに一瞥し、踵を返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

イデアが部屋を後にし、扉を閉めると、部屋は再び底なしの闇に覆われた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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