渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

ビリヤード場

2022年11月28日 | open



日本のビリヤード場にはある特殊な
しきたりというか風習がある。
これはもう大昔から。
私が玉撞きを始めた1980年代
中期
から現在に至るまでその
風習は
残っている。
それは、初めての店では店主や
常連と相撞きした場合、あるい
は初対面の客同士が相撞きした
場合に必ず言って来る言葉が
あるのだ。
「普段はどちらで撞かれている
のですか」
この言葉をかならずかけて来る。
かけて来ないのはアミューズ
メント系や玉屋ではないナンチャ
ッテ系だ。
日本の玉屋では挨拶の言葉として
必ず「普段はどちらで」と尋ねて
来る。ホームはどこですか?と
いう意味で。

アメリカの友人によると、こうし
た文化は合衆国にはないという。
これ、1980年代前半の峠族の
二輪乗り
たちにもあった文化
だった。

「普段どこ走ってるんですか」
と峠小僧たちは見慣れぬ走り屋
声をかけた。
ローリング族が発生して、妙な
チーム?という物が登場してから
はそうした文化は廃れた。
群れて走り、地元のナワバリを
荒らす
者として外部からの走行
者を
排除する風潮が全国的に広
がった
からだ。まるで集団危険
行為型
の暴走族のような感覚が
競争型
暴走集団に移転したよう
なもの
だった。バリ伝の頃は
峠の空気は違っていた。


撞球界では、見知らぬ人でも
都内などの場合は声をかけた。
都内でなく大阪も四国もそう
だった。
ただ、広島県地区は違った。
特定の店以外ではほかの客に
声を滅多にかけない。知らん
ぷりだ。常連同士以外は口を
きかない。
撞球が盛んな岡山県などは
東京と変わらない。フレンドリー
だ。鳥取も島根もそう。
だが、広島県だけは異質だった。

日本は玉屋だろうがホールだろう
が、ビール等が置いてある。
むしろ無い店のほうが珍しいが、
大型店などはなかった。高田馬場
のビッグボックス等々。
アメリカの場合はビリヤーズ,
バー&グリルというのが一般的
だ。つまり、パブのような場所
に玉台が何台もある。
メインの収益は玉台の撞き代で
はなく、飲食でまかなう。
日本では本格的なそうしたアメ
リカンスタイルの店が登場した
のは1986年の映画『ハスラー2』
の登場以降だ。
それ以前に建設会社が黒字減らし
の為に別部門で開店した「プール
バー」(登録商標)が登場して
いて、完全アメリカンスタイル
だった。店員は男女ともフォー
マルウェアを着て、礼儀正しい。
店名を「ロスアンゼルスクラブ」
といい、都内に続々と開店した。
それを真似て、映画公開以降、
都内の至る所に「プールバー」
なるものが出来た。
元々はアメリカのどこの町にも
ある飲食店+玉台置き店のような
ものだった。


収益のメインは飲食だ。


なぜならば、アメリカでは
玉代が日本の1/4ほどだから
だ。1時間10ドルから撞ける。
コロラドの大都市デンバーの
街にある老舗でもこの金額だ。
最高金額でも1時間20ドル。
円安の今でも1時間300円だ。
円高の頃ならば1時間200円程。


それでもアメリカではやって
いける。飲食で収益を上げる
からだ。
日本の場合、飲食メインでは
なく玉代の場代で稼ごうとする。
無理がある。
場代が高すぎるので集客に限界
があり、当然それは連鎖的に
中途半端に設定しているサイド
メニューとしている飲食さえも
覚束なくなる。
数年間私がそうだったように、
その店で食事をとり、飲んで
そして長居するようなシステム、
あるいは飲食をドカンとするが
回転が早いシステムというもの
を構造的に作らないと、玉屋は
やって行けない。
そして、日本の場合、家賃が
高すぎるので、駅前にある玉屋
は入居テナントのビルの賃料が
バカ高すぎるので、やがては
経営困難になる。全国どこでも。
自分の持ち物件以外で潤っている
玉屋はまず存在しない。
まして、店にて飲食を提供しない
となると、ほぼ経営は数年で破綻
し、大借金を抱えて夜逃げか倒産
閉店となる。
私がよく知る都内の店では2例
あった。
一店は、美味しい料理を出す
カウンターバー付の2台店だ。
カフェと名のつく飲食店&玉台。

ママさんがいた頃はバイトを
ローテで何人も雇う程に流行っ
ていた。
だが、ママとマスターが別れて、
飯を何も作れず玉撞きしか能
がないマスターだけになったら
客足がまるで途絶えた。
私は閉店まで通ったが、客は

激減した。
気は強いが気立てのよい女優の
ような美人ママと、出て来る料理
が美味しいから流行っていた。
実際に、玉を撞かない客や女性
客も非常に多かった。客同士が
そこで出会って結婚した例も
いくつかあった。
若い人たちが集まる憩いの店、
という空気だったのが、ママが
いなくなってから、店の空気が
激変して客は
行かなくなった。
料理のできる常連客だった子を

バイトの女の子として雇って
しのいでいたが、その子は客
と結婚して退店となり、他の
子を入れたが、長くは続かな
かった。18才の東北出のおぼ
こい女の子では飲食店のカウ
ンターはこなせないってば。
東京育ちのスレッカラシのませ
た連中ならば
若い男女でもやれ
るかも知れ
ないが。私などは
16才で神田
の店のカウンター
で接客して
いたのだから。

もう一例は、都内一等地の地下鉄
の駅そばにあった有名な店で、
まるでアメリカの店そのものだ
った。
こんな感じ。よく似ている。


ただし、そこはワンフロア分は
持ち店ではあっても、ビル保有
会社に支払うテナント料と従業
員(常時6人)に支払う人件費が
半端なく、客でごった返している
のに毎月300万円の赤字を計上し
ているのを私は知っていた。
友人でもあるマスターに「どう
なるの?」と訊くと「どうなる
の?」と返された。
結局、店も母体の会社も別人に
売却した。1980年代は日本の
ビリヤード界をリードした企業
であったが、人手に経営権は
譲渡された。
食事は本格的料理人が広い厨房で
作る極めて良い店だったが、閉店
のやむなきに至った。
その店はダーツ&バーとなり、玉
台はどんどん減らし、今は台は
あるのかどうか分からない。
とても残念至極。
ただ、玉代は非常に高かった。
1987年時点で1時間1000円である。
当時玉屋の玉代が1時間400円。
プールバーが600~700円だった。
その洒落た店は今の会員制高級
リゾートホテル・
エクシブの
ホテル内ビリヤード
ルーム並の
金額だった。


ビリヤードの楽しみの一つに、
日本各地の撞球場を訪ねる、と
いうものがある。
これは結構面白い。
いくら安全が崩れているとはいえ、
海外のように治安が悪い国ではな
いので安心して国内ではビリヤード
場に行くことができる。
ただ、私個人は今の住環境では
ホームベースが無いというのは
かなり寂しいものがある。
東京横浜大阪京都にいるのでは
ないので、玉屋まで片道40kmと
か都心では考えられない環境下に
いる。

こうした灯りに誘われて、そこで
時を刻む。
撞球者の日常とは今はかけ離れた
生活をしている。
今は週一の日曜大工のような玉
撞きしかしていない。


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