掲載日 : [2007-07-19 10:42:47] 照会数 : 9440
<布帳馬車>通信使のおとし子
朝鮮通信使400周年記念行事は今も各地で続いている。結構な傾向だが、通信使関連記事にはもう食傷気味という読者も少なくないかもしれない。ここでは、通信使の歴史的意義という名分ではなく、一行の日常とはどのようなものだったのか、それがかいま見える説を紹介しよう。
一行がソウルを出発してソウルに帰還するまで通常6カ月かかり、最も長い場合(第11回通信使/1763年8月3日ソウル出発)、11カ月もかかった。江戸滞在は1カ月間なので、残りの期間は道中の日々である。
第11回通信使が往復に11カ月も費やした最大の理由は、復路の大阪で一行の一人が対馬藩の役人に殺されるという「殺人事件」があったからだが、ここではその大阪で、通訳官の一人が一行の世話をしていた日本人下女をはらませたという「別の事件」に注目したい。
なぜかといえば、その下女が産んだ子供は、何と『東海道中膝栗毛』の作者・十返舎一九という説があるからだ。それは李寧煕氏の『もう一人の写楽』という著書に記されている。謎の浮世絵師・東洲斎写楽とは韓国人絵師・金弘道であるというのが書の主題だが、この主題は十返舎一九が通信使のおとし子でないと成り立たない。
主題への賛否は留保するが、一行の滞日中、善隣友好という大義名分の他にも様々なレベルの交流があったことをここでは指摘したい。当然ながら、本当の友好関係とは草の根交流がその基礎になっているからだ。(Y)
(2007.7.18 民団新聞)