2011年12月05日

“バラバラ性”の克服;「基礎学力の重要性」を再確認しよう

“学校の勉強が何の役に立つか”という言い方があります。学校の勉強は“社会では役に立たない”という意味です。今でも多くの人がこう考えていると思います。

過去には、私自身もそれに近いことを考えてきた時代がありました。今は違います。一方、近頃の経験でも、看護師の中にこの考えを持つ人が一定数いるらしい、と思わされることがよくあります。

“学校の勉強が社会では役に立たない”という考え方は、“部分的には”正しいとは今でも考えています。それに、自分の学生時代の成績があまり良くなかったと思っている人にとって、この考え方は魅力的でしょう。実際、社会的に成功を収めたと自他ともに認める人々の中でも、学生時代の成績が悪かったと自分で言う人は一定数いるようです。

実際、この考え方は看護師という職業においてどの程度正しいと言えるでしょうか。私は今のところ、看護師という職業において「学校の勉強は思ったよりは重要なようだ」と思っています。考えれば考えるほどそう思います。看護学にとっては言うまでもありませんが、仕事としての看護でも同じだと思います。今まではそれほどでもありませんでしたが、今後は「学校の勉強は意外に馬鹿にできない」と考え発言し行動し、周囲にも広めていこうと思います。

私が改めてこう考えるようになった理由は、看護という仕事の特徴にあります。看護師の仕事には、おおまかに次のような特徴があります。バラバラで全然整理されていませんが書いてみます。

1.仲間が多い
2.ナースコールの存在により仕事の中断・切れ目がやたら多い
3.チマチマした手仕事が多い
4.連絡申し送りが多い
5.頼まれごとが多い
6.夜勤が多い
7.受け身の対応にならざるを得ないことが多い
8.勉強会が多い
9.人材が多様で学校の種類が多い

他の職種とも重なっているところもあれば、重なっていないところもあります。夜勤とナースコールの存在は大きいように思います。考えているとキリがありませんが、こういった個別の項目には全体を貫く一貫性があります。それは「・・・が多い」という表現でまとめられるように、看護師のそれぞれが色んな意味で他職種よりはるかに“バラバラ性が強い”ということです。

“バラバラ性”という言葉を出しましたが、これを患者目線で言えば“個別性”という意味が大きいと思います。しかしそれだけではありません。この言葉に則して、論点を整理します。論点は2つプラスおまけの1つで合計3つあります。

一つは、医師や薬剤師、検査技師、栄養士などといった多くの他職種において、それぞれがより専門職として専門的であろうとするために起きる矛盾を、看護師側が看護部として一手に引き受けざるを得ない現実があるということです。

そしてもう一つは、有名な話ですが看護師の資格を取得するための道が、専門学校や大学に何種類もあるということ、看護師、助産師、保健師、准看護師といった看護系の資格そのものの多様性もある上に、私のように他業界から医療の世界に参入する人が多いという事実までを含めて考えれば、爆発的な“バラバラ性”を想像できるということです。

そしておまけの一つは1つ目の補足になりますが、医師や薬剤師、検査技師といった、看護師から見た多くの他職種は、建前かもしれませんがそれぞれが専門職とみなされており、彼ら自身もその考えに準じた態度を取り行動する(ように看護師の立場から見える)ために、彼ら同士の間でも“バラバラ性”があるのです。

私の説明を現場の立場から否定する看護師もいるかもしれませんが、少なくとも私の現場である垂水中央病院の2階病棟では、私の目にはそう見えています。現場はそれ自体が生き物のようであり、特に医師の人格・キャラクターがその場の雰囲気を左右することがあるので、現場ごとの多様性も考慮する必要はあるでしょう。しかし基本的には、過去の経験も踏まえた上で、上記の構造を私は見ています。

=== === ===

さて、超長い前ふりでしたがここからが本題です。

この“バラバラ性”を克服することは、現実に患者のための病院を運営する上でも重要であり、全体的人間像の把握を目指す看護学全体の趣旨でもあります。つまり“看護師の専門性とは、あまり専門的にならないことだ”という考え方が成り立つと言えます。患者の個別性や他職種の専門性を尊重しながら、現場や組織全体の調和を目指すという意味での専門性です。看護学以外の、一般的な意味での専門性を強調すると、どうしてもその副作用として件の“バラバラ性”が出ます。このため、病棟・病院全体をうまく動かすための矛盾の引き受け手に看護師がならざるをえない現実があります。

ちなみに、この“矛盾の引き受け”という仕事自体はけっこう勘違いされて“ちょこざいな仕事”“専門性の低いつまらない仕事”と思われている節があります。なぜなら表面的には単なる指示受けとか連絡とか患者の移動案内とか、果てはオムツ交換した上に尿取りパッドを実際に量りに乗せて重さを確認するとかが中心になるからです。情報収集の最前線、末端中の末端がここにありますが、この末端は膿汁や排泄物やばい菌、嫌な匂いや醜い傷口といった非日常的なものに囲まれているために、それなりの構えのない人にとっては勘違いの元になるのです。

病院という組織では、建前上は院長や管理職が職場の全体を調整し引っ張ることになっています。しかし病棟の日常で自らリスクを冒してまで指揮をふるってくれるわけではなく、普段は看護師任せにして結果だけを求める人もいます。そうならざるを得ない現実もあります。看護師の仕事に関しては、どこかでいったんは不愛想に割り切る気持ちがなければ延々と終わりがないことや体力勝負であること、また一般的に“汚い”と思われる仕事が多いために、管理職が部下と一緒に汗をかきながら背中を見せるやり方で引っ張っていくことは、そう心がける人もいますがあまり一般的とはいえません。管理職側も他の仕事がいっぱいで、みんなと一緒に汗をかきたい人でも、そんな暇はなく仕事がそれを許さないことが多いのです。

一緒に汗をかくことができないばかりでなく、看護師との文化や感情の共有に対しても拒否的な管理職・リーダーの場合、自分の予想と違う結果で不満があったら看護師に向けて“報告がなかった”などと言って怒りを向ける人もいます。こういった類の人は常に座して報告を待つので、自分から情報収集する知恵はないのです。また人間関係上、怒りっぽいからなどの理由で看護師たちから遠ざけられている人の場合、自然と看護師からの“報告”は質量ともに劣化するのが自然の法則というものです。それをわかっていないために上手く看護師を使えない人がいます。

看護師は他の専門職から見て、仮に一人一人は馬鹿に見えたとしても、そして実際に馬鹿であったとしても、その集団全体を見れば患者の生活全般に深くかかわっているために情報の宝庫であり、また組織全体における人数の割合も多いのですから、その時々では正しい理由での叱責であったとしても、軽い気持ちでその度毎に馬鹿にしていると後から意外に厄介なことになりかねないのです。そもそも管理職にとって組織を円満に動かすということは、坂本竜馬の言葉だったと思いますが正論で論破するやり方はなじみません。頭のいい人ならそのあたりを理解できると思いますが実際は難しいようです。

話を戻しますが、この“矛盾を引き受ける”という仕事はレベルの低い仕事と思われがちですが実はそうではなく、また看護学の専門性にもつながっている、と私は考えます。たぶんこれは私だけの考え方でしょうが、看護学全体の趣旨に照らして間違ってはいないと思います。

逆に、看護師が専門職を目指すみたいな言い方、考え方で色々という人がいますが、そういう人の話は中身までよく聞いてみないと、ただ従順に聞いているだけでは話が変な方向に進んでしまう可能性もあるのです。専門看護師とか認定看護師とか、他にも“糖尿病なんとか”やら“肺理学療法なんとか”やらありますが、こういったものは必ず看護師以上に専門的に研究実践している人がいて、そういう国家資格もあります。

こういった“なんとか看護師”の類は、他の分野の専門に看護の立場から絡むという以上の意味はないのであり、それ自体が専門だとは言えません。本当の意味で専門だというのであれば、それに相当する国家資格を看護師の資格に並行して取得すればいいだけです。医師でもあり看護師でもある人は実際にいます。それが割に合うのかどうかは分かりませんが、専門という意味であればそうすべきです。“なんとか看護師”みたいな資格もどきでお茶を濁している場合ではないのです。

私はこういう“なんとか看護師”の類の人と実際に詳しい議論したことはありませんが、基本的には非常に懐疑的であり、別分野の専門性のパロディに満足し吹聴することを通じて、逆に看護学本来の専門性を壊している人たちではないかと感じています。

=== === ===

話が横にそれました。これまでの話で私が言いたかった結論は以下になります。

つまり、“バラバラ性”を克服することは看護師としての仕事の中核でもあり、看護学の専門性そのものにも通じていて、看護師と看護学の存在意義をより確実なものにする重要な使命である、ということです。

そしてこの目的のために、現場レベルで私たちがすべきこととして、表題のとおり「基礎学力の重要性」を再確認するということがあるのです。

実際に現場で見かける看護学以外の様々な専門用語や、他職種同士の符牒、習慣のようなものに対して、それはどういう意味か解釈して確認したり、尋ねて一般的な表現に修正を求めたり、とにかく何かとコミュニケーションにおける「基礎学力」の重要性は疑いありません。そしてこの「基礎学力」に自信を持てない看護師の存在が私には目につくし、気になります。「基礎学力」に自信がないにも関わらず、看護師としてそれなりに仕事をこなせてしまうという事実はもっと気になります。

他職種がその専門性や“指示する立場”としての上から目線で看護師に対してきたとき、間髪を入れず“患者目線を意識して義務教育レベルの物言いに直せ”とか“女だと思って年上に対してナメた口きくな”とか“自分の仕事を他人に頼むときの態度を考えれ”とか、そういった内容を状況に応じた言葉づかいに変換して応答する必要があります。このとき、看護師自身に「基礎学力」がなかったら話になりません。

そうすると、例えば今、看護師としてバリバリ仕事をこなしている人でありながら、中学校の数学が全然できない、英語や国語が分からない、と言う人は考えられないことになります。実際はそういう人をたくさん見かけます。そういう人は結局、その場限りの仕事に“経験を通じて慣れた人”とは言えるが、看護学の実践として“専門的に仕事をしている人”とは言えない、ということになります。

ちょっと極端な表現になりましたが、そういう方向性はあると思います。義務教育レベルでも大人が改めてしっかり勉強すれば、一貫した論理性を仕事に活かしていけるし、他職種の人から“専門性に欠ける”という偏見を持たれたり、“ただの取り次ぎ屋”のような見下した扱われ方をしないでしょう。

こう考えると、例えば看護記録が重要だから勉強しましょうという話になるとき、情報学がどうとか専門家の先生を読んできて講演会がどうとか言う前に、例えば手書きカルテであれば硬筆を再学習して癖字を矯正するとか、中学国語の文法を再学習して助詞の使い方を矯正するという作業が重要だと理解できるのです。

=== === ===

以上の話を以下にまとめて、今後の実践に活かしていきたいと思います。

1.看護師の専門性とは専門的になり過ぎないことである。
2.非専門性を専門性の基礎とするための武器は基礎学力である。
3.基礎学力を武器に看護師は現場における“バラバラ性”の克服を実践する。
4.基礎学力の保持が患者目線を担保する手段になる。
5.“学校の勉強が何の役に立つか”は看護師にとって愚問である。
6.少なくとも義務教育レベルの具体的な教科内容理解を現役の間は保持すべきである。
7.教科内容理解は結果でなく過程が看護師としての専門性に関わる。
8.看護師自身に深い専門性はないと割り切った上で本来の専門家に相談し問題解決する能力が看護師の専門性である。
9.基礎学力の有無は看護師を“仕事に慣れた”人と“看護学を実践する”人に分ける。
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posted by 元垂水市住み男看護師 at 17:01| 鹿児島 ☀| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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