解説を少し⑥ | 法友(とも)へ

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解脱を目指す瞑想法はグルヨーガとツァンダリーしかないのだが、現状ではグルヨーガは使えない。


なぜなら、グルヨーガはグルへの依存度が高すぎるからである。


グルヨーガはグルなしには達成できない瞑想法であり、現状の麻原では、まあ、現状がどうなっているのか正確に知ることは出来ないのだが、とりあえず現状の麻原では、グルとしての役目を果たせそうにない。



なので、残る選択肢はツァンダリーだけということになる。


なぜなら、これは自力での達成が可能であるからだ。



だからといって、自力だけでは達成は不可能である。


ダキニの援助が必要になるので、その前提となる基礎的な修行はクリアしておく必要がある。



前提となる条件がクリア出来ていれば、あとはひたすら修行あるのみである。


ひたすら実践することによって、何が起こるのかという事になるが、これは麻原が説法で述べている通りである。


観想しなくても、エネルギーは勝手に回る。


観想しなくても、甘露は勝手に落ちる。


観想しなくても、ダキニは向こうからやって来る。



それらを達成するために必要なのが、ツァンダリーを10万回回すという作業である。


小乗のツァンダリーで三つ、ヒンズーツァンダリーを合わせて四つ。


どれを選んでも構わない。


ツァンダリーはお互いに影響を与え合っている。


一つのツァンダリーの10万回の達成は、他のツァンダリーの10万回の達成と同じ結果をもたらす。



まあ、普通はヒンズーツァンダリーか第二のプロセスのどちらかを行う。


どちらか一方を達成した後で、もう片方の実践をすることで格段に修行が進んだことを実感出来るだろう。


確認できた段階で、残りの二つのうちのどちらかを使ってサマディへ入る。



このふたつのツァンダリーを使うことによって、それぞれに違う二つのサマディに入ることが出来る。


意図的に観想する。


エネルギーが勝手に動き出す。


その動きに任せることで心が動きを止める。


現象をただ、ありにままに観る。



ここで観るとは観察の事ではない。


観察とは意図的な行為であり、そのとき心は動いている。


あくまでもプルシャにおける観照ということなのだが、このときリアルタイムに認識することが出来ない。


なぜなら、認識とは心の持つ作用だからだ。


心の作用が止滅すれば、認識出来ないのは論理的に当然の事ではあるが、まあ、これには慣れるしかない。

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