メモに値するパドル罰
翻訳
A paddling to note
投稿者:Samantha
これは1980年代半ばに起きた話で、私は8年生の13歳でした。先生の名前は仮名にしてあります。
私はその当時周りにいたほとんどの子供たちと同様にお尻を叩かれていました。我が家のお仕置きは他の家と比べれば甘いものでした。服を着たまま平手でお尻を叩かれるのがうちのやり方で、それはどんな服装をしていても変わりませんでした。たぶん一度や二度は例外があって、かなり幼い時期に何も身に着けていないタイミングで叱られた時だったと思いますが、要するにそんな程度だということです。
知り合いの子供達が受けていたお仕置きや、このサイト[訳注:個人の掲示板サイトへの投稿だったのかもしれない]に掲載されている体験談のお仕置きと比較した場合、我が家のお尻叩きなどなきに等しいものでした。お仕置きは非常に軽いもので、泣かされはしましたが翌日まで痛みが続いたことは一度もありません。
さらには、そのお尻のお仕置きも10歳あるいは11歳の時に止まりました(最後に叩かれたのは11歳の誕生日が来るくらいの時期で、学校でトラブルを起こしたのが原因でした)。
通っていた学校では体罰が行われていましたが、男子に対して稀に行われる程度で、私たち女子への執行はほとんど聞いたことがありませんでした。規則の上では女子もパドルを受ける可能性はありましたが、8年生に上がるまでの期間を通じても女子でその罰を受けた子は一人として知りませんでした。1人の女の子が数年前に罰を受けたという噂はありましたが、それが真実だったかどうかはわかりません。おそらく毎年1人か2人の男子がパドルで叩かれるに値する振る舞いの結果として罰を受けていましたが、それくらいの数が関の山でした。
7年生の終わりに、アンダーズ校長先生が退職しました。彼の後任はかなり若い女性でした。わたしの知る限り、彼女は地域で最初の女性の校長先生だったと思います。
ジャミソン先生はおそらく30歳にもなっていませんでした。ある友達の父親が激怒していたのが鮮やかに記憶に残っています。「[思春期の]ホルモンで溢れた学校を小娘が制御できるとでも?」
しかし、彼女が御し易く手玉に取ることのできる人物であるという前評判は大いに間違っており、彼女が着任して二週間ほど経った頃、私と友人のキャロラインはそれを思い知ることになりました。
地理の授業に飽き飽きした13歳の女子生徒達が暇つぶしに何をするかといえばメモ回しと相場が決まっていました。もちろんメモ回しは先生に見つかるリスクを抱えています。そんな時は怒鳴られるか、皆の前でそのメモを読み上げられるか、最悪の場合は決まった文章を少しばかり書かされる罰を受けることになりますが、いずれもたいした話ではありません。
1人の女子が少しばかり汚い単語をメモの文章に使いました(およそ35年も前のことなので、不本意ながら誰が書いたのか覚えていません)。それは「ケツ[ass]」という単語でした。そこまで酷い単語ではないとしても、当然学校での使用は禁止されていました。とりわけ、地理の先生は「古式ゆかしい敬虔な女性」と表現するのがもっとも適切な人物でしたから、彼女の授業時間にその単語を使うのは完全に御法度でした。
私たちがメモを回しているのを見つけた先生はそれを読みはじめ、件の単語を見つけると私たちを職員室送りにしました。あーあ、最悪!最後にお尻を叩かれたあの時以来、私は学校でトラブルを一度も起こしていなかったというのに。
[家で]お尻を叩かれる可能性については特に心配していませんでした(学校で問題を起こしたらお尻を叩かれる決まりが長い間有効だったにもかかわらず)。1週間程度の外出禁止を食らうかもしれない程度に考えていたのです。
私たちは2枚のメモを携えていかなければなりませんでした。ひとつは自分たちが授業中に回していたもの、もうひとつは呆れ果てた地理の先生が書いた連絡メモです。気の毒な先生!私たちはメモを秘書に渡し、秘書はメモをジャミソン先生に回しました。それから椅子に座りひたすら待ち続け、ようやく校長先生に中に入るよう呼ばれました。
この時のことを私は細部に至るまで完璧に覚えています。ジャミソン先生は落ち着き払っていました。怒りは片鱗も見せず、しかし温情のかけらもまたありませんでした。冷たい声で例のメモについて質問された私たちは罪を認めました。問題の単語を誰が書いたのか一度も質問されなかったのをはっきりと覚えています。[単語を書いた子と] 私たちの罪の重さは同じだとみなされていたということです。
それから先生は穏やかに言いました。パドルの措置を取ることをご両親に電話で伝えてそれから作業に取り掛かる、と。先生はこのくだりをあまりにもさりげなく話したので、私はことの重大さを聞き逃しそうになりました。
キャロラインのほうを向くと恐怖で死にそうな表情を浮かべており、彼女にも先生の言葉が聞こえたとわかりました。ここで大事なことをお伝えしておくと、成長してティーンになってもいまだにお尻を叩かれ続けていることが100%確定しているクラスメイトは2人いて、彼女はその貴重な2人のうちの1人でした。
先生はまずキャロラインの家、次に私の家に電話をかけました。私たちは身体を強ばらせて座って待っていました。聞こえてくるのは先生の会話だけでしたが、受話器の向こう側から激しい抗議がなされているといった気配は一切感じ取れませんでした。それから秘書が中に入るように呼ばれ、私は再度外に出て待っているように言われました。
普通に座って待っていた私は、雷が落ちたような音がして飛び上がりました。それからまた音がして、今度は叫び声のようなものが聞こえてきました。3回目の音の後は、はっきりとした叫び声が聞こえました。そして……マジか!4回目の後に聞こえてきたのは金切り声でした。
その後の数分は際限なく待たされているように感じました。4発目の音がしてから扉が開くまで、ほんとうのところはどれくらいの時間待機していたのか私にはわかりません。おそらくそこまで長い時間ではなかったのでしょうけれど、私にはその時間は無限に続くようでした。キャロラインはそこまで泣いてはいませんでしたが、痛みを感じているのは明らかでした。それから私は中に入るようジェスチャーで指示されました。
時間を無駄にせず、やはり落ち着いた雰囲気で先生は作業を進めました。私は机に伏せて手を伸ばすように言われました。両脚は少し開く。少しでも痛みを軽くしたいなら動かないこと。先生がパドル板をジーンズのお尻に軽く何回か当てるのを感じ、ショートスカートの類を穿くのを禁止されていて今日だけはほんとうに良かったと思いました。
そして……なんてこった!襲ってきたのは予想を遥かに超えた痛みでした。痛みは覚悟していたけれどこんなに痛いなんてありえない!2発目は下のほうに当たって左太ももの一部も捉えました。私が回復するのを待ってから先生は3発目を打ち込み、私は泣きはじめました。正直に言うと、お尻をぶたれた幼女みたいに本気で泣いたのです。キャロラインは私よりも我慢強かったのかもしれませんし、あるいは私よりもお尻を叩かれるのに慣れていたのかもしれません。
私の涙には先生になにがしかの影響を及ぼす力は全くなく、これは誓って言えますがむしろ4発目はそれまでよりも力をこめて打たれました。それから、身体を起こしてお尻ともども教室に戻るように言われました。フォローする一言も、慰めの言葉も、追加のお説教もありませんでした。
さらに、家に帰ったら大目玉を食らうだろうことを私は心の奥底で悟っていました。学校で不品行を働くことは母の中で最大のルール違反とみなされていたからです。その話はまたの機会にしたいと思います。
***
投稿者:Samantha
これは1980年代半ばに起きた話で、私は8年生の13歳でした。先生の名前は仮名にしてあります。
私はその当時周りにいたほとんどの子供たちと同様にお尻を叩かれていました。我が家のお仕置きは他の家と比べれば甘いものでした。服を着たまま平手でお尻を叩かれるのがうちのやり方で、それはどんな服装をしていても変わりませんでした。たぶん一度や二度は例外があって、かなり幼い時期に何も身に着けていないタイミングで叱られた時だったと思いますが、要するにそんな程度だということです。
知り合いの子供達が受けていたお仕置きや、このサイト[訳注:個人の掲示板サイトへの投稿だったのかもしれない]に掲載されている体験談のお仕置きと比較した場合、我が家のお尻叩きなどなきに等しいものでした。お仕置きは非常に軽いもので、泣かされはしましたが翌日まで痛みが続いたことは一度もありません。
さらには、そのお尻のお仕置きも10歳あるいは11歳の時に止まりました(最後に叩かれたのは11歳の誕生日が来るくらいの時期で、学校でトラブルを起こしたのが原因でした)。
通っていた学校では体罰が行われていましたが、男子に対して稀に行われる程度で、私たち女子への執行はほとんど聞いたことがありませんでした。規則の上では女子もパドルを受ける可能性はありましたが、8年生に上がるまでの期間を通じても女子でその罰を受けた子は一人として知りませんでした。1人の女の子が数年前に罰を受けたという噂はありましたが、それが真実だったかどうかはわかりません。おそらく毎年1人か2人の男子がパドルで叩かれるに値する振る舞いの結果として罰を受けていましたが、それくらいの数が関の山でした。
7年生の終わりに、アンダーズ校長先生が退職しました。彼の後任はかなり若い女性でした。わたしの知る限り、彼女は地域で最初の女性の校長先生だったと思います。
ジャミソン先生はおそらく30歳にもなっていませんでした。ある友達の父親が激怒していたのが鮮やかに記憶に残っています。「[思春期の]ホルモンで溢れた学校を小娘が制御できるとでも?」
しかし、彼女が御し易く手玉に取ることのできる人物であるという前評判は大いに間違っており、彼女が着任して二週間ほど経った頃、私と友人のキャロラインはそれを思い知ることになりました。
地理の授業に飽き飽きした13歳の女子生徒達が暇つぶしに何をするかといえばメモ回しと相場が決まっていました。もちろんメモ回しは先生に見つかるリスクを抱えています。そんな時は怒鳴られるか、皆の前でそのメモを読み上げられるか、最悪の場合は決まった文章を少しばかり書かされる罰を受けることになりますが、いずれもたいした話ではありません。
1人の女子が少しばかり汚い単語をメモの文章に使いました(およそ35年も前のことなので、不本意ながら誰が書いたのか覚えていません)。それは「ケツ[ass]」という単語でした。そこまで酷い単語ではないとしても、当然学校での使用は禁止されていました。とりわけ、地理の先生は「古式ゆかしい敬虔な女性」と表現するのがもっとも適切な人物でしたから、彼女の授業時間にその単語を使うのは完全に御法度でした。
私たちがメモを回しているのを見つけた先生はそれを読みはじめ、件の単語を見つけると私たちを職員室送りにしました。あーあ、最悪!最後にお尻を叩かれたあの時以来、私は学校でトラブルを一度も起こしていなかったというのに。
[家で]お尻を叩かれる可能性については特に心配していませんでした(学校で問題を起こしたらお尻を叩かれる決まりが長い間有効だったにもかかわらず)。1週間程度の外出禁止を食らうかもしれない程度に考えていたのです。
私たちは2枚のメモを携えていかなければなりませんでした。ひとつは自分たちが授業中に回していたもの、もうひとつは呆れ果てた地理の先生が書いた連絡メモです。気の毒な先生!私たちはメモを秘書に渡し、秘書はメモをジャミソン先生に回しました。それから椅子に座りひたすら待ち続け、ようやく校長先生に中に入るよう呼ばれました。
この時のことを私は細部に至るまで完璧に覚えています。ジャミソン先生は落ち着き払っていました。怒りは片鱗も見せず、しかし温情のかけらもまたありませんでした。冷たい声で例のメモについて質問された私たちは罪を認めました。問題の単語を誰が書いたのか一度も質問されなかったのをはっきりと覚えています。[単語を書いた子と] 私たちの罪の重さは同じだとみなされていたということです。
それから先生は穏やかに言いました。パドルの措置を取ることをご両親に電話で伝えてそれから作業に取り掛かる、と。先生はこのくだりをあまりにもさりげなく話したので、私はことの重大さを聞き逃しそうになりました。
キャロラインのほうを向くと恐怖で死にそうな表情を浮かべており、彼女にも先生の言葉が聞こえたとわかりました。ここで大事なことをお伝えしておくと、成長してティーンになってもいまだにお尻を叩かれ続けていることが100%確定しているクラスメイトは2人いて、彼女はその貴重な2人のうちの1人でした。
先生はまずキャロラインの家、次に私の家に電話をかけました。私たちは身体を強ばらせて座って待っていました。聞こえてくるのは先生の会話だけでしたが、受話器の向こう側から激しい抗議がなされているといった気配は一切感じ取れませんでした。それから秘書が中に入るように呼ばれ、私は再度外に出て待っているように言われました。
普通に座って待っていた私は、雷が落ちたような音がして飛び上がりました。それからまた音がして、今度は叫び声のようなものが聞こえてきました。3回目の音の後は、はっきりとした叫び声が聞こえました。そして……マジか!4回目の後に聞こえてきたのは金切り声でした。
その後の数分は際限なく待たされているように感じました。4発目の音がしてから扉が開くまで、ほんとうのところはどれくらいの時間待機していたのか私にはわかりません。おそらくそこまで長い時間ではなかったのでしょうけれど、私にはその時間は無限に続くようでした。キャロラインはそこまで泣いてはいませんでしたが、痛みを感じているのは明らかでした。それから私は中に入るようジェスチャーで指示されました。
時間を無駄にせず、やはり落ち着いた雰囲気で先生は作業を進めました。私は机に伏せて手を伸ばすように言われました。両脚は少し開く。少しでも痛みを軽くしたいなら動かないこと。先生がパドル板をジーンズのお尻に軽く何回か当てるのを感じ、ショートスカートの類を穿くのを禁止されていて今日だけはほんとうに良かったと思いました。
そして……なんてこった!襲ってきたのは予想を遥かに超えた痛みでした。痛みは覚悟していたけれどこんなに痛いなんてありえない!2発目は下のほうに当たって左太ももの一部も捉えました。私が回復するのを待ってから先生は3発目を打ち込み、私は泣きはじめました。正直に言うと、お尻をぶたれた幼女みたいに本気で泣いたのです。キャロラインは私よりも我慢強かったのかもしれませんし、あるいは私よりもお尻を叩かれるのに慣れていたのかもしれません。
私の涙には先生になにがしかの影響を及ぼす力は全くなく、これは誓って言えますがむしろ4発目はそれまでよりも力をこめて打たれました。それから、身体を起こしてお尻ともども教室に戻るように言われました。フォローする一言も、慰めの言葉も、追加のお説教もありませんでした。
さらに、家に帰ったら大目玉を食らうだろうことを私は心の奥底で悟っていました。学校で不品行を働くことは母の中で最大のルール違反とみなされていたからです。その話はまたの機会にしたいと思います。
***