技術未来予測(暫定版)
主に技術的なブレイクスルーがいつ起こるかを最新の論文や本やネットでの知識+未来予測統計サイト等を包括して自分なりの直観でざっくり予測してみました。頻繁に改定していくかもしれません。根拠などは今後アップしていく予定です。
○2026
テキストベースチューリングテスト合格
○2030
映像、音声、テキスト混合チューリングテスト合格
全労働の0.2%AI代替
○2032年
レベル5自動運転市販
○2035年
汎用人工知能開発
AR・Digital Twin化
○2040年
全労働の3%AI代替
○2043年
AIあらゆる分野で人間のトップの能力の「質」を超える。
○2045年
10億量子ビット100万論理ビット万能量子コンピュータ開発
技術的特異点到達
人間の外見と見分けのつかないヒューマノイド開発
日本ベーシックインカム導入
全労働の6%代替
○2050年
マイクロマシン(5μm)開発
全労働の10%AIに代替
スマートコンタクトレンズ普及開始
○2055年
核融合炉運用開始
全労働20%AIに代替
○2060年
フルサイボーグ技術開発
量子インターネット普及開始
全労働の47%AIに代替
非侵襲BMISNS普及開始
○2065年
宇宙エレベータ完成
癌完治
労働80%AIに代替
○2070年
常温常圧超伝導開発
○2075年
マイクロマシンフルダイブ開発
ナノマシン開発(数十nm)
労働の90%AIに代替
○2080年
人工意識開発
フルダイブ普及開始
○2085年
種子(フォンノイマン探査機)の実用化
実質的な不老技術開発
○2095年
意識のアップロード成功
〇2100年
月300万人
火星50万人
○2110年
常温核融合炉
常温万能量子コンピュータ
才能・知識のコピー技術開発
○2130
ヒトが超知能になる最初の事例
○2160
超知能へ国連(政治的意思決定権)機能委譲
○2180
ほぼあらゆる格差の消滅
○2250年
種子(フォンノイマン探査機)による地球からもっとも近い恒星への探査実現
人はその後入植
〇2400年
ロボット型、翼、水中型、様々に進化した有機、デジタル生命体が1兆以上存在
反物質をエネルギー源とする生成装置開発
地球から最も近い恒星への反物質宇宙船(人はソフトウェア化)での探査開始
宇宙船の材料をフォンノイマン探査機でもってこれないため、直接宇宙船を持ち出すしかない。
○3400年
地球から最も近い恒星への反物質宇宙船(人はソフトウェア化)での探査実現
○西暦5000年
フェムトマシンの開発
○20万年
余剰次元の情報の操作技術(ブラックホール利用)
〇300万年
銀河系全体へ進出(反物質航法による実現)、宇宙外への情報移転技術開発(ダークエネルギー、巨大ブラックホール利用)。別次元への探査開始。
別宇宙へ人類入植
◯400万年
ワープ航法開発
〇500万年
銀河団全体へ進出
〇1000万年後
観測可能な宇宙全体へ進出
<地球>が存在していた観測可能宇宙には知的生命体は存在しないことが確認されるが、他でファーストコンタクト
○西暦1億年
ある意味で一元化する知の集積は在る種の〈限界定理〉によって、非本来的だと直観された。〈限界定理〉はホモ・サピエンスのニュアンスで証明の系列を認識する記憶的、疲弊的限界が存在することの数学的事実だった。これは汎ゆる抽象構造に対する思考に適用
〇西暦10億年
数理体系らがゆるく繋がることでおこるある種の可能性の制限を乗り越えるため、他の数理体系と切断選択
方方に散った定理群と精神主体は他の宇宙を創出
○西暦100億年
ハイパーカオス。
全く新しい世界秩序の誕生
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〇人工知能の未来予測
23年,画像感想可能、エピソード記憶の付与
MARCH合格レベル
2024,流行反応可能、音楽感想可能、早慶合格レベル
2025年、リアルな音声読み上げシステム。簡単な課題、環境が制御されたところで様々な現実上のタスクを実行。例えば「リンゴをとって、黒い箱に入れておいて」など
二足歩行、ジャンプ、手掴み、階段の登り降りなど実環境での活動の各アクションを滑らかにできるAI誕生
テキストベースチューリングテスト合格(記憶ある程度あり)
東大合格
27年、映像への反応可能、東大医学部合格
28年、対話型検索システム普及、チャットAI普及
会話の間や息遣い、抑揚なども文脈に応じて音声再現
2029年
リアルタイム1人音声会話可能
2030年
対面ではなくネットで話すならほぼ人間と識別できないAI実現、仮想世界でのチューリングテスト合格
複雑な環境下で単純な課題をこなすロボット実現
東大医学部トップ合格
国際数学オリンピック優勝
2031
コーディングデバックバージョン互換性含めネット検索、妥当
なプログラム生成、普通のプログラマレベル
パトナム数学満点
2032
コーディングレベル効率性も考慮、そこそこ優秀なエンジニア
2033AIコーディング優秀なエンジニアレベル
2034年ソフト上適応力人間レベル質は普通の人レベル、複雑な環境で多様な課題可能、AI論文執筆で補助開始
コーディングレベルトップエンジニアレベル
Miklós Schweitzer Competition満点
2037年現実適応力人間レベル、質は普通の人レベル、1000人に1人
2040年100万人に1人、AI論文執筆主体的に新しい発想開始、ノーベル文学賞
2041年1億人に1人レベル
2042年世界トップレベルの天才超える
2043年あらゆる学術領域で主要な論文筆頭著者
2044年実効的に人類総和知性同等到達、人類が一年に創出する論文の質と同等のレベルを一年で創出。ノーベル賞自然科学。サッカーバスケで世界トップに勝つ。
2045年シンギュラリティ、人間の能力を拡張しないと追い付けないレベル、AIによるAIの説明で解像度が落とされる。誰1人も理解できてない主張がどんどん増えていく段階。増え方は巾乗。人間がわかることとAIがわかることの比で前者が小さくなっていく。数学ブレイクスルー賞
・包括的知性
2035 1/2
2037 1/1000
2040 1/100万
2041 1/1億
2042 1/100億
2043年有史以来誕生したことのない質の知性
上記は質。これが線形に足し合わされた数でハードの拡張は可能。
・数学的模倣知性
2030 1/1万人
2034 1/10万人
・数学的知性
2036 1/1000人
2037 1/1万人
2040 1/1億人
2041 1/100億人
2042 それ以上
〇メディアの未来
2025~30でARVRグラス普及(スマホの画面を表示、ネットワークの情報を表示レベル?)
30~35現実世界との対応AR普及し出す
35~40年AR一般化(ミラーワールド化
2040~非侵襲bmi(読み込み、単純な書き込み)アーリーアダプター利用開始
2045~非侵襲bmi(読み込み、単純な書き込み)普及開始、スマートコンタクトレンズアーリーアダプター利用開始
50~非侵襲bmi(単純五感書き込み)普及開始、スマートコンタクトレンズ普及開始
60~非侵襲セミフルダイブ普及開始
小型侵襲bmi普及開始
2065~非侵襲bmisns普及開始、ナノマシン普及開始
2075~ナノマシンbmi普及始め(五感刺激、脳補助等)
大型侵襲bmi普及開始
2080~ナノマシンBMI普及開始(フルダイブ)
2115~不死(マインドアップロード)技術普及
ーーー
2025~35ARSNS化、動画の三次元化、アバターでARコミュニケーション、BMIは医療用で主に使われる。VRはゲーム、産業用など。日常はAR。
2035~街のAR化
2045年自分の表情や動作をアバターに真似させることがbmiによって一般的になり始める。
2050スマートコンタクトレンズ普及開始
2050~2075にかけて非侵襲bmiによる刺激開発クオリティがあがりフルダイブに近いものになっていく。
2055、気分の共有
2065、非侵襲bmisns普及開始(五感体験共有)
2080~日常の大部分を完全なフルダイブvr上で過ごしはじめるひとが出始める。
ーー
無線給電2045~敷設
2055年普及
ーーー
2030~2060 vrスーツ等
2045~2060 部分的非侵襲単純bmi
2060~2080 非侵襲BMI
2060~小型侵襲bmi
2065~ナノマシン部分適用
2075~大型侵襲bmi
2080~ ナノマシンフルダイブ
〇生命科学系の未来
2035年
95歳延命可能
-10歳
2040年
100歳延命可能
平均寿命83
-15歳
2050年
平均寿命85
110歳延命可能
-25歳くらい若くする技術(表面レベル)
2055年
平均寿命87
115歳延命可能
-30表面
2060年
フルサイボーグ技術
脳の不死技術
平均寿命90
遺伝子操作記憶知性の強化可能
遺伝子操作による寿命150年以上200年以下可能
老化抑止技術により120歳まで延命可能
-20歳くらい若くする技術(細胞レベル)
-40歳表面レベル
2065年
平均寿命92
遺伝子操作による寿命200年以上300年以下可能
老化抑止技術により125年
-50歳表面
2070年
平均寿命93
老化抑止技術で130年以上可能
-40歳くらい若くする技術
-60歳表面
2075年
135
平均寿命95
-50
-70
美少女に整形で男でもなれる技術
2080年
145
平均寿命97
-60
2085年
20歳のままのすがたで老化抑止可能
実質的な不死技術開発
外見を完全に若くする技術の開発、-70歳とか
人間ならどんな人にも整形できる
2095年
平均寿命100
マインドアップロード
サイボーグへのアップロードも可能
2100年
動物アンドロイドへのアップロード可能
ヒトバイオロイドにアップロード可能
平均寿命105
2110年
外見の任意変更技術開発
動物への整形可能
2130年
外見の変更ポップになる
動物への任意変更技術開発
2170年
動物みたいな人すこしいる。
ーーー
ナノマシンでにきびやしみをなおすことが2070年にできて、2075年頃から普及する。
体外で子どもを受精から育てるサービスが2050年頃からはじまり、2070年にはわりと普及する。
ーーー
遺伝子治療やナノマシンで各種生体機能エンハンス2050から2070~一般化
ーーー
人工冬眠
2040年、2週間実用化
クライオニクス
2060年、1年
65年、5年
70年、10年
75年、50年
80年、100年~
ーーー
2030年
体内ナノボット臨床応用
2035年
先天性の疾病予測可能→編集可能2040
2040年
歯の再生、目の点眼による視力矯正処方開始→2050年普及
体内ナノボット一般処方しはじめ
体液サンプリング端末普及開始
携帯端末で予防医療アドバイス等始まる。
個人に最適化された機能性食材合成
1部手術でAIロボ担当し始める
2045年
ips細胞でのあらゆる組織の再生、デジタル眼球開発
知能才能や容姿の予測可能
食による知覚や記憶や能力への介入開発
人工皮膚コスメ
2050年
歯の再生、目の点眼による視力矯正普及
2060年薬剤師消滅、医師による処方をAIが出す。
2065年
癌完治
他の人の身体に自分の脳をうつしかえる技術開発
2070
変なロボットにサイボーグ化可能
2075年
知性をもつ動物遺伝子改変で実現
2080年
サイボーグ普及
遺伝子改変による外見の変更、人種、人間外へしはじめる人出てくる
2090年
バイオロイドに脳を移植した人が普及
●汎用ロボット・汎用AIの存在数(世界)と労働代替
2025、1000体
2030、20万体、0.2%代替、1年で日本2026~2030期間800~1200体
2033年、1%代替
2035、100万体、20億疑似汎用ソフト 、1年で3200~4800体
2036、2%代替
2040、3%代替、1000万体、20億ソフト汎用知性、3.6万~5.4万体
2043、4%代替
2044、3000万体、60億ソフト汎用知性
2045、4200万体、75億ソフ ト汎用知性 6%代替、12.8~19.2万体
2048、8000万体、120億ソフト汎用知性 7%代替
2050、1億3000万体、10%代替、45万体
2052、2億体、150億ソフト知性、
2055、3.2億体 、 20%代替
2060 6.6億体、 47%代替
2065,12.1億体、 80%代替
2070 16億体のアンドロイド 85%代替、200億汎用ソフト
2075 90%代替 20億体
2080 92%代替
2085 95%代替、300億汎用ソフト、30億体
2100 500億汎用ソフト 40億体
2150 誰もしなくてよい
ーーーー
2035年オペレータAI代替、レジの人代替、ホールスタッフ消滅、段階的ベーシックインカム導入、プログラマ1割消滅
40 、プログラマ3割消滅
42年、テレアポAI代替
43年、日本ベーシックインカム導入
45年までにタクシードライバー・トラックの運転手がなくなる、通訳いなくなる。プログラマ5割消滅
2050プログラマ8.5割 SE3割消滅
2055年レストランスタッフがなくなる。営業の7割代替。5割SE、専門職代替、営業の5割代替、コンビニやスーパーの店員人形ロボット、事務職なくなる
2060年までにSEの7割がAIに代替。建設・運搬作業員7割なくなる。弁護士、会計士、コンサル、銀行家、金融ホワイトカラー専門職の5割がAIに代替。看護士、介護士、保育士7割代替。薬剤師代替。
2065年
SE、ホワイトカラーの9割AI代替。公務員の9割AI代替。警察消防防衛9割人間をアンドロイド代替。建築運搬介護看護保育代替
2070年
SEホワイトカラー9.5割代替
2080年
教師代替。
外科以外の医師の役割がAIに代替される。
2085年外科も9割代替される。
2090年水商売9割代替または消滅(フルダイブやセクサロイドやバイオロイドの普及による、金銭の価値低下による)。
2100年までに科学者数学者政治家経営者マネージャや責任者以外はAIとロボットに代替される。人間がでる幕は300人に1人程度のマネージ。
2160までに、政治家意思決定権も実質AIに代替される。というよりはAIと人間の区別がない。
(シンギュラリティから115年後、マインドアップロードから70年後、人間がはじめて超知性になってから30年後、人間とAIの区別が曖昧になっていってるため)
ーーー
シンギュラリティ後、人間は能力をエンハンス(BMIやナノマシン等)することで対応。
2040~bmi、マイクロマシンでの強化
2095~脳を離れての強化
2130~は人間が超知性になることで対応
60年以内に科学者と政治家責任者以外は職業として消える
140年以内にすべての人間の役割がAIに代替される
ーーー
2037 3000万円
2038 1500
2039 1000
2040 600万円
2045 300万円
2050 200万円
2055 100万円
2060 70万円
ーーー
2035年、段階的ベーシックインカム導入
2037~39年は労基法的に辞めさせられない的な
2045年に完全ベーシックインカムでやめるひとがふえる
2050年代に仕事が凄まじい勢いで人工知能に置き換わっていく。
2055年からヒト型アンドロイドの大量導入と、汎用人工知能220億ソフトがいっきに、それまでの2040年あたりからの実績と信頼感を得て人間を代替する。
肉体労働35%
AI能率1.5倍
7000万人×0.35×0.7=1700万
5年普及にかかる
1910年代T型フォード
10年は大量生産のノウハウ、10年は世界大戦のため除外
30年で1000万
40年で3000万
60年5000万
80年で9000万
車一台=4台のヒト型アンドロイドとする。200kg
〇人間の格差や悩みの消滅年代予測
格差の種類
・性愛→2048年美少女アンドロイド市販→2070年100万円程度
2075年セミバイオロイド普及
2080年フルダイブ普及
2085年バイオロイド普及
・労働→2060,50%労働消滅
2085ほとんどの労働が消滅
・外見→2080(フルダイブバーチャルリアリティー、サイボーグ化)
2090若返り普及、90歳で20代とか。
2110(ナノマシンによる外見の変更)→2130(普及)
・不死(サイボーグ化)→2055年開発→2075普及
・不死(生物学的不死)→2075年開発→2095普及
・不死(マインドアップロード)→2095(開発)→2130(普及)
マインドアップロードしなくても他で生きられるから普及にじかんかかる。
・才能→才能のコピー技術2110(開発)→コンテンツ2130年あたりに充実→2150(普及)
・資産→2070年代から人間の知性のエンハンスがおこなわれ、超知性の考えることの理解をあげる→2130年に超知性に近くなる人間があらわれる→2160年、意思決定権の超知性への委譲で最適化された分散型合意システムが可能となる。本質的に格差をうみだす人間の認知限界を超えた社会システムを構成可能→2180年、資産の格差という概念が消失。価値基準の多様化、ランダム化、リゾーム状になり起こる。階級的な情報処理システムではなくなる。局所最適解が相互作用していく形。
→才能のコピーも可能なのである主体が多くの資産をもつ必然性がなくなり、一極集中はなくなる。
→何か大きなエネルギーを使用したプロジェクトをしたい場合も民主的に分散的な決定がなされる。
全体的に2180年までにあらゆる大局的格差は消滅する。→悩みのレベルの昇華
組曲「哲学は性欲に勝てない」
抽象的に真理を捉えようとする学問、哲学。
しかし、哲学はその代わり何かを抑圧して成立していると思いませんか?
https://www.youtube.com/watch?v=VMMYXMO7NEw&feature=youtu.be
そう、言うのも憚れる「あれ」です。
人類は「あれ」に類するものを乗り越えるため、言語を用いて神話や哲学を作ってきた。
報われない人たち、搾取される人たち、そういう人たちに別の可能性を、
現状維持ではない別の現実を、オルタナティブを!
そう、救済を何とか想像しようと哲学は作られてきたのではないのか?
だがしかし、てごわい・・・
衣食住は近代化で保証されてきた。格差問題や差別問題は残り、今日を生きるのにも必死な人たちもいるだろう。そういう人たちのほうが優先だ。それはそうだ。
だが、その次点で問題にされるべきものはなんだろう。
やはり「あれ」ではないか?
「あれ」はだれも話題にしない。
「あれ」を話題にしても頑張れ!というか、諦めろというかしかない。
きっと技術が進歩したらこの問題も、おそらく百年後くらいにはなくなっているかもしれない。
だがしかし現に問題としてあるのだ。
過渡期だからしょうがない、しょうがないものは言語=哲学の力でなんとかするしかない。
人類はいつだってそうしてきた。物語を作って人々に希望を与えてきた。
だが・・・
てごわい!!!!!!
普通に言語でどうにかなる問題じゃない。
哲学的真理に至って、みんな平等でこの世界は美しいみたいな悟りに至るのもつかの間、
僕はすぐに絶望する。
でもわからない。勝てないけど・・・人類のプライドにかけて
負けてはならないんだ。
ps ・・・SDGsにこの問題が入るのはいつになるんだろう
クアドラの数学的な比喩
〇公理と定理
数学には公理と定理というものがあります。公理とは前提となる命題と使える推論規則の組であり、定理とは前提となる命題に推論規則を用いて展開される命題のことを指します。ちなみに公理はTiFe(一般名詞的)であり、定理はFiTe(固有名詞的)と対応します。
そこで比喩を展開するために公理をシンボルと、定理をイメージに対応付けてみます。
シンボルは言語でありりんごとりんごでないものを区別することを可能にします。
イメージは言語が指し示す🍎そのものを指示しており、イメージが出てきたらりんごだとわかり、りんごでないイメージが出てきても「りんごではない」とイメージすることはできません。
ここにシンボルとイメージの非対称性があります。
言語はAとAの否定どちらも記述することを可能にしますが、イメージはAが来た時にしかAと言えない「列挙的」な性質を持ちます。列挙的というのはトランプカードを列挙する際に何が来るかを事前に予測できず、列挙されたものは列挙したときにしか「列挙されたものだ=定理」と言えない性質を形容するものです。
公理は公理じゃない命題がきたら、つぶさにその命題が公理に含まれるか調べることで「公理ではない」とわかります。
しかし、定理は公理からの演繹を「列挙」してはじめて「定理」だとわかります。よってある命題が定理か?定理じゃないか?は「事前に判定できない」ため、「定理は列挙的である」と言えます。
〇βγクアドラ(NiSe)
この世界はシンボルとイメージで成立していますが、その二つのうちどちらかを「世界の全て」であると直観するかによってβとγクアドラが分かれます。
ここでβクアドラは公理と定理のうち、「公理」がこの世界の全てであり、「定理は本質的には存在しない」と考えます。
つまりβクアドラはこの世界は全てシンボル=言語=TiFeによって記述できるはずだという信念を持つわけです。
一方でγクアドラは「定理」がこの世界の全てであり、「公理は本質的には存在しない」と考えます。
つまりγクアドラはこの世界は全てイメージ=固有名詞的な具体物=現実=FiTeによって成立しており、言語は副次的・ツール的なものに過ぎないと考えます。
ここでβγクアドラ双方とも実は「矛盾」している結論を導いています。
なぜなら、ゲーデルの不完全性定理から
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①βクアドラ
この世界の全てを証明すること。(この世界の全てを証明出来たらその公理と推論規則が本質的に世界の全てであり定理は存在しないといえます。これは例えば、10101010101010101010を定理として持つ世界は「10を10回繰り返す」という公理があれば再現可能だからです。これを「コルモゴロフ複雑性」とも言います(最後でちょっと紹介する概念です)。)
②γクアドラ
この世界の全てを証明できないと形式的に導き出すこと。(全ての命題が残らず証明できないならば、証明という概念が「厳密には」存在せず、「公理から何かを導く」ということもなく、この世界の全てを説明する公理がそもそも存在しないといえます)
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①②双方ができないとわかるからです。
数学が無矛盾ならば、ゲーデル命題、例えば「この文は証明できない」という文は証明も反証もできません。しかし、それを証明するのがγクアドラで、反証するのがβクアドラです。
γクアドラがゲーデル命題を形式的に証明すると②が成立し、βクアドラが反証すると①が成立します。
しかし、ゲーデル命題を証明もしくは反証できるとしたらその体系は矛盾します。よってβクアドラとγクアドラの世界観の根本は「矛盾」で成立していると言えるのです。
また「矛盾」からは何でも導けます。
よってβクアドラは矛盾から「すべて」を導きます。この「すべて」は可能世界のすべてというニュアンスであり、一般名詞的な様相を呈します。
βクアドラは全てを認識できる、そのためには現実を超えたすべての可能世界を認める必要があり、それはある意味一神教的な神を肯定する、「肯定神学」となるでしょう。
肯定神学は公理=言語=シンボル=TiFe=可能世界のみがこの世界の全てであるという主張です。
一方で、γクアドラは「何でも導ける、それが現実ならば」という現実の決定的な推移を決断する態度になります。この「何でも導ける」というのは、「現実しか存在せず、それがすべてだ」という意味で、可能世界さえも現実の中でしか思考できないことを意味します。これは神=言語は存在せず=否定し、定理=固有名詞=イメージ=FiTe=現実世界のみがあり、現実のみが世界の全てであるのだという「否定神学」となるでしょう。
これらの結論から、矛盾とはNiSeのことを本質的には指します。そして肯定神学も否定神学も西洋的な精神ですが、どちらも本質的には矛盾を内包する精神といえるでしょう。
逆に、NeSiは無矛盾な世界となるのです。世界に対する全体性への欲望が非全体性へ解消されている東洋的な精神は矛盾を本質的に内包しません。
これは直観的には
・NiSeの場合は異なる主張を一つの無時間な場(空間)に並列させるため矛盾が起こる。
・NeSiの場合は異なる主張を時系列的な契機(時間)のなかで直列させるため矛盾が起こらない。
と理解できます。
〇αδクアドラ(NeSi)
αクアドラ=NeSi×TiFeは世界に公理=シンボルと定理=イメージが存在することを認めたうえで、それら二つを時間的契機の中で両立(NiSeはどちらか一方しか認めませんでした。)させます。
ここでTiFeはシンボルへのベクトルを強化する方向に働きます。よってαクアドラは世界を公理化し続けるベクトルを意識する精神構造に対応することになります。
またδクアドラ=NeSi×FiTeも同様に公理と定理の存在を認めたうえで、定理の導出方向に意識を働かせる精神構造に対応することになります。
ここで公理とは可能性のことであり、定理とは現実性のことです。
公理に含まれる文字列含まれない文字列は判別ができるため、可能性を想像することが可能です。もしも、Aという公理じゃなくAの否定という公理だったら?というようにです。
しかし定理は列挙し続けることでしか定理を判別できません。これは現実が現実であるのがまさに「現実だからでしかない」ことと対応しています。
よってこのアナロジーを使えば、αクアドラは世界を公理化し続けることで、想像できる可能性を増やします。それは逆を言えば世界の分解能が上がるということで、世界そのもののエントロピーを下げる役割を持っているということです。進化論的にいうと世界に「適応」しているともいえるでしょう。
δクアドラは公理から定理=現実を導出し続けることで、可能性ではなく「現実」にフォーカスします。現実にフォーカスすると可能性は忘却され、世界そのもののエントロピーが増え、予期しないエラーにより淘汰圧を受ける可能性が高まります。進化論的にいうと「忘却」を受ける精神ともいえるかもしれません。しかし、この忘却は生存戦略もしくは世界認識を一新・更新するのには必要不可欠です。
〇複雑性とエントロピー
ここで分解能が上がるとエントロピーが下がる、エントロピーが上がると可能性は忘却されるといってきました。
これは正確にいうと、環境の複雑性=エントロピーを下げると、その分、分解能=システムの複雑性が上がるという補完関係にあるということです。
ここでは環境に対しているのはシステムです。
これはマクスウェルの悪魔という思考実験を説明するために導入される代表的な考え方です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
マクスウェルの悪魔では悪魔=システムそのものの記憶容量に対して複雑性を導入することで、環境のエントロピーが下がっても
システムの複雑性が上がるため、全体としてのエントロピー増大測には反しないというパラドックスの解決方法になっています。
また、システムの複雑性を下げる(ある意味での記憶の忘却)と環境へ「熱」が放散され、環境のエントロピーが上がるという関係もあります。
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このようにシステムの複雑性と環境のエントロピーというのがある意味で補完的な関係になっているということが示唆されます。
これは公理と定理の関係がシステムの複雑性とエントロピーに対応し、システムの複雑性が上がることが世界への識別性の増加=可能世界の増加=TiFe的な判断の増加を意味し、
エントロピーが上がることがシステムの複雑性が下がり、世界への識別性の減少=可能世界の減少=記憶の忘却=現実性、リアリティの増加=FiTe的な判断の増加を意味すると考えられます。
TiFeは本質的には可能世界を広げ、FiTeは本質的にその広げ方を狭めることで新たなTiFeの可能世界の広げ方を開拓するという、進化の適応とその適応能力の忘却=淘汰に対応することになると考えられます。
進化の適応と淘汰、忘却は本質的に「時間的な概念」なのでそれらはNeSiをもつα、δクアドラの世界観となるのでしょう。
〇βγクアドラの別の比喩
ここまでの概念を使って別の比喩を行います。
βクアドラは公理のみの世界でした。すなわちエントロピーはゼロということです。これは完全に言語によって秩序化された世界という比喩が使えるでしょう。エントロピーがゼロということはある意味で世界から新規の情報を得ることがないため情報量もゼロです。情報量とはここでは珍しさ、を示す尺度です。エントロピーゼロ、情報量ゼロの世界はある意味で完全なる自明な世界=トートロジーの世界を意味するでしょう。
γクアドラは定理のみの世界でした。すなわち公理がゼロなので相対的にエントロピーは無限大ということです。これは完全にカオスな世界、何が起こるがわからない世界、において偶然「この現実」であるという状態をよく表していると考えられます。また無限の可能性から「この現実」であるという状態は実質情報量は無限大です。情報量が無限大というのは「もっともあり得ないことが起こる」ということです。あり得ないことの最北は「矛盾」でしょう。もちろん本質的にβクアドラも矛盾しているのですが、矛盾と完全なるトートロジーは表裏一体ということだと考えられます。
γクアドラの代表格であるニーチェはギリシャ的世界を模倣しました。そしてギリシャ的世界の本質は宮台真司によるとカオス=無秩序を前提としているというところとも符合していると思います。
〇コルモゴロフ複雑性と論理深度
ざっくりシステムの複雑性とエントロピーについて説明してきましたが、これは正確に言うと「コルモゴロフ複雑性」と「論理深度」という概念に数学的(情報理論的)には対応していると考えられます。
ここではざっくりとした説明にとどめますが、コルモゴロフ複雑性とはある定理を導くための最小のプログラム=公理のサイズのことです。
論理深度とはそのプログラムがある定理を導くために要するステップ数のことを指します。
直観的には例えば10101010101010101010を出力する公理の候補として「10を10回出力せよ」があげられます。イメージとしてはコルモゴロフ複雑性とはここでいうところの「10を10回出力せよ」の文字数です。そして実際にそれを出力するまでに要するプログラムの中間ステップ数を論理深度と呼んでいるのです。
そしてコルモゴロフ複雑性を大きくすれば、論理深度は小さくて済みます。なぜなら出力するまでの中間ステップ数すらもプログラムの中=公理として解釈してしまえば、論理深度=中間ステップ数は小さくなるからです。逆に公理の大きさを小さくすると論理深度は大きくなる傾向にあります。
これはシステムの複雑性とエントロピーが反比例のような関係になっているのとアナロジーとして対応しているでしょう。
よってもっと厳密にはコルモゴロフ複雑性(=公理)と論理深度(=定理)という概念によってクアドラを基礎づけることができると考えていますが、ここでは直観的な理解を主軸にしています。
δクアドラの世界認識
δクアドラ=NeSi×FiTeの世界観は一言でいうと、アニミズムとなります。この世界全体を変化するものとして直感し、かつ物質的なこの現実を基盤として可能世界に先行させます。
γクアドラの世界観が永劫回帰するループ映画フィルムだとしたら、δクアドラは変容し続ける現実を捉え続け、世界そのものを映し続けるリアルタイムの映画のようなものでしょうか。
また、アニミズム=汎心論は汎神論=ギリシャ神話的=γクアドラ的とは異なります。ギリシャ神話の世界観はループする円環的な時間構造がその本質にあり、その各場面で様々な神が現れているというような構造となっているのですが、アニミズムはもっと原始的であり、神ではなく、心が自然に宿っていると考えることでしょう。アニミズムは神話が生まれるより以前、紀元前5000年前以上から、つまりホモサピエンスが誕生したときから既に存在すると考えます。
心が自然に宿っているという考え方は老荘思想や神道にも通じる世界観であり、基本的には仏教的ならせん構造を時間的な推移は描きます。私もあなたも動物も自然も心を多かれ少なかれ種類は異なれど持っており、それらが輪廻転生していく世界観です。
輪廻転生を仏教は本質的に苦ととらえそこからの解脱により悟りを得ますが、δクアドラの世界認識は、現世利益を重んじます。しかし、永劫回帰のように一回限りの人生であるという感覚は少なく、自分自身も変容していき、子孫にその心が移っていくというような直観をしているため、言動にγクアドラの決意のような熱さがみられるというよりは「逡巡やためらい」を感じさせることが多いように感じます。
その逡巡やためらいはどのクアドラでもあり得ますが、特にNeSiをもつタイプδαでは本質的です。世界を本質的にらせん構造でとらえたり、変化するものととらえる時空認識においては、世界は「変化している」と断言できるものでさえありません。そこにあるのは困惑、や迷いであり、そしてそれこそが弱さの哲学とでもいうような東洋的な神髄をあらわしているとも言えます。
余談ですがアニメーションの本質もδクアドラにあると考えます。アニメーションとはもともと西洋では落書き的な「不真面目なもの」から生まれ、東洋では絵巻物にその精神が見て取れます。不真面目なものとはそれすなわち西洋的な真面目さからみた評価であるため、一般的な意味合いではありません。その本質は「世界を不定」とみる態度のことです。アニメーションの語源はアニミズムから来ていて、一回限りの、しかし作者が違えば変容も可能なキャラクター=固有(FiTe)な主体を主軸にしたメディアといえると思います。
γクアドラの世界認識
γクアドラ=NiSe×FiTeの世界認識は一言でいうとニーチェ的世界観を呈します。
この世界は不変であり、かつ固有名詞的=この現実がこの現実である事実そのものであると直観知覚するわけです。
ニーチェは永劫回帰という概念を提唱しています。この物質的な世界もしくは現実世界が永遠に全く同じ様相・状態でループをし続けるという世界観です。
その世界に本質的には「変化」は存在しません。あるのは「瞬間」と「永遠に変わらずにそこにある現実そのもの」です。例えて言うならば、「ループする映画」に近いでしょう。映画はそのフィルムに刻まれた現実を流しますが、そのフィルムがループしたらそこに本質的に変化はありません。
物質的な不変性というとイメージがわきずらいかもしれませんが、βクアドラの世界認識である可能世界論(様相実在論)と比較するとわかりやすいかもしれません。ここでいう可能世界論とはこの現実というのは可能世界のうちの一つの選択肢に過ぎないという考え方です。
一方でγクアドラは可能世界というのはあくまでも「現実という基盤の上での便利なツール」としてしか存在を認めません。可能世界というのはあくまで現実をより豊かに認識するための便利なフレームワークに過ぎないのです。
これは究極的には数学と物理どっちが先にこの世界を支配しているかという古来からある抽象と具体の卵と鶏の話にも近くなります。ここでγδクアドラは物理を先行するものとして考え、βαクアドラは数学と考えるわけです。
よってγクアドラの世界観にいると、時間の浪費をとてつもない損失だと考えることでしょう。なぜなら一回限りのこの「生」しかこの宇宙にはなく、それを補填する「あの世」はあり得ないからです。あの世は物質的な世界観を基盤とする限り人間のルサンチマンに過ぎないと考えることでしょう。なので力強く情熱的な世界観にもなり、βαクアドラと違ってどこかウェットな印象を受けます。
βクアドラの世界認識
βクアドラ=NiSe×TiFeの世界認識は一言でいうとキリスト教的な世界認識を構成します。
キリスト教的な世界認識とは、この世界には不変性=超越的な何か=唯一神、スピノザの神、ヘーゲルの絶対知等々が存在すると直観し(NiSe)、かつその存在は一般的=物質的・固有名詞的なものではなく概念的なものだと認識します(TiFe)。
我々が住んでいる現実はより超越的なものの移し影であり、現実とはある種の錯覚に過ぎないと主張するでしょう。この現実はある種の錯覚という考え方は仏教的な考え方(αクアドラ)にも共通する枠組みですが、仏教の場合は空概念による実体性のなさを主張する点が、超越的な実在を主張するキリスト教的な世界観とは異なります。
またγクアドラの世界観も不変性を直観していますが、それは物質主義的な世界の不変性であり、「この現実」の不変性を示していて、「あの世」というような概念的な世界のことを意味しません。
「この現実で耐え忍べばあの世で幸福になれる」という考え方は、キリスト教の救済思想、近代哲学の啓蒙思想(この場合あの世というのは理性的な幸福を指したりします)にも共通する考え方となります。
またxSTPの世界観とは一見すると矛盾するような清廉とした秩序だった世界観ですが、むしろ世界が不変=安定しており、かつ固有ではないことでサバサバした印象をもつ言動となるのだと考えられます。つまり無意識下ではキリスト教的な世界観をもっているがゆえに、世界が絶対に安定≒もうすでに皆救済されているため、安心して遊ぶ=Seの発露に近いと考えられます。
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αクアドラの世界認識
αクアドラ=FeTi×NeSi=一般性×変化となっており、この世界認識に対応している代表的な宗教は仏教となるでしょう。また西洋哲学で言うとジャックデリダのエクリチュール論にも近いと感じています。
αクアドラの存在論的な立場としてはこの世界を本質的に変化し続けているものと直観しています。この立場は東洋一般の立場に近く、また西洋哲学でいうところの現代思想に近いものになっていきます。基本的には西洋哲学やキリスト教的な世界観は不変性を直観していますが、東洋はあらゆるものに対して変化を直観します。その結果仏教でいうところの諸行無常、あらゆるものは留まることを知らないため、世界に実体はなくすべては関係性にすぎないという観点も出てくるでしょう。
αクアドラの認識論的な立場としてはこの世界を本質的に数理や概念としてのみとらえており、固有名を持つもの(自我)や物理的なこの世界は概念から派生したものであり、本質的には数学というイデアが自我や物質的なものを表象として生み出しているにすぎないと理解します。これは自我や今世=この物理的宇宙に対しては否定的になる傾向を持つことにつながるでしょう。色即是空となるのです。
ちなみに数学と申しましたが、数学を実在視する数学的実在論とは仏教は違うことに注意しなければなりません。数学的実在論はどちらかというとβクアドラの世界観に近くなりますが、αクアドラの場合は数学の開かれたその解釈の開放性に重きを置いており、その解釈が一意に定まらないそのフラクタル的な基盤のなさを空と表現するのです。フラクタルとはどんなに拡大してもその部分が全体と相似となる図形のことであり、どこまで原因や結果を遡行もしくは予測しても全体性を認識できず、全体が部分になってしまい、部分が全体になってしまうという観点が含まれています。よって、このような前世の写し鏡のようになった来世を輪廻転生し続けることになってしまうのです。
αクアドラは輪廻転生を完結した円環構造の中ではとらえません。むしろ円として閉じてしまった場合、それは不変性を帯びることになるので、あくまで円として完結する世界把握ではなく、始点と終点がずれて螺旋をまくような構造を想定するでしょう。ちなみに、輪廻転生を円環構造に焼き直したのがニーチェであり、彼はγクアドラで不変性=NiSeを保持していると考えられます。
最終的にはこのような螺旋構造の輪廻を否定的にαクアドラはみています。その本質はFeTiという心理機能が自我やこの私といった固有名を理解しないからであり、解脱によってこの苦しい物理的表象の世界から空を理解しようとするでしょう。空というのは神の否定で得られるカオスや絶対無ではないことに注意を要します。それは否定神学と呼ばれるものに近く、神を否定することそのものが神の無意識的な肯定を意味してしまいます。空はそもそも神か神がいないかという二項対立以前であり、その間にある観念です。
αクアドラはこのような二項対立以前もしくは間というものを直観し、二項対立という空間的な場における操作それ自体を変化もしくは溶融させるその動きそのものの中に本質の不在を直観するでしょう。
クアドラ毎の世界観
今までFiTe=固有性、FeTi=一般性、NiSe=不変、NeSi=変化を見てきました。これら心理機能はNとSの「そもそも世界がどのように存在するのか(存在論)」という観点とFとTの「そもそも我々はどのように世界を認識するのか(認識論)」という観点の双方が必要になります。これら二つの観点を組み合わせたものが世界に対する哲学的態度となり、それは世界観や人生観そのものを形成します。
クアドラは以下のようになっております。
αクアドラ=FeTi×NeSi=一般性×変化
βクアドラ=FeTi×NiSe=一般性×不変
γクアドラ=FiTe×NiSe=固有性×不変
δクアドラ=FiTe×NeSi=固有性×変化
これらは根本的には以下のような世界中の宗教や哲学に対応関係があると考えられます。
αクアドラ=仏教、デリダ、ショーペンハウアー
βクアドラ=キリスト教、近代哲学
γクアドラ=実存主義(ニーチェ)、資本主義、ギリシャ
δクアドラ=神道、アニミズム、ベルグソン、ドゥルーズ、ホワイトヘッド
今後詳しく各クアドラの解説をしていく予定です。
MBTIの哲学的基礎づけ(10)判断機能②
前回は判断機能について一般性と固有性について話しました。今回はFとTの違いに相当する有限と無限について説明します。
有限
有限とはFに対応しています。有限とは比喩的に言うと、細胞膜のように閉じた境界面をもつもので限定される部分のことであり、生命そのものを意味しています。これに対して生命の外にある環境は閉じた境界面を持ちません。ここで境界線と閉じた境界面は違います。境界線は世界を切り分けることであり、言語化機能一般をさすので判断機能全ては境界線を引くことに対応しています。しかし、有限とは境界線や境界面を閉じる必要性があります。
生命の本質は有限の境界面を持つことにあり、そのことで”意味”が生じています。無限に発散する世界全ての構造のただなかにいた場合、差異のみはありますが、そこに意味が生じないと考えられます。これはソシュールのシニフィアンとシニフィエのシニフィエに対応していると考えられます。シニフィエはその言葉の意味に対応し、シニフィアンはその言葉の音の差異に対応しています。シニフィアンのみだと言語の構造があるのみで、その中にその言葉が指示している対応物の意味はありません。ここでシニフィエのシニフィアンとの本質的な違いは何かを限界づけることです。それが境界を閉じることにつながります。
FiやFeは前者が固有性を持った生命に対応し、後者が一般性を持った生命に対応します。Fiは個人の意識に対応していると考えるとわかりやすいと思います。また、Feは人類の意識や生命の意識に対応しており、あらゆる可能世界を想定するときに必要な視点を提示してくれます。ある意味で有限によって私や我々以外の環境に対する視線を確保することができるのです。
またこれは知恵の実と生命の実でいうと生命の実に対応しています。
無限
無限とはTに対応しており、生命や境界の閉じたものから離れた無境界で開かれた世界に対応します。生命に対する環境に関する判断機能と言ってもいいでしょう。そこには境界線は判断機能による言語化によって作られていますが、「閉じた境界面」はありません。よって意味の世界ではなく、構造の世界を指向します。これはシニフィエではなく、シニフィアンの世界ということです。言葉の意味よりも、その言葉の差異や構造そのものに関係しています。またこれは知恵の実を示しています。言語の中でも最も言語に近い判断機能と言えるでしょう。
MBTIの哲学的基礎づけ(9)判断機能①
判断機能について深堀
判断機能について、さらに深堀します。判断機能は世界に境界線を引くことであり、言語活動の機能に関係します。ここで、判断機能に対して取りうる態度は大きく分けて2つあります。それはあらかじめいうと、固有性=FiTeと一般性=FeTiになります。
古来からある二分法であり、固有性が具体に一般性が抽象に該当します。ギリシャ哲学ではプラトンが善のイデアを最高位のイデアとしましたが、イデアは一般性に該当する概念です。またアリストテレスは個物のほうを第一実体として優先的に取り扱い、述語=一般性を第二実体とし二次的なものと捉えました。その先に不動の動者と呼ばれる実在を観照している点では、結局はNiSe的な価値観をどちらも持っていると言えますが、それはともかく、固有性と一般性の対応は固有性が個物、具体、主語に対応し、一般性が普遍、抽象、述語に対応しています。
固有性
固有性とは世界内に存在する具体的な事物に相当します。りんごというグループが一般性であり、個々のスーパーなどで売っているリンゴそれぞれが固有性に対応します。そして究極的には固有性の意味とは<この>という指示代名詞にあります。
スワンプマンという思考実験があります。全く自分自身と同一のコピーがある日湖の上で雷のせいで作られてしまったら、そのとき自分の意識はどちらに存在しているのだろうかという問いです。この時ポイントとなるのが、全く同一であった場合にはそもそもコピーが存在するという事実さえわからないため、この思考実験が有効になるためには、コピーされた次の瞬間から違う化学組成やニューロンのシナプス間の電位がなくてはならないということです。
それではこの思考実験で固有性に関して言えることとは何でしょうか。それは「どちらの可能性もありえたのに現に<この私>の視点から見えている」という事実が固有性に対応します。ポイントは可能性をいったん経由している点です。可能性を経由しなければあり得たかもしれなかったのに現になぜだか私はこの私であるという差異さえ認識ができないからです。また、これは人間に限らずこの世界全体に対しても言えます。
物理定数が現にこのようなものではなかった世界もあり得たのに、<この世界>はこのような物理定数で成立しているという点です。
前者がFiに対応し、後者がTeに対応するでしょう。この場合どちらも<この現実>にフォーカスを与え続け、あり得たかもしれないのに現に今このようになっているということ自体に価値を置きます。つまり固有性とはこの現実そのものを指しているといっても過言ではありません。
一般性
一般性とは世界内に存在する具体的な事物の属性を指します。また一般性は<この>という指示代名詞を無化する方向性にいきます。そのため、具体的事物や現実的な存在よりも可能性一般に焦点を合わせます。よってスワンプマンの場合は、自分自身と同一のコピーが作られたとしても、それはどちらもが自分であり、何の疑問も不思議も感じることは原理的にあり得ず、本質的にこの問題の意図を理解しません。なぜなら、どちらの可能性もありえたのに、なぜ<この私>の視点からなのかというこの、なぜ<この>を理解しにくいからです。
また別の比喩で言うと、設計図と設計されたものの違いが前者が一般性、後者が固有性に該当します。もし神様が存在したとして、この世界のすべての設計を考えたとします。そして、その設計をそのまま頭の中で可能性として理解するのと、そこからある種「光あれ」といって、世界を作り出してしまうことの”差異”が一般性と固有性の違いです。
固有性からしてみたら、その差は歴然としていて、可能性の中にとどまっているのと、”実際に”作り出すのは別物のように思えます。しかし、一般性の側からしてみたらその作り出すという行程さえも設計済みなのであり、わざわざ”実際に”と強調する意味が分かりません。
これはなぜあなたはあなたなのかという問いに意味を感じられるか否かということにも対応します。固有性の側からしてみたら、様々な可能性がある中で現にこの私から世界が開けていること、これを永井均の用語で独在性、もしくはウィトゲンシュタインの私的言語と呼びますが、この固有性そのものを明確に認識します。
しかし、一般性からしてみたらあなたが感じているその独特の固有性というものはただの神経回路の作用に過ぎないし、それをわざわざ強調する必然性を理解しません。それはこの現実よりも可能性を重視しているためです。つまり、現実というのは可能性の一部にしか過ぎないと考えるのが一般性です。
判断機能図
有限 無限
固有性 Fi Te
一般性 Fe Ti
MBTIの哲学的基礎づけ(8)知覚機能⑥NiSeNeSi
NiSe
NiSeの世界観は比喩的に言うと、ある形の崩れない抽象的な箱があって、その箱内部に無数の写真が乱れておいてあるような世界観です。この形の崩れない抽象的な箱がNiに相当しており、無数の写真がSeに対応しています。普段我々は目の前の光景を偶然的なショットとして知覚しているわけですが、そのショットには瞬間という観念が理念的には存在しうると考えられます。例えば理念的な点は実際には目に見ることは不可能でも、そのような存在を仮定することはできます。そのような一瞬や点のような編集不可能でそれ以上壊すことの原理的にできない純粋な知覚体験が無数に寄り集まって空間的な世界を形作っています。
また、Seでとらえた瞬間とその一瞬前の瞬間は原理的には何の関係性もなく、脈絡もなく途切れているはずです。なぜならば、瞬間には部分がないため、その前後関係を確定する情報を持ちえないためです。それができるのは幅が存在するSiのみです。Siには現在と連続した過去の記憶や持続が複層的に埋め込まれています。しかしSeは一瞬で、現在のみなので、ある種すべての無数の瞬間と空間を通して関係しあっているという世界観にもなります。これは、ライプニッツのモナド論の世界に近く、無数のモナド=写真がそれぞれ大きな箱=絶対神を通じてすべてがつながりあい、そのなかに収まっているという哲学的な世界観です。前後関係はSeにありませんが、「全ての瞬間」との関係性はSeにはあるのです。
また別の比喩であらわすと写真展がいいかもしれません。様々な写真が無数に飾られているその写真展はある写真家の写真展です。しかし、その写真家は匿名で誰にも姿を公表しません。しかし、その写真家がいなければこれらすべての写真は存在さえしないものです。このように一つの写真=Seには映ってはいないけれども絶対にそこに必要とされる存在=写真家が神であり、それこそ箱そのものなのです。
上記のような説明だとそこにないものといいましたが、基本的には絶対無の観念をそこでは指しています。絶対無とはあらゆるものの否定であり、神様は全ての属性を持つ万能な存在なんだから、絶対無とはかけ離れていると思うかもしれませんが、絶対無というのは何の制約もないという意味でもあり、そこに万能性を見出すことで絶対無=絶対有=神と成り得ることになります。
このようにNiSeの世界観には基本的には一神教的な神もしくは絶対的な空間が存在しており、それがあるからこそすべての物事は最終的にはどこかで定まっていて、不動なはずだという決定論的な世界観にもなります。空間の本質は「すべてを一挙に見ることができる」だからです。
基本的にNiSeの世界観に合致する社会システムは西洋であり、これはキリスト教や啓蒙主義や科学の発展とも関連しているでしょう。おおざっぱに言ってしまえばキリスト教も科学もある唯一神に向かって漸近するのだという世界観を持っています。これは資本主義もそうですし、共産主義もそうです。基本的には全てが何らかの究極的な理想にめがけて邁進するもしくは啓示を受けるという形の精神性となっています。
NeSi
NeSiの世界観は比喩的にいうと、川の流れ=Neと石に一時的にせき止められる滞留=持続=記憶=Siに対応しています。西洋の語彙ではとらえることが難しい概念ですが、Neがデリダの差延、Siがベルグソンの純粋持続に対応していると考えられます。
ここでデリダの差延とは同一性を常にずれ続けていく、そのずれ行く動きそのもののことを言います。これは仏教における空とも近い概念であると感じられます。Siは記憶であり、ある幅を持った何かです。しかしその幅にもしもはあり得ません。なんとなくですが、をかしの概念がSiであり、あわれの概念がNeに相当するものだと感じます。
NiSeのように唯一神がいるのではなく、多神教的もしくは無常的な世界観になるのは、空間的、視覚的な世界観ではなく聴覚的な世界に住んでいるからだと推察されます。空間的な世界に住んでいると、あらゆるものを同じ場所に置き、それらをすべて一度に見るという唯一神のなせる業のようなことが錯覚でさえ直観できますが、聴覚的な世界に住んでいる場合は、現在に過去や未来が複層的に絡みこんでいて、あらゆるものを同じ場所に置くということが原理的にできません。現在で止めようとしても止めることができない、そして過去や未来の音がメロディとして流れまた消えていってしまう。これが音の本質であり、NeSiが時間的、聴覚的世界に住んでいると言及する理由です。よって、ある種経験主義的な様相を強く持ち、絶対不変なものなんてないということ、それだけが真実だと考える傾向が強くなるでしょう。
MBTIの哲学的基礎づけ(7)知覚機能⑤
前回までの知覚機能④までで知覚機能のすべてを説明してきました。ここでNiSeとNeSiの双方に絞って記述していきたいと思います。まずNiSeとNeSiのようにセットになり、それがある種の世界認識を形作ることは直観的には世界を空間的にみるか、時間的に見るかのどちらかでしか把握できないことを意味しています。NiNeのようにセットにならないのは必然性の成立にはコインの裏表として、そうでなくてもよかったはずなのにそうであるしかないはずのものがセットでなければならないからです。なぜならばNだけの機能を持つ世界観の場合、それはすなわち偶然性を持たない神様と同一になってしまい、理念的にはありえたとしても、私たち人間の限界や認識構造からは想定が不可能と考えられるからです。
またSiSeのみの人間もいません。人間は世界のある種抽象的な外部に何か空間的なものでも時間的なものでも見出すことによって、形而上学的な観念を理解することが可能だからです。もしSだけの心理機能であった場合はそもそもこのようなブログを書くことさえできず、またできたとしてもそれを本質的に理解することができないでしょう。
よって人間がこの世界を認識する際に重要な組み合わせとしてはNiSeとNeSiの二つの組があることが言えるのです。また、その二つを両方持つということもあり得ません。瞬間的、一時的にならあり得るかもしれませんが、継続的にはこの世界が不変か変化をしているかの認識が成立していないと、安定した世界観を理解できないでしょう。
これは理屈というよりは要請に近いものかもしれません。実際にそのどちらも同程度に理解できる人もいるのかもしれませんが、哲学的な仮説としてはあり得ないとしたほうが、理論がきれいになるのでここでは、この二つのセットが混ざることはないとしておきます。
MBTIの哲学的基礎づけ(6)知覚機能④SiSe
SiとSe
前回は必然性に関するNiとNeにフォーカスを絞って議論してきました。今回はSiとSeに関して記述していきます。下に添付した知覚機能図を見ていただけると議論がわかりやすいかと思います。
SiとSeはどちらも偶然性に関連する知覚機能であり、そうである理由がなく、かつそうでなかったら?と想定さえできない知覚体験を指します。もしそこで想定できてしまっているなら、判断機能を使って言語化をしていると考えられます。ここで、SeはNiに対応しており、SiはNeに対応しています。これはNiSeが空間で、NeSiが時間であることに関連付いています。
そこで前回話したように空間に関する偶然性がSeで伝統的には表象もしくは心の哲学ではクオリアと呼び、それは映画のフィルムの一コマのように分割不可能な、一瞬を示します。一瞬とは何でしょうか?それは幅がないという意味です。写真や映画の一コマは破り去ることや水に浸してにじませることは可能ですが、その本質からその瞬間そのものを変容させることはできません。破り去っても、それがまたつながればもとの写真の一瞬そのものとなるのです。
対してSiはベルグソンの言う純粋持続に対応しています。純粋持続とはある幅をもった一連の知覚体験の束のことで、もっともわかりやすいのが音楽のメロディーでしょう。メロディーは常に今の音だけを聞いて聞こえるものではありありません。今に過去が重複的に畳み込まれていることによってはじめてメロディーが聞こえるのです。音というのは不思議なもので、一瞬を切り取って、その集積を映画のフィルムのように見てもメロディの全体は聞こえてきません。むしろ一瞬というのは無時間を意味しているため、そもそも音が鳴りません。このことから音には時間的な持続とある幅が絶対的に不可欠だということが理解できると思います。しかし、そのように聞いている音楽のメロディの幅それ自体は常にとらえようとすると逃れ去ってしまう川の流れのようです。その幅それ自体がSiでありそれを分割しようとしても、すでに純粋な持続としてある有限な幅を持ってしまっている。そのような意味でベルグソンは純粋持続という概念を考え出しました。
また、純粋持続内部にもしも?はあり得ません。音楽を聴いているその持続と記憶にもしもを挟み込むことは聞くということの一時的な純粋知覚そのものにおいては不可能であるからです。よって、その純粋持続に言語的な境界線を内部に引くことはできません。しかし、にもかかわらずSeの一瞬の経験、クオリアが修正不可能なのに対して、Siは変容することが可能です。これはNeの作用が働いているからだと考えます。
Neは前回も説明したように、あらゆるものに対してある種「否」と突きつける機能であり、あらゆるものに対して変容を、流れを、迫る機能だと言えます。Siは原理的に幅があり、その幅のなかに変容可能性がある限りNeという時間性そのものがSi内部にほとんど定義として入り込んでいることは明確でしょう。幅=変容可能性はそれすなわちNeであるからです。
よってNeSiは音楽に親和性が高く、NiSeは視覚的な経験に親和性が高いことが見て取れると思います。
知覚機能図
必然性 偶然性
変化 Ne Si
不変 Ni Se
MBTIの哲学的基礎づけ(5)知覚機能③NiNe
NiとNe
前回はNとSについて差異を確認したのでNiNeについて記述します。
以下に示す知覚機能図を参照しながら見ていただけるとわかりやすいでしょう。必然性には二種類の概念があり、NeとNiに対応しています。極めて原理原則論的に考えると、何かある存在Aがあったとしたら、その否定である¬Aが不可避的に出現します。
これはヘーゲルのテーゼ・アンチテーゼと同様です。また極めて一般的な話として、Aと¬Aが対立した場合、それを俯瞰する視野Bに統合されます。これはヘーゲルの用語でいうジンテーゼに該当します。
このとき、Aがあったらその否定の¬Aを生み出す作用そのものがNeとなります。また、テーゼとアンチテーゼを統合する視点で常に見る心理機能がNiとなります。
また、ジンテーゼ自体も別の視点により相対化されるため、このNeとNiの駆動はどちらが終点ということはなく、どちらも極めて「必然的」な機能となります。それは弁証法そのものの駆動が極めて必然的な動きだとヘーゲルが直観している通りです。
よってNeは常に外部へ外部へあらゆるものを流動させる外部=他者そのものを必然性と直観します。そのため極めて時間的な流れそのものに対して敏感になりやすい心理機能で、変化そのものを肯定的にとらえることになります。
しかし、Niは常に外部を自己の同一性に回収し続けるため、テーゼとアンチテーゼを上から俯瞰する絶対的な視点を維持、保持し続けます。その世界観は流動的な時間感覚のあるものというよりは、非時間的で静止した空間的な世界観になじみやすいでしょう。
総括するとNはこの世界の存在そのものの様態に関する変化と不変を必然的に直観する機能と言えるでしょう。そして、変化の必然的直観に対応するのがNeであり、自己同一性の外へ、または自己に対する他者へ、テーゼに対するアンチテーゼに変化しようとする動きそのものの必然性に合致しています。また、Niは不変の必然的直観に対応し、空間的であり、自己同一性に親和性を強く持つことになります。
知覚機能図
必然性 偶然性
変化 Ne Si
不変 Ni Se
MBTIの哲学的基礎づけ(4)知覚機能②NとSの意味
NとSの本質的な意味
存在論には根本的に二つの様態、変化と不変があるという話を前回はしました。そこで、これからは変化や不変の成立にはそれぞれに二つの心理機能が必要となることを説明します。結論から言うと変化にはNeとSi、不変にはNiとSeが必要となります。
NとSとは一言で言うなら、必然性と偶然性に対応します。必然性とはそうなること以外にはあり得ないということを意味し、偶然性とはたまたまそうであることを意味します。様相論理ではその間に必然性―可能性ー現実性ー偶然性というグラデーションがあるものと考えます。
ここで、必然性と偶然性が知覚に対応しているのは可能性(一般性)と現実性(固有性)が言語上の述語と主語に対応し、その両辺にある概念は言語以前に言及する概念だと解釈できるからです。
つまり必然性(そうあるしかない)―可能性(だったかもしれない)ー現実性(そうである)ー偶然性(たまたまこうなっている)と左辺に行くにしたがって、そうであるしかなくなり、右辺に行くにしたがってそうである必要がなくなっていきます。真ん中の二つの概念については判断機能の項で説明することにして、両辺に着目して話を進めていきたいと思います。
N
Nとは時間と空間の必然的な性質を示しており、それがそうあることがないということが想定できない何かを直観する機能です。なぜ想定できないかと言えば、知覚機能は境界線を引くことで反実可能性(もしも)を想定できないからです。というより、むしろそのように境界線を引いてもしこうではなかったら?と考えることのできない何かを知覚機能と天下り的に定義しています。
例えば空間だったらその内部にあるAという事物とBという事物はそこに同時に存在しなければなりません。Aが先でBが後でくるということは空間的な見方をすればあり得ず、どちらも一挙にそこにあるしかないのです。もし、そこでAとBとの間に時間的な遷移を感じているならばそれはもはや時間の必然的な性質を直観していることになります。世界は不変か変化しているかのどちらであり、そのどちらもが極めて必然的でありえます。
極めて必然的な性質の中にはこの世界が有限か無限か、可能的か現実的かなどありますがそれらは、存在論に属しているというよりは、言語を使用する際に要請される枠組みのようなものです。それ自体もなくてはならない区別ではありますが、空間と時間の不変性と変化よりは原始的ではないと考えられます。なぜなら我々が言語を用いて判断をする際に、○○は△△である、ということがありますが、その際につかうのが主語と述語であり、ここに固有性と一般性が含まれます。また有限と無限に関しては我々生命のことを指さすか、非生命のことを指さすかで異なりますが、これも普段よく使っている機能です。私とあなたを区別し、人類と宇宙を区別しています。
よって必然的な性質のうち、変化と不変性のみが普段我々が言語を使用していて明らかではない価値観となるのです。知覚機能はより原始的な価値観であり、表出しにくいがゆえに根本的なその人の世界への態度を示していると考えられます。
S
Sとは時空間の偶然的な側面を示しており、たまたまそうであるしかなく、かつそうでしかないものです。必然性との違いはそうなる以外はあり得なかったと直観できるかできないかの違いですが、いずれにしても必然性にしても偶然性にしても、その内部に構造や言語を挟み込める余地がなく、反実可能性を想定できないため、ある意味では宿命的ではあります。NにしてもSにしても宿命的な何かを知覚している。そのような言語でそうではなかったら?と表現することができない「それ」の中で、そうであるしかないと感じられるのがNですが、Sは本当にたまたまそうであるしかなかった、と感じられるものです。
これは心の哲学でいうところの「クオリア」に該当します。または伝統的な哲学の用語でいうと表象に近いかもしれません。しかしこの二つの説明はどちらかというとSeの説明に近くはなりますが、イメージとしてはSとはクオリアのようなものです。対してSiはベルグソンのいう純粋持続や記憶に該当します。簡単に言うとSeが一瞬であるのに対して、Siはある一定の変容可能性をもった「幅」があります。しかし、根本的にどちらも言語的に境界線を内部に引くことができないため、そうでなかったら?と問うことは無効化されます。問うことができたとしたらそれはもはや知覚機能ではなく、判断機能になっています。
話を戻すと、クオリアとは偶然的な知覚体験そのものを指す用語です。例えば目の前に赤いリンゴがあるとして、その赤いリンゴがなぜ”今現に感じているその赤さなのか”を説明することは原理的に不可能です。どこまで説明をさかのぼってもある波長の電磁波が視神経から視覚野にいって、言語野や運動野にいき、私は今赤い何かを感じているとその人物が発言することは全て客観的に記述することは可能です。しかし、それでもそこでその”赤さ”が説明できていないのです。これは意識のハードプロブレムと呼ばれる心の哲学の有名な問題で、そこで話題になっているのが偶然性Sなのです。