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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第二章 『激動の一週間』

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第二章31 『道化の慟哭』



 ――気持ち悪い。


「お、ラムちー! 今の見たか!? 俺の包丁さばきってば、たったの一日でかなり洗練されてきてね!? 才能が開花したか!?」


 ――気持ち悪い気持ち悪い。


「レムりん、見て見て! この繊細な細工を可能とする技量――今、俺の指先にはまさしく奇跡が宿っている! アップリケ!」


 ――気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。


「エミリアたんてば会うたび見かけるたびに俺の心を掻き乱すな! マジ罪作りすぎてギルティってるよ!」


 ――気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。



 笑顔を浮かべ、ひょうきんにおどけて、油を差したかのように軽く回る舌を全速力。任された仕事には全力で取り組み、失敗も恐れず果敢に挑み、手が空けば即座にイベントを求めてさまよい歩く。

 記憶を総動員して、これまでの四度繰り返した四日間を焼きつくほどに掘り返して、どんな些細なことでも起こせる限りの出来事に自分を刻み込んでいく。


 そうでなくてはいけない。そうしなくてはならない。

 一秒だって無駄にはできない。起こり得る可能性の全てを吟味して、必要なイベントのあらゆる成否をシミュレートして。

 ゲームだと思えばいい。徹底的なフラグ管理。得意だったはずだ。会えば会うほどに可能性は上がる。

 もっとうまく笑えるはずだ。もっとうまく笑わせられるはずだ。


 頭を空っぽにしたように振舞え、しかして思考を決して止めるな。

 無意味で無駄で大げさなアクション。警戒に値しない愚物だと思わせろ。使えないほど馬鹿だと判断されるのは避けろ。

 相反する思考と結論。矛盾に思い悩む暇があるなら、考えるよりも先に行動だ。だが、動く前に己の行動の意義を自分に問え。

 不自然になっていないか常に気を配れ。一秒どころか刹那の間すら油断してはいけない。失敗はできない、できないのだから。


 ――失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない。


 繰り返し繰り返し、頭の中で警鐘が鳴り続けている。

 危険を報せるアラートだ。異世界にきて、欠片の進歩もない自分だがこの感覚だけは鋭くなってきた自負がある。

 危険が迫っている。誤りが正されようとしている。どこからくるのかはわからない。軽快に警戒を、ステップを踏んで身を回せ。


「おっと、ラムちー、別にサボっちゃいないぜ? ちゃんときっちりかっちりお仕事はやり遂げますとも。先輩はふんぞり返って部屋でステイしながらシエスタかましててもいいぐらいよ?」


 かわすかわす、軽薄さと上っ面な微笑で状況を回避する。

 うまくやれていたか。ちゃんとナツキ・スバルができているか。不信感を抱かせなかったろうか。ラムの前でできていたとしても、肝心のレムの前で地金が晒されれば全てはおじゃんだ。


 自然で天然にナツキ・スバルを装え。

 簡単なことだ、自分の話だ。屋敷に住まう人々の心の内側になど微塵も気付かず、ただただ無邪気に無遠慮に不躾に不埒に、与えられるものを享受しているだけの怠惰な豚だった頃に戻ればいい。


 なにも知らないこと、なにもわからないこと、なにも気付かないこと、なにもしないこと。得意だったはずだ。それしかできなかったはずだ。簡単なことのはずだ。笑いながらそれぐらいできたはずだ。


 へらへらと、微笑の仮面を張りつけたままで歩く。

 屋敷の中だ。どこで誰と出くわすかわからない。自由な時間に自由などないと知れ。空白の時間は過去の想起と今後の行動予定を立てることに全て費やせ。


「お、う、ぇ……」


 ふいに込み上げてきた嘔吐感。呻きだけが口の端から漏れ、スバルはしかし微笑みを決して崩さない。

 そのまま足はスキップを刻み、踊るように滑るように近場の客間へと忍び込む。そして、部屋に備えつけられた洗面所へ向かい、


「……おぶふぁっ。うぇっ、おうぇ……ッ」


 すでに空っぽの胃の中身を、洗いざらい流しへとぶちまける。

 飲食物など体に入れた端から全て吐き出している。出てくるのは黄色がかった胃液だけで、ひたすらに内臓を痛めつけるように絞り上げるそれに胃液すら涸れ果てた状態だ。


 それでも収まらぬ嘔吐感を満足させるために、流しの水をがぶ飲みして腹を満たし、直後にそれをぶちまける。繰り返し繰り返し、胃の中身を洗い流すようにそれは行われた。


「はぁ……はぁ、はぁ……」


 乱暴に口元を袖で拭い、青白い顔つきでスバルは荒い息をつく。

 圧し掛かるプレッシャーにそれだけで殺されそうだ。このまま気の休まる暇のない時間が続けば、それだけで衰弱死できそうな気がする。


 本末転倒な自分の状態を自嘲して、しかし渇いた笑みひとつ浮かばない。

 浮かぶのはひたすらに、胸中からわき上がってくる不安と絶望感だけだ。


 ――ちゃんとできているだろうか。


 振り返ってみれば、屋敷の人間との関係がもっとも良好だったのは無知だった一回目の頃だったと思える。

 ならば一回目を踏襲し、同じ状況をなぞらえてみるか。


 否、それをするのは二度目のトレースに他ならない。二度目のケースは一度目の内容をなぞり、その上で衰弱の魔法にレムの鉄槌を追加された形だ。すでに誤った道を通るだけに他ならない。


 三度目も四度目も問題外とすれば、やはりスバルが見習うべきは一回目になる。二回目のときとはやり方を変えて、一回目をなぞるのではなく一回目よりうまくやるという方向で。


 一回目はあらゆる仕事の能力が低かったが、代わりに与えられた仕事には真っ向から取り組んでいたと思う。二度目は一度目の成果と近しくしようとしたのが見抜かれ、手抜きと判断された結果だ。

 ならば今回は一度目と同様に全力で、その上で一度目のときよりもちゃんとした成果を出してみせる。


 ラムもレムも、そうすればスバルを見限るまい。彼女らに粛清されるルートさえ外れれば、スバルの懸念はひとつ取り払われる。

 だが問題は、


「依然、呪術師の行方に見当もつかねぇってことだ」


 レムが殺されている以上、下手人は外部の人間だと考えられる。

 屋敷を狙う人間――王選関係者だとすれば、それらの関係性に明るくないスバルには手詰まりともいえる状況だ。


 呪術師の正体を暴くにあたり、屋敷の関係者の協力は絶対に必要不可欠だ。

 少なくとも、警戒を呼び掛けることは無駄にはなるまい。かといって、現状のスバルがこの屋敷でどれだけの発言力を持っているか。


「信用も得てない状態で、進言とか誰が聞き入れる……?」


 おまけにスバルはその情報源を明らかにすることができない制約付きだ。

 故にもどかしさも遠回りさえも許容して、ひたすらに胃に穴の空くような窮屈さを堪えながら時間を過ごしている。


 時間が足りない。時間がないのがもどかしい。この苦痛の時間にこれ以上耐え切れる自信がない。早く終わってしまいたい。終わるわけにはいかない。言葉が届かない。届かせるには時間がいる。その時間がない。どうにかしなくてはならない。気持ちが悪い苦しい。


 思考が幾度も辿り着いた袋小路へと迷い込む。

 昨晩も、この答えの出ない螺旋に飲み込まれて一睡もできなかった。理由のはっきりしている不安を、解決策の見つからないまま手探りで振り払う無力さ。


 いっそ、ただひたすらに『危ない』とだけ叫んでみる選択肢が選べれば良かった。スバルの頭がおかしいと思われたとしても、それで屋敷の全員の命が救えるのならば悪くない賭けだとも。


 事前に対策が行われ、屋敷の全員が無事に五日目を迎えられる。状況の悪化に呪術師が撤退を選び、そうなれば大団円だ。


 ――だが、その場所に自分がいられないのは耐えられない。


 彼女らが無事に助かってくれればそれでいい、などと割り切れるほどスバルは達観もしていなければ聖人めいてもいない。

 スバルの望みは、屋敷の全員が生存し、その上で円満な状態で五日目を乗り越えることにある。


 自己犠牲の精神など、そもそも持ち合わせがない。

 欲張りで、贅沢で、強情で、野卑極まりない性質なのだ。

 だから、


「ああ、クソ……かっこ悪ぃ」


 ああして覚悟して自決を選んでおきながら、いざチャンスを目の前にしながらも尻込みするのを止められない。

 一度拾えば命は惜しい。捨てたと思ったものが手元に戻れば、それを再び手放そうなどと簡単には思えまい。


 スバルもまたそうだ。

 捨てたはずの命、終わっていたはずだった命。

 賭けに勝って舞い戻っておきながら、それが再び手の中にあるのに気付いたスバルを襲ったのは、それを再度失うことの恐ろしさだ。


 失敗できない、あとがない。

 今回で五度目。そして、その後も『死に戻り』ができるなどと楽観的に思えるような性格をスバルはしていない。

 今回は戻ってこれた。次回はダメかもしれない。常に今回の自分が最後かもしれないと、崖っぷちにいることを意識させられる精神の摩耗――まともであればあるほどに、それは人間を追い詰める。


 自棄に走るほど正気を失っていなければ、自分の全部を賭けて抗う決断ができるほど勇気も持っていない。


 どこまでも凡庸で、どこまでも凡俗。

 自分で自分が嫌になるほど、小者であることが思い知らされる。


「弱音なんぞ、吐いてる暇があんのかよ、バカ野郎……」


 弱音のひとつでもこぼす暇があるなら、軽口のひとつでも叩いて印象を稼ぐ方が重要だ。

 気付けばいつしか薄れた嘔吐感を振り切り、スバルは強張る頬を叩いて己を叱咤。それから客間の外へ向かう。


 現状、割り振られた仕事は終えた空き時間だが、そんな時間すらも今は惜しい。とにかく、ラムかレムの姿を探して――、


「やっと見つけた」


 扉から身を乗り出したところで、そうして声をかけられた。

 振り向くと、そこには弾む息を整えるエミリアの姿がある。


 風に揺れる彼女の銀髪を視界に入れた瞬間、スバルの意識が音を立てて切り替わる。

 状況に対応、胃の痛みも胸の痞えも閉塞感も全て忘却。今はエミリアに振り返り、頬を好色につり上げろ。


「おやおやぁ、エミリアたんから俺をご指名とか嬉し恥ずかし珍しい! なんでも言って、なんでも命じて! 君のためならたとえ火の中水の中、盗品蔵の闇の中だってもぐっちゃうよ!」


 指を天に向けて腰を振り、リズムに乗ってポージング。

 我ながら変わり身の早さに舌を巻きたい気分。が、それと向かい合うエミリアのリアクションは予想とは違うものだ。


 てっきり、呆れたような顔。もしくはため息の反応があるものと思って身構えていたのだが、


「スバル……」


「おいおいおいおい、よくねぇぜ、エミリアたん。俺が一晩寝ないで考えた渾身のネタをスルーだなんて。一度使ったネタは鮮度の関係で二度と使えない。エミリアたんに、頭をひねって産んだ子供を殺される気持ちがわかるの!?」


 袖を噛んで泣いて悔しがるアクション。が、これに対してもエミリアの反応は乏しいものだった。

 エミリアはスバルの予想の反応をことごとく裏切り、ただ哀切と痛ましさをないまぜにした瞳でスバルを見てくるのみだった。


 ――マズイ、と本能的な部分が警戒を呼び掛ける。


「エミリアたんてば黙っちゃってどったのよ。そんなに美人で黙っちゃったりしたら、俺が芸術品と勘違いしてお持ち帰りして部屋の片隅に飾りつけて毎朝毎晩おはようお休みのキッスしちゃうぜ?」


 おかしい、と脳内で自分の声が何度も何度も叫んでいた。


 予想のどれとも違う反応。呆れるでも怒るでもない反応は予想外。怒る分にはまだ対応を考慮もできた。だが、こうして痛ましげな目を向けてくるということは――。


 自分の被っている拙い道化の仮面が、彼女にはばれているということではないだろうか。


 そんな不安が差し込んだ瞬間、スバルは常に彼女の傍らに存在する灰色の猫の存在を思い出す。

 精霊を名乗るその猫の特性を思い返せば、スバルがこれまで行ってきたことの無意味さがようと知れる。


 心が読める存在を相手に、上っ面だけを取り繕うことの愚かしさよ。


 それに気付かされてしまった瞬間、スバルの虚勢は瓦解する。

 張り付いていた微笑は形もなく消え去り、代わりに浮かび上がるのは叱られるのを待つ幼子のような弱々しい表情だ。

 なにもかも見抜かれている相手の前で、それでも気付かれていないと踊り続けたことのばつの悪さ。そしてなにより、彼女にだけはそれを知られたくなかったというちっぽけな自尊心がいたく傷付いた。


 互いの間に無言の時間が落ちる。

 スバルはもはや軽口など開く余地もないし、エミリアはエミリアでそんなスバルの表情に言葉を探すように瞳を揺らしている。


 ――エミリアに幻滅される。それだけは嫌だった。

 しかし、なにを口にすれば言い訳が立つのかそれすらわからない。状況を打開する術がないのはここでも同じ。


 口を開こうと何度も試みるものの、肝心の言葉が見つからずに踏み出せないスバル。そんなもどかしさを抱え込むスバルを見ながら、エミリアはふいに「よし」と小さく呟き、


「スバル、きなさい」


「……へ?」


「いいから」


 ぐいとスバルの腕を掴み、彼女が向かうのは今しがたスバルが出てきたばかりの客間の中だ。

 体半分が出ていただけの部屋に引き戻され、スバルは彼女の意図がわからずに疑問符を頭に浮かべる。

 が、エミリアはそんなスバルの疑問に取り合わず、腰に手を当てて部屋の中をぐるりと見回すと、


「じゃあ、座って、スバル」


 床を指差し、変わらぬ銀鈴の声音でそう言ってきた。

 指に従って地面を見やる。床には絨毯が敷かれており、誰も使用していない部屋ではあるが清掃は行き届いている。もちろん、地べたも寝転がったって大丈夫な力の入れようではあるが。


「座るならベッドでも椅子でもよくね? わざわざ床に……」


「いいから座るのっ」


「はい、仰せのままに!」


 いつになく強い口調で言われ、思わずその場に正座で従う。スバルが座るのを見届け、エミリアは満足そうに頷くとすぐ傍らへ。

 自然、低い体勢から彼女を見上げることになるが、そんな邪まな気持ちを抱くことすら今は浮かばない。

 ただただ、エミリアの真意を読み取るのに必死になるばかりだ。


「……うん」


 小さく、そう呟いたのはエミリアだ。

 確かめるように、あるいは自分に言い聞かせるように息を呑み、エミリアはスバルの隣に同じく正座。

 すぐ触れ合えそうな距離に美貌があるのにドギマギしつつ、スバルはその白い横顔から感情が見えないかジッと眺める。ふと、その彼女の白い横顔が紅潮し、耳がわずかに赤いのが見えた。


「特別、だからね」


「――え?」


 言い含めるような言葉に疑問符が浮かぶが、それを口にするより前にスバルの後頭部がなにかに押される。

 自然、正座していた体は力に抗えず、そのまま勢いに流されるままに前のめりになり――柔らかい感触に迎え入れられた。


「ちょっと位置が悪い。それに、ちくちくする」


 もぞもぞと頭の下でなにかが動き、エミリアの照れ臭げな声がすぐ傍で聞こえた。

 驚きに視線を上げ、目の前の光景にさらに驚きが重なって目を見開く。


 すぐ真上、それこそ顔と顔が触れ合いそうな近くにエミリアの顔がある。それは上下が反対に見えて、「ああ、自分が逆さになっているのか」とどこかぼんやりと遠い感慨が浮かび上がる。


 この距離で、上下が逆さで、頭の下に柔らかい感触。

 ――それらのキーワードが寄り集まり、スバルの中でひとつの形となって意味をなした。つまりこれは、


「膝、まくら?」


「なんか恥ずかしいからはっきり言わないの。あと、こっちの方を見るのも禁止。目、つむってて」


 額を軽く叩かれ、掌で瞼を覆い隠されて視界が遮られる。が、スバルはそんな彼女の抵抗を手で除けて、


「恥じらうエミリアたんも最高だけど……そもそも、これってどういう状況? 俺、いつの間にご褒美貰える手柄立てたっけ?」


「そういう変な強がり、よくないわよ」


 額を再度叩かれる。しかし、今度はそのまま額に手を当てたまま、エミリアは逆さのスバルの前髪を指ですくい、


「言ってたでしょ、スバル。疲れ切ったら膝枕してって。だからしてあげる。いつもってわけにはいかないけど、今日は特別」


「特別もなにも、まだ二日目ですよ? これで疲労困憊のグロッキーに見えたってんなら、俺ってば古今無双の虚弱体質……」


「打ちのめされてるの、見てればわかるもの。詳しい事情は、きっと話してくれないんでしょ? こんなことで楽になるだなんて思わないけど……こんなことしかできないから」


 スバルの言葉を遮り、エミリアは慈愛の眼差しのままでそう語る。前髪を梳く指はいつの間にか髪をかきわけ、ゆったりと幼子をあやすように頭を撫で始めていた。


 小さく笑い、そのエミリアの行動を跳ねのけようとする。

 それは見当違いだと、そんな格好悪い真似なんかしちゃいないと、彼女の前で張り続けると決めた虚勢を張り続けるつもりだった。


「はは……エミリアたんてば、そんな……俺、が……」


 なのに、声が上擦り、喉が詰まり、次の言葉が出てこない。

 頭を撫でられる柔らかな指の感触から、どうしてか意識を切り離すことができない。


「疲れてる?」


「ま、まだまだ、やれる。全然、平気だし……」


「困ってる?」


「優しくされると、ほら、惚れちゃうぜ? そうやって、また……そんな……はは」


 短い問いかけに、応じるスバルの言葉は虚ろにしか響かない。

 がらんどうな言葉だと、自分でもわかるそんな感情。


 そして、エミリアはそんなスバルにそっと顔を寄せて、


「――大変、だったね」


「――――!」


 慈しむように言われた。いたわるように言われた。愛おしむように言われた。

 たったそれだけのことで、たったその一言だけで、スバルの内側にあったボロボロの堤防が決壊する。

 壊れ、破れ、溜め込んでいたものが一気に外へと噴き出す。

 それは封じ込めたつもりで、しかし欠片も消すことのできずにいた激情の吹き溜まりで。


「大変……だった。すっげぇ、辛かった。すげぇ恐かった。めちゃくちゃ悲しかった。死ぬかと思うぐらい、痛かったんだよ……!」


「うん」


「俺、頑張ったんだよ。頑張ってたんだよ。必死だった。必死で色々、全部よくしようって頑張ったんだよ……! ホントだ。ホントのホントに、今までこんな頑張ったことなんてなかったってぐらい!」


「うん、わかってる」


「好きだったからさぁ、この場所が……大事だと、思えてたからさぁ、この場所が……! だから、取り戻したいって必死だったんだよ。恐かったよ。すげぇ恐かったよ。また、あの目で、見られたらって……そう思う自分が、嫌で嫌で仕方なかったよ……ッ」


 感情が制御できない。

 一度爆発したそれは堰を切ったように溢れ出し、微笑の仮面をかぶった臆病者の顔を涙で盛大に汚していく。


 涙が止まらない。鼻水が垂れてくる。口の中にわけのわからない液体が溢れ返り、嗚咽まじりのスバルの泣き声をさらに聞き苦しいものへと変える。


 みっともない。情けない。大の男が女の子の膝の上で、頭を撫でられながら大泣きだ。死んでしまいたいほど情けない。死んでしまうかと思うぐらい、心が温かなものに満たされている。


 スバルの泣き言を聞くエミリアの相槌は優しい。「わかってる」だなんて言っていても、スバルの体験のひと欠片も彼女に届いていないのはそれこそわかり切った話だ。

 それなのに、エミリアの声には鼻で笑い飛ばすことのできない重みが込められていた。


 理由はわからない。そう思いたいだけなのかもしれない。

 だが、スバルが今、そのわけのわからない温もりに救われたような気になっていたのは事実だった。


 滂沱と涙を流し、スバルはエミリアの膝の上で泣き続ける。

 泣いて、泣いて、泣き喚いて、いつしかみっともない泣き声は遠く彼方へ消えて、静かな寝息だけが客間に落ちていた。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 ――レムがその客間を訪れたのは、エミリアが眠るスバルの黒髪を優しく撫でていたときのことだった。


 音もなく部屋の戸を開いたレムは、室内にエミリアの姿を見つけるとその口を開きかけ、


「しー」


 と、唇に立てた指を当てるエミリアの仕草にその口を閉ざした。

 ショートカットの青髪を揺らし、レムは部屋の中をゆったりと見回す。それから客間の床に直に座り、その膝の上にスバルの頭を乗せるエミリアの傍らへ歩み寄ると、


「スバルくんは、寝ているだけですか?」


「そう。ふふ、ほら見て、子どもみたいでしょ。頭、撫でるとホッとしたみたいな顔するの」


 面白がるようにスバルを撫で、エミリアはレムに同意を求める。レムはそんな彼女の求めに静かな首振りで応じ、


「今日は、スバルくんにこれ以上の仕事はできそうにありませんね」


「そうね、今日はお休み。働き始めて二日で休んじゃうなんて、すごーく悪い子。元気になったら、お仕置きしてあげてね」


 小さく笑い、エミリアはそのままスバルの顔を弄る作業へ戻る。

 眠ったスバルをどかして、足を解放するつもりはないらしい。レムはエミリアの態度をそう解釈し、静かにスバルを見下ろす。


 無邪気に、眠りこける表情からは緊張も軽薄さも消えている。

 なぜか、彼は姉とレムに対して接するとき、笑顔を浮かべるよりも先にまずささやかな緊張感をみなぎらせる。

 その態度に浅からぬなにかを感じ、レムなどは監視の姿勢を強めようなどと思っていたのだが。


「こうして寝ているところを見ると、その気も失せますね」


 エミリアにならい、その前髪を軽く指でわけてレムは呟く。

 赤ん坊のように無防備な様子。まるで世界のことに無知なようなその姿はいっそ哀れで、レムはほんのわずかにその唇をゆるめた。


「姉様に、スバルくんが今日は役立たずだと伝えてきます。仕事の分担をやり直さないといけませんから」


 お辞儀して、レムは丁寧にそう言い残して背を向ける。

 向かう先は姉の場所。目をつむれば、その場所はすぐに伝わる。真っ直ぐに向かい、今の言葉通りにやり取りしようと思う。

 その後ろから、


「レム」


 呼びかけに足を止め、レムはゆっくりと全身で振り返る。

 地べたに座るエミリアと、視線の高さは大きく違う。が、それでもなお、レムはまるでエミリアに見下ろされているような不可思議な圧迫感を得た。


 そんなレムのささやかな驚きには気付かず、エミリアは小さく、


「――スバルは、いい子よ?」


 告げられた言葉に、レムは深々とした礼で応じる。

 それから一瞥も残さずに扉に向かい、二人を残して客間を出た。


 廊下を歩き、今のエミリアの言葉を噛み含める。

 無表情のレムの横顔に、ささやかな震えが走ったのは本人すら気付かない。


 ――ただ、かすかに香る邪悪の臭いだけが、レムの心にわずかなしこりを残していた。



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