とある竜のお話 改正版 FE オリ主転生 独自解釈 独自設定あり   作:マスク@ハーメルン

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とある竜のお話 前日譚 二章 1 (実質16章)

 

 

 

 

 

ナバタの里の外れ、緑が広がる木々の中にある、開けた空間。

その大地は熱された砂漠の砂ではなく、しっとりと濡れそぼり、栄養を蓄えた土で覆われているオアシスの土壌だ。

幾つもの草木が生い茂るこの場は、太陽光が程よく木々によって軽減されるため、砂漠の中にあるとは思えない程に涼しい。

 

 

 

 

 

 

 

ネルガルは、しゃがみこむと、片手で何かを探る様に地面に手をやった。

掌に伝わる冷たい感触と、適度な柔らかさをもった土の豊かさを彼はしっかりと測る。彼は農家ではないが、長い人生の中でそういった方面の知識も多少は取り込んでいた。

その結果わかったのは、ここの土壌は素晴らしい栄養を含み、木々などを育てるのには最高の環境だろうということ。

 

 

 

 

 

 

 

遠くから聞こえてくるのは里の喧騒と、森に生息する小さな動物たちの鳴き声。

そこに混じる足音をネルガルは敏感に聞き分けて、振り返るとそこには紅い髪の……逞しい青年がいた。

珍しいものだと彼は内心で漏らした。アンナではなく、まさかこの人物が来るとは。

 

 

 

 

 

名前だけならば知っている。最近アトスとよく話をしている竜で、確かヤアンといった名前だったはずだ。

純血の火竜、高位の竜であの戦役で戦争に参加し、敗北した後にイデアに拾われたという男。

 

 

 

 

 

 

ヤアンは片手に何やら木製の……小さな槌の様なモノをもっている。

子供でも容易く扱えそうなソレの先端は研磨され、丸みを帯びながらも尖った形状をしている。

仮にこれをハンマーと称するならば打撃力を与えるための「皿」は左右に二つくっついているが、この「皿」はハンマー全体に対して不自然に大きい。

 

 

 

 

 

 

殴るため、というよりはそこに何かを乗せるためにこの「皿」はあるように見えた。

そして最も眼を引くのはハルバードにも見えるソレの中央、胴体の部分からは一本の紐が伸びており、その先には子供の握りこぶし程度の大きさの真っ赤なボールがくっついている。

このボールには一か所だけ穴が開いている。これだけでネルガルはこのボールの穴の存在する理由をある程度は把握した。

 

 

 

 

 

 

 

ボールも含めた茶色のそれの原材料は恐らく木、だろう。表面には木目などがある。

これはたぶん、自分が知らない玩具の類なのだろう。恐らくはバランス等を取って遊ぶ玩具……のはず。

 

 

 

 

 

 

 

「珍しいね。まさか君とここで会うとは。何か私に用事かな?」

 

 

 

 

 

 

 

ネルガルの声は何時も通り、温和な口調だった。

知的で、程よく低音の声音はとても聞き取りやすく、万人が耳を思わず傾けてしまうだろう。

それに対してヤアンは全くと言って変わらない。泰然自若を絵に描いた様な性質の竜は淡々と言葉を返した。

 

 

 

 

 

 

「否。ただの散歩だ。出会ったのも偶然だが……お前こそ何をしているのだ?」

 

 

 

 

 

 

「少しばかり趣味に使う用具を自分で作ろうと思ってたのさ」

 

 

 

 

 

 

 

趣味、という言葉にヤアンは反応し竜族の“眼”を用いてネルガルを“見た”

その結果彼の探知能力はネルガルが持っている袋の中に、植物の種らしきものを発見し、竜は頭を回転させる。

アトスから聞いたネルガルという男の情報、この場でしか出来ない事。この男の思考を考え、咀嚼し、そして答えを導く。

 

 

 

 

 

 

 

その結果吐き出された言葉は単純なものだった。

 

 

 

 

 

 

 

「絵具の原材料を育てるのか」

 

 

 

 

 

 

 

 

歯に衣を着せずに言葉を発する竜に対してもネルガルは変わらない。

温和な、何処か人懐っこい印象を与える苦笑を浮かべると、かぶりを振り、次に頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「既にイデア殿には許可は取っているよ。あとは何処で育てるか決めるだけだ」

 

 

 

 

 

 

それにしても、と言葉をつづける。

続けて口から出た言葉と声は、品のよい、エトルリア王国の貴族が発しているといわれても信じてしまうほどに優雅な響きをもっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「その手に持っている小さな“槌”は何だい? 見た所、何か遊びに使うものに見えるが」

 

 

 

 

 

「これか」

 

 

 

 

 

 

 

ヤアンは眼で“槌”を見ると、徐に返事の代わりとしてそれをもっている腕ごと大きく振りかぶり、括りつけられたボールを振り回す。

腕を逆さにしたり、手首を巧みに動かし、彼はボールを空中で躍らせ、左右の「皿」の上に乗せたり、器用にも穴の開いた部分に“槌”の先端、緩い傾斜で尖った部分を差し込んだりしていく。

さながらそれは曲芸師の行う大道芸だった。ヤアンは軽々とボールを弄んでいるが、それが並大抵の努力では成しえない事をネルガルは見抜いた。

 

 

 

 

 

 

 

この玩具は……外見の単純さに対して、遥かに奥が深い。更にいうなら遊び方も一つではないだろう。文字通り、自分で遊びを創ることも出来る。

単純故に、創意工夫によって無尽の楽しさを発掘できる遊具だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「長が以前に作ったものでな。比較的単純な造形故に製造も容易で、なおかつこれは飽きがこない」

 

 

 

 

 

 

 

淡々とボールを遠心力によって振り回しながらヤアンは語る。

糸によって“槌”と結ばれたボールは縦横無尽に飛び回るが、その動きは全てが規則正しく、計算され尽くしたものだ。

左右の「皿」や槌の中央部分、ちょうど十字状になっている形状の中央にボールを落とし込みそこに鎮座させるヤアンの技量は素晴らしいものがある。

 

 

 

 

 

 

 

余りにも高速で回転させた為、もはや糸が見えなくなってしまう。

それほどの速度でヤアンはこの遊具を使いこなす。しかも片手で、顔色一つ変えずに。

 

 

 

 

 

 

 

その光景に思わずネルガルは拍手を送っていた。磨き抜かれた技術は、それだけで称賛に値するのだ。

ヤアンが手の動きを止めると同時に、見計らったかのようにキィンという音を立ててボールが“槌”の先端部分に穴をはめ込み落下し、彼の曲芸の終わりを告げた。

流れるような仕草で彼は遊具を懐にしまい込むとネルガルを真正面から感情の浮かばない瞳で見据える。

 

 

 

 

 

ルビーを思わせる瞳が人間に向けられた。

火竜は口を開く。あれだけの運動、芸をこなした後だというのに息一つ上がらせずに、全くいつも通りの平坦な声で。

 

 

 

 

 

 

 

 

「絵か。どういうモノをお前は描くのだ?」

 

 

 

 

 

 

ネルガルが質問し自分は答えた。ならば次は自分の番だと彼は含ませながら問う。

この不愛想極まる火竜がそんなことに興味を持つとは思えないと考えていたネルガルは少しばかり驚きながらもしっかりと答えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「基本は趣味で、何か決まったものを書いているというわけじゃない。人だったり、景色だったり、デッサンや、ふと頭に沸いた“イメージ”を書いたりする」

 

 

 

 

 

 

 

例えば……そう、ネルガルは頭の中に唐突に沸いてきた“イメージ”を口にする。最近少しだけ打ち解けてきたあの混血の少女とその母親の竜の姿を。

何であの光景が今、この瞬間に出てきたかは判らなかったが彼は自分でも驚くほど自然に口に出していた。

 

 

 

 

 

 

「竜と人の親子、等をね」

 

 

 

 

 

「なるほど」

 

 

 

 

 

 

 

ヤアンの一言はいつも通りだった。

興味がないようにも聞き取れるし、心の内側では理解したと述べているようにも聞こえる。

火竜はそれっきり何も言わず無言でネルガルを見つめ始め、ネルガル自身も早くここに来た用事を済ませてしまいたいために黙々と土壌の確認などを行う。

 

 

 

 

 

 

まずは作物を育てる場所を決め、その後にもってきた柵でその場所を囲む。今回やることはそれだけだ。

まだまだ準備なども足りず、時間なども惜しい……この後はとても心待ちにしていた事がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

ファ───産まれたあの幼い神竜に対する教育が今日から始まるのだ。

そして自分とアトスはそれに出席……もっと言えば、基礎中の基礎の基礎、人間で言えば幼子が文字や数字の読み書きの初期段階程度ではあるが、それでも竜族の知識の一端を学んでもよいと判断された。

もちろん、イデアは自分たちに竜族の全てを教える気がないことを知っている。ファが学ぶ範囲内だけしか自分たちには与えられないだろう。

 

 

 

 

 

部外者である自分たちに竜族の技術を与えるなど、ありえない事だと長としての彼は判断するはずで、仮に自分がイデアの立場だったとしてもそうするはずだ。

だが、それでもよい。竜族の事をほんの僅かでもいいから知れるのならば、この際何を教えてもらうかなど知ったことではない。

 

 

 

 

 

そうだ。これは正に天からの祝福と評すべき出来事、偉大なる一歩の更に先。

このエレブで生きる人間の中で、今まで竜族と対話し、しかもその知識を一欠けらでも与えられた魔道士など、歴史上をくまなく探しても両手の指で数える程度もいないと断言する。

イデアを神とするなら、これは神からの贈り物だ。人では身に過ぎたかもしれない叡智の結晶が自分たちを待っている。

 

 

 

 

 

 

 

興奮する手を押さえつけながらもネルガルは冷静に寸法を測りながら将来使うことになるだろう畑の大きさを考えだし、柵を地面に打ち込んでいく。

 

 

 

 

その光景をヤアンは何も言わず、人形の様に見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ファの基礎的な最低限の教育は里の中心部である殿で行われることになっている。

まずは読み書きなどを教え、基本的な常識などを教え込んだ後に次は里の中でメディアンが教師を務める【学校】……イデアがこの里に来た初期の頃に作成した施設に移す予定となっていた。

イドゥンとイデア、この両者と同じくファは生まれながらにして僅かではあるが、言葉の意味や喋り方などを理解していたのは嬉しい誤算だった。

 

 

 

 

 

 

 

その様な状況の中、ネルガルは殿の中の廊下を足早に進んでいた。規則正しく並んだ殿の廊下、その窓からは昼に差し掛かりかけた太陽の熱光が入り込んでいく所を駆け足で進む。

一度自室に戻ってから様々な紙や筆などを用意してこれから勉強会が始まる部屋を目指しているのだが……正直な話、彼は道に迷っていた。

 

 

 

 

 

 

イデアの力を感じる場所などで大体の方角は判るのだが、通路が思ったよりも入り組んでいてわかりづらい。

この里に来て数か月になるが、彼は基本殿の中は自室から入口か、地下の玉座の間までしか歩いたことはない。

どうするべきかと首を傾げつつも彼は足を止めない。幾つもの階段を上り下りし、通路を往ったり来たりしつつも一向に目的地に着けない。

 

 

 

 

 

 

 

 

まずい。このままでは遅刻する。だが、焦ってはダメだ。焦ったら、見えるモノも見えなくなる。

ここは一度歩みを止めて、冷静に今の状況と情報を整理すべきだとネルガルは判断し足を止めて神経を集中させ……そして何かが頭の中で囁いた。

余りにも小さく、普通なら気のせいだと片付けてしまうちっぽけな囁き。

 

 

 

 

 

脳裏に何かが引っかかったのだ。深く脈動する闇の中から、得体のしれないモノが声を掛けてきたように。

何だろうか、これは? まず初めに直感で悟った願いは……“親近感” 次に底なしの欠落感とそれを埋めるように膨れ上がる充足の念。

 

 

 

 

 

深淵の底に、どす黒く、全てを燃やし尽くす太陽が見えた……ように思えた。

あのイデアが作り上げた“太陽の瞳”を禍々しく、反転させた塵殺の太陽が。

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………?」

 

 

 

 

 

 

ふらふらとさざめきたった心の赴くままに足を進めようとすると、すぐに頭の中にあった違和感ともいうソレは消えた。

さながら砂漠の蜃気楼と同じように。だが、これは気のせいだとは思えなかった為、もう一度ネルガルは意識を集中し、周囲に魔力を走らせて探索し……すぐに納得のいく答えが出た。

 

 

 

 

 

 

恐らく、近くに自分がイデアに渡した魔道書【バルベリド】がある。恐らくそれが自分を呼んでいるのだろう、と。

あの書物は非常に強力な魔道書であり、自分の魔力がふんだんに込められた書物だ。

アトスのもつ【フォルブレイズ】程ではないが自分とは繋がりがあり、それが手放した自分を求めているのだろうと彼は答えを出す。

 

 

 

 

 

きっと、そうに違いない。ネルガルは自分に言い聞かせると背後を向く。

そこにはいつの間にかアンナが立っていて、温和な微笑みをネルガルに与えた。

彼女の眼は真っ直ぐと対象を見つめ、離されない。

 

 

 

 

 

 

 

「もう間もなく始まりますわ。お迎えにあがりました」

 

 

 

 

 

 

エトルリア王国の貴族達でも一握りの者しか出来ない程に優雅に一礼し、火竜の女性はネルガルに手を伸ばす。

それに対して手を差し出すと彼女は悪戯っぽく笑った。情熱的にも思える程に麗しい笑みは世の男性を間違いなく虜にするだろう。

 

 

 

 

 

 

「もしかして、迷っていましたか?」

 

 

 

 

 

 

「恥ずかしながら……」

 

 

 

 

 

 

素直にそう答えるとアンナの笑みが更に深く、優しくなる。

口元に手を当てて上品に笑う姿からは一切の嫌味も感じ取れない。

もしかしたらこの女性はどこかの人間の国で貴族として生活していたことがあるのではないか、そんな思いがよぎってしまうほどに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでは行きましょう。手短に告げると彼女は迷いなく踵を返した。

アンナが先導するように背を向けるとネルガルはそれに追従する。

既に先ほど感じた黒い太陽の事など彼は思考の濁流の中に流し込み、頭の中から消し去っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アンナの道案内によってファの勉学が始まる一室にようやくたどり着く。

どうにも彼は階層を致命的に間違っていたらしく、ここに至るまでに何回も階段を上り下りする羽目になった。

そこでネルガルを待っていたのは木製の、それも子供用の小さな机と椅子に腰かけたファとソフィーヤの挨拶だった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……こんにちは」

 

 

 

 

 

しっかりと背筋を伸ばして椅子に座るソフィーヤの眼は何時もよりも大きく開かれ、そこには常に浮かべている眠そうな様相は一切ない。

すみれ色の髪の毛に巻き付けられたのは純白の鉢巻。少しだけ結び目が解けたソレの位置を彼女は時折手を伸ばして整える。

 

 

 

 

 

ソレは彼女のやる気を表しているのだろう。

理由はわからないが、彼女は今、とてもやる気を出していた。

例えこれから行われる講義の内容が数百年前に教わったものだとしても、彼女は全力で取り掛かる気なのが見て取れる。

 

 

 

 

 

 

 

そして、彼女の隣に用意されたソフィーヤのモノよりも一回り程度小さな椅子と机に座っているのは、人の姿を取ったファだ。

耳辺りまで延ばされた赤紫色の髪の毛は艶やかに輝き、翡翠色の瞳は忙しなく周囲を見ている。

部屋に入ってきたネルガルの姿に驚いた様に身を竦ませた彼女は、ソフィーヤの手をぎゅっと握りしめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「────!」

 

 

 

 

 

 

 

まだ舌が上手く回らないが故に、彼女はソフィーヤの影からネルガルの様子を窺うように顔を覗かせて、片手をあげて挨拶をする。

小さな小さな竜のあどけない姿にネルガルは微笑みを浮かべると同じように片手を上げて会釈した。

よく判らないが、彼女の姿を見ると胸の奥底で何かを感じる。

 

 

 

 

 

ネルガルが用意された机、ファとは反対側のソフィーヤの隣に座ると見計らったかのように扉が開き、そこからイデアとアトスが入ってきた。

ファはネルガルの時とは打って変わって、イデアに対して眼を輝かさせながら席を立ち、そのまま彼の元へと走り寄る。

突進するように産みの親の腰に抱き付いたファをイデアは困ったような顔で受け入れて、次いでこの部屋に集った者ら、一人一人に視線をやった。

 

 

 

 

 

 

 

「随分と……奇妙な光景だ」

 

 

 

 

 

 

 

それは心からの声だった。大賢者と、それに匹敵する術者がまるで子供の如く学習机に向かい、こちらを眺めてくる姿は……とてもユーモラスだ。

アトスが席に座り、イデアが彼らに向かい合うように立つ。竜の背後にあるのは教壇と、黒板。片手を伸ばして手に取るのは、鉱石を削って作った白いチョーク。

イデアは膝を折り、内心しどろもどろになりつつもファに目線を合わせ、話しかけた。

 

 

 

 

ゆっくり、手探りながらも頭の中でかつての“あいつ”と“アイツ”──ソフィーヤの父とナーガを思い起こしながらもイデアは言葉を組み立てていく。

 

 

 

 

 

 

 

「これから俺と“勉強”をしよう」

 

 

 

 

 

「べ……きょ、う?」

 

 

 

 

 

 

 

眼を輝かさせながら自分を見つめてくる童女に重なるのは遥か昔の姉の姿。

自分と彼女が初めてナーガに教わった時もアイツにはこのように見えていたのだろうか?

 

 

 

 

 

 

「そう、とても楽しい事さ。勉強をすれば、本を読むことも出来るようになる……皆と一緒に本を読むのは楽しいぞ。“本”が何なのかは、わかるか?」

 

 

 

 

 

 

イデアが優しく問いかけると、ファは一瞬だけ瞼を閉じて、頭の中に産まれもって植えつけられた情報を検索し……そして彼女は答えた。

大粒の宝石を想起させる瞳を煌々と好奇心で輝かさせ、彼女はまだ使い慣れない舌を必死に動かす。

 

 

 

 

 

 

「“ほん”……ふ、ぁ、しってる……よみ、たい」

 

 

 

 

 

 

「頑張れ。そう難しくはない。俺もすぐに覚えられたさ」

 

 

 

 

 

 

ファの頭を撫でてやると、艶やかな赤紫色の髪の毛が指の間を流れていく。

気持ちよさそうに眼を細めるその姿はやはりかつての姉にうり二つだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

幼い竜が席に戻ると、イデアはふぅと息を吐いた。長の仕事とこの授業二つを“同時”にこなすのは少しばかり骨が折れるかもしれない。

気合を入れなおすと、イデアはまず、最も簡単な竜族の言語と、エレブにおける人の言語について、出来るだけ判りやすく黒板に書き連ねていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「っ! こ、れ……!」

 

 

 

 

 

 

小さな竜が無邪気な喜色を全身から放ちながら、勉学用の白紙だった書を両手で広げて、イデアに向けて大きく差し出す。

びっしりと文字が書き詰められたソレを見せびらかしてくるファにイデアは微笑みを浮かべてしまうのを抑えきれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

そこにあるのは、エレブの言語と竜族の基礎中の基礎ともいえる言語の一つ。

二つの文法や法則性、用途などを細かく纏めた内容の文字列だった。とても綺麗とは言えない文字だが、それでも今日覚えたと考えればこれは目覚ましい進歩の証である。

至らなかった場所はソフィーヤが丁寧に、イデアが手の届かない場所などを補強する形で教え込んだ結果、彼女はこの数刻で基礎のほとんどを理解するに至ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

彼女は実に物覚えがよい。やはり生まれたての神竜というのは文字通りの可能性の塊なのだろう。

何でも覚えられるし、何でも出来る。才能等という言葉では到底表現できない

いや、違うとイデアは内心で思った。これはそんなつまらない言葉で片付けていい問題じゃないのは簡単に判る。

 

 

 

 

 

 

 

全ては目の前のファの努力と根気があったからこそだ。

途中何度か休憩を挟んだ際にも彼女は判らない所は舌ったらずながらも必死に聞いてきたり、ソフィーヤに話しかけたりするなどをして努力を怠ってはいなかった。

さすがに幼子に何時間も集中させて頭に負担をかけるわけにはいかないと何回かお開きにしようとしたのだが、それを拒絶したのは他らないファ自身なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

もっと、もっと知りたいと訴えてくる彼女の姿は、貪欲に知識を貪る獣にも見えた。

ならば、とそれにこたえる形で教え込んだ結果が、今目の前のこれだ。

幾つか細かく間違っている点こそあるが、それでも十分に及第点を付けられる出来……いや、今日が初日だと考えるとこれは末恐ろしい。

 

 

 

 

 

 

明らかに彼女は同じ頃の自分よりも優秀だ。

 

 

 

 

 

 

「よくやった、凄いぞ」

 

 

 

 

 

 

どういう風に褒めてやればいいのか判らなかったイデアの口から出たのはとてもありきたりな言葉。

無造作に伸ばした手でファの頭を撫でてやる。嬉しそうに鼻息を漏らす「娘」を見つつイデアの内心は苦いもので染まっていた。

どうやって接すればいいのか、まだ彼はファとの距離感を掴み損ねていた。

 

 

 

 

 

 

ますます“あいつ”が生きていれば助けになっただろうと思わざるを得ない。

内心イデアは肩を竦めた。こればかりは仕方ない。

何処かの言葉で確か“当たって砕けろ”というのがあったはず、とりあえず全力で取り組むしかない。

 

 

 

 

 

 

書を受け取り、イデアは膝を屈めてファと向かい合った。

 

 

 

 

 

 

 

「今日はこれぐらいにしよう。少し待っててくれ……部屋に戻ったら、色々美味しいモノを作ってやる」

 

 

 

 

 

 

「!」

 

 

 

 

 

 

美味しいものと聞いたファの耳がピーンっと嬉しそうに逆立つ。

産まれて暫くたった彼女は既に人と同じものを食べても問題ない程度には成長している。

具体的に言うならば、乳歯は既に揃っており、固形物を噛み砕くことも出来た。

 

 

 

 

それでもイデアはファの消化器官に負担をかけない様なモノを作るつもりだが。

 

 

 

 

 

 

他にもイデアは衛生関連にもかなり気を使っている。

石鹸を用いての手洗い、うがい、熱湯消毒、高濃度のアルコールの利用、部屋や里の清掃などそういった事は徹底している。

 

 

 

 

 

 

「美味しいもの……ですか。わたし、気になります……」

 

 

 

 

 

 

 

ファの隣にいつの間にか並んで立つソフィーヤが無表情ながらに、眼だけを輝かさせながらイデアを見つめる。

両手を当てられた彼女のお腹から低く空腹を訴える音が鳴っているのを神竜は耳ざとく聞き取ってから、苦笑いを浮かべた。

ソフィーヤの細い外見や、大人しい性格からは余り考えられないことだが……意外と彼女は食べることをイデアは知っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

ファがソフィーヤの手と自分の手を握りしめ、楽しそうに笑っているのをひとしきり眺めてから、イデアは目線だけを二人から外す。

先ほどから全く声も出さないでいる二人……アトスとネルガルを見て……竜は少しだけ後悔するはめになった。

 

 

 

 

彼らは無言で椅子に腰かけ、机に対面している。カツカツ、という筆だけが高速で紙の上を走りまわる音だけが妙によく響く。

 

 

 

 

 

その眼は真剣そのもの。鋭く研ぎ澄まされた眼光は磨きたての銀の剣にも例えられる。

飢えに飢えた肉食動物でさえこんな眼にはならない……それほどまでに彼らの眼には剣呑な光と、集中が宿り、何人たりとも近づけさせない空気を全身から発散していた。

イデアはこういった姿になった魔道士がどれだけ集中しているか身を以て知っている。もはや外界からの刺激に反応しない領域にあることを。

 

 

 

 

 

 

 

最初の方はまだこんな状態ではなかった。

エレブの基礎的な文字や単語を習っている間は、彼らはファやソフィーヤに眼を掛けて、イデアの補佐をするだけの余裕があった。

問題は、イデアの授業が一回の休憩を挟んで竜族の文字の講義に差し掛かった時から始まる。

 

 

 

 

 

 

この二人の魔道士は当初浮かべていた余裕のある笑みを一切消し去り、夢中でイデアを食い入るように見つめ始めたのだ。

物理的な圧力さえ想像できるほどに鋭利な瞳、獲物を狙い、その味を堪能する肉食動物の様な気配。

しかしイデアはそんな視線に対し、僅かに動じることもなく、ファに対して淡々と授業を、飽きさせないように気を付けつつジョークを交えながら教え込みつづけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

二人はあくまでもファに対するおまけだというイデアの方針は一切揺らがない。

アトスとネルガルもそこは重々承知しているため、彼らの質問の回数はかなり少なく、基本はファの教育を優先的にしている。

更に補足するならば、両者のプライドの問題というのもあるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

産まれて僅かしか経ってないファが竜族の言語をあっという間にモノにしていくのを横目に

人の世界では大賢者等と言われたアトスや、間違いなく人間では最高位の術者であるネルガルが幼子でも判る問題に四苦八苦するなどあってはならない、というプライドが。

 

 

 

 

 

 

 

黙々とイデアが授業で述べた内容を反復する二人の姿にイデアはため息を吐いた。

ファは二人の異質な空気に飲まれ、イデアの背中に隠れ、ソフィーヤは空腹を訴えるお腹を両手で摩る。

窓の外を見れば、もう間もなく太陽が沈みきる時間だ。ここからは極寒の時間がナバタを覆う。

 

 

 

 

 

ずれた鉢巻を弄りながらソフィーヤはどこか満足気な顔をしてファをじっと眺めていた。

彼女にしてみれば、ファは妹の様なもので、そしてファに色々と教えることが出来た事実は大いに彼女の欲求を満たすものだったのだろう。

 

 

 

 

 

 

イデアはソフィーヤとファに視線を戻してからもう一度頭を整理する。

 

 

 

 

ソフィーヤを家に帰さなくてはいけないし、ファの相手をしつつ、自分の個人的な魔道の研究や“幻影”がまとめた長の仕事に眼を通さなくてはいけない。

イデアは睡眠を不要とする分だけ、人間の倍の時間を動けるが、それでも時間を無駄にする気はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「今回はこれでお開きにする。お前たちも続きは自分の部屋でやるといい」

 

 

 

 

 

 

 

イデアがほんの僅かばかりの“力”を声に乗せて放つと、さすがの二人も筆を置き、ふぅと口の端から疲労と充足に満ちた息を漏らす。

面を上げたアトスとネルガルの眼は……輝いていた。比喩でも何でもない、本当に彼らの眼は少年があこがれの英雄と出会った時の様に喜び光っているのだ。

額を流れる汗を拭い、アトスは今まで熱心に書き込んでいたノートをそっと閉じて、イデアの言葉に従う。

 

 

 

 

 

 

ネルガルもそれに続き、脱力して肩を下ろすとアトスと同じようにノートを閉じる。

少しだけ彼の姿は小さくなったように見えた。眼の下には深いクマが刻まれ、疲れが伺えるが、全身から発せられる覇気は微塵も衰えてはいない。

まるで何かに夢中になった子供が寝る間も惜しんで没頭するような、無邪気な好奇心の塊がそこにはいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

ファが伸ばしてくる指に自分の指を絡めて手を繋ぐと、イデアは帰宅の準備を始めたネルガルとアトスに対して話しかけた。

 

 

 

 

 

 

「感想は何かあるか?」

 

 

 

 

 

 

余り授業など行った事がない故に、生徒として完全な第三者の意見を聞いてみたいが為の言葉。

そういえば500年くらい前、まだメディアンと出会って間もなかった頃に子供たちの相手をしたこともあったなぁと思い起こしながら。

 

 

 

 

 

 

「特に問題はなかったと思うぞ。むしろかなり丁寧な講義だった……うむ、足りないのはこちらの覚悟だったようだ。全く未知の言語というのは、こうも……難解とは」

 

 

 

 

 

 

楽しそうに老人は苦笑する。難題を前にして興奮した彼の顔はうっすらと赤みさえかかっていた。

大賢者という称号さえ取り払った今の彼はただの探究者、未知の知識の一端に触れて狂喜する学問の申し子。

 

 

 

 

 

 

そしてもう一人、彼に匹敵する男も続いて言葉を返した。

覇気に満ち、若々しさを多分に孕んだ声で。

 

 

 

 

 

 

「これはかなりの復習が必要になりそうだ」

 

 

 

 

 

 

 

冷静な口調を装ってこそいるが、その口元は引きつり、膨れ上がる笑みを抑えきれてはいない。

彼はある意味ではアトス以上に知識に貪欲な面があるのだ。だからこそ危ういとアトスは彼を評した。

 

 

 

 

 

予想通りすぎる二人の姿にイデアはあらかじめ用意しておいた言葉を言う。軽く、囀る様に高音の声が響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「次回以降も参加を希望するか?」

 

 

 

 

 

 

その言葉に二人の姿は一瞬だけ固まった。

まさかこれでお終いになるのでは? そんな不安が彼らの中をよぎったのがはっきりと見て取れた。

エサを食べる直前に奪われた肉食動物。悲しみと切なさと怒りとやるせなさを合わせこんだ顔を刹那二人は浮かべる。

 

 

 

 

 

そして彼らは即答した。

 

 

 

 

是非もないと興奮した様子で答える両者にイデアは頷いた。うん、これはいい傾向だ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

殿におけるファの部屋はイデアの部屋の隣にある。これは万が一何かあっても直ぐに駆けつけることが出来るようにするための処置だった。

ファの動向は常にイデアの“眼”によって観察され、保護されている。

小さな神竜をイデアは出来るだけ一人にしたくはなかったが、長の仕事などでどうしようもない時などはファは自室でおとなしく待機している事が多い。

 

 

 

 

 

昼間の時間はソフィーヤなどがよく訪れて遊び相手になっているみたいだが、夜になるとイデアを除けば誰も彼女の部屋を訪れたりはしない。

 

 

 

 

 

イデアは夜の時間、ファが眠るまでは出来るだけ彼女の傍に付き添うようにしている。

暗闇の中に一人だけというのは、子供にとっては恐ろしい事だと思ったから。

 

 

 

 

 

 

部屋の隅に置かれた純白のシーツを敷き詰めたベッドの非常に上で、イデアはファを寝かしつけていた。

ベッドのすぐ隣に置かれた質素な木製の椅子に腰かけ、特に何かをすることもなくファを眺め、話しかけられれば答えを返す。

だが、中々眠ろうとしないファにイデアは手を焼かされている。

 

 

 

 

 

純白のバスローブに身を包み、ちょこんと毛布をかけてベッドの上に仰向けで転がっているファは、お人形のようだった。

 

 

 

 

 

この小さな神竜のお姫様は少しでも長く起きているために、瞼をくわっと見開き、イデアの裾を掴んだ手の力を緩めようとしない。

空腹は満たされ、眠気に襲われているはずだというのに、必死に彼女は抗っている。

 

 

 

 

 

 

産まれた初期のころ、まだ“恐怖”や“孤独”を知らなかった時期は一人でも眠れたファだが成長するにつれて変わった。

イデアに世話をされ「家族」と認識してしまった彼が自分の傍を離れるのをこの竜の子は非常に嫌がる。

それを見ると、イデアはどうしようもなく昔を思い出してしまい、冷静に切り捨てる事が出来ないでいた。

 

 

 

 

やはり、というべきか。自分は子供を相手にすると強く出れないらしい。しかもそれが女の子となると尚更。

 

 

 

 

 

「そろそろ眠くならないか?」

 

 

 

 

 

ファは首を横に振った。幼子の指に込められた力が更に強くなり、彼女の指の先端が赤く染まる。

絶対に離さないという意思の表れ。一対の翡翠の眼がじぃっと生みの親を見つめ、行かないでと訴えかけ続けていた。

これは困ったとイデアは思ったが、同時に悪い気もしないのが事実。ため息は零れず、代わりに片腕をファの頭の上に置いてやる。

 

 

 

 

少しだけ“反則”をイデアは行った。掌から放射されるのは黄金色の粒子。密度を薄めて使用されたのは【ライヴ】と【スリープ】の複合魔法。

この二つの術を混ぜて使うと、対象者は心地よい眠りに落ちるのと同時に体の中から修復される効果も得て、体力を大幅に回復させることも出来る。

 

 

 

 

 

【ライヴ】の心地よさと【スリープ】の強制睡眠効果を混ぜたこれをイデアは内心“麻酔”のようだと考えてもいた。

事実調整を変えれば対象者は体をバラバラにされても痛みを感じることなくあの世いき……ということも出来るだろう。

 

 

 

 

 

彼女の瞼が徐々に落ちていくが、それでもファは安心しきれないといった様子で眠るのを拒んでいた。

自分が眠った後、イデアが部屋から出ていくという事を知っている彼女は意地でも眠ろうとしない。

さすがは神竜というべきか、彼女はイデアの行使する術に抗うほどの高い魔法的な防御能力を誇っている。

 

 

 

 

 

 

「大丈夫、そんなに力を入れなくても、出ていったりはしない」

 

 

 

 

 

 

椅子から立ち上がったイデアはファとの手を離さずにもう片方の手を掲げ、この場に幾つかのモノを取り寄せる。

淡い黄金色の光が迸り、掌の中に幾つかの書類の束を持ってきた竜はソレを娘の前に翳して見せた。

それらはまだ片付けていない簡単な長としての仕事。幻影が処理しきれなかった量だが、その量は余り多くない。

 

 

 

 

 

 

とりあえずイデアはそれを机の上に置いた。これは後回しにして、少しだけ遊び心が沸いてきた為、それに彼は従う。

小さな、小石程度の光の玉を創りだしてそれをファの前に浮かべる。ファはそれが何なのか判らず首を傾げたが、次いで眼を見開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

光が、巨大な影を壁に映し出している。

大きな巨人の影が壁に貼り付けられ、動いていた。

イデアが両手の指を結びあわせて光に翳すと、それはさながら犬の頭部のような形状となり指の動きに合わせて“口”をパクパクと動かす。

 

 

 

 

 

これは勉強と遊びを兼ねたイデアのちょっとした気まぐれ。

 

 

 

 

 

「これが“犬”だ。そして次に……」

 

 

 

 

 

 

 

言葉を語りつつ、指を更に違う形へと組み替える。

次は両手の指をピンと伸ばしつつ、親指を重ねるように揃え、左右に4本ずつ指を逆向きに突き出す。

光が壁に描いたのは翼を大きく広げた鳥の姿。翼をはためかせ、生きているように挙動をする黒い鳥。

 

 

 

 

 

 

 

「……!!」

 

 

 

 

 

 

 

ファがベッドから身を乗り出して見入る。

眠気が吹き飛ぶほどの衝撃を彼女は味わったらしく、瞳の奥では好奇心が煌々と燃えていた。

ぎゅっとシーツを握りしめ、次は、次は、と態度で急かすのをイデアの手がやんわりと抑え、指を小さく左右に振って落ち着かせた。

 

 

 

 

 

 

まだまだ種類はいっぱいある。寝るまで付き合うぞ。

父親の言葉に何度も何度も嬉しそうにファが頷き、二人だけの見世物が夜の帳の中、つつましく始まった。

 

 

 

 

 

 

神竜は求められるままに芸を披露していく。一つ一つの動物に説明を挟みファが興味を引くように仕向けながら彼女が眠るまで根気強く。

ウサギ、カニ、フクロウ、リス、カタツムリ、ウマ、人間の男、女、ただ形を作るのではなく流動的に動かして、まるで舞台役者が躍る様にそれを操作する。

 

 

 

 

 

 

 

影絵の舞台を娘が寝るまでイデアは上演し続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全ての仕事を片付けた頃には、既に月は天の真上を通過した後だった。

机の上を照らしていたキャンドルランプの灯を消すと、部屋の中は窓から差し込む月の光だけが照らす薄暗い闇に支配されてしまう。

既にファはベッドの中で寝息を立てており、仮にイデアが出て行っても……おそらくは気が付くことはないだろう。

 

 

 

 

 

 

いや、判らないか、と頭を振る。

イドゥンがまだ小さかった頃、彼女はイデアがベッドから抜け出ただけで、どれだけ深い眠りについていようと目覚めていた。

子供の直観を侮ってはいけない。特に幼い少女のカンはよく当たる。

 

 

 

 

 

 

 

ベッドの隣の椅子に腰かけ、イデアはファの寝顔を見る。

竜の瞳孔は暗闇など全く問題ではない。

 

 

 

 

 

 

 

小さく胸を上下させて穏やかに眠る小さな神竜。自分とイドゥンに次ぐこの世界における同族。

新しく自分の心の中に入ってきた存在。自分の娘、後継者、家族───。

 

 

 

 

 

 

自分達を捨てた者。奪われた半身。

 

 

 

命を全うして自分の元を去った者。去った者が残した者。

 

 

 

そして目の前に現れた者達と、産まれてきた者。

 

 

 

 

色々なことが今までの生涯であった。そしてこれからも経験するだろう。

ソフィーヤと違って自分には未来は見えないが、それでもただ一つ、イデアは純粋に思い、誓う。

 

 

 

 

 

 

 

この子にはせめて、理不尽な、自分が味わったような痛苦を与えないと。

ふと、竜の脳裏にナーガがよぎったが、彼はそれを何時もの様にうっとおしいとは思えない。

 

 

 

 

 

 

 

もしもナーガと出会えたなら少しだけ水入らずで話し合ってもいいと竜は夢想し、思わず苦笑を零すのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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