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プロテスタント宗教改革者としてのニーチェ

「神は死んだ!」と言い、「キリスト教は邪教です!」と言い、ニーチェは専らキリスト教否定論者、宗教否定論者、キリスト教よりは仏教が好きだった、とか主張する人をしばしば見かけるのですが、これは残念なことです。

ニーチェは確かにキリスト教の背後世界論、ルサンチマン的な奴隷道徳を徹底的に批判していますが、そこまでです。キリスト教という制度的なものを批判しているのであって、イエス=キリストその人に対してはむしろ好意的です。カトリックのことは嫌いでも、プロテスタンティズムは好きです。

もっと簡単に掘り下げると、神としての存在、世界としての存在、自分自身、マクロコスモスとミクロコスモスの統一、共感ないし同化、一体感を「個人が経験できる」という心情Gemütは、ハイネも書いていましたが、ゲルマン布教以前からある、ゲルマン民族に固有の感覚です。永らくカトリックの教義に抑え込まれてきましたが、ルターの登場による聖書中心主義によって「聖書を通じて個人が神と直接対話する」という関係が復活して、この心情に拍車をかけます。というか、ルターが「なんで教会を間に挟まないといけないんだよ! 免罪符ってなんですかそれ?」というカトリック批判をできたのも、この心情を根底に持っていたからだと言えるでしょう。

「思惟の主体が、全体的・絶対的な存在を、自らの内部に探求し発見する」というテーゼは、内なる良心としての神を見いだす根拠となる世界観であり、このドイツ-キリスト教的世界観がドイツ観念論を支えているのであり、「思惟は自分自身を思惟することによって絶対者を思惟する」というヘーゲルの弁証法に根拠を与えています。

私は、エックハルトやクザーヌスの神秘主義に顕在化するこの世界観を、汎神論的ネオプラトニズムと理解していますが、ドイツ思想界においては超越神ではなく汎神論が暗黙の了解だったのであり、この汎神論的ネオプラトニズムを「キリスト教ではない」「宗教ではない」と断言することは難しいと思います。これは混ざってしまって分けることは無理です。今現在、我々日本人が『精神現象学』を読んだとして、その論理展開の不自然さに違和感を感じない人はいないと思うのですが、ヘーゲルが自分の思想を「客観的観念論」などと呼べるのは、この宗教的裏付けがあるからだと思われます。

ということで、ニーチェは世界観において間違いなくドイツ-キリスト教の系譜に位置付けられると思います。「永遠回帰」や「生成力への意志」にしても、どことなくマクロコスモスとミクロコスモスとの一致だとか、一種の神秘主義的色彩は否めないのではないでしょうか?

続いて、プロテスタント宗教改革者としてのニーチェということですが、ニーチェが生きたのは、ドイツで関税同盟が成立した後であり、領邦国家として時代に遅れを取っていたドイツが、プロイセンを中心に経済的にも成り上がっていく時代です。そこで、以下のようなキリスト教徒が登場しました。

「この世界は、因果応報だ。だから私はよいことをする。
私は今日もよいことをした。昨日もよいことをした。
おとといも、その前も、ずっと毎日、善行を積み続けている。
だから、きっと、私にはよいことが待っている。
そんな私を、神様は見守ってくれているのだ」

私が想像する限りでは、ニーチェはこうした見返りを求める宗教的態度が許せなかったのではないかと思います。経済活動的な、功利主義的な「ギヴ&テイク」の思想、が納得できなかったのではないでしょうか。キリスト教の本当の意味(微妙な表現ですが)においては、神を信じるのは、無償の行為のはずです。(特に旧約聖書の)神は無慈悲で、不条理で、暖かい存在ではないはずです。「ギヴ&テイク」があるから神を信じるなんて、ニーチェにはとうてい許し難い宗教的態度だったのではないでしょうか? あるべき信仰の美しさに、見返りは不要なのであり、見返りを求めたら、そこに純粋な信仰はあり得ないのです。

かのカントの定言命法もそうです。「無条件に良いことをしなさい」であって、「時と場合に応じて、良いことをしなさい」というようなご都合主義では、「内なる道徳律」は魅力的なモノになりません。

「他者のためにすることは、やがて自分のためになる」 ニーチェはそういう宗教的に倒錯した発想が蔓延し始めたことに苛立ち、このプロテスタントの潮流を暗に批判しようとしたのではないでしょうか? 私はニーチェを究極の善人だと思うのですが、さらにこの類いまれな潔癖性を、自らの行為によって実践しようとするときに、「超人」が生まれてくるのではないでしょうか?

「超人」概念は「新しいキリスト解釈」なわけです。見返りを求めて愛を与えるような、ルサンチマン的な、キリスト教の奴隷道徳に汚染されたキリストではなくて、見返りを求めずに、富めるが故に愛を与えるような、ノブレス・オブリッジを義務だと思わずに遂行するような、アガペーの体現者としてのキリストなのです。

「超人」は単なる有機体ではありません。極論を言えば人格神であり、新しいキリスト解釈なのだと思います。おそらくニーチェはこう言うでしょう。

「汝の敵を愛せよ? それは無茶な話かもな。自分より弱い敵なら愛せるかもしれないが、自分より強い侵略者を愛するのは無理だろ。敵を愛せるのは、自分が誰よりも能力があって強いからさ。まあ、俺は誰よりもスゴイから、あらゆる敵を無条件に愛せるよ。富めるが故に愛を与えることができるのさ」

求める愛=エロースではなく、与える愛=アガペーの体現者、それがフリードリヒ・ニーチェその人です。
by essentia | 2006-03-02 03:56 | ドイツ思想と神秘主義
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