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メモに値するパドル罰

翻訳
08 /22 2022
A paddling to note
投稿者:Samantha

 これは1980年代半ばに起きた話で、私は8年生の13歳でした。先生の名前は仮名にしてあります。

 私はその当時周りにいたほとんどの子供たちと同様にお尻を叩かれていました。我が家のお仕置きは他の家と比べれば甘いものでした。服を着たまま平手でお尻を叩かれるのがうちのやり方で、それはどんな服装をしていても変わりませんでした。たぶん一度や二度は例外があって、かなり幼い時期に何も身に着けていないタイミングで叱られた時だったと思いますが、要するにそんな程度だということです。

 知り合いの子供達が受けていたお仕置きや、このサイト[訳注:個人の掲示板サイトへの投稿だったのかもしれない]に掲載されている体験談のお仕置きと比較した場合、我が家のお尻叩きなどなきに等しいものでした。お仕置きは非常に軽いもので、泣かされはしましたが翌日まで痛みが続いたことは一度もありません。

 さらには、そのお尻のお仕置きも10歳あるいは11歳の時に止まりました(最後に叩かれたのは11歳の誕生日が来るくらいの時期で、学校でトラブルを起こしたのが原因でした)。

 通っていた学校では体罰が行われていましたが、男子に対して稀に行われる程度で、私たち女子への執行はほとんど聞いたことがありませんでした。規則の上では女子もパドルを受ける可能性はありましたが、8年生に上がるまでの期間を通じても女子でその罰を受けた子は一人として知りませんでした。1人の女の子が数年前に罰を受けたという噂はありましたが、それが真実だったかどうかはわかりません。おそらく毎年1人か2人の男子がパドルで叩かれるに値する振る舞いの結果として罰を受けていましたが、それくらいの数が関の山でした。

 7年生の終わりに、アンダーズ校長先生が退職しました。彼の後任はかなり若い女性でした。わたしの知る限り、彼女は地域で最初の女性の校長先生だったと思います。

 ジャミソン先生はおそらく30歳にもなっていませんでした。ある友達の父親が激怒していたのが鮮やかに記憶に残っています。「[思春期の]ホルモンで溢れた学校を小娘が制御できるとでも?」

 しかし、彼女が御し易く手玉に取ることのできる人物であるという前評判は大いに間違っており、彼女が着任して二週間ほど経った頃、私と友人のキャロラインはそれを思い知ることになりました。

 地理の授業に飽き飽きした13歳の女子生徒達が暇つぶしに何をするかといえばメモ回しと相場が決まっていました。もちろんメモ回しは先生に見つかるリスクを抱えています。そんな時は怒鳴られるか、皆の前でそのメモを読み上げられるか、最悪の場合は決まった文章を少しばかり書かされる罰を受けることになりますが、いずれもたいした話ではありません。

 1人の女子が少しばかり汚い単語をメモの文章に使いました(およそ35年も前のことなので、不本意ながら誰が書いたのか覚えていません)。それは「ケツ[ass]」という単語でした。そこまで酷い単語ではないとしても、当然学校での使用は禁止されていました。とりわけ、地理の先生は「古式ゆかしい敬虔な女性」と表現するのがもっとも適切な人物でしたから、彼女の授業時間にその単語を使うのは完全に御法度でした。

 私たちがメモを回しているのを見つけた先生はそれを読みはじめ、件の単語を見つけると私たちを職員室送りにしました。あーあ、最悪!最後にお尻を叩かれたあの時以来、私は学校でトラブルを一度も起こしていなかったというのに。

 [家で]お尻を叩かれる可能性については特に心配していませんでした(学校で問題を起こしたらお尻を叩かれる決まりが長い間有効だったにもかかわらず)。1週間程度の外出禁止を食らうかもしれない程度に考えていたのです。

 私たちは2枚のメモを携えていかなければなりませんでした。ひとつは自分たちが授業中に回していたもの、もうひとつは呆れ果てた地理の先生が書いた連絡メモです。気の毒な先生!私たちはメモを秘書に渡し、秘書はメモをジャミソン先生に回しました。それから椅子に座りひたすら待ち続け、ようやく校長先生に中に入るよう呼ばれました。

 この時のことを私は細部に至るまで完璧に覚えています。ジャミソン先生は落ち着き払っていました。怒りは片鱗も見せず、しかし温情のかけらもまたありませんでした。冷たい声で例のメモについて質問された私たちは罪を認めました。問題の単語を誰が書いたのか一度も質問されなかったのをはっきりと覚えています。[単語を書いた子と] 私たちの罪の重さは同じだとみなされていたということです。

 それから先生は穏やかに言いました。パドルの措置を取ることをご両親に電話で伝えてそれから作業に取り掛かる、と。先生はこのくだりをあまりにもさりげなく話したので、私はことの重大さを聞き逃しそうになりました。

 キャロラインのほうを向くと恐怖で死にそうな表情を浮かべており、彼女にも先生の言葉が聞こえたとわかりました。ここで大事なことをお伝えしておくと、成長してティーンになってもいまだにお尻を叩かれ続けていることが100%確定しているクラスメイトは2人いて、彼女はその貴重な2人のうちの1人でした。

 先生はまずキャロラインの家、次に私の家に電話をかけました。私たちは身体を強ばらせて座って待っていました。聞こえてくるのは先生の会話だけでしたが、受話器の向こう側から激しい抗議がなされているといった気配は一切感じ取れませんでした。それから秘書が中に入るように呼ばれ、私は再度外に出て待っているように言われました。

 普通に座って待っていた私は、雷が落ちたような音がして飛び上がりました。それからまた音がして、今度は叫び声のようなものが聞こえてきました。3回目の音の後は、はっきりとした叫び声が聞こえました。そして……マジか!4回目の後に聞こえてきたのは金切り声でした。

 その後の数分は際限なく待たされているように感じました。4発目の音がしてから扉が開くまで、ほんとうのところはどれくらいの時間待機していたのか私にはわかりません。おそらくそこまで長い時間ではなかったのでしょうけれど、私にはその時間は無限に続くようでした。キャロラインはそこまで泣いてはいませんでしたが、痛みを感じているのは明らかでした。それから私は中に入るようジェスチャーで指示されました。

 時間を無駄にせず、やはり落ち着いた雰囲気で先生は作業を進めました。私は机に伏せて手を伸ばすように言われました。両脚は少し開く。少しでも痛みを軽くしたいなら動かないこと。先生がパドル板をジーンズのお尻に軽く何回か当てるのを感じ、ショートスカートの類を穿くのを禁止されていて今日だけはほんとうに良かったと思いました。

 そして……なんてこった!襲ってきたのは予想を遥かに超えた痛みでした。痛みは覚悟していたけれどこんなに痛いなんてありえない!2発目は下のほうに当たって左太ももの一部も捉えました。私が回復するのを待ってから先生は3発目を打ち込み、私は泣きはじめました。正直に言うと、お尻をぶたれた幼女みたいに本気で泣いたのです。キャロラインは私よりも我慢強かったのかもしれませんし、あるいは私よりもお尻を叩かれるのに慣れていたのかもしれません。

 私の涙には先生になにがしかの影響を及ぼす力は全くなく、これは誓って言えますがむしろ4発目はそれまでよりも力をこめて打たれました。それから、身体を起こしてお尻ともども教室に戻るように言われました。フォローする一言も、慰めの言葉も、追加のお説教もありませんでした。

 さらに、家に帰ったら大目玉を食らうだろうことを私は心の奥底で悟っていました。学校で不品行を働くことは母の中で最大のルール違反とみなされていたからです。その話はまたの機会にしたいと思います。

***

ダブル・スタンダード 男の子vs女の子

未分類
08 /22 2022
Double Standard - Boys vs. Girls
投稿者:margaret3

 私は一人っ子だったので、仮に自分が男の子だったら両親が違うやり方でお尻を叩いてきたかどうか、確かなことは言えません。それでも、おそらく両親は違うやり方を採用したのではないだろうかと私は疑っています。おそらく父は下着を穿かせたまま叩くのではなく、お尻を出して叩くやり方に変えたことでしょう。下着を穿かせたままというやり方を彼が常に採用していたのは私が女の子だったからなのです。それ以外にはまったく理由が思い当たりません。

 お尻を叩かれた理由から考えてみると、両親はダブル・スタンダードな価値観を持っていたと確信を持って言えます。

 男の子たちは女の子たちに比べて幅広い自由を享受している、そのように私の目には映っていました。私は遊ぶ時も羽目を外さず、ドレスを清潔に保つように求められました。ワンピースに草の染みがついたり泥がはねたりしたら存分に綺麗になるまで手洗いしなければならず、その前にまずは存分にお尻を叩かれるのは決まったことであり、それが免除されるのはドレスの汚れは私のせいではないと存分に両親を納得させる説明ができた時だけでした。もし私が男の子だったなら、もっと乱暴に遊んだり汚れて帰ってきたりしても叱られずに済まされていたことでしょうし、もしかしたら木登りも許可されていたのではないでしょうか。その辺の男の子達はみんな、木登りを許可されていたようでしたから。

 木の上にいるところを母に見つかったら、私はすぐに家に連れていかれてお尻をひっぱたかれました。それで、男の子たちが木登りをしていても、参加したいと望みながらもただ指を咥えて彼らを見上げているしかありませんでした。

 聖書的な理由で母と私は常にドレスかスカートを着用しており、そのせいで男の子が楽しんでいる遊びのうちのいくつかは遠慮せざるを得ませんでした。側転をしたり、雲梯から逆さまにぶら下がったり、逆立ちをしたりといった遊びです。家以外の場所で太ももの上の方まで見せてしまったら、それはレディらしからぬ振舞いであり行儀をしっかり教え込む躾が必要であるとみなされました。

 それよりも御法度だったのは下着を見せてしまうことでした。男の子たちはといえば、彼らはパンツが見えているかどうか気にかける必要はまったくなかったというのにです。

 レディらしく振る舞うという観点でいうと、もし私が男の子だったなら、誰かに殴られたとき「男らしく」振る舞い自ら立ち向かうことを父は望んだでしょう。拳でもって殴ってきた子にやり返すのです。しかし私は、素敵な女の子は殴ることなど決してしないし、誰かが先に手を出してきて攻撃を防ぐ必要がある時でさえ同じように対応するように教え込まれていました。

 私の家では、理由がなんであれ誰かに手を出した少女はお尻を叩かれることになっていました。やり返す代わりに、殴ってきた子のことを走って報告するか、あるいはひたすらに大声を上げて泣いて助けを待つのが望ましいとされていたのです。

 十代の頃を考えてみても、もし私が男の子だったら、金曜日の夜に外出する許可をもらえて、同年代の男の子たちで集まってお酒を飲んで騒げたのではないでしょうか。しかし私は女の子だったので、外が暗くなったら家の敷地から出ることを禁止されており、学校、あるいは付き添い役を用意している教会での活動に参加する際にも特別な許可が必要でした。

 女の子よりもはるかに大きな自由を享受していたにもかかわらず、私の印象としては、男の子は一般的に言って女の子よりもお尻を叩かれる頻度が高いようでした。しかし一般的に言って、女の子よりも男の子が悪さを働く頻度の方が高かったのもまた事実なのです!

***


 子どもの頃に、州外に住む親戚を訪ねた時のことです。近所に住むたくさんの子ども達の集団に混ざって遊ぶことになったのですが、その中に一組の二卵性双生児がいました。男の子と女の子の双子で年は九歳でした。

 二人はあまり仲が良くないようで、何かにつけて些細なことでいがみあっていました。彼らが無意味に喧嘩をしているところに私は何度も居合わせましたが、とある言い争いの時にお互いがどんなことで相手を糾弾していたかというと、それはお尻の叩かれ方の違いでした。彼らはその違いに不公平感を抱き、両親が依怙贔屓している証拠とみなしていたのです。

 男の子は自分がお尻を叩かれる時にいつも物差しが使われることに腹を立てていました。女兄弟のお尻には平手以外は決して使われなかったからです。彼女が女の子だからえこひいきされていると彼は感じていました。

 女の子のほうは、男の子がどんな服を着ていても、服の上からしかお尻を叩かれないことに憤慨していました。彼女はいつもパンツのお尻を叩かれていたからです。彼が男の子だからえこひいきされているのだと彼女は感じていました。

 まったく同じ年齢なのに、なぜ親御さんが娘と息子で違う方法を採用しお尻を叩いていたのか、その理由はわからずじまいでした。確かなのは、そうした取り扱いこそが双子の頻繁ないさかいの原因だったということです。

 数年前にある女性とオンライン上で話をしたのですが、お兄さん達がお尻を叩かれていたのに対して彼女は一度もその経験がなかったそうです。彼女[の罰]は、小さい頃はおもちゃを取り上げられたりベッドに入る時間を繰り上げられたりといったことで、大きくなると外出禁止や追加の家事が宣告されるようになりました。

 お兄さんたちは地下室にある父親の仕事場に行ってお尻を叩かれていて、小さい時はパドル、大きくなったらベルトが使われました。地下室に連れて行かれるとなると、大きくて力も強いお兄さん達が父親にもう一度チャンスをくれるよう涙ながらに懇願を始める姿に彼女は強い印象を抱いたそうです。すぐに床下から、父親の振るうパドルかストラップが打ち付けられる音と痛みに泣き叫ぶお兄さん達の声が聞こえてきたと言います。

 そうした時には、お尻を叩かれないで済むから自分が女の子で本当に良かったと感じたそうです。なぜなら、大きくて力も強いお兄さん達が必死に懇願し激しく泣き叫ぶような状況について、彼女自身がそれに耐えている姿を想像するのはそれだけでおぞましいことだったからです(とはいえお尻を叩かれるとどんな風に感じるのか興味があったそうですが、本当に体験して理解するなんて願い下げでしたから、どんなものか確かめたくて時々自分でお尻を叩いてみたことがあったそうです)。

 子供たち全員が同時に叱られるような時には、お兄さん達がお尻を叩かれた後で外に遊びに出ていても、彼女は家の中に留め置かれてフロアからフロアへと掃除機をかけ、それ以外にも言い渡されたならば追加の家事を全てこなさなければなりませんでした。もしかしたらお兄さん達のほうが軽い罰で済んでいるのではないのか、などと彼女は思案したのではないでしょうか。

 自分は一人娘でいわゆる『パパの可愛いお人形』だったと彼女は言っていました。彼がもし女の子のお尻をひっぱたいても問題ないと考える人物だったとしても、そのお尻が愛娘のものだった場合にひっぱたくことができたかというとかなり疑問だというのです。とはいえ、お尻を叩いてこないのは彼女の母親もそうでした。彼女の父親は、男の子はお尻を叩かれることで打たれ強くなり独立独歩の精神が育まれ、逆境に立ち向かうことができるという信念を持っていました。同時に彼は、女の子はお尻を叩かれると頑固になり繊細さを失うと固く信じていました。女の子はいつか優しさに溢れ子どもを庇護する母親になる存在なのだから細心の注意を払って繊細に育てるべきだ、という信念を持っている人間にとって、女の子のお尻を叩くなんてもってのほかだったのです。

 年長の子供の事例しか知りませんが、逆のダブル・スタンダードを採用していた家族もあるようです。十代の頃に同じ歳の女の子から聞いた話ですが、彼女が父親にお尻をひっぱたかれていたのに対し、弟さんは男の子だからお尻を叩かれるには大きすぎるとみなされていたとのことでした。

男子は災いの元

翻訳
08 /22 2022
Boy trouble
投稿者:Caroline

 弟と私は1970年代に、イングランドの小さな村で育ちました。両親は二人とも非常に古風な価値観の持ち主で、私たち子供に対しても並外れて厳格でした。ただ、躾の実行をほぼ一手に担っていたのは母親でした。

 私たちはとても保守的な、というよりもおそらく保守的に過ぎる環境で育ちました。我が家では性的な話題はタブーで、異性との友達付き合いも厳しく禁じられていました。12歳か13歳の頃、私は自然と男の子に興味を抱くようになっていましたが、凄まじく純粋無垢なままでした。

 その時は気づいていませんでしたが、両親は私が男子たちの興味を惹かないように意図して動いており、そのために私は挑発的でないという点以外にとりえのない服をあてがわれていました。他の女子達がジーンズや流行のシューズを穿いていたのに対して、私が身に着けていたのはシンプルなスカートといった類の服だけでした。

 ここで私に災いが降りかかります。上記のような対策が施されていたというのに、同じクラスのリチャードという男の子が私に惚れ込み住所を突き止めて、ラブレターを書いて送ってきたのです。当然その私宛ての手紙は先に両親が開封して読んでしまい、その内容に二人は激怒しました。

 その手紙は破棄されてしまったので、実際に何が書かれていたのかはわからずじまいでしたが、二度と手紙を送ったり連絡を取ったりして来ないで欲しいとリチャードにはっきりと告げるように、明確な指示が出されてしまいました。実際のところ両親はこの件を本当に深刻な問題として捉えていたようで、後で知ったところでは私を別のクラスに変えるべく学校に掛け合うところまでいっていたようです。

 次の日私はリチャードに話をして今の自分の状況を伝え、二度とちょっかいを出さないと約束してもらいました。ここでまたもや私に災いが降りかかります。彼は友達の一人にその話をして、その友達はとても面白がって自ら私に手紙を書くことに決めたのです。その結果として、数日後に二通目の手紙が我が家に届くことになりました。

 学校から帰宅すると、凄まじく怒っている母が待ち構えていました。私をその場に立たせたまま、一生終わらないのではないかという勢いで母はわめき散らし続けました。私は信じられないほど不従順であり進んで男子を誘惑したというのが母の弁でした。

 さらにその日はタイミング悪く、ちょうど母の友人一人が我が家に立ち寄っていて、険しい顔で座る彼女が折に触れて所見をさし挟んできたために、母の怒りはその燃料を受けて更に燃え上がることになりました。無実を訴える私の試みは大声でねじ伏せられ、母の興奮状態が一段落するまでにしばしの時間がかかりました。

 「言うことは聞かない、なんでも自分の思い通りにならなきゃ気が済まない、あんたみたいな態度が許されると思ったら大間違いだから見てなさい」

 文字通り言葉を吐き捨てるように言われたのが今でも記憶に残っています。母は勿体ぶってキッチンに消え、少しすると長くてよくしなるケインを手に戻ってきました。

 今までもこの道具の使用については何度も脅されてはいましたが、脅しは効果てきめんで、それゆえその脅しは実行されずに済んでいました。母が威嚇するようにケインを曲げてしならせる様子を見て感じた底知れぬ恐怖は忘れられません。

 「身体を前に倒す!」

 有無を言わさぬ調子で指示が飛び、私はすぐさまそれに従いました。少しでもためらいを見せれば事態はさらに悪い方向に進むだろうと感じて恐怖でした。

 母が近づいてきた気配を感じたかと思うとスカートの裾がウエストの上まで捲り上げられ、ショーツのウエストゴムの中に母の指が入り込んできてショーツが下ろされました。すでに私は涙を流していました。これからケインで打たれる恐怖もさることながら、男兄弟と母の友人が見ている前で丸出しのお尻で罰を耐え忍ばなければならないなんて。

 「6発を与えます」と罰の中身が宣告されました。

 「指示があるまでは身体を起こそうなんて思わないこと。そうなったら最初からやり直しですよ」

 私は歯を噛み締め身体を固くして最初の一発に備えましたが、与えられた鞭の感触は真っ赤に焼けた火かき棒が触れたようで、室内で誰かが銃で撃たれたみたいな音を伴いました。

 私はあらん限りの金切り声を上げました。身を守るために立ち上がるという自然な反応をどうにかこうにか抑えつけるだけで精一杯でした。

 母は一発と一発の間にたっぷり時間を取り、その時間を耳を傾ける余裕など残っていない私の状態にも構わずお説教を細切れに与えるのに使いました。私は6発すべてを受け切らなくてはならず、その全てが最初の1発と同じくらい辛いもので、しまいには涙の量が多すぎてほとんど何も見えなくなってしまいました。

 「よろしい。身体を起こして、パンツを上げなさい」と指示が飛んできました。今回の受難が終わる、少なくともそのシグナルとして捉えられる台詞です。そのように私が思いたがっていただけかもわかりませんが。
 
 「今度もし悪いことをしたらケインを使います。わかりましたね」私と兄弟に釘を刺し、母はケインをキッチンに戻しました。

 ケイン罰はこれで終わりでしたが、仕置き自体はまだまだ終わりませんでした。午後をしっかり反省の時間とするために、私はお転婆な5歳児みたいに部屋の隅に立たされて両手を頭の上に置いて壁を見つめ、父が仕事から帰ってくるまで待たされました。

 言外とはいえあからさまに伝えられていたのは、父が必要とみなしたらもう一度「お尻の罰」(母がいかにも愉快といった感じでその言葉を口にしていました)を受けることになるという警告でした。ケインを受けたお尻がいまだに燃え上がるように痛む中でその可能性を恐れるのは至極当然で、待機の時間は非常に長く感じられ、不安に苛まれました。

 家に着いた父に、母は不従順と断罪された私の行為を手に取るように描写し、それに対して取られた処置を伝えました。両親が意見を交わしている間、私は隅で恐怖に震えていました。ありがたいことに処置は十分であるとの決定はなされたものの、次の学期の中休み [訳注:イギリスでは春、冬、夏の休みに加えて学期中に一週間の休みがある] の間は外出禁止となりました。

汚れのついた子ども達

翻訳
08 /22 2022
Dirty children
投稿者: Margo

 1970年代に私は生まれ育ちました。両親はいつも兄弟姉妹たちのお尻を目を見張るような勢いでひっぱたいていたものですが、私だけは常にその対象外でした。ほとんどの場合、私は天使のように完璧な子供だったからです。

 しかし私が12歳の時、ある長いドライブ旅行の後の出来事については例外です(子どもが10歳を過ぎてからはお尻を叩かないというのが両親の方針でした)。私はトイレの近い子供でした。家に着いてみると、私たちとは別行動を取っていた当時17歳の姉がシャワーを浴び始めたばかりだとわかりました。夜の11時近い時間だったので母はベッドに入るように言ってきて、行くべきだったトイレに行けずじまいとなってしまいました。膀胱が満タンの状態を誤魔化して私は眠りにつきました。

 朝に目を覚ますと、身体の周り一面が濡れているのに気付きました。情けない思いで、私はシーツを取り上げ洗濯室に置きました。不運なことに、その日は母が洗濯をする日でした。その日は土曜日で、母がおしっこで汚れたシーツを持って部屋にやってきた時、私は宿題を終えたところでした。

 「これは何」と母が問いかけてきました。

 言い訳しようとした私の口から咄嗟に出てきたのは嘘でした。

 「わかんない」

 「嘘をつくんじゃありません」低くうなるように母が言いました。

 それで私は全てを打ち明けました。おねしょと縁がないような子だったらこれで済まされたのかもわかりませんが、二年前の私はまだおねしょを繰り返していて、おねしょ癖が治るまでオシメをつけさせると母に脅されていたものでした。それで、母は私のおねしょが再発したとみなして腹を立てていました。その日の母は弟二人の世話に手を焼いていたこともあって、彼女は怒鳴り始めました。

 「まったく情けないったら。ここで待ってなさい」

 これから何が起こるのかは予測できませんでしたが、お尻を叩かれる可能性については考えもしませんでした。
 
 母は弟達を抱き抱えるようにして戻ってきて、全員が彼女の部屋に連れて行かれました。我が家のお尻叩きはいつもこの部屋でなされると決まっていました。それでもなお、私はそろそろ13歳になる自分がお尻を叩かれるとは思っていませんでした。

 10分間私たちにお説教した後で、母は椅子を引き出して部屋の真ん中に置きました。母はすでに大泣きしている末弟のミッチに手招きしました。母は彼のズボンを引き下げるとお尻を1回叩きました。それから下着を脱がせた母は、その下着に汚れがついているのを発見しました。ミッチは6歳でした。母は彼を叱り、きちんと汚れを拭いてくるように言いました。

 驚いたことに、もう一人の弟で9歳のジョーがズボンを引き下げると、彼の下着にも汚れがついていることがわかりました。私は兄弟たちを恥ずかしく思いました。ジョーもお尻をきれいに拭いてくるように指示されて、しばらく経って二人は戻ってきました。

 母はミッチを膝の上に乗せると仕事に取り掛かりました。

 「あなたには<パァン!>がっかり<パァン!>しましたよ!もう<パァン!>赤ちゃんでも<パァン!>ないんだから<パァン!>ちゃんと<パァン!>拭きなさい!」

 大泣きのミッチは手を止めてくれるように懇願し、逃げ出そうと試みさえしていましたが、ひっぱたかれる勢いが増すばかりでした。私はミッチの回数を数えました。50発でした。罰を終えた母は、お尻に触れないようにはっきりと指示を与え、裸のお尻のままのミッチを部屋の角に送り出しました。

 次はジョーの番で、彼の泣き方はミッチよりもひどいものでした。罰は同じで、彼も50発を受けた後で先程のように部屋の角に送られました。

 私はただベッドに座って自らの罰を待機していました。いまだに罰でお尻を叩かれるとは思っていなかったのです。

 「ちょっと、何してるの」
 
 「どういう意味」

 母はその返事を生意気と捉えたようでした。

 「お立ちなさい、次はあなたの番なんですからね」

 耳を疑いました。まさかお尻を叩かれるだなんて。

 「ママ、私もう12歳だよ!お尻ペンペンは10歳で終わりでしょ?!」

 「赤ちゃんみたいに寝小便する子は赤ちゃんみたいにお仕置きを受けるんですよ」

 私はズボンも下着も下ろして母の膝に横たわりました。屈辱感で死ぬかと思いました。最初の1発が着地するかどうかというタイミングで姉妹のジェンが部屋に入ってきましたが、私の姿を一目見るなり踵を返して走り去っていきました。

 母は1発目をお尻の下寄り、真ん中の位置に着地させました。全部で60発が私の罰でしたが、10発目で泣き叫んでしまいました。お仕置きが済むと、熱痛を抱えた痣つきのお尻で部屋の隅に立たされました。全員がそのまま10分間立たされました。

 遺憾なことに、母がその場からいなくなると立たされている全員の間でお仕置きがどんなに痛かったかおしゃべりが始まりました。母は部屋に戻ってきて、おしゃべりの罰として2回目のペンペンをするからひとりずつ膝に来るようにと言いました。私たちは母の膝に乗る前から泣き出しました。追加の数は皆同じ20発でした。それから母はオシメを3つ取り出しました。

 オシメがミッチに装着され、屈辱で泣いている彼のオシメのお尻に5発が追加されました。次のジョーは抗議したために10発が追加され、それからオシメがあてがわれました。最後は私の番で、ビッグサイズの<ディペンド>ブランドのオシメが装着されました。痛くて赤いお尻にオシメをつけられると、幼児に戻ったみたいな気分になりました。私は弟達と一緒に部屋の隅で30分間立たされて、それから子供部屋に戻ることを許されました。

 不幸はさらに重なります。私たちはその日遅くに帰宅した父に、母の手を煩わせたという理由でお尻を叩かれたのです。

 寝る時間になるとやってきた母にオシメを外されましたが、新しいオシメに取り替えられただけだったので私はうろたえました。母にキスしてもらった後、私たちは全員眠りにつきました。私は抗議することなく、観念して屈辱を受け入れました。続く二日間もオシメをつけてベッドに入りました。

 今回のおねしょは事故のような状況で起きたものとはいえ、それからは一度も失敗しませんでした。初めて本格的にお尻を叩かれたこの経験を、私は決して忘れないと思います。母はいまだにこの出来事を笑い話として持ち出します。母は愛情たっぷりに私たちを育ててくれたのは間違いなく、このお仕置きで母が嫌いになるなんてことは決してありませんでした。罰は当然の報いだと納得していましたから、そうした逆恨みはありえないことでした。

ポニーに乗って、調子に乗って

翻訳
08 /22 2022
A Pony Worth A Paddling
投稿者:Gaetena

読者への注意

覚えておられる方もいることと思いますが、この回想の舞台となっている線路は以前書いた話(『道を踏み外した罰』を参照)にも登場します。
子どもがお尻を叩かれる描写に気分を害される方へ。私が小さかった頃には、悪さをしたり道を踏み外した子どものお尻を叩くのは珍しくもなければ残酷な行為ともみなされていなかったことを記しておきます。

***


 メアリー・アントネッリはポニーを飼っていた。狩猟のできるような田舎で緑の丘がうねるような土地に住んでいるのであれば、10歳の女の子がポニーを飼っていてもそう珍しいことではない。けれど、メアリーの住んでいるところは違った。メアリーが住んでいたのはアメリカ南西部の小さな町の郊外の端っこ、古ぼけたバンガローが立ち並ぶ住宅街区だったから、それは本当に特筆すべきことだった。近隣街区を二等分するように貨物列車専用の短い単線軌道が敷かれており、厄介扱いされているその線路は子どもたちにとっては魅力的な場所だった。刈られないで生い茂る草っぱらにチコリーとタンポポの花が咲き誇るささやかな野生の空間だ。

 私たちはよくこの場所を中心地にして遊んだ。昔の西部をはじめとして、想像力が次から次へと生み出す空想の舞台になぞらえるのに適していたからだ。親達はこの野生空間への子ども達の立入りを禁止していた。参加者が家に引きずり戻されしこたま小枝のムチを受けるかパドルで引っ叩かれて、それでその日の遊びが終わりになることは多々あったけれど、子ども達は懲りずに再訪を繰り返した。

 この幅の狭い緑地帯の杭にメアリーのポニーは長い縄で繋がれていて、雑草を食み肥え太り、何より性悪に育っていた。茶色と白のまだら模様のポニーは用心深く人を信用していなかったから、裏庭で飼うペットには適しておらず手に余る存在だった。このポニーは乾物屋をやっていたメアリーの父親が品物の代金として手に入れたもので、関心の的とはなっていたものの歓迎されているとは言い難かった。どんな風にこのポニーを扱ってよいものか、誰も(とりわけメアリー自身が)わかっていなかった。

 『ビリーとブレイズ』[訳注1]や『シンコティーグ島の霧もや』[訳注2]を読みふけり、ロイ・ロジャーズ[訳注3]に耽溺していた私は気難しい動物を飼い慣らすことに憧れていた。皆はその成功を見て驚きたまげ、私を称賛するのである。

 貨物線を近道として使ったり遊び場にしているのがばれてムチのお世話になったことは数え切れないほどあったけれど、私にとってそんなことは全く問題ではなかった。さらに、メアリーと私にはほとんど共通点がなく、性別と年齢ぐらいしか似通っているところはなくて、これまで学校の内外問わず一緒に遊ぶ間柄だったことは一度もなかったけれど、やはりそんなことは全く問題ではなかった。私は内心、メアリーは底が浅く想像力の欠如したつまらない人間であるとみなしていた。そして私の記憶が確かならば、本当に彼女はそういう人間だったのだ(とはいえ、今話しているエピソードの帰結が記憶になんらかの偏りをもたらしているのは確かである)。だけど、こんなに興奮を誘うチャンスを逃すわけにはいかない。私はメアリーの機嫌を取り、彼女をはじめとして関心を持った遊び仲間たちなら誰にでも、ポニーの乗り方を教えると寛大に申し出た。もっとも、このポニーは公平世界仮説[訳注4]に従うのなら私のものになっていたはずなのだが!

 春が来て日が伸びると貨物線沿いの草地を人目を忍びつつ訪れる余裕が生まれた。ポニーはそこで草を食んでいるのである。ご馳走のクローバーを集めながら、私は友人達と幼い子供達に、手の平を広げて観察しツタウルシのような毒のある雑草を選り分けるよう厳かに指示を与えていた。不安そうな様子を見せる子もいたが、それも当然だった。ポニーはやわな存在ではなく、大きくて平らな黄色い歯でもって、おずおずと差し出される小さな手に噛みつかんばかりのやんちゃなそぶりを見せていたからだ。鋭い蹄は素の状態でも、尻尾の後ろ側に回り込んでしまった子どもを(意図がなくても)突き飛ばしかねなかった。

 茶色のたてがみの生えている頭がハエを追い払おうと素早く動けば、それにぶつかった十歳の身体など宙に飛んでいってしまうだろう。私は傲慢さと机上の理論を拠り所として、そう遠くないうちに鞍なしの背中にまたがりポニーを豪快に乗り回せる時が来ると請け合った。その時の私の心情を思い返してみても、良からぬ事態が起こるとはつゆほどにも思っていなかったことは確かである。

 私と遊び仲間たちは、大人に押し付けられたルールに基づく秩序を押しのけようとする段階まで成長を遂げたばかりだった。その試みは大抵の場合しっかりと押し返されてはいたのだが。当時私は平均的に週一でお尻を叩かれていたが、そのほとんどはおざなりに与えられるものだった。大声で抗議する私への返答として、立ったままか膝の上に乗せられてパンツのお尻に平手できつい五、六発を食らうと、痛みよりも羞恥の感情が勝った。罰で一番嫌だったのは、罰の最中に友達に聞き耳を立てられているとか、罰を受け終わった時に顔を赤くしたまま傷んだお尻を抱えて外に出されるような時だった。

 反抗心から重大なルール違反を犯したり、明らかに危険な行為をしでかしたりしたら、親たち皆が呼び習わすところの『良き躾鞭』が用意されていた。『良き』だなんて矛盾話法そのものなのだが、子供の私はそんな単語を知るよしもない。容赦ないヘアブラシの一撃が繰り出されるたびに剥き出しのお尻の肉は揺れ跳ね、そうして私の振る舞いは一時的には改善された。ただしその最低保証期間は椅子に座ってもなんの不都合も感じなくなったら切れてしまうのだが。私たち子どもの記憶が持続する時間といったら恐ろしく短く、メアリーのポニーは即席の記憶喪失症を私たちに引き起こしていた。

 学校が夏休み期間に入ると、ポニーに関する例の約束を実現する時間をたっぷり取ることができるようになった。長期休みとなったら現代っ子に押し寄せる隙なく計画された諸活動は影も形もなかった時代だから、日の長い夏は想像力を生かしたごっこ遊びや苦心して練り上げた遊びの計画を実行するのにうってつけだった。私は毎日、くつわも手綱も鞍もなしに、丸々太った強情な動物に登って降りることができる方法を探し、試し続けた。大抵の試みは、ポニーが発作的に前足を高く上げて立ち上がり背中から厄介なものを振り落とすという結果に終わった。助走をつけて臀部に飛び乗り背中に落ち着くというのが一番興奮する方法だった。日に日にポニーに乗りたい子どもたちの数は増えていき、その中にはメアリー自身も混じっていて、彼らは貨物線のそばをうろつきながら目を丸くして私を見守っていた。

 ついに私は近所の子どもたちをポニーに乗せてあげられると確信するに至った。手始めに、まずは小さい子たちから。(友達のジーンとウォルターの手を借りて)子どもたちを一人ずつポニーの背中に乗せ、ナイロン製のひもで作った手綱で導きつつ線路に沿って行ったり来たりを繰り返してみる。ポニーは幼児一人分の体重を気にしている様子はほとんどなく、一人乗って降りるたびにクローバーのオヤツをご褒美にあげた。幼い子どもたちが一通り乗り終えたら、今度は興奮で顔を輝かせているメアリーの番だ。私と同じ年齢のメアリーを持ち上げることはできず、例の跳び箱式の乗り方を試してみることになった。

 次に起きた出来事は今でもスローモーション映像で目に浮かぶ。メアリーは長い助走の後でテコの支点よろしくポニーの臀部に勢い良く手を押し付けて飛び乗ったのだが、距離感を見誤った彼女は想定よりはるかに前寄り、ポニーの肩のところに着地した。ポニーは頭を下げて前脚を地面にめり込ませ、後ろ脚を蹴り上げながら右に左に飛び跳ねた。メアリーの驚いた顔といったら!身体は10フィート[約3m]ほど前方まで吹っ飛び、両腕両脚は捩じ曲がり彼女は顔面からもろに地面に突っ込んだ。完全な沈黙が辺りを包み、苛つきの原因を始末したポニーはまた穏やかに草を食みはじめた。メアリーは身体を起こして座りこむと遠吠えみたいな悲鳴をあげ始め、皆が恐怖に囚われ彼女を見つめた。

 両手両膝に加えて両肘にも擦り傷をつくり泥汚れにまみれたメアリーは、それに加えてギネス級の鼻血にも見舞われていた。彼女は急いで立ち上がり自分の家の裏口へと駆けていった。

 「ママっ!」メアリーは金切り声をあげた。「ジーナのせいで私ポニーから落ちた!ぜんぶあの子の、あの子のせい!」

 どうもメアリーは私が考えているより間抜けではなかったようである。先行きに不安を感じて子どもたちは各自の家へと散開を始めており、私もその脱出の流れに加わる算段を考え始めていた。その瞬間、メアリーの手を引くアントネッリさんが裏口に現れて言った。

 「ジーナちゃんはそこで待ってなさい。ジーナちゃんのパパを呼んだからね。この件で責任を取るのは誰なのかはっきりさせないといけないからね?」

 私は息を呑んだ。

 メアリーは急ごしらえの氷嚢を鼻に当て、大袈裟に鼻を鳴らしていた。そこまでひどく怪我をしていないのではないかと私は疑った。そういう体(てい)で演技すればことの次第は彼女に有利に働くばかりなのだから。

 「アントネッリさん…」と口を開いたが、「ジーナちゃん。話は後、後!」と取り付く島なく制されてしまう。

 「あのポニーに子どもたちを乗せるなんて、もっと分別を働かせておくべきだったんじゃないの?この子にはね、馬に乗る訓練をしてからじゃないと乗ってはダメだって警告していたんだ。訓練といえば、ジーナちゃん専用の訓練が用意されてる気配を感じるな。メアリーの訓練はご覧の通りもう済んだわけだしね!」

 私には、父が仕事から帰宅してまもない頃合いで、バス通勤のせいで疲れて暑い思いをしていることがわかっていた。アントネッリさんに糾弾されたら、父の機嫌はそれは上々になるだろう。私はたじろぎながら、心の中で父親二人が交わしたであろう会話を思い描いていた。

 「すぐ行くよフレッド。あいつの計画なんだったらそりゃ俺の膝の上に直行だよ。尻をしこたまぶってやれば考えなしに行動することもなくなると思うね!」

 午後の遅い時間の日差しが、立って待っている私たちの長い影をつくった。メアリーをぎろりと睨みつけると、彼女も氷嚢越しに睨み返してきた。彼女はにやりと笑ったように見えたけれど、はっきり判別するのは難しかった。父の到着まで五分もかからなかった。普段の父は冷静で理不尽に罰を与えるような人では決してなかったけれど、その日は面目を潰されて怒っていたのだと思っている。彼はポニー、鼻血を垂らしたメアリー、アントネッリさん、そして私に視線を向けた。有罪に相応しいのは私一人だった。

 「やあフレッド。メアリーちゃんは大丈夫?」父が尋ねた。

 「うん、娘は運が良かったよ。痛みはひどかっただろうがね。あの動物は人を乗せないんだ。もうセンターヴィルの農場に売却済みだったんだけどね」

 堰を切ったように私は抗議を始めた。

 「そんな!アントネッリさん、私は乗る『方法』を知って……」

 父が私の手首をしっかりと掴んだ。

 「それくらいにしておきなさい」と父。「帰ったらパパとお話だ。パンツを下ろして身体を前に倒す。『方法』はいつも通りだ。今はその『方法』のことだけ考えてなさい」

 羞恥で顔がかっと熱くなった。

 尻を叩かれるのは覚悟していたが、メアリーと彼女の両親にその事実が喧伝されたのは屈辱だった。

 家に戻る道すがら、私はずっと黙りこくり、泣いて鼻を鳴らしていた。父は言葉少なだったが、繰り返し頭を振り質問してきた。

 「いったい何人乗せたんだ?」

 「ろ……六人」そう私は答えた。「も、もしかしたら……七人かも」

 「誰かが病院送りになってもおかしくなかったんだ、幸運だったとしか言いようがない!何も考えなかったのか?全然?」

 そう問われてしまうと、何も答えられなかった。帰宅すると父は私の手首をぎっちり掴んでいた手を離し、私を引きずるようにして寄り道なしにキッチンへ直行した。

 「ドリス」父が母を呼んだ。

 「ヘアブラシを持ってきてくれないか?あなたの娘さんは今回とんでもないことをやらかしてね、アントネッリさんのところの娘さんに怪我をさせたんだ。もう懲り懲りってところまで、しこたまお尻を叩いてやるつもりだよ!」

 『しこたま叩く』用途専用の大振りの木製ヘアブラシを手に母がキッチンに入ってくるまでに、私は父の膝にうつ伏せにされてめそめそと泣いていた。年の割に立派に発育した女子として、尻を裸に剥かれパンツは下げられ丸まり、なすすべなく膝の上に乗せられているという状況に、まだ叩かれてもいないのに涙がこぼれてくる。
 
 母がヘアブラシを父に手渡し、私は目を引き絞るように瞑った。

 「ママ、私のせいじゃないのに!」思い切って訴えてみる。「怪我させたなんて嘘だもん!メアリーが失敗しただけなのに、お願い、痛いの嫌だっ!」

 母も父と同じように頭を左右に振り、やれやれとばかりに微笑んで腕を組んだ。

 生尻にぴたりとつけられたヘアブラシは、おかしなことに冷たく心地良く感じた。次に来る感触を予期して身体をよじる私。

 「なんで叩かれるかわかってるかい?<バシッ!> 言いつけを守らなかったからだ!」

 <バシッ!>

 「それだけじゃない!<バシィ!!> 危ない目に遭わせたからだ!友達も! <バシィッ!!> 自分も!」

 <バヂーン!!>

 「あぎゃああ痛いぃーっ!ゔうーっ、パ、パパぁやめて、あうう、ほんとに痛い!!」

 これは疑いようのない事実だった。一発ひっぱたかれるたびにますます強まる尻を炙る炎の勢いといったら!

 「パパいだずぎる!!わあ゛ああああっ!」

 <バチッバチッバチッバチッバチッ!!>

 息つく暇もない打擲に次ぐ打擲の嵐に私は泣き喚くしかなくなり、ヘアブラシの灼熱の弾幕から死に物狂いで逃れようと試みたのは今でも覚えている。そうして姿勢を動かしたばかりにむき出しの太ももへとヘアブラシがお見舞いされ、それから膝の上、元の定位置まで身体を無造作に引っ張り戻された。いまや尻は先ほどよりも高く浮き上がり、両手は床に届く形となって、パンツの絡まった両脚が空中をさまよった。

 「あ゛あ、あ、もう無理です!!パパ、おねがいします、ごれからは、ぜ、ぜっったいに、わるいことしませんから!」

 「その台詞、前も聞いたなあ!」

 父は含み笑いをしたような気配を見せ、それからヘアブラシを振りかぶった。彼が満足するまで烈火のごとくふるわれたヘアブラシの数は40発から50発、私は火が付いた尻でもって忘れようとて忘れえぬ感覚を味わった。震える両脚で立たされる。私はその場をぐるぐると回るように勢いよく踊り跳ね、泣きじゃくって息も絶え絶え、炎に包まれている尻っぺたの左右に左と右の手それぞれを沿わせ慟哭した。

 「ううううう、ゔうーーっ、あ゛ううーーっ!」

 こんなにも呻いた記憶はそうそうあるものではない。

 自室まで連れて行かれる間も父のお説教は続き、必死で良い子になりますと私は何度も約束を重ねた。これからの姿勢を問われたらそう答えるしかないではないか。

 「教訓ってやつはちゃんと伝わったかい?それとももう一度こうやってお尻を叩かれないとわからない?座ってよくよく考えなさい!」

 部屋の中にいるよう命じて父は扉を閉めて出ていった。焼けつくような尻の熱痛はあまりにも激しく座るなどという選択肢を取れるはずもなく、身体を動かさずじっとしているのも不可能だった。懲らしめられた尻がどうなっているか気が気ではなく、背中越しに鏡で確認してみた。そこに鎮座するは白熱光でも放っているかのような真っ赤な二つの球体。外で光り輝く太陽に勝るとも劣らないその眩しさはヘアブラシが徹底的に振るわれた証だった。

 私は一週間の外出禁止を食らったが、それも悪くはなかった。父がアントネッリさんに呼び出されたこと、父が私を家に連れ帰って尻を叩いたこと、尻叩きがあまりにも厳しくて私の叫び声が住宅のある区画全体に響き渡ったこと。これら経緯はすべて噂の秘密経路を通じて近所の子ども達全員に伝わっていたからだ。窓から見えたんだ、と勿体つけてウォルターが情報提供でもしたのだろう。窓から見えてしまうのは確かにそうだし、ジーナのやつパンツ下ろされてヘアブラシでやられてた、のもまた事実であった。私は確かに罰に値することをしたのかもしれない。けれど、それからメアリーと口を利くことは二度となかった。彼女がポニーを飼っていようがいまいが、そんなことはもはやどうでも良かった。


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訳注1:
「ビリーとブレイズ」は1936年に出版された子供向け物語。少年ビリーとポニーのブレイズの交流と冒険を描く。
訳注2:
「シンコティーグ島の霧もや」は1947年に出版された子供向け物語。ヴァージニア州シンコティーグ島を舞台に二人の子供とポニーの関係を描く。
訳注3:
ロイ・ロジャーズはアメリカ合衆国の俳優、歌手であり西部劇のスター。おもに1950年代に活躍。
訳注4:
公平世界仮説は、「良い行いには良い結果が、悪い行いには悪い結果がもたらされる」という法にしたがい世界が構築されていると考えるものの見方。


原文リンク
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双子の目の前で

翻訳
08 /22 2022
Public and Painful - The Twins
投稿者:Gaetena


 いままで誰にも共有したことのない実話をためらいながらも以下に投稿します。その時感じた痛みと恥ずかしさは今なお忘れることができません。とはいえ、長い年月を経てもなお、この出来事を思い出すと私は身体にいやらしい疼きを覚えるのです!

***


 ディックとレイは二卵性双生児で、通りの向かい側の大きな木造の田舎家に住んでいた。小学二年生から高校を卒業するまでの間私たちは同じ学校に通っていて、双子は一つ年が上だったけれど、私は同じクラスの他の女の子達よりも早く思春期を迎えたこともあり、彼らは七年生[中学一年生]の頃には何かにつけて私と絡みたがるようになっていた。暑い夏の間は(近所でエアコンを備えた家はなかった)、レンガ作りの古ぼけたタウンハウスである我が家の涼しくて清潔な地下室でよく遊んだものだ。地下室のコンクリート壁は父によって白く塗られていて、年季の入った備え付けの立派なバーがあり、私たちは想像力を働かせてその空間を宇宙船やマッドサイエンティストの実験室といったごっこ遊びの筋立てに最適な舞台装置に見立てていた。しかしその年の夏は、私たちの想像力にもごっこ遊びにも変化が生じていた。ごっこ遊びはいまだに土曜の午後に鑑賞した映画や続き物のドラマの子供じみた再演から開始されていたとはいえ、その筋書きは途中で急展開を見せ、科学的ではないが確かに教育的ではあるセックスの真似事やさまざまな実践へと突入していくものとなっていたのである。

 ある土曜日の夕方に差し掛かる時刻のこと、双子は二人きりで家にやってきた。いつも一緒に遊ぶ近所の子ども達は一緒にいなかった。デイックとレイは代わりばんこに『フレンチキス』の練習を私で始めてきて、ぎこちない愛撫の真似事がそれに加わった。私はというと、メスの魅力を放つみずみずしい尻と胸への愛撫に身を任せてみたら、まだ未熟な青年の身体に変化が生じるのが面白く、興奮しながら見識を深めていた。好奇心たっぷりにしきりに求めてくる手が意のままに動くのを許してあげると、滑り込んできた手はTシャツをずり上げローライズジーンズの後ろから下の方へと探りを入れてきて、張り出した腰の極点、あたたかくて感じやすい襞に到達しようと奮闘し、そんな時に男の子たちの変化はいっそう顕著になる。夕暮れのひんやりとした地下室が世界の全てになった。ひたむきに求めてくる二つの唇と新天地を求める熱っぽい四本の手が私の身体を練習台に人生で役立つスキルを身につけている一方、私が直面していたのは制御下におきたくてもできない今まで味わったことのない感情だった。

 記憶によれば、後ろのロイは背中から腕を回してTシャツの下にある私の小さな裸の乳房を両の手にひとつずつおさめながら子どものものとはかけ離れた硬いものをお尻に押し付け、立っているディックのほうは高い位置から口の奥深くに舌を突き入れフレンチキスの初体験を私から奪っていた。そして──階段の一番上にある地下室の扉が開き、降りてきたのは父であった。

 父は四段目まで降りてきて、眼前の光景に立ち止まった。ショックを受け絶望的な恐怖に身震いした感覚は今も忘れられない。初めて感じていた本物の性的な昂りは突然暴力的に断ち切られてしまったのだ。面白すぎることに、双子は背筋を伸ばして全ては普段通りであり何も悪いことはしていないかのように装った。当時の自分が彼らのそんな態度を面白いと思ったかどうかは覚えていないけれど、確かなのは父が面白いと思わなかったことである。

 「一体全体なにしてる?」

 父の質問には、当然誰も返事をしなかった。仕方なくいつも使っているパパ操作マニュアルに載っているスキルをかき集めてなんとかしようと試みる。

 「別に、何もしてないよパパ……遊んでただけだし……」

 荒々しく怒りに満ちた父の言葉が返ってきた。「そうかい!パパが何も見てないとでも?そういう遊びをした子がどういう目に遭うのか教えてやらないといけないな」

 父は残りの段を降り始め、私のおなかはきゅっと縮んだ。父の声の調子から何が起こるか予想できたからだ。こんな風な声の調子を聞く機会はなかなかなく、最悪の代償を払うものと相場は決まっていた。双子は顔を赤くしてその場で片方ずつ足を上げたり下げたりを繰り返していて、突然邪魔が入ってムードが台無しになったにも関わらず、二人のジーンズには立派な膨らみがそのまま残っていた。

 父は言葉を重ねて時間を無駄にするようなことはしなかった。私の方にまっすぐ歩いてきた父は(双子は後ずさりしていたけれど、私には父の目的地は自分だとはっきりわかっていた)、私の上腕をがっちりと掴んだ。罪深くも私の髪はもつれTシャツはしわくちゃで、肩の高さまであるポニーテイルを結ぶゴムバンドは半分外れかかっていた。私は乱暴に身体の向きを反転させられジーンズのお尻を掴まれて、古ぼけたラブソファのところまで無言で連れていかれた。このソファは部屋として未完成の地下室にあってはほぼ唯一の家具だった。ラブソファの後ろへとぐるりと歩みを進めている時も地下室は完全な静寂に包まれており、怒鳴り声が響いていた方がはるかにましだと感じた。

 到着すると、父はこれだけを口にした。「よし、身体を前に倒して服を下ろしなさい。一生忘れられないくらい叩くから覚悟しておくように」

 呆気にとられて身体が硬直し動けない。いまここで、ディックとレイの目の前で罰だなんて、本気で言ってるの?抗議の声を上げようと振り返りかけたが、その動きはお尻への強烈な一発で中断させられた。

 「パパ、いやだ!」 叫び声を上げると身体が震えはじめた。「こんなの無理…無理…だめだから!」

 双子はじりじりと階段の方へ歩みを進め、駆け出す機会を伺っている。

 「二人ともそこで待機!」と警告の声が飛んだ。

 「この件についての君達の活躍については父君がそれはそれは関心をお持ちになることと思う。けれど今は、悪さをした女の子がいったいどういう目に遭うか、その目にしかと焼き付けておきなさい!」

 父はシンプルにラブソファの背を指さし、私は顔に火がついたみたいに感じた。何をすべきか口に出しての指示はなされていなくても、ソファの背に身を預けてジーンズを下げなければならないのは分かっていた。この場所は私に罰を与えた母が帰宅した父に『情報提供』した結果、パドル罰が執り行われる定位置だった。そう、この場所は私が無様に引きずられて行き着くところ、おぞましい二回目の尻叩きを受けるところだった。パドルを使われるのも、一回目の罰より厳しく叩かれるのも決まったこと。だけど友達の前で叩かれるなんてこれまで一度もなかったのに!

 すすり泣きが止められない。「やだよ……おねがいパパ、なんでもないんだってば……二人はなんにも……」

 父は私のお尻を指さすだけだった。この仕草は『すぐに服を下ろしなさい』という意味である。私にはルールが身についていた。ズボンを引き下げ始めると今までに感じたことのないレベルの羞恥で頬が燃えているかのように感じた。双子は目を丸くして見つめており、お互いにちらちらと目線を交わしながら、泣き出すとも含み笑いを始めるともつかないような表情をしていた。Tシャツにショーツの姿になると、ショーツのクロッチ部分はたっぷり湿ったままで、それはぎこちなくもその気にさせる双子の指に探られた証であった。父は私の遅延戦術に痺れを切らしてショーツを勢いよく膝まで掴み下ろした。

 「ソファにおなかを乗せなさい」と指示が飛ぶ。

 強くあらんとする気概は脆くも崩れ去り、私は泣き喚いた。「いやだああああ!」

 父はパドルをその定位置である壁の張り出し飾り棚から取ると持ち手をがっちりと握りしめた。ついに罰が始まる。双子はさっきまでみたいに私の花開きつつある肢体に探りを入れる必要はない。いまや彼らはそれを最前列で鑑賞する機会を手に入れたのだから!

***


 父が開始した尻叩きの厳しさは想像をはるかに超えていた。普段お仕置きを受ける時であれば、気持ちをしっかり保ち動じないという態度を私はいくらか維持できていた。お尻を叩かれても許しを請い願ったり大声で叫んだりしないよう頑張るのはこだわりだった。しかし父からお仕置きされる時にそれが成功したことは一度もない。私がどう考えても罰を受けるに値する時にしか父はお仕置きしなかったから、それに見合う本気を出されて敵うわけがなかったのだ。手酷く尻を打たれる時に何が最悪かといえば、強いられる形で痛いと声に出して言わなければならないことだった。もし言うのを拒んだらさらに激しくさらに時間を延長して叩かれるだけ、しまいに凄まじい尻の痛みは耐え難いものになっていくのだ。しかし今回は、男子たち二人の目の前で生尻に弾けた一発目は最初から力も勢いも半端なく、痛みに遠吠えみたいな悲鳴を上げざるを得なかった。

 「うあーー!パパ!い、いだい、やだやだやだ、あうううっ!」

 必死な両の手は反射的に後ろへと動き、その報いに痛烈な一打がお見舞いされた。

 「手をどけなさい!お尻で全部受け切るんだ!」

 私の手は順繰りに一本ずつ取り上げられてへその下に押し込まれた。父に左手で背中をきつく押さえられてしまうと両手を身体の下から出すのは不可能だった。

 そして始まったのは本気のパドル打ち。父は時間をたっぷり取って、焼けつくような一発一発を剥き出しの尻の真芯に命中させていき、どんどん赤く染まっていく私の尻はパドルの力で飛び跳ね、双子はそれをいやらしい目つきで見つめていた。そのうちポニーテイルはほどけてしまったが、汗でもつれた髪の毛は苦悶の叫び声を上げるたびにゆがむ私の表情をすべて隠してはくれなかった。哀れに身をよじる尻を真っ赤に染めた女の子。その眺めはさぞ壮観だったろう!控えめに言っても、彼らの目が私に釘付けになっていたのは確かなことだった。

 「これでもまだ <バシッ!> 男の子と <バシッ!> じゃれあってるところを <バシッ!> またパパに捕まっても <バシッ!> 構わないと <バシッ!> 思うかい? <バシッ!> もっと痛くされないとわからないか?<バシッ!>お尻の調子はどうだ?言ってみなさい!

 「うあ゛、う゛ううっ、あうううっ!!」口から出てきたのはこんな叫び声だけ。あそこは双子が力を合わせた刺激のおかげでいまだに疼き、むき出しの尻は松明でも押し付けられているかのよう。そんな状況で尻の感触を述べよ、だなんて!

 腕を休めるために少しの間父は動きを止めた。私は制御不能状態に陥り泣き喚いていて、罰が効いてない振りをする余裕なんて消え失せていた。

 「それで?」と感想の強要が始まった。「お尻はどんな感じだい?教訓は身についたかな?」

 「パパ、とっても痛いです!!痛いよお……ほ、ほんとうに痛い……もうやめて……おねがいです!」

 腕を休める時間はそろそろ終わりのようだ。

 「それは良かった。痛くてたまらないくらいやってやらないとまたすぐ忘れるだろ?さ、続きを始めよう。数日間は学校で座ろうったって無理、そうなるよ。そうすればどんだけやられたか、誤解の余地なく皆に知ってもらえるってわけだ」

 おぞましいパドルが再び父の手に収まり、私の尻に振り下ろされる。パドルの着地を待たずして金切り声を上げ尻を大きくよじる私。双子は息を呑んでいた。

 次の一発は尻の左右を横切る形で着弾し、続く10発から12発は息もつかせぬ間隔で手加減なしに振る舞われ、私はなりふり構わず制御不能に大泣きする事態に陥った。ソファの背に預けた身体は父によりさらに前方へと押し出されて腫れ上がった尻のさらに下部がむきだされ、柔らかな部位、今後座る動作を強いられる際には座面と接するまさにその部位へと強烈な打撃が加えられていった。仕置きが私の記憶に刻みこまれたと判断を下したタイミングで、ようやく父は私を引っ張り立ち上がらせた。

 息を呑む双子の目の前で、膝のところでショーツが丸まったままの姿で立ち尽くす私。まぶたが腫れぼったくなってほとんど目を閉じているに等しい視界であっても、彼らの股間の膨らみは父がサプライズ登場した時よりもますます大きくなっているのがわかった。

 「上がって自分の部屋に戻るんだ!」と父が命じた。

 「パパはこちらの若き紳士お二人の家に今から電話をかける。今と同じ類の矯正が必要だと伝えるつもりだ。私がフランク・カーヴァー氏を見誤っていないなら、紳士たちには簡単には忘れられないような矯正が施されると思うね!」

 その日はベッドに横たわっているように言いつけられ、罰で燃え盛る尻に触れることも水に浸すことも許されなかった。尻は痛みにこの上なく苛まれていたが、心を掻き乱す感覚が新たに湧き出てあそこにつきまとい離れない。痛むお尻をさするのは禁止され、股間は熱を持ち疼いて我慢は限界、私はうめき声を上げながら穢れなきベッドの上で身体をくねらせ、尻叩き由来の絶頂に達するという初めての経験を味わった。


***


エピローグ:

 双子は固く口を閉ざしていたけれど、彼らは相応の罰を受けた(実のところ、それからというもの彼らは決して私と目を合わせてくれなくなってしまった)。彼らの姉妹の話では、恥をかかされたおじさんは激怒して、双子の尻がちょうど私の尻みたくパンパンに腫れ上がるまでストラップを使ったらしい。

 内なる道徳律は改善されたかって?確かに私も双子も教訓を学んだけれど、親達の意図した通りに矯正されたとは言い難い。もし父にこの話をこんなところに投稿していると知れたら……くわばらくわばら!


原文リンク
http://thespankingcorner.com/stories/gaetana/index.html
Copyright (C) 1994 By Gaetana

尻学問の中心地

翻訳
08 /22 2022
The Seat of Learning
投稿者:Gaetena


 話は私が体調を本格的に崩したところから始まる。秋の季節につきものの連鎖球菌性咽頭炎が六年生の我がクラスを襲い、菌に敗北した私は気管支炎を患ったのである。療養中は女子達が毎日届けてくれる宿題をこなし、教科書を、正確には国語[English]と歴史の教科書だけを読み進めるなどして、ラジオとテレビの番組のおかげもあり退屈とは無縁の生活を送った。それでは数学の宿題はというと、先延ばし。数学ときたら、ちんぷんかんぷんなあれこれは頭をひたすらに通り過ぎていき完全に解読不能で、平方根や方程式なんて本当にお手上げだったからだ!

 家で療養すること五日、学校に戻ることを考えた時の辛い気持ちは日増しに強くなっていたけれど、身体は元気に感じたし、母には喉を観察されて病気は治ったと宣言されてしまった。空気の乾いた秋らしい水曜日の朝、学校まで二ブロックの道のりを歩く私の心はざわついていた。隔離期間を終えて友達に会い学校で起きたあれこれのゴシップを聞かせてもらうのは楽しみだったけれど、学校に戻る手続きを着々と前に進めるのはやはり辛かったのである。学校を三日以上休んだ子はクラスに戻る前に保健室の先生[school nurse]に診てもらわなければならないという規則があり、さらに保護者がその理由を述べた一筆を用意して提出する必要もあった。その手紙をポケットに携えて保健室[nurse's office]に向かっていた私の目に入ってきたのは、アナベルとジーンが外の小春日和の陽気の中でぶらぶらしながら授業開始のベルが鳴るのを待っている光景だった。

 ジーンが私に呼びかけてきた。

 「テストの準備はした?」

 「テストって何?」私は立ち止まった。

 テストのお知らせは誰も持ってきてくれなかった。どういうことだろう?

 「ハドソンババアが来週数学のテストをするんだよ。今月習ったところが全部範囲。よく勉強しときなさいって。成績の半分がこのテストで決まるんだってさ!」
 
 私、先週の宿題をチラ見だってしてないのに!既に数学の成績は危険領域に入っていて、これまでも平均値をクリアできていたのは自分にとって簡単な分野で点を稼いでいたからだった。

 私はパニックに陥った。そのまま授業に復帰するなんてありえない。でも、もし詰め込み勉強をする時間を確保してテストの準備を万端に整えれば来週戻って来れる。保健の先生にまだ病気だと診断された、と低い声で友人達につぶやくと、速やかに校庭から立ち去った。保健の先生には会わず家にまっすぐ帰った。帰る道すがら、学校に戻るには早すぎると先生に告げられたというストーリーをありったけの知恵を絞り必死にでっち上げた。なぜ必死だったかというと、数学に向き合うのが不安でたまらなかったからだ。なぜ知恵を絞ったかというと、もしこの嘘に効果がなかったり見破られたりしたら罰が待ち構えているのは確実だったからだ。しかし、私はこの考えを脇に追いやった。学校を一度もズル休みしたことのない模範的児童として、私には母が信じてくれるという確信があったのである。

 母は信じた。首を傾げていたものの(私の様子は母が言うには『目はキラキラしているし溌剌としていた』から)、保健の先生の専門家としての判断を尊重してくれた。少なくとも来週の水曜日までは家にいるように言われた、と私は報告した。これで一週間は稼げたことになる。刑の執行は無期限に延期されたように感じ、数学を勉強しジーンを呼んで勉強の『処方箋』を出してもらおうと決めていたはずなのに、私がその時間を何に使ったかというと、ピアノで適当に音を出したりクッキーを焼いたり飼い猫と遊んだり絵を描いたり読書をしたりして過ごしたのだった。次の水曜日が来ると、私は登校するために服装を整えまたも例の一筆を携えて自信たっぷりに家を出た。何しろ私はテストを欠席してしまったのだから、追試験を受けるまでに準備と対応にそれなりの時間をもらえるはずなのだ。途中で私はジーン、ルー、そしてアナベルに出会った。テストは……彼らが言うにはなんと今日なのだという!テストを回避したなんてとんでもない。私はなんの準備もなしに、テスト当日に学校に戻ってきてしまったのである!

 「無理だよ!」と思わず口走ってしまった。「赤点取って絶対怒られる!」

 「どうするの?」

 例によって想像力ゼロだけれど、それでも親友のアナベルが尋ねてきた。

 「まだ私病気だから!」と私は語気を強めた。

 「わかんないけど、たぶん保健の先生は家に帰してくれるし!」

 ジーンはにやっと笑うと言った。「俺には具合が悪いようには見えないけどな!それよりさあ、親父さんに何やったかばれるとするじゃん、そん時の尻の具合を心配した方がいいんじゃね?」

 私は顔が紅潮したのを感じ、彼の意地悪な目線を避けたくて踵を返した。

 「今だってめちゃくちゃ具合が悪いんだってば、ほっといて!」

 私は学校の建物に沿って走り、校内には入らず家の方向に向かってダッシュした。予言者ジーンが囃し立てる声が後ろから追いかけてくる。「嘘つき嘘つき、嘘つきゃお尻に火がつくよ…!」ルーも笑いながらそれに加わった。そうして囃し立てる声を気にする余裕などなかった。青天の霹靂である数学のテストをとにかく避けたい一心だったからだ!

***


 節介を焼きたがるグリーン夫人が母を訪ねて来宅していなかったら、万事うまくいっていたのではないかと私は今でも思っている。私は帰宅する道のりの半分くらいまでは駆け足を続け、曲がれば家が見える最後の角までペースを落とさなかったから、頬は赤くなり上気しているように見えたはずだ。私の姿を見て母は驚いているようだった。

 「どうしたの?なんで帰ってきたの?」と母。

 グリーン夫人は鋭い眼光で疑わしげに私を見つめている。彼女の息子のウォルターは私と同じ歳で、彼とは特に親友というわけではないが時折一緒に遊ぶこともある程度の仲だった。彼は陰気なトラブルメイカーで、かといって自身のやらかしを糊塗できるほど機転は効かなかったから、道具でぶたれるという至極当然の報いを受けるのがお決まりの流れで、それもしょっちゅうだった。グリーン夫人にはウォルターがずる休みを誤魔化そうとして作り上げる大抵の嘘や言い訳を見破る力があったから、彼女の目線には凄まじい居心地の悪さを感じた。

 「ママ、保健の先生にあと何日か家にいるようにって言われたの」

 私は視線をグリーン夫人のほうにさっと動かし、また母のほうに戻した。

 「私には元気に見えますけど!」とグリーン夫人が言った。「娘さん、まるでホッケーでもしてきたみたいじゃない。あなた、学校に電話はおかけになった?」

 危険信号。おなかがざわつく。母は疑わしげな様子だ。

 「電話はしてない。ジーナが言うんなら、保健の先生はそうおっしゃったんでしょう。でも確かになんか変ね」

 「それなら私が電話をかけて差し上げますわ」と夫人が低く唸るような声で言った。

 「子どもたちなんて、できれば罰を受けないで済まそうと考えるものなんです。うちのウォルターはそうやって親を騙そうとするもんだからお尻がパンパンになるまでぶってやりました。それも一度だけの話ではありませんのよ!」

 「ジーナ、嘘はついてないわね?」と母が言った。

 母の心は私とグリーン夫人のどちらを信じたら良いかで揺れているようで、私の心は罪悪感と恐怖で刺されるように痛んだ。

 「え?もちろん……ほんとだよ」

 もういまさら後戻りなんてできなかった。
 
 「保健の先生にお電話を」と私の顔をまじまじと眺めながら熱心に勧めるグリーン夫人。

 「娘さんは子供たちが新学期に良くかかる病気にかかってしまったのね。良く効く薬を知ってます。そのお薬をたーくさん使ってあげれば良いんです、服を脱がせたお尻にね」

 「もし騙していたのなら……」母は警告の言葉を途中で切り、電話をかけに家の中に入っていった。

 私はグリーン夫人の有無を言わさぬ目線にその場に釘付けにされていた。さもなければダッシュしてその場から逃げ出していたことだろう。どうしようもないままに、母は一分も経たずして戻ってきた。

 彼女は玄関ポーチの前に生えている枝垂れ柳から細枝を折り取り、私の上腕を掴んで身体の向きを180度ぐるりと回転させた。

 「保健の先生は!」

 母はそう吐き捨てると細枝を私のお尻に横切るように着地させた。「あなたと話してないっておっしゃいました」また小枝が振り下ろされ、「一度もね!」

 「ママー!待って、やめてっ!聞いて、いたいぃっ!」

 今いる場所は家の外の前庭で、あたりは静まり返っており、グリーン夫人はすこぶる満足げに腕を組み母の怒りの枝捌きを眺めていた。

 「ほんとうを言うと(ピシッ、ピシッ、と細枝でお尻、そしてむき出しの太ももを痛めつけながら)先生はママが何を言っているのか全くお分かりになっていない様子でした!あんなに恥をかいたこと、ママ今まで一度だってありません!家にいたんじゃ埒が明かない。今すぐ行きますよ!」

 母はグリーン夫人の方に向き直ると微笑んで言った。

 「ありがとうヘレン。今からこの子の尻拭いをしてやらなくちゃ。拭うだけじゃ済まないと思うけど!」

 追加の六発を刻んだ後で母は細枝を放り捨てて命令を下した。「さ、歩く!」

 もはや選択肢はなく、言われた通りに歩き始めるしかなかった。グリーン夫人のご高説が追いかけてきて心がざわつく。

 「ですからね、ウォルターも娘さんと同じことをしでかしましたけれど、過ちを繰り返しそうになったら学んだ教訓をよくよく思い出すような措置を私は講じました。娘さんにも同じ措置を取ってあげればよろしい。私を信じてくださいな。息子は心の底から言っていましたわ、『薪小屋』に連行されることを考えたらズル休みなんてなんの価値もないって!」

 保健室に着くまで私たち母娘は一言も言葉を交わさなかった。お尻はいまだにヒリヒリと熱を持ち、太もも裏に刻まれた真っ赤な縞模様が小枝鞭で打たれた事実を声高に知らせる中で、メインホールを連行されていくのは恥ずかしくてたまらなかった。

 保健の先生は保健室で私たちを待っていた。先生と母が私から罪の告白を引き出すまでたったの数分しかかからなかった。私は「ハドソンババア」にことの顛末が記された手紙を届けるために教室に連行されていった。心はひしゃげて授業はただ目の前を通り過ぎていった。当然、梵字の羅列にしか見えない数学テストの時間も同じように過ぎていき、茫然自失の私の心に浮かんでくるのは家に帰った時に私を待ち構えるものだけだった。ジーンはにやにやしながら私に目線を送り続け、一度だけ私の方を見やったアナベルは、自分が私の立場に置かれていなくて良かったと思っているみたいだった。

 授業が終わったらひたすら遅々とした足取りで家に帰った。他に目的地もなく、かといって何か事態を好転させてくれるような行動も思いつかなかった。父はまだ仕事から戻っていなかった。家の中に入って教科書類を置くとキッチンにいた母が口を開いた。

 「グリーンさんが正しかった。一週間ずっと嘘をつき通して学校をズル休みしていたなんてほんとうに信じられない。パパにはあなたのお尻が取れてなくなるくらい叩いてもらいます!」

 「ママ」抗おうと口を開いてはみたものの、抗うよりどころなどどこにも残っていなかった。「ママ……二度といたしません。わたし、また登校するのが怖くなっちゃったんだもん!」

 「でしょうね。安心なさい、登校しないほうがよっぽど怖いことになるって納得させてあげますから!」と母。

 「さ、部屋にお行きなさい。罰が終わるまでは出てはいけません。罰ですよ、罰!」

 わっと泣き出して部屋に走った。私は12歳、罰はテレビやデザートなしか土曜日の映画鑑賞の禁止がメインとなっていた。今回はそんな軽い罰では済みそうになかった。

 父は30分後に帰ってきて、母は私の犯した凶悪犯罪について報告し、その間私は重々しい時間が過ぎていくのに耐えなければならなかった。そして聞こえてきたのは私を呼ぶ父の声。いやいやながらも階下のリビングに向かうと、二人とも見るからにおかんむりといった様子で座っていた。

 「ジーナ」と父が口を開いた。「今回は本当に大ごとだよ。学校をズル休みしただけじゃない、作り話に作り話を重ねて、嘘で塗り固めていたなんて!」

 「パパ、わけを話すから……学校に戻る準備ができてなかっただけなの!ねえ、わ、わたしは……」

 父はもうたくさんとばかりに手を振り、その手にお馴染みの古めかしい木製の『懲らしめ用ヘアブラシ』が握られていることに気づいて私は恐怖した。

 「今回はちょっとした間違いなんかで片付けられないよジーナ。躾が必要だとパパは思う。もう大きくなったから必要ないとパパが判断していた躾ね。その判断は時期尚早だったみたいだ。もうテストなんて怖がる必要はなくなるから安心しなさい。それよりずっと怖がらなきゃいけないものがあるって今から教えてあげるからね」

 無駄な抗議を開始する暇も与えられず、私は大きな緑色のソファの腕に乗せられる格好となった。躊躇いなく父は私のスカートをめくり上げるとまるで8歳の子にするみたいにショーツを引き下ろした。私はもう12歳、身体だってほとんど大人だっていうのに!

 「パパっ!」

 無理を承知で上半身を起こして回避を試みても身体はがっちり固定されているから、お尻を高く掲げた体勢でクッションの詰まった幅広のソファの腕に身体を預けるおなじみの体勢は変わらなかった。

 「やだ、やめてお願い!もうしませんから!」

 最初の一発はまず耳が捉え、実際に受けた感覚が生じるまでには一瞬のラグがあり、点火プラグに着火して通電したかのように身体が飛び上がる。

 「ひーっ!パパ、やめて!!」

 これこそが忘れていた罰の感触。思い出すのが遅すぎる!生尻を道具で打たれる事態に自らを追い込むなんて、自分の間抜けさといったら底なしだ!

 「パパぁ、パ…あぐっ!!!うそついてごめんなさい、もう二度と、二度としませ……あひ、痛いーっ!」

 父のしかめっ面からは簡単には忘れられない躾を与えようと決意を固めているのが読み取れて、だから少女の抗う嬌声も狂ったようにのたくる尻も彼の心にさざ波一つ立てることはできず、目を見張るような打擲が両尻に与えられ続けるさまは、まるで『この尻をひっぱたけ!』とターゲットマークがペイントでもしてあるかのよう。強烈な15発が私の尻に痛みを刻んだタイミングで、様子を眺めていた母が止めに入った。

 「ジョン、もう十分。ジーナも少しは身に染みたでしょう!」

 「そうだな」そう応答しながら父は焼けつくような一発を着地させ、「少しは懲りたかい?どうだいジーナ?」

 「う゛わあああー!」としか発声できず、顔をソファの横に向けつつも両手を振り回すのをやめられない。そんな私の剥き出しのお尻を焼けつくような痛打の激しい雨が襲う。

 「こ、こりました!あぐうっ!!いだいい!!ごめんなさい!やめでええええっ!!」しまいの台詞は死に物狂いに抗う金切声の形を取って私の口から奔り出た。

 グリーン夫人は玄関のところに陣取っていて、涙で曇る私の目が捉えたのは私の『学びの丘』にしっかりと痛みを伴う指導が与えられているのを彼女が観察し満足げにうなづいている様子であった。「今回の教訓を簡単には忘れないように」しないといけないとグリーン夫人が警告してきたおかげで父は奮起し、泣きじゃくる私の尻が紫色に腫れ上がるまでヘアブラシを当て続けた。私は部屋に行くように告げられ、鼻を鳴らし恥も外聞もなく両手で尻を鷲掴み号泣しながらその場を後にした。そして始まったのはグリーン夫人と両親計三人のコーヒータイム。おそらく厳しい体罰のてきめんな効果について夫人が披露する見識を会話の種にして意見が交わされていたのだろう。

***


 数学のテストの結果はもちろん散々だった。それから一週間は毎日放課後に居残りさせられ、強烈に感じやすくなっている尻をとめどなくよじりながら数学の問題を解かねばならなかった。その時の問題の中身は覚えていないし、いまでも平方根や代数はお手上げである。覚えているのは硬い樫の木で作られた教室の椅子が『双丘』にもたらす苦痛をなんとか和らげようと自分がむなしい努力を続けていたことだ。学問の中心地を『学びの丘』と呼び習わすのは、そんな意味を込めているに違いない!


原文リンク
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