長野市の遊園地の問題で近隣トラブルになっていて、どうやらじいさんがクレーマーだとして叩かれているらしい。
自分は長野市の住民でもなんでもないが、昔の激怒していた自分を思い出して体中が震えだしてしまったのでここに吐露して発散していく。長野市の件については、その裏にある事情は知らないので、自分はそれが良いとも悪いとも見当もつかないが、外野が好き勝手に述べてじいさんを罵倒したり「クソ自治体」みたいな発言をしているのがとにかく気に食わないのでここで色々と述べていこうと思う。また、自分はじいさんの擁護者ではない。
まず子どもが集う施設というのは、NIMBY(我が家の裏には御免)というカテゴリに属する施設である。これは誰がなんと言おうが、子どもが集う施設というのはもうそういうものである。NIMBYとは、社会全体には利益を与えるが、その近隣住民には損害を与える施設のことだ。こういうものはたくさんある。基本的には「社会全体のためにお前が我慢しろ」という施設になっている。また、補償がないことも多い。子どもが集う施設に関する補償は特になにもない。「子どもの声」を「損害」扱いという部分で怒りを抑えられなくなる人もいるだろうが、いったんそういう考え方の人がいると思って飲み込んでほしい。「騒ぐ子どもの声量は大きい」と「大きい音に耐えられない人もいる」という2点については、誰しもそれぞれ同意できるはずであり、「世の中には、騒ぐ子どもの声量に耐えられない人もいて、そういう人は損害だと感じていそうだ」というふうに、客観的な視点で読み進めてほしい。実際そういう人は存在している。
話がややそれてしまったが、なぜ騒音問題に子どもがつくと大きなトラブルになるかというと、「子どものためにお前が我慢するべきだ」という強制が働くからだ。こういう考え方を「子どものことを考えろ主義」といい、詭弁の一種である。
子どもを抜きで考えた場合、騒音問題は「騒音に悩まされて可哀想に」という話から始まる。ここでは明らかに「騒音を我慢するべきだ!」というようなことは言えないだろう。しかしそこに子どもが入った途端、「子どものためだからね。めでたしめでたし」という概念で上書きされる。しかし、騒音問題自体はなくならない。「騒音問題の話はどこに消えた?」である。
子どもは当然守られるべき存在だが、「子どものことを考えろ主義」をその親が使ってくると非常に厄介である。簡単に例えよう。
あなたが限定品が欲しくて、あるお店でその限定品のために並んでいたとする。あなたは限定品を無事手に入れることができたが、その後ろに並んでいた親が急に「それはうちの子どもが手にするべきものだ」「お前が大人のくせに限定品を得ようとしたために、子どもはひどい目に遭う。子どもが可哀想だ。全部お前のせいだ」と強硬に主張してくる状態のようなものである。(あくまで例えであって、騒音問題と同等の主張であると言いたいわけではない)
別の例で例えると、ベビーカーで子どもを載せて電車に乗る行為は問題ないが、ベビーカーを振り回して席取りをしようとしている親だったり、「ベビーカーを持っているのでそこに座らせてもらっていいですか?」というように尋ね、断ると「子どもがいるんですけど……非常識ですね……」と言ってくるような、子どもを使って権利を主張してくる大人たちがいるということだ。彼ら彼女らは「我々は少子化に対抗する戦士であり、それに抵抗する存在は邪悪である」という信念を持っている。
こういう行動を起こす人々は「子持ちの人」というカテゴリで括られるべき存在ではない。彼らは容易に「子持ち全体に対する挑戦をされた」というように論理をすげ替えようとする。そして「子どもがいるのに酷い」「こうやって少子化が広がっていくんだ」という論理を使っていく。ミサンドリストがフェミニストと名乗るようなものである。普段は人を攻撃するが、都合が悪いと子供を盾にして自らを守り被害者になろうとするという、文字通り子どもを盾にするのである。彼らにとっては、子どもとは、自分に利益をもたらす便利なツール・グッズ・免罪符でしかない。
誤って解釈してほしくないが、子どもは大切なものである。「子どもを排除せよ」と言っているわけではない。容易に論理を捻じ曲げられるので注意しなければならない。小さい子どもに罪などは一切ない。子どもではなく、その親と戦っているのだ。
そして、実は「子どもの出す騒音」それ自体は、それほど大きな問題ではない。子どもの騒音は確かに問題であって長期間続けば耐えられなくなりノイローゼになりかねないという状態になり、たいへんきついものだ。ただし、事をより大きくするのはそれに対する適切な対応が全くなされないことにある。『「子どもが出している騒音」にクレームを出すクレーマー vs (可哀想な子ども+それを守る善良な大人たち)』という構図そのものが、騒音を出している側のロジックによる考え方であり、これがこの構造のまま大衆化されると、非常にテキトーな扱いになる。「子どもの騒音に端を発する問題」という形で、その周辺の問題も含めて、すべての問題の焦点が「子ども」になっていく。しかし、子どもが悪いわけではない。子どもが悪いわけではないというのは、何度でも言っておく。その親が悪いのだ。ここは間違えてほしくない。本当に簡単にすり替えてくるからだ。
実際の問題は、子どもの出す騒音について「なんら対策をしない」「対策をしようともしない」「それを指摘する側に問題があり『異常』だと周りに噂を流す」だったり、わざと嫌がらせをするだったりである。長野市で言えば多くの車の長時間のアイドリングや、盆栽の踏み荒らしなども発生していたらしい。こうなってくると、もはや子どもの騒音というのは問題ではなく、大人 vs 大人の、れっきとした権力闘争の構図であると思う。(※注意: 長野市の問題については自分は意見を持たず、どちらの側にも立たない。じーさん側に問題がないとは言っていないし、子どもが可哀想であるのはそのとおりだと思う)
子どもを盾にする人側のロジックでは、「キチガイがまた『大したことでもないこと』でクレームを入れてきた」という観念を抱えているため、対話は不可能である。そもそも最初は当然対話をしようとしている。(また、クレーマー側でも意味不明なクレームを入れている場合も多くあるはずであり、自分は常にクレーマーを擁護したいわけでもない)
「子どもを育ててるだけなのに、クレームを入れてきて迷惑だ」vs「ふつうに暮らしているだけなのに、騒音を解決しようともせず、当然のように我慢を強いてきて迷惑だ」という状態になってしまうと大変面倒なことになる。どちらも正義だと思っている。これは戦争である。
これについて、刑事でも民事でも事件化はできず、自治体も警察も非常に難しい対応を迫られる。「対応」とはいうが、実質何もできないのである。ただ「犯罪がないかどうか」「合法かどうか」しか見れないのだ。よって、合法下での自力救済しかない。法はあなたを守ってくれはしない。誰もあなたを守ってくれはしない。あなた自身の力か、金の力しかない。日本では、騒音問題は「それは運が悪かったですね。我慢してください。それが法ですから」ということになっている。社会とはそういうものだ。
「そんなところを選んだお前が悪い」「引っ越せ」という、思慮に欠けた意見も散見される。当然そういう場合もあるだろう。ただし、こういうのは事前にわかるものではないし、引っ越すには尋常ではないお金がかかる。持ち家であれば尚更で、下手すると数千万円単位で金が変わってくる。つまり、人生の中でもかなりの上位に上がってくる最強最悪のトラブルである。嫌いなやつのためだけに数千万円は普通は払えない。数千万円は言い過ぎかもしれないが、ただ引っ越すだけでも、引っ越しというものは50万円だったり100万円かかるものだ。月に2万ずつ貯めていたとしよう。4年の努力を捧げることになる。嫌いなやつのために。普通は我慢ならないだろう。
そして、トラブルが悪化すると、人生で最も嫌いな存在が自分のすぐ近くに住んでいるという状態になる。「考えないようにする」ということができなくなる。騒音で存在をすぐに思い出し、精神が持っていかれる。「殺す」か「殺さない」か、そういう考え方が頭にのぼってくる。これはジョークや笑い事ではない。精神が奥深くまでやられる。絶えず戦闘モードになる。戦時下という気持ちだ。あとはもうやるかやられるかだ。どちらも異常になる。人はいとも簡単に狂う。自分だけではない。相手が『「自分が死んでくれればいい」と思っている』と思うようになる。
「死ね!!!!」と絶えず言い合っているのに離れられない関係というのは、歪んだ親子か、近隣住民以外には人生においてそれほどない。会社なら簡単ではなくても辞められる。家は簡単には辞められないのだ。
もし少子化対策のためというならば、社会全体でなんとかしなければいけない。「ミクロな個人単位の我慢で解決すべき」という結論は誤っている。それは子育てする側からみてもそうであると思う。ここでは、「子育て側の方が悪」のように見えてしまう論理展開をしているが、子育てしている親は窮屈な思いを抱えているはずであり、れっきとした社会問題であると捉えるべきだと思う。しかし、現実的には、社会はそう簡単に変われるものではないため、個々で見れば自衛するしかない。
「近隣トラブルが戦争」というのが理解できない人や、「結局子育てする側が我慢しろってこと?」という理解になってしまう人は、せめて平和に家で暮らすことができているという幸運を噛みしめるべきであり、自分の子どもの周りでそういった話を聞かないという場合は、人知れずして我慢している人がいるのかもしれないことを知っておくべきだと思う。「静寂」「平和」は贅沢品である。いい人は、同じ目にあっても「まあ子どもだからしょうがないですよ」「いやいや!子どもは騒ぐのが仕事ですよ」と言えるのだろう。それはたいへん立派なことだと思う。ただしそれは余裕があっての論理や、他人事であるからそう言えるだけであることを忘れてはいけないし、強制できるものではない。全員が聖人君子になれるわけではない。
これはアンモラルがどうのとかそういう話ではない。あなたもそうなればわかるかもしれない。
ただ、そうなってから気付いても遅いのだ。「そんなところを選んだお前が悪い」のだから。
そして残念ながら、今の社会に解決できるほどの余力はない。ただ「そんなところを選んだお前が悪い」のだ。
でももしそうなったとしたら、自分もあなたと同じように苦しんだことを覚えておいてほしい。身の周りの誰もがあなたを理解してくれなかったとしても、世界にはそういうことをわかってくれる人はたくさんいることを覚えておいてほしい。それだけで心の荒みはやや緩和されるだろう。
ただこの話は、伝えたい人には伝わらない話でもあると思う。この話を見て「自分や自分の子どもが他人にそんな思いをさせてるかもしれない……大丈夫かな」とすぐに心を痛めた人に心を痛めてほしいわけではない。そういう人たちには、ただ「子育てを頑張ってください」とだけ伝えたい。この話は「はあ?身勝手。黙ってろ。うるせえな」と、気にもとめない「子盾の親」たちに伝えたい話である。伝わらないだろうけど。
つまり、運が悪ければ、そういう人と戦争することになる、ということだ。そしてそういう人たちもまた、「我々」と戦争することになる。
狭い部屋に住んでるとこういうパラノイアになっちゃうよね