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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第二章 『激動の一週間』

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第二章28 『覚悟と、告白』



「――ようやく、気がついたのよ」


 スバルが目を覚ましたとき、日差しは大きく西側へ傾いていた。


 崖の中腹――スバルが一度目の落下で辿り着いたその場所は、森の途切れた位置にぽっかりと口を開けていた。

 獣との乱戦の最中には気付く余裕もなかったが、こうして空が見える場所に身を置いていると、理由のわからない安堵感がスバルを包んだ。

 木々に取り囲まれていない、閉塞感から抜け出せたような錯覚がそう思わせるのだろう。依然、なんら変わりのないはずの袋小路の状態すら、なにかが変わってくれたかもしれないと独りよがりな希望が浮かび上がるほど。


「なんとか言ったらどうなのかしら」


「……なんとか」


「つまらない上に古臭い、しけた顔してどうしようもない奴なのよ」


 辛辣に吐き捨てて、ベアトリスはその長く豪奢な縦ロールを撫でつける。

 切り立った崖の岩肌の上、いつも通りのドレスの装いの違和感はすさまじく、まるで風景画に後で彼女の部分だけを張りつけたようなちぐはぐさがそこにはあった。


「……その格好で、アウトドアとか考えらんねぇな」


「ベティーも土臭い山の中なんて歩きたくなかったのよ。お前がこんなところに逃げ込まなければ、足を運ぶ必要なんてなかったかしら」


 裾を払い、忌々しげにそう告げるベアトリス。

 彼女の言にスバルは怪訝に眉を寄せ、そして遅まきに気付く。


 あれだけ負っていた深手の数々が、血痕や服のかぎ裂きなど、その痕跡を残してほとんど塞がっていることに。

 落ちかけていた左手首も、骨まで見えた右腕の裂傷も、動かなくなったと錯覚したほどの右足も、全てが元通りになっている。


「数が多すぎて傷跡は消せなかったのよ。そのぐらいは自分の不手際の結果だと思って受け止めるかしら」


 よくよく見てみれば、牙を受けた傷の名残が各所に確かめられる。だが、ほとんど薄れたそれは明るい場所でなければわからないし、なにより傷跡を気にするほど見た目に気など遣っていない。

 純粋に、こうして傷を癒してもらったことがなによりの救いだ。ただ、


「どうして……」


「なんなのかしら」


「どうして、助けてくれたんだ? 俺は……」


 ――契約を結んでくれたベアトリスにすら、なにも打ち明けられないのに。


 言葉を詰まらせるスバルの態度に、ベアトリスは見慣れた呆れの顔つきで鼻を鳴らす。そのまま彼女は肩をすくめ、


「お前の身の安全を守るのが、ベティーの交わした契約なのよ。その相手が無様に血だるまで死んだとなったら、ベティーの威信に関わるかしら」


「今日の朝まで……って内容だったと思ったが」


「揚げ足とる余裕があるなら、同じところにまた傷を作ってやってもいいのよ? おあつらえ向きに、狙いを定める傷跡って的があるかしら」


「ごめんなさいありがとうございます許してください」


 平身低頭して岩肌に頭をこすりつけ、静かなベアトリスの激昂に対処する。

 なんにせよ、からかいこそしたものの彼女は――、


「まだ、俺との契約を守ってくれるのか……」


「契約は契約。どちらかが倒れるまでそれは有効なのよ。……そう考えると、まともに期限を決めなかったのは失敗だったかしら」


 先ほどの揚げ足とりを本格的になかったことにするつもりなのか、ベアトリスはスバルが口にした期間のことを忘れたかのように振舞う。

 口の悪く、馬が合わない少女。――そんな印象が強かったベアトリスの見せる慈悲の姿勢に、スバルはふいに胸を打たれたようにそこに触れた。


 込み上げる感情に言葉を見失ったスバル。

 ベアトリスはそうして黙り込むスバルを眺めながら、彼の表情の変化には触れずにこちらに指を突きつけ、


「そういえば、聞かなきゃいけないことがあったのよ」


「……なん、だ?」


 思わず身構えてしまうのは、その質問の内容によっては、黒い靄との接見を余儀なくされるという警戒あってのことだ。

 しかし、彼女の口から出たのはスバルの杞憂と無関係の内容で、


「ベティーが治してやった傷だけど……それを付けた相手はやっつけたのかしら? それとも、逃げられてしまったかしら?」


「……? 傷って、あの黒い狼みたいなののことか? それなら……」


 崖際までゆっくりと近づき、ベアトリスに示すように眼下を指差す。

 指の先、そこには変わらぬ位置に横たわる猛獣の死骸が転がっている。隣に並んだベアトリスはそれを確認して頷くと、


「相手はあの一匹だけかしら?」


「二匹以上いたら、普通に倍の速さで噛み殺されてたね」


 一匹をああして葬れたのも完全に偶然の結果だ。

 群れをなして襲われていたら、漫画的表現で砂埃が立ち、晴れたあとには綺麗なスバルのしゃれこうべが転がっていたことだろう。


 スバルの返答にベアトリスは己の顎に触れ、しばし瞑目。そして、すぐに納得したように小さく首を振り、


「周囲に気配も感じないし、たぶん、はぐれた奴なのよ。たまたま結界を抜けたのと出くわしたとしたら、お前の運の悪さも相当なものかしら」


「俺も自分が実は不運の塊なんじゃないかと疑ってるとこでな」


 人生で起こる、全ての非運がいっぺんにのしかかっている気分だ。

 これを乗り切ったらなにも不幸が起きないと確約されたとしても、できるなら小出しにする方向に切り替えて引き上げてもらいたいほど。


 異世界にきて以来、鮮明に思い出されるのは苦痛を伴う記憶ばかりだ。

 それと同じくらい、嬉しいこともあったはずなのに。


 記憶の奥で女々しくなにかが疼くのを感じて、スバルは目を伏せて表情を誤魔化す。が、ベアトリスはスバルのそんな感傷には取り合わず、


「そうでなければ……まあ、これは考えるだけ無駄かしら」


「なんだよ。そうやって自分ひとりで納得されると気になんなぁ。お前の気付いたその事実に、俺も見たい聞きたい触りたい」


「お前じゃどうにもならないことがひとつ上乗せされるだけなのよ。そんなことより、今後の身の振り方にでも頭を悩ませるかしら」


 歩み寄るスバルを突き放し、ベアトリスはまたしても逃げ道を探っていたスバルの退路をはっきりと塞いでみせる。

 押し黙るスバルにダメ押しするように、ベアトリスは腕を組みながら、


「言っておくけど、ベティーがやってやれるのはもうここまでなのよ。屋敷に戻って、あの姉妹の姉に弁明する機会なんて作ってやれないかしら。そのチャンスがあったとしたら、投げ捨てたのはお前なのよ」


「俺は……!」


 言い出せるものなら、言っていたと叫びたかった。

 心臓を握り潰されるような、あの制約がなければスバルは全てをぶちまけて許しを乞うていただろう。

 何ひとつ、ラムの心を癒す手掛かりにはならないのだと。スバルもまた、あのどうしようもない状況に流されるだけの被害者なのだと。


 それすらも許されなかったから、こうしてこんなところまで逃げ出して、野生動物に襲われた挙句に命からがら這いつくばっていたのだ。


「バカか、俺は。……いや、バカだ俺は」


 また、そんな状況を言い訳にして、見て見ぬふりをしようとした。

 建前を、言い訳を、抗弁を、保身を繰り返して、スバルは崖際まできたのだ。それは現実的な意味でも、精神的な意味でも逃げ場のない場所へ追い込まれていることの証左でもある。


 逃げて逃げて逃げて逃げ続けて、足はもうどちらを向いているのか。


「戻れない俺を、どうしてお前は……?」


「気まぐれなのよ。せめて目の届かないところで死んでくれないと、ベティーの夢見が悪くて困るかしら。――この期に及んで尻込みしているようじゃ、それも望み薄な気もするのよ」


 優しさを消し去り、ただ厳しさだけを込めた言葉に切りつけられる。

 つまらないものでも見るようなベアトリスの視線は渇き切っていて、知らずスバルは喘ぐように喉を鳴らしていた。


「俺が、逃げることを選べば……」


「屋敷の連中に見つからないよう、手助けぐらいはしてやるのよ。そのあとでどこへ行方をくらますかは、お前の勝手にするといいかしら」


 つっけんどんな言い方だが、それはまぎれもない本音なのだろう。

 ベアトリスは口にした内容を違えることはない。それはこうして山中までスバルを探しにきて、挙句に女々しく蹲る彼を見捨てないことから明らかだ。


 きっと、彼女はスバルが逃げることを選べば、それを肯定してくれるだろう。

 思いやりからではなく、契約内容との兼ね合いを鑑みた上での無関心さで。


 だがもし仮に――、


「俺が、ラムと話したいって言ったら、どうする?」


「……無駄なのよ。姉妹の姉は、もうお前の言葉に耳を傾けるだけの余裕がないのよ。なにを言っても聞かないし、信じないかしら」


 スバルの別の選択の提示に、ベアトリスは珍しく目を伏せてそう応じる。

 彼女の脳裏に浮かぶのは、スバルが屋敷に置き去りにしてきてしまった、怨嗟の声を上げるラムの姿だろうか。

 スバルが逃げたあとで、彼女がどんな様子だったのか。ベアトリスの今の態度に接すれば、尋ねるのが憚られる状況だったのだとようと知れる。


 口をつぐむベアトリスを見て、スバルは己の愚かさを空を仰いで噛みしめる。


 あの瞬間、あの場所が分水嶺だったのだ。

 あの場所でスバルは逃げ出すべきではなかった。痛みに耐えしのぶ覚悟がなかったとしても、スバルはラムと向き合わなければならなかった。

 機会を逸し、心を結ぶチャンスは失われた。そして一度、手の中をすり抜けてしまったそれが戻ってくることなど、二度とあり得ない。

 二人の間に開いてしまった溝は、それほど深く大きいものなのだ。


「姉妹の姉は、妹のために耐えてきた。そして姉妹の妹は、そんな姉のために生きている。どちらが欠けても、あの姉妹はもう足りないのよ」


 静寂に割り込むように、物憂げな少女の声が流れる。

 視線を下ろすスバルの前で、ベアトリスは己の豪奢な髪をいじり、


「どちらが欠けても機能は失われる。ああしておかしくなってしまった以上、あの姉の方も長くはないかしら」


「そりゃ、どういう意味だ? お前、なにを知ってる……?」


 とんでもない内容を呟かれている気がする。

 掴みかからんばかりの勢いでベアトリスに詰め寄り、スバルは今の彼女の発言の真意を問い質そうとする。が、


「図が高くて態度がでかくて手癖と目つきが悪いのよ、人間」


 手を取られ、踊るようにベアトリスの体が旋回。彼女の回転する動きに巻き込まれるように足をもつれさせ、気付けば背中から地面に着地。衝撃に肺の中の空気が強制的に吐き出され、呻くスバルは目を見開く。


「もう元には戻らない。そう思うと、それなりに思うところがあるかしら。もっとも、ベティーにそれを口にする資格はないかもしれないのよ」


「ひとりで、わかった気になりやがって……大物ぶるのも大概にしろよ。内容ぼやかして喋って重要人物気取りか、クソが」


 情報を小出しにすることで、それに一喜一憂する相手の様子に興じているのか。その趣味の悪さに悪態をつくスバル。だが、ベアトリスは首を振り、


「お前こそ、たった四日――それも、まともに顔も合わせてないような相手のなにを知ろうっていうのかしら。知ったところでなにができるのかしら? 独りよがりを押しつけるな。お前はもう、あの屋敷には関われないのよ」


「俺がなにも……」


 知らないだと、と口にしかけて、スバルの口が反論を失う。

 ナツキ・スバルという人間は、屋敷で目覚めて以来、部屋に閉じこもりっ放しで、レムが死亡した今朝までまともに会話もしない不審人物だ。

 少なくとも、ベアトリスの主観でのスバルはそういう人間でしかない。


 しかし、仮に彼女にスバルが体験してきた十日間のことを話したところで、いったいなにになるというのだろうか。

 この十日間を振り返り、スバルが彼女たちのなにを知ったと言えるのか。

 今、こうしてスバルを厳しい視線で見下ろすベアトリスに、抗弁できるだけのなにかをあの二人からスバルは得ていたのかと。


「けっきょく俺は、なんにも知らないまま、なんにもわからないところで、てめぇ勝手にみっともなく騒いでただけだってのかよ……」


 ――お前はなにも知らない。


 ベアトリスの言に間違いはない。

 スバルはなにも知らない。知っていない。チャンスは全て棒に振り、身ひとつでここまで流れ着いてしまった。


 大の字に地面に寝たまま、スバルは掌で顔を覆って闇を見る。

 真っ暗な視界の中、思い出されるのは屋敷で過ごした幾許かの心安らぐ日々。その日々が粉々に砕け散り、そしてスバルの心もまた砕け散った。


「結界に触れないよう、境界をなぞりながら森を抜けるのよ。山向こうの街道まで出れば、人里まで歩いていくのも難しいことじゃないかしら」


 言外に、そこまでの面倒しか見るつもりはないとベアトリスが告げている。

 彼女の契約は本当の意味で、『彼女の手の及ぶ範囲でのスバルの身柄の安全』でしかない。そこに自分の信念と関わる要因がないのならば、彼女にとってスバルが路傍の石ころである事実は変わらないのだ。


 ベアトリスが安全に崖を降りられる地点を探すようにあたりを歩き始め、ぼんやりとその背中に続こうと立ち上がる。

 屋敷を離れ、全てを忘れ、どこか遠いところへ逃げる。生きていけるかはわからないが、あれだけ苦労して拾った命だ。大事に、大事にしよう。


「――あの泣き声も全部、聞かなかったことにしてか」


 口をついて出た言葉に、スバルは己の胸を鷲掴みにして歯の根を噛みしめる。

 憎悪に満ちた声を聞いた。怨嗟の怒号が後を追ってきた。殺してやると、呪詛にまみれた絶叫が叩きつけられた。


 でもその前に、あの子は泣いていたんじゃなかったのか。


 砕け散ったはずのなにかが、スバルの心の中で叫んでいる。


「おい、バカなこと考えてんぞ、俺……」


 喉の奥が震える。胃袋が締め上げられる感触。肌が粟立つような身震いが全身に伝染し、立ち尽くすスバルの息が鋭く荒くなる。


 馬鹿なことを考えていると、自分でそう思っている。

 馬鹿げた話だ。まるきり理屈に合っていない。辻褄が合わないし、なによりメリットとデメリットの格差を考えればわかり切った話だ。


「バカでも考えなくてもわからぁ。そうだろ、そうに決まってる」


 ――本当に、それでいいのかよ。


「いいに決まってんだろうが。万歳三唱、命あってのものだね。世は全てこともなし、だ」


 迷いを振り切り、前に踏み出そうとする。

 が、脳の命令に足は従わない。その場に立ち止まり、問答を強要する。

 誰かの問いかけ。内なる、自分の問いかけ。


 ――本当に、それでいいのかよ。


「だから、いいに、決まって……」


 ――なにが、それで、いいってことになるんだよ。


 内なる自分の問いかけに、スバルは言葉を見つけられない。その間にも、声は積み重なるように問いを投げ、答えを出すことを求めてくる。


 ――あの場所に、関われなくなってもいいのかよ?


 ――あの人たちと、触れ合えなくなってもいいのかよ?


 ――あの場所に残してきた人たちを、放っておいたままでいいのかよ?


 ――あそこで泣いていた女の子を、振り払ったままでいいのかよ?


 ――あの場所にあったはずの未来を、お前は諦められるのかよ?


「――クソ喰らえだ」


 リスクに対して、見返りが得られる可能性があまりに低い。

 ハイリスクハイリターンなど、スバルの人生においてもっともあり得ない選択肢に決まっている。

 そもそも、なにかを賭ける状況になった時点で、スバルの生き方からすれば敗北だと断言してもいい。


 なににも深く関わらず、なにも選ばず、ただ流されるままに。

 そう生きてきたのだから、そう生きていければよかったのだから、こちらの世界にきてもそうしていけばいいではないか。


「せっかく……そう、あんだけ苦労して、せっかく拾った命じゃねぇか」


 得てきた絆も見て見ぬふりして、確かにあったはずの温もりを裏切って、逃げ込んだ先で訪れた天の慈悲すら払いのけて、その先で辿り着く結論がそれでは、あまりにも今回の自分が道化に過ぎるではないか。


「いや、笑い話にもならねぇ分、ピエロの方がよっぽどマシだ」


 滑稽に立ち振舞って、誰かどころか自分すら笑わせられない道化。そんなものにどんな価値があるというのか。

 スバルにはわからないし、わかりたくもない。


「そうだ。せっかく拾った命だ。……だから」


 息を継ぎ、顔を上げた。


「――使い方は、俺が決める」


 相反していた心が合致し、スバルの意思は統一された。

 ふと、吹き抜ける涼風が前髪を揺らし、スバルはそのくすぐったさに目を細める。彼方の空、そちらには夕焼けが世界を橙色に染めながら沈んでいく。

 あれほど目にしたかった五日目の太陽が、終わりへ向かって消えていく。


 それを見送りながら、ようやくスバルは思い出したのだ。

 自分がなんのために、あの太陽をあれほど心待ちにしていたのかを。


「――下がるかしら」


 ふいに低い声で呟き、ベアトリスがスバルの方へ回り込む。

 彼女は掲げた手でスバルの動きを制し、その愛らしい顔立ちに警戒の色を濃く刻んで周囲に視線を走らせた。


「べあ……」


「黙るのよ」


 問いかけは即座に切り捨てられ、スバルもまた彼女の警戒の原因を探るように視線をさまよわせる。

 ベアトリスがなにを感じて、なにに警戒しているのかはわからない。

 故に、スバルが先にそれを見つけたのは、単なる偶然の賜物だった。


「――ラム」


 呟きが示す桃髪の少女が、スバルを見つけて嫣然と微笑んでいる。


 彼女の姿は高空、高々と伸びる大木のその頂上にあった。太い枝を足場とし、幹に手を添えて体を支えるラム。

 彼女の視線とスバルの視線が絡み合い、思わず息を呑んだ瞬間、それは大地を削ってスバルたちの周囲に土煙を巻き上げた。


「ごうぉ!」


 吹き荒ぶ土砂を浴びながら、反射的に顔を覆ってしまうスバル。数秒しておずおずと腕を下ろせば、眼前には半円に抉られた岩肌が残されていた。

 その現象の破壊力に、スバルの背筋をゾッと寒気が走る。それを受けた場合の自分を想像して、の怖気ではない。

 ――それを受けたときの自分を思い出して、身震いしたのだ。


「あのときの……」


 前回、山中をレムに追われながら逃げ惑っていたスバル。その右足を吹き飛ばし、最後には首を抉った一撃があった。

 不可視の斬撃、それを放った相手の正体。そこに思考を走らせたことはついぞなかったが、


「二人がかりだったか……」


 すとん、と胸の内に溜まっていたしこりが落ちる感覚があった。

 馬鹿げた話だとは思うが、このときにスバルが感じていたのは、やはり彼女にも見限られていたのだという寂寥感と、得体の知れない安堵感だった。


 安堵を得てしまった自分に、スバルは首をひねる。

 やっぱり、彼女たちは二人いてこそだなんて、そんな場違いな感傷を。


「見つかったのよ。――あの娘の千里眼は厄介かしら」


「千里眼、ねぇ……」


 大層な名前の能力で、スバル好みだ。

 ベアトリスの深刻な声音が示す通りに、そこからの彼女の動きは迅速だ。ラムは身を屈めると、滑るように大樹の幹から降下する。

 けっこうな勢いで着地しながらも、その勢いを殺さずに疾走に乗せ、崖の中腹であるスバルたちの足場へひとっ跳び――到着だ。


「ようやく、見つけたわ。ベアトリス様がまだ一緒なのは予想外だけど」


 憎き仇を目の前にしたかのように、ラムが瞳を輝かせて言い放つ。

 その幼い顔立ちが憎悪に引き歪むのを見て、スバルの胸中を痛ましさが席巻した。


 服装は普段のメイド服の装いだが、いつもなら几帳面に着こなされたそれが今は見る影もなく歪になっている。

 あちこちに引っかけたスカートには穴が点在し、頭に乗せていたホワイトプリムはどこかへ消え、整えられていたはずの桃色の髪も、振り乱されてその優美さを失っている。


 ――着付けも、髪の手入れも、二人はお互いにやり合っていたのだ。


 それはスバルも知っている。いつだったか、そう話していた覚えがある。

 他にも、いくつも知っていることがある。


「下がるのよ。契約によって、ベティーはこの人間を守る。たとえ相手がお前であっても、容赦はしないかしら」


「ベアトリス様こそ、どいてください。こちらこそ、相手がベアトリス様では手加減など出来かねます」


「面白い冗談なのよ。ベティーに対して、手加減と言ったのかしら?」


「ベアトリス様こそ、ここが屋敷の中でないことをお忘れでしょう。禁書庫と遠く、そして森の中――この条件で、ラムからその殿方を守り切れる自信がありますか?」


 黙っているスバルの前で、二人の少女の苛烈な牽制が続いている。

 口惜しげに目を細めるベアトリスの反応に、ラムの強硬な態度がハッタリでないことが伝わってくる。

 ベアトリスの強さは限定的なもので、ラムがこの条件下で有利なのは事実なのだろう。それでもスバルの前からどこうとしないベアトリス。

 スバルは、そんな彼女の後ろに立ったまま、


「びよーん」


 豪奢な縦ロールを二本、両手で掴んで思い切り伸ばした。

 手を離す。髪が大容量のままに大きく弾む。弾む、弾む。


「うん、なかなか快感」


「な、な、な、な……」


 目を見開き、唇を震わせて、ベアトリスがわなわなと振り返る。

 スバルはそんな彼女に「な?」と首を傾げてみせる。と、


「なにをしてやがるのかしら!? こんな状況で、死にたいのかしら!?」


「バカ言うんじゃねぇよ、死にたくなんか欠片もねぇ。死ぬのなんざ本当に、人生の最後にいっぺんだけでいい。本気で、そう思う」


 言いながらベアトリスの肩を引き、たたらを踏む彼女の前に出る。

 正面、立っているのは唖然とした顔でこちらを見つめるラムだ。彼女は前に出たスバルに警戒を高め、その唇を噛みしめるようにして、


「いい、度胸だわ。やっと観念したってこと?」


「観念とは少し違うな。言うなれば……覚悟が決まった、ってとこか」


「――なにを」


 スバルの意図がわからずに、顔をしかめるラム。

 そんな彼女にスバルは手を合わせ、深々と頭を下げた。


「悪かったな。俺がヘタレてたせいで、ずいぶんとお前を悲しませた」


「――! やっぱり、レムのことをなにか」


「いや、悪いけどそれは本気でわからん。正直、わからないことだらけだ。けど」


 言葉を切り、スバルは呼吸ひとつの間を置いて、


「わかんねぇことだらけなのを、知っていこうとそう思ったよ」


「今さら! なにを!」


 スバルの決意表明に、しかしそれを戯言だとしか感じられないラムは吠える。彼女は地団太を踏むように足を振り下ろし、


「レムはもう、死んでしまったの! もう、取り返しがつかないの! 今さらなにかがわかったところで、あなたになにができるっていうの!?」


「なにかができる、なんてかっちょいいことは言えねぇ。なにもできなかった結果がこの様だかんな。説得力なんてゼロなのは俺が一番わかってる」


 開き直るわけじゃない。今でも、後悔ばかりが胸を突く。

 自分の馬鹿さ加減に嫌気が差し、恥辱で死ねるなら死んでいるかもしれない。


 それでも、みっともなく振舞って、みっともなく生き足掻いて、どうしようもない醜態をさらして辿り着いたのがこの場所だ。

 そして得たのが、この結論だ。


「あなたに、ラムと、レムの、なにがわかるって言うの!?」


「なにもわからねぇよ、知ろうとしなかったからな。肝心な部分はなんにも知らないまんまだ。だけどな」


 十日間、スバルは彼女たちと一緒に歩いたのだ。

 彼女たちはそのことを知らないし、聞いたところでわかってももらえない。


 だが、スバルはその十日間を確かに覚えている。

 彼女たちが忘れてしまっても、彼女たちと見てきたものを、彼女たちと笑ったことを、彼女たちと過ごしたことを、スバルの魂は覚えている。

 なにも知らないわけじゃない。スバルは彼女たちを知っている。


 そして、そんな彼女たちを――。


「お前らだって、知らないだろうが」


「なにを……」


「俺が! お前らを! ――大好きだってことをだよ!」


 つっけんどんな癖に、お節介焼きな姉を。

 慇懃無礼で丁寧なようで、皮肉屋な妹を。


 彼女たちと過ごす日々の中で、スバルはその時間を愛おしいと思ったのだ。

 彼女たちの手で殺された記憶が残っていたとしても、どちらも忘れ難い記憶なのだ。

 もう一度、あの時間を分かち合えるのなら、『そう』することを選んでも構わないと思ってしまえるほどに。


 スバルの叫びに、ラムはただ愕然と目を見開いて硬直する。

 当然だ。彼女からすれば、スバルの発言は意味のわからない妄言でしかない。頭のおかしい狂人が放った、幾万の戯言の中のひとつに過ぎない。


 故に、切り捨てる判断は一瞬で行われた。

 思考が停止し、体の硬直が解けた直後にラムの敵意は実行に移される。


 だが、一瞬でも停滞は停滞だ。


「――――ッ!」


 彼女の即時の判断が行われるよりも、スバルが駆け出す方が刹那だけ早い。

 ラムに背中を向け、ベアトリスの横を通り過ぎ、スバルの体は全力のスピードに乗って――崖の方へと向かう。


「待って――!」


 背後、少女の甲高い悲鳴のような声が響く。

 それがどちらの少女の声だったのか、走るスバルの意識には届かない。


 思考がめちゃくちゃだ。覚悟は決めたつもりだった。

 だが、心臓の拍動は心を裏切るように痛みを全身に送り出し、手足の先には鉛を詰めたような重みを感じる。

 全力で走っているにも関わらず、世界はどこまでもスローモーションで、一秒でも先延ばしにすることでスバルの心変わりを促そうとしているようにさえ感じられた。


 馬鹿馬鹿しい。今だって、そう迷っている。

 考えればわかることだ。あれだけもがいて、生に執着したはずだ。

 死にたいだなんて思っても、けっきょくは生存本能に抗うことはできなかったのだ。


 なのに今、こうしている。


「ベアトリスに、礼を言いそびれたな……」


 ふと、気がかりが残っていたのを口にして、それで全てを置き去りにした。


 崖が迫る。あと何歩か、数えるのも恐ろしい。心が折れそうになる。すでに折られている気がする。まともじゃない。正気じゃない。笑い出しそうな衝動がこみ上げる。なのにまったく笑えない。笑えるわけがない。


 あのまま生き永らえたところで、死んだように生きていくだけだ。

 あの場所での未来を諦めるなら、それはスバルにとって死んだのと同じことだ。

 拾った命を死んだように生きるのなら、好きに使ってなにが悪い。


 崖は目前だ。高さは十分。崖下には先客がスバルを待ちかねている。ずいぶんと待たせた。そして悪いが、お前と同じところにはいけない。


「俺みたいな善人は、死んだら天国に行っちまうからな」


 足が離れた。宙を掻く。なににも触れない、届かない。

 体が揺らいだ。体勢が崩れる。上か下か、バランスを保つことができない。

 早い。風が強い。目が痛い。頭が痛い。耳鳴りが遠い。心臓を置き去りにしてきたような気がする。高鳴りが聞こえない、不吉の鐘が鳴り響く。


 死んで終わるなら、そこまでだ。

 死んだように生きるのと、それならなにも変わらない。


 だがもしも、もしも仮に、戻れるとしたら。


 ――「絶対に、殺してやる」と彼女は叫んでいたから。


 それなら、自分は。



「――絶対に、助けてやる」



 決意を口にした直後、頭から固い地面に激突。

 砕け散る音が盛大に響き渡り、もう、なにも、聞こえない。



 怨嗟の声も、追いつけない。もう、なにも――。


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