清義明(せい・よしあき) ルポライター
1967年生まれ。株式会社オン・ザ・コーナー代表取締役CEO。著書『サッカーと愛国』(イースト・プレス)でミズノスポーツライター賞優秀賞、サッカー本大賞優秀作品受賞。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
Qアノンと日本発の匿名掲示板カルチャー【9】
ロン氏の自宅からほど近いところに、札幌の有名な温泉街がある。さらにそこから先にも有名な露天風呂がある。ジム氏と中尾嘉宏氏(中尾氏については後半で詳述する)、そして西村氏は、2ちゃんねるのサーバー代金を支払う取り決めを「温泉で日本酒を呑みながら決めた」という。きっとその温泉とはそこであろう。
実は、2ちゃんねるは無料サーバーを転々と渡り歩く“ゲリラサイト”から、中尾氏の地元である札幌を拠点にして、インフラとビジネススキームを整備した。これは西村氏の発言だけを追ってきた人たちには見えにくい事実だ。
参照:「西村博之とジム・ワトキンスの2ちゃんねる骨肉の争い/上」、「西村博之とジム・ワトキンスの2ちゃんねる骨肉の争い/下」
札幌の中心街、官公庁や北海道大学のキャンパスがならぶエリアに、2ちゃんねるビジネスを支えてきたオフィスのひとつがある。訪れてみると、ビルの郵便受けのひとつには2ちゃんねる(現「5ちゃんねる」)と関係があると思しき会社の名前が、テプラでいくつも貼られている。
官公庁街なので、すぐ隣のブロックに法務局があった。その会社名をメモして、そのまま横断歩道を渡って法務局で登記簿を入手すると、やはり役員名簿には5ちゃんねる関係者が並んでいた。
2ちゃんねるは、ジム・ワトキンス氏が「乗っ取り」をして、商標上の理由から「5ちゃんねる」となった。その後、2ちゃんねるを長らく支えてきた関係者も分裂状態になった。西村氏のシンパで、ジム・ワトキンス氏とビジネス上の利害が薄い人たちは、追放された西村が立ち上げた、2ちゃんねるの投稿データをそのまま反映させる、いわばミラーサイト「2ch.sc」に活路を見出いだそうとした。
しかし、これは全くうまくいかなかった。肝心のユーザーが、西村博之氏の2ch.scに付いていかなかったからだ。連載で以前に触れたが、西村氏はそれまで「2ちゃんねるは譲渡した」と公言していた。にもかかわらず、突如、2ちゃんねるがジム氏によって乗っ取られたと、所有権を主張しだしたことに不信感を抱いたからである。
同時に、2ちゃんねるファンは、西村氏が所得隠しと訴訟リスク回避のためにシンガポールにペーパーカンパニーをつくり、2ちゃんねるを譲渡したかのように見せかけているという囁かれていた疑惑が事実だったことを知ったのである。
そしてユーザーは西村氏を見放した。根強かった2ちゃんねるファン、「2ちゃんねらー」らが、ついに西村氏を見限ったのだ。
この時、それ以外の2ちゃんねるビジネスに密接な利害関係がある人たちは、おおよそジム・ワトキンス氏の側についたが、この人脈が札幌に集中していた。先述した中尾嘉宏氏もその一人だった。
振り返ってみよう。2ちゃんねるは1999年に開設してからすぐアングラサイトとしてメジャーになった。日に日に激増するトラフィックに音を上げ出した西村氏は、サーバーを維持するために、様々な手口を使って急場をしのいでいた。
そのやり方がまた西村氏らしい。いわく、「当時存在した世界中のcgiが設置出来るサイトに前もってアカウントを作っておいて、止められたら移動」していたと。要するに、サーバーがアクセス数過多で次々と利用停止になるため、サイトが止められたら他に移管するという“遊牧民”のようなことを繰り返してきたのである。もちろん、無料のサイトである。西村氏本人は自慢げに語っているが、このようなアングラサイトの出自が自慢するようなことかどうか、なんともはやである(参照)。
当然ながら、これは長くは続かなかった。さらに、個人情報を掲載して削除されることがない当時の2ちゃんねるは、サーバー会社からも目をつけられ、取引停止にもなることがあったという。
その西村氏に手を差し伸べたのが中尾氏だった。2000年1月のことである。
当時、札幌でホスティングサービスを仕事にしていた中尾氏は、2ちゃんねるユーザーの一人だった。サーバーを次々と渡り歩いた末に行き詰まった西村氏はある日、「いいサーバー会社はないか」と2ちゃんねるに投稿した。中尾氏はそれを読んだ。
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