モモンガはほんのりと苛立っていた。
というのも、今日の暮れ、彼の屋敷に流れの商人がやってきた。いつもならばセールスは毎度お断りしているのだが、商人曰く異国の珍しい茶葉や入手困難なマジックアイテムを販売しているのだという。
飲食とマジックアイテムの二つはモモンガにとってクリティカルな案件だ。他で手に入りにくいとなれば興味も湧くというもの。
モモンガは商人を屋敷に招き入れた。
商人が卓上に広げたマジックアイテムは確かに王都では見かけることがなかった珍しいものばかりで──ユグドラシル基準ではゴミ以下の効果のものしかないのだが──そういった物の蒐集癖があるモモンガにとっては、商人とのやりとりはとても有意義な時間に思えた。
……が、商人が持ってきた茶葉と茶菓子がモモンガの怒りを買った。
試しにと淹れられた紅茶と茶菓子に、毒が混ぜられていたのだ。毒に完全な耐性があるモモンガには全く影響がなかったが、もしもツアレが口にしていたら大事だった。
モモンガは怒りを露わにして商人の胸ぐらを掴んだ。
『
急ぎ窓を開けて屋敷の外を確認すると、アンデッドが跋扈しているではないか。どうやら屋敷の周りに防音効果の魔法も張り巡らされていたらしく、商人との談笑に興じていたモモンガは『八本指』の起こした騒動に気がつけなかった。
屋敷とツアレに防護魔法を掛けたモモンガは、家の周りを彷徨くアンデッドの掃除のついでに王都に渦巻く戦火に身を投じた──というのが事のあらましだ。
アンデッドを狩りながらモモンガがそこへ至ったのは、偶然と言う他ない。
たまたま王都を練り歩いていたら、『蒼の薔薇』の二人が窮地だった。モモンガはガガーランとティアを追い詰める女戦士の肩をぽんと叩いて振り向かせると、その額に一撃をくれてやった。
「──ぎゃっ」
……それは単なるデコピンだ。
しかしこのレベル差、身体能力差に開きがあると、デコピンなんて優しい響きの言葉では片付かない。クレマンティーヌからすれば、額をトンカチで思い切り殴りつけられたようなものだ。彼女の体は驚くような初速で吹き飛び、煉瓦の壁にぶつかってずるずると倒れ伏した。
「……ガガーランさん、ティアさん、大丈夫でしたか?」
崩れ落ちるクレマンティーヌを見やりながら、モモンガは事もなげに『蒼の薔薇』の二人に問う。超人的な戦士をデコピン一発で吹き飛ばしたモモンガに目を丸くしながら、ガガーランが少し呆れたような笑みを見せた。
「大丈夫だ。あんたが来てくれなかったら多分死んでたけどな」
「モモンさん……素敵。これが所謂、私を助けにきてくれた白馬の王子様ってやつ……?」
「モモンは馬に乗ってねぇし、真っ黒だし、王族でもなければ男でもねぇよ」
減らず口を叩きながら、空気が弛緩していく。
『漆黒の美姫』モモン……彼女が現れたならもう大丈夫だという、謎の安心感に二人は包まれていた。
「うぁ……」
壁に激突したクレマンティーヌが、呻きながら何とか立ち上がろうと藻掻いている。未だ意識を手放していない強敵に、ガガーランとティアが警戒心を高めるが──
「ここは私に任せて、お二人はアンデッドの討伐へ向かってください」
──それを制すように、モモンガが一歩前へ出る。
「……いいのか?」
「ええ。心配は御無用です」
「まあ、それもそうか……」
言いながら、少し苦い表情をガガーランが見せる。
先程までいいようにやられていた彼女達が加担したところで、足手纏いになる可能性のほうが高いだろう。むしろ邪魔だからどこかへ行ってくれと突き放さないモモンガの優しさに情けなさを感じるほどだった。
「しかしいいのかよ?」
「え?」
「これは『八本指』と王国の問題だぜ。あんたが首を突っ込むとなると、無関係者ではいられなくなるぞ」
「……私も無関係ではいたかったんですけどね」
モモンガはそう言って、一歩踏み出した。
「喧嘩を売ったのはあちらですから。虎の尾を踏んだ人間がどうなるのか、思い知らせるべきでしょう」
ガガーランは見えないのに、兜の中の微笑が見えた……様な気がした。それと同時に、鳥肌が俄かに立った感覚を覚える。
僅かでも不興を買ってはいけない人間というのは、この世の中いるものだ。
「はぁ……あぅ……」
ぐにゃりと撓む石畳。
定まらぬ平衡感覚。耳鳴りが劈き、全身の汗と悪寒が止まらない。皮の内の肉と骨、内臓がまるで液状化しているかのような感覚がクレマンティーヌを支配していた。
咄嗟の武技──『不落要塞』がクレマンティーヌの意識を繋いだとはいえ、彼女の肉体的……そして精神的ダメージは計り知れない。
もしかしたらあの悪夢は存在しなかったのかもと思った矢先に、トラウマそのものがやってきた。崩壊寸前のクレマンティーヌの精神に、致命的とも言える罅入ってしまった。
「やだ……や、だ……やだ、やだやだ……」
涙が止まらない。
震えが止まらない。
『絶望のオーラ』によって植え付けられた圧倒的な恐怖感情が、網膜に映るモモンガのシルエットで今再び蘇る。
あれに耐えられる精神力はもうクレマンティーヌにはなかった。モモンガの息遣いが聞こえるだけで、どうにかなりそうだった。
しかし彼女は立ち上がっていた。手にはスティレットを握っている。涙しても、がちがちと歯を鳴らしても、クレマンティーヌは無様に蹲らない。彼女に最後に残ったのはプライドだけだった。
「……おや?」
モモンガがその呟きを一言放るだけで、クレマンティーヌの肩が大きく跳ね上がった。彼はクレマンティーヌが握るスティレットを見て、ようやく彼女がクレマンティーヌであることに気が付いたらしい。
それも無理もない。ストレスによって痩せ細り、色素が抜けて白髪に変わってしまった彼女を改めてクレマンティーヌと判別するのは極めて困難だろう。
モモンガにとってクレマンティーヌとは、ンフィーレアと『漆黒の剣』を殺害しようとした殺人鬼でしかなく、それ以上でもそれ以下の存在でもない。しかしあれだけ痛い目を見せたというのに、再び誰かを殺めようとしていたクレマンティーヌの姿に彼は溜息が零れた。
「その武器……見覚えがあります。どうやら懲りてないようですね。また地獄を見せましょうか?」
「や、ら……ああああぁ……」
一歩、また一歩と近づくモモンガ。
彼我の距離が無くなるにつれ、クレマンティーヌの震えも大きくなっていく。ガクガクと震える足は立っていることが不思議なくらいだ。
その震えがデコピンのダメージの影響だとは流石にモモンガも思わない。クレマンティーヌから自分へ向けられる、圧倒的な恐怖の感情がひしひしと伝わってくる。その震えは、恐らくあの時植え付けた悪夢が原因だろうと容易に想像がついた。
(……そんなにあの時のことが怖かったんなら懲りろよ。マジで)
ずんずんと歩み寄りながら、モモンガは肩をすくめたくもなる。これほど恐怖の感情を露わにされると『絶望のオーラ』が如何に効果覿面だったか、彼も少し笑えてくるほど感じることができた。頭髪が真っ白になった理由も、何となくだが察することができる。
鼻水と大粒の涙を垂らし、子鹿のように震えているクレマンティーヌに対して憐憫を感じなくもない……が、結局彼女はどこまでいっても快楽殺人者に過ぎない。モモンガがクレマンティーヌに慈悲を掛けてやる余地など、現状一切なかった。
「さて……」
殺すか、否か。
正直、ちょっとした戦闘に入ると思っていたから肩透かしもいいところだ。モモンガは心中で先の二択を決めあぐねながら、ようやく歩みを止めた。
両者の距離は、既にモモンガの剣が届く範囲だ。
つまり、次の瞬間にはクレマンティーヌがどうなっているかわからない距離感だということ。
「きゃは……きゃははは! あははは……!」
クレマンティーヌは笑った。
恐怖に表情筋が引き攣り、泣きながら笑っている。人間、ここまで追い込まれると笑うしかないらしい。この異常な反応は薬物でも投与されたか、狂ったかにしか見えないだろう。
モモンガは背負ったグレートソードをゆっくりと引き抜いた。黒い剣身が、月光を返して妖しい光を湛えている。彼は一思いに、クレマンティーヌの人生に引導を渡そうと決めた。あれだけ懲らしめてやったのに、矯正されていないのだから仕方がない。少なくともモモンガの視点では。
兜のスリットから、蛍火の様に赤い眼光が漏れ出ている。モモンガはゆらりと、グレートソードの切っ先をクレマンティーヌの鼻先に突き出した。
「『蒼の薔薇』とは顔見知りでしてね。貴女には悪いですが、ここで地獄に堕ちていただきます」
「きゃは、あは、はぁー……! ハぁ……ッ! ひゅ、かひゅー……!」
「言い残すことは……と言っても、その様子じゃどうしようもなさそうですか」
「ひゅ、こひゅー……ッ! は……ッ! ぉえ……!」
「『八本指』に関わるつもりはなかったんですが、これも仕方ないことです。あなた方が先に喧嘩を売ってきたんですから」
クレマンティーヌの体からは異常な量のエラーが吐き出されていた。発汗、寒気、嘔吐感……体の震え、強張り。そのどれもが限界値に達し続けている。
これ以上言葉を投げたところで会話にすらならないだろう。むしろクレマンティーヌの恐怖心を更に煽るだけだ。
そう判断したモモンガは、静かにグレートソードを上段に構えた。無造作に上げられた巨大な得物の影が、小柄なクレマンティーヌの身に覆いかぶさるように落ちる。
「はあ……あああ……ああ、ああ……!」
クレマンティーヌの目前に君臨する、悪夢の化身。
彼女の全身の細胞が、泣き叫んでいる。呼吸がままならない。モモンガに両断される前に、既にクレマンティーヌは瀕死だった。
ぐるぐると、目が回る。
天地が逆さに入れ替わり、混ざり、溶け合う。
自分と世界の境界線が曖昧になり始め、何もかもが混濁し始めたクレマンティーヌは──
「あばーっ!!!」
──すてーん! というコミカルな効果音が聞こえてきそうな倒れ方をした。
立ったまま、全く重力に逆らうことなくクレマンティーヌは地に背を付けた。受け身の動作など全くない。さながら糸の切れたマリオネットの挙動のようだった。
「……え?」
ただただ困惑するモモンガ。
……両者の間に、なんとも言えない沈黙が居座った。
クレマンティーヌが恐怖のあまり気絶したのかとすぐに思い至ったが、それは見当違いであることを即座に思い知らされることになる。
「──……ゃあ……」
「ん?」
凡そ呟くような声量。
クレマンティーヌの声帯から、何かが発せられた。
モモンガが怪訝に思いながら眉を顰めていると──
「おぎゃあ……」
「え」
「おぎゃあ!」
「は……!?」
「だあ! ばあぶ!!」
──クレマンティーヌ、突然の奇行。
彼女は突然、赤ん坊の様に喚きだした。
モモンガの顔が、思わず鳩が豆鉄砲を食ったようなものになってしまう。目が点になるとはこのことだ。意味がわからないと、顔が口以上に物語っている。
「ちょ、一体何をして──」
「おぎゃあ! んぎゃあ!」
「おい、いい加減に──」
「きゃは! きゃはは!」
クレマンティーヌは無邪気に笑っている。
まるで赤子の様に、無垢な笑みだった。今までの邪気が綺麗さっぱり消えたような、爛漫な笑顔だった。
モモンガは『猿芝居はやめろ』と言わんばかりに、クレマンティーヌに対して『
「さっきから何をやってる。狂ったふりをして煙に巻こうとしても──」
「だー! ばあ! きゃはは!」
「えぇ……」
クレマンティーヌは止まらない。
『
「……まさか」
モモンガはクレマンティーヌの首根っこをむんずと捕まえた。目線が合うように持ち上げると、クレマンティーヌはやはり無邪気に笑っている。まるで子が親にあやされているかのように。
──……『
嫌な予感を覚えたモモンガは、その魔法を唱えた。
これは膨大なMPを消費する代わりに他者の記憶を閲覧、操作できるというもので、今回彼がこれを使用した用途は記憶の閲覧だった。
しかし……。
(記憶が……消えていってる……)
クレマンティーヌの脳、そして魂に刻まれた記憶を読み解こうとしても、溶けて消えていく。まるで水の中に消えていく綿菓子の様に、掬いあげようとしてもその実体を掴むことがかなわない。
人間の脳に保存された夥しいデータ量の記憶が、瞬く間に次々と消えていく。その様を見ているのは圧巻の一言だった。
「そうか……」
「あはは! きゃはは!」
クレマンティーヌを、クレマンティーヌたらしめる物が、消えていく。
クレマンティーヌは──というより、彼女の人間としての生存本能が、記憶の初期化を選んだらしい。
人の身では耐えられぬ圧倒的な恐怖、ストレス量。
まともに立ち向かえば、ショック死は免れなかっただろう。
記憶喪失と幼児退行。それは、地獄の様な精神的過負荷から逃れる為に残された唯一の生存戦略。
生き残る為の全力の逃避、その回答。
人が何を以てして人足らしめるか。
何を以てその個人だと定義するかは非常に難しい問題だ。
しかし記憶の全てを手放しはじめた、クレマンティーヌの抜け殻の様なこの童女を、果たして今もクレマンティーヌと呼ぶことはできるのだろうか。
「あは……きゃはは!」
溶けゆく記憶の中、モモンガは彼女の人生の断片を僅かに垣間見た。
その全てを見たわけではない。具体的に掴めたわけではない。ただ、色やイメージ、味や匂いという曖昧なものを受け取っただけだ。分かったのは、クレマンティーヌという名があったことだけ。
それでも彼女の人生が悲劇だったと悟ることはできた。
何かと常に比べられ、誰からも愛情を受けることはなく、超えられることのできない様々な悲劇に直面し、歪められていった彼女の思想。
人を殺めることでしか自らを慰められぬように育まれた悲しき怪物。それがクレマンティーヌだった。
クレマンティーヌの人生を垣間見たモモンガは、目を細めた。
「……だが、同情の余地はない。お前は人を殺しすぎた。お前が積み上げてきた罪は、死でしか贖うことはできないだろう」
モモンガの突き放すような言葉を、クレマンティーヌが首を傾げてきょとんと聞いている。
「……しかし記憶も、人格も、全てを棄てた空っぽの今のお前を果たして『クレマンティーヌ』と呼べるのだろうか」
「んま! きゃは!」
首根っこを摘まれたクレマンティーヌは、腕を伸ばしてモモンガに抱きついていた。
まだ彼女が幼かった頃。
人並みにあった、人から愛されたいという無垢な感情。母の温もりに包まれたいという、子としての健全な想い。クレマンティーヌが歪み、失った感情に、彼女は何の疑いもなく従っている。
モモンガは、そんなクレマンティーヌに対して──
──モモンガ邸。
主人の帰りをじっと待つツアレは、暖炉の灯りをぼんやりと眺めながらモモンガの無事を祈っていた。モモンガの強さを知っていても、切り傷一つでもつけられることを思うと身が引き裂かれる思いだった。
「モモン様……!」
故に、沈痛な面持ちだったツアレの表情が華やぐのは一瞬だった。リビングに転移してきた主人の、想定以上に早い帰りに浮足立つ。彼女は手慰みにやっていた編み物をテーブルに置いて、ぱたぱたとモモンガの元へ歩み寄った。
「お、おかえりなさい……!」
「ただいまツアレさん。でも、すぐまた戻ります。まだ全てが終わったわけではないので」
「え……」
「その間に、この子を頼めますか」
モモンガはそう言って、ツアレに抱えていた童女を託した。まだ片手で歳が数えられる程の、小さな女の子だ。
「か、可愛い……」
ツアレは眠る童女の小さな体を受け取りながら、自然的に言葉を溢していた。
金髪の、器量のいい女の子だ。
頬がむっくりと柔らかく膨れてて、親指をしゃぶりながらスヤスヤと寝息をたてている。
「モモン様、この子は……?」
「戦争孤児、のようなものです」
そう返すモモンガの態度は、何処となくよそよそしくも見える。ツアレは小さく首を傾げながらも、腕の中で眠る童女に癒されていた。反射的に目尻が下がってしまう。
「この子の名前は……クレム、といいます。この王都に放っておくわけにはいきません。ツアレさん、私が留守の間、クレムのことをよろしくお願いしますね」
モモンガはそう言って、クレムの髪をさらりと撫ぜた。
……そう。童女の名は、クレム。
見た目通りの、無垢で幼気な女の子に過ぎない。
山の様な死体を積み上げた女が背負うべき十字架を請け負う必要もない、ただの一人の女の子。
「……安らかに眠れ、クレマンティーヌ」
ぽつりと呟いたモモンガの姿が再び掻き消える。
彼は再び、王都の戦火に身を投じていく。
目標だった27万字に到達しました。
ここまでお付き合いありがとうございました。
引き続き宜しくお願いします。