恋愛は謎解きのあとで 作:滉大
出会って24時間で早坂愛は理解した。
私は讃岐光谷が嫌いだ、と。
全てを見透かしたような黒い瞳も、『人は演じなければ愛されない』その考えを鼻で笑うかのような自信溢れる態度も、自分は何でも分かっていると言いたげな口も、その全てが嫌いだった。
○
夏休みも後半に差し掛かった。連日の猛暑は衰えを知らず、コンクリートで覆われた街を巨大なサウナへと変えていた。
そんな中でも早坂愛は長袖のメイド服を着込み、庭の清掃に勤しんでいた。
「うーん……」
早坂と同じく庭の清掃を命じられた讃岐光谷は、見ている方が暑くなるようなダークスーツをきっちりと着こなし、悩ましげに唸っていた。
脳天気がスーツを着ているような男が悩んでいるのは珍しい。唸り声にそんな感想を抱いたが、興味もなかったので掃き掃除を続けた。
相変わらず広い庭だ。木を植えた庭師は、もう少し自重できなかったのだろうか。
「ねえ、早坂さん」
唸るのに飽きたのか讃岐が話しかける。
「もう10日くらい前になるんだけど、僕変なことしてなかった?」
「それなら昨日も一昨日もしていましたよ」
「記憶にないね。10日前だよ、10日前」
讃岐は持っている竹箒で地面に10を書いた。
早坂は面倒だと思いつつ記憶を探った。とはいえ、10日も前の記憶など咄嗟に出て来るものではない。早々に諦めて、憶えてないと口にしようとした早坂だったが、次の讃岐の一言でその日の記憶が海馬に急浮上した。
「あれはそう、君が女性従業員用の浴室を勝手に貸し切っていた日だ」
ピタリと固まった早坂には気付かず、讃岐は話を続けた。
「貸し切りと貼り紙された浴室の前で呆れている従業員に、僕が『彼女もお嬢様のおもりでいろいろ溜まってるんでしょ。好きにやらせておきましょう』と言ったら、従業員は呆れた目をそのままに僕を見た。何故だろうと思ったけど、僕は気にせず自分の仕事を終わらせる為に浴室を後にした」
少しは気にして欲しいものだ。早坂はいろいろ溜まっている元凶に半眼を向けた。
「その後、お嬢様が花火大会用に頼んだ浴衣を部屋に持って行こうとして…………うん、やはりこの辺りからの記憶が不鮮明だ。君心当たりはないかな?」
「サー、ワカリマセンネ。マッタク、ココロアタリガアリマセン」
「そうかい? 君には会っていたような気がするんだけど」
「キノセイデスヨ」
「……どうしたんだい、エリア51に捕獲されている宇宙人のモノマネして」
月間のオカルト雑誌のように胡散臭い例えを、月間のオカルト雑誌より胡散臭い男が言った。
エリア51に宇宙人がいるのを見たことがあるのか、と問いたい。
確かに讃岐の言う通り、早坂と讃岐は会っていた。ただし、ほんの1秒にも満たない邂逅を会っていたと表現するのならば。
その夜早坂は、ワガママな主と不真面目な同僚のせいで溜まった疲れを、文字通り洗い流すべく浴室を貸し切りにしていた。別邸とはいえ金持ちの御屋敷。従業員用の浴室も規模が違う。
早速衣服を脱ぎ棄てる。引きずってきたビーチチェアを風呂に投入、入浴剤をふんだんに振りかけスピーカーを置き、音楽流せば準備は万端だ。
普段の無表情をだらしなく緩めて入浴しようとした瞬間、脱衣所と浴室を隔てる扉が勢いよくスライドした。
「早坂! 今すぐ来て!」
ワガママな主の声が浴室に響いた。
そんなこんなで、早坂はバスタオル一枚巻いただけの姿で、浴室とかぐやの部屋とを行ったり来たり、二往復半した。その間、インターネットが壊れたり、ツイッターアク禁にされちゃったりしたのだが、ここで語る必要はないだろう。インターネットが壊れたのがニュースにもなっていないところから結末は察していただきたい。
さて、本題はここからである。長々と前置きをしたのも全てはこの為だ。
主のあまりの
パソコンと睨めっこを続けるかぐやに早坂は問いかけた。
「そろそろ戻ってもよろしいでしょうか。夏とはいえ、いつまでもこの格好では風邪をひきます」
かぐやはバスタオル一枚の早坂に気を遣ったのか、こう言った。
「そうね、今は讃岐だって屋敷にいるのだから鉢合わせたら大変ね」
「まあ、アレに見られたところで、どうということはありませんが」
冷めた表情で呟く早坂。仮に目の前に讃岐が現れたとしても、赤面してビンタをかますようなラブコメのお約束など起きない。
「そう、ところで早坂、ここなのだけど」とパソコンの画面を指差すかぐや。
まだ帰してはくれないようだ。ため息を吐きながらパソコンに目をやった。
それから、次々と飛んで来るかぐやの質問に答えていた。
ふと、扉の前に人の気配を感じた。扉のドアノブが回転すると同時に、「失礼します」と落ち着いた声が聞こえた。
聞いた瞬間にアレの声だと判断した早坂は、かぐやの机に並んでいた「百科事典」を手に取った。その分厚さは人類の叡智の結晶と賞賛するべきか、重いと嘆くべきか意見の分かれるところである。
早坂は後者の人間であったが、この時ばかりはずっしりとした重さに感謝した。
開かれた扉の先に立つ人物に向かって、毎年甲子園に出場する強豪校のピッチャーもかくやというスピードで百科事典を投擲する。
百科事典はクルクルと回転しながら、入って来たばかりの讃岐の顎に直撃。ばたりと床に崩れ落ちた。
「ふぅ」
満足げに息を吐く早坂。かぐやはパソコンの前で愕然としていた。
かぐやは席を立つと、まず、手裏剣のように投げられた自分の百科事典を拾って、傷がないか確認した。大きな傷がない事を確認すると、讃岐のそばにしゃがみ込んで、使用人を心配する優しい主を演じた。
「讃岐、大丈夫!?」
「それで、心配しているつもりですか」
最初に確認するのが百科事典な時点で、とても心配しているとは思えない。
立ち上がったかぐやは、ジトッとした半眼で早坂を見た。
「どうということはないんじゃなかったの?」
「そうですが?」
「この状況でよくとぼけられるわね。気にしてなかったら、私の百科事典を投げつけたりしないでしょう」
「私の」の部分を強調するかぐや。
自分の百科事典を投げられたのが気に入らないらしい。他に気にする事があると思うのだが……。
「百科事典を投げたのは、半裸が見られそうになったからではありません」
「では何?」
「教育です」
「教育?」
オウムのように言葉を返すかぐや。早坂は大きく頷いた。
「はい。主の部屋に入るのに、ノックもなしとは言語道断。使用人の恥です」
「そ、そう。ノックはダメで主人の私物を勝手に投げるのはいいのね」
なにらやもごもご言っていたが、早坂は聞こえないふりをした。
かぐやは未だに倒れたままの讃岐を見下ろしながら尋ねた。
「本当に大丈夫なの?」
「はい。顎に横から衝撃がいくように当てましたので。脳震盪で少しの間気絶しているだけです」
「教育にそんな高度な技を!?」
「では、お風呂に戻らせていただきます」
有無を言わせぬ口調で言うと、今度は本当に心配そうにかぐやが頷いた。
「え、ええ。顔も赤くなっているし、早く戻った方がいいわ」
「…………」
どうやら、風邪の引き始めとでも心配しているらしい。早坂は何ともいえない表情で、かぐやの部屋を出て浴室へ急いだ。
「あっ。これ、どうしようかしら」
床に倒れ伏した讃岐を見下ろしながら、思い出したようにかぐやは呟いた。
思い返してみると、なるほど確かに、あられもない姿をみられて赤面し百科事典を顎に直撃させ意識を奪うのは、ラブコメのお約束とはかけ離れている。どちらかといえばバトル物に近い技術だ。
「大体、なんで10日も前の事をそんなに気にするんですか?」
「僕だって普段なら、たかだか数時間記憶が抜け落ちているくらい気にはしない」
記憶の欠落をここまで意に介さない人間も珍しい。早坂は楽観的な思考に呆れたが、この話を一刻も早く切り上げたかったので好都合だった。
「それなら、もう忘れるのですね」
しかし、讃岐は断固とした決意で首を横に振った。何がそこまで彼を駆り立てるのだろうか。
「そうはいかない。予感がするんだ」
「はぁ、予感ですか」
「そう、何かとってもいいものを見逃したような予感が! 気絶する直前に、素晴らしいものを見たような気が──」
早坂は箒を持っているのも忘れて、讃岐の両肩をがっしりと掴んだ。讃岐は突然の早坂の行動に目を白黒させてのけぞった。
「は、早坂さん? 痛い痛い」
「思い出しました。貴方は廊下に落ちていたバナナの皮で転んで、盛大に頭を打って気絶したんでした」
「そんなベタな。今時ギャグマンガでもそんな展開──」
「貴方は、バナナの皮で、転んだんです!」
信じていない様子の讃岐だったが、早坂の剣幕に押されて「わ、わかったよ。顔を真っ赤にして怒ることないじゃないか」と渋々ながら頷いた。難所を乗り越えた早坂は心の中で安堵した。
「私はお嬢様の外出の準備がありますので、後はお願いします」
「ああ、明日、藤原さん達と買い物に行くんだっけ。前日から気合がお入りになっているようで」
残りの仕事を讃岐に任せて早足に屋敷へと戻る。
「おやおや」
垣根の向こうを見て呟いた讃岐の言葉は、早坂の耳に届かなかった。
〇
翌日、かぐや達一行は四宮家当主であり讃岐光谷の雇い主でもある四宮雁庵に呼び出され、京都にある本邸に赴いていた。もちろん買い物の予定はキャンセルとなった。
かぐや、早坂、讃岐の三人は縁側の和室に通された。本邸行くのに普段の服装をするわけにはいかない。早坂もメイド服ではなくスーツを着ていた。
襖が少し開いており、その間から庭に植えてある松の木が覗く。襖の間から見えるのは松だけで、人の姿は一切見受けられない。
四宮家の令嬢であるかぐやがこのように避けられているのには、かぐやの出生に理由があった。四宮雁庵には子供が四人いる。長男の四宮
「呼び出しがあるの、知っていたんじゃないですか?」
「うん? そこまで意地が悪いつもりはないけどね。知ってたら教えるよ」
普段と微塵も変わらない調子で答える讃岐。その様子は早坂に、讃岐光谷が本邸から遣わされた使用人なのだと思い出させた。
廊下から静かな足音が聞こえた。足音は和室の前で止まると、襖に手をかけスライドさせた。
現れたのは本邸の使用人だった。
眼鏡をかけた冷たい雰囲気の使用人は「お休みのところ申し訳ありません。お嬢様」と断りを入れて要件を切り出した。
「讃岐、貴方に仕事があります」
「承知しました」と素直に頷くと讃岐は立ち上がり、かぐやに一礼した。
「申し訳ございません、お嬢様。少し席を外します」
「ええ、分かったわ」
去って行く讃岐の後ろ姿を、少し寂しそうに見送るかぐや。
早坂は讃岐に対して苛立ちを覚えた。そして、かぐやを顧みない讃岐の態度に苛立つくらいには、彼に心を許していた自分自身にも。
「当主様、お連れしました」
「ああ」
四宮雁庵は無関心に言葉を返して、使用人と共に部屋へと入室した少年に鋭い目を向けた。
雁庵の側に控える使用人、早坂
乱れのない服装、真っ直ぐに伸びて微動だにしない姿勢、恭しい態度共に及第点だろうと評価を下す。
「私に仕事があると伺いました」
「いつものだ。事件の犯人が分かれば、ウチにとってはいい交渉材料になる」
「つまり、私に事件を解明せよと。光栄でございます」
奈緒は主の意を酌んで、手に持った資料を讃岐に手渡した。
「ありがとうございます」と礼儀的に感謝の言葉を述べて讃岐は資料を受け取り、すぐさま確認を始めた。
その口元には薄らと笑みが浮かんでいる。事件の内容が殺人事件であるにも関わらず。
讃岐光谷には人間として重大な欠陥が存在する。
讃岐光谷は謎に対して平等である。讃岐にとって本屋で500円で買えるクイズ本の謎も、実際に起きた事件の謎も、等しく謎でしかない。謎であるなら嬉々として解き明かす。
とてつもなく不謹慎であるが、かといってその態度が不真面目と結びつくかというとそうではない。むしろその逆だ。謎解きに関して、讃岐以上に真面目な人間を奈緒は今までに見たことがなかった。
きっと、クローズドサークル的な展開で自分が命を狙われる可能性があったとしても、謎を前に笑みを浮かべるだろう。
このような讃岐のある種の異様な性向を斟酌して、奈緒も諫めるだけにとどめている。それに、性格はともかくとして、能力は本物なのだ。
社会不適合者的マイナスを、社会正義的行動でゼロに戻している。それが讃岐に対する奈緒の評価だった。
ペラペラと資料を捲っていた讃岐は、手を止めずにさりげなく口を動かした。
「ところで旦那様、お嬢様とはお会いになられないのですか?」
「は?」
雁庵は信じられないものを見るような目で讃岐を見た後、探るような目つきになった。
「どういう風の吹き回しだ?」
雁庵の声音は疑惑に満ちていた。今にも「何を企んでいる!」と口にしそうだ。
讃岐がどういう意図で発言したにせよ、ちょっと他人を気に掛けただけでこの疑われようは同情するべきかも知れない。
「いえ、大した意味はございません。出過ぎた事を申しました。どうかご容赦を」
「読み終わったならさっさと取り掛かれ。案内は早坂に任せてある」
これ以上話すことはない、と言わんばかりに雁庵は鼻を鳴らした。
「承知いたしました。では奈緒さん、よろしくお願いします」
奈緒と讃岐は雁庵の部屋を辞して、屋敷の駐車場へと向かった。事件現場には車で行くからだ。
「やれやれ、仕事にしてもタイミングを考えて欲しいものですね」
疲れた様子の讃岐は助手席のシートに背を預けた。
奈緒はハンドルを操作しながら返答した。
「問題がありましたか?」
「大いにありますね。仕方ないとはいえ、お嬢様をほったらかした形になりますからね。娘さんに物凄く睨まれましたよ。視線で人が刺せるならとっくに僕は串刺しです。この上、お嬢様を差し置いて旦那様と会っていたと知られたら──考えたくもないですね」
そういって肩を抱いて大袈裟に震えた。
娘さんとは、奈緒の娘である早坂愛の事だ。どうやら讃岐は娘に頭が上がらないらしい。面白そうな気配を感じたが、奈緒は別の質問をした。
「随分かぐや様を気に掛けていましたが、どういう心境の変化ですか?」
「僕が敬愛する主人のために動くのがそんなに変ですか?」
質問に質問で返す讃岐。奈緒は露骨にはぐらかされていると感じた。
「変ですね。ホームズが実在していたと言われた方がまだ信じられます」
「シャーロキアンは狂喜乱舞するでしょうね。親子そろって僕に手厳しいのは遺伝ですか」
「貴方自身の問題を人のせいにしてはいけませんよ」
讃岐は肩をすくめてナビに目を向けた。目的地まではあと10分もなかった。
「そろそろですね」と笑みを浮かべる讃岐に、奈緒は何度目か分からない注意をする。
「現場に着いたらその不謹慎な顔はやめてください」
「分かっていますよ。まぁ、神妙な顔してれば謎が解けるのなら喜んでそうするんですけどね」
やがて車は現場へと到着する。そして讃岐は今回も無事、名探偵の責務を果たしたのだった。
〇
四宮家本邸から早坂とかぐやが別邸へと戻って来て、数日が経過していた。讃岐はまだ仕事が残っているとかで、京都の本邸に留まっている。
そんなことより、今日は東京湾花火祭に行く日である。中央区まで出向かずとも花火など、自宅の庭で何百発も打ち上げられそうな家柄のかぐやであるが、今日という日をずっと前から楽しみにしていた。なぜなら初めて友達と花火を見に行くからである。以前のように窓から花火を眺めるのはもう終わりだ。
うきうきと胸を躍らせていたかぐやは朝から、浴衣姿に違和感がないか早坂に確認してもらったり、他に予定がないか早坂に確認してもらったり、浴衣の裾が短くないか早坂に相談したりと大忙しだった。その割には疲れていない気がするけど、とにかく大忙しだったのだ。
早坂に呼びかけると、今度は何ですか、と疲れた返事が返って来た。
「そういえば、讃岐はいつになったら帰って来るの。もう何日か経つけど」
「彼なら今日の昼頃、向こうを発つそうです」
「そう。仕事って何なのかしら。早坂は知ってる?」
そう聞くと早坂は不機嫌そうに素っ気なく答えた。
「知りません。彼は秘密主義ですから」
そんなものかと、納得したかぐやの関心は讃岐から、再び花火大会へと戻って行った。
とあるツイッターに「みんなと花火が見たい」との投稿される約九時間前の出来事である。
その日の夜、かぐやは中央区の花火大会会場──ではなく、港区の四宮別邸で枕を、正確に表現するならシーツを涙で濡らしていた。
楽しみにしていた花火大会に行く許可が下りなかったかぐやはしばらくの間、自室のベットに顔を埋めていたが、早坂の励ましにより立ち上がった。白銀御行の欲望を解放させるために。いや、みんなで花火を見るために。
直後にネガティブな思考が頭をもたげた。
「……でも今日は、本家の執事が二人もいるのよ? なんの準備もなしにここから抜け出すなんて、出来る筈……」
後ろ向きだが正鵠を射たかぐやの発言に、早坂は不敵な笑みを浮かべた。
こうなる事を想定して、あらかじめ早坂が準備していた策は単純だった。
早坂がかぐやに変装して影武者となり、かぐやは屋敷を抜け出す。その後、外に待機している人物に花火会場まで送り届けてもらう。
当然正門から堂々と出て行く訳にもいかないので、出口は部屋の窓となる。
窓辺に立ったかぐやは振り返った。
「行って来るわ」
「行ってらっしゃいませ、かぐや様。ご武運をお祈りしています」
決然としたかぐやに、変装した早坂は普段通りの淡々と頭を下げた。淡々としていたが、温かみのある声音に押されてかぐやは自室の窓から飛び出した。
窓付近から屋敷の外壁近くの木とを結ぶワイヤー。ワイヤーには滑車の付いたロープが吊るされていた。簡易的なターザンロープである、
かぐやはロープにぶら下がって外壁まで滑降した。思わず「アーアアー!」と叫びたくなるようなシチュエーションだが、慎み深いお嬢様は黙々と外壁に到着するのを待った。
外壁に到着すると、そのままの勢いで外壁を飛び越え地面に着々する。
ここから会場へ送ってくれる人物がいる筈と、かぐやが視線を巡らせると黒いライダースジャケットを着たフルフェイスヘルメットの人物がバイクに跨ったまま立っていた。ヘルメットで顔は見えないが、体のラインから男なのが分かる。
「貴方が早坂の言っていた人?」
ライダースジャケットの男はコクリと頷いて、かぐやにヘルメットを手渡した。
「東海道を飛ばして来たのですが、遅れてしまい申し訳ありません、お嬢様」
「貴方、讃岐なの!?」
「左様でございます」そう言って讃岐はヘルメットのシールドを上げた。中からは見慣れた理知的な黒い瞳が現れる。
ヘルメットを装着し、バイクに跨りながらかぐやは尋ねた。
「バイクの免許を持っていたのね」
「はい。殺人犯とのカーチェイスを想定して取ったのですが、まさか花火大会の送迎に使うとは思いもしませんでした」
「殺人犯とカーチェイスする方が思いもよらないと思うけど……」
相変わらずとんちんかんな発言をする讃岐。なるほど、確かにこの人物は讃岐光谷以外に有り得ない。
かぐやが乗ったのを確認した讃岐は、しっかりと掴まっておいて下さいと、忠告してバイクを発進させた。
花火が終わる前に着くだろうか。着いたとして合流出来るだろうか。
そんな不安が頭の中を渦巻いていたせいか、ここ数日何一つ上手くいかなかったジンクスを打ち破るためか、風を切ってバイクが疾走する中、かぐやは普段ならプライドがねじ伏せていたであろう質問を讃岐にぶつけた。
「ねえ、讃岐。貴方の主人はやっぱりお父様なの?」
ピクリと讃岐の体がわずかに動くのを掴まった腕から感じた。顔がヘルメットに包まれているので、感情は伺い知れなかった。
讃岐は前を見たまま一言。
「何を当たり前の事を仰っているのですか、お嬢様」
やっぱりと、かぐやは内心で呟いた。
大丈夫だ。自分には早坂だっているし、使用人は他にも大勢いる。そもそも、元より本家から讃岐の事は信用していなかったのだ。だから、何も問題はない。
つまらない質問をするんじゃなかったと後悔した。
「雁庵様は──」
「え?」
讃岐の言葉には続きがあったらしい。終わったと思って聞き逃したかぐやはもう一度聞き返した。
風の音で聞こえなかったと勘違いした讃岐は、声のボリュームを上げた。
「雁庵様は私の雇い主ではございますが、主人ではありません。私が仕えるよう命じられた主人は、四宮かぐやお嬢様ただ一人でございます」
讃岐の答えを聞いたかぐやは、何を言われたのか分からないというように呆然としていたが、徐々に言葉の意味を理解すると自分がした質問の恥ずかしさと安堵でいつもの調子を取り戻した。
水を差すようで悪いが、よくよく考えれば讃岐は唯単に事実を述べただけである。それでもこの時のかぐやにとっては嬉しい言葉だったのだ。タイミングとは恐ろしい。
「そ、そうよね! 貴方のように主人に暴言を吐きまくる使用人をクビにしないのは、相当心の広い私くらいのものね」
「はい。お嬢様の海よりも広く、
早速の一発にかぐやは面食らった。何故人がしみじみとしている時にそんな事を言うのか。自分の台詞をを棚に上げてかぐやは憤慨した。
「いつか絶対クビにしてやるわ」
「おや、先程と仰っていることが違いますが」
花火会場が近くなり交通量も増えたが、バイクは車の間を縫うように疾走した。
そうこうしている内にバイクは会場の近くに着いた。車だけでなく、歩行者も道を覆い尽くさんばかりだ。
讃岐はバイクを路肩に寄せて停めると振り返った。
「この辺りがよろしいかと」
「ええ、助かったわ」
バイクを降りたかぐやに讃岐はバイクに乗ったまま頭を下げた。
「それではお嬢様、私はこれで失礼いたします。陰ながらご武運をお祈りしております」
「ふふっ」
「お嬢様、どうなさいました?」
一日に二度も武運を祈られたのがなんだか可笑しくて、かぐやは笑みをこぼした。
「いえ、何でもないわ。貴方も気を付けて帰りなさい」
「承知いたしました」と頷いて讃岐はバイクを発進させた。
早坂と讃岐の頑張りを無駄にはできない。かぐやはケータイを片手に雑踏の中へ踏み込んだ。
〇
かぐやに変装していた早坂は、手持ち無沙汰になってスマホをいじっていた。
トークアプリを起動しており、京都を出発した旨と、30分後に到着する旨を伝えるそれぞれ短い一文が記されている。
会話する時は無駄話をこれでもかと盛り込む癖に、メッセージだと素っ気ないくらいに無駄がない簡素な文章。今度からこれで会話しようかなと、早坂は本気で検討していた。
コンコンと扉をノックする音が聞こえた。返事をする間もなく扉が開いた。変装している早坂に返事をさせない配慮だろう。
「御命令通り送り届けて参りました。お嬢様」
部屋に入って来た讃岐は慇懃な態度で、かぐやの変装している早坂に頭を下げたので、早坂もかぐやのような態度で応じる。
「ええ、助かったわ」
変装が珍しいのかジロジロと真剣な目で観察していた。
「なんですか?」
居心地の悪さを感じて早坂が聞くと、讃岐はふむと、顎に手を添えて二、三度頷いた。
「アルセーヌ・ルパンは変装の際、見た目を変える事より仕草や歩き方、話し方を変える事を重視したというけれど、なるほどこういう事か」
早坂とかぐやは背丈や体格が似ているとは言い難い。それでも本家の執事を誤魔化せたのは、演技力と気付かせない為の立ち振る舞いがあってこそであった。
「かぐや様は間に合いそうですか?」
「どうかな。バイクで行ったとはいえ、出るのが遅かったしね。これなら、タクシーでも呼んで行った方がよかったかもね」
「そうですか……」
「まあ、出来るだけのことはやったさ。後は白銀くん達に任せるしかないね」
持ち前の楽観さで丸投げした。実際これ以上やれる事がないのは事実だが。
ところで、と讃岐が話題を転換させる。
「本邸での事、まだ怒ってるのかい?」
「別に怒っていませんが」
早坂の返答を一切信じていない様子で讃岐が続けた。
「それなら、こっちを見て話して欲しいんだけどね。そっぽ向いてないでさ」
早坂はツーンという擬音がぴったりな表情を、プイッと背けていた。
「しょうがないだろう。僕だって本意ではなかったけど、仕事なんだから」
「そうですか? 割と乗り気に見えましたが」
「ソンナコトナイデスヨ」
「どうしたんですか? エリア51に捕獲された宇宙人のモノマネをして」
早坂としてもかぐやを無下に扱ったのを、とやかく言うつもりはない。その資格が自分にないのは早坂自身充分理解していた。
本邸での事はもういいのだ。讃岐がかぐやの味方をしてくれれば安心できたが、讃岐にも事情があるので仕方ない。
それとは別に唯一つだけ、讃岐光谷と初めて会った日から、どうしても知りたい事があった。
出会った当初なら聞かなかった。聞いたところで、真実を話すとは思えないし、信じなかった。
現在も関係は大して変化していないけれど、聞くだけ聞いてみるか、とは思えるようにはなっていた。今はかぐやも居ないので、聞くには丁度いいタイミングた。
「貴方はどうして、四宮家の使用人になったのですか?」
早坂は一年越しの疑問を口にした。
花火の明かりが窓の外に見える。しかし、音は耳に入らない。今の早坂は讃岐光谷の発する音以外の音は聞こえなくなっていた。
「ゲームをしようか」
讃岐の返答は、早坂の質問とは全然関係がない上、唐突だった。早坂は何と答えていいか分からない。
「ルールは簡単。僕が使用人になった目的を当てられたら、君の勝ち。外したら、僕の勝ち。チャンスは一回。期限は、そうだな……高校卒業までにしよう」
「何ですか、唐突に」
「気に入らないかな。確かにこれだけだとゲームっぽくないな。じゃあ、商品を付けよう。君が勝ったら何でも言う事を聞いてあげるよ」
「いや、そういう意味では──」言いかけて早坂は口をつぐんだ。
面倒臭いが、これでも讃岐なりに早坂を尊重しているのだ。目的は言えないが、ゲームとして当てれられたなら嘘はつかずに認める、と。それにヒントもある。
「それでは、貴方は目的を持って四宮家の使用人になった、と考えて良いのですね?」
「そうなるね。ま、ゆっくり考えてみてよ」
「私にだけ賞品があるのは不公平ですね」
「言う事を聞いてくれるの?」
「ジュースを奢ってあげましょう」
「価値が釣り合ってないなー」
讃岐は楽しそうに口角を上げた。
讃岐光谷という謎に満ちた人間の一端を知れた気がして、早坂は何故か分からないが気分が高揚した。
「これからどうしようか?」
「かぐや様が帰って来てからの作戦も練らなければなりません。もちろん貴方も手伝ってくれますよね」
「仰せのままに」
また、窓の外で花火が瞬いた。やはり音は聞こえない。花火の音は遠過ぎるようだ。
○
出会って約一年で早坂愛は理解した。
私は讃岐光谷が嫌いだった、と