慶應義塾大学に誓った2回目の下克上全脳アーキテクチャ若手の会!(7)

大澤正彦 全脳アーキテクチャ若手の会設立者・フェロー、慶應義塾大学大学院理工学研究科後期博士課程

大澤正彦 全脳アーキテクチャ若手の会設立者・フェロー、慶應義塾大学大学院理工学研究科後期博士課程

いろいろな人に支えられながらどん底から這い上がりながらも、全力で楽しんだ3年間の高校生活はあっという間に過ぎ去り、気がつくと私達はそれぞれの進路を真剣に考えなければならない時期を迎えていました。私は今まで通りの技術と向き合う大学生活を想像していました。しかし私が実際に過ごした大学生活は、想像とは真逆といってもいいくらいかけ離れたものになりました。

運命を180度変えた大学不合格

高校3年生の夏、私たちは東京工業大学の先生方とともに3日間の合宿に来ていました。東京工業大学の附属高校だった私の高校は、およそ200人いる同級生の中から10人が選抜され、東京工業大学へ進学できるという制度がありました。進学者10人を決めるための選考が夏の合宿で、私たち附属高校の生徒にとって勝負の3日間でした。

合宿はワークショップや、プレゼンテーション、個人面接が目白押しで、あっという間に時間は過ぎ去りました。合宿を終えた私たちは、後日高校のひと部屋に集められ、担任の先生から合否が書かれた封筒を受け取りました。私が受け取った封筒の中には、不合格を告げる紙が収められていました。

工業系の科目に全力をそそぐ私たちの高校で東京工業大学への進学が叶わなかった生徒は、指定校推薦やAO入試を利用する場合が多いです。運良く成績が良かった私は、指定校推薦で慶應義塾大学に進学することにしました。当時の私には慶應義塾大学に進学する特別な理由があるわけではありませんでした。ただ、自分が行ける中で一番有名で偏差値の高い大学だと思ったからです。当時、進む大学が自分の人生を大きく変えてくれるとは、思ってもみませんでした。

新しい同級生たちとの出会いと、とある違和感

指定校推薦で大学に進学する生徒は、一般受験に望む生徒よりも早く受験勉強から解放されます。私と同じく慶應義塾大学に指定校推薦や内部進学で合格した同級生は意外に多くて、SNSでは「2011年慶應大学新入生の集い!」といったコミュニティがいくつもできていました。同じ大学に進学する友人がいなかった私は積極的に新入生向けのイベントに参加し、イベントで出会った新たな友人たちと親睦を深めました。

違和感を持ち始めたのは、すぐのことでした。工業高校で3年間過ごした私と、普通高校で3年間過ごした友人たちとでは、何もかもが違っていたのです。とくに慶應義塾大学のかっこいいイメージの元に集まった高校生たちは特別だったように思います。高校時代の思い出や、カラオケで歌う曲、指定校推薦が決まるまでの受験勉強の話。友人の話や見せてくれるもの全てが、私にとっては眩しく、羨ましく、そして切なく感じました。

私は工業高校で人と違うことをたくさん学んだ自信がありました。一方で、人と同じことすら学び、経験できていないことをそのとき初めて突きつけられた気がしました。楽しいけれど、なんだか納得がいかない毎日を過ごしてみて、私はある決心したのでした。

高校の卒業式での宣言

楽しかった高校生活の最後の日、卒業式を終えて私たちは最後のホームルームを迎えていました。卒業式は皮肉にも私が3年間入学することをめざし、そしてそれが叶わなかった東京工業大学のキャンパスにて行われました。しかし、そんなことはもうすでに私には関係なくなっていました。それは、慶應義塾大学という最高の新たな場と、そこでなりたい自分の理想像が決まっていたからです。

卒業式では5つの専攻分野に関するそれぞれの首席が選出され表彰されました。その1人が私でした。卒業式を終えて、お世話になった担任の先生と、同級生と同級生の保護者が1つの部屋に集まり、最後のホームルームが行われました。それぞれに卒業証書が手渡された後、私の元にはもう1枚、成績優秀者への表彰状とみんなの前で話す機会が与えられました。

「俺、慶應で首席をとります!」

普通の大学生のトップになる。それが「首席をとる」と言った言葉の真意でした。高校で技術にとことん向き合い、人と違う高校生活を過ごした分、大学の4年間で普通高校の3年分をも取り返すくらい充実した毎日を送る。目標が決まると、自分の周りでおこる全てがこころなしか前向きに感じられるようになりました。

苦悩の1年間

卒業式で

入学してからの1年間は、本当に苦労をしました。まず、私は基礎的な数学ができなかったのです。特に積分には苦労しました。そもそも、積分よりも先にプログラミングを学ぶ私の高校では、積分というのはコンピュータで解くものでした。ですから式を立てるのが人間の仕事で、その先をあまり深く考えたことがありませんでした。ところが慶應義塾大学の授業となると、立てた式は解けて当然。ほとんどの授業の演習の時間は積分に悩まされることになりました。

英語も大変でした。慶應義塾大学の理工学部では、1割の特別英語が得意なクラスと、1割の特別英語が苦手なクラスが入学直後に行われるレベル分けテストで選ばれます。そして残りの8割の学生は通常クラスに分類されます。実は高校時代の私の英語の成績はそれなりに良くて、クラスでもいつも5番以内に入っていました。ですから、さすがに自分も8割には入れるだろうと思っていました。しかしそれは大きな勘違いだったのです。私の英語力はワースト1割に入るほどお粗末なものでした。

何もかもが必死だった毎日でしたが、不思議と自分には余裕がありました。きっとやればできる。そう思っていたからです。それから私は高校3年分の数学の参考書を1から勉強しました。英語に関しては、下のレベルのクラスをとるように指示を受けたにもかかわらず、真ん中のレベルを無理やり履修登録しました。見事真ん中のクラスに潜り込み、「そんな裏技があるとは知らなかった」と友人に驚かれました。どうしても一番下のクラスではダメだったのです。下のクラスではきっと首席が取れないから。

首席の証、金時計

金時計

なんとか苦悩の1年間を終え、2年生以降は得意なコンピューター関係の授業が多くなったことにも助けられて徐々にステップアップしていきました。3年生になるころには、学内の奨学金をもらえる程度にはなり、4年生になると研究室に配属されて熱心に研究に取り組みました。卒業式を1カ月前に控えたころ、自分の所属する研究室の先生からあることが告げられました。

「君、金時計だったよ」

私は、うれしくて仕方がありませんでした。金時計とは、慶應義塾大学を首席で卒業した学生に贈られる記念品であり、首席の通称でもありました。無事に有言実行を果たした私の大学生活でしたが、実はその裏でもう一つ大きな決断をしていました。次回はそのお話をさせていただければと思います。

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