2011年11月25日

看護記録の勉強会に参加した

昨日、日勤が終わった後、当院内で看護記録の勉強会があるということで参加してきました。
内容は、だいたいこんな感じでした。

まず、北里大学病院での実際の看護実践を記録した10分程度のビデオを鑑賞します。その後、鑑賞した内容を自分なりの書き方で看護記録として書いてみます。さらにその後、主催者である当院の看護部記録委員会から、模範例となる例文が配布されて、質疑応答に移る、という感じでした。

さて、私自身が実際にこの勉強会に参加して、感想は以下の二つがありました。

まず、最初のビデオの時間が私には長すぎた。自分でやる看護実践ではないので、最初から目を皿のようにして情報収集しながら記録していかないと、すぐに忘れてしまいます。忘れたら記録の練習になりません。他の病院で他人が行う看護実践をじっくり鑑賞するというスタイルは、私たちにとって現実の看護実践とは全然異なる次元なのです。だから、このスタイルで練習するにしても、それなりの慣れが必要です。ビデオ上映の前に、そういう風にしないと追いつかないという予告が、主催者側あればよかったのに、と思います。

そんなわけで、今回の勉強会は、「看護記録」というテーマを意識しながらではありますが、自分自身にとってはあまり実践的ではなく、結局は単なるビデオ鑑賞に終わってしまったのです。

次に、配布された模範例文を読むと、どうも“看護記録文学”と呼べるような独特の書き方があるように感じられました。これは私の普段の実践経験にも通じる感想です。

“看護記録文学”というジャンルが実際にあるかどうかは、文献検索しても今のところ分かりません。しかし看護記録自体、看護師という限定された集団の閉じた文化を背景とするので、あっても不思議ではないでしょう。いわゆる“霞が関文学”とか“裁判文学”などと似たようなイメージです。

さて、この“看護記録文学”の中身ですが、私が気づいた点は主に以下の三つです。

一つ目は“助詞の省略”です。特に主格と目的格が目立つように感じます。例えば、「この人は昼間に排便があったので、今夜は排便を促す薬は飲ませなかった」というとき、「排便あったため与薬せず」といった書き方をします。あるいは「夕食を全部食べた」というとき、「夕食10割摂取」とか書きます。

二つ目は“現在形への固執”です。そもそも看護記録は、実際に行った看護を記録するものなので、全部過去形になるはずです。しかし、みんななぜか現在形にこだわるようです。例えば、先ほどの「夕食を全部食べた」という場合、なぜか「10割摂取する」と書く人が多いのです。「した」ではなく「する」です。

そして三つ目は、これが本当に面白いというか、看護師経験四年目の今でも私はまだよく理解しかねるところですが、“言文不一致への固執”です。

“言文不一致”とは、話し言葉と書き言葉を同じにしない、ということです。明治時代の文学者たちが日本語の近代化を目指して掲げた“言文一致”とは真逆です。まあ、とても面白い現象だなあ、と書いておきたいと思います。

例えば、先ほどの「夕食を全部食べた」という場合、「10割摂取す」と書く人が結構います。「摂取する」と書こうとして間違えたのではなく、明らかに意図して「摂取す」と書くのです。漢文調の文体というものもありますが、現物を読む限り、看護記録の中でそれを目指す気配はありません。というか、あったら変です。そんなわけで、なぜ看護記録の中で突然擬古文のような表現が出るのか、とても気になることがあります。

=== === ===

ここまで書いてきて、いわゆる「看護記録」について普段から私がイメージしてきたものが、次第に言葉になってきた気がします。そこで、思いつくことを提案として書いておこうと思います。

1.看護記録の意義として、「証拠書類」とか、「公式記録」という考え方があります。敢えて典拠は書きませんが、私は本でも読んだし、ネットでも見た記憶があります。この考えは、私も正しいと思います。しかし、その中身、理解の仕方について、私は異論を持っています。

その異論とは、看護記録が公的なものだからといって、難しく書く必要はない、ということです。嘘がなければいいし、詳しさの程度も勤務時間との兼ね合いだと思います。要するに、普段からあまり読書もしない人が、看護記録で教養を見せようとしなくてもいいのです。

問題は、誰に読ませるかです。これは、当院の理念から考えて、専門職ではなくて患者自身、もしくはその代理になる人だと思います。もちろん看護師以外の専門職の人も読むことはあるでしょうが、少なくとも彼らだけに向けた記録ではないのです。ですから、看護師は専門職だから専門用語を使うべきだ、という人の意見も私は否定はしませんが、それはあくまでボキャブラリーの話であって、グラマーの次元では難しい細工はいらない、と言っておきたいと思います。

2.これまで私は、看護記録の書き方の特徴について、実際の経験をもとに、いろいろと現状の印象を述べてきました。しかし私の印象がどうであれ、内容に関しては、全然意味を取れないことは、まずありません。誤字脱字とか、本当におかしな表現だなあと思う時でも、書き手が何を言いたかったか推測し、好意的に理解しようとします。それは読む側の本能的な反応です。助詞が欠けていようが、現在形に固執していようが、不自然な擬古文調であろうが、書き手にも悪意はないはずだから、読み手もまずは好意的に理解しようとするのが当然です。

しかし、好意的な読み方でも無理な場合が一つだけあります。それは文字を読み取れないときです。文字があまりにも小さいとか、丸文字でグニャグニャとか、あまりに自己流で読めないとき、そういうときだけはお手上げです。私も文字の綺麗さに自信があるわけではありませんが、読まれることを考えて、できるだけ楷書を心がけてはいます。しかし時間に追われて気持ちの余裕がないとき、どうしても文字が爆発してしまうことは、努力してもなくならないのだと思います。

=== === ===

以上の点を踏まえて、私は看護記録の改善に関して二つ提案をします。

1.語彙に関しては専門用語を心がける一方、文法に関しては平易を心がける。このため、小学校高学年から中学校の「国語」をまじめに復習する。看護記録の専門的な勉強は、さしあたって必要ありません。そういうのは現場にいない研究者に任せましょう。現場には現場のやり方があります。義務教育レベルの「国語」でも、意外に多くの人が手こずると思います。ですので、その分だけ効果はあるはずです。

2.看護記録の書き方に関しては、かなり不思議な表現でも、看護実践の中身を想像して積極的に推測すれば、理解不可能なことはほとんどない。しかし、文字を読み取れなかったらダメ。そこで、義務教育で習った「硬筆」「ペン習字」の類をまじめに復習する。看護師としての経験年数の長い人の方が意外に自己流の文字でスラスラ書いてしまう傾向があるように感じます。経験が少ない人は文字について文句を言いにくい面もあるので、その分だけ悪影響が増します。ですから、みんな一緒に「硬筆」を復習することで、きっと看護記録の水準向上にも効果があると考えます。
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posted by 元垂水市住み男看護師 at 19:11| 鹿児島 ☀| Comment(0) | 垂水の現場から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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